投稿 主に向かって叫ぶ は 筑紫野南キリスト教会 に最初に表示されました。
]]>原田 寛
今朝は、イエスが二人の盲人をいやしたお話である。
これは、主がなされた奇跡のひとつである。ふたりは見えるようになりたかった。しかし、イエスの周りにいた群衆は、盲人の求めなど聞こえないし考えていなかった。他者のことなど気にすることなく、イエスに対する関心の妨げになるようなことを排除したかった。ふたりにとっては、この群衆は、かつてエリコの町を護った難攻不落の城壁のようだった。
城壁は、渾身の力で突入しても微動だにしない。梯子を架けて乗り越えようとしても蹴落とされる。小さな力では、全く通用しない。そして、すべて無駄なことだと考えるようになっていく。そして、向こう側に行くことを断念することになる。
しかし、この城壁の向こうに救い主イエスがいる。ふたりは、城壁を越えてイエスの心に届くように「憐れんでほしい」と叫んだ。かつてのイスラエルがエリコの城壁を打ち壊したように叫んだ。城壁の重厚な城門は、向こうから開いた。そして、イエスの声が「何をしてほしいのか」と聞こえる。ふたりは主の前に進み出ることが許され、主はふたりの目に触れられ奇跡を行われた。ふたりは、求めていたことが適い救われ、とても喜んだ。そして、すべての人のために十字架を背負おうとしてエルサレムに向かう主イエスについていくのだった。
群衆もイエスについていく。群衆は、盲人だった人の求めを跳ね返す城壁となっていたが、道端で叫んでいた盲人の目が開かれるという奇跡を見、その奇跡を受けて救いの成就を喜ぶふたりを見たのだった。群衆は、他者の救いの喜びを自分のことのように喜ぶか、自分も救われたいと求めるか、依然として救われた者のことには関心をもたないようにするか。いずれかだっただろう。

わたしたちは、主の救いの御業を見ることができたことを、救われたふたりに共感して喜ぶならば、救いは喜ぶ人のところに訪れていると考える。
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]]>投稿 9月6日聖歌隊賛美「キリストのように考え」 は 筑紫野南キリスト教会 に最初に表示されました。
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]]>投稿 赦しなさい~自身も は 筑紫野南キリスト教会 に最初に表示されました。
]]>原田 寛
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」このペトロの質問にイエスは、「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい」であった。
イエスのたとえは、「主君に全面的に赦されたのに仲間を赦さない家来」について物語る。このたとえは、主君に1万タラントン借金をしている家来が、期限に返済できず主君に借金を帳消しにしてもらった話である。主君は、家来に借金のために自分も妻も子も、また持ち物も全部売り払って返済するよう命じたが、家来は支払期限の延長をひたすら求めた。主君は、家来を憐み、借金を帳消しにする。家来は、重荷が一気に軽くなったはずだが、家来に100デナリオンの借金をしている仲間に出会って、「借金を返せ」と迫った。そして、返せない仲間を牢に入れてしまうのだった。主君は、そんな家来の行いに目を留め、家来を赦さず、牢に入れてしまう。主イエスは「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるだろう。」とたとえを締めくくる。
ペトロが問う「わたしに対して罪を犯す兄弟」というのは、だれを指し、罪というのはどのようなものなのだろうか。たとえ話から察するに「共に主君の下にある仲間」と考えられる。そして、仲間通しの関係において課題が生じ、おそらくは課題克服のために取り組んだ事柄であったが、信用を失わせ関係を損なってしまうようなことに繋がってしまう。「罪」は的外れの意。律法では神の怒りを買い滅びに通じる事だ。そして、家来の罪から仲間の罪。また、罪は連鎖することも示されている。たとえ話を聞くものは、「赦されたのだから、赦せばよいのに」と思うだろうが、わたしたちの現実は、どうだろうか。「赦さない」との思いを重ねていないだろうか。また、逆に「赦されない」ことを人に押し付けていないだろうか。中には、自分自身の過ちを「赦されない」と考える者もいるだろう。
主イエスが命じられた「7回を70倍」は、無自覚なことでない。神は、主イエスの十字架の死を通して私たちをこれほどに赦されるのだ。だから、赦されている者は、自分自身も仲間も「赦しなさい」と命じられている。「赦す」と関係は損なわれず育っていくものだ。
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]]>投稿 ふたりまたは三人が は 筑紫野南キリスト教会 に最初に表示されました。
]]>原田 寛
人は、その人間関係において乗り越えることができないと思える問題や課題を抱えてしまうことがある。そして、それらは結果として諦めや破局という言葉で終わらせていくことが多い。今朝の聖書は、そのような私たちが深く教えられる箇所で有り、自分自身も「兄弟(姉妹)」も主イエス・キリストが真に共におられることを知らせる言葉である。
「兄弟(姉妹)が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。」普通、罪は人の目に隠れている。しかし、あなたは、兄弟(姉妹)が罪を犯そうとしていることが分かったなら、罪を犯そうとしている兄弟(姉妹)とふたりだけのところで忠告しなさいということだ。その罪は、明るみに出されないですむし、罪を犯さないで大切なことを共有したので、心を通わせる親しい友を得たことになるのだ。
しかし、聞いてもらえないことがある。その場合にあなたは、一人か二人を連れてゆき、その罪について説明させよと言われている。それは、罪の事柄がどのようなものかがすべて解ると言われている。このような交わりで、罪を未然に防ぐことができれば、一人の人を失わないで済むことになる。
「ふたりまたは三人の証言者」について、申命記19章15節以下で「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないしは三人の証言によって、その事は「立証されなければならない」と記されている。正しいことは第三者によってしっかりと示されなければならないということだ。
主イエスの言葉は、次に向かっている。それは、「兄弟(姉妹)」がなおも認めないなら、「教会」にその舞台を移すようにと言われている。「教会」は、主に呼び集められた者の群れという意味で伝えられる。「呼び集められた者たちは、主イエス・キリストによって罪が贖われ救われた者たちであり、赦されて清められ神の子とされた人たちの群れ」である。つまり、主イエスの愛に触れ赦された人たちである。教会は罪が指摘され裁かれるのでなく、主イエスによって赦されるのである。・・・「ふたりまたは三人がわたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいる」。まさにイエス・キリストの教会のことだ。
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]]>投稿 8月23日聖歌隊賛美「燃え立つ言葉も」 は 筑紫野南キリスト教会 に最初に表示されました。
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投稿 8月23日聖歌隊賛美「燃え立つ言葉も」 は 筑紫野南キリスト教会 に最初に表示されました。
]]>投稿 証 は 筑紫野南キリスト教会 に最初に表示されました。
]]>私の生き方の指針は「脚下照顧」です。わかりやすく言えば過去を引きずらず、優先順位をつけて今を生きることです。私は企業でも教会でも振り返れば今まで多くの学びをうけてきました。この経験からサラリーマン生活を終えて残された課題は「地域貢献」でした。このような時民生委員3年と地区役員2年に推薦され、これもまた神の御心と思い受け入れ奉仕させて頂くことにしました。
民生委員の活動はまさに伝道活動そのものです。但し民生委員の仕事は守秘義務と政治的宗教的中立が求められています。赤ちゃんから高齢者までを対象にそれぞれの悩みや相談等に適切に対処していかなければならないのです。実際に生活保護、障害、介護、引きこもり、ネグレクト、生活困窮者支援や隣人トラブルなどあらゆる面で問題が発生します。
こうした相談にはじっくりと傾聴する必要がありますが、人には建前と本音があり、信頼関係が無ければなかなか本音を聞くことは出来ません。先ずは顔と名前を覚えてもらい、時間をかけて信頼関係を構築する必要があります。
民生委員の仕事は自分一人で解決するのではなく、相談者にとって最適な支援機関に引継ぐことにあります。一人の力は微力ですが専門機関に委ねてチームで解決策を模索することが重要です。
但し相談者に寄り添うことが肝要です。寄り添うとはまさに主イエスが我々になさっていることと同じだと実感しました。
我々が生きるうえで多くの問題に遭遇します。いろいろ悩み苦しみを経験します。
実は我々が一番辛いことは貧困でも病気や死でもなく「孤独」です。話し相手がいない、誰も助けてくれない、無視されるなど社会との関係が断絶状態にあることです。
相談者には困ったときに声を上げて「助け」を求めなさいと勧めるが、世間体を憚りながら心のバリアを壊すことができない。まさに我々の姿そのものではないでしょうか。その根底には現実や将来の不安に心を奪われ、過去の失敗を恐れ、神様から与えられた目の前の大きな恵みに気がつかない。相談者の姿を見てその姿こそ自分自身だと、自分の傲慢と罪深さを改めて思い知らされました。
どんな状況にあっても大切なものは「希望」です。聖書の御言葉にある信仰、希望、愛を惜しみなく与えてくださる主イエスに導かれて、証人として隣人に接することが今求められていると思います。
原田地域には6000人住んでいます。筑紫野市で最大の自治会です。これからも主イエス・キリストの証人として皆様と共に福音宣教の業に励んでいきたいと思います。
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]]>投稿 あなたの信仰は立派だ は 筑紫野南キリスト教会 に最初に表示されました。
]]>原田 寛
「あなたの信仰は立派だ」…聞き方によっては突き放されるように聞こえる。立派な思い、立派な考え、立派な人生…他人に「立派な」と言われると、言われた側は、その言葉を励ましや賞賛の意味に捉えることができ、背中を押されて自分自身で歩むように指示していると思うだろう。ましてや「あなたの信仰は」と言われれば尚更のことだ。主イエスは、悪霊に苦しめられている娘と共に生きているカナンの女性をそのように突き放したのだろうか。
この言葉が放たれたのは、ティルスとシドンの地方。そこは、長く地中海の海洋貿易を支配し栄えてきたフェニキアの町。地中海にある諸国に貿易を通じて様々な文化をもたらしていった町であり、必要とされた町だった。
カナン人の母娘は、時代をリードしてきた町にいた。カナン人は、イスラエルがカナンの地に定着する際、排除されるべき民族であった。そして、アッシリアの時代には滅亡している。イエスの時代にあっては、忘れ去られたような民族である。
娘は、悪霊に苦しんでいた。新約聖書は「悪霊」について人に苦痛や混乱をもたらす存在として描いている。イエスは、神の力で悪霊を追い出し、人をその苦痛や混乱から解放していた。母親は、苦痛に喘ぎ混乱する娘を助けたかった。
イエスは母親に「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と断るが、母親は癒しを懇願する。イエスは、「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」という。母は子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と返した。
創世記9章18節以下にカナンについて「セムの奴隷になれ」という現代では理不尽な意味にとれる言葉が記されている。母親は、これを理解していたのだろう。カナンは、ノアとの親子関係において躓いていたが、主イエスは、カナンの母娘に信仰を見出した。「あなたの信仰は立派だ」とイエスは母親に伝えた。そして、娘は癒された。神のみ子イエス・キリストは、カナンの母娘を受け入れ喜んだのだ。神の国の福音は、フィニキアにやってきた。
福音は、国境を越え民族を超え、時代や歴史、様々な壁を乗り越えて、すべての人々に伝えられていかなければならない。
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]]>投稿 8月9日聖歌隊賛美「あきらめない」 は 筑紫野南キリスト教会 に最初に表示されました。
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投稿 8月9日聖歌隊賛美「あきらめない」 は 筑紫野南キリスト教会 に最初に表示されました。
]]>投稿 見よ、主イエスを は 筑紫野南キリスト教会 に最初に表示されました。
]]>原田 寛
出エジプト20章8~11節「安息日を心に留め、これを聖別せよ。・・・」
十戒の中に記されている「安息日」についての戒めである。重要な戒律のひとつだが、新約聖書の時代、口伝律法(「タルムード」や「ミシュナ」と言われている)のひろがり、「安息日」には仕事をしないということに留まらず、仕事に結びつく行為を避けることが求めれていた。新約聖書において麦の穂を摘むこと、物を運ぶこと、病人を癒やすことが論争になっているが、口伝律法の細かな運用が背景にあったと考えられる。これは、安息日が軽く扱われていたのではなく、むしろ非常に厳格に守ろうとしていたことをうかがえる。
12章9節以下に、その前イエスが安息日に手の萎えた人を癒した際、「安息日に善いことをするのは許されている」と言われた。ファリサイ派の人々は、このイエスに殺意を抱いた。
この出来事に続く今朝の箇所は、主イエスについてのイザヤの預言の言葉(イザヤ42章1-4節)である。
安息日を遵守することは、ユダヤ教の律法の下にあったユダヤ人において明白なことだったが、その守り方の中で、取り残されていく者、忘れられる者、外に追い出される者がいた。主イエスは、そのような小さな者たちに目を留められ、癒しや奇跡、そして、語られる福音を通して、神の愛を示されるのだ。多くの人は、主イエスに救われた。
「見よ、私の選んだ僕」は、小さき者を癒し支え導き、福音を伝える主イエスのことだ。この方が、すべての人を罪から贖いだすために十字架にかかって死んで下さったのだ。すべてという時、ひとりひとりは部外者ではない。「彼は異邦人に正義を知らせる」私たちも、御言葉により主の前に見出された。そして、主の教えの下で小さな者、小さくされてきた者たちに目を開かれてきた。そうだ、小さき者に見出される方こそ、正義を行われる方なのだ。
「見よ、主イエスを」…すべての人々にその十字架の死において神の愛を示された。神の愛は、世界のすべての人に届く。どのような人にも届く。どんな小さな者にも届くのだ。ここにいる自分にも届いている。
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]]>投稿 重荷を負っている者はわたしのもとに来なさい は 筑紫野南キリスト教会 に最初に表示されました。
]]>原田 寛
2節以下でバプテスマのヨハネは、ヘロデに捕らえられ牢獄にいたが、キリストのなさっていることを耳にし、弟子たちを遣わして「来るべき方はあなたなのですか」と聞かせたという。ヨハネは、自分の時間が少ないことを悟っていたと思われるが、同時に、「神の国は近づいた。…私は、私の後から来られる方の靴ひもを解く値打のないものだ」と語ってきたこととイエス・キリストとの関連を求めたのだ。イエスの答えは・・・11章4節以下
20節以下でイエスは、「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡がティルスやシドンで行われたら、…彼らは悔い改めていただろう」と言われた。ガリラヤの人々は、イエスの語った言葉をなさった多くの奇跡を目の当たりにしてきたのだったが、イエスに心を開き従い続けたのは、どれだけだったのだろうか。ガリラヤの人々は、ユダヤ教の教えと共に主イエスの教えより優先される避けてはならないと考えられる現実があったのだ。
「重荷を負って苦労している者は私の下に来なさい…」と語るイエスは、人が抱える重荷をすべて知っておられるし、重荷を負っている人自身のすべてを受け入れておられる。

軛を負って畑を耕す2頭のロバ
イエスは父ヨセフの家業であった「大工」を受け継いでいたと言われる。家畜に背負わせる農機具のひとつ「軛」の製造は大工の仕事だったと言われている。イエスの仕事は、家畜の負担を軽減し貴いものであった。
私たちも幾度となくこの御言葉に励まされてきた。そして、確かに「重荷は軽くなった」主イエスを信じたからだ。信じることで「愛されている」ことを悟り、「愛すること」を教えられてきた。主はともにいてくださる。真に感謝する。
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