とはいえ、自分があまり登山で景色を楽しめていないのはなぜかちゃんと考えてみるに
都心から車を使わずに行ける山だと、どこもかしこも杉の木だらけだからだと思う
森や土や微生物についての本が好きで読んでるせいか
人口の、管理された森にいることに気がついてしまった
だってあまりにも杉の山は生き物の気配がない
その違和感に気づいてしまうと登山をしながら感じる自然は本当の自然なのか疑問に思えてくる
本当の森の姿ってどんなんだろうか見てみたい、
植物も、そこに住む微生物や虫や動物たちが多様性に溢れた姿で生きている様子が見てみたい(昔見ていたはずなのに子供過ぎた)
そんな好奇心という欲求が湧いてくるのだった
日本の森の木々の40%は人の手で植えられたものだという
私はそれをただ反射的に否定するわけではない
でも、多くの木が必要だった戦後時代には木を効率的に育てることが重要だったとしても
今はゆっくりともう一度人の手によって本来の豊かな森の姿にもどしていくことはできないのだろうか
そんな想像はしても先人の頑張りを否定することにはならないのではないかとは思うのだ
自然の力をお借りしたら今度は返した方がいいのでは
多様性のない環境は不安定で病気に弱く、痩せていく悪循環になるという
未来の森が、何も育たない環境になってしまう前に緩やかなシフトをやっておくといいのではないかと考えながら歩いたのでした

上記のような映画を見ていて、最近のある子供のことを思い出した。
それでこのブログを書こうと思ったのだ。
あの日、病院の待合室でなぜか私に触れそうなほど近くに座る子供がいた
ヘッドフォンをつけていたからそれまでの会話は聞いていなかったけど
不思議に思ってノイキャンをオフにしたらその子供の向こう側に座っている母親がネチネチと何かを子供に言っているようだった。
話を読み取るに、おもらしをしてしまったことを執拗に攻めて人格を否定し続けているようだった。
ちらっと覗くと、ズボンは確かに少し汚れたままだった。
とにかくひたすら嫌味や意地悪なことを言いながら時々太ももや頬をつねったりもしていて、
それがその日だけではなくとてもやりなれた日常的な状態ということがわかると
私の体が硬直して母親を罵倒しながら張り倒してやりたい気持ちに震えた
でもこの場で軽い気持ちで注意したってあとで子供が見えないところでもっといじめられるのは目に見えているしなんの解決にもならないことが私を理性的(?)にさせたのだった。
頭をフル稼働させたけど、結局その場での最適な解決法が思いつかず、
私はほんの少しだけ私の体に触れるように座っているその子の温かさに全力で愛情と激励と申し訳ない気持ちを送りながら
受付に呼び出されて去っていくまで体が固まったまま地蔵になっていた。
あの子が何とか大人になって、どこかでこういった映画や私のブログなどを見る機会があったら可能性に気がついて欲しいなと思ったのだった。
大人になった君が罪悪感で窒息する前に、自分の人生を自分で生きるために
勇気をもって利己的になる方法を学ぶ必要がある。

今、ダルコ・スーヴィンの「SFの変容」という本を読んでいて
絶版になっていて、今はネットで中古しかない本で10,000円くらいするんだけど
なぜか無性に気になって買ってしまった。
彼曰く、哲学や政治経済、自然科学、テクノロジー、
人間という現象を深く正確に理解する素養がないと
本物のSFを描くことはできなくて、
そんなバックグランドがない作品は全てファンタジーと呼ぶのだという考えに深く頷いた。
私という人間を表すのに
自由主義という言葉がふさわしいかはまだわからないだけど
私が生まれた時の日本の環境は歴史の中でも
もうすでにその基盤ができつつあったからなのか
北海道という場所と、自分の子供に関心がないらしい
完全な放任主義の両親の元に生まれたからなのか
私の中に根付いている文化というのは
別の文化を持つあの人の目を借りると
感情や心という最も心許ない針が導く地図で、
この人間社会という荒地を旅する非合理的な人に見えるのだろう。
私はここ最近ずっと、いくつも存在する正しさについて考えている。
(考えること自体が生きる上で意味がないように君は笑うが
真剣に考えて生きていると、時々心だけで誰かと強く繋がれることがあるんだよ。
ばったりと地下鉄のホームで出会うかもしれないし
地球の裏側の人かも知れない。
その素晴らしさを君にもうまく伝えたかったのだけど。)
人間の人生は
全体のための自分であった
ひとりひとりが利他的であることで全体が進化してきた
これまではそれが機能してきたのだと思うのだけど
これからもそうなんだろうか
インターネットやAIの時代になってもまだ続くのだろうか
心は生産性の犠牲になり続けるのだろうか
(「犠牲」なんて書くとまた浸っちゃってる感じがするかもね)
でも。
悲しみや痛みもネガティブだと排除しないで味わう
全部深く味わうことが大事
心を大きく育てて太古の蛇が龍になっていく
木が年輪を重ねるように、人間の脳もそうやって進化してきたんだって知って勇気が湧く。
ダルコスーヴィンに話を戻すと
自分がみている世界をそのまま信じないこと、
疑問を抱いて生き続けることが本物のSF(反対言葉ゲームみたい)を描く精神には必要で
それが多くの詩人や発明家や起業家や革命家の魂にもあって
その視点が新しくて名前のない要素「ノヴム(novum)」を社会に取り入れると言っています。
すべての正しさを包み込む優しさを
君と一緒に発明できないかという夢を見ていたから、
まだここでぶっ壊れた夏に立ち止まって、もう少しだけ考えてみています。

本屋で手に取って序章を読んですぐにこの著者のテーマと
私の最近のテーマが同じことがわかって即買いした。
人類学者であるこの著者の言葉は、自然科学や人類学の裏付けとともに
ボードレールが詩作「Correspondence」で表現した
人間の共感覚の秘密についての探究の軌跡であり、
調べるとそういったテーマの本を多く出版しているようでした。
なぜCorrespondという言葉に興味があるのか、ずっと考えていた。
まだ人間は、自然のことも自身(認知)のことも全然しらなくて、ボードレールの詩を持て囃す人でさえ、まだその本当の意味を知らずにいると感じていたから、ティム・インゴルドの本にあるような試みは、私の孤独な探求の足元を照らす
小さなサーチライトのようにこれからの見通しをよくしてくれたように感じた。
この著者のような研究者が、ボードレールと同じようにアートやサイエンスを詩的に表現する試みを通じて、森羅万象を言葉に変えることの可能性を私も知りたいと思ったのだった。
時々ぱたと活字を伏せて、ああ私は話し相手がやっぱり欲しいんだなあと思う。
遠くからこんなふうに聞こえてくる声が届いて気づくことができるとき、まだ大丈夫だって思えるけど、普段はまるで違う言葉を話している。
こうして呼ばれて戻って来れた時、私は自由を思い出す。
小さい頃雨の日に部屋にこもって、窓に打ちつけるリズミカルな雨音と、窓枠の古い木材に水が染み込む匂いの中、大きな知恵からの声に耳を傾けたあの大好きだった完璧なほど退屈な時間にあと何回戻ってくることができるだろうか。
例えばアートを見るということは、
色や現象を認知するということだけではなくて、
光について
振動について
人間の認知機能について
時間について
命について
目にみえないものについて
すべてを知ってその見るということが
本当の意味で浮き上がってくるのだと思う。
インゴルドのいう
「音の中で人は空に上がった凧のようなものである」という表現の通り
目や耳は今ここにある現象を人間が知覚する方法、道具にすぎず、
聞けたもの見れたものを人間のフィルターを通すと、
それはすでに別のものになって記録される。
そう考えると私たちが生きているこの環境はまるでおままごとではないか
と不思議な違和感が芽生えてくる。
世界をよくわからないままなんとか作った仮の人間社会に生きているのかも。
言葉に変える試みを私もやってみたい。
最近、好きな人に自分をうまく表現できなくてすごく悔しい思いをしたから、やっぱりそんな思いはしたくないっていうのが大きいかも。
表現できていないなら私は死んでいるのと変わらないのでは?
なんつて。
ちなみにサムネ写真は特にあげるものがなかったので、
最近英語勉強に会話させてもらっているネットの人に送れと言われて撮った顔です。


まあ、この頃は本当に大変だったので、
この時代の思い出は私にとって良いものばかりとは言えないけど
大変な中、なかなか頑張っていたと全力で褒めてあげられると思う。
今20年前に20歳だった私を見返すことで色々と思うことができたので、
動画に誰かがコメントしてたawakeなムードに私もなれました。
教えてくれた友達に感謝。たまには振り返ってみるのもいいね!
何度でも、目を小さくして笑っている私の時の
このどこまでも晴れ渡る空みたいな心になって逢えるといいね。
※ちなみにサムネも18歳の東京にきたばかりのわたし

それでも作っては壊しを繰り返して、
最後には洗練されたものを完成させたいものです。
このゲームの人みたいに、宇宙にひとり降り立って、
何もないところから自分の手と頭だけで
新しくものを作っていくことができるエンジニアのように少しでもなるのが今の私の夢です。

積み重ねていけばいつか、このパニックを追い越して
自分の時間を取り戻すことができるのかもしれない。
やりたかった絵のリハビリはちょっとできた。
久しぶりにペンを持って書き出す前に、
自分にがっかりするんじゃないかって怖くなる。
なんで絵が描けるのかわからないから。
そういう自分の中で漠然としていることをひとつずつ確かめる日々だ。
せっかくなら海の日に間に合わせたかった・・・、
とはいえ時間がかかったけど動画仕上げられて今は満足している。
この曲はずっとずっと大好きだった漫画「海獣の子供」が映画になるって知った時に、youtubeで見つけた米津玄師さんのMVで鳥肌がたって、なんかもうそわそわするというか、いてもたってもいられないような気持ちになったのだけど、
そうこうしている頃に、泉ちゃんが奇跡のように「カバーしませんか」って声をかけてくれて、それはもう嬉しくて二つ返事でした。
もちろん映画も、映画館でバッチリみました。
今はAmazon Primeでも見れるからこの編集ができたお祝いに、
またみようと思う。下にリンクを貼るので皆さんも絶対みてね。
生きていると目に見えるものばかりにどうしても、目を、心を奪われてしまうことが多いけど。目に見えないもので埋め尽くされているこの世界に、もう一度気づくことができるはず。
私に力をくれた特別な作品。
※2020/7/26 泉ちゃんのYoutubeチャンネルで公開されました!