メキシコ系アメリカ人の両親のもとにロサンゼルスのサンフェルナンド・バレー近郊のパコイマで生まれる。幼少時からメキシコ音楽やR&Bを聴いて育ち、ギターを覚える。16歳のときにバンドを始め、1958年にスカウトされてデビュー。「カム・オン・レッツ・ゴー」「ドナ」のヒットで注目を浴び、メキシコ民謡をロックンロール調にリメイクした「ラ・バンバ」の大ヒットでスターダムにのし上がった。「ラ・バンバ」はスペイン語で歌われた曲としてはアメリカで初めてのヒット曲とされる。
1959年2月3日、アイオワ州クリアレイクでのツアー後に搭乗した飛行機が悪天候により同州セロ・ゴード郡グラント郡区のトウモロコシ畑に墜落、同乗していたバディ・ホリー、ビッグ・ボッパー、パイロットの3名と共に死亡した。17歳没。一度に3人のロックンローラーが死んだことでファンに衝撃を与えたこの日は、後にドン・マクリーンの曲『アメリカン・パイ』内のフレーズにちなみ、「音楽が死んだ日」と呼ばれるようになった。
1987年に彼の短い生涯を描いた映画『ラ★バンバ』が公開された。この映画の主題歌としてヒスパニック系バンドのロス・ロボスが同曲をカバーし、全米1位の大ヒットを記録している。なお、通常このような伝記映画は実在の人物とそっくりな俳優が演じるのだが、ヴァレンス本人は小太りで角ばった顔立ちだったためか、この映画では小顔で優男風のルー・ダイアモンド・フィリップスがヴァレンスを演じている。
]]>ミネソタ州のアルバート・リアという小さな町に誕生。1955年、ハンク・コクラン(血縁関係なし、後にカントリー・ミュージックの作詞作曲者となる)と「コクラン・ブラザーズ」というデュオを組むと同時に、セッション・ミュージシャンとしても活動を始める。
その後ソロになりメジャーレーベルのリバティレコードと契約。1956年には、映画「女はそれを我慢できない」に出演し、作中で「トゥエンティ・フライト・ロック」を演奏する。さらに1957年に発表したジョン・D・ルーダーミルクが書いたシングル「シッティン・イン・ザ・バルコニー」が最初がヒットとなる。
そして、彼の代表曲(マネージャーのジェリー・ケイプハートとの共作)「サマータイム・ブルーズ」が1958年6月11日に発売されると、9月にはビルボードの8位まで上昇する。その後も「カモン・エヴリバディ」「サムシン・エルス」「マイ・ウェイ」「スリー・ステップス・トゥ・ヘヴン」などのヒットを連発する。
しかしイギリスツアーの最中の1960年4月16日、婚約者でソングライターのシャロン・シーリー、歌手のジーン・ヴィンセントと同乗したタクシーが街灯に衝突して大破した。コクランらは病院に搬送され、同乗者2人は助かったものの、コクランは翌日死亡した。21歳であった。
死後、コクランと交流のあったものの1959年に飛行機事故で死去したバディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパーへの追悼のために制作された「スリー・スターズ」が発売された。1987年にはロックの殿堂入りを果たした。
Summertime Blues : La Bamba Sound track
バディ・ホリーは、1936年9月7日にテキサス州ラボックに生まれる。
高校時代からバンドを結成して音楽活動を開始。当初はカントリーを演奏していたが、エルビス・プレスリーの影響をうけ、ロックンロールに転進。
1957年クリケッツを率いて、「ザットル・ビー・ザ・デイ」でデビュー。
さらに、「イッツ・ソー・イージー」「ペギー・スー」などのヒットで一躍ロックンロール・スタートなる。
しかし、1959年2月3日、ツアーの移動中に登場していた飛行機が墜落。22年の短い生涯に幕を閉じる結果となった。
ペギー・スー Peggy Sue (1957)
バディー・ホリーのバンド「クリケッツ」のドラマー、ジュリー・アリソンの恋人の実名を冠する曲で、全米3位、全英6位のヒットを記録。
「恋人の曲を捧げたい」というアリソンのリクエストを受け、バディ・ホリーは未発表曲「シンディ・ルー」を改変、彼女の名前と「愛してる」が連呼される熱っぽいラブソングで、当のアリソンもパラディトルを駆使したドラミングで楽曲を熱くしている。1959年には続編「ペギー・スーの結婚」も発表された。
ジョージア州メイコンのアフリカ系アメリカ人の家庭に生まれる。同性愛者であるため、実の父親に疎んじられて白人の家庭へ養子に出される。皿洗いの仕事をしながら歌い続け、1951年から1954年にかけて、友人ジョニー・オーティスの推薦でピーコック・レコーズから数枚のシングルを出したがほとんど売れなかった。粘り強くデモテープをレコード会社に送り続け、1955年、スペシャルティ・レコーズからデビュー。
「トゥッティ・フルッティ」(”Tutti Frutti”)、「のっぽのサリー」(”Long Tall Sally”)、「ジェニ・ジェニ」(”Jenny, Jenny”)、「グッド・ゴリー・ミス・モリー」(”Good Golly, Miss Molly”)といったヒットを飛ばす。エネルギッシュな歌唱法で、草創期のロックに決定的な影響を与えた。激しいアクションでピアノを弾く姿も話題となった。また、映画『女はそれを我慢できない』(1956年)に主題歌を提供する一方、自らも出演した。
1957年、人気の絶頂期に突如引退を発表し、アラバマ州のオークウッド大学に入学して神学を修め牧師となった。しばらくはロックを罪深い悪魔の音楽として遠ざけゴスペルを歌っていたが、1962年にロック歌手として復帰。この復帰コンサートの前座を務めたのが、無名時代のビートルズである。また、この時期のサポート・ギタリストの一人に、ジミ・ヘンドリックスがいた。
1986年に、ロックの殿堂入りを果たす。『フルハウス』などテレビドラマへの出演も多い。
ロックギターの基本となるリフ、カントリーやラテンなどの要素を取り込む貪欲な姿勢、
車や学校生活、女の子といった少年が興味を持つものを題材にした歌詞、
”ダック・ウォーク”に代表される派手なアクションなど、
ジョン・レノンやキース・リチャーズをはじめ、後のミュージシャンに与えた影響は計り知れない。
R&Bとカントリーをミックスした新しい音楽=ロックンロールを白人の美男子が腰をくねらせながら歌う姿に社会は衝撃を受け、やがて、熱狂的に迎え入れる。
その後、映画界にも進出し、数多くの作品に出演。
1969年から本格的にコンサート活動を再開。
1970年代にはいり、ラスベガスでの公演や全米ツアーで超一流のエンタテイナーぶりを発揮する。
1977年8月16日心臓発作で死亡。42歳の若さだった。
ミシガン州ハイランド・パーク出身。1946年にカントリーのバンドで活動を始める。1949年に自身のバンド「サドルメン」を結成、やがてカントリーにR&Bの刺激的な要素を加えた方向性を模索するようになる。
1952年に「サドルメン」はバンド名を「ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ(Bill Haley & His Comets)」と改名した(日本ではビル・ヘイリーと彼のコメッツとも表記)。ロックンロール調の「クレイジー・マン・クレイジー」をヒットさせる。
1954年に「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を発表。映画「暴力教室」のオープニングに使用されたこの曲は、1955年のビルボードチャートで8週連続1位という大ヒットを記録する。これをきっかけに、それまでポピュラー音楽の中でもマイナーな存在だったロックンロールがブレイクし、アメリカをはじめとする世界中の若者の間に大ブームを巻き起こした。
この後ヘイリーは「シー・ユー・レイター・アリゲーター」などのヒットも出すが、やがてエルヴィス・プレスリーらの、より若く刺激的なロックンロール・スターの登場により影が薄くなった。
1960年代以降は主にヨーロッパやブラジルなど海外を中心に活動していたが、1970年代にはアルコール中毒に陥って活動が困難となる。やがて脳腫瘍を患い、1981年に死去。1987年に「ロックの殿堂」入りを果たした。
「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、「ロックンロールの最初で最大のヒット曲」とされ、ギネス・ワールド・レコーズの認定によれば、世界中で通算2500万枚(推定)を売り上げたとされる。
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