日に日に夏が差し迫る6月の終わり。 山野は青々と繁り、その両手両足を自在に投げ出している。春の陽気に導かれ成長の季節は最盛を迎えようとしていた。先日まで続いた雨もどうにか止み、土くれの道は少し柔らかいものの歩行が困難、 ... ]]>
日に日に夏が差し迫る6月の終わり。
山野は青々と繁り、その両手両足を自在に投げ出している。春の陽気に導かれ成長の季節は最盛を迎えようとしていた。先日まで続いた雨もどうにか止み、土くれの道は少し柔らかいものの歩行が困難、とまではいかない。
今しかない。
そんな強迫観念にも駆られた志筑信淵は一人、東海道線の電車に揺られ、彦根駅で下車した。
いわずもがな、関西の東の端。滋賀県彦根市である。県庁所在地である大津市とは琵琶湖を挟んだ反対側になり、滋賀県の二大都市のうちの一つだ。かつては近江商人たちの往来で栄華を極めたこの場所も、令和の世の中の大都市一極集中のあおりを受け、そこそこ衰退の憂き目にあっている。
平成の終わりの頃に「ゆるキャラブーム」なるものが生まれ、彦根市は井伊家の赤揃えを被った可愛らしい猫のキャラクターによって俄かに活気を取り戻した——かのようにも思えたが前代未聞の疫病の蔓延により鳴かず飛ばずといったところか。国宝にも指定された彦根城の賑わいは到底往時には劣る。外国人観光客の姿も増えてはいるが、正直なところ、彦根というのがどういう場所なのか、理解せずに訪れるものが殆どだ。
彦根城主——井伊家の話を少しだけしよう。
関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康の直参である井伊直政の領地として繁栄した。井伊家の菩提はその生地である静岡県浜松市に拠するが女城主を主人公とした大河ドラマの影響もあり、一時は認知度も向上した。浜松市は平成の大合併と称する地方自治体の組織改編の際、太平洋から長野県境までの一帯を内包する巨大な政令指定都市へと成長を遂げたため、過疎地域には十分に交通手段が通っているとは言い難い。井伊家の菩提寺は割合山深い立地のため、次第に客足は遠のいた。
少なくとも、信淵が両親に連れられて参拝した際には寺院の規模に適した客数だったように記憶している。
そんな忘却の宿命を帯びた寺院の中で、大半の参拝者が立ち止まる位牌が一つだけある。
井伊直政ではない。
第十六代藩主・井伊直弼である。
小学校から高校に至るまで、井伊直弼の名はどの学校でも必ず触れられる。
彼が本心から悪臣だったのかは最早確かめる術がない。
それでも、大老・井伊直弼と桜田門外の変は教科書で必ず触れられ、そして大抵のものは井伊直弼に悪徒のイメージを持って育つ。なんて傲慢な。なんて横暴な。自業自得。勧善懲悪。そうなる定め。報いを受けただけ。例に漏れず、信淵もいい印象を持たなかった。
だから。
井伊家の城である彦根城の資材がどこで調達されたのかを耳に挟んだとき、強い嫌悪感を抱いた。反体制派の山城の主——石田三成のことに興味を持ったのはそれが最初だ。
「なぁ、ほんまに行かれるんですか?」
「はい。その為にここまで来たので」
「お一人では……よう勧められませんよ?」
「30分ぐらいでしょう? 大丈夫ですよ」
「けど」
「地図、ありがとうございました。行ってきます」
そうでも言わないと延々に引き留められそうな流れを断ち切った。
彦根駅のすぐ西側に隣接している観光案内所で、地図をもらうだけなのに15分以上の押し問答だ。時期が悪い——ハチやマムシの類が出るかもしれない、先日までの長雨で山道がぬかるんでいるかもしれない。そんなことをずっと心配して引き留められる。インターネットの検索でその場所がどんなところかは大体調べてきた。
東海道線の線路を挟んで東側。小高い丘陵となった山の頂にその場所は抱かれている。
かつて、戦国の世にこの場所を安堵された奸臣——石田三成の所領・佐和山城跡を見に行こうと思ったのは去年の冬のことだ。去年の後期に不本意ながら古文書の読解の講座を受講してしまった。古文書は奈良時代から明治初期あたりの広い範囲のものが取り扱われ、一緒に受講した友人などはいつの間にか織田信長の書のファンになっている。確かに個性的で力強いのに同時に繊細さも感じさせる不思議な書だったが、信淵が気になったのは彼の後に登場した石田三成だった。
きっと生真面目で四面四角で融通の利かない——それゆえに好悪の分かれる武将だったのだろう。
その才は評価するが気に食わない、と思っている同僚武将たちも数多いた。
それでも。
多分。
石田三成は本当の本当に心の底から豊臣の世が続くことを願っていたことが窺える。
それが日の本の国を発展させると信じてやまなかった。
絶対的な善。それを推し進めるために必要な悪を一人で被り、嫌われて、疎まれて勘違いされて大義を失っていく。
馬鹿な人だ。信淵はそう思った。もっと上手く立ち回ればいいのに。そうすれば彼の理想ももう少し受け入れられた筈だ。未来の遥か先の答えを知っている信淵がそう思うのはとても簡単で、浅慮だった。
徳川家康ほど狡猾な老臣を出し抜くのにどれだけ難儀するか、だなんて「答えを知っている」から言えるのであって、その場にいて、信淵が何か有益な助言が出来ただろうかと想像するとき——無力感に襲われる。虚無感と言い換えてもいい。
石田三成は現在の長浜市で生まれた。
たまたま豊臣秀吉が立ち寄った寺の小僧をしており、三杯の茶、と呼ばれる天才的配慮を不言実行した逸材だ。
その後、召し上げられ武将となり、主に後方支援を担う。戦線の一番後ろにいて、指示だけをしている安全で卑怯な役回りだと加藤清正や福島正則など同期の武将たちから侮蔑されていた。
それでも。
兵站を石田三成が担ってくれるからこそ、彼らはその武勇を奮うことが出来ているのだと、どの武将も認めたくないが認めていただろうとも思う。
適材適所を実行した豊臣秀吉の鋭眼と自らの役分を全うした子飼いの武将たちの両方が揃っていなければ天下統一の前に、九州はキリシタンの国家となっていたかもしれない。そんな馬鹿げたことを考えたりもする。
夏を予感させる日差しが降り注いでいる。
彦根駅から北東の方向に進んだところに寺院がある。
敷地は基本的に立ち入り自由で、地元の檀家たちが手を入れて整った墓地の区画と、少し荒れた区画とが現れた。何の縁故もない信淵は少し気後れしながらも墓石の間を進む。山頂までの登山道コチラ。そんな看板が緑の葉にうずもれるように立っている。携帯端末のGPSに頼れるのはここまでだ。何故なら、登山道として示されたものは「獣道」そのものだったのだから。
最初の数段は階段のような風情があった。
次第にただの土と草と枝があるだけになり、最終的にはどれが道でどれが山かがわからなくなる。
下調べをしてきたから信淵は長袖と足首まであるズボン、それから動きやすい履きなれたスニーカーだ。もし、どれか一つでも違っていたら今頃はマダニのいい餌食だっただろう。
軍手も用意すべきだった。そんなことを思いながら斜面を慎重に登る。
道かどうか分からない道を抜けると「ランニングコース」と書かれた看板が目に飛び込んできた。嘘だろう。ここでどうやって走り込みの訓練などするのだ。自分の常識ではあり得ない発想に、彦根市民はもしや勇猛果敢な民なのかと考え直す。
そんなことを考えてしまうぐらいには目の前に緑以外の色彩が存在していなかった。
ランニングコースの標識を見てからもなお、引き続き山道を登ると目的地は唐突に姿を現す。
小高い丘の頂上。少しだけ開けた場所に石碑が一つ。緑の隙間から見下ろした琵琶湖——近江、その淵に建つ白亜の城。あれが——ここにあったであろう城を解体して再構築した城の今の姿だ。
佐和山城跡と書かれた石碑の傍らに誰かが立っている。
こんな場所に誰かがいるなんて、信淵と同等の奇人がいるのは奇跡だとすら思って気付けば「こんにちは」と声をかけてしまった後だった。
「城を見にきたんですか?」
琵琶湖と彦根城が綺麗ですね。
そう続けようと思って、相手の反応が思っているのと異なることに気付く。
「驚いた。この時代でもまだ私の城を見に来る酔狂がいるのか」
「言い方。何気にしれっと侮辱してくるのやめてください、あなたもその変人の一人ですよ」
相手は三十代前半ぐらいのどこにでもいそうな男性だった。
とびきり容姿が優れているわけでもなく、かといって陰鬱さを感じさせるわけでもない、絶妙に「普通」の男性はどこか懐かしそうな顔をして「晴れていてよかったな」とまるで十年来の友人に語るように話しを続けてくる。
「雨が多いんでしょうか?」
「そうだな、小高い場所にあるから天守はよく雨に泣かされたよ」
まるでそのときを見てきたかのような口ぶりが引っかかる。
それでも、今更無視というわけにもいかず、信淵は会話を続けた。
「お兄さんは幾つですか? 会社員? 今日はお仕事じゃないんですか?」
「何だ、矢継ぎ早に色々聞くものじゃない。まず、今日は仕事だ」
「……俺、優等生ってわけじゃないんですけど、流石に仕事中にこんなところでサボるのはよくないと思います。っていうかどんな緩い会社なんですか」
「はは。公務員にだって出張ぐらいあるさ。新幹線の時間まで、少し、暇つぶしだ」
「えぇー。公務員なら市民の血税無駄遣いしないでさっさと公務に戻ってくださいよ」
それが、役所に勤めたものの宿命だ。市民の——県民の、ひいては国民の血税を垂れ流している公務員の権化に出会ってしまったような気がして、信淵の胸中が苦く曇る。
「お兄さん、どこから来たんですか」
「私は今日は駿河からだ」
「お兄さん、その侍ムーブ寒いですよ。普通に喋れないんですか」
「普通だとも。令和の世の中にもだいぶ馴染んだ方なんだが」
「あ、そう」
もしかしなくても信淵が声をかけてしまったのは真実の意味での変人だったのか、と寒気がする。
頭のネジが足りていなさそうな自称・公務員とは決別してさっさと山を下りてしまおうか。そんなことも思ったが、公務員の双眸がきらきらと輝いて琵琶湖を見ているのに気付く。懐かしそうな、大事そうな、けれど歯がゆそうな曇りと輝きを同時に湛えた彼が真に悪とは思えず、もう少し会話をしてもいいか、などと絆されかける。
「なぁ君」
「何ですか」
「どうして君は『こんなところ』へ?」
公務員が少し傷付きながらそう問う。その声音には惜寂と無力感と後悔が1:1:1ぐらいの割合で混ざり合っていて、信淵は理由もわからないのに罪悪感を覚える。
「こんなところ、なんて言わないでください」
ここはかつての名将・石田三成が築いた城があった場所だ。
数字の計算が得意で、武勇に欠けていたかもしれない。
誰にでも公平を貫きすぎて、柔軟性に欠けていたかもしれない。
真面目が過ぎて、冗談を言えないようなやつだったかもしれない。
いや、きっと。全部、そうだったんだろう。史書は——名将たちの日記や手紙が石田三成をそういう将だったと後世に伝えていた。だから、令和の現在に至るまで彼は「悪名」を免れない。
「多分、ここの城主は琵琶湖大好きだったんだな、って」
「……そうかもしれない」
「いや、そうですって」
「ああ、そうだな」
「自分の生まれた場所を大事に思えるっていいことだと俺は思うんです」
だから、お兄さんも公務員やってるんでしょ?
昭和の頃は安定性が売りなのが公務員だった。
それから元号が二つ変わって、令和の今。公務員は貧乏くじか大当たりかの二択の究極のロシアンルーレットと化した。上手くいけば一生安泰。高給ではないかもしれないが、ある程度守られている。その代わり外れを引けば最悪だ。市民という決して排除できないクレーマーに精神を害され、病むことだってあるだろう。地場の業者と癒着した上司。何かあればマスコミに過剰に叩かれて、私生活が崩壊する。
そういう事例を信淵もたくさん見てきた。
それでもなお、目の前のアラサー男性は公務員だと言うのなら。
きっと駿河を——静岡県を大事に思っているのだろう。
「石田三成が我欲で破滅したとは思えないんです」
「……君は実に人を見る目がない」
「大切な人が大切にしているものを守るのは我欲でしょうか」
「もっと俯瞰してものごとを捉えた方がいい。相対的価値観を持たなければ決して競争社会を生き抜くことは出来ない」
それは知っている。
高校受験を皮切りに日本の学生は皆、試験三昧の人生を送る。
今は少子高齢化で企業の方が信淵たち学生に「入社してほしい」と競っているから就職活動が困難を極めることはないだろう。だが、それは同時に未来の自分の姿を見ているのだとも思う。信淵たちよりもより少なく、より甘えた競争の中で生きてきた後進たちと対峙するとき。果たして信淵は正しい選択を出来るのだろうか。
正しさがただの主観にならないようにするにはまず俯瞰が必要だ。
俯瞰して、相手の立場からものごとを見て、そして判断をする。
「じゃあ、やっぱり石田三成は我欲の人じゃないです」
偏屈かもしれない。
頑固かもしれない。
それでも。誰かに嫌われても、誰かに疎まれても。誰かに罵られても、謗られても。この国に必要なことを必要なときに実行した名将だ。勿論、彼を憎んだ加藤清正や福島正則を罵りたいわけじゃない。彼らには彼らの善があった。本当に、ただの近似値で、隣り合わせていたかもしれないが、素数として素だった。混じり合うことのないねじれの関係。数学的に例えるのならそうなるだろうか。
「100%正しいやつなんていないですよ」
「君は今、公僕ならさっさと新幹線に乗って駿河へ帰れと言わなかったか?」
「それは今もそう思います。あなたが公務員だっていうなら、一秒でも長く俺たちの為に働いてほしいし、この時間に給料が発生してるなんて絶対に許せないです」
俺だってバイトとかして所得税とか消費税とか取られてるんですよ?
なるべく軽く聞こえるように信淵は苦笑いで言った。
目の前の男に悪意があれば、完全犯罪で信淵を殺めることも可能だと頭のどこかでは理解している。
それでも。信淵と同じ、日本人の遺伝子を継いだ焦げ茶色の双眸を見ていると、彼はきっとそういうことをしないだろうという確信がある。
人として優しく、他人に厳しく、自分にはより厳しい。信淵の祖父たちよりもずっと前の文化を知っていそうな不思議な瞳だった。
「……出張手当が付いている、と言うと刺し殺されそうだ」
「えっ!? そんな……税金泥棒……」
大人の世界は謎のシステムがあるんだ、と言外に含まれていて学生の世間など高々知れていると釘を刺されたような気持ちにすらなる。
新緑を煽って一迅の風が吹き抜ける。
逆光で黒くなった木の葉がさざめいて、琵琶湖の湖面がきらきらと光る。
この風を石田三成も知っている。そんな気がして、やっぱりここに城が残っていればよかったのに、と心の中で彦根城を少し罵りたくなる。わかっている。井伊直政が建材を奪って造った最初の彦根城など現存しない。江戸幕府の庇護下で井伊家代々の藩主が造営してきた名残を信淵たち現代人は守っているだけで、石田三成の佐和山城も、井伊直政の彦根城もこの世界のどこにももうかけらしかないのだ。
「君は公務員になりたいのか?」
「悩んでるから、ここに来ました」
「……? 意味がよくわからないが」
石田三成の存在を知ったとき。胸中には嫌悪だけがあった。
古文書を紐解き、記録の中に生きている彼を知っていくと、可哀想だと思った。
その傲慢な憐憫を吹き飛ばすほど、彼は愚直で——そしてとても真摯だと気付いた。
こんな生き方をしたい。後世に残る何かを成したい。誰かの為になる仕事をしたい。
石田三成になってみたい。
己の分も、身の程も弁えずそんなことを思ったこともある。
彼の遺した理念を次の誰かに渡す存在になりたい。
石田三成は勘違いをされても決して気にしなかっただろう。
本懐が遂げられる——泰平の世が訪れるなら、謗りなど気にしなかっただろう。
信淵は残念なことにその強靭な精神は持ち合わせていない。
叩かれれば折れるし、嫌われれば悲しい。つらいことからは逃げたいし、回避できる失敗は経験したくない。
そうだ。令和という世の中全体がそういう傾向にある。
それでも。いや、そんな時代だからこそ。
「誰かの為に自分を注いだ人が見た景色を見たかったんです」
自分のことを後回しにして。必死に豊臣の世を守って。安堵された彦根の街を見下ろして、石田三成と同じ体験をすれば何か答えが見えるような気がして、講義が運よく休講になったのを契機にここまで来た。
全部自分の為だ。矮小でただの俗物の世俗的な自己満足だ。
やりたい仕事なんてない。
成したい未来なんてない。
エントリーシートを書く度、信淵の心は嘘で満たされる。
正解の文章を書く度、練習した面接の遣り取りをする度、信淵の心は削られた。
本当の未来って何なのだ。自分が望んでいるのが何なのかすらわからないのに、モラトリアムの終わりは刻一刻と迫る。上辺を繕って、いい会社に入って、高給を得て。その先に自分がどうしたいのかが何もわからない。
欲しいのは厚遇じゃない。自分が「欲しいもの」が欲しい。
幼稚で、稚拙で、未熟で甘えた悩みだ。
それでも。
「俺はここに来て、よかったと思います」
観光案内所で何度となく引き留められた。
一人で登る山ではない。そう言われても前に進めた。
足元が見えないほどの青葉の中、この場所まで登ってきた。
謎の給料泥棒とどうしてこんな話をしているのかはわからない。
それでも、一つだけわかった。
「俺は公務員になりたいわけじゃなかった、と、思います」
「いいんじゃないか」
「『志』が欲しかったんです」
「君はもう持っているだろう」
「いや。ないです」
志などという大義は信淵の中にない。
目の前の男は即断した信淵に向けて訝るような視線を投げている。眉間に刻まれた皺の深さが彼の困惑を告げているようだった。
「ない、って。君、志もないやつが登れる城じゃないぞ」
「いいですか、お兄さん。登山は家に帰るまでが登山なんです」
だから。この山頂から下りて、彦根駅に戻って。そして家に辿り着いたときにこそ、信淵の経験値は付与される。
そんなことを説くと彼は心底新人類を見るような奇異の眼差しを向け、最終的に下山に同行する旨を申し出てくれた。
「奇特な若者をいっときの浅慮で失えるほど、この国は潤沢じゃないんだ」
「失礼ですよ。子供じゃないんだから一人で戻れます」
「君は裏門の方から来ただろう。下り口はもう一つあるから、そちらも通って帰るといい」
「待って! 待ってください! 俺! 蜘蛛だけは本当に無理で!」
そんな泣き言を声高に告げても男は信淵の手を引いて、来たとき以上に多難そうな獣道をずんずん進み始める。見るからに蜘蛛の巣が幾つも待っていて、いっそ失神した方が楽だとすら思いながら信淵は絶叫するが、髪に、頬に、腕に粘着質の繊維が次から次へと絡みついて嫌悪感に上限などないという体験だけが残った。
「お兄さん! 本当! 無理なんですって……ば……?」
木々の間を抜けてようやく開けた場所に辿り着いたとき、絶叫で枯れた喉がスッと痛みを手放した。
左手の手首を掴んでいた男の温もりも消えて、近くを見渡したが彼の姿がない。
代わりに、紙の切れ端を掴んでいることに気付く。
「お兄さん……?」
ゆっくりと指を剥がし、掴んでいたものを見ると達筆な文字で「大一大万大吉」と書かれている。
この山城を登ろうと思い立つような人間ならこの言葉は嫌というほど見ている筈だ。
この城の——佐和山城のあるじである石田三成の紋なのだから。
「なんだ。本当に『あなたの城』だったんだ」
幽霊について信じているわけではない。
死者の魂なんてなおさら信じていない。
それでも。多分、山頂で出会った彼は石田三成その人だったのだろう。
本人に解釈を垂れるという無様を晒したことに今更気後れがする。信淵の二十と少ししか経験していない年月の経験で、偉そうに色々言ってしまったなと恥じると同時に「話を聞いてもらった」という感覚が残っていた。
大学の教授にも、友人にも、勿論両親にすら言えなかった独り言を吐き出させてもらったおかげで、少し、頭がすっきりとしたように思う。
アスファルトの舗装された道が緩やかな傾斜で続いている。これが本来の正門だったのだ。裏口から入って、講釈を垂れる不審者、という存在のいたたまれなさに恥じて消えてしまいたいとも思ったが、信淵は左手の中に残った大一大満大吉をゆっくりと握る。
一人は皆の為に。ラグビーが流行った頃にも似たようなフレーズを聞いた。
一人は皆の為に。その思い遣りの連鎖がいつか泰平の世を作ると教えてもらったのなら。
命を懸けてその理念に捧げた人が後押しをしてくれるのなら。
信淵は信淵の全力で「信淵の志」を探さなくてはならない。
厄介な宿題をもらってしまった。そう思うのに満更悪い気もしない。
坂道に誘われるように山を下る。まるでそこにあるのが当然の顔をしている住宅街を蜘蛛の巣だらけの風貌で通り抜けたら、まずは観光案内所に行こう。信淵の無事を伝えてから帰宅して。そして上辺を繕った自己分析をやり直そう。忖度のない、自分自身と向き合って、やりたいことがないのなら今からでも遅くない。今、この瞬間からやりたいことを作って行こう。
そんな決意をもらった6月の終わり。
来週から始まる前期課程の試験にも怖気づかないで立ち向かえるような、その程度の小さな変化が生まれた信淵なのだった。
世界、という定義があるとしたらその条文は何になるのだろうか。 時折、鶴丸国永はその問答に興味を惹かれる。自身——ここにいる鶴丸国永自身と他の場所で顕現した同位体との差異の定義も明文化出来ないのに個の集合の最上位概念であ ... ]]>
世界、という定義があるとしたらその条文は何になるのだろうか。
時折、鶴丸国永はその問答に興味を惹かれる。自身——ここにいる鶴丸国永自身と他の場所で顕現した同位体との差異の定義も明文化出来ないのに個の集合の最上位概念である世界の定義など出来ようか。美しい反語だ。出来る筈がないとわかっている。
出来る筈がないことに執心するような情熱は持っていないが、それでも時折考える。自らを内包する最上位概念にも意思があるとしたら。その苦悩は如何ばかりなのか、と。
「やぁ、鶴丸国永。久しいね」
あるとき、政府の会合が開かれた。省庁の代表者と各本丸の情報共有を目的としていると案内状には書かれていたが、内実はただの交流会だと誰もが認知している。そのぐらい、よくある公式の会合だった。
鶴丸国永の本丸からは鶴丸国永と燭台切光忠が主の供として参加した。燭台切光忠は近侍として主の傍に付いている。団体行動が得意ではないと自負している鶴丸国永は立食パーティーなのをいいことに料理をつまんでは壁際でゆっくりとしていた。
そこに現れたのが政府の貴族——九重久遠である。
内務省直轄の陰陽寮の所属で23世紀の陰陽師だのなんだの仰々しい肩書で粉飾しようとしているが、鶴丸国永は彼の本質を知っている。知っているが、彼が語ろうとしない以上、秘匿するのが礼儀作法というものだ。
「久しいな、九重久遠。きみも健勝だったかい?」
「きみは本当に形式的儀礼が好きだね。知っていると思うけれど一応答えておくと、とても健勝だよ」
でなければこの会合は開かれることがなかっただろうからね。
九重がどこか鶴丸国永の存在より遠くを見遣ってそんなことを口にする。
知っている。彼の視野は鶴丸国永の視野よりずっと広い。彼にも見通せないものがあるとしたら、それはきっと未来そのものと、既成概念というフィルターで隠された一部の過去、そしてそれらの間にある相関関係の最初の紐づけぐらいだ。九重はゼロを一に出来ない。その代わり、一を百の手前にするのは容易に成し遂げ、そしてまた百を達成することは九重には不可能だ。
九重はそれを公言しないが隠そうともしていない。
付き合いの長いものは勝手に気付くし、そういう細やかなことに興味のないものは一生気付くこともない。
「それで? ぼうと突っ立ったままお喋り、って柄でもないだろ。飲み物でも貰ってきたらどうだ?」
「開会してから烏龍茶を何杯飲んだと思っているんだ。付き合いでももうこれ以上は消化器の容積上辞退するよ」
「きみは本当に学ばないな。グラスに注がれたものを挨拶の度に空にするからそうなるんだ」
九重は生真面目なのか何なのか。アルコールの類を一切、辞退している。
パーティーでよくある光景なのが、ソフトドリンクとアルコールの1グラスの容量がイコールではない、というやつだ。烏龍茶はグラスワインの約三倍以上も注がれている。
それなのに九重は声をかけて挨拶をする度、必ず新しいグラスを受け取り、別れるまでに飲み干す。利尿作用という概念を教えてやっても、律義に会期中は手洗いにも行かない。鋼鉄の信念と言えばそれまでかもしれないが、鶴丸国永からすればただの不器用にしか見えなかった。
「近々、また大規模演習を実施する予定なんだけど、きみの本丸を指名してもいいかな?」
一番近くを歩いていたウェイターから白ワインのグラスを受け取る。
鶴丸国永の主は元は日本酒の杜氏だったらしい。清酒には一家言あり、本丸では基本的に日本酒しか購入されない。たまにこうして政府の会合に出てきて洋酒を飲むのが鶴丸国永にとってはいい気分転換だった。
今日の白はシャルドネだ。久しぶりに当たりの会合だ。そんなことを思いながらほぼ香りのないワインを口に含む。シャルドネの甘みと酒特有の熱を伴って「酔い」を体感していると九重が「きみは本当に美味しそうに酒を飲むね」とどこか微笑ましさのようなものを湛えながら、本題に入った。
大規模演習、というのは年に一回程度実施される最新のセキュリティ教育の一つだ。
仮想敵からサーバ単位で外部攻撃を受け、サーバ機能の一部がダウン。セキュリティが低下した状態で、本丸の防衛をする。仮想敵は基本、今までに検知した時間遡行軍の情報から作成されるが、稀に乱数で強敵が設定される。
シミュレータで実行するため、刀剣破壊こそ発生しないがそれ相応には疲弊させられるのが常だ。
本丸個別で実施する演習の他に、他本丸及び政府との連携を求められる演習パターンがあり、今度は後者らしい。当世の言葉で表すならスキル・トランジションに他ならない。古参審神者と新米審神者との組み合わせで経験、判断基準、戦闘技術などを共有伝達させるのが目的だろう。
「おいおい、備前サーバの最古参本丸だからって当てにしすぎじゃないか? もっと中堅も育成してやってくれよ」
「きみの本丸は主さんもしっかりしているし、刀剣男士も手ほどきが上手い。若手審神者から名指しで指導依頼が何件も来ているんだ」
だから、まぁとても久しぶりなんだけどグループ演習にしようかと思っているよ。
それは内部情報の漏洩ではないのか。まだ決まっていないことを当事者に相談するのは政府の内規に抵触するだろう。そんなことぐらいわかっているだろうに九重はまるで今日の料理は美味かったね、と同列の熱量で鶴丸国永に話しかけている。まぁ、確かに今日の料理は美味いが問題はそこではない。
「褒めたぐらいで流される刀剣男士に見えているのかい、俺は」
「残念だけどそこまで盲目的ではないね」
「だろ? だから——」
「だから、『ぼく』が『きみ』と話している、と言ったら?」
政府の陰陽師——九重と古参中の古参——鶴丸国永とでしか語れない何かだと含んでいた。
厄介な問題が裏にあるのが示唆されて、無視出来るほどには九重のことを嫌悪していない。
頼られるのが全て嫌いなわけでもないし、「友人」の頼みなら耳を貸すのは決して吝かではなかった。
「——貧乏くじは好きじゃねぇんだ。本当の理由を聞かせてくれ」
「情報漏洩の最悪のケースが発生している可能性がある。内部データを人質に第三者が身代金を要求した後、データ改竄したログが見つかった」
「最っ悪な状況だな。全部終わってから『可能性』の検証かい?」
「詳しいことはこれから情対で特別調査班を組むから話せないんだが、基本的なリテラシーを伴わない新任審神者が増えているのが問題視されている。『死なない程度』に最悪の難易度を設定して演習を実施したい」
情対——情報管理対策室の略称だ。政府内でも特別な組織で、九重が所属する陰陽寮とは兄弟の関係にあたる。
そこまで問題になっているのならいずれ事案の共有と新たな教育メニューが打たれるのは間違いがない。
だが。
「基本的なリテラシーって言ってもなぁきみ。そもそも俺たちの本丸は別に文部省の配下じゃないんだぜ」
「わかっているよ。リテラシーの根本は文部省に教育プログラムを考えさせるとして、『どうして』それを『学ばないといけないのか』とか、具体的に『何が危険』なのかは実体験してもらった方が教育効果が高いだろうというのが神社庁の公式見解だ」
「それで、俺たちやきみに丸投げかい?」
「丸投げならまだよかったんだけれど。そもそも文部省にリテラシーがない可能性が浮上しているから陰陽寮は火消しで残業祭だよ」
論理的に説明出来る人材がいない。
対策を講じる以前の問題が噴出している。
陰陽寮は基本、貴族しかいない筈の部署なのに大体いつも残業でデスマーチをしている風情がある。
ただの古参本丸所属の刀剣男士である鶴丸国永をしてその認識なのだから、九重の労苦は推し量りがたいものがあった。
「きみ、そういうときには歴調に投げたらいいだろう」
「歴調は今、必死に改竄の火消しをしているんだ。これ以上投げると多分、本作長義くんから正式に抗議書類が到来するだろうね」
歴調——歴史調整課所属の「本作長義」と言えば九重の数少ない友人だ。
お互い過労で死にそうになると本庁の1階にあるカフェでよく鉢合わせると以前に聞いた。
そのときにはそこでしか休憩が出来ないのか、と全く歓迎出来ない感情で驚いたものだ。
「政府も広いんだ。俺の本丸以外でも何とかならないのか」
「前代未聞のセキュリティインシデントが発生して、きみの本丸だけに協力依頼をするとでも思っているのか?」
「うん?」
「陰陽寮総出で頼れそうな本丸に順次声をかけている。今日もきみで三人目だ」
この交流会が始まってちょうど一時間半。つまり、九重は三十分間隔で協力者となってくれる男士を口説き落とし続けている計算になる。正直なところ、三人目――上から数えて三番目の優先順位しかなかったのには内心、釈然としないがそんなことを吹き飛ばすほど九重の言葉は衝撃的だった。
政府の影の立役者たる陰陽寮の貴族たちは皆、個性的だ。
九重も例に漏れず個性的で——鶴丸国永は彼のことを内向的だと認識していた。立食パーティーなぞただ飯を食らうだけのイベントのつもりで参加しているのだと。
だから。
「こいつは驚きだ! きみ! 意外と社交性があるな。この立食パーティーは内々に白羽の矢を立てる隠れ蓑か」
木を隠すなら森の中。人を隠すならパーティーの中は過去の前例からしても適切だろう。
白羽の矢を立てる為に交流会が行われることよりも、真の主催が陰陽寮であり、口下手で有名な——表舞台に立てない筈の貴族たちが人を口説いて歩いているということに心底驚いたものだ。
「そういうことだよ」
「予定では何人勧誘するんだ?」
「それを口外するとぼくがインシデントになるから黙秘するよ」
「俺ときみの仲だろう。教えてくれ」
「きみの本丸に監督してもらうのはぎりぎり二桁乗るか乗らないかの数だとだけ言っておく」
「なぁ、きみ。九重久遠」
「報酬はおって神社庁から正式に通達がある。それに加えてぼくからきみに個人的にシャルドネを融通するのは内規に抵触しないから、気にせず受け取っておいて構わないよ」
気に入ってくれたんだろう、その白。ぼくが選んだんだ。
九重が彼自身の働きを誇示することは殆どない。
政府の一部として——貴族の領分として彼はいつも控えめにしか自己主張をしない。
成功は寮の功績。失敗は残業をしてでもカバー。誰かの尻拭いをしても愚痴りはするがくさらない。己の立場を誰よりも理解していて、欲得はあまり表面に出さない。それが九重久遠だ。
だのに。
「きみが選んでくれたのか?」
「そう。きみが出席名簿にいたから、きっと気に入ってくれるだろうと思って」
「今日は驚きの連続だな。きみは俺が白ワインを飲まなかったらどうするつもりだったんだ」
「どうもしないよ。きみは白ワインを飲んだ。それが事実でそれ以上のことは何もない」
「九重久遠。どうしてきみはすぐそういう言い方をするんだ」
企みが成功したのならもっと無邪気に喜べ。
心遣いが功を奏したならもっと素直に笑え。
想いが届いたことを寿いで、そうして分かち合えばいい。
そうすれば——九重の生涯はもっと彩りに満ちるだろう。
「それとも、今日ここに来る鶴丸国永は全員白ワインを喜んでくれるやつばかりだったのか」
「個人情報にあたるから詳しくは話さないけど、少なくともぼくはきみの為だけにそのワインを選んできたのは間違いないよ」
シャルドネ種だけを用いた白ワイン。
シャルドネ種は個性的な香りではないのが一般的だが、今日の白ワインはほんのり柑橘のフレーバーを帯びている。
備前国——備前サーバの由来となった地だ——は瀬戸内気候に恵まれ、柑橘の国内名産地の一つでもある。鶴丸国永の感覚器がどこか懐かしさを覚えたのはきっと香りだけが原因ではないのだろうが、それでも。鶴丸国永の本丸にもやはり柑橘の果樹園があり、桑名江をはじめとした江の男士たちが献身的に手入れをしている。内番とは別にそうやって賑やかしくしているのを鶴丸国永は大切に思っていた。
そこまで見透かされているのかどうかは定かではないが、少なくとも九重は彼の目の前にいる鶴丸国永という個体自体への心配りをしてくれた。どこの産地なんだ、と尋ねると「国内の——あとは秘密」と茶化して濁された。
「そうまでして俺を口説いておいて三番目だなんてつれないじゃないか」
「——きみの気が少しほぐれるには三番目ぐらいがちょうどよかったのじゃないか?」
一番目はきっと気が張っているだろう。政府の安全な交流会だとは言え、数多の刀剣男士たち、そして審神者が集って諍いが全く起きない、という保証もまたない。主が主の旧知の審神者と対面し、和やかな会話を近侍たちと広げていくのを確認しながら鶴丸国永は宴の喧騒から抜け出た。
二番目——開始三十分後はきっと食事と飲み物を夢中で貪っているだろう。鶴丸国永はこう見えて食欲が旺盛だ。色素の薄い外見とは裏腹に結構な大食家だ。洋食、和食、中華と次から次へと料理を味わっていた。勿論、横やりなど入れられるような雰囲気ではない。
三番目なら。鶴丸国永は料理を一通り楽しみ、デザートが後から追加されるのを壁で待っている。
違ったかな。と全く間違った懸念すら感じさせない穏やかさで九重が鶴丸国永に告げたとき、自然と鶴丸国永も笑顔を分けてもらった気がした。
「ははっ。きみは天性の人たらしか何かだったのか?」
「似たようなことを本作長義くんにも言われたんだけど、そうだったら苦労しなかったのに、とは思うよ」
「よし。わかった」
きみの依頼、必ず光坊と主に承諾させよう。
気が付いたらそう言ってしまった後で、鶴丸国永はどうにも利用された気持ちしかないのに満更騙されたとは感じなかった。九重のことは不思議なやつだと思う。他の陰陽師たちとは何かが決定的に違っていて、それでも23世紀によくいる貴族だ。矛盾しているのに不快感がない。言葉などで表せないほど複雑怪奇で他人を俯瞰的に見ている。そのくせ自分自身への理解は中途半端で、若さで許されるギリギリの範囲内だ。
いにしえの時代。
戦の華が刀剣だった時代。
その時代からずっと人の世を見てきた。武器として道具として守られる宝物として。鶴丸国永はこの国をずっと見てきた。その中で見てきた己の審美眼が伝える。この馬鹿の鑑のような若者は守られるべきだ。人を物を同じように愛し、慈しみ、そして守ろうとしているやつの手助けをするのが物としての——付喪神としての鶴丸国永の美学と相反しない。
世界、というのが明文化され、定義されることはこれからもきっと未来永劫ないのだとしても。
自分を尊重してくれる相手を概念として扱うことの不実さを理解しているのなら。
「なぁ、きみ。本当は酒も行けるんだろ?」
「どうかな。きみが思っている通りでいいよ」
「いやー、会合の度にこのシャルドネがもらえるなんて、俺はきっと恵まれているなぁ」
「鶴丸国永。ぼくは毎回贈るとは言ってないのだけれど?」
「いいだろ? 地産地消ってやつだよ、ご馳走さん」
読み切れない距離を無理に数値化する必要はどこにもない。
口約束のまた口約束で構わないし、感情を定義する必要もまたない。
そのことを何度でも証明する九重久遠という存在にこの国の未来はまだ明るいのじゃないか、と思いながら、シミュレータ上とはいえ死地を味わうのは何とも言えない気持ちになるなと笑って受け入れる鶴丸国永なのだった。
23世紀。ときの政府組織は過半数を占める人ならざるもので成り立っていた。 金が余りある資産家は政治家となり、今も表舞台を仕切っている。官僚の殆どは異能者であり、最低でも人ならざるものへの耐性がなければ国家公務員として採 ... ]]>
23世紀。ときの政府組織は過半数を占める人ならざるもので成り立っていた。
金が余りある資産家は政治家となり、今も表舞台を仕切っている。官僚の殆どは異能者であり、最低でも人ならざるものへの耐性がなければ国家公務員として採用されることはない。各分野に精通した付喪神たちが実務を担う中でただ人の身はすぐに病んでしまう。
それでも国民の大半はただ人であり、異能など持たない。
その橋渡しをする為だけに人の官僚は存在している。
山姥切長義が所属する歴史調整課では付喪神が半分。異能者がその半分。残りが普通の人間であり、まぁ平均的な23世紀の政府庁と言えるだろう。
付喪神といえども疲弊はする。歴史調整課は24時間365日対応だから完全シフト制、三交代で成り立っている。今日、山姥切長義は夜勤を終えて朝8時、無事引継ぎを終えて一旦休憩が許された。
この庁舎の一階部分にはオープンカフェがある。
政府の関係者であれば利用料はかからない。何時間でも居座ってOK。勿論店員たちも政府に雇用されている。だから、刀剣男士が接客をしているのもときどき見かける。自分の同位体が店頭に立っていることももちろんあって、そういうときはお互いに関わらないようにするのが政府内のマナーの一つだった。
「ホットのブレンド珈琲、Mサイズが一つ」
「拝承するよ」
開庁時刻まで間がある午前8時台のシフトは基本的に一人——世俗的にいうワンオペというやつだ。今日は山姥切長義がそれを受け持っているらしい。そこそこ広い店内に自分と自分の同位体のみが存在するというのはどうにも気まずいが、改善する気もない。
山姥切長義はオレンジのランプの下からホット珈琲を受け取るとカウンターから一番遠いテーブルに着席した。
政府官僚の貴族、九重久遠が相変わらずほやほやとした顔でやって来たのは珈琲が半分以下に減った頃のことだった。
「今日のオススメは何だい、山姥切長義くん」
「あぁ。あなたの好きそうな甘いラテが一昨日から登場したんだ」
「モンブランかぁ。いいね、じゃあそれを一つ」
「九重久遠。あなたのお気に入りの『本作長義』が端のテーブルにいるから教えておくよ」
「あっ。本当だね。相席、大丈夫か聞いてみるよ。教えてくれてありがとう、山姥切長義くん」
「どういたしまして」
そんな遣り取りが途切れ途切れに聞こえてきて、一瞬、歴史調整課の山姥切長義は何の会話なのか左の耳朶から右の耳朶へ音が貫通したような錯覚にとらわれる。
間もなくクリーマーの音がしてもう一つ二つ遣り取りをしたかと思うと、白いホットの蓋をしたカップを持った九重が山姥切長義の座るテーブルの隣へとやって来た。
「本作長義くん。隣、いいかな」
「——断ったところで座るんだろう」
「中々見抜かれているなぁ。じゃあ正直にお願いしよう。向かいの席に座るよ?」
「……どうぞ、ご自由に。九重久遠」
九重とはかれこれ十年ぐらいの付き合いになる。
政府付の付喪神として顕現してからというもの、何だかんだと職務を全うしていたら九重と同じ業務を担当することが多くなった。今では歴史調整課の課長と九重の利害関係が一致しているから、一般の審神者や官僚たちでお手上げの状況になればよくお互いが駆り出されている。
「それで?」
「『それで?』とは?」
「俺があれほど『本作長義』と呼ぶのを辞めろと言っても聞く耳持たなかったあなたが、あそこの山姥切長義のことは山姥切長義と呼んでいる合理的な理由を聞かせてもらいたいものだね」
「そんなに難しいことじゃない。ぼくにとって『本作長義』はきみ一振だというだけのことだよ」
己の刀身に銘打たれた文字数は国内では最長の類に入る。
あまりにも長すぎる銘を呼ぶことが不可能で、20世紀の終わりごろから山姥切長義のことを本作長義と通称する流れが生まれた。特に彼の刀身を所蔵した徳川美術館が展示の際、そう表記した、それが一番の理由だろう。
九重が20世紀の文化をどうやら好ましく思っている、ということは彼と業務をするうちに自然と理解した。
21世紀、22世紀と情報の速度は加速度的に増す。その直前の豊かでありつつもある程度自然な流れ方をする時代を山姥切長義もガラスケースの中で見守ってきた。こうして刀剣男士となり、今もまだ刀身のすぐ傍で来館者を見守っている同位体がいることも特別に嫌悪しているわけではない。
ただ。
「きみたちは同位体といえど、個性がある。何振かのきみと出会った中できみが一番本作長義だと自認しているからそう呼んでいる」
「あそこにいる俺は違う、と?」
「彼は山姥切長義くんだね」
「どうしてそう思うんだ?」
「きみはまだ知らなかったかな。山姥切国広くんの保護者になりたいんだよ、彼は」
「偽物くんの——保護者?」
「そう。わんぱくの本丸の山姥切国広くんやもちもちマスコットの本丸の山姥切国広くんのことを見守りたい不器用な保護者だから、山姥切長義くんと呼んであげるとどこか安心した顔をするよ」
きみはそういう気質じゃないだろう。言われて山姥切長義は胸の奥で何か靄がかかったのを感じる。
どうして九重が自分のことを断定的に語るのだ。彼を——23世紀の陰陽寮の貴族のことを詳細に知っているものは政府内でも限られている。どこから来てどこへ行くのか。知っているからこそ、山姥切長義は——九重の言う本作長義は彼と任務を共にした。
決めつけられて先入観だと憤りたい自分と、そこまで深く理解されている同位体と、九重自身の無神経を装った優しさを知っていたからこそ全ての文句を嚥下した。
「九重久遠。どうせ陰陽寮は昼行燈なんだろう? 歴史調整課の月末処理を手伝って行かないか」
「本作長義くん。報告書は毎日書けと上長に言われなかったのかい?」
「書いても書いても書いても書いても書き手が圧倒的に不足しているんだ」
職務怠慢と責められれば言い訳がましい愚痴が零れて止まらない。九重は一見抜けているように見えるが、これでも事務処理のエキスパートだという噂だ。23世紀にもなって肉筆の書類が山のように残っており、21世紀の頃のデジタルトランスフォーメーションの方向性が明後日の方向を見ていた余波を感じる。手順の類を最適化することなく見た目だけをデジタル化し、無計画に増改築を繰り返してきたデータベースは、はっきり言って最早混沌そのものだった。
税法や道路交通法を代表とした場当たり的な改修は政府業務をより煩雑化させただけで、救われたものがどこにもいない。顕現して最初に六法を読んだときには眩暈すら感じたほどだ。
「リソースが足りないのなら正式にうちへ依頼すればいいじゃないか。別に、ぼくの上官殿なら職務派遣するのに手当てを取るような真似はしないと知っているだろう?」
「その稟議書を上げる時間すら惜しい」
「相当追い込まれているようだね」
「どこかの愚かな政治家が盛大に歴史改変しようとしたんだ」
知っているんだろう? おかげで歴史調整課は全員15連勤でひどいものに至っては36時間、連続で勤務にあたっている。人の姿を取っているだけの付喪神の同僚でももう限界に近い。勿論、山姥切長義も例外ではない。17時間ぶりの休憩が間もなく終わってしまう。手が空いているなら力を貸せと率直に要求すると九重は柔和な顔立ちをいつも以上に綻ばせて、そして言った。
「本作長義くん。納期も大事だけれど偶にはきみたち刀剣男士もきちんと休まなきゃ」
「残念だが俺が一番耐久性が高くてね」
「知ってる。だから言っているんだ」
36時間勤務なんかになる前にきみの方からうちに来れば良かったのに。
陰陽寮の貴族たちは皆、人知れず属人的な案件を抱えている。今、誰が何をしていてそのエンドがどこなのか。九重の言う上官殿ぐらいしかそれを把握していない。つまり、陰陽寮は事実上スタンドプレーの部課ということだ。
その陰陽寮の貴族で刀剣男士に好意的なのは九重と幾人かだけで、彼らの不在時に訪おうものなら蔑視を浴びる。勿論、九重の個人的な連絡先など知らないから内々に救助要請を出すことも出来ない。
「九重久遠。俺はあなたの個人情報が欲しいわけじゃないんだ」
「個人内線にかけても、ぼくが『こちら側』にいなければ結果は同じだろう?」
「23世紀の無能の政府が個人情報保護法を悪法に変えたのは知っているね?」
「だからだよ。休憩時間に知人にメッセージを送ることまで歴史調整課では職務違反とされているのかな?」
「……つまり、あなたは『本作長義』である俺と友人になりたい、と?」
「認識不一致で悲しくなるね。その質問への答えはノーだ」
ここまで土足で関わっておいて今更認識不一致だの何だのと否定されて傷付くぐらいには山姥切長義も人の心を持っている。やはり貴族と付喪神の間において情など育めないのか、と少し歯がゆい気持ちがした。
その嫌悪感と寂寥感が表情に出てしまっていたらしい。
甘ったるい香りのするモンブランラテのカップに蓋をして九重は優しく、山姥切長義の眉間をつい、と押した。
「本作長義くん。ぼくときみは既に友人なんだから、今更何になると言うんだい? やっと今、ぼくときみの認知が一致したのかと思うと流石のぼくも泣けてくるよ」
「——あなたは、ずるいひとだ」
「知らなかったのかい? なら今知ってくれないか。ぼくはずるくて酷くて厚かましくて強欲なんだ」
世界に一振しかいないきみの——友人の手助けをする権利を持っているぼくをちゃんと利用してほしい。
政府の刀剣男士として顕現した山姥切長義は自身だけではない。凡そ一つの部に一振程度。希少性の高い男士といえどもそのぐらいには分布している。カフェの同位体が一番よく対面するけれど、それ以外の同位体のこともお互い、関わり合って憎まなくていい程度には認知していた。
歴史調整課は少ない人員で重要度の高い案件の処理が求められる。
どうして自分だけこんな苦労をしなければならないのか、呪ったことが一度もないと言えば嘘になる。
本当は——山姥切長義も知っている。歴史調整課の手に余る案件に化けたものが陰陽寮へ申し送られていることも。目の前にいる朗らかそうな貴族が何十、何百、何千の涙を流しながら任務にあたっていることも。
だから。いや、だからこそ、と言うべきだ。
事務処理や後片付けといった彼でなくても手数さえ打てればかたが付くことに巻き込みたくなかった。
九重が頼りに思ってくれる能吏の自分でいたかった。
そう、思っていたのが自分だけで九重の目にはもっと前から不格好な己が映っていたことを一瞬。ほんの一瞬だけ恥じて、そして次の瞬間に論理で割り切る。
「九重久遠。昼行燈のあなたに事務方が務まるか、是非試してもらいたいものだね」
「理論値上、何とかなる筈なんだ。案件定義がきちんとされていれば、だけど」
「案件定義? きちんと? 歴史調整課を甘く見ているよ、それは」
「ははぁ。なるほど、マンパワーでどこにも何の手順書もない、と来る」
「稟議書を上げてほしい案件が山のようにある。あなたを借り受ける稟議書を作りながら説明しようか。まぁ、でも」
そのラテが飲み終わるまで、もうしばらく友人として休憩と行こうじゃないか。
不器用に蓋を押さえていた九重に向けてそう言えば、彼は一瞬、きょとんとした顔をしてこちらを見た。
してやったり。そういう類の気持ちが山姥切長義の中にもあることを認知して気が付いたら笑い声を抑えることが出来なかった。
「九重久遠、あなたが無理に蓋をしようとしたから、せっかくのモンブランが無様を晒している」
俺の同位体が見目好く作ってくれたものを無下にするものではないよ。
笑いながらそう言えば、九重も何がおかしいのかくすくすと笑い出し「手柄の横取りだ」と少しだけ皮肉げに視線をカフェの同位体へ投げているのが見える。同位体の自分が爽やかに微笑んで九重と手を振り合っているのがどこか悔しくて「俺もそういうのにすればよかった」と誰に宛てるでもなく一人ごちる。ここまでの会話が聞こえているだろう自分の同位体が苦笑いをしていた。能吏の自分しか見せてこなかった同位体の前で恥を連発して、次からどういう顔で会えばいいのか、悩みそうになって九重の満面の笑みに気付く。
「本作長義くん。これはきみが思っている以上にカロリーの暴力だから、気の迷いで注文すると大変な目に遭う」
「女性や若年者じゃないんだから、気の迷いで注文することはないよ」
「そう? 今のきみは帰り際に同じもの、テイクアウトしそうだったけど?」
「しないよ。気の迷いで口走っただけで、俺も飲み物を破棄するのは良心の呵責があるからね」
どう? あなたの味覚は充足したのかな。
開き直ってカップの蓋を外して直接ラテを飲み始めた九重にそう声をかけると彼は上唇の上にクリームの泡のひげを作って満足げに頷いた。
「九重久遠。あなたは本当に若年者そのものだね」
「まぁ、きみなどと比べられると清々しいまでに幼子だよ」
「逸話が力となるのなら、あなたもいつかその一つになるんだろう」
「ぼくは歴史に残りたいとは思っていない」
「じゃあ、俺の逸話の一部になってくれればいいじゃないか」
「……本作長義くん。それは、愛の告白かな?」
「は? 笑えない冗談を聞いてあげられるほど暇じゃないんだけれど?」
「無自覚が一番ひどい。まぁ、いいよ。いつかぼくがこの命を終えるまで、きみの逸話は幾つでも増やしていこうじゃないか」
日の本の国は想いの国だ。
人の願い、人の気持ち、人の祈りが集まって神となる。
かつて始祖の三柱から始まった国造りの物語から23世紀の現在に至るまで。
人は想いを込めて祈り、その強さに応じる形で神威は示されてきた。
善悪の別すらなく。ただただ強い想いだけを受け取って神の一種——付喪神、道具の妖異が神格を得て山姥切長義たちは刀剣男士と呼ばれている。本来の天津神たちから見れば微弱で何の強さも持ちえない小さな神を集めて、労使してこの国はまだ国体をなしているのが滑稽で、それでも何故だか同時に愛おしい。
想いを形どるのはいつだって物語で、それは心が生み出した幻影だ。
眼球、そして網膜。視神経の奥の奥でつながった脳漿だけにある真実を抱いて人は皆、今日を生きている。
幻影が実体を伴うとき。口伝で後世に残り、共通認識となったとき。
「そうだね。俺たちを作るのはあなたたちなのだから」
その果てしのない未来へは、今あるこの場所の足元を片付けていかなくては決して届かない。
「九重久遠。この身がある限り、俺もあなたの物語を覚えているよ」
己が身を顧みない官僚らしからぬ九重。損得勘定が下手糞で、情動的で標準偏差の中にいない九重のことも、誰かが覚えていてやりたい。誰もその任を引き受けないのなら。今ここにいる歴史調整課の山姥切長義の中でだけは遺しておこう。いつか政府の方針が転換して同位体の集合が義務付けられない限り。九重久遠は確かにここにいる。
すっかりぬるくなったブレンド珈琲の残りを飲み干して、正面を見ると九重はまだLサイズのラテと格闘していた。
そのまま待っているようにと言い残して、山姥切長義はカウンターに向かう。
政府関係者ならカフェの飲み物は何杯でも無料だ。
わかっていたから、店員の山姥切長義にブレンド珈琲を二つ、持ち帰りで注文した。店員の同位体は流石、彼の同位体だけあって意思疎通がスムーズで何も言っていないのにミルクとスティックシュガーを三つ紙袋の中に入れた。
「残業から解放されるといいね」
「ありがとう。是非、彼がそうしてくれると願っているよ」
そんな何でもない会話が成り立つのも過労で荒んでいる心には温かかった。
ルーチンワークは得意だと豪語した九重が瞬く間に煩雑な事務処理をこなし、そして可能な限りの自動化を図ってくれるまで残り一時間。取り敢えずはまぁ、稟議書の作成方法をOJTする段取りを考えている歴史調整課の山姥切長義なのだった。
大包平にとってその任務はある種、特命調査の一つにすぎなかった。 少なくとも自らの主から受託したときには「破棄された本丸に邪気が溜まっているのでそれを討伐してこい」という指示だった筈だ。大包平は自らの本丸の近侍になったこ ... ]]>
大包平にとってその任務はある種、特命調査の一つにすぎなかった。
少なくとも自らの主から受託したときには「破棄された本丸に邪気が溜まっているのでそれを討伐してこい」という指示だった筈だ。大包平は自らの本丸の近侍になったことはない。もし、近侍として政府に出入りすることがあれば、ある程度、下準備が必要な任務だと判じられたかもしれない。大包平に任を与えた審神者と近侍は今頃、狼狽えているだろうか。偽りの夜空の中に星一つ瞬かないのは希望など端からないと婉曲に告げられているかのようだった。
三日前。時の政府の管理官である九重何某という男によって六つの本丸に特殊な任務を与えられた。各本丸からは一振ずつ刀剣男士を選出し、ある執務室へ向かうこと。それだけしか明示されていなかったが、大包平の審神者は地縁から彼を指名した。地縁というのは付喪神である刀剣男士にとっては所謂ブースター装置のようなもので、縁ある土地では本来の力量を上回った活動を可能にする。20世紀の頃、国宝となり世界遺産ともなった白亜の城。そこに出向くのならば確かに大包平は適任と言えなくもなかった。かつての主との記憶の残る城を根城に邪悪なものが蔓延るのは確かに許しがたく、同時にどこか寂寥感を与える。寂寥感、などという感覚を得るぐらい大包平は今の本丸での生活が長い。初期刀、初鍛刀、初太刀。そのどれ一つにもかすらない己であったが、確かに帰属意識がある。審神者とは彼女が学生の頃に出会った。近侍と添い遂げるであろう審神者は大包平にとって確かに主で、同時に親のようなものでしかない。何かにつけ面倒を見てくれ、修行にも送り出してくれた。不甲斐なく燻っていた自分と向き合う力をくれたのは間違いないのだから、思慕はせずともそれなりに敬愛の念を抱いている。
今、大包平が二度と戻らなければ慟哭してくれる、と確信出来るぐらいには大包平の方としても信頼しているのだ。
悲しませたくはない。悲しんでほしい。同時に相反する感情が渦巻いて葛藤という概念を理解した。
そう、白鷺の城に巣食っていたのは邪気の範疇にはとても収まりきらない、邪神——複数の頭を持つ大蛇であり、人の作った刀剣の付喪神では到底及びもつかない、という現実の前で新たな発見をしたのである。
「九重。お前だけでも戻り、政府に増援を依頼しろ——!」
刀剣の横綱という別称を得てこそいるが、大包平の逸話はそれほど神域には及んでいない。
天下五剣であれば或いは可能性が残っているかもしれない。逸話には逸話をぶつける以外の方策はないと大包平も理解している。六振一部隊としてこの場所へやってきたのは、大包平以外は無名の——20世紀以降の刀工の作ったまだ新しい刀剣の付喪神だった。23世紀からすれば100年以上、過去の刀剣ではあるがやはり千年単位の逸話と比べると圧倒的に弱い。短刀、脇差と順に欠けては折れた。あとは九重を護衛する剣と大包平しか残っていない。
大蛇、というのは古事記より以前の——神話の時代の存在だ。
何かの手違いで時間を超えたか——或いはこの白亜の城に根差していた何かが空間を捻じ曲げ、連れてきたかのどちらかだが、遭遇したが最後で、捕捉され圧倒的な攻撃に防戦一方だ。今のところ、勝てる見込みはない。増援が来ても、勝てるという確証はないのもまた事実だろうから悔しさ余って憎さすら感じる。
「九重! 聞いているのか!」
「——」
「貴族なんだろう! 陰陽術の一つでも使ってさっさと逃げ帰れ!」
「——きみはどうするんだ」
九重久遠などという仰々しい名を持った青年は全体的に質素な姿をしていた。適当に流した黒の前髪。黒曜石の瞳も今は暗闇の中、輝かずに地面を射ている。服装は23世紀の官僚としてあるべき範疇に収まっているし、今、こうして徳川の世に赴くにあたっての和装もそれほど違和感を与えない。年のころはおよそ二十代半ば。判断力が不足しているのは若輩ゆえか。打刀のように見える刀剣を佩いているが、一切抜刀する気配がないところを見るに、あれは「なまくら」なのかもしれない。
大蛇はその膂力がすさまじいだけでなく、嗅覚も鋭い。
暗闇の中でもかなり正確に大包平の位置を捉えて攻撃を加えてくる。
認めたくはないが、防戦一方で大包平の刀身も幾らか欠けてきている。剣に癒しの力があるが、彼の疲弊から考えれば二振とも折れるのにそう時間は必要ではないだろう。
守るものを背負って戦うのは二倍以上の消耗を強いる。
戦力になれないのならせめて連絡役ぐらいは務めろと怒鳴ると九重の口からこの三日の間で聞いたこともないような低音が紡がれる。その感情を言葉で表現するのならまさに、憤怒以外の何物でもなかった。
「ぼくはきみたちのあるじに約束をしたんだ。『必ず刀剣はお返しする』と」
その約定はもう既に四度破綻した。
帰ることの出来ない——折れた刀剣の鍔を九重が必死の思いで拾っているのは視界の端で見た。
弱弱しい貴族の青年然としているのにそんなことには気が付くのだなと思ったが、結局は自己保身からだったのかと思うとどこか落胆の気持ちが湧いた。
「受け入れろ! お前はもう約束を破っている」
「少なくとも、きみと彼についてはまだ間に合う。ぼくは政府のものとして、約束を破るわけにはいかない」
「それでお前が死ねば俺の主が政府から非難を浴びるだけだ!」
「そうならないための方策を今、考えているんだ」
「剣! そこの馬鹿を連れて転送陣へ退避しろ!」
呆れて閉口することすら大包平は失念した。
約束。約定。その綺麗ごとの為に生死を左右するのは無駄死にを増やすだけだ。
刀剣男士として——或いは刀剣として。人ならざる経験と記憶を有しているからこそ、大包平は理解している。三人全員が無事で助かる方策などない。誰かを犠牲にしてでも、情報を政府に伝えるものが必要だ。
そうすれば。今の大包平が折れてしまっても。別の誰かがこの大蛇を仕留めてくれるかもしれない。
戦とは常に取捨選択の連続だ。だから、刀剣男士の二振は優先順位を一瞬で共有した。
昭和後期に鍛えられたという、大包平は名前すら知らない剣が九重の意思を無視して、彼の体躯を担ぎ上げる。
剣といえども刀剣男士。ほんの数メートルなら貴族の青年ぐらい抱えて走れるらしいのが今は唯一の救いだ。
担がれた九重が焦りと憤りを込めてこちらを睨んでいる。あぁ、これは本当に腹の底から憤っているな、と直感した。そうだ。それでいい。その目でこの刀身が折れるところまで見納めて23世紀に戻ってくれ。そうすれば——きっと、彼はこの大蛇を確実に仕留めるだけの戦力を伴ってこの戦場へ戻ってきてくれるだろう。
微かな希望を剣と分かち合って、転送陣が無事作動するまで大蛇を引き付けるべく覇気を新たにする。
神代の邪悪か何だか知らないが、この白鷺の城を汚すのも——何の取り柄もなさそうな貴族の青年を播州怪談の新たな一ページにするのも反吐が出るというものだ。実に業腹とはこういうことだろう。
人の子は——九重は刀に守られていればいい。
そんなことを思いながら刀身で大蛇の打撃を受ける。反動を付けられるほどの距離などないだろうに大蛇の尾打は重く、鋼にひびが入る音がした。そうだ。これでいい。これで、大包平は本分を全う出来る。
そう、思っていたのに。
「大包平!」
「——っ! まだいるのか! この馬鹿も、の、っ?」
縋るような声が聞こえた。
そして。
守護の剣の刀身と大包平の刀身が瞬間、入れ替わり、転送陣が効果を発動した。
最後に綺麗に微笑んだ昭和の剣が折れる瞬間を九重と大包平の視界に焼き付けて。鼓膜の奥の更に奥で「大包平様、あとはお頼みいたします」と聞こえたのすら幻のように一瞬で涙を流す暇すらなかった。
虹色の溢れる光が満ちて、白の世界を通る。そうして、生き残りの一人と一振は23世紀の九重の執務室の床に投げ出される。光輝が収束してお互いが満身創痍ながら存命であることを確認するや否や、大包平は腹立たしいやら情けないやら呆れるやら、悲しいやらで両手が震える。
「——九重。どうしてさっさと逃げなかった」
「気付いて、なかったのか」
「何に」
「大蛇は、一匹でなかった」
「——っ! なんだと!」
「ぼくが術式を構築していたら、全滅だった」
「何故それをさっさと伝えなかったんだ、お前は!」
「言えばきみたちは一振ずつ大蛇と対峙するだろう」
「当たり前だ!」
「だから、言わなかった」
言えなかった。すまない。
俯いて、すまない、を何度も繰り返す青年の肩もまた震えていることに気付いたとき、大包平の身体の震えは止まっていた。自分たちとは違う、たった二十数年しか生きていない若輩で命を三つ抱えて最善を選ぼうとしていた九重の重責は十分ではないかもしれないが想像が付く。
刀剣を借りているだけの彼に実戦経験などある筈もない。
23世紀のぬるま湯の世界で育って、人を斬ることも斬られることも何も知らないで指示だけ出している空っぽの指揮官だと思っていた。勝手に決めつけて、勝手に彼を侮っていた自分に気付いて九重だけを責めるわけにはいかないことを知った。
本来、審神者と刀剣男士の間には信頼関係があるからこそ最前線に出て行くことが出来る。
より多く、より苛烈な経験をしたものがより前に立ち、後背から来るものを守るのが23世紀の戦だ。
その、一番最初に必要な信頼関係がこの青年と自身の間にあったか、と問われると明確に否、だった。
信じられていないことは九重自身が一番よく知っているだろう。
それでも、最善を尽くすためにその命すら懸けて黙秘を選んだのは愚かもしれないが、それを責め立てなければ己を保てないぐらいには大包平も軟弱ではない。
天下五剣にこそなれなかったが、刀剣の横綱なのである。
心の広さには一家言ある。
力なく震える九重の両肩からゆっくりと手のひらを剥がして背中の方へと回す。そして決して優しくはないだろう両手でしっかりと九重の肩甲骨を抱き締めた。体格差で大包平の肩口辺りに九重の頭が収まる。
「——馬鹿ものめ、一人で背負えんことを一人で預かろうとするのは百年早いというものだ」
「——そうか、ぼくもまだまだ未熟だなぁ」
短刀。脇差が二振。打刀。折れていった20世紀の刀剣たちの名を確かめるように順繰り呟いて、九重は慟哭していた。衣服が汚れるだの、女々しいだの。思わないでもなかったが、頑なに最後まで抜刀しなかった九重にも何か事情があるのだろうことは理解出来てしまった。こういうときにもっと素直に憤れればいいのに、と大包平は自身の不器用さに苦笑いする。折れてしまった五振とはもう二度とまみえることはない。そのことを五回も説明し、五回分の惜別と叱責を受けるだろう九重のことを少しだけ不憫に思った。
「九重、あれは何だ」
「呪詛が、かかっていたんだ」
ひとしきり咽び泣いた九重の呼吸が落ち着いて来た頃を見計らって彼の身をゆっくりと剥がす。
目元が真っ赤に腫れていたが、黒曜石の瞳はまだ戦う意思を失ってはいなかった。そのことが意外で、内心「おや?」と大包平は胸中で首を傾げるが、今はそれを取り沙汰している場合ではないのもわかる。
九重が言うには徳川時代、怪談の類がまだ現役だった井戸に呪詛をかけた「何か」を沈めたものがいる、という話で調査が回ってきたらしい。城の井戸を穢すというのは即ち、水を介して城全体を呪うに等しい。邪気が蔓延るのに時間は必要ではなかった。生気を奪われた城内で更に呪術を行使した誰かがいる。勿論、史実にそんな記録はない。つまり、時間遡行軍が関係している可能性が高いとされた。遡行軍に対抗し得るのは刀剣男士か検非違使ぐらいだ。
最初はひとつの本丸に調査を依頼した、という記録が残っている。という言い方を九重がしたのに違和感がある。
「九重。お前の前にあの空間を担当したものがいる、という認識で合っているか」
「記録に残っているだけでぼくで六人目の担当だよ」
「なるほど、審神者でも政府の役人でもお手上げということか」
「陰陽寮の名簿に載っていたぼくが引き受けたけど、僕は審神者ではないからね」
誰かから刀剣男士を借り受ける必要性が生じた。そこまでは大包平も理解した。
「なぜ別の本丸から俺たちを集めようとした」
「——きみ以外の男士の本丸は内通の疑義がかかっている」
「! なんだと!」
「本当はもう一つ怪しい本丸があるんだけれど、六振を一部隊に編成する——内通者の刀剣男士が一堂に会するとぼくは暗殺されて終わる。無関係のきみがどうしても必要だった」
要するに相互監視の為に無関係の大包平が巻き込まれた、ということだ。命を懸けさせられた以上、これは十二分に怒っていい話だ。九重がもう少しふてぶてしいやつだったら躊躇いなくそうした自信がある。
「……その、もう一つ怪しい本丸というのはどうする気だ」
「別の担当者が調べるとしか聞いていない。ただ——」
「ただ?」
「折れた五振は全員『白』だった」
どうやって確認したのか、についても九重は誠実に説明してくれたが、大包平には凡そご都合陰陽術で調べただけ、としか理解出来ず、この点についてこれ以上言及する無意味さを察した。
必ず返すと約束した。その約束を反故にしたことを謝罪に行かなければならない。蒼白の顔面のまま九重が立ち上がろうとするのを腕を引いて留めた。
「九重。その顔で審神者に会うのはやめろ」
「けど——」
「その顔で来られたら審神者はお前を心の底から憎めん」
そんな憔悴して心の底から後悔をしている相手を憎悪出来るだけの相手ばかりとは限らない。九重が彼本来の役割を——大切な愛刀を喪った憎しみをぶつける相手として機能しないような状態で出向くな、と言えば九重は曖昧に微笑んだ。
「——きみは、意外と辛辣な性格をしているね」
「昭和の剣にお前を託された以上、俺にも道義的責任がある」
「いいんだよ。きみはもうきみのあるべき場所にちゃんと送り届けるから」
一つでも約束が守れて良かった。哀悼の意を灯した漆黒が不意に大包平の向こうのどこかを見ていると気付く。
調査地点から全員無事に帰還していたらきっとそんなことはなかっただろう。
大包平も何も気付かず、何の疑問も抱かずこの貴族と別離して終わりだった。
折れた刀剣たちのことを思うとこういう表現をするべきではないから胸中で思うに留める。
留めたが、大包平は確かにこの出会いを僥倖だと思った。
刀剣の付喪神としてこの世界に顕現した以上、大包平も感情という概念を内包している。
己の主以外に興味を抱いた人間は九重が初めてだ。演練相手も、政府の会合も何の感慨も抱かなかったのに、九重の存在が大包平の中で意味を帯びている。その答えを——理由を知りたい、と心の底から思った。
「お前の話を要約すると、つまり、大蛇を二匹も手引きした巨悪がいるということになる」
「そうだよ。その諸悪の根源は今からぼくじゃない担当官が処罰しに行くから、ぼくの仕事は君を送り届けてお終い——」
「という顔をしていないが?」
返す言葉で斬り付けると九重は黒曜石を大きく見開いて、そうして「きみも神様だったね」と苦く笑う。
「——本当に、辛辣だね、きみは」
「残念だが、手加減出来る性質ではないらしい」
「そうだよ。ぼくは約束を反故にさせられた責任を追及したいと思っている」
幻術が解けて和装から政府の制服の姿に戻った九重が上着の内ポケットから取り出したのは五つの鍔だった。それを見る九重の眼差しには純粋な憎悪が宿っていて、政府所属の貴族でもそういった感情があるのだと教える。
人である以上、誰かを強く憎むことがある。
そして、同時に。人はその鋼鉄の理性を以って憎しみを抑えることが出来ることも九重は体現していた。
「——その鍔を媒体に刀剣男士を顕現させても、それは『やつら』ではない」
「そう。あの瞬間に消えて、もう二度と誰も会えない。それが『死ぬ』ということだよ」
「お前も時間を書き換えたいのか」
「そんな馬鹿なことは思わない」
「——ほう」
「彼らはあの瞬間、ぼくやきみの為に命を使って、心の底からぼくたちのことを慮って散っていった。その尊厳ある最期をぼくが書き換えることが彼らへの冒涜にあたることぐらいぼくにだって理解出来る」
命が尊いのはその瞬間を生きたからだ。
この瞬間に「在る」ことこそが本質で、次の瞬間に「不在」を観測して過去の輝きはときを経るごとに増していく。
過去になった存在。決して書き換えられないからこそ確定し、美しさを増幅していく。
大包平が池田輝政を拠り所としていた原理とまるで同じように。
「だから、きみの言う通りなんだ」
ぼくはまだ彼らの主に会っていい存在じゃない。
ぼくの事情を汲んでほしそうな顔をして審神者に会うのは僕の贖罪でしかない。
「教えてくれてありがとう」
「罵倒されて礼を言うやつは初めて見た」
「安心するといい。意外と一定数存在するから、きみの長い刃生の中ではもう四、五人出会うんじゃないかな」
「それで? お前はどうするんだ」
「そう難しいことじゃないさ。仇討ちをしたい。それだけだ」
一部の揺らぎも、畏れもなく言い放った九重をまるで怪異に出会ったかのような感覚で見つめる。
何を言っているのだ、この馬鹿は。なまくらしか持てないような虚弱の身で大蛇を討つというのか。一体どんな縁故があればその戦力を調達出来るというのだ。陰陽寮の貴族というのはそれほど大した身分だったのか。
そんな思いが瞬間、大包平の中を駆け巡る。
「——やはりお前はまだ本調子ではないぞ」
「きみにだけは言われたくないな」
大丈夫だよ。今すぐ駆け出したりしないから、離してくれないか。
言われて大包平は九重の腕を掴んだままだったことに気付く。手のひらを開いて開放すると、九重の生白い腕には薄っすらと赤く跡が残っているぐらいだ。本当に本当の弱者だ。負傷した状態の大包平でも十分に首を刎ねられる。
だのに。
「仇討ちをするのに体力勝負じゃないと駄目だ、なんて誰が決めたんだい?」
今すぐ絶命させてもらった方が楽だ、と思ってもらいたいじゃないか。
ぞっとするような冷酷な笑みが一瞬だけ見えて元の質素な九重に戻る。
何かの見間違えのような錯覚すら抱かせる手負いの九重は政府官僚によく見る手のひらの半ばまでしかない手袋の具合を何度か確かめていた。
「——九重、お前、何をする気だ」
「大包平。そう怖い顔をしないでほしいな。上官殿から布都御魂を借り受けに行くだけだよ」
「待て! おかしなことを口走るのはよせ!」
「嫌だな。おかしなことなんて一言も口にしていないよ。布都御魂。借り受けに行ってくる」
十分すぎるほどおかしなことしか言っていない。
布都御魂と言えば神剣だ。神霊と言ってもいい。国家神道を極めた23世紀のときの政府の中枢に三振の神剣が祀られているのは大包平も何とはなしに知っているが、そのうちの一振——神の系譜の本流が易々と貸し借りされていいかどうかの常識ぐらいは明確に持ち合わせている。
「九重! 落ち着け、布都御魂は借りるものじゃない」
「大包平。いいかい、ぼくは九重久遠という人格と肉体を伴っているけれど、本質はただの情報集合体なんだ」
「うん? あぁ、いや? 何を言い出すんだお前は」
「それは別にぼくだけに限ったことじゃなくてね。陰陽寮の貴族なんていうのは皆ぼくの同族だよ」
つまり、九重の主張を容れるなら陰陽寮に所属している政府官僚は人間ですらないということだ。
審神者とは違う領域で人ではないとは察していたが、流石に実体を伴った情報の末端だと言われて即座に受け入れることが出来るほどには大包平も常軌を逸していない。だが、九重が嘘や偽りを言っているという雰囲気でもない。
「ぼくたちの上官殿は分霊、という言い方を好まれるね」
「分霊?」
「そう。きみたちと何も変わらない分霊。本体は歴史の中のどこかで一つだけ存在して、そこから無限に分離した百万通りの可能性の存在さ」
それを当世の言葉で表すのならプログラムやシステムと言ってもいい、とすら九重が言う。
生憎、大包平はその方面の知識がないから、情報処理の仕組みなどを説明されたところで到底理解が及ばない。定義を深堀りするのをやめて、例え話を消化することに努める。
「餅は餅屋というやつさ。大蛇を狩るのなら霊剣と相場が決まっている。いわば、ぼくたちは霊剣の写しの写しになれるということかな」
「写しの写し……最早別の刀剣の気もするな」
「きみは本当、見かけとは違って細かくて真面目だね」
「俺のことはどうでもいいだろう! それで? 布都御魂を借り受けて大蛇を討てると言うのなら何故、最初からそうしなかったんだ」
「ぼくたちは専守防衛なんだ。防衛するためにしか戦力を行使出来ない」
そうでなければ専横の為に霊剣の写しの写しを作ろうとするものが後を絶たないのは自明だ、と九重は言う。
要するに先んじて威嚇する為や純粋な攻撃の為に霊剣を持ち出すことは出来ず、自らを攻撃した相手にだけ霊剣を振るうことが許されている、という理屈らしい。それはそれで偏った思想の一つだと大包平などは釈然としなかったが。
「なぜ、それを俺たちに説明しなかった! そういう手段があるとわかっていれば誰も折れるまで戦ったりは——」
「神剣を行使するプロセスは本来陰陽寮の外に漏らしてはならないんだ」
「今! 俺に聞かせているのはだったら何なんだ!」
「……ぼくの小さな自己満足だよ。あとで、きみには忘れてもらう」
「お前……!」
「許されないんだ! 政府が神剣を持っているとか、必要に応じて使えるだとか! そんなことが明るみに出れば無用な争いを助長してしまう!」
力とは守る為に行使されるべきだ、と九重が半ば叫ぶように言い切る。
その認識について刀剣男士である大包平も否定する要素はない。ただ、共通認識があればもっとお互いに生きやすいだろうと言っても九重は規則だからと頑なに拒絶する。
「きみも分かっているだろう。人が互いに信じあうには秘密の共有が一番結び付きが強い」
「こんな暴露のされ方で俺がお前を信じるとでも?」
「きみはもう本質的に『知らなかったきみ』に回帰することはない。それでも、秘密を秘密のまま一人で抱えきれるものはごく限られている。人という存在そのものが脆弱性を孕んでいるんだ。だから、本当に機密性を保持したいなら秘密は存在そのものを語らない、以上の防衛手段がない」
まさに今、その脆弱性が露わになっているだろう?
秘密を知ればその情報を行使したいと思うのが人間の心理だ。
それは大包平も同意する。ただ。
「そういうことはもう少しましな顔で言え、この大馬鹿もの」
九重の張り詰めた糸を断ち切ってしまう寸前まで追い込まれた表情を見ていて、彼の危うさを感じはするもののこれ以上責め立てる気持ちは到底湧いてこない。そこまでを計算した言動なら大した扇動者になれるだろうが、どうにもこれまでの九重を見るに彼自身、そういった気質でないのは自明だ。溜め息を漏らすしかない。
「座れ」
「いや、だから——」
「座れと言っている」
「……ぼくは謝らないし、布都御魂は借り受けるつもりだ」
「別にそんなことはどうでもいい」
そうだ。そんな常識だの概念だのの話がしたいわけではない。
秘密を背負いきれるものは多くない、と九重が言った通り、彼も秘密を持ち続ける重圧と戦ってきたのだろうことは想像に難くない。それを束の間——最終的に記憶から消し去るという人道的に最低の行為を伴ってまで共有したのは、多分、おそらく、きっと、九重が九重なりに大包平のことを信頼したからだ、と大包平は判じた。
信じた相手を次の瞬間には裏切って罪悪感に魘されながらそれでも道義的に責任を果たそうとしているこの馬鹿ものの気持ちを「上官殿」は汲み取ってくれるのだろうか。
もし、そうなら。九重はきっと秘密の暴露なんてする必要はなかっただろう、と察する。
数多の情報が通っていく場所で誰とも相容れずにただ浪費される「死」を抱え続けている。次代に受け継ぐと不利益なものを只管抱えてそのまま九重本人すら死に行こうとしている。
その在り様は人としてとても美しく、そして同時にとても哀れだった。
「九重、俺の記憶を消したいのなら好きにしろ」
「……言われずとも」
「ただ、一つだけ約束しろ」
「……何を?」
「お前が大蛇を討つときに俺も連れていけ。主のところに返すのも、記憶を消すのもその後で問題ないだろう」
「いやだ」
「いやだ、じゃない。お前の都合ばかりが叶うわけないだろう。きちんとお前も対価を支払え」
巻き込んだのだから最後まで見届けさせろ、と言外に求めるともう一度はっきりと「いやだ」が返ってくる。
「九重」
「だって、きみはもう『重傷』なんだ。何か手違いがあってきみまで折れてしまったらぼくはもうこれ以上は抱えきれない」
何に固執しているのかと思えばそんなことか、と思うと同時に大して知りもしないのに九重らしい言い分だ、と思って大包平は自身の認識を少し改めた。
大包平の目の前で五つの命が失われた。
九重はもっと以前から命の失われる瞬間に立ち会ってきたのだろうか。
時間遡行軍だ、検非違使だ、と斬り捨ててきた相手にもそういう瞬間があったのだろうか。
考えれば考えるほど答えが出ない。
それでも、大包平は知っていた。その答えを知らずとも己の道を走っていける、ということを。
そして、この目の前の馬鹿な青年には今、大包平の助力が必要だ、ということも。
「仕方ないだろう。主のところで手入してもらって、もう一度俺をお前に貸し与える理由がない」
「だから! ここで——」
大包平の記憶を消して、一人で大蛇を討ちに行く。
本当に九重がそれを望んでいるのならこんな問答が成立する筈がないのだ。
大包平の気持ちなどどうでもいいと心底思っているのなら、言い訳をする必要はどこにもない。
大包平が納得しなくても、ここで無視をして勝手に好きなようにすればいい。
だのにそうしないのはきっと、九重の中で迷いがあるということを意味している。
「同情を引きたいだけだったのか?」
「——なに、を」
「それの何が悪い。疲れているなら疲れていると言え。一緒に苦しんでほしいならそう言え。愚痴の一つも言えないで完璧な人間のような顔をするのはやめろ。お前の正体が何なのかなど俺は興味がない。九重久遠という馬鹿な政府官僚の知人が出来た、ただそれだけだ」
ぽかん、と間の抜けた顔で九重がこちらを見ている。
まるでこちらが馬鹿なことを言っているかのような態度に少し腹が立った。こんな馬鹿な会話をする必要が出来たのは誰の所為だ。お前じゃないのか。言ってやりたくて、言わない方が優しさだと思って言わずに堪えた。そのことを九重はどこまで理解しているだろう。
世界の全てを知っているような顔をして、政府の一部だの分霊だのと嘯いて、彼が何を守りたかったのかはまだ知らない。それでも、大包平の世界に九重が現れたことまでなかったことにされるのは納得がいかない。十人並みの同情。それでいいじゃないか。こんなに馬鹿なほど真面目に生きている馬鹿がちょっとぐらい報われてもいいじゃないか。
その一筋の僥倖になれるというのなら、それはやはり人として誇るべきことであり、大包平の美しさを一つ裏打ちしてくれる要素になるだろう。
「九重。俺は試されるのには慣れているんだ」
「刀剣の——横綱、だから?」
「天下五剣になれなかったから、かもしれん」
自分を試して、試して、鍛えて、励んで、期待して、裏切られてまた期待して。
人より多く傷付いてきた自負がある。
それでもなお、今、ここで九重の双眸と向き合っていられるのは審神者が——大包平の主が大包平を見つけてくれたからだ。九重にはそういう存在がないのだろう。九重の刀剣男士になってやることは出来ない。それでも。主従でなくても、人は人と信頼関係を築いていくことが出来る。その優劣を競いたいのなら、勝手にすればいい。優越感に浸りたい気持ちも否定しない。馬鹿げたことを言っている。それでいい。
「九重。約束を守れなくても——お前の人生がここで終わるわけじゃない」
約束を反故にした。その罪悪感を背負っていくことすら多分自己満足だろう。
審神者に憎まれれば心地よい傷心に溺れていられる。許されていないと思えば思うほどその味は甘いだろう。
「お前が本当にしたいのは何だ? 世直しか? 人助けか? 違うだろう。そんなことの為にお前は生きているのか?」
「——ない」
「うん?」
「わからないんだ。どうしてきみとこんな立ち入った話をしているのかも。本当にぼくが仇討ちをしたいのかも」
力なく呟く九重の表情に誇張も欺瞞もなかった。心の底から迷っている。それが伝わってきて、この男に会ってから初めて、本当の九重を見たような気持ちすらする。
「取り敢えず、だ。大蛇が跋扈しているのは問題だ。討伐してから、俺の記憶を消しても間に合う」
「——きみは変わったやつだな」
「お前ほどじゃない」
「普通、こういう頭おかしいこと言ってるやつは煙に巻いて適当に話合わせてサヨウナラだ」
「俺がそんな狭量に見えているのか? 心外だ」
実に、心底心外だ。
立腹したような顔を見せると九重は黒曜石の瞳をあちらこちらに彷徨わせて、最終的に剣呑さではなく穏やかさを灯して柔らかな表情で問う。
「布都御魂、本当に借りて来るけど……見たい?」
「ああ! もちろんだ!」
「こういう話をしておいて何なんだけど、大蛇って討伐しなきゃ駄目かな」
「政府の人間の言うセリフではないぞ」
「まぁ、そうか。そりゃそうか」
じゃあちょっと上官殿と話してくるから、そこで後十分ぐらい座っててよ。
言って九重は何かの重圧から解放されたような顔つきで執務室を出ていった。
布都御魂が実在することも、その権能を行使出来ることもまだ未来のどこかにしかない大包平の中で、九重久遠が審神者の次くらいに重要な人間になるのはそう遠くないような気がしているのだった。
あなたは一目惚れ、という恋の始まりを許容出来るだろうか? 残念なことにその是非を問うより先にその境遇に身を置いていた俺からすると、不誠実と詰られても人は見た目が十割と笑われても何の否定も出来ない。 錯覚だ、忘れろ、冷静 ... ]]>
あなたは一目惚れ、という恋の始まりを許容出来るだろうか?
残念なことにその是非を問うより先にその境遇に身を置いていた俺からすると、不誠実と詰られても人は見た目が十割と笑われても何の否定も出来ない。
錯覚だ、忘れろ、冷静になれ。何とでも言うといい。俺はこの恋を叶えて愛にすると自分に誓った。
その日から──あの日から、俺は二条幸篤の為だけに生きている。
両親は昭和によく見たどこにでもいるような一方通行の夫婦だった。
九時五時でカレンダー通りの固い仕事に就いている父は一家の長で、母親はいつも遠回しに父親のことを肯定する。
酒の類を嗜まず、暴力を振るうわけでもない。ただ、現代の価値観で言うと明かなモラルハラスメントがあったし、何なら経済DVだってあった。女のくせに。俺ほど稼げるのか。黙って俺の言う通りにしろ。会社での鬱憤を晴らすかのように傍若無人に振る舞う父親のことを尊敬したことは一度もない。通知表を持って帰っても一度も自分で中を確かめたりもしないくせに、全てが最高評価ではないと母親づてに知ると叱責される。
今なら、きっと、こう反論出来ただろう。あんたの息子だろ? そんな大した遺伝子持ってるつもりかよ、とか。
賞賛は全て父親の功績。批難は全て俺と母親の不徳。
そんな家庭で育って「真っ当な息子」が育つのがどれだけ無理のある願望なのか、彼はきっと一ミリすら考えたことがないのだろう。
中学のときは学年首席。高校は地区一番の進学校。大学も──となった段階で俺はもう限界だった。
大学なんて行ってどうなる。またぞろ体のいいマウントの材料になるだけで、俺には何の利もない。
わかりきっていたから、センター試験──今では共通テスト、と言うのだろうか──の当日にばっくれた。
ばっくれて、でも今まで優等生の人生を歩いてきたから適当な時間の潰し方もわからない俺は適当に昼の繁華街を歩いていた。
そうしたら出会ったんだ。
俺の「運命」ってやつに。
古風な装飾の施された外観。窓ガラスは精緻な細工を施されて絶妙に室内を見通せない。客が出入りする度にからん、ころんと軽やかな音が響くその喫茶店の奥から聞こえてきたのは柔らかなサクソフォンの音色で、気が付いたら大した小遣いも持っていないくせにその店に飛び込んでいた。
この店がジャズ喫茶だと言うことは後になってから知った。
ただ、そのとき、店から溢れてやまない音楽とその情熱を浴びて俺は決めた。
音楽と共に生きたい。
楽器を演っていたわけではない。ただ、譜面は読めるしピアノを叩くことぐらいは出来る。音楽をたくさん聴いてきたのか、と言われると苦笑するしかない。いや、実は古今東西、どの音楽とも無縁に近い人生だったのに何が俺を駆り立てるのか。
ウッドベースの柔らかで穏やかな音色。
ドラムのしっとりとした安定感。
ピアノの切なげな歌声をサクソフォンが一つに織り上げて楽曲を成す。
入れ替わり立ち替わり演者が変わるのに俺は試験が終わる筈の時刻になってもまだ、この店を出ようとすら思わなかった。
変な言い方になるが、新世界だったのだ。
ジャズのことを何も知らない俺はアレンジのパートに特に魅入られた。
誰も彼も自由を謳歌しているのに全員が互いを尊重している。
この空間にずっといたい。もっと聴きたい。俺も──あんな風に生きてみたい。
この後、帰宅しても碌でもない結果しか待っていないのはわかっていた。
そのことも手伝って俺はマスターの好意で無限に注がれる──ということも気付いていなかったぐらい無知だった──お冷を何杯でもお代わりして、結局、最終電車で帰宅した。
今でこそ成人年齢が十八歳だから、未成年ではない、などという詭弁もあるが当時の俺は未成年そのもので制服姿だ。当然、最寄駅の交番で補導され、母親だけが謝罪に駆けつけた。父親の姿はない。その瞬間に確信した。彼には「優等生の息子」というアクセサリーが必要だっただけで、「俺」のことには全く興味などないのだ、と。
お母さんが一緒に謝ってあげるから、という母親の説得も実に妙だ。
俺は何も悪いことはしていない。
ただ、試験をサボって喫茶店で水を飲んでいただけだ。
無銭飲食を働いたわけでも、人を傷つけたわけでもない。
まぁ帰る時間が遅くなったことで心配をさせたかもしれないが、それならどうして迎えに来ない。
俺はあんたのアクセサリーじゃないし、観賞用の芸術品でもない。
謝らないし、大学にも行かないし、浪人もしない。
お前の所為で恥をかいた、謝れ、だなんてどこの無法者の言い分だ。
俺は現代の日本国の法律に従って生きている。
誓って法に悖ることはしていない。
だから、謝らない、と言うと母親に頬を打たれた。
「哲、意地を張るのはやめなさい。謝らないで、どうやってあなた生きていくの?」
お金のことだってあるでしょう。
守ってあげられるのはお母さんだけなんだから。
その脅迫にも近い謝罪の強制にどれだけ俺が苦しんできたのかをこの人はわかっていない。
ずっとそうだ。
間違ったことをしなくても、父親の機嫌が悪ければひたすら謝って、俺を庇ったかのような偽善に酔いしれて「いい母親」を演じてきただけのあんたに何がわかるんだ。母親が一方的に不条理に晒されて生きているのを見て育った子供の心理状態について考えてくれたやつがいるのか。
俺が、どれほど無力感と自己否定に苛まれてきたかを知っているだろうにまたそれを学習させようとする。
ある意味においてこの二人は似た者夫婦でしかなかった。
そのことを知って、俺がどれだけ虚無を抱いたか、おそらく両親はどちらも知ることがないだろう。
「いいよ、別に。俺が死んでも母さんの所為じゃないし、どうせあんたたちには最初から『息子』なんていなかっただろ」
いたのは賞賛を受ける為の装飾品だけだ。
だから。
「高三の一月にこんなこと言うのアレだけど、俺、高校も辞めていいし、大学には行かない」
「ちょっと謝るだけがそんなに嫌だって言うの? わがままもいい加減にしなさい」
「俺は──育てて『やった』なんて言われる為にずっと我慢してたんだけど、へぇ。わがままなんだ?」
「哲! いい加減に──」
「いいよ。別に。お互い理解し合えないし、お互い邪魔なんだし、俺、家に帰るのやめる」
文系の俺には地学の嗜みが足りず、理屈はわからないが、どうしてだかセンター試験のある週末は寒波がやってくる傾向にある。
このまま気温の下がる屋外にいれば凍えて死ぬのは明白だったが、足枷をされているのはこちらなのにこれ以上足枷そのもののような扱いを受けるのは不本意だった。
分かり合えないこと自体には罪はないだろう。
そういう相手もいる。
それでも、一方的に理解を押し付け、理想を投影されるのは人としての権利を失していると俺は気付いてしまった。
「じゃあね、母さん」
それだけを端的に言い残して、俺は暖房の効いた交番を出た。手荷物は最小限。参考書や問題集なんて後生大事に持ってたって何の役にも立たない。鞄の中で嵩張ってどうしようもないのに捨てようとしない時点で俺の誠実さを評価して欲しかったものだ。
そんなことを今更考えながら夜の帳の中を歩いた。雪が降らなかったことだけは神様に感謝してもいい。
財布の中にはまとまった金すら入っていなくて、タクシーを捕まえることはおろか電車に乗ることも出来ない。まぁ、終電で帰ってきたのにそれ以降の電車なんてあるわけもなかったが。
芸能界の表舞台で生きているとどうしたって偶像を求められる。 印象を売る商売だとわかってここにいるから、今更、本当の俺を知らないくせに、だなんて感傷に浸らないぐらいには俺にも分別というものがある。事務所の指示で、俺の意思 ... ]]>
芸能界の表舞台で生きているとどうしたって偶像を求められる。
印象を売る商売だとわかってここにいるから、今更、本当の俺を知らないくせに、だなんて感傷に浸らないぐらいには俺にも分別というものがある。事務所の指示で、俺の意思で、世間の声で。俺はいつだって二条幸篤という偶像を演じている。
最初にこの世界に足を踏み入れたときはまだ何もわかっていない六歳の子供だった。
両親が芸能事務所を運営していて、あるとき音楽番組の余興として俺が呼ばれた。
特別、歌が上手かったわけでも演技力があったわけでもない。ただ、所謂「芸能事務所のイケメン社長」の息子を商売の材料として提供した。ただそれだけのことだ。
父親は別に俺を芸能人にしようとは思っていなかったと思う。
普通に学校に通わせてもらったし、勉強も運動もそれなりに頑張るように教育された。
友達も大事にしろ、と教わったのに実は人見知りの俺では深く狭い人間関係しか構築出来なかったが、そのことについても両親は特に何も干渉してくることはなかった。
ときどき、父親の仕事場に行くと画面の向こうに見る芸能人たちがいたが彼らは「社長の息子」である俺を邪険にすることはない。わかっていたからときどき——本当にときどき、ちやほやされたくて父親の仕事中に事務所に行ったりもした。
芸能人になりたい、と最初に思ったのは父親の事務所に出入りしている「関係者」の一人がとてもきらきらしていたからだ。彼は雨森哲、という個人の音楽家で俺とはたった八つしか離れていないのにとても大人で格好がよかった。雨森の作る音楽は幅広く、まさに作曲業界のオールラウンダーと言えるだろう。煌びやかな容姿の芸能人と見比べると当然、見た目は劣るのに俺の目には誰よりも格好よく見える。そんな雨森の楽曲を歌う歌手やアイドルたちを羨望の眼差しで見ていることに気付かないほど俺の父親は愚昧ではなかった。
あるとき「あれの曲を歌いたいのか」と端的に問われる。
歌うことが出来るのか、と質問に質問を返すと俺次第だ、と父親が答えた。
それからだ。
俺は父親の事務所に所属して学業の合間に必死にレッスンを受けた。
大学までは卒業する。その条件を吞んだ俺の奮闘が評価され、十八歳になる年に俺は雨森の楽曲で五人組のアイドルとしてデビューした。憧れの、キラキラして、なのに綺麗で強くて格好いい、雨森の楽曲に俺は歓喜した。歌で踊りで、演技で舞台で。俺は——俺と仲間たちは見事にトップスターへの階段を駆け上がり、その年の新人賞を総なめにした。
それから二年が経ち、俺は抱かれたい男性芸能人No1という偶像を纏うことになる。更に二年、その座を防衛した。
自分で言うのもなんだが、割と整った顔立ちなのは知っていた。
父親とそっくり、とあちこちで言われるものだから、「イケメン社長」に似ている=イケメン、の方程式で何の疑いもなくその事実を受け入れている。
偶像を演じる為にいろんな経験をしたし、グループでは格好いいアイドルの担当だからそういう役も多かった。
紳士的でスマート。クールなのに情熱がある。そんな絶妙な自分を演じながらいつしか俺は気付いてしまった。
俺が演じているのは雨森哲そのものである、と。
女性に丁寧に接するのは男として当たり前だと思っているし、そういう振る舞いを出来るように教育してくれたのは他でもない両親たちだが、言葉の選び方、視線の動かし方、ふとした仕草。そういうのは全部雨森の真似をした。
雨森の面影を演じれば演じるほど俺の人気が高まっていき、次第に俺は俺を介して雨森が称賛を受けている、という妄想を抱くほどになった。
思えばこのときにはとっくに雨森の術中に落ちていたのだろう。
音楽家として、俺の仕事を見に来てくれている。スタジオでホールで、ライブ会場の関係者席で。雨森が俺の現場にいることを当たり前だと思っていた。
「哲、今日の俺、どうだった?」
「いいんじゃないか。強いて言えばもう少し感情表現を丁寧にしてくれると助かる」
「例えば?」
「サビの入りがこう、だろ?」
「あぁ。うん」
認めるところは認めて、なのに更なる改善点を具体的に教えてくれる。
父親もそういうタイプの社長だったが、雨森は音楽の表現という面では父親よりも少し厳しい。それもグループの為に言ってくれているんだ、と信じていたのにいつからか雨森のレビューを聞くためだけに偶像を演じている自分に気付いてしまった。善意に個人的な打算で挑んでいる自分が最低すぎて雨森の顔が真っ直ぐに見られないぐらいまで拗らせて、ようやく俺は知った。
この感情が、特別な想いなのだと。
「アツ、さぁ。もういい加減諦めなよ」
「いい加減、告れって」
「純愛拗らせてハンザイシャになるなよー」
「ドンマイ、アツ!」
「——っ! お前ら、他人事だと思いやがって!」
音楽番組の生出演が終わって五人一組の楽屋に戻ってくるなり、メンバーが揶揄ってくる。明日は俺の誕生日で、この後、ファンミの打ち合わせを予定していた。再度顔ぶれを揃える手間を省くために、テレビ局側が好意から楽屋を貸してくれる、というのでその温情に甘えている格好だ。
彼らは俺が雨森に片思いしていることに気付いていた。しかも、俺が自覚するよりかなり前の段階から。
「アツ、俺らが分かってるってことは哲さんにもばれてるってことだからな?」
「いいじゃん。もうこの際、アソビの恋愛楽しめよー」
雨森の観察力は高い。まるで空気を全て把握しているのじゃないかと勘違いするぐらいには俺たち一人ひとりのことをくまなく見ているところがある。そして、彼はとてつもなくクールだから野暮なことを指摘してこないだけで、俺の気持ちに気付いている、というのも大体は同意出来た。
ただ。
「わかってる——じゃなくて! 遊びの恋愛とか普通に言うなよ! アイドルだろ!」
「アツー、真面目も大事だけど現実も受け止めなー」
「初穂。流石に遊びの恋愛は僕もどうかと思うけど、拗らせて社会的信用失う前にどうにかした方がいいのは同意する」
アイドルはイメージ商売だ。
でも、俺たち「五摂家」はファンが恋人、というスタンスのアイドルではないから恋愛をするのは自己責任だと社長である父親から通告されている。つまり、俺が雨森に告白して、恋愛関係に発展しても契約上何の問題もない。
拗らせすぎて重いやつになって、引き返せないところまで来て、仕事に影響を出す前にさっさと行動しろ、というのがメンバーたちの総意らしい。
本当に俺としては不本意でしかないが。
「っていうかさぁ、アツは哲さんのどこが好きなわけ?」
「えっ? はぁ?」
「そーそー。あの人超マイペースじゃん。もし付き合えても、なんか楽しくなさげじゃね?」
「初穂、それ以上哲のことディスったら弁当の梅干し二度と食ってやらねぇからな」
「えっ! ちょっ! アツ! それはヒキョー!」
「はいはい。アツも大人げないこと言わない。初穂も好き嫌いいい加減やめなよ」
「俺は——!」
別に本当に鷹司の弁当の梅干しを拒否したいわけでもないし、くだらない報復をしたいわけでもない。
ただ。雨森のことを悪く解釈されたくないだけだ。
そのことが既に恋は盲目状態なのだと気付いていたが、俺は気付かない振りをしていた。
本当は知っている。
雨森にとって俺は数多いる「楽曲の納品先」の一つで、彼は仕事が丁寧だから俺たちのパフォーマンスを見に来てくれるだけだ。わかっている。
「——もし、告って哲の歌を歌えなくなるのが嫌なだけだ」
「哲さん、そういうのしなさそうなタイプっしょ」
「そーそー。あの人仕事の鬼だから、シジョー?をはさんでくることねーって」
「あと、個人的に俺としてはお前の愚痴をこれ以上聞きたくない」
「それは僕も同意。何? 抱かれたい男性芸能人のディフェンディングチャンピオンなのに今更恋愛童貞なのばれたくないとか?」
言いたい放題、散々けなされても本当に否定されている、とは感じない。絶妙な加減で揶揄ってきているだけで、本音は心配してくれているのもわかる。わかるが。
「——お前ら、デリカシーとかいう機能を標準搭載してからアイドルやり直してくれ」
言い方、という概念を学んでほしい。そう伝えると十億年後に検討すると鷹司が快諾した。要するに俺に遠慮をする気など毛頭ない、ということだ。
純情でもなく、破天荒でもない。ビジネスパートナー的な距離感でもないし、どちらかといえば多分五摂家のメンバーは悪友と表現するのが一番適切なのだろう。
そんな悪友たちが願っているのは俺の玉砕ではなく、円満な未来なのはわかっている。
それでも。生まれて初めて憧れた人に好意を告げるのはなかなか勇気が必要で、もし、たくさんのうちの一つとして受け流されたとしたら、俺はどんな気持ちになればいいのかがわからない。
それを表すのが恋愛童貞という言葉ならそれでいい。
それでも。どうしても。雨森の特別になりたい。あの広い世界の特等席に座りたい。
そして。雨森が誇れるような俺自身になりたい。
ただ、それだけなのだ。
「それだけ、って言うなら言いにくればいいじゃないか、二条君」
「あんたにそれが言えるなら俺はこんなところで悩んだり——えっ? 哲……!」
仲間たちに向けて心中を吐露していただけの筈が、気付いたら渦中の男がいる。
ナチュラルに会話を続けそうになって、我に返った俺の頭の中は真っ白だ。
どうして、と、なんで、と、はめられた、を無限に反復して善後策を講じることも忘れる。
どうしよう、このままでは俺の人生は破滅へ一直線だ。聞かせるつもりじゃなかったから全く何の格好もついていない。人生初の愛の告白が騙し討ちで終わるだなんてダサいを通り越して無様だ。
もっと、ちゃんとシチュエーションを整えて——いや、そんなことに拘泥している場合じゃない。
今しなくてはならないのは雨森の誤解を解くことで、そうして自らの心の傷口に塩を塗り込んでまで俺は現状維持を望もうとしていた。残念なことに俺は業界でも屈指のポーカーフェイスで、こんなに頭の中がぐちゃぐちゃでも表情は平坦そのものにしか見えないだろう。仲間たちと両親と——そして背後に立った雨森哲だけが俺の感情の振幅を正確に見抜く。わかっている。表情に出ていなくても俺の動揺を見抜けないやつはここにいない。絶望の強さに意識を手放してしまいたいぐらいだった。
「九条君、メールありがとね。おかげで面白いものが見られたよ」
「哲、違うんだ……違わないけど、いや、やっぱり違うんだ……」
「二条君。じゃあ俺の身勝手な願望が幻聴になったのか? それはそれで面白い。俺はいつだって君の一番になりたかったんだからね」
その言い分ではまるで雨森が俺に対して気がある、とでも言わんばかりで頭の中がぐちゃぐちゃだ。
一番になりたい? そっちにその気なんてないくせによく真顔で言えるものだ。
雨森哲を知らない業界人なんて今やガラパゴスと言われても何の反論も出来ない。
正当な報酬を支払えば誰にだって楽曲を提供するし、雨森はレコード会社の組織すら無視する。
個人音楽家で確定申告も納税もスケジュール調整も全部自分一人でこなしてしまうこの不世出の天才のことを知らないで業界を渡っていくことは出来ない。雨森が曲を提供するドラマの脚本を書きたい演出家なんて石を一つ投げただけで日本庭園の錦鯉よりなお集まってくる。
だからだろう。最近ではスタッフが全部揃ってからでないと内部的にすら雨森が主題歌を書くと発表されない。
その中で、デビュー曲からずっと一貫して雨森の楽曲を歌い続けている俺たち「五摂家」のことを悪し様に罵るやつがいることを俺も知っている。それでも俺たちは屈しなかったし、そのうえでファンも付いた。雨森は何も変わらず俺たちに曲を書いてくれる。それだけでも十分奇跡なのに、こいつは余裕そうな不敵な笑みで俺の失態を弄ぼうとしている。
「哲、あんたらしくもない悪趣味な冗談で対抗してくるのはやめろよ」
「冗談? 君には俺が冗談が言える男に見えるのか?」
「言えるだろ! あんたは、そうやってあっちこっち期待を持たせて遊んでるくせに、よく言う」
「遊んでなんかいないさ。俺は人を褒めるのが好きなだけで、他意はないし——」
「ないし?」
「君がちゃんと期待してくれてて最高の気持ちさ」
俺の楽曲には愛があっただろ? 歌っている君にちゃんと届いていて何よりだよ。
どうしてこいつはこうも歯が浮くようなセリフを連発して真顔で言えるのか。
気恥ずかしいとか、白々しいとか思ったりしないのか。
いや、それ以前に。
「——っ! だから!」
「おっと。雰囲気が雑なのはお好みに反するのかな? じゃあ仕切り直してこういうのはどう?」
感情を持て余して半ば腹立ちさえ覚えながら後背の雨森を振り返ると、五摂家の仲間が雨森越しにわくわくした顔で状況を見守っている。まるで五摂家の楽屋だということすら知らないと言わんばかりに雨森が洗練された態度ですっと身を折る。
「二条幸篤君。御父君には君が二十二になったら好きに口説いていい、と許可をもらってるんだ。おっと、そろそろ日付が変わるね」
ハッピーバースデー。俺の愛の沼に落ちた気分はどう?
言いながら、雨森はジャケットのポケットから深いグレーの色をしたベルベットの箱を取り出して片膝を付く。
そしてまるでそうすることは自然だと言わんばかりに箱を俺の方に向けて開いた。
その中には俺の誕生石を戴いた美しいプラチナの指輪が鎮座している。昔から経済的に豊かな人生を送ってきたと自負している俺にとって、この指輪が質の悪い冗談で用意出来る額かどうかは一瞬で判断出来る。
これは、ガチじゃないと買えないやつだ。
「——哲、あんた、本気……なのか?」
「いやぁ、流石に十年も待つのはなかなかに骨が折れたよ」
君の御父君はなかなかに聡明だね。十年も待たせれば諦めると思っておられたらしい。
加えて昨今の若者の精神的成長も加味している。なかなか組織の長としていい器だ。
雨森は彼の倍は生きているだろう俺の父親を勝手にそんな風に解釈した。
俺と雨森の十年はずっと付かず離れずでまともに会話をしたのは小学生の頃が最後だ。
それはちょうど十年前の記憶で、あの頃、急に雨森が遠く離れてしまったのは俺に興味がなくなったからだと思っていた。なのに。雨森はそれは思い違いだと言う。
「今まで、ろくに祝ってくれなかったくせに」
「そう? じゃあ君の見落としだ。十回分の俺のプレゼントを思い出の中から探してほしい。これがまず一つ目の宿題」
「宿題——?」
「そう。そしてこれから君への課題。俺の愛の告白への返事は? イエス? ノー?」
「ほ、保留ってあるのか?」
イエスと即答したいところなのに頭がめちゃくちゃでとても判断が出来ない。
雨森のブラックジョークだったらどうしよう。
誕生日のサプライズで本気じゃなかったらどうしよう。
なるほど、俺は確かに恋愛童貞そのものだ。
演技の上では美少女や美女を翻弄してきたくせに、自分のこととなると全く正常な判断が出来ない。
躊躇って勢いで返事をしないぐらいには俺も社会人だ。
持ち帰って検討する。を提案すると雨森は柔らかな笑顔で承諾した。
「いいよ。別に。保留ね。じゃあ、二つ目の宿題ってことで」
「いいのかよ!」
「二条君。よく考えてみたまえよ。十年待つのも十年三か月待つのも十一年待つのももうこの際、誤差だろ?」
おじさんのときの流れはゆったりしているのさ。
泰然と笑いながら言う雨森はやっぱりどうしてもルックス以上の格好良さを持っていて、この笑顔を自分だけのものにしたいと思った。既にそうなっている、ということを知らないのが俺だけだなんて思わずに。
「最後の宿題なんだけど」
「——何だよ」
「はい。俺の部屋の合鍵。腹括れたら宿題の答えを言いに来てくれ」
指輪が入っていたのとは逆のポケットから一本の鍵が登場する。
ご丁寧にキーホルダーが付いているのを見ると五摂家の俺のパーソナルカラーのリボンで、更によくよく見るとこれはデビューした年の公式グッズだと判明する。どうやってこれを雨森が手に入れたのか。
関係者に手配させたのか。或いは自分で会場の物販に並んだのか。もし後者ならいつから雨森は俺のことが好きだったのだろう。俺が彼を好きだと自覚するのとどちらが先だったのか、不毛な根競べをしてみたい気もしたが、その前に一つおかしい点を指摘せずにはおれなかった。
「あんた、これ、イエスかはいが前提条件の質問になってるぞ」
「ノーかいいえの答えが必要なのか?」
擬音が必要なら、きっと「きょとん」が正解だろう。
まるで俺が否定を紡ぐことを想定していない雨森の態度に俺は嬉しさともどかしさの両方をいっぺんに感じる。
「どんだけ自信家なんだよ!」
「君の見たままだよ」
「——チッ」
「じゃあ、二条君。俺は次の現場があるから。二十三時には帰宅するからシャワーは早めに浴びてくれてもいいよ」
「だから! なんで! イエスかはいしかないんだよ!」
「グッドラック。よい誕生日を」
美辞麗句を並べ立てる才能において俺が雨森を超越することは決してないだろう。
イエスかはいしかない質問を一方的に置き去りにすると雨森はまるで嵐が去るかのように楽屋を出て行った。
残された俺がため息を、五摂家のメンバーが大爆笑を生じさせるまであと五秒。
アツ、ばれてんじゃん。鷹司の無遠慮な笑い声に居心地の悪さを覚えたのはきっと、多分。これから俺がイエスかはいの回答をしに雨森の自宅へ行くとばれているからだろう。
そんなばつの悪さを抱えながら、結局、一日中俺は雨森のことを考えながらファンミに出た。
どんな顔で雨森の自宅を訪れればいいのだろう。完全に据え膳になりに行く自分のことをちょろいやつだと思いながら、それでも俺にとっても雨森にとっても十年以上拗らせた感情だから、きっとそう簡単にはぐれたりはしないだろう。そんな風に言い訳をして、自分を説き伏せて。一つ目の宿題はしばらく解決出来そうにないが、残りの二つなら何とかなるかもしれない。
誕生日の二十一時にメンバーやスタッフと解散して、そこから向かう先の景色を俺はまだ何も知らない。
流れるような蒼の黒髪を靡かせて天乙女が飛び出してくる。 貴婦人、とシキ・Nマクニールが称した通りたおやかな雰囲気を纏っていたフォノボルン・シーヴェイツがその姿を一変させてスティーヴ・リーンを抱きしめるその様を一同は見守 ... ]]>
流れるような蒼の黒髪を靡かせて天乙女が飛び出してくる。
貴婦人、とシキ・Nマクニールが称した通りたおやかな雰囲気を纏っていたフォノボルン・シーヴェイツがその姿を一変させてスティーヴ・リーンを抱きしめるその様を一同は見守る他なかった。
「藤の君! 相変わらずお可愛らしくいらっしゃるのですね! もう! もう! 本当にずっとお会いしたかったのでございますよ!」
ラルランディア・ル・ラーガに会いに行きたい、と言ったときとはまた違った情熱を全開にしてフォノボルンはスティーヴとの再会に歓喜している。柔らかい雰囲気のフォノボルンと凛としたスティーヴとの組み合わせは華々しく、男たちが割って入る余地などどこにもない。
サイラス・ソールズベリ=セイは女性同士のコミュニケーションに明るくなく、静観という姿勢を貫くことを選ぶしかなかった。過剰なまでの抱擁にスティーヴは抵抗しているが、どこまで拒絶していいものか、彼女自身はかりかねているのには薄々気付いている。それでも、サイラスは自らが使役した魔獣が心の底から辟易していないのだから、まぁ好きにさせよう、ぐらいの気持ちだ。
「フィーナ、ちょっと! ちょっと落ち着きなさい! わたしはどこにも逃げはしなくてよ」
「そう仰ってもう百年でございます! わたくしがどれだけ藤の君にお会いしたかったか、あなた様にはきっとおわかりにはなりませんわ!」
「顔を合わす度にあなたが『こう』でなければわたしも避けたりはしない、と何度言えば理解出来て?」
「可愛らしいものを可愛らしいと申し上げて何の問題がございますの? 藤の君こそ、わたくしの知る最もお可愛らしいビンカでいらっしゃいますわ!」
言いながらフォノボルンがスティーヴを抱きしめる強度が増す。溜め息を吐きながらスティーヴが後背の二人に視線を送った。
「フィル、セイ。どちらでもいいから、この暴走したお嬢様を止めてくれなくて?」
フォノボルンのことを排斥したいのではない。不愉快を感じているわけでもない。
それでも、この状況は望んだものではない、とスティーヴが言葉の外で雄弁に物語る。
それを受けて、爽やかな聖職者の顔をしたフィリップ・リストが一歩、前に進んで言った。
「フィーナ。僕にもその熱い抱擁をしてくれてもいいのだけど?」
「樫の君のお気持ちはありがたいのですけれど、わたくしはラルランディア様以外の男性と触れ合わないと決めておりますの。ご厚意だけ受け取らせていただきたく思いますわ」
「だ、そうだよ。スティ。百年分の抱擁を許容してあげるといい」
避け続けた君が悪いのだからね。愛を知らない僕はここで退場することにしよう。
愛を知らない、と嘯いた鷹の魔獣は本当に愛を知らないのだろうか。疑問を抱えながらサイラスは頭を捻る。次に飛んでくる言葉が何かぐらい、わからない道理がなかった。
「なら、セイ。わたしを助けてくれなくて?」
「まったく。私にはその手の才能がないと知っていてよくもまぁ声をかけるものだ」
嘆息して、それでも信頼に袖を振りたくなくてサイラスは自分に出来る現状打破を考えた。
そして。
「蒼の貴婦人。『それ』が私以外のものに抱きしめられているのを見るのは少々複雑な思いがするのでな。離してやってはいただけないだろうか」
恭しくサイラスがそう申し出るとフォノボルンの両腕は惜別のひとつも見せないでスティーヴの体躯から別離する。その表情には先ほどまでとは異なる種類の歓喜が満ちていた。
サイラスの後ろでリアムとシキが絶句している。唐突に身体を解放され、本来の目的は達した筈のスティーヴが困惑を顔に浮かべてこちらを見ていた。
「まぁ! まぁ! そういうことでございましたの!」
「えっ、ちょっと、セイ、何を言うの?」
「わたくしとしたことが察しが悪く、ご気分を害されましたらお許しになってくださいましね」
藤の君も貴きお方の前で失礼をいたしましたわ。
その後も、フォノボルンは次から次へとサイラスとスティーヴに大して賛辞を述べ続けている。
賛辞が一つひとつ重なる度にスティーヴの頬が紅潮していく。それほどまでにフォノボルンの祝福は熱烈だった。
「セイ! フィーナが何か勘違いをしているわ、訂正して!」
「必要なのか?」
「必要に決まっていてよ! わたしはあなたのことを——」
「その先を聞くのは心痛しか生まん。いいではないか。それとも、私が相手では不足だったか?」
「——! 知らなくてよ! この先、あなたが後悔してもわたしはもう、知らなくてよ!」
ヒトは一生の間に色々な感情を抱く。後悔の念もその一つで、ヒトだけがそれに苛まれる。
ただ。それは逆説的に言えば、ヒトであるからこそ後悔をするのであって、魔獣がそれを経験することはない。だのにスティーヴは知っている。ヒトの後悔を知っていてなお配慮をするだけの知性もある。彼女がかつて仕えたあるじたちがスティーヴにそれを教えたのだということは想像に難くなかった。
古来、ヒトの魂は巡るという。 連綿と続いてきた文献の中にも生死観の記述はあった。ヒトとして生まれ落ち、死を迎えてなお新たなるヒトとして巡り続ける。 サイラス・ソールズベリ=セイは永らくそれをただの願望だと思ってきた。た ... ]]>
古来、ヒトの魂は巡るという。
連綿と続いてきた文献の中にも生死観の記述はあった。ヒトとして生まれ落ち、死を迎えてなお新たなるヒトとして巡り続ける。
サイラス・ソールズベリ=セイは永らくそれをただの願望だと思ってきた。ただ、もし。因果を積み重ねるその輪廻が本当にあるのなら。サイラスが失った両親と再び相まみえる瞬間が果てしない未来のどこかで待っているのだろうか。
そんなことを束の間考える。
馬車街の屋台を五つはしごして人数分のフラップを買った。フラップは通常、一人前ずつ紙袋に入って渡される。あまりにも大量の紙袋に難儀しているサイラスを気の毒に思ったのか、最後のフラップ屋の売り子が今までの紙袋が全部入ってしまいそうな大きさの紙袋をくれた。側面に大きくフラップ屋の屋号が書いてあるから、街中を歩けば無条件で店の宣伝になる。こんなにたくさん食べられるほど味のいいフラップ屋だ、と示しているのと大差なく、情けは人の為にあるのではないことをサイラスは己が身を以って知った。
宿屋までの道のりを広告塔として歩きながら、サイラスはフォノボルン・シーヴェイツの言っていた愛しい巡りビトのことを考える。彼女の口ぶりでは想いビトは魂の本質を保ちながら何度も何度も生死を繰り返しているようだった。ラルランディア・ル・ラーガ。神代に生きたヒトがその本質を保ったまま何千年も後の今日のこの日に生きているのだとしたら、それはヒトにとっての希望なのだろうか。希死念慮を抱くものにとってはただの絶望ということになる。神話の結びにある「幸福なる世界」というのがいつ顕現するのかサイラスは知らない。約束された平和に至るまで生が続くのは何の試練だろう。それは神の傲慢ではないのか。なぜヒトは試されなければならないのか。十年の研鑽で心の奥底に蓋をしていた否定的な感情が蘇る。
神を呪いたいのではない。
否定して新たなる神となりたいわけでもない。
ただ。運命があらかじめ定まっているのなら、どうして感情などという不完全なものを与えたのか。サイラスはその答えをずっと知りたかった。
フラップ屋の紙袋を右手から左手に抱え直す。宿屋に戻ればフォノボルンと共にラルランディアの生まれ変わりを探しに行く筈だ。それまでに感情を割り切っておかなければ、サイラスがヒトとしてあるまじき悪態を演じてしまうのは自明で歩みが少しずつ遅くなる。
学者というのは知的好奇心を無限に抱き続けることが必要十分条件だ。
知りたいと思う。世の摂理だというのなら、真実を知っておきたいと思う。それと同時にこの道行が千年先まで苦難に満ちていると知って、それでもなおサイラスは前を向いていられるだろうかとも思う。
眉間に皺を寄せ、目的地である宿屋を睨んでいると心の底を見透かすような声が聞こえた。
「あるじどの。悩みは一人で抱えるものではなくてよ」
「そうだな。だが、練られていない感情を吐露するのは効率が悪いだろう」
「あら? そうかしら? ヒトは対話によって答えを見出す生きものではなくて?」
それはそうだ。自らだけで答えに到達出来るのなら、学びはそもそも必要ではない。
自らと他のものをすり合わせ、新しい答えを生み出していくのがヒトという生きものだ。わかっている。
わかっているが、相談をするにしても、もう少し感情を整理してからでなければ何を知りたいのか、も、どんな答えなら受け入れられるのかもサイラスにはまだわからない。
だから、もう少し待ってほしい、と言いそうになってサイラスは気付く。
フォノボルンとフィリップ・リストは宿屋で待っている筈だ。それ以外のものは別行動でまだ約束の刻限にはなっていない。サイラスは一人でフラップを買いに行ったのになぜ会話が成り立っているのか。
そのことに気付いて声のする方を振り返ると涼しい顔をした女鹿の魔獣がヒトの姿で斜め後ろを歩いている。
立ち止まって振り返り怪訝そうな顔をしたサイラスに、スティーヴ・リーンもまた足を止めて、柔らかに微笑んだ。
「どうかしたのかしら、あるじどの」
「——スティ。いつからそこにいた」
「あるじどの。これは失態でも何でもなくてよ。魔獣がヒトに気取られぬように近付くことなんて初歩の初歩だとあなただって知っているでしょう?」
それはそうなのだが、サイラスはその答えを嚥下することが出来ない。
それほどまでに超常の存在がサイラスの心中を騒がせていた、という事実を直視出来ないぐらいにはサイラスもまだ青かった。旅の仲間が近付いていることに気付けなかった、という失態に心の中で舌打ちをしながら、サイラスは喉の奥から出かかった言葉を飲み込んで、別の言葉を吐き出す。
がさり。左手の紙袋が揺れた。
「スティ。お前は——香草焼きのフラップでよかっただろう?」
「不本意な質問だけれど、それもまたよくてよ。ええ。そうね。香草焼きのフラップが一番のお気に入りよ」
大ぶりの紙袋を開き、若草色の紙袋を取り出す。香草を生地に練り込んで焼いたフラップは独特の香りと青味を感じさせる。他のものはその個性的な味付けがどうにも苦手らしく、二回と香草焼きを買おうとはしなかった。
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潮の匂いがした。生臭さはそれほど感じず、不快感も伴わない。晴れた日の浜辺、とサイラス・ソールズベリ=セイは形容しようとして自らが一度も海を見たことがないことを思い出した。文献の向こう。魔術によって記録された大いなる海の ... ]]>
潮の匂いがした。生臭さはそれほど感じず、不快感も伴わない。晴れた日の浜辺、とサイラス・ソールズベリ=セイは形容しようとして自らが一度も海を見たことがないことを思い出した。文献の向こう。魔術によって記録された大いなる海の香りしかサイラスは知らない。
その、記録の中の匂いと酷似したものを鼻腔の奥に感じる。
雨が降り始める頃の匂いかと最初は思ったが、どう考えても潮の匂いとしか判じられなかった。その匂いが少しずつ濃くなる。ここにスティーヴ・リーンがいたならば何の匂いなのか解説してくれただろうが、今、彼女とは別行動をしている。この馬車街の中で再び相まみえる刻限にはまだ少し時間があった。
荷物を抱え、宿屋に戻る街路の上の賑わいがサイラスの感覚上で少しずつ変容している。おかしい、と防衛本能が警鐘を鳴らすのを感知したサイラスは荷物を一旦置いた。後ろを歩いていたフィリップ・リストを振り返ると怪訝そうな顔をしている。鷹の魔獣ともあろう彼はこの変異を感じていないのだろうか。そんな馬鹿げたことを考えて、すぐに打ち消す。
「フィル。『何が来ている』?」
「さてね。僕や君には特に害意もないと思うけれど?」
無視していい、と鷹の魔獣は切って捨てる。だが、どう考えてもこれは変異だ。ヒトとは違う性質の圧倒的に上質な魔力の波動だとも言える。潮の匂いのする異能者は文献の中だけでも数多存在するが、資料上でしかその匂いを知らないサイラスに正体の見当がつく筈もない。
咄嗟の判断でカフスボタンの片方を引き抜いた。琥珀色をした輝きに意識を向けて口腔内で長詠唱を開始する。いざというときの為に持ち歩いている青色の輝石——一般的な触媒では対応しきれないとサイラスの脳漿が計算した。このカフスは学術都市・ソラネンで初めて「S(スター)」を授与されたときに魔術師ギルドの老翁がくれたもので、彼が言うには古獣の牙らしいのだが安全平和なソラネンでは無用の長物そのものだった。
その、思い出の品を使うのに躊躇させないぐらい、馬車街の南側上空から飛来する魔力は高濃度で大きい。サイラスの長詠唱に呼応して半球状の障壁が少しずつ形成される。下から順に煉瓦を積み重ねるようにして障壁を形成するのは、ソラネンの都市で魔獣と攻防戦を繰り広げたときに使った魔術よりも高度な技術と緻密な集中力、それからより多量の魔力を必要とした。それでも、労力に見合うだけの防御力が担保されている。積み上がっていく防壁を確かに感じながら、サイラスは南の空に意識を向け続けた。飛翔体は今もなお接近している。
間に合うだろうか。不意に不安が胸をよぎった。その負の感情を抑え込んでサイラスは口腔内で最後の詠唱を完了する。
天空を覆う薄黄色の幕を視認出来るものはこの馬車街にあってそう多くはないだろう。危機を感じているものも殆どいない。無用な混乱を助長するのはサイラスにとっても本意ではなかったから、魔術に疎いこの馬車街の構造は寧ろ好都合だったとすら言える。
ヒトビトの営みとは隔絶した世界で外敵の処理を終える。
相も変わらず自己犠牲を肯定する言動に隣で傍観を決め込んだフィリップが苦笑を堪えきれないようだった。
「トライスター。君は本当に無理難題を背負い込むのが趣味なのだね」
「無理難題かどうかは実行してみねばわからんだろう」
「僕は君のように言葉遊びが好きではないから、先に言うけれど、君がしていることは全くの無意味だよ。なぜなら──」
フィリップの高説が話を結ぶより早く、鈍い頭痛がサイラスを襲う。物理的な衝撃はないが、視界が歪む。魔術障壁を外部から破壊しようとしているものがいる、という事実と、その魔力の波長が飛来していたものと一致するという事実とを弾き出してサイラスは隣で悠然と佇む聖職者を睨んだ。
「我々には害意もないのではなかったのか、フィル」
「仕方がないよ。君が積極的に『彼女』の到来を拒んだんだ。あのまま放っておけば無害だったものを有害に変えたのは他ならない君自身だ、トライスター」
でもまぁ僕もあるじを見殺しにするのは本意ではないから仲裁ぐらいはしてあげようじゃないか。
言うなりフィリップは鷹の姿に変じ、上空高く舞い上がる。サイラスにだけ聞こえる言葉で彼が飛来物の名を呼んだとき、眩暈を覚えた。
「久しいね、フォノボルン。今日も君はとても美しい」
「あらあら。そういうあなた様こそお久さしゅうございますわ、樫の君」
「美しい君にこんな場所で会えるなんて光栄だね。もっと穏便に話をしようじゃないか」
「樫の君。わたくしはとある方にお会いする為にやって参りましたの。穏便に、と仰るのであればこの天幕が邪魔ですわ。交渉というのはお互いが譲り合うのが基本ではございませんこと?」
「ではまず、君の胸の高鳴りを抑えてはくれないか? そうすれば僕の心配性のあるじもきっと天幕を解いてくれるはずさ」
「まぁ、あるじ! 樫の君。あなた様は本当にヒトがお好きでいらっしゃいますのね。以前紹介いただいた方ではないのでしょう? 是非わたくしもお目通りを。今度はどのような方でいらっしゃるの?」
薄黄色の天幕を隔ててなお鮮やかな色彩を放つその蒼は文献の向こうに見た天乙女そのものだった。いや、そうではない。実物の方がずっと鮮烈で美麗であり、畏怖すら感じさせる。
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ヒトは明日を知るすべがない。 魔獣や亜人の類なら千年先まで見通す千里眼を持っているものもいるだろうが、ヒトにはそれだけの力を持ったものはいないから、明日のことなどそのときになってみないと誰も知らない。 遥か遠き未来を知 ... ]]>
ヒトは明日を知るすべがない。
魔獣や亜人の類なら千年先まで見通す千里眼を持っているものもいるだろうが、ヒトにはそれだけの力を持ったものはいないから、明日のことなどそのときになってみないと誰も知らない。
遥か遠き未来を知らないからこそ、ヒトは今を生きている。滅びることも栄えることも知らないでただ今日を生きている。
結局、野盗の二人は一日だけ考える時間がほしい、というので翌日の夕刻、馬車街の南門が閉まるまで待つと口約束して別れた。冒険者ギルドから引き受けた薬草採取の報酬を受け取ったから、これであとはハルヴェルまでの路銀も足りるだろう。そんなことを考えながら、簡単な魔術を使いつつ薬草を煎じている。ベルローズを薬に加工したら更に倍額の報酬を支払ってもいい、と冒険者ギルドが申し出てくるところを見ると、この街は慢性的な薬不足なのだろう。ウィリアム・ハーディが苦笑しながら、三倍の報酬が出るなら倍の量の薬を煎じてもいい、と交渉しているのを見たとき彼がどうやって世間を渡ってきたのかを何となく知ったような気がした。
リアムとシキ=Nマクニールは何のため、とははっきり言わなかったが多分、野盗姉弟のための騎馬を確保しようとしている。昼過ぎに森から帰ってきて以来、夕刻になっても二人は宿に現れなかった。
宿には空き室があり、この部屋の今晩の客はいないらしい。そこを臨時の薬房として使用してもいい、との許可を得たサイラス・ソールズベリ=セイは誰も戻ってこないのをいいことにずっと薬を作っている。二頭の魔獣たちもヒトの姿になってそれぞれに次の街への準備をしていた。
「あるじどの。夕食の刻限よ。薬師ではないのだからそんなに必死に調薬をするものではないわ」
音もなく帰還したスティーヴ・リーンが呆れた顔でサイラスを見ている。その麗しい表情に導かれるように部屋の中に意識を戻すと、確かに夕暮れも終わって窓の外はすっかり暗くなっていた。夏は日が長い。にも関わらず、この暗さならスティーヴの言うように時間が経過していてもおかしくない。魔導ランプの灯かりを消すと室内も宵闇に満ちる。
一緒に出て行ったフィリップ・リストの姿はない。鷹の魔獣ではあるが、彼は現身の生業――聖職者としてヒトビトの告解を聞き届けることに誇りを持っていた。馬車街にも必ず天空父神・デューリを祀った聖堂がある。そこで他の聖職者たちと交流したり、神の教えについて論議したりするのをフィリップは楽しんでいる。
「スティ。フィルはまだ教会か?」
「いいえ。あなたが性懲りもなく宿屋で『研究』を始めているだろうから、と言ってわたしを探して来たのよ」
せっかく、今日の舞台を手に入れられそうだったのに残念だ、と女鹿の魔獣はむくれる。
シジェド王国でも名の通ったエレレンの奏者であるスティーヴもまた、自らの生業に誇りを持っている。
投げ銭が欲しいのではない。ヒトビトの歓談の場を盛り立てる演奏をしたいだけだ。その情熱に正直すぎるスティーヴのことを風聞でも知らないものはいない。スティーヴ・リーンと名乗れば大抵の酒場は舞台に立たせてくれた。それでも、無賃ではお互いの為にならない。ある程度の演奏料の交渉が成り立ったときにしかスティーヴは演奏をしない。その、価格交渉を邪魔された、と彼女はフィリップに憤りながら――同時に慈しんでいた。
「フィル本人がくればいいだろうに」
「馬鹿ね。フィルがあなたを引きずり出せる魔獣かどうかを考えなさいな」
「それもそうか」
フィリップは鷹としては超常的な能力を持っているが、地上での方向感覚はめっぽう弱い。シジェド王国によくある造りの市街地はただでさえ弱い方向感覚を狂わせるようで、彼は誰かが付き添わねばいつも街中で迷子になった。スティーヴの居場所は同じ魔獣同士、見つけられるらしく、今回もまた目的地として安易に設定された、という結末が見える。
スティーヴに言伝たというよりは、スティーヴに拾ってもらわないと宿まで帰ってくることも困難だった、が真相だろう。
「それで? 魔術は解除した? 火気は消えたの? 薬は適切に保管出来て? ここはあなたの住み慣れた王立学院ではないの。あなたの落ち度に多くの運命が左右されるということをよく覚えておくことね」
「まったく。世話好きの魔獣もいたものだ」
「失礼ね。わたしは、あなたにわたしが仕えるに値するあるじでいてほしいだけ。それを逸脱して二度と元の場所に戻ってこないのなら契約不履行で食って差し上げてよ」
「そうだな。そういうことにしておこう」
もう! 本当に失礼なヒトね、あなたって!
美しき魔獣は拗ねたように怒って、そうして結局はサイラスと共に宿の玄関まで出てくる。果たしてそこにはフィリップがいて三人は食堂へと向かった。