サービス精神旺盛な高原でございます。
ずいぶん昔の話なんですが、あるクリスチャンの大学生が、就職活動をするとき、どうせだったらクリスチャンの創業者が作った会社がいいな、ということで、彼が選んだのは森永という会社だったんですよね。実はこの森永というお菓子のメーカーは、森永太一郎という人が明治時代に作ったものであって、彼は第一線退いた後、伝道者として日本中、聖書メッセージを携えて語ったんです。
森永のマークってエンゼルマークですよね、天使によって支えられている企業、そんなイメージがあったようですが、無事に一次試験パスし、二次試験、三次試験OK。最終選考の集団面接。面接官が複数いていろいろ聞かれるという、「改めてお聞きします。なぜ当社を選ばれましたか」「私は人を笑顔にするような仕事に就きたいと思っています。僕は少年時代森永のお菓子食べるとすごく笑顔になったんです。だからこの会社にぜひ入りたいと願っています」「そんなに当社が好きなら、当社のCMソング、何か歌えますか?」「もちろんですよ。チョッコレート、チョッコレート、チョコレートは…」明治じゃないですか。最大のライバル企業じゃないですか。途中で気づいたんですが、このままいっちゃえということで「チョコレートは森永」突っ切ったんですね。だけど面接官だれも笑ってないんです。能面のような顔で「何を言っとるんだ」と。
いちばん入りたい企業のいちばん大事な本番で、やらかしてしまったということで落ちこんだんですが、それから二週間後に届いたのは採用通知。「どうして採用してくださったんですか」「当社はピンチに強い人材を求めている」
ま、僕この話ね好きなんです。といいますのは、実は聖書のメッセージってまさにそれなんですよね。私たち生きていたら順調なことばかりではなくて、行き詰ったり、自らまいたせいでピンチに立ったり、もうどうしょうもないようなところに迷い込んでしまったり、そういったことがありますけど、もし一番最後の結論が、究極のハッピーエンドであるならば、それは素晴らしいものではないか。実は神様という方は、どんなに大きな罪を犯した人、どんなに暗い過去のある人、どんなに深い劣等感を持っている人であったとしても、その人に究極の大逆転劇をもたらすメッセージを持っておられます。それが福音です。
今日はこの福音メッセージ、特に凝縮して福音のエッセンスを語っている箇所を皆様と一緒に考えたいと思うんですね。
前のホワイトボードに書いてありますが、このことばです。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
第一番目のポイントは、「神は」、私たちに対して持っている態度は,愛である。ここで語っている神というのは、人間が造った神々ではなく、人間を造った神のことです。あなたの作者のことです。
先日私は、お約束絵本という、幼児向けの本を読んだんですが、教えられたんですね、これは『世の中ルールブック』というシリーズの中にあるんですが、就学前の園児たちに、こういうふうにしたら人間関係うまくいくよ。こういうふうにしたら幸せになれるんだよ。ということを絵本で教えているという本なんですが、1ページ目、こう書いてました。「『ありがとう』って言おう。もし人に何かいいことしてもらったら、『ありがとう』って言おう。先生や友達だけではなく、お父さん、お母さんにも『ありがとう』って言おう。この『ありがとう』っていうことばは、何回言っても飽きられることはなく、言った人も、言われた人も幸せになる魔法のことばなんだよ。もし友達に嫌なことをされたときには、ちゃんと『嫌だ』って伝えよう。君は嫌なことをされたとき、我慢しなくていいんだよ。友達を大切にして仲良くするって大事なことだけど、自分の心を守るということも大切なことなんだ。だから君が『嫌だ』って言うことによって、もしかしたら友達は、『あ、嫌だったんだ』って初めて気づくかもしれないよね。だから嫌なことは『嫌』って伝えようね」そんなのが40個以上続いているんですよね。
そしてその一番最後のページに出てくるのが、こうです。「君は自分のことを好きでいよう。理由なんかいらない。君は自分のことを好きでいようよ。でも、もし自分のことが好きなのかどうかわかんない、っていうふうになったら、そのときにはお父さん、お母さんのところに行って、ギューッて抱きしめてもらおう」どうして自分のことが好きなのかどうかわからなくなったとき、お父さん、お母さんにハグしてもらうことが解決になるんでしょう。実は人間は自分以外の誰かから、愛されることによって、初めて自分を愛し始めることができるからです。自分以外の誰かに受け入れてもらうことによって、初めて自分自身を受け入れることができる。(入れてもらうことができる?)私思いました。幼いときには、自分のことをギューッて抱きしめてくれる親がいる。でも大人になってからでも、自分のことを変わらない愛で愛してくれる、魂の親が必要ではないかな。
子どものときに受けるプレッシャーより、大人になって、社会人になって、複雑な人間関係を渡っていくときに、もっともっと傷ついたり、つらいことってあるんじゃないでしょうか。そのときに私の人生の出来栄えが、どのようなものであったとしても、変わらない一方的な愛で、私のことをギューッて抱きしめてくれるような永遠不変の愛、そんな愛があったら本当に素敵ですよね。神様ってそんな方です。もし、自分のことを健康的に愛することができないと、だれかを愛するときに依存になりやすいです。でも、自分のことを健康的に愛することができたら、健康的な人間関係持つことができますよね。私たちは忘れているかもしれませんが、でも聖書ははっきり語っています。私たちを愛してくださった方、愛して私たちを造ってくださった作者がいますよ。あなたのことを愛して、親が子どもに夢を託するように、あなたのことを、夢を託して造ってくださった方がいます。その方が神です。この創造主である神様は、絶対に間違いを犯さない方です。絶対に間違いを犯さない神が、あなたを造った以上、あなたの存在はどんな形をしていたとしても、間違いじゃない。
福音の第一番目のポイントは、あなたを愛して造った神様がいます。ということです。もし神様があなたを愛していないんだったら、そもそも造ってないんですね。
私は牡蠣を食べることができません。昔あたっちゃってね、オエーッて。二番目に嫌いなのがラッキョなんです。あの中途半端な味は、許すことができない。三番目にダメなのがパクチーです。ある時招かれて、私のために歓迎パーティーが開かれたんですが、その時にね牡蠣のオンパレードだったんですね。牡蠣フライ、牡蠣スープ、牡蠣グラタン、牡蠣オニオン、牡蠣ご飯。駄目だ―っ。「ごめんなさい食べることできない。ごめんなさい」「事前に知ってたら出さなかったんですけど、これ以外もう何もありません。昨日の残りのカレーしかありません」「カレーでいいからお願いします」出て来たカレーの上にラッキョのってたんですね。
我が家には牡蠣もラッキョもありません、不愉快だから。もし神様があなたのことを不愉快だと思っていたら、そもそも存在させていないんです。あなたにぜひ生まれてきて欲しい、って心の底から願われたから、神はあなたをお造りになった。あなたのことを渇くように求めておられる方、あなたが帰って来るのを待っておられる方、それがあなたの造り主、あなたの創造主、そしてあなたの救い主、イエス・キリストです。ぜひこのイエス・キリストを信じてください。救われます。心からお勧めいたします。
さて、私は今年の6月、マンションの6階に引っ越しました。片付けも終わり、東京から息子夫婦と孫が遊びに来た、7月28日の夕方、突然大きな地震が熊本を襲ったんです。6階だったからでしょうか。立っていることもできませんでした。食器棚、箪笥、テレビが次々に倒れていくんですが、どうすることもできません。とにかく安全そうな場所に身を寄せ合い、うずくまり、揺れが収まるのを待っていました。
熊本県南部を震源とした最大震度7の地震でした。おそらく知人たちが心配しているだろうと、散乱した部屋とヘルメットをかぶった私たち夫婦の写真をインスタにアップしたところ、あっという間に200件を超えるラインとメールが届きました。愛にあふれたメッセージがつまっていたんですね。「いつでも私の家に避難して来てください」「必要なものがあれば、何でも送ります」初めて被災者の方の気持ちが分かりました。怖かったのは事実ですが、多くの人たちの愛に触れました。からだは疲れているんですが、心に温かな愛が沁み渡るんですね。
聖書にこんなことばがあります。
ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
使徒パウロのことばです。弱さを通して、愛を受け取ったんですね。幸いな体験でした。
弱さは無い方が良い。よく聞く言葉です。でも、本当でしょうか。もちろん、辛くてどうしようもない弱さや欠けを持っている人もおられると思います。私の持っている弱さなど、大したことがないのも分かっています。でも、私はキリストに出会って思うことがあるんです。それは、弱さはただのマイナスではない。私の弱さはキリストが、私に近づくための大切な目印なんだと。キリストは私たちの弱さを見つめ続けてくださっているんですね。
さて、今日はマルコの福音書の2章1節~12節を考えます。カペナウムに1人の重病人がいました。中風を患っていたんです。中風とは麻痺によって身体の自由がきかない病気です。寝たきりだったのでしょう。当時、この病気の人が生きていくのは大変だったに違いない。食事やトイレも自分でできなかった可能性があります。ただ、この人には4人の素晴らしい友がいたんですね。彼らは、この人を心から愛していたのだと思います。
イエスが、カペナウムに戻られた時のことです。大勢の人たちが、イエスのいる家に押し寄せてきました。話を聞くためでした。家は人であふれました。4人の友人は、この中風の人をイエスのところに連れて行こうと考えたんです。しかし、人がいっぱいで家に入れません。その時、彼らは大胆な方法を取るんですね。屋根に上り、穴をあけ、その穴からこの人をつり降ろしたんです。彼の病気は癒やされました。今日はこの人を通して、3つのポイントで、弱さに近づくキリストを考えたいんです。
それでは1つ目、突然背負わされる弱さがあるということです。私たちは、生まれつき持っている弱さがありますよね。しかし、ある日突然背負うことになる弱さもあるんです。この男の人が今背負っている弱さは、おそらく後者です。ある日突然、病気に襲われ、弱さを背負ったんです。前の日まで、想像もしていなかったに違いない。
私が地震に襲われた時もそうでした。その日の昼、家族でそうめんを食べて笑っていたんですね。楽しい時間でした。わずか数時間後に、器が床に飛び散り、部屋がめちゃくちゃになり、避難しなければならなくなるなど、誰が想像できるでしょうか。しかし、ある日突然、まったく想定していない弱さを身に負うことが起こり得るんですね。人生とは、そういうもんなんです。
この男性の中風の原因が何なのか、いつからこうなったのか、聖書は触れていません。寝たきりで生きられる時代ではなかったでしょうから、そんなに前からではないはずです。ある日突然、考えもしていない麻痺が起こり動けなくなったんです。これは、私たちにも、起こり得ることではないでしょうか。考えても仕方ないかもしれませんが、そのようなことが起こり得るんだと、頭の片隅に置いておく必要があると思います。
2つ目です。弱さは人の心を動かすということです。すべての人がそうだとは言いませんが、弱さを見ると人の心は動き出します。この男性が、身体が動かず、仕事もできず、生活もできなくなった時、4人の友人の心が動き出しました。何とか助けたいと。もちろん、それまでに良好な関係を築いていたと思いますが、それだけではないように思うんですね。弱さを見ると助けたいと、人の心は動くようです。今回の地震で、私のところに届けられた多くの愛もそうでした。大きな災害が起こると、支援の輪が広がります。人間の心は、このように動くようにプログラムされているように思います。このプログラムをしたのが創造主:神です。神は人間を創造する時、言われました。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」神の性質に似せられた人間は、弱さを見た時、助けたいと、心が動き出すんですね。ルーツは神の中にあります。イエスを見ればよく分かります。
3つ目です。弱さに近づくキリストです。4人の友人は、この人を寝床のまま、イエスのもとに担いで行きました。家は人でいっぱいで入れません。彼らには、猶予がなかった。とにかくこの人をイエスのもとに連れて行かなければならなかったのです。でないと生きられないからです。彼らは、家の屋根に上り、穴を開け、この人をつり降ろしました。非常識な行動です。さて、穴を開けて人をつり降ろすのにどれぐらい時間がかかると思われますか。5分10分では無理でしょう。その間イエスは、彼らを止めることなく、じっと見ていたんです。聖書には、イエスは彼らの信仰を見てと書いています。非常識な行動を見たのではありません。彼らの神を信じ、神の前に進み出る愚直な信仰を、じっと見ておられたんです。想像の域を出ませんが、私は、イエスは、心の中で彼らを応援してくださっていたように思えるんですね。物理的には、この男性がイエスに近づいていますが、霊的にはイエスのほうがこの人に近づき寄り添っていたのだと、私には思えるんです。
さて、弱さに近づくキリストを考えました。冒頭でパウロのことばを紹介しました。
ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
弱さを隠さずに誇れるのは、キリストが弱さを、蔑むのではなくおおってくださることを、パウロが体験していたからだと思います。そして、このことを体験するには、自分の弱さをもってキリストに近づくことが大切です。そうすれば、キリストが私の弱さに近づき、おおい、励まし、支えてくださるんですね。トライしてみてはどうでしょうか。心からお勧めしたいと思います。
ヴァイオリニストの高嶋ちさ子さんは、プロになる決心をする上で、自分に決定的な影響を与えてくれた方がいるそうです。それは高校時代、個人レッスンしてくださった徳永二男という先生です。当時、N響のコンサートマスターを務める憧れのヴァイオリニストでした。高校三年の時、大学でもヴァイオリンを続けるかどうか迷った末に、先生に相談すると、こうおっしゃったそうです。「別にどちらでもいい。でもやめると決める日までは、練習を続けてください。悩んでる間、練習を一日でもやめると、それだけみんなとの差は開くだけだ。あとからやりたいと思っても、手遅れになる。練習だけは気持ちと無関係に途切れがあってはなりません」というアドバイスに彼女は目が開かれたそうです。
それほどまでにシビアな世界なのに、自分はどれだけ全力を注いできただろう、と甘えが打ち砕かれたって言うんですね。もう一つの金言は「聴いた人の心に残って、その人が家に持って帰れるような音を出す。それがプロです」ということばです。以来、これが彼女の練習に向かうための原点となっているんだそうです。
さて、この番組の使命もそれと少し似てます。音質や音色を楽しんでもらう番組ではありませんが、聴いてくださるあなたの心に、神のことばが残って、キリストに向かっていただくために、お話ししております。そして今日、神について聴いているうちに長年の考えが解かされ、ついに神を信ずるに至ったある無神論哲学者を紹介したいと思うのです。
その人物はアントニー・フルーというイギリスの無神論学者です。彼は20世紀最大の無神論哲学者として、欧米では非常に有名な方なんです。15歳の時、無神論者になる決意をし、1950年に発表した神否定論文によって、言論界にデビューして以来、世界で最も影響力のある無神論者として、その名をほしいままにしてきた筋金入りの人物です。ところがその彼が、81歳の時、考えを180度変えてしまいます。多くのクリスチャンたちと公開討論を重ねていくうちに、彼はこの世界を造られた創造主がおられるということを認めるようになりました。そして2004年に本を書いたのです。そのタイトルは『神はたしかに存在する』なぜ世界で最も悪名高い無神論者が考えを改めたのか。という本です。それ以前に彼が書いた30冊の本は、どれも無神論の本ばっかりで、多くの人々はそこから大きな影響を受けてきたんです。では、彼はなぜ、考えが変わったんでしょう。
その一つは、生命の設計図である、DNAの存在であった。というんです。DNAに書き込まれている情報の複雑さは、知性の関与なしに全くの偶然だけで生じると考えるのは、とてもありえないと、彼は判断したんです。あるインタビューアーが「あなたは転向したんですか。今までの考えを否定するのは人生の否定や矛盾につながるのではありませんか」と質問しましたが、それに対して彼は「どのような方向に行くとしても、それは根拠のある方に従っていく、という私の人生の態度においては、矛盾していません」と答えています。
ところで、DNAとは、生物の全遺伝情報を保存する究極のメモリーです。このDNAが二重らせん構造になっていることを発見したのは、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックという人です。この二人はこの発見によってノーベル賞を受賞しています。このDNAは、ねじれた梯子のような構造しています。人間のDNAの場合、その梯子の横棒にあたる部分が31億段ついています。この横棒は4種類の塩基の組み合わせでできていますが、この31億対の組み合わせ階段こそは、人体の全情報を暗号で書き込んだ設計図なんです。
ところでみなさんは、ポケットに入れっぱなしの携帯電話がメール機能になっていたために、めちゃくちゃな文面になったということを経験したことはありませんか。「####」とか、「かかかかか」とか「ららららららら」とか、偶然キーに当たった文字がめちゃくちゃに並んでるってことですね。偶然に任せた文字配列は、意味のある文章にはならないんです。しかし、受信した文章が「ご機嫌いかがですか、高原剛一郎です」なら、私からのメールだとわかりますね。たった23文字のこの配列でも、これを偶然に任せて文章化するということはまず不可能なことなのです。
ところで2015年にお笑い芸人、又吉直樹さんの小説が芥川賞を受賞しました。『火花』というタイトルの本です。この『火花』という作品は、原稿用紙230枚、約9万6千文字で書かれた作品です。この9万6千の文字の配列は、又吉さんが無作為にキーボードをパカパカたたいていたら、偶然こんな内容の小説になった、というのではありません。練りに練り、推敲に推敲を重ねて、彼の知性によって書かれた9万6千の文字です。だからこそ、読ませる作品となってるんですね。
9万6千の文字ですら、偶然に配列して小説になることが考えられないとしたら、ましてや31億の文字が偶然に配列して、DNAができたというのは、もっともっともっと考えられないことではありませんか。それは、たまたま、もののはずみでそのような配列になった。というより、知的設計者がそのように書き込んだ。と考える方が合理的判断なのではないでしょうか。そもそもDNAというのは、情報保存しているメモリーのようなもんです。記憶媒体そのものが情報を集めて収容するということは、ふつうに考えて、起こらないことです。誰かが書き込んだからこそ、媒体には情報が記録されているのです。
このDNAというメモリーに情報を書き込んだ知的存在がどうしてもいなければならないのです。その情報を書き込んだ方こそは、創造主なる神なのです。
聖書にこういうことばがあります。
私が隠れた所で造られ地の深い所で織り上げられたとき私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られあなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々がしかもその一日もないうちに。
ここでは、人間が生まれてくる前に、子宮の中で神が私たちのことを、織り上げられた。と表現されています。この「織り上げられた」と訳されている元々のヘブライ語は「ラカム」ということばなのです。そしてこれは「刺繍」とか「編み込む」とか「まとめあげる」或いは「こよりをくゆらす」という意味があるんです。こよりをくゆらすためには、2本の糸をねじる必要があります。このねじられた刺繍にすべてが書き込まれて、私が生まれてきた。というのです。つまり、DNAという二重らせん構造に私の肉体的情報が書き込まれた方は、神なのだ。という宣言なのです。
どうぞあなたも、あなたの造り主を認め、この方に、聖書をわからせてほしいと、祈ってみてください。必ず答えられます。心からお勧めしたいと思います。
私は2008年にメキシコに行きました。一週間ほど滞在したんですが、途中、あるメキシコ人のご家庭を訪問することになったんです。もちろん通訳付です。ところが、その家族の内の何人かが、おたふく風邪になってたんですね。そして私は、おたふく風邪にかかったことがないんです。つまり、免疫がないんですね。大人になってから罹るおたふく風邪は大変強力なダメージを与えると聞いておりました。それで私は、神にうつらないようにとお祈りして思い切って訪問したんです。そして、共にある問題について話し合い、そうして家を出ようとしたその時、ちっちゃい女の子が出てきたんですね。そして、今日の訪問をとても喜んでいるというしるしに、小さなキーホルダーを渡してくれたのでした。私はスペイン語ができません。また、彼女も日本語が話せません。しかし、彼女のくれたプレゼントによって、私を喜んでくださってるということがよくわかったんですね。ことばはありません。しかし、手渡してくれた贈り物によって、ことば以上に親切な気持ちが伝わってきました。一言も発することのない相手の熱い気持ちがよくわかったんですね。
そして、これは神についても言えることだなあと思うんです。今、肉声の形で神のことばを聞く人はいません。神は姿が見えず、その声は耳に聞こえず、私たちの手でつかんだりさわったりして、捉えることはできません。しかし、あなたを造られた神が愛であるっていうことは、神が下さったプレゼントではっきり知ることができるんです。神は、ご自分のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わし、あなたのために罪の赦しを完成してくださったのです。この罪の赦しの宣告、宣言のことを福音って言うんですね。
聖書の中にこんなことばがあります。
福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
さて、福音のうちには神の義が啓示されていると書いてあるんですが、神の義ってなんでしょう。義っていうのは、正義と訳すこともできます。正義というのは、悪を憎むことです。そして、悪に対して罰を下すことなのです。罪に対する怒りは決して悪いものではありません。それはむしろ、必要なものです。
日本では2009年5月21日から裁判員制度が始まりましたね。今まではプロの裁判官が判決を下してきたんですが、これからは3人の裁判官に加えて一般の国民から選ばれた6人の裁判員が、事実のあるなしや、刑の重さを決めるというんです。どうして法律の専門家に審判を下させるのではなく、一般国民が裁判に参加するようになったんでしょう。一言でいうと、プロの裁判官の判決が一般の国民感情や常識から外れたものに流されていく可能性があるからです。いや、もっとズバリ言えば、近年の裁判所での判決は、刑が軽すぎるんじゃないかという感情が国民の間にあるって言うんですね。
私たちは、自らも不完全な者ではありますが、ひどすぎる犯罪に軽すぎる刑罰が判決されたときには、心の中に得も言えぬ違和感が湧いてくるんです。大抵の人は、悪は罰を受けるべきだと考えるんですね。そして、悪は裁かれるべきだという基準が心の中にしっかりと入っているんです。この罪に対する怒りを、義というのです。
ところが、聖書は罪に対する神の正義は、福音の中に啓示されていると語るんです。福音というのは、罪への罰ではない、罪を赦すという宣告なんです。そして、罪の赦しほど正義や法律や道徳に反するものはないのではありませんか。罪とは法を犯すことです。法を犯す罪を赦すというのは、法に対する挑戦ではありませんか。罪の赦しは、神の正義と絶対的に矛盾するのではありませんか。ところが、聖書は神の正義はこの罪の赦しの福音の中で、かえってはっきりと示されているというんです。どんなにひどい罪人をも赦すことのできる福音の宣告の中に、徹底的な神の正しさが表れているのだと語るのです。最もひどい悪人をも赦すことの中に神の正しさを徹底的に貫き通した態度が示されているっていうんですね。
どのようにして赦しと正義が両立するんでしょう。イエス・キリストの十字架によって、この二つが両立するんです。イエス・キリストは全く罪のない生涯を歩まれました。それは、キリストの人格の中に、罪の性質がひとかけらもなかったからです。ことばにおいても、態度においても、心においても、何一つ悪がない方。これがキリストです。そして、この方が十字架にかかって全人類の罪を背負ってくださったのです。そして、神はこの罪を担ったキリストを徹底的にさばいてくださったのです。いかに神の子であって、罪なき完全な人であったとしても、ひとたび罪を背負った時には容赦することなく、神は怒りの刑罰を振り下ろすことによって、罪がいかに憎むべきものであるかということを示したのです。罪人の赦しは、罪を大目に見ることによってもたらされたものではありません。罪に対する妥協なきさばきをキリストに下すことによって、もたらされたのです。ですから、罪人への赦しの宣言である福音には、神の恐るべき正義が、啓示されていると言えるんですね。
さらに、もう一つの意味があります。キリストの自己犠牲によって、罪の償いはすでに終わっているため、罪人を赦すことこそが、正しいことになるのです。
私は何年か前、韓国に行きました。集会が終わった後、韓国の大学生たちを誘って、レストランに入りました。そうしてそこで楽しい時間を過ごしたんですね。ところが、支払いをしようとするとお店の人は、「ああ、もう終わってます」って言うんですね。私は払った覚えがありませんし、大学生たちも途中で立った人は一人もいないのです。「何かの間違いではありませんか」と聞くと、店内にいたお客さんが代わりに払ってくれたって言うんですね。私たちは気がつかなかったのですが、どうも学生たちの親がたまたま食事に来ていたらしいのです。店としては私たちから一銭も取るわけにはいかないと言います。なぜなら、すでに支払いは終わっていたからです。店が私たちに何一つ要求しないのは、正しいことですね。なぜなら、店はすでに別の人から支払いを受け取っているのですから。
あなたの罪がいかにひどいものであったとしても、神はあなたを無条件に赦してくださるのです。そうすることは神の正義となるのです。なぜなら、神はキリストによってあなたの罪の償いをすでに受け取っておられるからです。どうぞ、この福音を受け取ってください。イエス・キリストを自分の救い主として、信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。
さて、あなたには座右の銘ってありますか?私は座右の銘と聞くと元同僚のM君のことを思い出します。 M君は入社試験で「あなたの座右の銘を教えてください」と言われて「はい、右が1.5左は1.0です」と答えました。左右の目、視力を答えたんですね。さすが関西すごいボケやと思うんですが、その M君は入社試験に合格したわけですから、人生って面白いですね。私は中高一貫校の女子校で、聖書の授業を担当してるんですが、先日、職場で座右の銘を一つ紹介してもらいました。その先生が尊敬している画家の方の座右の銘なんだそうですが、「死ぬこと以外かすり傷」って言うのが座右の銘だそうです。「あ、それなんか私聞いたことあります」というふうに言いますと、まあいろんな方がこの画家の方のブログから引用に引用を重ねていろんなところで発信されているんだけども、一番最初のルーツは、この画家の先生のブログで発信されたということなんだそうです。その画家の方はその言葉をどこで見つけたのかというと、電柱に貼ってあったボクシングジムの案内だって言うんですね。「死ぬこと以外かすり傷」なるほどボクシングジムのキャッチコピーだと聞くとなんだかスッキリしますね。ボクシング、なんか怖いなと思ってしまう心情を見事に捉えて、ああそれならボクシング始めてみようかな、という気持ちに変えますよね。背景がわかると意味が際立つんですね。今日は多くのクリスチャンの方が座右の銘としている聖書のことばを紹介して、 3つのポイントで聖書の福音をお伝えしましょう。ガラテヤ人への手紙、 2章 19節 20節をお読みします。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
この聖書のことばを理解するために、3つのポイントでお話しします。
まず、一つ目のポイントです。あなたの罪の代価は、キリストによって支払い済みだ。と聖書は教えています。キリストは、約2000年前、全人類の罪の代価として、十字架で死なれたんです。アダム以来、人は、神などいない、神などいらない、と自分を神として生きてきました。これが聖書が教える罪です。そして人は、自分を神の立場において、善悪を決定し、争いを続けています。善と悪が争うのではありません。善と善が争っているんです。この世界は、自分を神とした罪ゆえに、悪が蔓延し、誠実は失われ、愛は憎しみに変容しているんです。しかし神は、罪を憎んで、罪人を愛しておられます。そして、実にそのひとり子、イエス・キリストのいのちをもって、私たちの罪の償いを成し遂げられたのです。驚くべきことに、福音はこのように宣言します。「あなたの罪の代価は、あなたが支払わなくて良い。すでにキリストが十字架で死なれたことによって、支払い済みである」と言うのです。キリストは、罪人をさばくためではなく、救うために来てくださり、全人類の罪の償いを十字架で成し遂げてくださったのです。一つ目のポイントは、あなたの罪の代価は支払い済みであるということです。
二つ目のポイントです。信仰によって恩恵に与ると聖書は教えます。キリストは全人類の罪のために代価を支払われましたが、あなたがその恩恵に与るには、「信仰」が必要なんです。キリストの十字架は私のために、と個人的にキリストによって与えられる恩恵を受け取る必要があるんです。聖書は、救いに必要不可欠なのは「信仰」だと教えます。信仰とは、神がキリストによって用意してくださった救いを受け取る「手」です。私はキリストとともに十字架につけられましたとパウロは書きましたが、2000年前に物理的にキリストとともに十字架についた人は誰もいません。しかし信仰によってこのキリストが死なれたのは、私の罪の償いを代わりに支払ってくれたのだということを信じているのがクリスチャンなんです。クリスチャンとクリスチャンでない方を分けるポイントとは何でしょう。キリストはすべての人の罪の償いとして十字架にかかってくださいました。そこに誰も漏れている人はいません。民族によっても、富や権力や地位によっても差別されません。すべての人が罪人であるので、すべての人の罪のためにキリストは十字架で死なれたんです。しかしながら、神がイエス・キリストによって支払われた罪の赦し、救いの恩恵は、信じる人に適用されるんです。私は以前、東北新幹線のグランクラスという車両チケットをプレゼントしてもらいました。ある方が私の移動の際、このグランクラスという、飛行機で言えば、ファーストクラスのシートをプレゼントしてくれたんですね。私が支払ったのではなく、その方が私の代わりに支払ってくれました。私は自分では支払っていない支払い済みのチケットを持ってグランクラスに乗りました。しかもグランクラスは、移動中に、いつでも自由に、ワイン、ジュース、コーヒーなど好きな飲み物をいただくことができ、さらに食事も全部無料なんです。いえ、正確には無料なのではありません。グランクラスのチケット代金の中に、それら全部が含まれていて、支払い済みだからいただけるんです。さて、そのチケットを用意していただいても、そのチケットを受け取らなかったら、そのチケットは無駄になりますね。同じようにあなたの罪の代価は、イエス・キリストによってすでに 2000年前に十字架で支払い済です。しかし、それが私のためだったと受け取らない限り、罪の赦しはあなたのものにならないんです。クリスチャンは、イエス・キリストの十字架の死は、私のためだったと信じているんです。ぜひあなたもこのことを信じてほしいと思います。キリストは十字架にかかって死なれた。これは歴史です。キリストは、私の罪を赦すために、十字架にかかって死なれた。これが信仰です。二つ目のポイントは、信仰によって恩恵に与るということです。
3つ目のポイントでメッセージを結びましょう。キリストの喜びのために生きることが喜びである。ということです。私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているとパウロは告白していますが、このパウロの心は喜びで満ちてるんです。私の人生は、私を喜ばせること以上に、キリストが喜んでくださることが、私の喜びですとパウロは語っているんです。クリスチャンになる前の人生観は、「すべては私の喜びのために」とまとめることができるでしょう。しかし、クリスチャンの生き方は、「すべてはキリストの喜びのために」と変わっているんです。先日、金婚式を迎えたご夫婦にお会いしました。ご主人は「私の妻が喜ぶことが私の喜びです」と語り、奥様は「主人が元気でいることが、私の喜びです」とおっしゃっていました。ここに深い愛の関係を見ました。ご主人も奥様も、自分中心で生きているんではなく、相手が自分の人生の中心。私の人生は、相手のものであると生きておられるのです。同じように、クリスチャンは、人生の中心は私ではなく、私のために死んでくださったキリストを中心に生きています。あなたはどうでしょうか。あなたの人生は、あなた自身が王で、あなたの栄誉と喜びのためにありますか。それともキリストが王で、キリストの栄誉と喜びのためにありますか。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。あなたもこのようなキリストとの愛の関係に生きる人生を歩まれませんか。キリストを信じる人生は喜びと平安に満ち、またキリストを信じる仲間たちとの豊かな絆の中に生きていく人生になります。心からお勧めします。
この間、私の尊敬する先輩のクリスチャンが、しみじみこう言いました。「高原兄弟、年をとると、毎年確実に一つずつできないことが増えてくる。自分にとって武器だと思えていたことが一つ欠け、自分にとって特技だと思っていたことが二つ欠け、自分にとってこれがあるからこそ私だという条件が三つ欠け、ゆっくり弱くされていくと、何か自分がビルの残がいみたいな気持ちになってくるよ。でも自分が残がいのようになればなるほど、この私のために、この無残な私のためにいのちまで捨ててくださった神の愛が迫ってくるよ」って言うんです。
私も少しこの方の気持ちが分かります。私は年間300回くらい講演します。それは私にとって喜びです。神様の愛を宣べ伝える働きに用いられることは、私にとって誇りであり、特権であり、また力の源です。ですが時々、メッセージが途中でバラバラになるときがあるんですね。そして空中分解したメッセージの直後、私は大いに落ち込みます。なぜ落ち込むんでしょう。こういう自分なら自分として認めてやるが、これができない自分は自分として認めない。という見方がどこかにこびりついているからだと思うんですね。そしてこのような傾向は、私だけではないと思うんです。多くの人が、ほれぼれするような自分は認めても、そうでない自分にひどく傷つき、立ち上がることができない方々少なくないと思うんです。
いったいこのような人間観を、どこでどのようにして身につけてきてしまったんでしょう。その答えは、いわゆる愛の問題に由来しているんではないかと私は考えています。私たちは、どんな人でも愛されたいと思ってますね。また愛したいと思ってます。しかし人間が生まれつき持ってる愛、ポップスやドラマで取り上げられる愛ってどんな愛でしょう。キリストは人間の愛の本質を次のようなことばで語っています。
自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。
自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。
聖書は、自分を愛する者を愛する愛、自分に良いことをしてくれる者に良くする愛を「罪人の愛」だと看破しています。
何でこれが罪人の愛なんでしょう。一言で言えば相手を愛する理由が、自分を喜ばせるところにある愛だからです。一般的に男性は美人に弱いですね。そして女性は優しい人にクラクラとくるんじゃありませんか。どうして美人を愛するんでしょう。その美しさが自分を楽しませてくれるからです。どうして優しい人を好きになるんですか。その優しさが自分を喜ばせてくれるからです。ですからその美しさに飽きたら、愛するのを止めます。あるいはもっと美しい人が現れると、心変わりして捨てます。そして乗り換えます。しかし、もっともっともっと美しい人が登場すると、またしても心変わりして相手を捨てます。どうして愛を停止したんでしょう。もはや自分に喜びという利益をもたらさなくなってしまったからです。自分の役に立たないと見るや否や、弊履のように捨ててしまうんです。どうして優しい人を愛しますか。その優しさが心地よいからですね。ではお付き合いしてみて、その優しさが一時的なものだと分かればどうしますか?あるいはもっともっと優しい人が現れたらどうしますか。自分を心地よくする上で、より優れた人が出てきたら、バージョンアップしたパソコンを買い換えるように、相手を替えていくのではありませんか?この人間の愛の正体は、実は自己愛に過ぎないものです。そのことを見抜いた有島武郎という作家は「惜しみなく愛は奪う」と言いました。 それは相手から何らかの価値を奪い取って、自分のものにできる限りにおいてのみ成立する愛です。そしてその価値が無くなると、止めてしまう愛です。
実はこれは愛という名に値しない愛なんですね。それはエゴイズムが変装してるだけのものです。自分を喜ばせるために相手を愛する愛は、所詮自分のために相手を利用する愛でしかないからです。
こんな愛しかないこの世の中で成長してきた人間は、愛がはかないものであるということを知っています。そのはかない愛を少しでも延命するために、媚を売り、おもねり、演技し、背伸びしますが長続きしないんです。世の中の悲劇の大半は、この愛の裏切りによって生じているんではないでしょうか。
しかし、こういう不毛の愛しかない世界の中で、たった一人本物の愛の化身がおられます。 それはイエス・キリストです。聖書の中にこんなことばがあります。
キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。
この世界の中で、ただキリストだけが自分自身を喜ばせることをしなかった。って言うんですね。世の中は自分のために相手を愛する人ばかりです、自分を喜ばせるために相手を愛する愛ばかりです。しかしキリストは、相手のために相手を愛する方でした。相手を相手自身のために愛する方でした。それは相手が自分の期待をいかに深く裏切ったとしても、たじろぐことなく愛する愛でした。相手がしくじろうが、醜く変わり果てようが、卑怯な行動に出ようが、それでもストップしない愛でした。
自分を侮辱する者の罪を代わりに背負って、神からのさばきを黙々と引き受ける方。こんな愛であなたを愛する存在は、キリスト以外どこにもおられません。あなたの最悪を知った上で、あなたへの愛を止めることができず、十字架にかかっていのちまで投げ出したイエス様こそ、あなたの救い主です。そしてこのような愛を受けることによって、人は初めて孤独から救い出されていくのではないでしょうか。
C・S・ルイスの『ナルニア国物語』のシリーズの中に『魔術師のおい』という作品があります。
登場人物のディゴリーは、キリストのひな型であるライオンのアスランに「母親の病気を治すものを下さい」と訴えるんですね。そして、そう言って彼がアスランの顔を見上げました。こういう文章が続きます。
「するとキラキラ光る、大粒の涙がライオンの二つの目に浮かんでいました。その涙はディゴリー自身の涙に比べてあまりにも大きく、あまりにもよく光っていましたので、ディゴリーは一瞬『本当はライオンの方が、自分よりずっとお母さんのことで心を痛めてくれているに違いない』と思い込んだぐらいでした。するとアスランは言いました『我が子よ、我が子よ、私には分かっている。悲しみというものは偉大なものなのだ。この国ではまだそれを知る者は、君と私しかいない。さあ、私たちは互いに力になろう』」
無償の、一方的な、変わらない完全なる愛を受けるとき、その万分の一の愛でキリストを愛し、そしてひいては人を愛する者へと少しずつ変えられていくのでないでしょうか。どうぞキリストのこの真っすぐな愛を、真っすぐな心で受け止めてください。心からお勧めしたいと思います。
昨年、石川県の輪島市と珠洲市をボランティアのために訪れました。能登半島地震が起こって約2年が経過していましたが、復興についてはなお道険しという感じでした。馴染みのある童謡・唱歌をはじめ、ゴスペルなどを歌う集いを行ったのですが、何度も同じ感想を聞いたのです。それは「私たちのことを忘れずによく来てくれた」という声です。忘れられていない、覚えられているというだけでとても喜んでおられるのです。何をしてもらったという以上に、自分たちのことを忘れずに覚えてくれていると知ることが人間にとってどれほど励ましになるか、改めて感じました。
私たちの魂の親である創造主は、同じように、いや、はるかにまさった熱い思いで私たち一人ひとりを覚えておられます。次のような聖書のことばがあります。
今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。
今日も、神が「良くしてくださったこと」を語る福音を三つのポイントで考えていきましょう。
まず、人間の問題点を神が指摘されたということです。どうしてこれが「良くしてくださる」ことになるんでしょう?問題の解決のためには、その問題の原因を知ることが重要です。神は私たちに究極の良いものを与えるために、それを妨げている原因を明確にしました。人間は魂の造り主なる神を見失い、迷子のようだと語ります。他の言い方で「罪人となった」とも表現しており、これが人間が直面している問題の原因なのです。
ある時、お客さんを車でレストランにお連れしました。ナビを設定し、出発したものの、思っていた道と違います。どこまで行ってもお店に着きません。途中で気づいたのは、違う支店を設定していたということです。行く道がわからない以前に、目的地を間違えて入れてしまうとどんな優秀なナビでも正しく導くことはできません。人間は生きる目的がわからなかったり、それを間違ったりして道に迷った状態だと聖書は語ります。道に迷っているということを人が気づくとき、実際ははるか前に道に迷っているのです。それに気づかないで進んでいるのです。私たちは、自分で気づくよりはるか前に迷ってしまっていたというのです。
イエスの有名な山上の垂訓の中に「悲しむものは幸いです」というのがあります。これは「悲しみ」自体が幸いなのではなく、悲しんで初めて問題に気づき、その解決に進んでいくことができるという意味です。精密検査で体の異常を知ることは喜ばしいことではありませんが、それを知らずに病気が悪化してしまうよりは、はるかに良いことです。私も以前人間ドックでひっかっかり、それ以来定期的に病院に通っています。ほとんど自覚症状がないのですが、あの時指摘されて良かったと思っています。このように、創造主の前にも、人間の前にも自分が不完全だとはっきり宣言されているのは、人間にとって「良いこと」なのです。
二つめの「良くしてくださったこと」は、救い主イエスが十字架で身代わりの死を遂げられたということです。これも一見、イエスにとっては良いことに見えません。しかし、死刑道具であった十字架が今では教会のシンボルになっていることからも、これが単なる悲劇ではないことが想像されるでしょう。人間が直面している問題を、愛なる神は解決のために動いてくださいました。その象徴が十字架です。
「森林浴」について聞かれたことがありますか。樹木から出てくる殺菌効果がある化学物質も100年ほど前に発見され、「フィトンチッド」と名付けられました。森林の中を歩くと、気分が良くなるというのは以前から多くの人が感じていました。それが単なる感覚ではなく、実験データで確証されたのはここ30年のことです。他の条件を全く同じにして都会の中と森林の中を歩くときでは明らかに数値に違いが出ます。ストレスは軽減され、高血圧の人は適度に下がり、低血圧の人は適度に上がるのです。それを最初に発表したのが日本の研究者たちで、今では世界中で、森林浴が病気の予防や健康維持のために用いられています。フォレスト・ベイジングという英語表記だけでなく「シンリンヨク」という日本語が世界共通で使われているとのことです。
この森林が生物界に良い効果を与えてる仕組みは神からのものです。聖書にはそれをほのめかす箇所がたくさんあります。同時に「木にかけられる者は呪われる」ということも語ってきました。これは遠い将来、救い主が木にかけられて人間のために呪われてくださるという予告でもありました。
「机上の空論」ということばがあります。字の如く、机の上だけの考えで実際には役に立たない、こどばだけの空しい理論という意味です。イエスは素晴らしい愛のメッセージを残されました。しかし、ことばだけではなく生き方そのものでそれを表されました。その究極が十字架です。あなたの罪を背負い、あなたが受けるはずであったさばきを身代わりに受けてくださいました。拒むこともできたのですが、愛のゆえにあえて十字架という木の上にとどまり、私たちのために呪われた者となってくださいました。
三つめの「良いこと」は、神がイエスを死者の中から復活させたということです。「良いこと」というより「あり得ないこと」と思うかもしれません。しかし、これは事実です。聖書に記された数々の奇跡の中でも特別なものです。自然の仕組みを造られた神が、その力で自然の仕組みを超えた不思議を示されました。人間にとって死は必ず訪れるものです。死んだら元に戻りません。この流れを神はイエスに対してのみ無効にし、イエスに新しいからだを与え、復活させました。そもそも、死は神が造ったものではなく、人間が持ち込んだものです。神は、イエスが本当の救い主であることの証拠として復活を用いられました。復活がなければイエスは単なる人騒がせな人で終わってしまうのです。
人間はこのままでは自分の罪の中で滅んでしまうことを神は警告しています。これは神の良い動機から出た通告です。さらに良いことに神はイエスの十字架によって罪を処分してくだいました。さらに三日後、復活によって新しいいのちがあることを示してくださいました。これが「良いお知らせ」すなわち福音です。
ぜひ、あなたもこの福音を受け入れ、イエスにある罪の赦しと永遠のいのちを受け取ってください。心からおすすめいたします。
私は先日、ある精神科医の書かれたエッセイを読みとても納得しました。彼によると人生を複雑にする理由は、今すぐすべきことを先延ばしにすることにあるっていうんです。すべきことを面倒くさがって先延ばしにしていると必ず悪い結果を招くっていうんですね。データによりますと成人した人の20%と、大学生の90%は先延ばしの常習者です。今すべきことを後回しにして、ひどい目に遭っているのに、それを変える決心をまた先延ばしにしてしまいます。これは日本だけではないんですね。アメリカでは締め切り直前になって、慌てて納税申告書を書く人が多いそうです。そのため数字上のミスで平均5億ドル近い額を余計に払っています。
この先延ばしが癖になっている人の95%はその習慣を変えたいと思っていますが、それがなかなかできません。習慣化してるからです。習慣は無意識的な脳内反応になっています。先送り常習者は自動操縦で飛行機に乗っているパイロットのようなもんだっていうんですね。どこかでこの負の連鎖を断ち切りたいもんですね。なぜならそれは人生に大きな損害を与えるからです。
今日は、思ったことを即実行に移して祝福を受けた人物を紹介したいと思います。その人はキリストのたとえ話に出てくる放蕩息子です。彼は父親が生きている間に、父から遺産をふんだくって、家出の果てに財産を放蕩し、飢え死に寸前にまで落ちぶれてしまいます。しかし、どん底に落ちたとき、彼は人生のターニングポイントを迎えるんですね。聖書にはこう書いてあります。
しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。」』
どん底に落ちぶれた彼が人生の方向転換に踏み切るためにしたことが二つです。
第一に、我に返って、自分のしでかした罪と過去の現実と、向き合ったということです。このままいったら最後はどうなるのか。究極の結末を考え、それと向き合ったとき、何もしないでいることは滅びを招くと悟ったんです。このたとえで父親になぞらえられているのは、私たちの造り主である神です。神様はあなたを愛し、あなたを養い、あなたに必要なものを黙々と与え続けてこられた方です。この神のもとから家出をして、自分勝手な生き方をすることを、聖書は罪と語っています。そして、この罪が人生と世界を混乱させている最大の理由なのです。
昭和8年に「大阪ゴーストップ事件」というのがありました。この年は軍部が暴走し太平洋戦争に突き進もうとしていた時代です。大阪の天神橋の交差点で陸軍第8連隊の一等兵が赤信号を平然と無視したのです。巡査が「待て!」と止めたところ、「貴様、誰を止めるのか!俺は軍人だぞ!」と怒鳴り返し、何と殴り合いになったっていうんですね。その喧嘩を聞いた第8連隊は、いきり立ったのです。大阪警察本部も引きません。
これがとうとう陸軍参謀と警察庁の中央にまで話があがっていきます。面子と面子、権威と権威の衝突で収拾がつかなくなってしまうのです。陸軍は言います「天皇陛下の軍人をとがめるのは、陛下をとがめるのと同じである!」警察の部長は「あなたが陛下の軍人なら、われらは陛下の警察だ!」とうとう陸軍大臣と内務省が大喧嘩になり、どうにもならなくなったんです。いったいどうやって解決したと思いますか。5か月後、昭和天皇の特命により、すぐに収まりました。小さい権威と小さい権威の対立は絶対的権威の介入によってやっと解消したんです。
今の世界の混乱は、人類共通の絶対権威がなくなってしまっているということです。一人一人が絶対権威者のごとく振舞っているということです。誰もが本物の絶対的権威者であるこの世界を造り、人間をお造りになった神の前にひれ伏すということがないということですね。この人間の作者なる神から離れてるということが、世界の混乱の理由なのです。なので聖書はこの態度のことを罪と呼ぶのです。あの放蕩息子は、人類破滅の原因は、父のもとから離れたところに由来するということを認め、その結果が死とさばきであるということを認めたのです。
第二に、彼がしたことは、父のところに行って謝るということだったのです。ただ後悔しただけではないのです。自分のした罪を悔いたならば、それを父の前に持ち出して赦しを求めに行ったのです。おそらく父のところに行く前に何度も迷ったことでしょう。今さら赦してもらえるなんてあまりにも身勝手です。しかし、そうする以外、自分が餓死から逃れる術がなかったのです。彼は思い切って父のところに行き、悔い改めの決心を告白したのです。父は彼を一言も責め立てることなく、非難することなく「よーく帰って来た」と言って、何と大宴会を開いて歓迎したというのです。
これを語ったキリストの意図がお分かりでしょうか。神は私たちをすでに赦してくださっているのです。そして人は赦されるということを知っていて初めて悔い改めることができるのです。
私は以前、ハワイで大きなケガをしました。右手の薬指の爪の中にシャープペンシルの芯が奥深く突き刺さってしまったのです。まるで拷問でした。爪の間に針が撃ち込まれたようなものであります。病院へ行った私は、即手術となったのですが、指の部分麻酔なので、ドクターと会話しながら手術を受けたんです。私はその時の会話を、今でもよく覚えているんです。そのドクター、こういうふうに言ったんですね。「まずどの部分まで痛むかよく教えてください。それから次には傷口から目を離して私を見ていてください」私は言われた通りにしました。いくら麻酔で痛くなくても爪をはがす手術をじっと見つめる勇気はなかったからです。明るく朗らかなドクターと会話しながら手術は20分ほどで終わりました。今でも感謝しています。と同時に霊的な教訓をこの体験から学んだように思うのです。
すべての罪人はまず自分の傷口を見るべきです。そして次には、キリストを見上げるべきなのです。なぜならこの方こそは、十字架の上で私の罪を背負って罪の永久処分を成し遂げ、死後三日目に復活なさった方だからです。罪が分かったら、罪から目を離してこの救い主を見上げるのです。そうすれば救われます。どうぞ、あなたもキリストを見上げて救われてください。心からお勧めしたいと思います。
鴻上尚史さんが主宰した劇団『第三舞台』は一度解散しましたが、『第三舞台2026』というユニット名で再結集します。彼はなぜ、自分の劇団を第三舞台という名前にしたんでしょうか。彼によると第一舞台というのは、ステージのことです。第二舞台というのは、客席のことです。じゃあ、第三舞台とは何でしょう。それは第一舞台と第二舞台が感動で解け合ったときに現れる幻の舞台のことだそうです。役者と観客が一つの芝居の中で、出会いを経験するときにだけ現れる幻の舞台なんですね。この出会いを経験すると役者も観客も一皮むけるそうです。普通の人は舞台には立ちませんが、でも、人生の中で自分を変えてしまう出会いを経験することはあると思うんです。人生は出会いで変わり、出会いで決まるんですね。その実例を聖書の中に見出すことができます。
ヨハネの福音書の最後に、復活したキリストと対面する一番弟子ペテロの記事が出てきます。そこには、こう書いてあるのです。
イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」 と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」 イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
このペテロとキリストの出会いを、三つの観点で考えたいと思います。
第一に、この出会いは十字架にかかって死を経験した後、復活したキリストとの出会いです。復活によって人類を悩ませる罪と死の問題は、すでに解決済みなんだということを、身をもって示した方との出会いなんです。
カトリック作家の島尾敏雄さんという方の作品に『死の棘』という小説があるんですね。随分古い小説ですが、まあ、あるところに平々凡々な家庭があるんです。ところが夫の浮気によって、家の中がめちゃくちゃになっていくというストーリーです。夫の裏切りによって妻は、精神を病むようになるのですが、発作が起こると、まるで刑事のように夫を尋問し始めるんですね。「あなたはあの女と池袋に行ったのか」そして、いつも最後は「私はあなたに対する愛を失ったから、どうか死なせて欲しい」って言うんです。夫は苛立って「いや、死ぬなら俺が死ぬ」すると妻は子どもに向かって「お母さんは死ぬけど、お父さんはもっと良いお母さんをもらってくれるから、おまえは生きなさい」すると長男が「いや、僕ももういろいろ見てきてほとほと嫌になったから、僕も死ぬ」下の娘は「死にたくない。死にたくない」 そのうち、疲れ果てた母親が涙をためながら大きなあくびをするんですね。すると無邪気な子どもたちは「家庭の事情が終わった。お母さんがあくびをした。万歳!万歳」って言うんです。しかし、夫は次の発作を恐れて気が休まりません。生き地獄のような状態が延々と続くんですね。平凡な家庭を壊したのは夫の罪でしたが、この果てしない不毛の会話は、当事者たちが死なない限り終わりがこないでしょって作家は言いたいんです。すなわち罪を終わらせるのは死だけですっていうんです。罪は死によって終わらせることができる。でもそこには、救いがないんですね。しかし、キリストは私たちの罪を背負って、十字架の上で死んでくださったのです。ご自分の死によって、私たちの罪を終わらせてくださったのです。しかも死で終わるだけではなく、三日後に、よみがえってくださったのです。この復活したキリストを自分の目で見、出会い、語られたのがペテロなんですね。これによって、罪と死の終わりを確信することができるんです。
第二に、この出会いは自分の醜さを完全に知りながら、しかも軽蔑することなく、愛してくださる存在との出会いなんです。私たちはこの出会いによって、本当に自分から解放されるんですね。
私の最初の妻は2009年9月に亡くなりました。亡くなる数週間前、私は彼女に隠していたことを告白したのです。実はある人を赦していなかったんです。私は彼女に対して正直でありたいと願いながら、なかなかそれを言い出すことができずにいました。どうして言えなかったか。それは、もしこのみじめなことを知られてしまったら、私のことを軽蔑するんじゃないか。私に対してがっかりするんじゃないかということを恐れていたのです。しかし、思い切って告白しました。すると、彼女はこう言ったんです。「知ってたよ。でもいつか神さまが解決してくださるとも信じて、ずっと祈ってたよ」「そうか、知ってたんか」「うん。でも思い切ってそれが言えるってあなたは勇気があるわね」そう言われたときの解放感は本当に何とも言えないものですね。自分のありのままを全部見せても、責められず、軽蔑されず、愛が継続すると分かると、本当に勇気が湧いてきます。そして、キリストはもっともっともっと、そういう方なんです。あなたの人生の出来不出来によって、あなたを愛したり、愛さなくなったりする方ではありません。どんなに醜いことをしでかす人であったとしても、キリストはあなたをお見捨てにならないのです。なぜ、そういうことができるんでしょう。実は、このペテロという人は、十字架を目の前にしたキリストを三度も「あんな人知らない」と言って、裏切った人なんです。そのペテロに対して三度「あなたはわたしを愛しますか」と尋ねてくださった。それはなぜでしょうか。それはキリストがペテロを愛しているからです。なぜなら、自分が愛してる人の愛を確かめたくなるのが、愛の本質であるからです。自分にとってどうでもいい人は、その人が自分を愛してくれてるかどうかなどということも、気にしないんですよね。
第三に、この出会いは、自分に使命を授ける方との出会いなんです。 キリストは大失敗をしたペテロに、こう言いました。「わたしの羊を飼いなさい。」あなたの造り主はあなたに使命を授けて、あなたをお造りになりました。人はその使命に生きるとき、生まれてきて良かったって人生に充足感を覚えて生きることができるんですね。この使命っていうのは、何も目立った仕事をすることや、偉大な賞をもらうことばかりではありません。病に倒れ、現役を退き、入院生活を続けるような中で、その状況の中でどう生きるか、この境遇に対してどう向き合うか、与えられた残りの人生の中で、人生の与え主に対してどのような態度で生きていくのか。これも立派な仕事です。なぜなら仕事とは、第一に人にどう思われるかよりも、神にどう答えるのかによって意味づけをしていくものであるからです。神に忠実に生きる人生は、他の人を励まし、良き感化を与えていくことができます。キリストは、あなたに罪の赦しと永遠のいのちを与え、また、変わらない愛を与え、また、あなただけの使命を与えてくださる方です。どうぞ、あなたもこのキリストを自分の救い主として信じ受け入れてください。そこにキリストとの生ける出会いが始まるからです。心からお勧めしたいと思います。
さて、世の中にはいろんな健康法がありますが、一番簡単で劇的な効果を生むものは、よく噛むということだそうです。食事の時に、ひと口につき30回噛んで食べることです。そうすると、第一に脳が活性化します。実は脳で使われた血液は、静脈を通って心臓に戻る前に、海綿静脈洞という中継所にいったん集められるんですが、よく噛むと、この部分を刺激してポンプの機能を果たし、血流を良くするっていうんですね。さらに、よく噛むと唾液が大量に出ます。この唾こそは、最高の免疫剤なんだっていうんですね。さらに、第三に、老化が遅れるっていうんですね。噛む刺激によって、パロチンというホルモンが分泌され、これが筋肉老化を防ぐんです。以前、日本有数の長寿村に、ゆずりはら村というのがあったんですが、ここのお年寄りたちは、100歳超えてもみんな元気だったんですね。その理由は、よく噛んで食べるという習慣が、本当に定着していたからです。ところが調べてみると、皆さん歯がなかったんです。何と言っても100歳ですから。じゃあどうやって噛んでいたんでしょうか。なんと歯茎で噛んでたんですね。長年歯茎で噛み続けてきた結果、まるで歯のようにガチガチに硬くなった歯茎になっていたんです。これでよく噛んで食べていたんですね。外から取り入れるいのちをよく味わって吸収することが元気の秘訣だったんですね。見習いたいものです。
そこで今日は、神が準備した永遠のいのちを自分のものとして吸収するために必要な三つのステップを考えたいと思うのです。
まず第一に、あなたは神によって完全に知られているということを認めることです。
以前、私はロトシックスで3億2千万円を当てた人物のインタビューを見ました。彼は38歳の時、高額当選金を引き当ててしまったんです。銀行に行って通帳を受け取ると、今まで見たことがないようなゼロの並んだ金額が書いてある。じーっと見てますと、担当者が一冊の小冊子をくれました。そして、必ず読んでくださいって言うんです。その小冊子のタイトルは『この日から読む本』です。これは一千万円以上の宝くじ当選者全員に配布するものです。そこには、急に大金持ちになった人間が、いかに異常行動を取ってしまうかについて、警告をする言葉が書いてあるんです。彼はそれを読みました。読みましたが、ふと気づくと3年間で2億円も散財してしまったそうです。どうしてばかなことにお金を使ってしまったんでしょうか。ストレスが溜まって溜まって仕方がない、そのストレスを解消するためだっていうんですね。ではいったいどんなストレスだったんでしょう。大当たりしたのにそれを誰にも言わないようにするというストレスなんです。なぜ幸運を知らせないんでしょうか。知らせたが最後、まともな人間関係を築くことができなくなってしまうからです。知られたら利用されるかも知れない。付け込まれるかも知れない。下心のある人間しか近づいてこないかも分からない。それで億万長者になりながら、今までと同じような生活を続けていることへのストレスで、ばかばかしいことに浪費してしまうというんですね。しかし、知られることを恐れるのは、付け入れられると思っているからです。もし自分のありのままを知っても、付け入ることなどしない友がいるなら、その人には打ち明けるのではないでしょうか。私は8月の数日間、何人かのクリスチャンの友人達と過ごしました。そこには宣教師やボランティアのスタッフがいました。その数日間は、私にとって至福の時でした。なぜなら彼らは、私のことをよく知って、しかも私のありのままを受け入れてくれる友達だったからです。彼らに対して私は、何も隠しませんでした。彼らも私に何も隠しませんでした。見解の相違はありますが、だからといって互いに攻撃することもありませんでした。互いに尊敬しているからです。彼らといるとき、私は話してもいいし、黙ってもいい、一緒にいてもいいし、席を外してもよい。ひと夏の激務の後、互いにねぎらい合いながら、ゆったりとした時間を過ごすことは、英気を養う上で役に立ったと思います。不完全であったとしても、理解者のそばにいると、元気になれるんですね。神様はあなたの完全なる理解者です。なぜなら、聖書にこう書いてあるからです。
「主は私たちの成り立ちを知り私たちが土のちりにすぎないことを心に留めてくださる。」
神様はあなたの作者です。ですから、あなたの成り立ち、あなたの生い立ち、あなたの個性、あなたの弱点、そして、あなたの過去の全ての失敗や罪も含めた一切の人生を、完全にご存じなんです。あなたは神に完全に知られているのです。
第二に、神様はあなたの全てを知った上で、あなたを完全に受け入れることができる方です。なぜなら、聖書にこう書いてあるからです。
「あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。」
御子というのは神のひとり子、イエス・キリストのことです。
あるミッション系幼稚園に通う四歳の女の子がいました。彼女はある晩、お母さんに字を教えて欲しいと頼み込みます。どうせ長続きしないだろうと思って、毎晩寝る前に「あいうえお」から教えたんですが、実に根気強いんですね。他のお稽古事は、どれもこれも途中でやめてしまう子が、文字の習得には異常なほどの粘りを見せたのです。ある日のこと、幼稚園の担任の先生から電話がかかってきました。「実は今日お子さんから手紙をあずかりました。先生から神様に渡しておいてくださいと頼まれた」そう言うんです。お母さんの許可をもらってその手紙の中身を開くと、こう書いてありました。「神様、良い子にするのでパパを帰してください。お願いします」彼女のお父さんは半年前、交通事故で亡くなっていたのです。事故の直後はショックでよく分からなかったけど、日が経つにつれてパパに無性に会いたくてたまらなくなったのです。お母さんは、やっと分かったんですね。何であんなに頑張って字を覚えようとしたのか。字を覚えたのは、神様に手紙を書くためだったのか。母親として、その手紙の文面に触れたとき、心が揺さぶられ涙をこらえることができなかったそうです。ひとり子の祈りは、親の心を射貫くのです。神のひとり子イエス・キリストは十字架にかかって、あなたのために祈られました。「父よ。どうぞ神から離れているこの人を、取り戻させてください。罪の償いは、私が代わりにしますので、どうぞこの人をありのままで完全に受け入れてください」それは神の心臓のど真ん中を射貫くような祈りでした。キリストはあなたのために十字架の上で、罪の刑罰を受けてくださったのです。そして、死んで3日目に復活して、救いの完成を立証してくださった方なんです。この御子の犠牲のゆえに、あなたは完全に神に受け入れられるのです。神様は、あなたの裏も表も、完全に知った上で、あなたを完全に受け入れてくださるのです。
第三のステップは、神の受け入れをあなた自身が受け入れることです。神様があなたを受け入れてくださったことを、あなた自身が受け入れることです。これが救いを吸収し、自分のものにするということなんですね。ぜひ今日、救い主イエス様を、自分自身の個人的な救い主として受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。