これを聞いて真っ先に思い出したのが日蓮大聖人の御書。
「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」妙法尼御前御返事、1404頁
つまり、幸せな人生をまっとうするためには死ぬ時にどうなっているべきかを考えて、
それから逆算して必要なことを知るべきであるということ。
今からでも遅くはない。
どのように死ぬべきかを熟考するべきである。
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小学生、中学生、高校生、大学生。
その頃になると「なぜ勉強をしなければならないのか」という疑問が出てくると思います。
まず、勉強するということはどういうことか。
端的にいうと今までと違う自分になるということ。
物事を知る前と知ったあとでは当然物理的に脳の中の神経配列は変わっているし、
考え方や感情の変化も伴うことも有ります。
知ることは経験であり、成長ともいえます。
ではなぜ成長するべきなのか。
それは幸せになるためです。
ここで言う幸せとは、知る喜び、経験する喜び、考える喜び、解決する喜びなどを表します。
最近何かで読んだのですが、
「コップに水が入っている」のを見た時に、知識のない人からしてみれば
ただ単にコップに水が入っているだけです。
しかし国語ができれば、「透明なグラスによく冷えた美味しそうな水が入っている」となるし、
数学で言えば「200ccの容器に水が3/4入っているのであと50cc入る」とか、
理科で言えば「ガラス製の容器に5℃の水(H2O)が入っている」とか、
社会で言えば「中国で作られたコップに六甲山のおいしい水が入っている」とかになったりする。
知らなければ思考がそこまで至ることはなく、その喜びを知ることはない。
「無知の知」という言葉があり、知識のある人は「自分には知らないことがあるということを知っている」という意味ですが、
知識のない人は「自分が知らないということも知らない」のです。
知識が多いほど世界を多面的多角的に捉え、そこにある喜びを見出すことが出来ます。
また、そうやって物事を多角的に多面的に見たり考えたりできるようになると、
人生で困ったときにも知恵を出して素早く解決できる確率が高くなります。
知識の木になる実が「知恵」です。
それもまた、幸せな人生を送るための重要なファクターであり、勉強をすることの意味なのです。
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信仰(しんこう、英語 faith)とは、. 神や仏などを信じること。また、ある宗教を信じて、その教えをよりどころとすること。 人やものごとを信用・信頼すること。 証拠抜きで確信を持つこと。またそれらを信じることを正当化する要因。
信仰 – Wikipedia
今の日本は無宗教が多数と言われ信仰を持っていない人が多いと思われがちだ。
また、信じるということについて軽く考えている人が多い。
しかし、信じるということはとても重要な事だ。
それこそ命がけで行うことなのである。
例えば信号機。信号機を信じないで赤信号で渡ろうとすると命を落としかねない。
自分を信じられなくなっているのが現代病のうつ病です。
日本では自分を信じられない人が年間何万人もの人が自殺しています。
正しいものを信じない、間違ったものを信じる、それは生きていく上でとても重大な影響をもつことです。
それは宗教、哲学においても同じです。
間違った哲学、間違った信仰は人を不幸にします。
信仰は「証拠抜きで確信を持つこと」とウィキペディアには書かれていますしそういう側面は多大に有りますが、
時には疑ってみることも大事なのです。
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]]>基本的に有料のアプリですが広告が出ます。(笑)
ま、新聞でも雑誌でもお金払って買ってるのに広告がいっぱいですよね。
新聞も雑誌も広告費で無料にすれば良いのに。
慣れれば広告は気になりませんし、時々感謝の気持ちでクリックしてます。
紙の題目通帳も無料ではないですもんね。
他の無料アプリのように記録データがおかしかったり、消えたり、起動できないなんて事も今のところ無いです。
まあオススメです。
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最近、スマホアプリで御本尊の写真が元々入っていたり、自分で撮って携帯用の仏壇とする?アプリを見つけて吃驚しました。
ひと昔前の創価学会では「御本尊を写真に撮ってはいけない」と言うのは常識レベルの話でしたよね?
曰く謗法である、曰く罰が当たる、と。
学生部の時に聞いた笑い話で、
「発心して、唱題を頑張ろうと思った学生部員がいたが、仏壇は家族が寝ている部屋に近くて夜は出来ない。仕方がないので、ノートに鉛筆でじぶんで御本尊を書き写して壁に貼って唱題をしたらとたんに熱が出て寝込んでしまった。」
天罰覿面だな、なんて話がありました。
しかし、なぜ御本尊を複製したり写真に撮ったりしてはいけないのか。
そのことについて詳しく説明されたことはありません。
昔、学生部時代の先輩に訪ねた時「時間がないのでまた今度教えてやる」と言われましたが、残念ながらその後聞く機会がありませんでした。
ただその時にヒントとして、「コピーされた御本尊でも功徳はある」とだけ言われました。
それを思い出し、考え、考察してみました。
戸田先生は御本尊を「幸福製造機」と例えられました。
御書には「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。」(御書p1244)とあります。
「九識心王真如の都」とは仏そのものであり、十界で言うところの仏界の生命です。
人の心には本来、仏の生命が備わっている、しかしそれは怒り(修羅)や苦しみ(地獄)などの生命と同じ様に自由自在に出し入れできるものではなく、縁に触れて出てくるものです。
ではその仏の生命をどのようにすれば出すことが出来るのか。
その仏の生命を出す為に日蓮大聖人が「たましひをすみにそめながして」(御書p1124)顕されたのが御本尊です。
仏の生命を曼荼羅として書き表わされた御本尊に相対して南妙法蓮華経と唱える時に自分の生命が呼応して(縁して)仏の生命が出てくるのです。
十界具足(十界互具)とは十界の生命がそれぞれに十界の生命を持っているという事です。
仏の生命の中にも修羅の生命があり、地獄の生命の中にも仏の生命が有るのです。
ともかく、なんとか仏の生命に縁をして、仏の生命をいだして幸福になるための装置が御本尊なのです。
まず、御本尊は仏の生命として正しく書き表わされたものであり、書き写したり間違っているなどは言語道断です。(笑)
間違ったものを信じても、間違ったものが出てくるだけで幸せにはなれません。
(日顕の御本尊には書き間違いが多いらしいですが。(^_^;))
では、正確にコピーされた物や写真はどうなのか。
御本尊が仏の生命を出すための幸福製造機として作られたものであれば、コピーであっても功徳はあると考えるのが妥当です。
本はコピーでも読めてしまうし、楽譜でも、レシピでも、コピーされた内容が正確であれば、それによってもたらされる結果も同じです。
本物よりも本物らしいコピー商品なんてものも世の中にはたくさん溢れています。
お金をコピーしたら違法で捕まりますが、御本尊を複製してはいけないとは御書のどこにも書かれていません。
そもそも、ぶっちゃけて言ってしまえば、日蓮正宗でも創価学会でも現在下付されている御本尊は機械でコピーしたものです。
コピーとは写真にとってプリントしたものです。手書きで書かれたものは殆ど出回っていません。まあ手書きだからどうだってこともないんですけど。
正直、「日蓮正宗の御本尊は本物で、創価学会の御本尊は偽物だ!」なんて指摘自体が御本尊の本質を見誤っています。
ちなみに日蓮正宗の御本尊と創価学会の御本尊に違いがなければなぜ功徳に違いが出るのか。
それは使い方の問題です。正しい機械でも使い方を誤れば大事故になりかねません。
創価学会は日蓮大聖人の書かれた御書を根本にしています。そこが違うのです。
話が逸れました。では御本尊の写真を撮ることの何が問題なのか、それはその御本尊の扱い方なのです。
前述の御書の一文で「胸中の肉団におはします」といってなんとなくイメージするのは「心臓」ではないでしょうか。
たとえば、心臓は胸の中にあって血管とつながり、心膜や肋骨や筋肉などで守られていて、そのため問題なく動くことが出来ます。
心臓が外気や雑菌に晒されたり、傷がついてはあっという間に死んでしまいます。
同様に、御本尊も尊極なものと言われ、「触ってはいけない。息を吹きかけてもいけない。」と教えられた人もいると思います。
昔は仏壇の掃除や水を替える時もシキミの葉をくわえてしてましたよね。
(このあたりのことも今もちゃんと指導されてるのかな?)
つまり「自身の心臓にも等しい程大事にするべき、仏の生命である御本尊をどのように扱うか」という事が問題なのです。
御本尊を頂いた時は、きっちりと巻いて袋に入れて、懐に入れるなどして大事に持ち帰り、仏壇に安置します。
それと同等の事がカメラやスマホで撮った御本尊に対して出来るかと言うことです。
御本尊が写っている写真やスマホを雑に扱っていて「御本尊様を信じている、大事にしている。」では通らないのです。
前述の御書の一文に「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。」とあります。
信じることによって功徳を得ることが出来るのです。
普段からよく気になっているのですが、他宗の寺社仏閣で売られているお守りやお札が、飲食店で壁に貼られて油でベトベトだったり、ホコリを被っていたり、
車にシールで貼られて色あせていたり、ルームミラーにぶら下げられてたり、カバンでキーホルダーといっしょになってボロボロになっていたり、
そーゆーのを見るたびに「本当にそれを信じてるん?信じているものをそんな扱いでええの?」と思ってしまいます。
日蓮大聖人の教えの中にお守り的なもの、お札的なものがないのもその為だと思われます。
学会には「お守りご本尊」というものが有りますが、これはキーホールダーではなく(笑)普段は仏壇にきちんとご安置して
旅行や出張に出かけるときなども、持ち運びはきちんと懐に入れたり宿などで場所があればご安置するなど扱いをキッチリするように言われています。
ちなみに私は出かけた先などできっちり扱う自信がないのでお守りご本尊は頂いておりません。
また、謗法とは誹謗正法(ひぼうしょうぼう)の略で、正法(仏法)を誹謗(そしる、けなす、くさす)など軽んじたり、貶める行為のことです。
昔は御本尊を頂いた際の袋ですら大事にとっておくか、自分で焼いて処分するなどして、ゴミ箱に捨てたりしてはいけないと言われていました。
今はどうなのか分かりませんが、そこまでする必要があるのか分かりませんが、そこまでして大事するというのが信じると言うことではないかと思います。
御本尊を写真に撮ってアルバムに入れて本棚の奥に放置、スマホで撮ってデータとして保存して必要な時に表示、
そういうのは正法を謗る行為、謗法であると考えられます。
御本尊が一般に下付されるようになったのはここ数十年のことであり、もとより日蓮大聖人の頃には中々お目にかかることすら無かったことです。
目の前に御本尊がなくても胸中の肉弾にあると信じて唱題をすることで十分に功徳は得られます。
謗法を犯さないように気をつけましょうね。
ちなみに、今はネットで検索すると、御本尊の写真などは山ほど出てるく世の中です。
見たくなくても表示させたくなくても、それっぽい検索で出てきてしまうことが多々有ります。
私なんかはそういう時は「申し訳ないなあ」という気持ちで心のなかでお題目を唱えながらスクロールアウトするか、ウインドウを閉じます。
非学会員の中にはアホらしい、と思う方もおられると思いますが、それはその人の考えなので仕方がないですね。
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「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」
富木殿御書P970
「少年老い易く学成り難し一寸の光陰軽んずべからず」
時が過ぎるのはいつも速い。
しかし、若ければ若いほど、無知であれば有るほど、その事に気が付きにくい。
その事に気がつくのが早ければ速いほど人生を豊かにすることが出来る。
やらない理由を探すより、やる理由を探そう。
失敗に終わっても経験は必ず残る。
明らかにやらない理由がある場合以外はやってみよう。
やるかどうか迷うのは一瞬でよい。
迷ったらGoである。
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]]>これは人が何のために生まれてくるのかと言うことを一言で表しています。
人は何のためにこの世に生まれてくるのか。
それは遊楽するためである。
遊楽とはただ遊び惚けるという意味ではありません。
自分の人生の目的を見つけ、自分のために、そして他人のために、自分のやりたいことを精一杯やりきっていくということです。
自分の人生の目的のためならば、自分のやりたいことのためならば、辛いことも楽しい、努力も楽しい、いや、努力とすら思わないくらい打ち込んでも楽しい事、そういったことを見つけてやり切っていくことが人生の目的です。
やりたくないことをやっている時間はありません。
もちろん生きていくためにはやりたくないことをやらないといけない場合もあります。
しかし常に、それは自分がやるべきことなのか、自分のやりたいことは何なのか、それを自問していくべきです。
少しでもやりたくないことをやる時間を減らし、やりたいことをやる時間を増やすべきです。
人生は短いです。
早く自分のやりたいことを見つけ、やりたいことだけをやれる人生を構築していく、それが幸せになる方法です。
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]]>御書には
「夫十方は依報なり衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし身なくば影なし
正報なくば依報なし又正報をば依報をもつて此れをつくる」-瑞相御書p1140-
と書かれています。
ここで大事なのは依報と正報は不二ではあるが、主体は正報である、つまり自分自身であるということです。
最近の言い方で言えば「鏡の法則」も依正不二の内に入るでしょう。
自分の身の回りで起こる事柄は自分に影響を与えます。
しかし、その事柄自体に意味を与えるのは自分自身です。
有名な話ですが3人のレンガを積んでいる人に何をしているのか?と聞いた話があります。
一人は、レンガを積んでいると答えた。
もう一人は、教会を作っていると答えた。
もう一人は、世界平和を作っていると答えた。
世界は自分の認識が作っているのです。
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]]>論語に「中庸の徳たる、其れ到れるかな。」と説かれています。
「中」とは偏らないことで、「庸」とは変わらない事です。
徳のある人は、極端から極端に走らず、物事の考え方など両端の意見を聞いてバランスよく間を取れる人です。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と言うように、物事が過ぎても及ばなくても良くないのです。
平易な言い方をすれば何事も「ほどほど」がちょうど良いのです。
人間関係のマトリックスを考える時、自分の意見と他人の意見が違うのであれば、その中間が中庸と考えるくらいでちょうど良いのです
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]]>事実や真実が実際に起こった個別の事柄を対象にしているのに対し、「真理」というのは過去に観測された多くの「事実」を元に、客観的に誰が見ても間違いないと推察される「理」(ことわり)です。
数学で言うところの「定理」に近いものです。
「真理」として挙げれるものには次のようなものが有ります。
・人は必ず死ぬ。
・過去に起こった「事実」は変えられない。
・未来は決まっていない。
人は必ず死にます。
人類の歴史上、伝説として死なない人は居ますが、客観的な事実として死ななかった人間は居ません。
また、過去に起こった「事実」は変えられません。その人にとっての解釈を交えた「真実」を変えることは出来ますが、「事実」を変えることは出来ません。
一寸先は闇、と言いますが、実際に1秒後であってもなにが起こるかわかりません。
それは未来は決まっていないということです。
この様な真理を曲げようとしたり、無視したりすると人生が間違った方向に向かうことが多いのです。
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