The post ヨブ記の解説・ヨブ記におけるヨブの三つの姿。ひどい話ではないという考え方になる理由 first appeared on 絶版あかみる.
]]>最近某SNSでヨブ記が話題になっていました。リプ欄や引用を見ると「ヨブ記の理不尽さが面白かった」とか、「神ひどすぎヨブかわいそうすぎ」といった感想や意見があります。
これらはヨブ記を読んだ人々の一般的な受け取りであろうと思います。実際、クリスチャンでもヨブ記の受け取りは困難であり、解釈も一様ではありません。私も最初、この書のせいで「神は人間の心が分からない」という言説が生まれてるよなと思っていたのです。
しかし、そうした感想は最初の印象にすぎない場合が多くあります。
聖書は何度も読み返したり、個々人のタイミング次第で解釈がゆっくりと進んでいきます。特にヨブ記を理解するようになるのは信仰についての理解が進んでからになるでしょう。
つまり、信仰者のモノの見方をもってヨブ記を見ることが必要で、そうすると、この書は辛い現状にある信仰者にとっての慰めと、励まし、そして模範として信仰者の姿を描いている書であることが見えてきます。

キリスト教の概念で特徴的なものに「同労者」というのがあります。
同労者とは、互いに励まし合い、助け合いながら共に生きる人々、共同体というものであり、イエスがあなたの同労者であるように、あなたもイエスの同労者になろうと励みなさい。という説教がなされることがあります。
人間は辛い時、単なる同情や、励ましよりも、自分と同じかそれ以上につらい状態にある誰か同労者が、それでも励まし共に立ってくれていることに慰められるものです。
さて、ヨブ記の主人公ヨブ、彼もまた同労者としての性質を持っています。
彼は家族がみな突然死に、自分は病に侵され、名誉は消え、富は失われ、さらには妻や友人たちから謂れのない非難までされるのです。
普通に平時を生きている人間が、これほどの事態に見舞われることは稀でしょう。しかしながら我々人間はみな、ある程度いろいろな苦難にあい、それぞれに苦しい思いをしています。それは他者と比較してどうこうではありません。客観的にみて些細な事と言われようとも、主観的にはとてもつらいことだってあるでしょう。
そんな時に人の心の慰めとなるのは、あなたの辛さを完全に理解、共感してくれる現実の友人、恋人、家族でしょうか。もちろん、それはいたらいいでしょう。しかし、たいていの場合はそうした他人を得るのは難しく、一定の共感すら得られないこともあるでしょう。
そんな時に、聖書の中にはヨブ(やイエス)がいるのです。
自分よりどう考えてもひどい状態にさらされている彼はしかし、あなたに「私の方がつらい」とは言いません。ただ、私たちがどう考えてもあいつの方がつれーなと認識させられるのです。
世界には戦争でヨブもかくやと言うほどの苦難に晒された人々が沢山存在してきたし、現にいまもいるでしょう。彼らにとってすら、ヨブは同労者たりえる存在として据えられています。

ヨブを苦しませることを、神はサタンに許可します。そしてさんざん苦しまされたヨブに地上で回復の報いを与えます。
これを見た人々はこう思うでしょう。
「死んだ子供の代わりに新しい子供を授けたからそれでOKってなんやねん!!!ふざけてんのか!」「やっぱ神は人間を理解してくれないんだなー」「不条理でおもろい」「最後中途半端に救わない方が良いんじゃないか」etc
まったくもってその通りな感想だと思います。ただ、信仰がある前提で聖書を読む人から見ると少しだけ違う受け取りになります。
キリスト教の世界観では、天と地の世界があり、死後も人格を保った形で人は天の世界に入ります。— もちろん天の御国の他に地獄や煉獄の概念があることは有名でしょうが —
ここで神の御心にかなう人は「高く上げられ」、あるいは地上で可愛そうな目にあった人々を神が憐れんで救い「十分に報いられる」と言います。
この十分に報いるというのが難しいところです…
ヨブの家族のように突然全員惨殺、圧死させられるというひどい目にあったとしても、その当事者たちが十分に報いられた、差し引きゼロ以上にしてもらったと思えるように、神は報いてくださるということになっているようです。
そんな方法があるのかと疑問に思いますし、何も具体的に記述がありませんからいまいち信ぴょう性がありませんよね。…しかし、そこは神なので、なんかいい感じに報いてくれるということなんでしょう。信仰ですから根拠や証拠を求めるものではありません。
さて、ヨブは地上にて全てを奪われひどい目にあわされました。そして、地上で埋め合わせのように新たな家族と富と名声が与えられます。
ここで終わりならば一般的な非信徒的ヨブ記感想を言うしかありませんが、これにとどまらないのです。
信仰者からすればヨブは死後、天に上げられ、どのような形でかは記述がないものの、取り上げられた元の家族たちに会うこと、取り戻すことができるということが「分かっている」のです。(信仰しているからそうだと信じられるという意味で)
そして、信仰上の考えとしては、地と天の世界は分断されているわけでなくシームレスであるがゆえに、「地上で取り上げられたものを地上で返されなければ意味がない」と神に文句を言うのは信仰者の考えにないわけです。
だから、そう考えると、
ヨブは元の家族を含め地上であらゆるものを失いますが、地上で新たな家族と倍するほどの富と名声を返され、さらに天においては元の家族をも取り戻すばかりか、苦難を乗り越えた者として神のそば近くに高く上げられる栄誉を受ける。
— 聖書にすばらしい信仰者としてその名が残り、聖書あるかぎり永遠にその栄誉が称えられ続ける —
ということで、このヨブは報いられていることになっています。
地上でだけなら報いに不足があるように感じても、信仰的視点から見た場合は天と地両方のスパンでの判定となり、ヨブの人生は山あり谷ありだけど最終的にはめっちゃ山という証言になっています。
必ず神が報いて下さるという前提、すなわち篤い信仰があって初めて、私たちもヨブの回復を回復として認めることができるようになるわけです。

それにしても、サタンに「ヨブはいい状況にいるから神を讃えてるだけっすよ」と言われて、「ほな試してみたら。殺さんようにな」と言う神様もどうなんだ…と思いますよね。実際ここに怒る人も多いでしょう。
ここについては、神が全知全能であるという点から、サタンがどのようにヨブを試しても、ヨブがそれに耐えて最後にはより強い信仰を取り戻して立ち直ることを知っておられる。というのがポイントなのでしょう。
たとえば、戦争も犯罪もない非常に平和な世界で、「人のものを盗ってはいけません」「人に危害を加えてはいけません」と、善を言うのはある意味で簡単なことです。
しかし、これが戦争中の場所や、悪が支配する場ではどうでしょう。
おそらく普通の人間には困難でしょうし、聖書のなかでもそれはある意味で容認というか、無理もないこととして見られている節があります。罪ではあるけど、そのような困難な状況下であったことを鑑みて赦される余地があるという見られ方をしている感じです。
そのような状況下でも善を選び取れる人を、我々人間は地上で見ると驚き、敬ったり、理想主義のバカだとあざけったりするわけです。しかし、それは聖書の神からは非常に高いものとして見られるというのです。
善の中にある善よりも、悪に取り巻かれた中で善を保つことがより高い者なのです。
14世紀のドミニコ会神父ヨハネス・タウラーが説教のなかでこのように言います。
人間は「非類似」の状態においてますます成長し、「類似」の状態における以上に、神に自分がはるかに忠実であることを知ることができます。
( 行路社 /『中世ドイツ神秘主義 タウラー全説教集 第1巻』/ オイゲン・ルカ 橋本裕明 訳 / 説教7-P117 )
つまり、聖書の神の言う規範や規律、善や倫理、そうしたものに取り囲まれた世界(類似の世界)ではなく、そうしたものを否定するような価値観(非類似の世界)において、神との類似を輝かせることのできる個人がより高いものとされているわけです。
そして、それができる者であると見込まれたヨブであったからこそ、彼にはあれほど苛烈な責め苦をも神は許可された。という理解が成り立ち、これがつまり神によって「練り清められる」。という概念になります。
こう理解すると、最初に神がヨブを正しい者と言った上で試練に合わせる流れの意義が見えてきます。
そして事実、ヨブは最終的に与えられた苦難をも超えて、神に信頼しへりくだる、極限まで高められた信仰者の姿を見せるのです。
確かにヨブに与えられた試練はひどいですが、それは我々がヨブをすごい信仰者であると認めるためにも必要であり、また、そのように計画された神の業は、地上においてヨブほど正しいものは他にないと、最大の賛辞を与えるヨブへの信頼があってこそ。
一概にひどいだけの話とも言い難い深みがあるでしょう。ひどいはひどいけど。
— 余談 —
注意が必要なのは、ここで言う「神からの試練」というのは、人間が生きていれば避けられないような不条理、病気やケガ、障害や一般的な世俗的苦難のことではなく、前述したような倫理や善に反することについてです。
例えば究極的には、ナチス政権下で大衆が皆ユダヤ人の虐殺を容認する中で反対するとか。より身近な例をあげるなら、いじめを見て見ぬふりをしないとか、自分が嫉妬や妬みといった暗い感情に囚われた時に、それを退けることができるか。ということです。
たまに「神は乗り越えられない試練を与えない(コリントの信徒への手紙1の10章13節)」と、病にかかった方やその周辺の人がおっしゃられることがありますが、あれは誤用であると思います。
そういった誰しもにありうる不幸について、そんなに気丈に振る舞わなくていいんです。人が乗り越えられないような不条理に見舞われることは実際にあり、現実的に対処しようと試み、存分に嘆き、怒り、どうにかしてくれと訴えるべきなのです*。神に認められた正しい人ヨブですらそうしているのですから。
* 詩編の嘆きの詩や、各書において神に嘆き訴える登場人物が義とされることは多々あります。キルケゴールの『キリスト教の修練』(新教出版社 / 井上良雄 訳)第三部P217
ただ、聖書においては、信仰を持っている人はその報いを必ず(地上でか天においてかは分からないけど)与えて下さると信じる。というのです。信仰の有無による差はただ、絶望か希望をもつかという点に集約されています。
—
以上から、ヨブ記というのは
という、三つの姿をもって描かれるヨブの物語と言えるでしょう。
信仰の前提を抜きに考えると、勘違いや歪んだ受け取りになってしまうので、難しい書であると言われます。
しかし、詩編における嘆きの詩と同じように、困難な時期に寄り添う同労者としてのヨブの姿に慰められ、証言者としてのヨブに励まされ、そして模範としての信仰者であるヨブに倣って行こうと思わされる。そんな深い内容を語っているのがヨブ記なのです。
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]]>The post 『フラニーとズーイ』の読書考察。純粋で神秘化していない現実的キリスト教宗教哲学の巡礼物語 first appeared on 絶版あかみる.
]]>『フラニーとズーイ』はJ・D・サリンジャーによって書かれた小説であり、一般的な紹介では青春小説であるとされる。また、青少年の自意識だとか、世に蔓延するエゴ、あるいはそれらへの向き合い方がテーマであると言う。
しかしながら、私はそうしたことは表層的な道具立てであって、あるいは広告宣伝のために拵えられた売り文句にすぎず、作品の中核ではないと考えている。
これはあくまで「キリスト教の信仰」についての書であるし、とりわけ、なんらかの創作者── 行動者と言ってもいい ── が陥る信仰的な悩みについてのサリンジャーの回答の書である。*
*またはキリスト教の、それもキィルケゴールがいうところの、単独者としてのキリスト教徒的回答である。
まず、この作品を語るうえで目を通すべき考察などを寡聞にして存じないことについては申し訳ない。
ただ幾つかの感想や考察、ネット上で読める小論などは読んだが、「文学的に読んでみた」という前提があるために、日本人が苦手とする宗教哲学からの視座がすっぽり抜け落ちているように感じる。これでは物語の本質が分からないのではないだろうか。
少なくとも、ストア主義、聖書(旧約の基本知識および伝道者の書・新約の四福音書・手紙類)、トマス・ア・ケンピス、バニヤンの『天路歴程』、エックハルトかタウラー(ドイツ神秘主義)、老子、歎異抄あるいは鈴木大拙の著作あたりの、ベースになっている思想に一通り自身で触れて、実際に経験としてそこにある宗教的悩みと、思想的解決策を自身が共有しなくてはならない。
親切にもサリンジャーが作中でそれらをきちんと登場させてくれているのだから、「そっち読んでねサイン」と解するべきだろう。
しかしもちろん、この作品を単に娯楽作品としてのみ楽しみたいならば、別に前提理解など不要で、サリンジャーの文章や構成、村上春樹氏の訳文のかっこうよさを楽しめばいいだろう。そんなことは当然である。この記事はあくまで、そうじゃない場合に向けて書いている。
ちなみに、作中に出てくる本は『無名の順礼者―あるロシア人順礼の手記』であるようだが、これは作中で説明される内容で充分だろう。

さて、なぜそんな前提書籍が小説にあるのかと言えば、その宗教哲学、思想的なベースがないと、フラニーとズーイの議論で問題とされている悩みも、その回答も理解できないからである。
もしそれらの前提を理解しないで読んだ場合にどうなるかと言えば、「思春期の悩みと独善」という、お決まりのテーマしか浮かび上がってこないのだ。
より登場人物の主観的に言うなら、一種のヒステリーや、感受性の強すぎる宗教熱心、今風に言うなら中二病的悩みだと括られて、周囲からは── 作中では主にフラニーの彼氏と母親から ──「何をそんなに」と雑解釈をされるということだ。
これはすなわち、ズーイが自分達を「畸形人形」と評したように、宗教的理想を持って生きる自分たちが世間的に理解されていないという疎外感である。そして、それを受け入れて畸形人形として生きるズーイは、キィルケゴールの言う単独者なのだ。*
*もちろんサリンジャー自身もそうである。
さらに言うならば、この書籍の恐ろしいところは、まさにこの物語において描かれる「創作(俳優としての演技を含む)における本質の理解されなさ」という悩みを問題として取り扱いながら、実際にこの書籍自体も、多くの人には表層の楽しみだけを見せて、本質は理解されえないままに、畸形なままに書かれているという点にある。*
*並みの作家ならそれでいて世間に大ヒットとして評価されるものに仕上げることは出来ないだろう…
物語の創作 ── 作中ではフラニーとズーイの俳優としての演技 ── と言う過程で、二人が直面した問題は、端的に言えば「人間は何をしてもエゴからしか何もし得ないのではないか? そして、それらは全て無価値な塵にすぎないのではないか」ということだ。
こうした厭世主義的な考えは、ニーチェやショウペンハウエルなどを引き合いに出すまでもない。伝道者の書でとっくに語られて、かつ以下引用文のように肯定されている。*
ヘベル、ヘベル。一切はヘベルである。**
伝道者の書1の2
*ほかに伝道者の書2の11、2の22、4の4も同じことである。
**日本語ではヘベル=空と書かれる。הבל ヘベルとは蒸気や煙を指す言葉で、そのように捉えどころがなく、消え去るものということ
しかし、物語の本質は、そうした厭世観を超えていく術について、キリスト教の教えをベースに語ることにある。
ニーチェは超人思想をぶち上げ、仏教やショウペンハウエルはそのまま受け入れよとした。キリスト教は信仰によって突破を試みるのである。
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。
伝道者の書12の13
神を畏れよ。神の命令を守れ。これが人間にとって全てである。
これだけを抜き出すと非キリスト教徒が腹立たしく思うことは想像に難くない。
カルト的で横暴に聞こえるだろうし、人間個々の尊厳を無視しているように感じるのだろう。しかし、それはキリスト教以外の宗教も含めて、宗教的本質を理解せずに言葉だけ受け取ってしまった場合の誤解である。
すべてのまっとうな宗教的探究は差違を、目くらましのもたらす差違を忘却することへと通じていなくてはならないんだと。
『フラニーとズーイ』 新潮社文庫 P101
まさしく、宗教的本質の話であるこの部分は、キリスト教に限らず、禅や仏教(主に鎌倉仏教)に通ずる部分が存在している。これはサリンジャー自身が、当時アメリカで流行した東洋思想にも傾倒した経験から来ている。
そしてまた、それらに一種の幻滅を抱いてキリスト教に回帰した経験も強く作用しているだろう。

ドイツ神秘主義、エックハルトの継承者であるタウラーはこのように説く。
常に自分の無の悟りを目的とし、熱心にそれに達しようと努めれば、
ヨハネスタウラー説教集1 P61
大いに救われることになります。内面あるいは外面で
自分の思い上がりに気づいた場合は、ただちに最深の「底」へ、
躊躇しないで速やかに沈まなければなりません。
あなたは「底」の中で、自分の無へ沈みなさい。
まるで東洋思想のような宗教哲学だ。つまり、自身が無であることを知り、受け入れ、そこに沈む。その前提があって、一度自分から無になって(その認識に戻って)から「神に聞き従う」につながるのだ。
実を言うと、カルトにせよ、まっとうな宗教にせよ、ここまでは同じである。洗脳か洗礼かの違いしかない。しかし、その無になった個人と言う器に何を注ぐか、その一点に差異がある。
カルトであれば教祖や団体への帰依とか金であろう。分かりづらく危険なのは「救い」だの「愛」だのと言う連中だ。*本来のユダヤ・キリスト教は「希望:どんな時も喜びうること」、「神の霊」と言われるものをを注ぐ。
*キリスト教界の問題は、教会の発足した時代からずっと、カルト的な派閥が混在し続けているということにある。しかし同時に、それを根絶やしにしようという独善的正義感から何が起きるかを現代に生きる私たちは知っている。
基本的に宗教の危険性というのは、一度個人を無にするということと、(神に)聞き従うようにするという部分にある。
その為、信仰に入るためには人に流されたり、当然ながら強制されたりしてはいけない。また、苦境に立って初めて、信仰から得られる宗教的利益を求めて縋ってはいけないのである。*なぜなら、そうすると容易に聞き従う相手を神から人に替えてしまうからだ。
*伝道者の書12の1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。
話が遠回りしたが、まさに作中においてフラニーは厭世観と宗教的傲慢 ── 及びそれに気づいた自己嫌悪 ── の虜になって苦悩する。ズーイが最終的に解決策として提示したのは、本作にある通り「太ったおばさん」。すなわち、キリストへの回帰の道である。

創作者のキリストへの回帰の道と上に書いたが、実を言えば創作者である必要すらない。
はたらき(仕事に限定されない)を何のためにするのかという虚しさに突き当たった全ての人々にとって、これは共通の回答として提示されたのである。
全ての人と言っても、その解決方法が機能するのはキリスト教徒のみで、それも真に信仰を会得したキリスト教徒向けではあるけれど…。*
*だからフラニーが間違った信仰の「脇道」や「躓き」に見舞われるのだ。彼女の役どころは反面教師だ。彼女の失敗は、ただ祈りの言葉を何度も唱えることで「お手軽神秘体験」を得ようとすること、イエスの言葉やアイデンティティから気に食わないところを取り除いて偶像化する試みなどがそれである。バニヤンの『天路歴程』はこのあたりをメインテーマとして扱っているけれど、この物語ではサリンジャーがそれの焼き増しを目的としているようには思われない。あくまでこれも道具立てであろう。
その回答がどのようなものか、それはもちろん。この作品でおそらく最も有名なフレーズに現れている。
シーモアの言う太ったおばさんじゃない人間なんて、誰ひとりいないんだよ。*
『フラニーとズーイ』新潮社文庫P290
*太ったおばさん=キリスト(キリスト・イエスに限定されない)
ここはサリンジャーのキリスト理解が、いささか汎神論に傾いているのではないかと怪しい部分であるが、おそらくそうではないであろう。また、ここで言うキリストはキリスト・イエスのことだけでなく、もっと広範なあらゆる宗教的救いの本尊とでもいうべき概念だろう。
ズーイがこの言葉に至るまでの文脈を追い、かつ前提知識を合わせるなら、回答の解釈はすなわち、「神の意ゆえにはたらきをし、神を思ってはたらきをせよ。自らのはたらきのうちに福音が生きていることを喜んで、自発的に自身の労苦を負え」ということだ。
これは一種の義務感や使命感にあたるもので、そうすることで地上の人間からの反応や賞賛、地上の財宝を無意味なもとのすること、また自身のエゴからも自由になり得る”システム”であることを説いている。
またこれは、本当に人間を変えうる力を持つのは、上なるものへの奉仕的活動、軍務的活動であるという考えからくる。*そして、「上なるもの」つまりは神を、会社だとか国家に挿げ替えられないようにしなくてはならないのである。**
*カール・ヒルティ『幸福論』第三巻 岩波文庫 P246 : 「(キリスト教は)その本質に存する軍人的なものが発揮される。(略)自分の勤めが分かっている場合に、なおも思案に暮れることは許されない。」
**日本をはじめ多くの現代的問題はここにあるのだろう。人を神としてしまったり、会社や国家、あるいは何らかの理念を神としてしまった時にブラック企業問題や過剰なナショナリズム、過激なリベラリズムが立ち上がる。人間はとかく偶像崇拝をしやすい。
すべての人の中に「太ったおばさん=キリストのかたち」が存在すると言うサリンジャーの見解は、先に述べた通り少し汎神論的であるが、旧約聖書的だとも言える。── つまり人は神の形につくられたというやつ ──
あらゆる宗教を包括しうる解釈としての回答を試みたのだろうと思う。しかし、私はこれに違和感を抱く。なので、本作の考察とは別に、違う考えがあることを書いておきたい。
以下は私が愛読するヒルティの一節だ。*
われわれが人間を愛さねばならないのは、彼らが愛に値するからではない。(略)むしろただ愛することによってのみ、互いに損なうことなく人間と生きることができるからであり、また、人間と共に生きることは神の意志だからでもある。
『幸福論』第三巻 岩波文庫 P270
*おそらく彼は19世紀に生き延びたドイツ神秘主義の最後の継承者だろうと思う。
サリンジャーの回答(キリストの遍在)は無理だ。と私は思う。すべての人のなかに神の姿を見出すのだという導きは、汎神論がベースの日本人的には理解しやすく、いっけん良いもののようだが、実際には使い物にならないだろう。
それよりは、神の性質であるただ愛することを、「シェマ」にある通り、*それを命令として聞き従うことに決める方が、ずっと実現可能ではないだろうか。
*シェマ:第一の掟。聞けイスラエル。私たちの神、主は唯一である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟。隣人を自分のように愛しなさい。
あなたが嫌いな人間のうちに良い人間を見出して、それだけを見てあげよう。なんて物分かりの良い、お行儀の良い言葉よりも、「好き嫌いを捨ておけ、お前はそいつと今戦場にいて、同じ銃座を守っている。そいつと否応なく協力して、そいつの手助けをして、そいつを思いやって行動してやらねばならない」という軍務的な行動規範に縛られた方が、いや、そうすることでしか、そも人間全てを愛するなど不可能なのだ。と私は思う。
私はそう言うヒルティに賛同しているし、何より福音書のイエスもこんなノリである。*
*特にマルコ福音書は実践的なのでその傾向が強い。マタイはもっと律法的。ルカは初心者向けなのでもっと優しさや憐み深さが前面に出てきており解説的。ヨハネは特殊で信徒向けの神秘性が強い、最も信仰的書である。フラニーの犯した過ちはイエスのやさしさと憐み深さだけを抜き出そうとした行為である。
しかし、もちろんサリンジャーの意見に賛同する人もたくさんいるだろう。おそらく多神教が大好きな人や、私よりも人を好意的に信じられる人だと思う。それはそれで何の問題もない。
なぜなら兎にも角にも、見解の差違は忘却しなくてはならない。本質にあるべきは「宗教的な到達の先に、全ての人に対してまずは好意的に向き合う性質を持つこと」なのだと理解すればよいだろう。*
*キリスト教徒において、マタイ5章43節を引用して、すべての人を愛さねばならないかのように理解する人が多いが、それは違うだろうと思う。聖書にも明確に敵の存在は描かれるからだ。「神すらも赦したまわぬ罪」を犯した者を、人が赦すようには言われていない。これもまたフラニーと同じ失敗だ。あくまで「まずは」すべての人に好意的に親切に、寛容に向き合うこと。また「本心から悔い改めた者は」赦すこと。ルカ22章51節にて、イエスを捕えに来た兵士の耳をペテロが切り落とした時、イエスはペテロを制止して「もうそれでよい」とは言ったが、叱責はしていない。つまり、敵であるというプロフィールから愛さなくてもいいとはならないが、実際に敵となった者に対しては対処することは当然ありうることとして解されている。もちろん、そのうえでイエスが兵士の耳を癒されたように、敵に憐みを持つようにとも書かれている。聖書の本質を理解するためには、こうした繊細なバランス感覚をくみ取らなければならない。

最後に、この物語がラブ・ストーリーであるとする解釈に対しての同意と異論を記したい。
私が今からお目にかけようとしているのは、短編小説と言うようなものからは程遠く、むしろ散文によるホーム・ムーヴィーに近いものである。
『フラニーとズーイ』新潮社文庫P72
私がここで提供しようとしているのは実を言えば、神秘的な物語でもなければ、宗教的に神秘化された物語でもない。言わせていただければ、これは習合的な、ないしは複合的な、そして純粋にして入り組んだラブ・ストーリーである。
『フラニーとズーイ』新潮社文庫P75
これらは冒頭で作者が「ズーイ」の挨拶の中で語っているのだから、ラブ・ストーリーではあるだろう。
しかし、「ラブ・ストーリー」と聞いて「Love」を「恋愛」だとか「愛情」という個別差別的な誰かに対する感情として認識してはいけない。それは単純に翻訳からくる誤読である。
イエスの言う「ラフマー」→「アガぺ」は「自分よりも他人の益になることを追い求める選択。そうした行動」をさすような、「親切」だとか、カント的な「自律的な善い行い」に近い感覚である。*
*カントは前提書籍に上げていないが、『道徳形而上学原論』および『実践理性批判』については深い関連がある。また、アダムスミスの『道徳感情論』もだが、いずれも宗教性を排した道徳哲学性が強く、本書の前提としてはやや広範過ぎるように思って外した。
ゆえに、このお話は習合的で複合的で、純粋にして入り組んだアガぺの話だ。
サリンジャーがなぜアガぺと言わなかったのかは分からない。私の考えが完全に的外れなのかもしれない。でも私は、単に「アガペ」という言葉に付随してしまう神秘性を、キリスト教に限定する宗教的専門用語性を、物語に込めたくなかったんじゃないかと思う。
この物語はとても現実的で、現実の世界で地に足を付けて歩いていく、東洋の思想にも強く影響されながら、キリスト教宗教哲学の実践をしていこうとする二人の若い兄妹が、悩みとその解決に至る、そんな巡礼の一幕なのだから。
私は新潮社文庫の村上春樹訳版で読んだ。私は訳文に対する知識を持たないけれど、非常に軽妙で、かっこいい訳だと思う。いい仕事なのだと思うし、敬意を表することに異存ない。
ただ村上氏が、あとがきは作者の意向で付けれないからと、「基本情報を提供する」という名目で入れたエッセイの紙切れは良くない。*
*サリンジャーはまえがきやあとがきを入れるな。本文以外を付け足すな。と言っていたそうだが、まったく晴眼だ。
もちろん宗教性の強さも、当時のサリンジャーが東洋宗教へ傾倒したことも、新興宗教的キリスト教科学に熱心だったことも事実ではあるが、そこから発露されたこの物語は、それによって損なわれたものなどない。
表層の娯楽性すらも減じてはいない。それは広く受け入れられた事実に表れているだろう。もし減じていると思うならば、それは単にその読者の「宗教嫌い」が原因であって、作品との相性の問題だ。作品の内容的質を貶めるようなことを言うべきでない。
むしろ、私から見ればこの作品の面白味はまさに「宗教的本質を理解しようと努めた人間の成果物」である点にある。
誉めそやされている文体なんぞは、作中で言われている、文学的で、表層の「ちゃらちゃら」した「才知が勝ち過ぎている」ものでしかない。むしろそうした技巧的な側面は、サリンジャーを作家としてもてはやす世間に対しての皮肉だ。「磨いた靴」の方を見なくてはならない。
当時確かにアメリカに吹いた東洋思想への傾倒、それを作家自身も実践し経験し、苦悩と幻滅を経て、ついには正統的キリスト教の教えに立ち戻ろうとする過程に彼はあった。
そうしたなか、他宗教の内にある信仰の本質をも認めるという、当時始まったばかりのエキュメニカル運動的な視座を、物語という形に築き上げた傑作であることに、私は称賛を送らねばならない。*
*エキュメニカル運動とは、キリスト教の諸教派一致運動のこと。『フラニーとズーイ』出版の翌年1962年に、第二バチカン公会議によって成果を上げ、現代のキリスト教における大きな潮流となっている。
不遜にも彼の作品にエッセイの紙切れを挟むのなら、彼の生きた時代的状況の上っ面だけを知識として取り入れて、知った風に書いたり、文学的な娯楽作品、商業作品としてしか見ないような態度を超えて、また、そうした志向性をもった作家であるというろくでもない分析ばっかりをしていないで、真摯に彼のしようとしたことに目を向けて欲しいものである。
これで本当に最後に、作中から三つ、聖書から一つの箇所を引用しておえる。
演技をするんだ、ザカリ―・マーティン・グラース。*いつでもどこでもおまえが望むままに、そうしなくてはならないとおまえが感じるのであれば。
『フラニーとズーイ』新潮社文庫 P103
*ズーイの本名はザカリ―。本文でもなんの説明もなく出てくるから混乱する…
つまり俳優である限り君は演技することを要求されているんだという事実すら、君がいまだに分かっていないのだとしたら、こんなことを話しまくって、いったい何の意味があるっていうんだ?
『フラニーとズーイ』新潮社文庫 P287
でもとにかく靴は磨くんだ、と彼は言った。おまえは太ったおばさんのために靴を磨くんだよ、彼はそう言った。(中略)とにかく、シーモアがどうしてあの番組に出る前に僕に靴を磨かせたのか、はっきりとわかった気がした。それは筋のとおったことだった
『フラニーとズーイ』新潮社文庫 P289
新約聖書ルカによる福音書5章5節から。イエスがシモン(ペテロ)に漁をするように言ったあと。
シモンは「(イエスに対して)先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と答えた。
新約聖書ルカによる福音書5章5節
「人間は何をしてもエゴからしか何もし得ないのではないか? そして、それらは全て無価値な塵にすぎないのではないか」という問いに対する答え。それは、
信仰者は自身の無を知り、その召命に応じて、それぞれのはたらきを、そのはたらきそのものの為に、あるいはそのはたらきをする他者のために。そうして、神を観客として、自発的に行わなければならない。その労苦のなかにこそ福音が生きている。そう回答したのではないか。
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]]>The post 伊藤計劃『ハーモニー』に見るディストピア的幸福論の考察。結末における宗教的幸福論の構造肯定と霊性排除 first appeared on 絶版あかみる.
]]>作中の結末に関するネタバレがあります。
私は好きな漫画を5つ上げるなら、故伊藤計劃氏原作、三巷文先生作画のコミカライズ版『ハーモニー』を必ず上げたいと思う。
『ハーモニー』が物語の結末で描こうとしていたものについて、私なりの理解を持っているので、本記事はその理解について、説明の助けになった著作物と合わせて紹介したい。
あらすじでワンクッション入れたのち、まずは結論を書き、その後説明に入る。
本記事は既に原作、もしくはコミカライズ版の『ハーモニー』を見た人を前提にして書いている。なので、詳しい筋の確認などは行わないが、未読の人向けに公式のあらすじをまず以下に置いておく。
21世紀後半、“大災禍”と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する“ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した―それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰に、ただひとり死んだはずの少女の影を見る―『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。
ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)
この物語は、宗教的善性による社会構築への反発と、宗教的幸福論の構造の肯定という、矛盾を抱え、あるいはその間で葛藤した末に、霊性を排除して、科学的なアプローチによってそこに到達しようとしている。
物語の最終局面、ミァハとトァンがコーカサスのバンカーで語り合う。そんななかミァハは自身がハーモニープログラムの遂行を決心した理由をこう語る。(あえてコミカライズ版から引用します)
それでも意志を 意識をなくすべきじゃないって
環境がその場しのぎで人類に与えた機能をなくすべきじゃないってわたしはそんなのおかしいと思った
(中略)
意識であることをやめた方がいい
原作:伊藤計劃 漫画:三巷文. <harmony/>ハーモニー4. 角川コミック・エース.150-151
人間であることをやめた方がいい
わたしがわたしであることをやめた方がいい
この言葉に到達するまでの思考は、宗教的な理解が必要だ。
そしてまた、この物語の結論全体を理解するに必須となる。
ブレーズ・パスカルは物理学者、数学者であると同時に、敬虔なクリスチャンとしても知られている。
彼の唯一の遺稿著作『パンセ』において、キリスト教信仰者の立場から信仰の真髄を語り、「自我は憎むべきものだ」としている*。
*パスカル『パンセ』断章455
また、彼は他の断章でこのように述べる。
人は我意を投げ捨てたその瞬間から満足する。それがなくなれば、人は不満であることはできない。それがあると人は満足していることはできない。
パスカル著 由木康訳.『パンセ』断章472. 中公文庫. 336
もちろんパスカルだけではない。しかし、ここで様々な人々の名前を列挙して、著作を引用するのは止めておこう*。大本の聖書箇所だけでも十分だからだ。
*とはいえ、14-15世紀の修道士トマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』だけは特に示しておきたい。
34 それから、群集を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
新約聖書 マルコによる福音書8章34節
「わたしの後に従いたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」
あるいは
39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失うものは、かえってそれを得るのである。
新約聖書 マタイによる福音書10章39節
こうして自我を排した信仰者は、イエスを頭とする一個の身体として、自己を定義し直すというのがキリスト教の思想的な「我意の捨離」が示すところである*。そしてそれこそが真の幸福へ至る道だと説く。
*コリントの信徒への手紙12章27節、エフェソの信徒への手紙4章16節
(本筋とは関係が無いので、読み飛ばしても良いです。)
自我を捨てて従えという言葉を聞くと、日本人はカルト宗教的なものを感じるだろう。実際にそうした悪用が多くされている部分ではある。
カルトや異端と、まっとうな宗教を分別することは実に困難だ。いや、実際には、それは個々人の信仰者にはできるが、社会的なコンセンサスとしてそれを成り立たせることが出来ない。
少なくとも、まっとうな一神教の宗教では、偶像崇拝の禁止が存在し、それを正しく理解しているならば、たとえ自我を捨てたとしても現実社会で他の人間や組織に盲目的に従うという選択肢を取りえない。なぜなら従う対象が神という高次存在に限定されるからだ*。キリスト教の問題のおおくは、その解釈を誤ってきた歴史上の教会と信徒達によるところが多く、信徒たち自身がつまづきの石となってきた。
*ドイツ教会闘争の歴史を知ると理解の助けになる。
「自我を捨離して空となった部分に、神の霊を招くことによる幸福感。神のそば近くにいるという感覚、信仰をもって喜びとする。」これが宗教的幸福論、または有神論的実存主義が最終的に語ることである*。
*『幸福論』は世界三大幸福論という俗っぽい名前がついているが、アラン、ラッセル、ヒルティのものが名著として存在する。ざっくり特徴を宣べると、アランは自己啓発的哲学的。ラッセルは科学的論理的。ヒルティは宗教的精神的。有神論的実存主義はキィルケゴールが代表的な人物としてあげられる。
こんなことを言われて納得と理解を即座に出来る人間はいない。
非信仰者なら当然だし、信仰者にしてもその信仰の入り口においては分からないのである。分からないけれども選ぶということが、信仰の本質だ。(驚くかもしれないが、それはイエスの時代でも中世でも、19世紀でも現代でも同じである。彼らは常に時代の最先端にいたのだから…)
しかし、宗教的幸福論はその「まず信ぜよ」を超えた後は、経験的に幸福感を覚える。そうして何度もそれと触れ合うことで、固く信仰に立つようになる。そういうシステムだ。
これは自己暗示のようなものではなく、もっと長いスパンで自分が、実際に満足と幸福感を得るという体験を通した一種の修行である。
キリスト教の教えとは、最初がもっとも困難で、「信じろ、そうしたら従って行うことになる。あとは恵みを実感する経験をせよ。」という、狭き門の先は平らな道だ。と説くものである(いや、それが難しいんだけれど)*。
*禅はこれとは逆のアプローチだ。最初は信じなくてもいいから、やってみて、感じたものを信じて深めよ。である。現代で禅が受け入れられているのは、その方が人間にとって理解も納得もしやすいからであろう。しかしその後、悟りに至る道は困難だ。
快楽的幸福論は地上のどんな喜びも結局は無意義に消え去る論外なものであるし、どのような哲学的あるいは科学的幸福論も、しょせんは人間の拵えたもので、決して人間を本当の幸福感に導くことはない。それこそ自己暗示の部類になるだろう。
唯一、愚かにさえみえる宗教的幸福論だけが、最初の「それを信じきる」という一点だけを了承すれば、間違いなく人間を真の幸福感に導くのだ*。…と。
*マタイによる福音書7章13-14節
もし、あなたは「それ」を、神では理解できないなら「趣味」とか「推し」として思考してみるがいい。生涯「それ」を好んで離れず、また「それ」の方も、生涯自分が信じた時と同じままに、自分にとって幸福感を与え得るもの。である。
死の間際までそうしたものを持てる人の事を、そのような人生を、現代の日本人でも羨望を持ってみるだろう。しかし、地上の趣味や人間にそれを本当に託せるか。よく吟味しなくてはならない。
それが、どんな状況に自分が置かれても「幸福」という「希望」になり得るかと。
地上の事物にその荷は重いだろう。偶像はいつか必ず崩れ去るものだからだ。それは非常に不安定な幸福の土台である*。
*マタイによる福音書7章24-27節
また、宗教的幸福論は認識できないものに賭けるような行為だと言われる。天国の存在を信じて来世のために現実世界での幸福感を犠牲にするのだと。しかし、実際はそうではない。
単に地上の快楽から得ていた幸福感を捨て、信仰生活から得られる幸福感に切り替えただけである*。
*これを勘違いして始終お祈りばっかりしているのは信仰道楽であって、愚かな行為とされる。

『ハーモニー』ではこの宗教的幸福論の「構造」は全く肯定している。すなわち、第一に我意の捨離。第二に「神」を頭とした一つの全体となる事。第三にその状態そのものから幸福を得る事。これらの条件をハーモニープログラムは満たそうとする。
しかし同時に、その霊性、宗教性を排除しようと試みるのである。
ミァハは自殺未遂以前、周囲の宗教的善性による社会を否定していた。嫌ってすらいた*。
*非信徒から見た「キリスト教的愛」をやたらと強調するような信徒コミュニティへの忌避観にも似ている。
一方、「無意識」という天国の疑似体験を通して、最終盤では宗教的幸福論の「構造」を受け入れている。ただし、その実現方法は医療・科学によるアプローチを用いる。
これはつまるところ、故伊藤計劃氏自身が、宗教的幸福論の構造を理解し、肯定しながらも、その幸福論において絶対不可欠である「それを信じきる」の「それ」、すなわち神を排除しようという試みでもあったのではないだろうか。
そして実際、物語は最後にハーモニープログラムを発動するに至る。神への反抗は、「幸福論」は、確かに一種のディストピアを伴いながら達成された。
真の意味での自我や自意識、自己を消し去ることによって、
はじめてシステムと人間は幸福な一致に達した。
原作:伊藤計劃 漫画:三巷文. <harmony/>ハーモニー4. 角川コミック・エース.198
一個の身体として見立てた人類の幸福の頭を、キリスト・イエスから、ハーモニープログラム・システム(科学)に挿げ替えた。
ハーモニープログラムの起動によって、人類は一個の巨大な「全体」となり、ハーモニープログラム起動前の宗教的善性で覆われた、歪で不完全なものではなく、システマチックで無機質でありながら、それはあたかもキリスト教の言うところの「神の国」として地上に立ち現われる。
彼ら到達した人類にとっては「全てが自明であり、選択することなど何ひとつ無かった」。
それは楽園追放より以前、知識の実を齧る前のアダムとエヴァのように。
いま人類は、とても幸福だ。
とても。
とても。
原作:伊藤計劃 漫画:三巷文. <harmony/>ハーモニー4. 角川コミック・エース.207
故伊藤計劃氏が考える。人類にとって「これこそが望みうる最高に天国に近い状態」へ至る方法論は、確かに聖書が最終目的としていた地、人間の楽園への帰還を疑似的に果たして、この物語は幕を閉じる。
当初『ハーモニー』を読んだときは、その結末を単なるSFのディストピア的なものとしてだけ理解していました。しかし、その後キリスト教を詳しく知ろうとしていく過程で、この物語の根底にある宗教的な視点とそれに対する一種の反発に気づきました。
ネット上であまり宗教的観点からの感想がないような気がして、長々と書くことにしたのですが……。私はSFについてはまったく門外漢、素人、浅学菲才。理系もからっきしでありますので、理解が浅いかもしれませんが、どうかその点ご容赦下さい。
それにしても彼は絶望的に人間の意志能力を信頼していないが、その成果である科学を信頼しているように思います。
宗教的幸福論の実現を、人間という総体の意志が成し遂げられる未来を否定し、システマチックに科学の力で成し遂げようと試み、その結果が、ディストピア的幸福論。しかし、それは宗教よりもさらに「神の国」的な世界の実現に至った。神を抜きにして。
まるで、「あなたが居なくても、それくらいのことは出来ますよ」とでも言うかのごとく!
あるいは、ミァハという神の思い描いた回答(宗教的幸福論)を肯定しながら、トァンがそれを与えなかった(物語がそれを排除した)のは、まさに象徴だったのかもしれない…。
あぁなんという不信仰! なんという神への冒涜! 思想的スケールの大きさに痺れます。
素晴らしい才能と偉大な業績を残された故人に敬意を表して。どうか安らかに。
追記: …いや、彼の思想では死者に対して「安らかに」、なんて宗教的な言葉はそぐわないのかもしれない。彼が彼なりの「幸福論」に殉じて死んだなら、彼は医学的に、科学的に、システマチックで無機質に死んで無になったのだろう。
The post 伊藤計劃『ハーモニー』に見るディストピア的幸福論の考察。結末における宗教的幸福論の構造肯定と霊性排除 first appeared on 絶版あかみる.
]]>The post Kindleインディーズ漫画を利用した所感 first appeared on 絶版あかみる.
]]>日頃は商業で漫画を描いていますが、最近、個人活動として描いていた漫画をKindleインディーズ漫画へ投稿してみました。今後やってみようと考えている人向けに所感を記事にしておきます。
該当商品はこちら。
こっちは商業です。
Kindleインディーズ漫画はAmazon内部で展開されているのですが、ランキング以外の掲載と検索が貧弱なため埋もれやすいです。
さらにそれを理解した投稿者の方々が露出機会を増やす為に話数単位でアップロードしています(元々そういう設計のサービスだと思います)。
当然そうなると検索一覧や新着には同じサムネイルがずらっと並ぶこととなり、さらに新着の埋もれは加速し、検索は息絶えてしまいます…。
これはAmazonのサイト構造上仕方ないので、Amazonが何か改善してくれることを祈るしかありません。
上記の通り現状の環境ではKindkeインディーズ漫画だけで新規に読者を獲得しようとしても難しそうなので、Twitterやpixiv、note、インスタグラム、ニコニコ静画あたりで、事前に読者さんに見つけてもらっておいた方が良いでしょう。
私の場合はPixivFANBOXで最新話を更新して、一月遅れでPixivへ投稿。を繰り返し、
最終話が出来上がったタイミングで全三巻としてKindle版をリリースしました。
今作の制作中に話数更新をKindleインディーズでは行っていません。Kindle版を作ることにしたのが制作終盤になってからだった為です。
私の場合はFANBOXで支援頂いている方々へ向けて、先読みを公開していたわけですが、最初からKindleインディーズにも投稿するなら手順の最適解としてはたぶんこんな感じ。
外部SNSを販促媒体として考えると、そちらで露出機会を増やすほうが見つけてもらいやすいのではと思います。あと完結版を出すことで、話数単位だと手を出しづらいという人が読んでくれる機会が増えるので作る意味はあると思います。
KindleUnlimitedとは、基本的に商業出版物と同列に値段を付けて販売。ただし、KindleUnlimitedというサブスクリプションサービスの登録者は無料で読めて、読まれたページ数分のロイヤリティが著者に入るよというシステム。
こちらの方が有名かと思います。他にも一次創作同人誌を出版している方が結構います。
まず私の今作は支援者様向けに描いていた「ペン入れをしていない、せいぜい清書鉛筆書きクオリティの漫画」が収益化したら良いなと思ってKindkeインディーズ漫画に投稿しました。なので、最初から商業販売物と同列で掲載されるKindleUnlimitedへの販売は考えていませんでした。
この手の話題を検索すると先人の知恵としては
「安売りをするな。ファンは買ってくれるし、読まん奴は無料でも読まん」
みたいな感じなので、「ちゃんと作画した創作同人漫画をKindleで販売する」みたいなときはKindkeインディーズではなく、KindleUnlimitedを利用するというのが良いんじゃないでしょうか。
データさえ作っちゃえばメロブやとらのあな、DMMにDLSiteなどと同じ感覚で電子出版が可能なんだということです。ただし、併売時の利率は30%ぐらいなのでそこはご注意下さい。
また、他の電子書籍サイトにも出版したいという人は、代行してくれる企業があります。
私は利用したことがないので、利用者の声などは検索してみてください。
今回自分がやっていて最大の失敗だったと思ったのはこの部分です。
ペン入れして製本依頼してイベントに参加して…という面倒事をしなかったのは商業と並行しての作業だったため当然と言えば当然なのですが、せっかくコミティアもあるのにちょっと後悔しています。
いつ作るべきだったかという話をするなら、年間の同人誌即売会に自分が出るタイミングに合わせて小まめに刷っておくのが良さそうです。
ただ、ぶっちゃけた話をすると「一次創作の同人誌がそんなに売れるとは思うなよ」というところに行きつくので、現物制作は趣味的な要素が強いかとは思います。
それでも自分や熱心な読者さん向けに現物があるのは良いことです。
私は制作終盤になってから、最終話の完結版におまけ漫画を十数ページなりつけて、同人誌化するというのを想定したんですが、今作を完結版まで描いた後だと、300Pくらいの物量を一括で同人誌化するなんてのは、資金が潤沢でもなけりゃ無理でした。段ボールリスクは本当に怖い。
ただ、記念品を作るだけなら1冊からでも刷ってもらえるpixiv FACTORYというサービスがありますので、こちらで作るのも手だと思います。
Kindle用のデータは.mobiという形式です。普段クリスタEXを利用している人であればファイル形式の変換はクリスタがやってくれます。クリスタ様様。出力方法は公式をご覧ください。
Kindle向けコミック作成ガイド【EX】 “便利な機能 #7” by ClipStudioOfficial
他に出力の疑問点やKindle出版の為の登録などの解説はこのあたりを読まれるといいです。
Kindle インディーズマンガに発表して1年が経ったので収益や魅力をご報告します
Kindleで個人出版!Kindleインディーズマンガの魅力・収益・出版方法を詳しく解説
話がとっちらかっちゃってすみませんでした。
頑張って描いた漫画を無料で公開するというのに抵抗を感じる制作者さんもいると思いますし、自分もどちらかと言えばそうです。さらに、まだ分配金がいくらになるか分かりませんが、Kindleインディーズの為に作るとしたら割に合わないと思います。
活動のついでにやって、巨大企業から自分に金を払わせることができる。くらいに考えれば、まぁいいんじゃないでしょうか。
Kindleインディーズは分配金を受け取るという形なので、投稿者が増えたら取り分が少なくなるのか、あるいはAmazonが増資して皆に今まで通り払われるのか分かりません。
Amazonの胸三寸なサービスではあるので、これで生きて行こうみたいな無謀なことは考えない方が良いという事です。
それでもPixivに素敵な漫画を上げている作家さんが、pixivのサイトPVに貢献しているだけで済ますよりかは、むしろ、作家さんが各種サイトを利用してお小遣い生成できるようになったらいいなぁと思います。
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]]>The post 新連載『河畔の街のセリーヌ』とその時代背景 first appeared on 絶版あかみる.
]]>マッグガーデン社刊行の「コミックガーデン」にて、新連載『河畔の街のセリーヌ』が2022年1月5日よりスタートとなりました。マグコミというWebでは1話が無料公開。その後雑誌の一か月遅れで順次一話につき一か月間公開となるようです。
河畔の街のセリーヌ MAGCOMI
今作では時代についての情報は、職業関連に重きをおいています。その為、作品内ではそれほど時代状況を「文字情報」で説明することはしていません。── 今のところは ──
もちろん娯楽漫画ですから、事前情報なしにただ楽しんでいただければOKなのです。それが可能なように描くよう担当編集氏にもよく注意を受けております。
ですが、ちょっと知識入れてから読みたいなという読者さんの為に、本作の時代背景を紹介しておこうと思います。特に政治的な時代背景のみをさらっと。
フランスの激動期である18世紀末から19世紀前半。ここを抑えておかないと、この国が良く分かりません。ですが本作との直接的な関わりは薄いので、さらっと行きます。

絶対王政によりブルボン家(ルイ何世みたいなの)が絶大な権力を誇っていたフランスで革命発生。マリーアントワネットがギロチンに処された革命です。
ブルボン王政を打倒したのち、共和制を樹立します。しかし革命後の混乱とクーデターの発生など、安定しません。そんな中現れたのが後の皇帝ナポレオン・ボナパルト。
国内の混乱を収めたナポレオンの支持が高まり、その後皇帝になります。王政を打倒して一時民主的になった後、形式的とはいえ、国民投票で独裁的統治者を擁立しちゃったわけですね。
しかし、皇帝ナポレオンの時代はそう長くありません。10年程度で幕を閉じてしまいます。
ここでブルボン王家が復活します。以前のような絶対王政とは違い、立憲王政です。ところがこれも15年程度と短命に終わります。【7月革命】により打倒されます。
次の王家はオルレアン家で、【7月王政】といわれます。こちらも立憲王政です。こちらは18年続いて1848年に【2月革命】によって打倒されます。
ここまでがおおよそ18世紀末から19世紀前半までのフランスです。この激動っぷり……フランスの近代史は本当に革命の歴史です。
このあとわずか4年で終了する第二共和政が存在します。そして結局またクーデターによって権力を確立する男が出現します。皇帝ナポレオン・ボナパルトの甥っ子ナポレオン三世。第二帝政のスタートです。

クーデターで権力確立したナポレオン三世は最初、権威主義的な方針をとりました。
まず、出版や言論の自由に規制をかけましたが、これは第二共和政の政治的混乱を安定化したことで受け入れられました。さらに、パリの都市開発に着手します。
これにより経済的に発展し、今日見るパリの景観が創出されていくことになります。強権的ではありましたし、批判もありましたが、確かに功績も打ち立てることに成功していたと言えます。
この期間に属する1855年、一回目のパリ万国博覧会が開催。ロンドンとの世界の首都争奪戦が起きていた時期を象徴します。
メキシコ出兵などの外征の失敗などにより、ナポレオン三世の威光にも陰りが見え始め、権威主義的体制から、より自由主義的な体制へと移行していきます。議会に譲歩したり、世論の支持を重視したり。
1866年、二回目のパリ万国博覧会が開催。ここで日本が初参加します。
1870年、ついに【普仏戦争】がはじまります。
当時はまだドイツという国家はなく、現在のドイツ北部からポーランドの一部にあたるプロイセン王国が存在していました。この普仏戦争でフランスは敗北します。
ナポレオン三世がプロイセン軍の捕虜になったことを受けて、パリで無血クーデターが発生。これにて第二帝政は終わりです。ところがこのあと大混乱が発生!

第二帝政崩壊のごたごたの中、フランスの政府機関がヴェルサイユに退避したことで、国家機能が停止する無政府状態が生じます。ここで市民が独自議会を設立し、革命的自治政府パリ・コミューンの成立が宣言されました。
非常に複雑な体制なので、ここでは説明を省きます。ウィキペディアでちょっと恐縮ですが、手軽さを鑑みてリンクを置いておきます。
パリ・コミューン Wikipedia
労働条件の改善など労働者階級の意見が反映され、政教分離や義務教育など重要な方針が示された一方、政治的にはほとんど機能せずにこの体制は終わりました。
ヴェルサイユに退避していたフランス政府の軍が、パリ奪還へ動き、パリ・コミューンとの間で市街戦へ突入。「血の一週間」と言われる凄惨な弾圧により多数の死傷者、逮捕者を出してパリは政府に奪還されました。
これらの過剰な弾圧は、しかし多くのフランス国民から政治的安定をもたらすとして支持を受けました。その背景には、パリ・コミューン内部の過激な共和制主義者、共産主義者、社会主義者への反発があった為と言われます。
そして時代は三度、共和制へと変わっていきます。

第三共和政・初期のパリは何と言ってもその政治体制が特徴的。最右翼から急進左翼までがひしめく議会には、王政復古をもう一度と提唱する王党派や、ボナパルティスト達(皇帝派)が入り乱れていました。
当時の王党派と共和派の分断は、現在の右派左派とは比にならないものだったようで…といっても、2022年現在、右派左派の分断は苛烈になっており、さらに進むと同じような状況と言えるのかもしれません。
とにかくも、そうした不安定な政治状況で第三共和政はスタートし、初期には危機もありながら、結局は1940年第二次世界大戦でナチス・ドイツに占領されるまで、70年続く長期体制となります。

第三共和政初期、パリ・コミューン内乱で破壊されたパリ市街地を修復するなどの復興事業により経済は好調に推移しますが、1873年に金融危機が発生。その後世界には1879年まで大不況期が訪れます。
恐慌の震源地となったアメリカよりは、幾分早く立て直しが進んだヨーロッパ諸国・フランスにおいても不景気は断続的に訪れました。資産家達は少し景気が戻ったとホッとしては、また借金を背負うという不安定な時代でもあります。
とはいえ、全体的な市民生活は1860年代の第二帝政以後着実に上昇を続けました。中でも象徴的なのは、貴族や王族ではなく、弁護士や起業家といったブルジョワジー達。
後に発展を遂げる資本主義社会のパワーバランスが形成されていくことになります。人々はブルジョワジーへの憧れを強くもち、「ブルジョワたるもの」といった価値形成も進みます。他方、彼らのふるまいを批判するカリカチュアなども多数描かれるのが、いかにもフランス的です。
ここが作中時期にあたります。

芸術の世界ではサロンと呼ばれるアカデミックな公的美術展覧会が権威を持ち、その観賞は市民の娯楽の対象でもありました。ここでなかなか認められなかった芸術家集団こそ、後の現代美術に繋がる潮流。印象派の画家たちです。
文学世界においてはバルザックやヴィクトル・ユゴーらの後を、ゾラを代表的とする自然主義文学作家が進み。あるいは冒険SFの祖とも言われるジュール・ヴェルヌなども活躍。またゴングール兄弟という、当時のパリを日記という形でその生涯に渡って書き綴った作家もいます。
もちろん、ジョルジュ・サンドのような女性作家の活躍も見逃せません。サンドの後に登場したデルフィーヌ・ド・ジラルダンなどは、当時多数刊行されるようになった新聞の一つで、女性であることを隠して(公然の事実ではあったが)新聞に言論記事を書くなどしました。
様々な雑誌が刊行されるようになり、パリの街のあちらこちらにあるキオスクで販売されます。
1889年には三回目のパリ万国博覧会が開催。ついにエッフェル塔が建ちます。「映像の世紀」なんかが好きな人には見慣れた映像でしょうが、歩く歩道なんかが有名です。
やがて世紀末、アール・ヌーヴォーと言われる芸術の新潮流に彩られつつ、ベル・エポック(美しい時代)を迎えたパリはまさに円熟した都市として、世界中の人々から憧れをもって見られました。
そして、20世紀に入ると、1914年の第一次世界大戦へと世界は突き進んでいくことになります。
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]]>The post オーディオレンダラエラーに対するとりあえずの対処法 first appeared on 絶版あかみる.
]]>
ドライバーのトラブルシューティングやアップデートで直らない、
再起動しなくてはならない。という状態に陥った方は以下をご参考下さい。
以上です。
後記
他の情報ではドライバーの更新や再インストール、再起動といった方法が紹介されています。根本的な対処という点においてはそうした情報を参考にして下さい。
■ YouTubeでオーディオレンダラエラーが出る原因と対処法 – Windows10
当記事の対処法は暫定的なもので、これでもうエラーが発生しなくなるというものではありません。ただ上記の方法で最新ドライバーにアップデートなどをしても時折発生することがある方、そのたびに再起動というのも大変なので、覚えておくと対処が楽になるかと思います。
根本原因の解消には、Windowsのアップデートとか、PC本体のハード的な不具合とかもあるかもしれませんし、あまり頻発するようなら、古いPCの場合は特に買い替えも視野に入れないといけないかもしれませんね…。
The post オーディオレンダラエラーに対するとりあえずの対処法 first appeared on 絶版あかみる.
]]>The post 液タブCintiq13HDのHDMI-Displayport変換接続 first appeared on 絶版あかみる.
]]>勘違いしていたのですが、ディスプレイ側のHDMIじゃなくグラフィックボードの載っているPC本体側への接続が必要なようです。新調したデスクトップ機にはDisplayportがついていたので、Chintiqの接続(HDMI)には変換機器が必要になりました。
上のが安価で問題なく使えています。某家電量販店に買いに行ったらELECOM製の4000円を超えるものしかなくて驚きました…Amazonさまさまですわ。
映像出力ポートの違いによって変換ケーブルが必要になりますので、確認して自機にあったものをどうぞ。
規格が色々あってめんどいっすね…。
The post 液タブCintiq13HDのHDMI-Displayport変換接続 first appeared on 絶版あかみる.
]]>The post アニメーターも使っているらしい電動鉛筆削り first appeared on 絶版あかみる.
]]>■ アニメーター・佐光幸恵氏のオススメの鉛筆削り – Togetterまとめ
■ アニメーターが使う鉛筆と電動鉛筆削りについて。アニメーターおすすめの鉛筆… – Yahoo!知恵袋
分かりづらいですがこんな具合。奥行きは160mm程度の縦長で、底面に吸盤が付いてます。芯の部分がもう少し長く削れたらなお良かったけど、今まで使ってきたものに比べたら段違いに尖る。
アニメーター・佐光幸恵氏のオススメの鉛筆削り – Togetterまとめ
アニメスタジオはこれからはデビカでいこう。
『コードギアス 反逆のルルーシュ』シリーズ総作画監督などを担当されたアニメーター・佐光幸恵氏が「デビカ」製の鉛筆削りをオススメしているそう。こちらはA-05で3000円台。
最近アニメ業界で人気の鉛筆削りは株式会社デビカから販売されてるaxis電動シャープナーA-07です
アニメーターが使う鉛筆と電動鉛筆削りについて。アニメーターおすすめの鉛筆… – Yahoo!知恵袋
これが削りにカスが大容量であることと、芯がよく尖るので人気です
ただこの鉛筆削りは削り口から削れるところまで少し距離があり短くなるとなかなか削りにくいというデメリットもあります
アニメーター、特に動画では芯を尖らせて細い鉛筆線を描く必要があります。しかし電動鉛筆削りには安全装置が付いており、自動で止まってしまうものがあります。アニメーターさんは安全装置を外して使用するそうです。
「デビカ」製のは通常状態でもきちんと尖るということでオススメされてるそう。
The post アニメーターも使っているらしい電動鉛筆削り first appeared on 絶版あかみる.
]]>The post SAI×Wacom Intuos 筆圧感知しない時の対処法5つまとめ。 first appeared on 絶版あかみる.
]]>一番最初に見るべきはsaiのブラシ設定。
ブラシ系ツールを選択した状態で表示されるパネル部分を確認します。
「最小サイズ」が0になっているか。
「詳細設定」を開き、「サイズ」にチェックが入っているか
次にペンタブレットの再接続を試しましょう。
「saiが起動していてペンタブも接続されている状態」なら、saiを一旦終了させて下さい。
その後、以下の手順でペンタブを接続して下さい。
ここまでで直らない場合、3つの対処法があります。
まず、ドライバーの再起動方法を説明します。
Wacomのペンタブレットは、
旧バージョンと新バージョンがパソコンにインストールされていると正常に動きません。
旧バージョンをアンインストールする必要があります。
かつ、新バージョンを入れてしまった場合は、新バージョンも再インストールが必要になります。
また、通常のアンインストールだけでは消えないファイルがあります。手動で削除する方法として以下を試してください。
または、
とにかく、一度パソコン内からWacomタブレットのファイルを完全に削除してから新バージョンをインストールするのがポイントです。
最新版ドライバーはWacom公式から
ドライバーの最新版はWacom|ドライバダウンロードにて配布しています。
自身の環境に合わせて最新ドライバーを確認するといいでしょう。
「ドライバー再インストール」とか出てくると面倒臭くてげんなりしますね……。買い替えのタイミングなどでトラブルが起こる可能性が高いので、何となくでも覚えておくと役立ちます。
The post SAI×Wacom Intuos 筆圧感知しない時の対処法5つまとめ。 first appeared on 絶版あかみる.
]]>The post ブログを引っ越しました first appeared on 絶版あかみる.
]]>仕方ないのでブログをワードプレスに変更しました。
URLは変わっていませんが、過去記事は消えてます。
データは残っているので有益そうなのはおいおい引っ越したいとは思いますが、
そんな時間はないかもしれません。
新連載が近く始まります。
The post ブログを引っ越しました first appeared on 絶版あかみる.
]]>