五島白浜
長崎県の西の海に浮かぶ五島列島。
青く美しい海、数多くの教会、潜伏キリシタンの歴史、そして新鮮な魚。
長崎県人にとってはよく知られた島々だが、改めて考えてみると、
「なぜ“五島”という名前なのだろう」
という疑問が浮かんでくる。
普通に考えれば、
大きな島が五つあるから五島
となりそうである。
確かに現在の五島列島は、中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島の五つの主要島を中心に、多数の島々から構成されている。
しかし歴史を調べてみると、それほど単純な話でもない。
昔の「五島」が指した島の範囲は時代によって変わっており、かつては宇久島を主要な五島の一つとして数えた時代もあった。
つまり、
最初から現在の五つの島を数えて「五島」と名付けた
とは簡単には言えないのである。
五島列島には、もっと古い名前があった。
値嘉島(ちかのしま)
である。
『古事記』には「知訶島」として登場し、『肥前国風土記』にも「値嘉郷」の名が記されている。
長崎県の資料でも、五島列島は古代には「値嘉島」と呼ばれていたとしている。
つまり「五島」という地名は、古代から使われていた名前ではない。
それ以前には、広い島々の地域を「ちか」と呼ぶ世界があったのである。
小値賀という現在の地名にも、その古い「ちか」の名残を見ることができる。
五島の歴史を考える上で欠かせないのが、遣唐使である。
奈良・平安時代、日本から唐へ向かう遣唐使船は、五島列島を重要な中継地点として利用した。
特に福江島の三井楽周辺は、東シナ海を横断する前の日本最後の寄港地として知られている。
804年には、最澄や空海を乗せた遣唐使船も五島を経由して中国へ向かった。
現在なら飛行機で数時間の距離だが、当時の木造船にとって東シナ海横断は命がけである。
五島は日本の「西の端」ではなく、
大陸へ向かうための日本最後の玄関口
だったのである。

五島鬼岳
長崎県の資料によれば、「五島」という呼び名が使われるようになったのは、おおむね平安時代末期ごろとされている。
興味深いのは、
日本へ渡ってくる中国人から「五峰」あるいは「五島」と呼ばれるようになったといわれている
ことである。
ここに、この地名を考える面白さがある。
五島列島を海から眺めると、いくつもの島の山々が水平線上に連なって見える。
陸に住んでいる人間は島を一つ一つ数えるが、海を渡る船乗りにとって重要なのは、遠くから見える山の形である。
山や岬は現在でいう航海標識だった。
そのため、大陸側の船乗りたちが島々の連なる姿を「五峰」と表現した可能性が語られている。
ここは少し慎重に考えたい。
「中国人が五峰と呼び、それが日本へ逆輸入されて五島になった」
と説明すると、実に面白い。
しかし、それを完全に証明する史料がそろっているわけではない。
『日本歴史地名大系』では、「五島」の意味を文字どおり五つの大きな島の総称と考える可能性も示されている。また中世の史料にはすでに「五島」という呼称が確認できる。
したがって、
「主要な島が五つあったから五島」
という説と、
「大陸側の人々が五峰・五島と呼んだことから定着した」
という説の両方を考えておくのがよいだろう。
地名というものは、後世に一つのきれいな説明が作られてしまうことが多い。
実際には、海を渡る中国人、日本人の船乗り、島に暮らす人々など、さまざまな呼び方が重なって現在の名前になった可能性もある。
もう一つ面白いことがある。
現在、五島列島の主要な五島といえば、
中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島
と説明されることが多い。
ところが以前には、
宇久島、中通島、若松島、奈留島、福江島
を五つの島とする数え方もあった。
つまり、
「五島だから、この五つの島」
という説明自体が時代によって変化しているのである。
そう考えると、「五島」という名前を現在の地図だけから説明するのは少し危険である。
北の宇久島や小値賀島も、古代から大陸との交流に深く関わってきた島々であり、五島地域の歴史を考える上では欠かすことができない。

五島の夫婦岩
五島の歴史でもう一つ重要なのが宇久氏である。
五島家の伝承では、源平の争乱を逃れた家盛が宇久島へ渡り、領主となったことを始まりとしている。
その子孫である宇久氏は次第に勢力を南へ伸ばし、福江島へ進出して五島統一を進めた。
そして豊臣秀吉の朝鮮出兵の時代、第20代宇久純玄が宇久姓から五島姓へ改めたとされている。
ここでも面白いことが分かる。
五島氏がいたから五島という地名になったのではない。
順番は逆である。
五島という地域名が先に存在し、その地域を支配するようになった宇久氏が「五島氏」を名乗った
のである。
これは大村と大村氏の関係にも似ている。
戦国時代になると、五島は再び国際貿易の重要拠点となる。
そこで登場するのが、明の海商**王直(汪直)**である。
王直は明の海禁政策の中で東アジアの海上交易を行った人物で、後には倭寇の有力者として知られるようになった。
興味深いのは、王直の号が、
「五峰」
だったことである。
王直は五島や平戸を拠点として活動し、五島では領主から土地を与えられ、唐人町が形成されたと伝えられている。現在の五島市に残る六角井も、王直の時代の中国人との交流を伝える遺跡とされている。
ただし、
王直が「五峰」と名乗ったから五島になった
という意味ではない。
「五島」という呼称は王直より前から存在している。
むしろ王直の存在は、五島が昔から中国大陸と結びついた海の世界にあったことを象徴する出来事として見るべきだろう。
五島の船は中国だけを向いていたわけではない。
室町時代には、五島の豪族たちが朝鮮との交易にも関わっていた。
1471年に成立した朝鮮の『海東諸国紀』には、五島地域の豪族と李氏朝鮮との交易についての記録が残されている。
つまり中世の五島は、
日本の離島
というより、
中国・朝鮮・九州を結ぶ東アジアの海上交通圏の一部
だったのである。
現在の県境や国境だけで古代・中世の歴史を見ると、この島の本当の姿を見失ってしまう。
江戸時代になると、現在の五島列島は一つの藩にまとまっていたわけではない。
南側の多くは福江藩、つまり五島藩の領地となった。
一方、小値賀島など北部には平戸藩領となった地域もあった。
このように「五島」という地域の範囲は、時代や政治的な支配によって微妙に変化してきた。
だからこそ、
「五島とは、この五つの島です」
と現在の地図だけを見て説明すると、長い歴史の一部分しか見えなくなってしまうのである。
整理すると、確実に言えるのは、
古代にはこの地域が値嘉島と呼ばれていたこと。
そして平安時代末期ごろから、五島という呼び名が使われるようになったことである。
その由来については、
五つの主要な島があったから五島と呼ばれた
という考え方がある。
一方で、
中国から来航した人々が「五峰」あるいは「五島」と呼んだことに由来する
という説も伝えられている。
どちらか一つに決めつけるだけの材料は、現在のところ十分ではない。
しかし、一つだけははっきりしている。
五島という名前は、
日本列島の端にある離島だけを見て生まれた名前ではなく、東シナ海を行き交う人々の歴史と深く結びついている
ということである。
五島列島は、昔から「五島」と呼ばれていたわけではない。
古代には値嘉島と呼ばれ、遣唐使が中国へ渡る前に立ち寄る、日本最後の港だった。
その後、平安時代の終わりごろから「五島」という呼び名が使われるようになる。
大きな島が五つあったから「五島」になったという説もあれば、中国からやって来た船乗りたちが島々の山を見て「五峰」「五島」と呼んだことから広まったという説もある。
本当のところは、まだ完全には分かっていない。
しかし昔の五島は、日本の端ではなかった。
遣唐使、中国の商人、朝鮮との交易、宇久氏、王直――。
多くの人々がこの海を行き来していた。
現在の地図では西の果てに見える五島だが、海を道として考えれば、ここはむしろ日本と東アジアを結ぶ玄関口だったのである。
「五島」という二文字の向こうには、千年以上にわたって東シナ海を渡った船乗りたちの歴史が見えてくる。

五島隠れキリシタンの墓
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平戸大橋
長崎県の北西部にある平戸は、私にとって「海と外国の歴史が最も近く感じられる町」の一つである。
青い海、教会、古い城下町、そして平戸瀬戸。
異国情緒あふれる観光地として知られているが、少し歴史をたどると、この町が古代から海上交通の重要な場所だったことが分かる。
ところで、
「平戸」という地名は、なぜ平戸なのだろう。
漢字だけを見ると、「平らな戸」となる。
しかし、地名というものは漢字の意味だけで考えると、かえって分からなくなることが多い。
平戸もその一つである。
平戸という名前は非常に古い。
古代の記録には、
「庇羅」「庇良」「飛良度」
など、「ひら」や「ひらど」に近い音を表した表記が見られる。
つまり、現在の「平戸」という漢字より先に、
「ひら」あるいは「ひらど」という呼び名が存在していた
と考える方が自然である。
日本の古い地名では、まず音があり、後から漢字が当てられることが多い。
平戸もその典型と考えた方がよいだろう。
平戸の特徴といえば、九州本土と平戸島の間にある平戸瀬戸である。
非常に狭い海峡で、潮の流れが速く、昔から船乗りにとって重要な航路だった。
古い日本語では、「戸」という文字が、
入口、門、海峡の出入口
のような意味で使われることがある。
そのため、
「ひら」という土地への海の入口=ひらの戸
という解釈から、「平戸」になったのではないかという説がある。
江戸時代の平戸藩主・松浦静山も、地名の「戸」を島と九州本土との間の門、つまり海の出入口と考えていた。
ただし、
「平らな海の門」という意味から平戸になった
と断定できるわけではない。
「ひら」という音そのものが何を意味していたのかは、今でもはっきりしていないからである。
名前の由来が完全には分からなくても、平戸が古代から重要な港だったことは確かである。
九州北西部は、朝鮮半島や中国大陸へ向かう海の道に近い。
そのため、平戸周辺には古くから海を利用して暮らす人々がいた。
海は人を隔てる壁ではなく、
人や物、文化を運ぶ道
だったのである。
平戸という土地の歴史を考える時、この「海の道」という視点は欠かせない。
中世になると、この海を舞台に活躍したのが松浦党である。
松浦党は長崎県北部から佐賀県北西部にかけて勢力を持った武士団で、海上交通や交易にも深く関わっていた。
一般の武士団のように、一人の大名がすべてを支配するというより、各地の武士たちがまとまった連合体に近い存在だった。
その中から力を伸ばしたのが平戸松浦氏である。
やがて平戸を本拠として勢力を拡大し、戦国時代から江戸時代にかけて平戸藩を治めることになる。
平戸という地名を全国に広めたのも、この松浦氏の存在が大きかった。

平戸オランダ商館
1550年、平戸にポルトガル船が入港した。
これによって平戸は、日本でも最も早く西洋との本格的な交易が始まった港の一つとなる。
同じ年にはフランシスコ・ザビエルも平戸を訪れ、キリスト教の布教を行った。
当時の平戸には、
ポルトガル人、中国人、日本人の商人など、さまざまな人々が行き交った。
今でいう国際貿易都市である。
長崎が本格的な国際港として発展するより前に、平戸はすでに海外への窓口になっていたのである。
その後、ポルトガルとの関係は悪化し、交易の中心は次第に長崎へ移っていく。
しかし平戸の国際港としての役割が終わったわけではなかった。
1609年にはオランダ商館が置かれ、1613年にはイギリス商館も設置された。
この時代の平戸には、ヨーロッパからやって来た商人たちが暮らしていた。
江戸時代初期の日本の地方都市として考えれば、かなり異例の町だった。
現在復元されている平戸オランダ商館を見ると、この町がかつて世界と直接つながっていたことを実感できる。

鄭成功
平戸の国際性を象徴する人物の一人が鄭成功である。
1624年、中国人商人の父・鄭芝龍と、日本人の母・田川マツの間に平戸で生まれた。
幼名は福松といった。
その後中国へ渡り、明朝への忠誠を貫き、台湾からオランダ勢力を追い出した人物として東アジア史に大きな名前を残す。
中国では英雄として知られ、台湾でも歴史上の重要人物として記憶されている。
そんな人物が長崎県平戸の海辺で生まれたというのは、平戸がどれほど国際的な土地だったかを物語っている。

平戸ザビエル記念教会
しかし平戸の歴史には、華やかな国際交流だけではなく、厳しい時代もあった。
江戸幕府がキリスト教を禁止すると、信者たちは厳しい弾圧を受ける。
それでも平戸や生月島などでは、キリスト教の信仰を捨てず、表向きは仏教徒や神道の信者として暮らしながら、密かに祈りを続ける人々がいた。
後に「かくれキリシタン」と呼ばれる人々である。
彼らは納戸などに信仰の対象を隠し、祈りの言葉やオラショを親から子へと伝えた。
長い年月の中で、キリスト教は日本の民間信仰とも混ざり合い、平戸・生月独特の信仰文化へ変化していった。
この地域の歴史は、長崎県のキリスト教史を考える上でも欠かせない。
整理すると、
「ひら」という非常に古い地名がまず存在した
と考えるのが自然である。
そこへ、島と九州本土の間の海の入口を表す「戸」が付いて、
ひら+戸=平戸
になったという説が分かりやすい。
ただし、
「ひら」という音自体の本当の意味については、今でも確定していない。
したがって、
「海の入口だから平戸」という説明は有力な説の一つだが、絶対的な語源とは言えない
と考えた方がよいだろう。
しかし一つだけはっきりしている。
平戸という土地は、昔からずっと海の入口だったということである。
松浦党、ポルトガル人、ザビエル、オランダ人、イギリス人、鄭成功、そしてキリスト教を守った人々。
多くの人が平戸の海を越え、ここから新しい世界へ向かった。
平戸は昔から「ひら」と呼ばれていた、とても古い土地である。
九州本土と平戸島の間には狭い海峡があり、昔の人はこうした海の出入口を「戸」と呼ぶことがあった。
そのため、
「ひらという土地への海の入口」から「平戸」になった
という説がある。
平戸はその名前の通り、昔から海の玄関だった。
中世には松浦党という武士たちが海を駆け回り、戦国時代にはポルトガル船がやって来た。
ザビエルも訪れ、オランダ人やイギリス人も商館をつくった。
台湾の歴史に名を残した鄭成功も平戸で生まれた。
そしてキリスト教が禁止された後も、人々は長い年月、密かに祈りを守り続けた。
「平戸」という二文字の中には、海を越えて人と文化が行き交った町の長い歴史が詰まっているのである。

平戸城
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長崎県人が「島原」と聞けば、まず思い浮かべるのは雲仙岳と温泉だろう。
島原城や湧水の町としても知られ、歴史好きなら島原の乱、キリシタン迫害の舞台となった雲仙地獄、さらに古代史に興味があれば四面宮の信仰など、実に多くの歴史が詰まった土地である。
そして島原は、戦国時代や江戸時代だけではなく、邪馬台国の候補地として注目されたこともある古代史の土地でもある。
ところで、
「島原」という名前は、なぜ島原なのだろう。
島でもないのに「島」と呼ばれ、山の多い土地なのに「原」という字が付いている。
調べてみると、この名前には古代の『肥前国風土記』につながる、なかなか面白い話が残されている。

諫早湾干拓堤防から見た島原
奈良時代の初めにまとめられた『肥前国風土記』には、景行天皇が九州を巡った時の伝承が記されている。
景行天皇が現在の熊本県側から有明海の向こうを眺めると、海上に大きな山が浮かんでいるように見えたという。
現在の雲仙岳周辺である。
島原半島は諫早方面で九州本土とつながっている。
しかし熊本側から遠く眺めれば、その低い部分は見えにくく、雲仙岳だけが海の上に浮かんでいるように見える。
そこで天皇は、
「あれは島なのか、それとも陸続きなのか」
と尋ねたという。
家来が調べたところ、島のように見えるが実際には陸続きで、その先には広い土地が広がっていた――。
そんな伝承が残されている。
この話から、
海から見ると島のように見え、近づけば広い原が広がっていたため「島原」と呼ばれるようになった
という説が生まれた。
確かに分かりやすい。
熊本側から島原半島を眺めれば、雲仙岳が巨大な島のように見える。
そして半島へ渡れば、その山麓には人々が暮らす土地が広がっている。
つまり、
島のように見える土地+広がる原=島原
というわけである。
ただし、これをそのまま地名誕生の史実と考えるのは少し慎重になった方がよい。
現在「原」と聞けば、広く平らな草原や平野を思い浮かべる。
ところが古い地名に使われる「原」は、必ずしも完全な平地だけを意味しない。
山の麓に広がる土地や、開けた土地を「原」と呼ぶ例も各地にある。
九州には、前原、田原、世知原など、「原」を「はる」「ばる」と読む地名も多い。
そのため、
「島原は山ばかりなのに、なぜ原なのか」
という疑問も、それほど不思議なことではない。
雲仙岳の裾野に広がる土地全体を「原」と捉えた可能性も考えられるのである。
ここで注意したい。
『肥前国風土記』に残る景行天皇の話が、そのまま「島原」という地名の誕生を記録したものとは限らない。
古代の『風土記』には、
「なぜこの土地は、この名前なのか」
を説明するための伝承が数多く収められている。
その中には、すでに存在していた地名に合わせて、後から物語が作られたと考えられるものもある。
いわゆる地名説話である。
つまり、
「景行天皇が島のように見える土地を見たから島原になった」
というより、
先に「しまばら」という地名があり、その名前を説明するために「島のように見えた」という物語が語られた可能性も考えておく必要がある。
これまで取り上げてきた長崎、諫早、佐世保、壱岐、対馬などと同じように、島原も漢字だけから語源を断定するのは危険である。
現在は「島原」と書くので、
島+原
と考えたくなる。
しかし、先に「しまばら」という音があり、後から「島原」という漢字が当てられた可能性もある。
古い地名は、文字よりも人々が口で呼んでいた音の方が先に存在することが多いからである。
したがって、
「島のように見える原だから島原」
という説は非常に分かりやすいが、絶対にこれが正しいとまでは言えない。
島原を古代史の町として全国に知らしめた人物の一人が、郷土史家の宮崎康平である。
宮崎康平は島原鉄道の役員を務め、「島原の子守唄」の作者としても知られる人物で、失明後も妻・和子の協力を得ながら古代史研究を続けた。
そして1967年に刊行した『まぼろしの邪馬台国』で、邪馬台国の所在地を島原半島周辺に求める説を発表した。この本はベストセラーとなり、全国的な邪馬台国ブームのきっかけの一つになった。
宮崎康平は『魏志倭人伝』の行程や古代地名を読み解きながら、邪馬台国は九州、それも有明海沿岸にあったのではないかと考えた。
現在も邪馬台国の所在地は決着しておらず、畿内説と九州説を中心に議論が続いている。そのため宮崎説も確定した学説ではない。
しかし、島原という土地を古代史の大きな舞台として見直した功績は非常に大きい。
宮崎康平が島原半島の古代史に注目した理由の一つとして、この地域に古墳が存在することも挙げられる。
代表的なのが、雲仙市国見町にある守山大塚古墳である。
守山大塚古墳は島原半島で唯一、前方後円墳の形が現在まで残る古墳で、4世紀前半に造られたと考えられている。
現在確認されている規模は全長約70メートルで、調査によってさらに80メートル前後の規模だった可能性も指摘されている。島原半島では非常に大きな古墳であり、この地に有力な首長が存在していたことを示している。
しかも、この守山大塚古墳は宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』でも紹介されている。
邪馬台国の時代とされる3世紀からは少し後の古墳ではあるが、島原半島に古代から大きな勢力が存在していたことを考える材料にはなる。
だからといって、
「前方後円墳があるから邪馬台国は島原だった」
とは言えない。
しかし、
島原半島が古代から人口と権力を集める重要な土地だった
ことは、考古学的にも無視できないのである。

島原城
現在の「島原」という地名が全国的に知られるようになるのは、中世から近世にかけてである。
江戸時代初期には松倉重政が島原城を築き、その周辺に城下町が形成された。
そして1637年には、天草四郎を中心とする**島原・天草一揆(島原の乱)**が起こる。
雲仙地獄ではキリシタンへの迫害も行われた。
こうして「島原」という名前は、温泉や美しい風景だけではなく、日本史上でも重要な出来事と結びついていったのである。
しかし、その名前そのものは島原城よりはるか以前から存在していた。
城ができたから島原になったのではなく、
島原という土地に城が造られ、島原城と呼ばれた
のである。
島原半島には、古くから雲仙岳そのものを神聖な山として見る信仰があった。
その中で知られているのが四面宮である。
雲仙岳を中心に島原半島各地に広がった信仰で、後の温泉神社につながっていく。
島原半島は、火山と温泉の恵みを受ける一方、噴火という恐ろしい力とも隣り合わせで暮らしてきた土地である。
古代の人々が雲仙岳を特別な山として見たのも不思議ではない。
地名、信仰、古墳、邪馬台国、温泉、火山。
島原の歴史は、雲仙岳抜きでは語れないのである。
整理すると、
島原という名前については、
熊本側から見ると島のように見え、その先に広い土地があったため「島原」と呼ばれた
という説が分かりやすい。
『肥前国風土記』にも、景行天皇が海の向こうの土地を見て「島なのか、陸なのか」と尋ねたという伝承が残る。
しかし、この物語そのものが地名の起源を記録したものなのか、それとも後から地名を説明するために生まれた説話なのかは分からない。
さらに島原半島には前方後円墳が残り、宮崎康平はこの土地を邪馬台国候補地の一つとして考えた。
地名の由来一つを調べるだけでも、古代の信仰から邪馬台国論争、戦国時代、キリシタン、島原の乱まで話がつながっていく。
それこそが島原という土地の面白さではないだろうか。
島原は、熊本側から有明海越しに見ると、雲仙岳が海に浮かぶ巨大な島のように見える。
昔の『肥前国風土記』にも、景行天皇が「あれは島なのか、それとも陸続きなのか」と尋ねたという話が残っている。
そのため、
島のように見え、その向こうに広い土地があったので「島原」になった
という説がある。
島原半島には古い前方後円墳もあり、郷土史家・宮崎康平は『まぼろしの邪馬台国』で、邪馬台国を島原半島周辺に求めた。
本当に邪馬台国がここにあったのかは今も分からない。
しかし島原が、温泉と島原城だけの町ではなく、二千年近い古代史の謎を抱えた土地であることは間違いない。
普段何気なく呼んでいる「島原」という三文字の向こうには、雲仙岳を見上げた古代の人々の姿まで見えてくるのである。
諫早という地名の由来|なぜ「伊佐早」から「諫早」になったのか
大村という地名の由来|なぜ「大村」と呼ばれるようになったのか
佐世保という地名の由来|なぜ「佐世保」と呼ばれるようになったのか
島原という地名の由来|なぜ「島原」と呼ばれるようになったのか
平戸という地名の由来|なぜ「平戸」と呼ばれるようになったのか
壱岐という名前はどこから来たのか|「一支国」から続く古い島の名
対馬という地名の由来|なぜ「つしま」と呼ばれるようになったのか
五島という地名の由来|なぜ「五島」と呼ばれるようになったのか

大村龍神社
私は大村という町が好きである。
長崎空港があり、大村湾を望む景色があり、玖島城跡がある。そして何より、日本初のキリシタン大名として知られる大村純忠を生んだ歴史の町でもある。
そんな大村だが、改めて考えてみると、
「大村という名前は、どこから来たのだろう」
という素朴な疑問がわいてくる。
大村氏という武士がいたから大村になったのか。
それとも「大きな村」だったから大村なのか。
調べてみると、どうやら大村氏よりも「大村」という地名の方がはるかに古いようなのである。
平安時代につくられた『和名類聚抄』には、肥前国彼杵郡の中に、
「大村郷」
という地名がすでに記録されている。
つまり、大村氏が歴史の表舞台に現れるよりも前から、この地域は「大村」と呼ばれていたのである。
『和名類聚抄』では彼杵郡に「彼杵郷」と「大村郷」が見え、「大村」には「於保无良」という読みも付されている。
ここから考えると、
大村という土地が先にあり、後にその土地を治めた武士が「大村氏」を名乗った
と考えるのが自然である。
では「大村」という言葉そのものは、何を意味したのだろう。
最も分かりやすいのは、
大きな村、あるいは地域の中心となる大きな集落
という意味である。
大村には郡川が流れ、その周辺には長崎県内では比較的広い平地がある。
山の多い長崎県の中では、農耕に適した平野が広がる場所であり、古くから多くの人が暮らせる地域だった。
そのため、小さな集落が点在する中で、ひときわ大きな集落が「大村」と呼ばれた可能性は十分考えられる。
ただし、
「広くて大きな村だったから大村になった」と断定できる史料が残っているわけではない。
地名の意味としては非常に自然だが、ここは一つの有力な解釈として考える方がよい。
古代の大村を考える時に欠かせないのが、
彼杵(そのぎ)
という地名である。
奈良時代の肥前国には、現在の長崎県周辺に彼杵郡、高来郡、松浦郡などが置かれていた。
大村はその彼杵郡の中にあった。長崎県の郷土資料でも、古代の長崎県域には彼杵郡が存在したことが確認できる。
つまり、
彼杵という大きな地域の中に、大村という地域があった
という関係である。
現在でも「東彼杵」という地名が残っているが、昔の彼杵はもっと広い範囲を指していた。
大村周辺の歴史は、平安時代から始まったわけではない。
大村湾沿岸には、古墳時代から有力な豪族が存在していた。
その代表的な遺跡が、東彼杵町にあるひさご塚古墳である。
ひさご塚古墳は5世紀ごろに造られた全長約59メートルの前方後円墳で、大村湾周辺を支配した有力者の墓と考えられている。
場所は現在の大村市ではなく東彼杵町だが、大村湾を取り巻く地域にかなり早い時代から有力な首長が存在していたことを示す重要な遺跡である。
当時はまだ「大村市」などという行政区分は当然存在しない。
大村湾を一つの交通圏として、人や物が海を通じて行き来していたと考えた方が自然である。

大村神社
大村といえば、やはり大村氏である。
特に有名なのが、戦国時代の大村純忠である。
日本初のキリシタン大名として知られ、長崎の開港にも深く関わった人物である。
そのため、
「大村氏が支配したから大村という地名になった」
と思ってしまう人もいる。
しかし、先ほど述べたように「大村郷」という地名は平安時代の史料にすでに登場する。
したがって順番は逆で、
大村という土地を本拠とした武士が大村氏を名乗った
と考える方が歴史の流れに合っている。
これは日本の武士にはよくあることである。
土地の名前を、その土地を支配する武士が名字として名乗ったのである。
大村家に伝わる系譜では、大村氏の祖は藤原純友の孫とされる藤原直澄である。
伝承によれば、直澄は994年(正暦5年)に大村へ下向し、久原に城を構えて「大村氏」を名乗ったとされている。大村市も、この伝承を久原城跡の説明として紹介している。
ところが、ここには注意が必要である。
大村市史など近年の研究では、初期の大村氏の系譜について疑問が示されている。
藤原純友の子孫であるという系図についても、後世に整えられた可能性が指摘されており、大村氏はもともと藤津荘方面で活動し、その後に彼杵郡へ進出したとする研究もある。
つまり、
「藤原直澄が994年に大村へ来て大村氏を始めた」
という話は、大村家に伝わる重要な伝承ではあるが、そのまま確定した史実として扱うのは慎重であるべきだろう。
地名そのものは古いが、「大村」という名前を歴史上有名にしたのは、やはり大村氏である。
大村氏は中世から戦国時代を生き抜き、大村純忠の時代にはキリスト教を受け入れた。
純忠は長崎をポルトガル貿易の港として発展させることにも深く関わった。
江戸時代になると大村藩が成立し、玖島城を中心に城下町が形成される。
こうして古い「大村」という地名は、
大村郷 → 大村氏 → 大村藩 → 大村市
という形で、千年以上にわたって受け継がれてきたのである。
整理すると、確実に言えるのは、
平安時代にはすでに「大村郷」という地名が存在していた
ということである。
したがって、
大村氏がいたから大村になったのではない。
むしろ、
大村という土地が先にあり、そこを本拠とした武士が大村氏を名乗った
と考える方が自然である。
そして「大村」という言葉そのものについては、
広く大きな集落、地域の中心となる村
という意味から生まれた可能性が高い。
ただし、これも絶対にそうだと証明されたわけではない。
地名の世界では、分からない部分を無理に断定しないことも大切である。
大村という名前は、大村氏という武士がいたから付いたのではない。
平安時代にはすでに「大村郷」という土地の名前があり、その後、この土地を治めた武士が「大村氏」と名乗るようになった。
「大村」は、おそらく大きな集落や広い村という意味から生まれたと考えられている。
その後、大村氏から日本初のキリシタン大名・大村純忠が現れ、大村藩へと続いていった。
つまり「大村」という名前は、少なくとも千年以上もこの土地に残っているのである。
私たちが普段何気なく呼んでいる町の名前には、それだけ長い歴史が隠れている。

玖島城跡に広がる大村公園 花菖蒲
諫早という地名の由来|なぜ「伊佐早」から「諫早」になったのか
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対馬という地名の由来|なぜ「つしま」と呼ばれるようになったのか
五島という地名の由来|なぜ「五島」と呼ばれるようになったのか

韓国展望所
日本で朝鮮半島に最も近い大きな島、対馬。
長崎県に属しているが、地図を見ると九州本土よりも朝鮮半島の方がずっと近く感じられる。
ところで、この「対馬」という名前はどこから来たのだろう。
漢字だけを見ると、
「向かい合う二つの島だから『対』、昔は馬が多かったから『馬』なのではないか」
などと想像したくなる。
しかし、地名の由来を漢字だけから考えるのは危険である。
対馬の場合も、先に**「つしま」という古い呼び名があり、後から漢字が当てられた**と考える方が自然である。
対馬という名前の歴史は非常に古い。
3世紀の中国の歴史書『魏志倭人伝』には、
「対馬国」
という国が登場する。
邪馬台国へ向かう使者は、朝鮮半島から海を渡ってまず対馬国へ入り、その後、壱岐の一支国、さらに九州本土へ向かったと記されている。
対馬市の資料でも、対馬は古代から朝鮮半島と日本列島を結ぶ交通の要衝であり、『魏志倭人伝』には倭の一国として「対馬国」が登場するとされている。
つまり「つしま」という名前は、少なくとも約1800年前にはすでに存在していたことになる。
さらに興味深いのは、日本の古い史料では別の漢字が使われていることである。
『古事記』では対馬を、
「津島」
と書いている。
一方、『日本書紀』では、
「対馬洲」
「対馬島」
という表記が使われている。
ここから分かるのは、
漢字の表記よりも、
「つしま」という音の方が古かった
可能性が高いということである。
では「つしま」という音は何を意味するのだろう。
よく語られるのが、
津 + 島 = 港の島
という説である。
昔の日本語で「津」は港や船着き場を意味する。
たとえば三重県の「津」も港に由来する地名である。
対馬は山が多く、海岸線は複雑に入り組み、天然の入り江や港が数多くある。
さらに古代から朝鮮半島と九州を結ぶ航路の中継地だった。
そう考えれば、
「港の多い島=津島」
という説明は非常に分かりやすい。
『古事記』が実際に「津島」と表記していることも、この説を連想させる。
ただし、
「津島が語源である」と確定したわけではない。
古代の「つしま」という音に後から「津島」という漢字を当てただけという可能性もある。
ここは断定しない方がよい。
それでは、なぜ「津島」ではなく「対馬」になったのだろう。
これについても決定的な答えはない。
中国の『魏志倭人伝』では、すでに「対馬」という文字が使われている。
古代中国では、日本の地名を記録するとき、その土地の言葉の音に近い漢字を当てることがあった。
そのため、
「つしま」という音を中国側が「対馬」と表記した
可能性が考えられる。
一方、日本では「津島」という表記も使われていた。
つまり古代には、
対馬
津島
という複数の表記が存在し、その後「対馬」が一般的な表記として定着していったと考えるのが自然である。
対馬は浅茅湾によって島の中央部が大きく入り込み、現在は人工の水路によって上島と下島に分かれている。
そのため、
「二つの島が向かい合っているから『対』」
と説明したくなる。
また対馬には「対州馬」と呼ばれる在来馬もいる。
そこから、
「対」と「馬」の意味を組み合わせて対馬になった
という話も作れそうである。
しかし『魏志倭人伝』の時代から「対馬」と書かれていたことを考えると、現在の漢字の意味だけから語源を説明するのは無理がある。
地名の漢字は、後から音に合わせて選ばれた場合が多い。
ここでもやはり、
漢字より「つしま」という音の方が先だった
と考えた方が自然である。

対馬
名前の由来以上に重要なのが、対馬の位置である。
対馬は古代から、朝鮮半島と九州の間を行き来する船にとって欠かせない中継地点だった。
『魏志倭人伝』でも、対馬の人々は山が多く耕地が少ないため、海産物を採りながら南北の交易によって生活していたと記されている。
現在でも長崎県は対馬について、古くから大陸から日本へ文化や技術が伝わる「国境の島」だったと紹介している。
つまり対馬は、日本の端にある島ではない。
古代の視点で見れば、
日本と大陸を結ぶ入口
だったのである。
対馬には非常に古い神社や信仰が数多く残っている。
海神神社をはじめ、海や山そのものを神聖視する信仰が現在まで伝えられている。
神功皇后に関する伝承も多く、対馬市の資料には、皇后が対馬北端の和珥津から出航したという『日本書紀』の記述や、帰途に八幡本宮へ旗を納めたという伝承が紹介されている。
史実か伝説かは慎重に考える必要があるが、少なくとも古代からこの島が海上交通の重要な場所だったことを物語っている。
整理すると、確実に言えることは次の通りである。
対馬は3世紀の『魏志倭人伝』ですでに「対馬国」と書かれている。
『古事記』では「津島」と表記される。
『日本書紀』では「対馬洲」「対馬島」と記される。
つまり、
「つしま」という呼び名は非常に古く、漢字表記は時代や史料によって違っていた。
語源については、
「津=港」の多い島だから「津島」になった
という説が分かりやすい。
しかし、それが絶対に正しいと断定できる資料はない。
本当の意味は、文字が記録されるより昔に生まれた地名の中へ隠れてしまったのである。
対馬という名前は、約1800年前の中国の歴史書にも登場する、とても古い名前である。
日本の『古事記』では「津島」と書かれている。
昔の言葉で「津」は港を意味するので、
「港の島=津島」
から「つしま」と呼ばれたのではないかという説がある。
ただし、本当の意味は今でもはっきり分かっていない。
それでも、対馬が古代から日本と朝鮮半島を結ぶ海の玄関だったことだけは間違いない。
地図では日本の端に見える対馬だが、古代の人々にとっては、むしろ外国と日本を結ぶ最前線の島だったのである。

和多都美神社
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壱岐島
長崎県の北に浮かぶ壱岐島。
「壱岐」という漢字だけを見ると、
「一つの島が、いくつにも岐れているから壱岐なのではないか」
などと考えたくなる。
しかし、地名というものは漢字の意味だけから考えると、思わぬ間違いをすることがある。
壱岐の場合もそうである。
実は「いき」という名前は非常に古く、少なくとも約1800年前には、中国の歴史書にその存在が記録されていた。

壱岐原の辻遺跡
壱岐の名前が歴史に大きく登場するのは、3世紀の中国の歴史書『魏志倭人伝』である。
邪馬台国への道程を記した部分に、
「一支国」
という国が登場する。
これが現在の壱岐島にあたると考えられている。
長崎県も、壱岐島について『魏志倭人伝』に「一支国」として登場した島であり、弥生時代には大陸や朝鮮半島との交易拠点として重要な役割を果たしたと紹介している。
つまり「いき」という名前は、少なくとも邪馬台国の時代にはすでに使われていた可能性が高いのである。
ここで注意したいのは、
「一支」という漢字そのものが、地名の意味を表しているとは限らない
ことである。
古代中国の史書では、日本の地名や人名を中国の漢字を使って音写することがあった。
そのため「一支」も、現地の人々が呼んでいた「いき」という音に、中国側が漢字を当てた可能性がある。
後の史料では表記が変化し、現在の「壱岐」という字が定着していく。
つまり、
先に「いき」という音があり、漢字は後から付けられた
と考える方が自然なのである。
残念ながら、ここから先は簡単ではない。
「いき」という言葉そのものが何を意味していたのかについて、現在でも決定的な答えはない。
島の形や地形から生まれたのか。
海や航海に関係する古い言葉なのか。
あるいは、この島に住んでいた人々の呼び名に由来するのか。
いくつかの可能性は考えられるが、古代の人々が実際に何を意味して「いき」と呼んでいたのかを示す史料は残っていない。
だから、
「壱=一つ」「岐=分かれる」だから壱岐
という説明は、漢字から後世に意味を付けた解釈と考えた方がよい。
名前の意味は分からなくても、壱岐が古代にどのような場所だったのかは、かなり分かっている。
『魏志倭人伝』では、朝鮮半島から対馬を経て一支国へ渡り、さらに九州本土へ向かう道筋が記されている。
壱岐は単なる離島ではなかった。
中国大陸・朝鮮半島と九州を結ぶ海上交通の中継地点
だったのである。
壱岐市にある原の辻遺跡は、一支国の王都と考えられている。
発掘調査では、中国大陸や朝鮮半島から持ち込まれた品々や船着き場の跡などが見つかっており、弥生時代の壱岐が国際交易の重要拠点だったことが分かっている。
現在の感覚では「長崎県の離島」という印象が強いが、古代の壱岐はむしろ海の高速道路のサービスエリア、いや国際港だったのである。

壱岐一支国博物館
壱岐を歩くと、
「○○町○○触」
という住所をよく見かける。
この「触(ふれ)」も壱岐独特の文化である。
壱岐市の資料によれば、中世には島内が多くの村に分かれており、江戸時代には「24村98触」という区分があったとされる。
「触」の語源についても、
古代の「村(むれ・ふれ)」という言葉の名残とする説や、江戸時代のお触書を伝える「触役」が担当した区域から生まれたという説などがある。
このように壱岐には、古代から続く独特の地名文化が今も残っている。
ただし、「触」が多いから「壱岐」という名前になったわけではない。
そこは分けて考える必要がある。
地名を考える時に最も重要なのは、
漢字より音の方が古い場合がある
ということである。
壱岐もその典型だと思われる。
3世紀には中国で「一支」と記され、後世になって「壱岐」という漢字が使われるようになった。
漢字は変わっても、
「いき」という音は千年以上受け継がれてきた。
その事実の方が、地名の意味を無理に漢字から読み解くよりはるかに面白い。
壱岐は、邪馬台国があった時代から知られていた、とても古い島である。
約1800年前の中国の歴史書『魏志倭人伝』には、「一支国」という名前で登場する。
そこには多くの人々が暮らし、中国や朝鮮半島、九州との交易を行っていた。
「いき」という名前が本当は何を意味するのかは、今でも分かっていない。
ただし、「壱」という字と「岐」という字の意味を合わせて作られた名前ではなく、
「いき」という古い呼び名が先にあり、後から漢字が当てられた
と考えるのが自然である。
名前の意味は忘れられても、名前そのものは二千年近く残る。
それこそが壱岐という地名の一番面白いところなのである。
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諫早本明川
長崎県の中央部に位置する諫早市。
県内ではよく知られた地名だが、改めて考えると「諫早」という漢字は少し不思議である。
なぜ「いさはや」と読むのか。
そして、なぜ「諫早」という字を使うようになったのか。
実はこの地名、もともとは**「伊佐早」**と書かれていた。
つまり、現在の「諫早」という漢字は後から使われるようになったのである。
諫早という地名は古く、平安時代にはすでに**「伊佐早」**という表記が見られる。
当時、この地域には「伊佐早荘」と呼ばれる荘園があり、現在の諫早市だけでなく、周辺の広い地域を含んでいたと考えられている。
つまり「いさはや」という呼び名そのものは、現在の諫早市が成立するはるか前から使われていたのである。
この点は重要である。
「諫早」という漢字から地名の意味を考えるよりも、まず先に**「いさはや」という古い音があった**と考えた方が自然だからである。
中世から戦国時代になると、この地域は佐賀の龍造寺氏の勢力下に入る。
その後、龍造寺家晴が当地を治めるようになり、その子孫は諫早氏を名乗った。
このころから「伊佐早」ではなく「諫早」という表記が広く使われるようになったと考えられている。
つまり、
伊佐早という古い地名
↓
領主が諫早氏を名乗る
↓
「諫早」という漢字表記が定着
という流れである。

諫早干拓
ここが一番難しい。
「いさはや」という音そのものの意味については、現在もはっきりした定説がない。
「伊佐」という地名は九州各地に見られ、「いさ」という古い言葉が地形や水辺を表していたのではないかという説もある。
また「いさな」という古語がクジラを意味するため、海との関係を考える説もある。
しかし、これらはあくまで推測の域を出ない。
諫早は有明海と橘湾の両方に近く、古代から水運や漁業との関係が深い地域であった。
そのため、海や川に関係する古い言葉が地名に残った可能性はある。
ただし、現時点で「これが正解」と言える証拠はない。
興味深いのは、諫早がかなり古い地域名であることである。
平安時代には「伊佐早荘」という荘園が存在し、その範囲は現在の諫早市周辺だけではなく、長崎方面にも及んでいたとされる。
つまり現在の長崎市周辺の一部も、かつては広い意味で「伊佐早」の領域に含まれていた時代があった。
今では長崎市と諫早市は別々の市だが、古代・中世の土地の区分は現在とは大きく異なっていたのである。
「諫早」という漢字を見ると、
「諫める」
「早い」
という意味を考えたくなる。
しかし、それは後から当てられた字であり、地名の本来の意味とは直接関係がない可能性が高い。
日本の古い地名には、
音が先、漢字が後
という例が多い。
諫早もその典型である。
「いさはや」という古い呼び名があり、その音に後から「伊佐早」や「諫早」という漢字が当てられた。
そう考えると、漢字だけを見て地名の意味を説明するのは危険であることがよく分かる。
諫早は、昔は「伊佐早」と書かれていた。
「いさはや」という呼び名はとても古く、平安時代にはすでに使われていた。
その後、この土地を治めた武士が諫早氏を名乗るようになり、「諫早」という字が定着した。
ただし、「いさはや」という言葉そのものが何を意味するのかは、今でもはっきり分かっていない。
地名には、千年以上前の言葉がそのまま残っていることがある。
諫早という名前も、その一つなのである。

諫早
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佐世保港 ウィキペディア
「佐世保」という地名は、長崎県内でもかなり独特である。
長崎、大村、島原なら、漢字を見ればなんとなく意味を想像できる。
ところが「佐世保」はそうはいかない。
「佐世」とは何なのか。
そして最後の「保」には、どんな意味があるのか。
調べてみると、佐世保という地名には今でも決定的な答えがなく、佐世保市自身も複数の説を紹介している。
まず大切なのは、
佐世保という名前の由来は、現在も一つに決まっていない
ということである。
佐世保市の公式Q&Aでは、主な説として三つを紹介している。
一つ目は植物説。
二つ目は地形と行政単位から生まれたという説。
三つ目は神功皇后にまつわる伝説である。
どれも興味深いが、「これが正解だ」と断定できるものではない。
だからこそ面白い。
一つ目は、
この土地に「サセブ」という木が多く生えていた
という説である。
サセブとは、和名でシャシャンボと呼ばれる植物である。
この「サセブ」という呼び名が少しずつ変化し、
サセブ → サセボ → 佐世保
となったという説明である。
地名が植物の名前から生まれることは珍しくないので、十分ありそうな話ではある。
ただし、「サセブ」という植物名から佐世保という地名が生まれたことを直接示す古い史料が残っているわけではない。
したがって、あくまで有力な説の一つである。
個人的に最も興味深いのが、この説である。
佐世保市公式によると、
狭い川瀬を意味する「狭瀬(させ)」が「佐世」となり、中世の行政単位を表す「保」と結びついた
という説がある。
つまり、
狭瀬 + 保 = 佐世保
というわけである。
「保」は中世に使われた土地や行政単位を表す言葉である。
そう考えると、「佐世保」は最初から一つの言葉だったのではなく、
佐世という場所にあった「保」
という意味だった可能性が出てくる。
この説は、佐世保を「佐世」と「保」に分けて考えられるという点でも興味深い。
後世には佐世保氏という武士も現れるが、地名から名字を取った可能性も考えられる。
日本の武士の名字は、自分が支配した土地の名を名乗ることが非常に多かったからである。
そして長崎らしい伝説も残っている。
それが神功皇后である。
佐世保市公式の説明では、神功皇后が三韓征伐へ向かう途中、強い風によって船の帆が裂けた。
そこで佐世保の港へ入り、帆を修理した。
そのため、
「裂け帆(さけほ)」
と呼ばれるようになり、それが次第に
「させぼ」
へ変化したという伝説である。
いかにも昔話らしい話である。
ただしこれは、歴史的な語源というより神功皇后伝説と結びついた地名伝承として考える方がよいだろう。
長崎県内には神功皇后に関する地名伝説や神社伝承が非常に多いため、その一つとして見ると興味深い。

佐世保亀岡八幡宮
ここで気になるのが「佐世」という言葉である。
佐世保という名前を分解すると、
佐世 + 保
となる。
つまり「佐世」という地域名が先に存在し、そこへ「保」という行政上の言葉が付いた可能性も考えられる。
中世の佐世保周辺は松浦党の勢力圏であった。
松浦党とは、現在の長崎県北部から佐賀県北部にかけて勢力を持った武士団である。
海に囲まれた土地柄から、水軍や海上交易にも深く関わった。
佐世保周辺にも松浦党につながる武士が存在し、後には佐世保氏という姓も見られる。
そう考えると、
先に「佐世」という土地があり、その地域の「保」が佐世保と呼ばれた
という考え方は比較的自然に思える。
ただし、これも決定的な証拠があるわけではない。
現在の佐世保は長崎県を代表する都市だが、明治初期までは大都市ではなかった。
大きく運命が変わったのは、明治時代に海軍の軍港が置かれてからである。
天然の良港を持つ佐世保は、日本海軍の重要拠点として選ばれ、急速に人口が増えた。
そして小さな佐世保村から、軍港都市・佐世保へと成長していった。
現在でも佐世保港は深い入り江を持つ天然の良港であり、市の公式説明では「葉港」とも呼ばれている。市章も「サセホ」の文字を組み合わせたデザインになっている。
つまり、「佐世保」という昔からの地名が、軍港の発展によって全国的に知られる都市名になったのである。

佐世保教会
現在知られている主な説を整理すると、
植物説
サセブという木が多かったため、サセブが訛って佐世保になった。
地形・行政説
狭い川瀬を表す「狭瀬」が「佐世」となり、中世の行政単位「保」と結びついて佐世保になった。
神功皇后伝説
船の「裂け帆」を修理した場所だったため「サケホ」と呼ばれ、それが佐世保になった。
という三つが代表的である。佐世保市もこの三説を紹介しており、どれか一つを定説とはしていない。
私としては、
「佐世」という古い地域名に、中世の行政単位「保」が付いた
という考え方が一番すっきりするように感じる。
しかし歴史では、「分からない」という答えも立派な答えである。
地名というものは、漢字が付けられるはるか以前から、人々の口から口へと伝えられていた場合が多い。
千年も前の人たちが何を思って「させぼ」と呼び始めたのか。
その声そのものは、残念ながら記録には残らない。
佐世保という名前の本当の由来は、今でもはっきり分かっていない。
「サセブという木がたくさん生えていたから」という説や、
「狭い川瀬を意味する『狭瀬』と、昔の土地の単位『保』が一緒になった」という説、
さらには神功皇后の船の帆が裂けた「裂け帆」が佐世保になったという伝説まである。
そして明治時代、佐世保に海軍の軍港が造られたことで、小さな村だった佐世保は大きな町へ変わっていった。
地名の由来が一つに決まっていないことも、故郷の歴史の面白さなのである。

佐世保宮地岳神社
諫早という地名の由来|なぜ「伊佐早」から「諫早」になったのか
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長崎という地名の由来を紹介する長崎港のイメージ
「長崎」という地名は、あまりにも聞き慣れているため、普段はその意味を考えることがない。
しかし改めて考えてみると、不思議な名前である。
なぜ「長崎」なのか。
「長い崎」があったからなのか。それとも、長崎という名字の武士がいたからなのか。
調べてみると、この地名にはいくつかの説があり、今でも完全に決着しているわけではない。ただし、現在もっとも分かりやすく、長崎市の資料でも紹介されているのが「地形から生まれた」という説である。(長崎市公式サイト)
現在の長崎市中心部は、埋め立てや都市開発によって昔とはかなり地形が変わっている。
しかし開港前の長崎を見ると、現在の諏訪神社方面から長崎港へ向かって、細長い岬状の土地が海へ突き出していた。
長崎市の資料でも、この「長い岬」が「長崎岬」と呼ばれ、それが「長崎」という地名になったという説が紹介されている。(長崎市公式サイト)
つまり、
長い岬 → 長崎
という、実に単純な地名だった可能性がある。
長崎市の紹介記事には、長崎弁で「長い」を意味する「なんか」と「みさき」が結びつき、
「なんかみさき」→「ながさき」
となったという説も紹介されている。(長崎市公式サイト)
地名というものは、案外このように地形をそのまま表したものが多い。
山があれば山、川があれば川、浦があれば浦。
そう考えると、「長い岬だから長崎」という説明は非常に自然である。
一方で、もう一つ有名なのが「長崎氏」という武士から地名が生まれたという説である。
中世、この地域には長崎氏という豪族がいた。
長崎市の資料によれば、長崎氏は現在の桜馬場周辺を拠点としており、春徳寺の裏山には鶴城跡や焼山城跡が残る。長崎氏はこの地域を治めた有力な領主だった。(長崎市公式サイト)
戦国時代末期には長崎甚左衛門純景が登場する。
純景は大村純忠と深い関係を持ち、キリスト教にも理解を示した人物で、長崎開港の時代に重要な役割を果たした。
そのため、
「長崎氏が治めていた土地だから長崎になった」
という説も昔から語られてきたのである。
しかし、ここで一つ疑問が生まれる。
長崎氏が先なのか。
それとも長崎という地名が先なのか。
これは簡単には決められない。
長崎市史にも、長崎小太郎という武士の名から地名が生まれたという説や、地形から生まれたという説などが紹介されており、由来は「諸説あってはっきりしていない」とされている。(長崎市公式サイト)
さらに興味深いのが、長崎市の歴史文化資料に
「永埼(長崎)浦」
という表記が見られることである。(長崎市公式サイト)
つまり長崎という土地は、武士の名前だけではなく、かなり古くから「ながさき」に近い音で呼ばれていた可能性がある。
そう考えると、
まず「ながさき」という土地の名前があり、そこを支配した武士が「長崎氏」を名乗った
という順序も十分考えられる。
日本の武士の名字には、自分が治めた土地の名前をそのまま名乗った例が非常に多い。
大村氏、島原氏、平戸松浦氏などを考えても、土地と名字は密接に結びついている。
長崎という地名が一気に歴史の表舞台へ出るのは、16世紀後半である。
1570年、大村純忠とポルトガル側の協議によって長崎港の開港が進められ、翌1571年にはポルトガル船が入港した。
そして長い岬の上に、大村町、島原町、平戸町などの町が造られた。(長崎市公式サイト)
ここから長崎は、ただの小さな港町ではなくなる。
ポルトガル人、宣教師、中国商人、オランダ人などが行き交い、日本でも特別な国際都市へ発展していった。
やがて「Nagasaki」という名前は、日本国内だけでなく世界に知られる名前となったのである。
現在のところ、
「これが絶対に正しい」と断定できる説はない。
ただし、大きく分ければ二つである。
一つは、
海へ突き出した「長い岬」から長崎になったという地形説。
もう一つは、
この地域を治めた長崎氏から地名になったという人名説。
長崎市自身も両方の説を紹介している。(長崎市公式サイト)
私は、地形として実際に長い岬が存在していたことや、「永埼浦」という古い呼び方が確認できることを考えると、
まず土地が「ながさき」と呼ばれ、その土地を治めた武士が長崎氏を名乗った
と考える方が自然ではないかと思う。
ただし、これはあくまで一つの見方である。
歴史とは、分からないところを無理に断定するより、
「なぜそう呼ばれたのだろう」
と考えるところに面白さがある。
長崎は昔、海に向かって細長い岬が伸びていた。
そのため「長い岬」から「長崎」と呼ばれるようになったという説がある。
その土地を治めた武士も長崎氏と名乗り、後に長崎甚左衛門という武将がこの地域を治めた。
そして16世紀に港が開かれると、長崎は外国船が行き交う町となり、「長崎」という名前は世界に知られるようになった。
故郷の名前には、それだけで一つの歴史が詰まっているのである。
関連記事:長崎県の市名の由来|長崎・諫早・大村・佐世保など名前の歴史をたどる
諫早という地名の由来|なぜ「伊佐早」から「諫早」になったのか
大村という地名の由来|なぜ「大村」と呼ばれるようになったのか
佐世保という地名の由来|なぜ「佐世保」と呼ばれるようになったのか
島原という地名の由来|なぜ「島原」と呼ばれるようになったのか
平戸という地名の由来|なぜ「平戸」と呼ばれるようになったのか
壱岐という名前はどこから来たのか|「一支国」から続く古い島の名
対馬という地名の由来|なぜ「つしま」と呼ばれるようになったのか
五島という地名の由来|なぜ「五島」と呼ばれるようになったのか
例えば「神功皇后伝説」をテーマに、長崎各地の神社を訪ねてみるのも面白い。地図を広げ、それぞれの土地に残る伝説を読みながら神社を巡っていくと、離れて点在していた神社が、一つの大きな物語でつながってくるのである。
神功皇后といえば、古代に朝鮮半島へ兵を進めたとされる「三韓征伐」の物語で知られる人物である。その史実性については慎重に考える必要があるが、長崎各地には、皇后が船を寄せた、上陸した、休息した、水を求めた、戦勝を祈ったといった伝承が数多く残されている。

「神功皇后」『慶応頃錦絵帖』
一猛斎芳虎 作
今回取り上げる主な神社を地域別に整理すると、次のようになる。
【諫早・橘湾奥】
白髯神社(諫早市有喜町)
【東長崎・橘湾沿岸】
戸石八幡神社(長崎市戸石町)
矢上八幡神社(長崎市矢上町)
【長崎港・浦上周辺】
神崎神社(長崎市木鉢町)
稚桜神社(長崎市坂本町)
【茂木・長崎市南東部】
茂木神社・裳着神社(長崎市茂木町)
【野母半島・長崎市南部】
脇岬八幡神社(長崎市脇岬町)
樺島八幡神社(長崎市野母崎樺島町)
【外海・三重沖】
神浦神社(長崎市神浦江川町)
神楽島神社(長崎市四杖町沖・三重沖)

稚桜神社(長崎市坂本町)
私は長崎の神社についてはかなり巡ってきたつもりであるが、神功皇后に関係する神社は、これ以外にもまだあるように思う。
特に八幡神社は、一般に応神天皇を祭神とする神社が多い。そして『日本書紀』などの伝承では、その応神天皇の母が神功皇后である。そのため、直接「神功皇后がここへ来た」という伝説がなくても、八幡信仰を通じて神功皇后と深く結びついている神社も少なくない。
ここでは、長崎周辺で神功皇后伝説との結びつきが比較的よく知られている神社を中心に紹介することにした。ほかにも伝承地や小さな社が残っている可能性があるので、漏れがあればご容赦いただきたい。
こうして並べてみると、神功皇后伝説は長崎の一地域だけではなく、橘湾から長崎港、野母半島、さらに角力灘まで、かなり広い範囲に分布していることが分かる。
まず橘湾の奥、諫早市有喜町には白髯神社がある。伝承では、神功皇后が有喜浦に船を寄せて上陸し、武運長久と航海の安全を祈ったとされる。
そこから橘湾沿岸を長崎方面へたどると、戸石町の戸石八幡神社がある。ここには、皇后の軍船をつなぎ止めたという巨石「舫石(もやいいし)」の伝説が残されている。
さらに矢上町の矢上八幡神社には、皇后の軍勢が水に困った際、皇后が杖で地面を突くと清水が湧き出したという「杖立の水」の伝説が伝わる。海上の航路だけでなく、陸上にも皇后の足跡が残されているのである。
長崎港周辺にも伝説は多い。
旭町の釛山恵美須神社では、長崎港に入った皇后が山に登り、神宝を納めて戦勝を祈ったとされる。また木鉢町の神崎神社には、皇后の御座船が着岸したという話や、皇后が腰掛けたとされる「御腰掛石」が伝えられている。
浦上地区の坂本町には稚桜神社があり、神功皇后や皇統を守る神々を祀る社として受け継がれてきた。
一方、長崎市南東部の茂木町には、茂木神社・裳着神社がある。神功皇后がこの地に上陸し、衣服の「裳」を着け直したことから「裳着」と呼ばれ、それが「茂木」という地名につながったという伝承が残る。境内には、皇后が腰を掛けたとされる石も伝えられている。
さらに南へ進み、野母半島へ向かうと、脇岬八幡神社と樺島八幡神社がある。
脇岬では、皇后が風待ちのため上陸して休息し、遠征の成功を祈ったとされる。樺島には、水を求めた皇后が弓の先で地面を突くと水が湧き出したという「皇后井戸」の伝説が残っている。
そして長崎市北西部、角力灘側にも伝承は続く。
神浦江川町の神浦神社では、皇后が御座船を寄せて風待ちをし、神々を祀ったことから「神の浦」と呼ばれるようになったと伝えられている。
さらに三重沖の神楽島には神楽島神社がある。ここには、三韓征伐から凱旋した際、皇后一行が神楽を奉納したことから「神楽島」という名が生まれたという伝説が残されている。
こうして地図の上で神社や伝承地を結んでいくと、有喜、戸石、矢上、長崎港、茂木、野母半島、そして角力灘へと、長崎の海岸線を巡る大きな物語が浮かび上がってくる。
もちろん、これらすべてが実際の神功皇后の航路だったと証明されているわけではない。後世になって生まれた伝説や、もともと各地にあった海や水、巨石への信仰が、神功皇后の物語と結びついた可能性もある。
しかし、それこそが神社巡りの面白さではないだろうか。
「本当に神功皇后はここへ来たのだろうか」
「なぜ、この場所にこのような伝説が生まれたのだろうか」
そんな疑問を持ちながら歩けば、神社は単なる参拝の場所ではなく、歴史の謎を考える入口になる。
そもそも神社は、ある日突然、何もない場所に自然に生まれたものではない。そこには神社を建てた人々がおり、その場所を大切に守り、伝説や祭りを後世へ伝えてきた人々がいる。
たとえ神功皇后の伝説そのものが史実ではなかったとしても、「なぜその土地の人々が、その場所に神功皇后の物語を残したのか」という事実には意味がある。
港には港の歴史があり、岬には岬の歴史があり、湧水や巨石にも、それを特別なものとして見てきた人々の記憶がある。
神社を訪ねるということは、神様だけを訪ねることではない。
その土地に生きてきた人々の記憶を訪ねることでもある。
神社は、人が残した歴史そのものなのである。

月岡芳年筆「日本史略図会 第十五代神功皇后」