かつてヨセフを売り渡したユダは兄弟たちから離れて下って行き、カナン人の女をめとる罪の生活に入っていきましたが、息子の嫁タマルとの間にペレツが生まれ、キリストの家系につながる祝福に預かることになります。この祝福は、売り渡したヨセフの目の前で自分はベニヤミンの身代わりになって奴隷になると申し出た、あの改悛の実ではないでしょうか。
最初のカナン人との姦淫の罪が、カナンを征服することで克服されていく。「あなたの手は敵のうなじの上にあり」―罪という敵に対する勝利です。
ヨセフが演じたキリストの苦難の役割が、ユダが演じるキリストの身代わりの役割に引き継がれていきます。バトンが渡され、この先はヨセフではなく、ユダが救世の主人公になっていきます。
ユダは罪に対する十字架の身代わりの死の勝利者であるキリストを表します。救い主であり、王の王であるキリストを。キリストは私たちを罪から救い出すために下ってこられた。それがクリスマス。感謝の贈り物を献げます。
]]>49:7 のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。
シメオン族とレビ族には割り当て地がありません。彼らは怒りの感情を制御できませんでした。シメオン族は、ユダ族の割り当て地の中で点在して住むことが許された、バアル礼拝と姦淫の罪のために、やがて半減します。
それでも、神はレビ族を憐れみました。レビ族からモーセとアロンを輩出しました。レビ族は、主を礼拝する幕屋に仕える奉仕にあずかりました。相続地はありませんでしたが、主ご自身の近くにいるという分け前を受け取りました。レビ族は献身によって祝福を受け取り直したのです。
出エジプト 32:26 そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。
主ご自身が私たちの相続地です。「主よ、それで十分です!」
哀歌 3:22-24 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
]]>長子の権利を受け継いだヨセフの子らがヤコブから受ける祝福は、目に見えない霊的祝福です。
父ヤコブの肉の目は老齢のためにかすんでいて、ヨセフの子らを肉眼では見ることができませんでしたが、ヤコブの霊の目は衰えておらず、彼らが受けるであろう霊的祝福を見ることができました。
創世記 48:21,22 イスラエルはヨセフに言った。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に返してくださる。私は、あなたの兄弟よりも、むしろあなたに、私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムを与えよう。」
「私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取った」は完了形で書かれていますが、神の前には過去も未来もありません。このとき、シェケムの地はエモリ人に奪われていました。ヘブル語の完了形は、まだ起こっていない神のわざに対しても使われます。
ヤコブは、エモリ人の手からシェケムを奪い返すことを確信して、ヨセフにあのシェケムを与えると言ったのかもしれません。シェケムは、のちに(何千年も経ってから)イエスがサマリヤの女に永遠のいのちの水を飲ませることになる「ヤコブの井戸」がある場所です。ヤコブは、まだこの目では見ていないが、イエス・キリストが将来与えてくださる霊的祝福を霊の目で見たのだと思います。
1コリント 2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
]]>ヤコブは、偉大な宰相ヨセフの父としてエジプトの地で荘厳な葬式を迎えることもできましたが、ヤコブの心はエジプトにはありませんでした。ヤコブの心は、カナンの地でアブラハムが購入したわずかな土地であるマクペラの洞穴にありました。アブラハムも、サラも、イサクも、リベカも、レアもそこに葬られました。
創世記 48:7 私のことを言えば、私がパダンから帰って来たとき、その途上カナンの地で、悲しいことに、ラケルが死んだ。そこからエフラテに行くには、なお道のりがあったが、私はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道のその場所に彼女を葬った。」
マクペラの洞穴があるヘブロンまでなお道のりがある中、愛妻ラケルは死にました。ラケルの亡骸をマクペラの洞穴に葬ることができなかったことは無念であったろうと思います。エジプトを出ることなく死んでいく自分をラケルに重ねたのでしょうか。「私をエジプトの地に葬らないでくれ。」ヤコブの人生最期の願いは、エジプトの荘厳な葬式でも、この世の栄誉でもなく、神の約束の地に戻ることでした。
信仰の闘いの末にこの世から勝ち取ったわずかながらの土地(資産)にこそ、私たちが心を留めるべき信仰の原点があると思います。
]]>エジプト人は、非常に厳しいききんの末、すべての金を使い果たし、家畜も手放し、土地もパロに売り渡し、土地を借りて農作物をパロに納める小作人に成り下がりました。
エジプトの宰相ヨセフは、民の弱みにつけこんで強奪する者のように見えますが、エジプト人は「あなたは私たちの命を救ってくださった」と感謝します。しかも、喜んであなたの奴隷となりましょうと申し出ます。
口語訳は「どうかわが主の前に恵みを得させてください」と訳します。これは「しかし、ノアは主の前に恵みを得た。」(創6:8)と同じ言葉です。
エジプト人が貧困と飢餓の中で見たヨセフ(=キリスト)の恵み。地上の宝や富ではなく、天にある宝を彼らも見たのだと思います。
私たちも、神の前に差し出すものがなくなったとき(いや最初から何も差し出すものがないのですが)、ただ体を投げ出して、「喜んであなたのしもべとなります。あなたの前に恵みを得させてください」と心から願うようになります。握っているものを手放して、そうなりたいです。
]]>他人を押しのけて神の祝福を奪い取ろうとするヤコブの人生の結末は、愛する妻との死別であり、飢饉であり、無気力であり、喪失でした。奪い取る人生ではなく、奪い取られる人生であったと言えます。
創世記 42:36 父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」
年老いてよぼよぼの姿になった父ヤコブをヨセフはパロの前に連れてきます。自分の息子ヨセフがエジプトの王の隣に立っているのを見たヤコブは万感の思いだったと思います。「わたしの生涯は短く、苦しみばかりでした」と王に打ち明けるヤコブですが、誇らしい息子の姿を目にしたヤコブの心は、今までの苦労が吹き飛んで晴れやかだったのではないかと思います。
80歳を過ぎてから、息子のキリスト教に切り替える決心をして、仏壇も墓も手放した私の父の姿が重なりました。その父を神の前に連れて行くことができるのは最高の親孝行だと思います。
ヤコブは、この先17年をエジプトの最も良い地を与えられて、息子ヨセフに見守られながら過ごします。その17年間は、孫たちに囲まれながら、それまでの130年間とは違う神様との濃密な時間だったと思います。
]]>「もう今、私は死んでもよい」Now let me die.
ヤコブは神の約束が将来、確実に実現することを知ってついに安心したのでしょうか。
アブラハムも、約束が成就するのを地上で見ませんでしたが、はるかかなたにその実現を見ていました。
ヘブル 11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
モーセも、ピスガの頂に立ちましたが、ヨルダンの向こう側の約束の地に行くことは許されませんでした。モーセはそこで役目を終えます。
申命記 34:4 そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」
「行くことはできない」と言われてモーセは悔しかったでしょうか。「もう行かなくていいんだよ、あなたは走り終えたんだよ」と言ってくださる神の大きな胸に抱かれる思いだったのではないでしょうか。
死んだと思っていたヨセフとの再会は、ヤコブにとって、ピスガの頂に立つ体験でした。自分の人生を総括して、神の視点で俯瞰する、最期の瞬間。
神の計画の中で自分の役割はその一部に過ぎません。Now let me die. そのように最期に告白できる生き方をしたいと思います。
]]>46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ。」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」
ヨセフが生きていたことを知ったイスラエルは、エジプトに下る最後の決断を下すためにベエル・シェバで神にいけにえをささげ、神の御旨を探ります。その夜、神ご自身がイスラエルに現れました。
神は、霊的なヤコブの名で「イスラエルよ」とは呼ばずに、「ヤコブよ、ヤコブよ」と呼びかけます。神は、あえて、ヤコブの生まれつきの古い性質を思い出させる呼び方をしました。
十字架に向かう主を三度否んだペテロを立ち直らせるため、復活の主は、ペテロにあえて「ヨハネの子シモン」と三度も呼びかけられました。
恥をしのんで主の前に出ます。神の前に生まれつきの裸になります。何も隠すことはしません。
「はい。ここにいます。」何でも命じてください。私を助けてください。私はあなたに従います。私を遣わしてください。
]]>兄弟たちの前についに正体を明かしたヨセフは、弟子たちに手の釘跡を見せる復活のイエス、弟子たちよりも先にガリラヤに行って、魚を焼いて待っておられたイエスのようです。
ヤコブは、死ぬ前にヨセフに会いに行こうと決心します。これは、死ぬ前に我が愛する息子に一目でもいいから会いたいという親心ではなく、死ぬ前にやるべきことがあるという信仰の決意であると思います。
新共同訳聖書は「わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」と訳しています。
ヤコブ=イスラエルは、この出来事を、12人の息子たちがイスラエル民族として次の世代にバトンを渡すための神の偉大な先行計画であったことを信仰的に悟ったと思います。
死ぬ前にキリストに会ってどうしてもやるべきことがある。「終活」―神の御計画を悟った私たちがなすべき人生の総決算です。
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