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メンバーは青山学院大学で結成され、1974年から断続的に活動を開始した。1978年6月25日にシングル「勝手にシンドバッド」でメジャー・デビュー、1979年に「いとしのエリー」がヒットした。1980年代には 「チャコの海岸物語」「ミス・ブランニュー・デイ」「Bye Bye My Love (U are the one)」「みんなのうた」などがヒットした。
1990年代になると「真夏の果実」がヒットし、「涙のキッス」「エロティカ・セブン EROTICA SEVEN」「あなただけを 〜Summer Heartbreak〜」「愛の言霊 〜Spiritual Message〜」の4作がミリオンセラーとなった。2000年には「TSUNAMI」がダブルミリオンを記録し、第42回日本レコード大賞の大賞を受賞。
その後2000年代には「HOTEL PACIFIC」や「涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜」「I AM YOUR SINGER」などもヒットした。5年の活動休止を経て、2010年代には「ピースとハイライト」「東京VICTORY」「闘う戦士たちへ愛を込めて」などがヒットしている。
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]]>投稿 山下達郎 : Tatsuro Yamashita は 100Jartist.com に最初に表示されました。
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大貫妙子らと共にシュガー・ベイブを結成し、アルバム『SONGS』(1975年)でデビューした。プロデュースを手掛けた大瀧詠一のナイアガラ・レーベルでは、日本コロムビア時代の作品に、コーラスやストリングス・アレンジで参加。特に大瀧のソロ・アルバム『NIAGARA MOON』(1975年)や『NIAGARA CALENDAR』(1977年)に深く関わっている。また、自身の作品制作の傍ら、1975年頃から、他のシンガー、ミュージシャンへ楽曲提供を始めた。小杉理宇造を通じてジャニーズ事務所との繋がりもあり、近藤真彦の「ハイティーン・ブギ」(1982年)、KinKi Kidsのデビュー・シングル「硝子の少年」(1997年)や「ジェットコースター・ロマンス」(1998年)などのヒット曲を出しているほか、ジャニーズ所属タレント出演作品の主題歌も多く手がけている。
大瀧同様、レコード・CDコレクター、オーディオマニアであり、特にロック・R&B・ポップスについて造詣が深く、アナログ盤はオリジナルを中心に収集しており、所蔵総数は6万枚を超える。
海外では作品リリースを行っていなかったが、2010年代のヴェイパーウェイヴのブームで作品が発掘され広まった。ちなみに、山下達郎がバックトラックを作成した竹内まりや作の「プラスティック・ラブ」は、非公式動画ながら海外のリスナーを中心にYouTubeで合計1億回以上再生されている。
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]]>投稿 Mariya Takeuchi : 竹内まりや は 100Jartist.com に最初に表示されました。
]]>竹内まりやのまとめサイト: 100MariyaTakeuchi.com
竹内まりやの結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、加藤和彦、細野晴臣、告井延隆(センチメンタル・シティ・ロマンス)、大貫妙子、林哲司、伊藤銀次、杉真理、安部恭弘、浜田金吾といった作家が提供している。
1982年4月に山下と結婚。これ以降メディア露出はほとんどなくなったが、同時に作詞家・作曲家として活動を開始し、河合奈保子に提供した「けんかをやめて」「Invitation」などヒットを放つ。
その後は家庭生活を優先したためにライブ活動からも遠のくが、アレンジャー・プロデューサーを務める夫のサポートを受けながら、シンガーソングライターとして活動を続けた。3年間のロングセールスを記録したアルバム『REQUEST』(1987年)や、シングル曲として「AFTER YEARS/駅」(1987年)、「シングル・アゲイン」(1989年)、「告白」(1990年)、「マンハッタン・キス」(1992年)など続けてヒット、特に1994年発売の「純愛ラプソディ」は、自身現時点で最大のヒット曲となった。
さらに、1992年にはアルバム『Quiet Life』が発売と同時にミリオン・セラーとなり、1994年のベスト・アルバム『Impressions』は売り上げ300万枚を超えるヒットを記録した。
竹内まりやの音楽アルバムを紹介。
竹内まりやのオリジナルアルバム
BEGINNING (1978)
UNIVERSITY STREET (1979)
LOVE SONGS (1980)
Miss M (1980)
PORTRAIT (1981)
VARIETY (1984)
REQUEST (1987)
Quiet Life (1992)
Bon Appetit! (2001)
Denim (2007)
TRAD (2014)
Precious Days (2024)
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]]>投稿 安室奈美恵 : Namie Amuro は 100Jartist.com に最初に表示されました。
]]>沖縄アクターズスクールに所属して、中2の頃、アクターズ内で結成されたダンスグループ“SUPER MONKEY’S”のメンバーに選出され、1992年より芸能活動を開始。1995年1月、松浦のプロデュースによりリリースされたシングル「TRY ME 〜私を信じて〜」が73万枚の大ヒットとなり、ユーロビートのカバーで初のヒットを生み出す。
安室奈美恵のまとめサイト:100NamieAmuro.com
小室哲哉と出会う。1995年10月にSUPER MONKEY’Sの楽曲を含んだファーストアルバム『DANCE TRACKS VOL.1』を東芝EMIよりリリース。初のオリコンチャート首位を獲得し、オリコン及び出荷ベースで初のミリオンセラーを記録した。翌週には小室プロデュース第1弾シングル「Body Feels EXIT」をリリースし、同時にエイベックスへレコード会社を移籍。以降は小室がプロデュースを担当する。12月にリリースされた「Chase the Chance」は、シングルで初のオリコンチャート首位、ミリオンセラーを記録した。同曲で『第46回NHK紅白歌合戦』に初出場。同日、『第37回日本レコード大賞 Uncontrolled』に初めてノミネートされ、「TRY ME 〜私を信じて〜」で優秀作品賞を受賞。
1996年には、シングル「Don’t wanna cry」、「You’re my sunshine」、「a walk in the park」がミリオンセラーを記録。また若者のファッションリーダーとなり、彼女を真似する女性を指した“アムラー”がこの年の流行語となる。同年7月リリースのアルバム『SWEET 19 BLUES』はトリプルミリオンを突破するなど、10代の歌手としての記録も次々と塗り替えた。同アルバムは出荷350万枚と当時の過去最高記録を達成。
1997年2月にリリースし、ドラマ『バージンロード』の主題歌となった「CAN YOU CELEBRATE?」はダブルミリオンを突破し、オリコン年間シングルチャート首位を獲得。同時に、邦楽女性ソロアーティスト歴代1位のシングル売上を記録した。3月には第11回日本ゴールドディスク大賞で邦楽部門大賞を初受賞した。
・ DANCE TRACKS VOL.1 (1995)
・ SWEET 19 BLUES (1996)
・ Concentration 20 (1997)
・ GENIUS 2000 (2000)
・ break the rules (2000)
・ STYLE (2003)
・ Queen of Hip-Pop (2005)
・ PLAY (2007)
・ PAST < FUTURE (2009)
・ Uncontrolled (2012)
・ FEEL (2013)
・ _genic (2015)
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]]>投稿 YMO : イエロー・マジック・オーケストラ は 100Jartist.com に最初に表示されました。
]]>・ YMOのまとめページ : 100NewMusic.com/artist/YMO
・ Spotify : YMO / イエロー・マジック・オーケストラ
Yellow Magic Orchestra (イエロー・マジック・オーケストラ)という名称は、細野が70年代後半に提唱していたコンセプトである「イエローマジック」から来ている。
・細野晴臣(エレクトリックベース、シンセベース)
・高橋幸宏(ドラムス・ヴォーカル)
・坂本龍一(キーボード)
1980年代初頭に巻き起こったテクノ / ニュー・ウェイヴのムーブメントの中心にいたグループの一つであり、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で、1978年に結成されてから1983年に「散開」(解散)するまでの5年間で日本を席巻した。活動期間中には米国等でのレコードリリース、及びコンサートツアーも行っている。英語圏で著名な日本人ミュージシャンでもある。1993年に一時的に「再生」(再結成)しており、また2007年にも再々結成している。
・ イエロー・マジック・オーケストラ (1978年11月25日)
・ ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー (1979年9月25日)
オリコン・チャートの最高1位にランクインし、セールスはトータルで100万枚を越え、その名を幅広い世代に浸透させることとなった。同アルバム収録の「テクノポリス」「ライディーン」は、YMOのパブリック・イメージとなる。
・ 増殖 (1980年6月)
スネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された3枚目のアルバムを発表。同アルバムはオリコン・チャート初登場1位を記録。
・ BGM (1981年3月)
前衛的ともいえるこのアルバムを発表。当時、開発されたばかりであったデジタルのMTR(マルチトラックレコーダー)を駆使したこのアルバムは非常に実験的なアルバムであり、それまで耳に馴染みの良いポップ指向のスタイルから一転、“暗く重い”ヨーロッパ志向かつ、ニュー・ウェーヴ色の強いエレクトリックサウンドを展開した。
・ テクノデリック (1981年11月)
当時としては最先端のサンプリング・マシーンを駆使し、金属音や人間の声などをサンプリングし、加工して使われたサウンドが、その後の世界中のミュージシャンに多大な影響を与えることになった。
・ 浮気なぼくら (1983年5月)、
それまでのイメージを劇的に変化させた歌謡曲アルバムである。
・ サーヴィス (1983年12月14日)
・ アフター・サーヴィス (1984年2月21日)
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]]>投稿 Haruomi Hosono : 細野晴臣 は 100Jartist.com に最初に表示されました。
]]>・ 細野晴臣のまとめページ : 100SSW.com/artist/haruomi-hosono/
・ HOSONO HOUSE (1973)
・ トロピカル・ダンディー (1975)
・ 泰安洋行 (1976)
・ はらいそ (1978) ハリー細野とイエロー・マジック・バンド
・ コチンの月 (1978) 細野晴臣 & 横尾忠則
・ フィルハーモニー (1982)
・ ビデオ・ゲーム・ミュージック (1984)
・ 花に水 (1984)
・ Making of NON-STANDARD MUSIC/Making of MONAD MUSIC (1984)
・ S・F・X / 細野晴臣 with FRIENDS OF EARTH (1984)
・ コインシデンタル・ミュージック (1985)
・ マーキュリック・ダンス (1985) ・ エンドレス・トーキング (1985)
・ オムニ・サイト・シーイング (1989)
・ MEDICINE COMPILATION from the Quiet Lodge (1993)
・ グッド・スポーツ (1995)
・ ナーガ (1995)
・ FLYING SAUCER 1947 / ハリー細野 & ワールドシャイネス (2007)
・ HoSoNoVa (2011)
・ Heavenly Music (2013)
・ Vu Jà Dé (2017) / ヴジャデ
立教大学在学中にベースを始め、数多くのバンドを経た1969年、エイプリル・フールのベーシストとしてメジャーデビュー。その後、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成し、日本語ロックの礎を築く。1973年のはっぴいえんど解散後、ソロ活動と平行して鈴木茂、林立夫、松任谷正隆とキャラメル・ママ(のちにティン・パン・アレーと改名)を結成。演奏・プロデュースチームとして多数のアーティストの楽曲に参加、荒井由実などのプロデュースも行う。
自身のソロ・アルバムでは、ファーストの『HOSONO HOUSE』(1973年)は当時埼玉県狭山市のアメリカ村にあった自宅で録音を行い、その後の『トロピカル・ダンディー』(1975年)、『泰安洋行』(1976年)、『はらいそ』(1978年)と続く「トロピカル三部作」では南国・楽園志向にアプローチし、この三部作でのニューオーリンズや沖縄、ハワイ、中国などの音楽をごった煮にしたサウンドは海外の好事家からも注目されるようになる
シンセサイザー・コンピュータを用いた音楽やディスコへの興味が高まっていった1978年、元サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏、当時スタジオ・ミュージシャンでもあった坂本龍一とイエロー・マジック・オーケストラ (Y.M.O.) を結成。当初は細野主体の企画もののバンドと捉えられていたが、1980年にはその活動がブームを巻き起こす。
Y.M.O.の成功をきっかけにメディアにも露出するようになり、アイドル・歌謡曲界への多数の楽曲提供、新人発掘のためのレーベル「YEN」の高橋との共同による立ち上げなど個人としても精力的に活動を行う。また、ヴィデオ・ゲーム「ゼビウス」の音源をダンス・ミュージックにアレンジした『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1984年)をプロデュース、ゲーム・ミュージックが音楽ジャンルとして確立するきっかけをつくった。
1983年のYMO散開(解散)後は、テイチクに移籍し、「Non Standard」と「Monado」の2つのレーベルを立ち上げる。Non Standardレーベルからはピチカート・ファイヴやWorld Standardを輩出。また、自身の代表作として映画『銀河鉄道の夜』のサウンド・トラックを手掛ける。Monadoレーベルからは実験的な作品を中心に所謂「観光音楽」と呼ばれる作品を発表。代表作として映画『パラダイスビュー』のサウンド・トラックを手掛ける。その後、1989年にエピック・ソニーに移籍し、ソロアルバム『Omni Sightseeing』を発表。また、映画『紫式部 源氏物語』のサウンド・トラックを手掛ける。その後、ソロアルバム『メディスン・コンピレーション』を発表。その後もプロデューサーや作曲家としての活動や映画音楽の提供(『メゾン・ド・ヒミコ』他)などをこなしながらも、ソロアルバム発表や多くの他アーティストとのユニット結成など自己の音楽活動も枚挙に暇が無い。
1980年代後期にはワールド・ミュージック、1990年代にはアンビエント・ミュージックに深くアプローチし、大量消費に頼らない音楽を模索した。
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]]>投稿 Kazumasa Oda : 小田和正 は 100Jartist.com に最初に表示されました。
]]>1986年に初めてのソロシングル「1985」、初のソロアルバム『K.ODA』を発表。オフコース時代からソロ活動を始めてはいたが、1989年のオフコース解散以後にソロ活動を本格化。
1991年、フジテレビ月9ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌として制作した楽曲「ラブ・ストーリーは突然に」が、ドラマと見事なコラボレーションを成し、ドラマ・主題歌共に大ヒット。オフコース時代に叶わなかった、「オリコンシングルチャート第1位」と「シングルミリオンセラー突破」を一挙に成し遂げた。
その後は、ヒットメーカーとしての地位を確立し、楽曲はドラマ・CMなどに積極的に採用され、「伝えたいことがあるんだ」、「キラキラ」、「まっ白」などのヒット曲を生み出している。また、オフコース時代を含む過去の楽曲を集め、新アレンジで再録音したセルフカヴァー・アルバム『LOOKING BACK』シリーズや『自己ベスト』は、幅広い年代に支持される大ヒットとなった。
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]]>投稿 Off Course : オフコース は 100Jartist.com に最初に表示されました。
]]>・ オフコースのまとめページ : 100JSoftRock.com/artist/off-course/
オフコースの始まりは神奈川県横浜市の聖光学院高校に在学中だった小田和正、鈴木康博、地主道夫らが結成したフォーク・グループ。1970年に「群衆の中で」でレコードデビュー、当初はアコースティック・ギターを中心としたフォークソング的な曲を歌っていたが、長年ヒット曲に恵まれなかった。
・ Spotify : Off Course / オフコース
結成7年目の1976年にギターの松尾一彦、ベースの清水仁、ドラムスの大間ジローが加わり、キーボード、シンセサイザーを含めたバンドサウンドとなる。結成10年目の「さよなら」の大ヒットで多大なる人気を獲得、それ以降も数多くのヒット曲を生み出し、時代を代表するビッグ・グループになった。しかし、音楽番組全盛の時代にあって、テレビ出演で人気を高めていった他のグループとは一線を画し、テレビ番組にはほとんど出演せず、レコード制作とコンサートに力を注ぐという独自の姿勢を頑なに貫いた。
1982年の鈴木の脱退により一時活動を休止した後、4人での活動再開以降もヒット曲を連発し、変わらぬ人気を博する。その後5年近く4人で活動を続け、結成から19年目の1989年に解散。その後、小田と鈴木はソロとして、松尾、清水、大間は各々のソロ活動の傍ら1999年3月にユニットAcoustic Beatles Clubを結成した。再結成を望む声は根強いが、その可能性は薄いと見られている。
・ オフ・コース1 ⁄ 僕の贈りもの(1973)
・ この道をゆけば ⁄ オフ・コース・ラウンド2 (1974)
・ 秋ゆく街で ⁄ オフ・コース・ライヴ・イン・コンサート (1974)
・ ワインの匂い (1975)
・ SONG IS LOVE (1976)
・ JUNKTION (1977)
・ SELECTION 1973-78 (1978)
・ FAIRWAY (1978)
・ Three and Two (1979)
・ LIVE (1980)
・ We are (1980)
・ SELECTION 1978-81 (1981)
・ over (1981)
・ I LOVE YOU (1982)
・ NEXT SOUND TRACK (1982)
・ The Best Year of My Life (1984)
・ Back Streets of Tokyo (1985)
・ as close as possible (1987)
・ IT’S ALL RIGHT OFF COURSE SELECTION III 1984-1987 (1987)
・ Still a long way to go (1988)
投稿 Off Course : オフコース は 100Jartist.com に最初に表示されました。
]]>投稿 Taeko Ohnuki : 大貫妙子 は 100Jartist.com に最初に表示されました。
]]>1973年、山下達郎、村松邦男らとシュガー・ベイブを結成
1976年からソロ活動開始。シュガー・ベイブ解散後、同年に初のソロアルバム『グレイ・スカイズ』を発売。レコード会社は日本クラウン→RVC→ミディ→東芝EMIと移籍して現在はソニー・ミュージックダイレクト所属
1998年、映画『東京日和』で第21回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞
投稿 Taeko Ohnuki : 大貫妙子 は 100Jartist.com に最初に表示されました。
]]>投稿 Akiko Yano : 矢野顕子 は 100Jartist.com に最初に表示されました。
]]>・ Akiko Yano / 矢野顕子のまとめページ : 100SSW.com/artist/akiko-yano/
また、自身も世代やジャンルにこだわらない幅広い趣向を見せ、音楽バンド、ユニコーンの「すばらしい日々」や、ELLEGARDENの「右手」をカバーしたり、The Smashing Pumpkinsのファンで自身のライブにて同バンドの曲をピアノで演奏するなどしている。ミュージシャン、山下達郎は矢野を、「歌詞に最も食べ物が良く出てくる作詞家である」と評した。
1976年 – デビューアルバム『JAPANESE GIRL』を発表。 デビュー作にして、米国のロックバンド、リトル・フィートをバックバンドに迎えてアルバムの片面で渡り合っている。もう一方は、あがた森魚、細野晴臣、鈴木茂、駒沢裕城、ムーンライダーズの面々。自作曲のほかに、故郷青森の民謡と、歌謡曲を矢野顕子流に料理した傑作。
・ JAPANESE GIRL (1976) / ジャパニーズ・ガール
・ いろはにこんぺいとう (1977)
・ ト・キ・メ・キ (1978)
・ ごはんができたよ (1980)
・ ただいま。 (1981)
・ 愛がなくちゃね。 (1982)
・ オーエス オーエス (1984)
・ BROOCH (1985)
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