
わたしは、この作品を気にいっていて、いままでに何度も見ている。もともとはどのようなことがきっかけで見ることになったのかは思い出せないのだが、いまはもう潰れてしまった北口のレンタル店で借りてきたことだけは確かだ。
ひとり夜更かしをしたその夜に、だらしなく飲み食いをしながら見た記憶がある。ある時期のわたしは、そんなふうにしながら、夜中に妙な映画をたくさん見たものだった。いまふと思い出したが、「唇によだれ」という白黒のフランス映画を見たのもそのころだった。人生の一時期、そんな時間のつかいかたをすることは、けっして悪いことではないのだと思う。
物語は、連続する銀行強盗をめぐって展開される。これらの事件、なんとも不思議なことに、各犯行現場において実行者は文字どおり霧のように消えてしまっていて、犯人像がまるでつかめない。犯人を追いかける刑事と、彼が偶然行き合わせた日本舞踊の家元をつとめる女と、そしてその女に入れ込む謎の男、この三者を軸に、話はすすんでいく。それぞれが近づいては離れ、離れては近づく。そんなことを繰り返しながら、物語は結末へと向かっていく。
そのタイトルどおり、ガス人間の特撮映像がこの映画の見所なのだろうが、わたしがもっとも心惹かれたのは、物語中盤に出てくる図書館である。図書館が印象的な映画といったら、実写ならなんといっても「セブン」であり、アニメ作品なら「耳をすませば」ということになるだろうが、本作の図書館もまたすばらしい。電子化や個人情報といった面倒くさいこととはまるで無縁な昭和の図書館は、なんともいえない魅力がある。
この「ガス人間第一号」、リメイク記念ということなのか、この2026年の秋から冬にかけて、TOHOシネマズをはじめとする全国の映画館で上映されるようだ。ふたたび訪れることはないであろうこの機会、物語へのさらなる没入をもとめて、映画館でガス人間と相見えるのも一興である。

動物も植物も、人間と同じこの地球に存在しているが、その生の実態はそれぞれに全く異なる。いのちの長さはもちろん、その構造まで違っている。ものの見え方ひとつとっても、その視野の広さや知覚する色といったものは完全に別のものとなり、生き物ごとにこの世界に対する認識の違いが存在する。どれがいい悪いということではない。それぞれの生存戦略の違いによるものである。
そうなると、これひとつが正解で、他は間違いというものの考え方は、まったく意味をなさないという心境になってくる。すべてのものは違っていて当たり前であり、それがこの世界をかたちづくっている構造であるということが、身に染みてわかってくる。
人間はどうだろう。あいつの考え方は変だとか、劣っているとか、そんなことばかりをお互いに言い合って、いらいらして過ごしている。
それぞれに違っているのが当たり前だと思えば、そんな気持ちもなくなるだろう。だが、それが難しい。人間は長い物に巻かれるのをよしとして、自分と異なる者や弱い者、少数の者を攻撃することで自らの安全を確保しようとする習性があって、始終醜態をさらしている。自らの意識に囚われて生きざるを得ない人間とは、もっとも悲しい生き物なのかもしれない。
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展示の目玉は、ずらりと並べられた処女作『晩年』の献呈署名本である。出版にさいして、御世話になったひとに感謝の一言を添えて自著を贈る。献呈署名本とは、ほんらいそういうものなのだが、どうやら太宰のばあいは異なるようで、まるで喧嘩を売るような言葉を書きつけていたりする。「汝を愛し 汝を憎む」とか「あざむかれる ことの たのしさ」などと書かれた本を贈られた者は、いったいどこに気持ちを持っていけばいいのだろう。うねるような毛筆で書かれた毒気のある文句を見ながら、わたしはそんなことを思った。
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見ているものといえば、てんでばらばらである。ただ、なるべくひとが見ないようなものを見てやろうという気持ちがあるので、妙なものばかりを見ている。誰も知らない映画を見る。そんなことに、価値を見出すのもおもしろい。
そんな映画のひとつひとつについて、これから感じたことを書いてみようと思う。気取ることなく、思ったことを素直にことばにする。そしてその多くは、よろこびに満ちたものになることだろう。
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Cdd20 / Pixabay
お返事をするのでメールをくださいと2度もいわれて、こころ尽くしの文章を書いたのに何の返事もよこさなかったり、こちらから連絡をするといわれてずっと待っているにもかかわらず何の音沙汰もなく、それなのにツイッターをばりばり更新しているのを見たりすると、心底いやな気持ちになる。いまのわたしは、そんな対応をふたり同時にされていて、すっかり人間不信になっている。
もともとひとから軽く見られることがおおく、人間というものは好きではないのだが、この春からは植物や昆虫、鳥といった自然全般についての勉強をはじめたこともあって、ますますその傾向がつよくなってきている。人間なんかより、動植物のほうがずっと素直で美しい。
数少ない人間関係のなかにあっても、こんなにも苦しい思いをするのである。ふつうに世を渡っていると、どんなにいやな思いをするのだろう。想像するだけでもおそろしい。世の中は自分中心では回っていなくて、うまくいくことばかりではないとはわかっているが、あまりに邪険な目ばかりあっていると、ひとと関わることそれ自体がこわくなってしまいそうで、わたしはそれを恐れている。
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特にいっぺんしてしまったのは、いままではひとりひとりの空間として区切られていた閲覧席で、そのすべてが取り払われて、ふつうの長机が置かれていた。誰の視線にもさらされず、じっとひとり本を読むことができた隠れ家のような空間が気に入っていただけに、ひどく淋しい思いがした。
おそらく見通しをよくすることで、不正な行為に対する抑止力としたいのだろう。信じられないことだが、図書館に出入りする人間のなかには、高価な館内のみ閲覧可能な本を勝手に持ちだしてしまったり、自分の必要とするページだけ破いてしまったりする者が存在する。
前世紀の新聞の縮刷版を2冊書庫から出してもらったわたしが通されたのは、監視カメラの真下の席だった。痛くもない腹を探られるほど、不愉快なことはない。
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活動的なのはいいことなのだろうが、精神的なこと、内面に関する事柄がおいてけぼりになっているのが、自分でもよくわかる。このところ本はまったく読めていないし、映画もまるで見ていない。文章など当然書いていなくて、ここ数日は日記すらつけていない。これではいけいない。
だが、こうしてひさしぶりに文章を書いていると、頭が、そしてこころが、すっきりとしてくるのがよくわかる。自分の中に風がさっと吹きつけてきたようで、気持ちがいい。自分と向き合う時間というのは、やはり必要なものなのだろう。
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それにしても、このところの暑さはなんだろう。昨年、文字どおりの灼熱の夏を嫌というほど体験し、今年もそれなりの覚悟はしているのだが、いまからこうも暑くなってしまっては、先が思いやられてならない。
もっとも、現在台風が日本列島に近づいていて、わたしのところも明後日に最接近ということで、明日の夜からは雨の予報である。台風を境に、気温もぐっと下がるようだ。予報をみると、しばらくは20度台前半の日がつづき、その後も30度には届かないらしい。本当にそうなら助かる。
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一般的に『方丈記』は、その冒頭の一文「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉から、この世のはかなさ、人生のむなしさを述べている精神的な側面のつよい随筆であるという印象で語られがちであるが、記録文学としての側面もまた、読むに値するものだと思う。
鴨長明の生きていた時代は、さまざまな天変地異があったようで、この『方丈記』には、火災や地震、飢餓といった出来事が、これでもかと書き連ねられている。むろんこれら不幸な出来事を前にして、鴨長明はこの世のはかなさや人生のむなしさを語ってはいるのだろうが、思弁的な語りではないその筆致はルポタージュとして読むことを想起させ、ダニエル・デフォーが疫病に席巻されたロンドンを活写した『ペスト』を連想させる。
どうしてだか思い出した『方丈記』。せっかくだから、読み直してみようか。
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いわゆる発掘物であるが、文学関係では、時折このようなことが起こる。先だっても大江健三郎のまったく知られていなかった学生時代の短編小説がふたつも見つかった。世間に知られることなく埋もれていたものが、長い年月を経て思いがけず日の目を見る。なんともいえない感慨をおぼえる。
このような思いがけない発見にかんしては、やはり物それ自体がもつちからというものを、思わざるを得ない。そのひとの自筆によるものだからこそ確信をもって新発見と断定できるのだろうし、当然ありがたみも生まれる。これがデータ保存されたものだったりプリントアウトされた紙の束だったりした場合であると真贋の判定には手間取るだろうし、勝手ながら外野としても受ける印象はだいぶ違ってくる。
手書きの原稿用紙からは、作家が自分のイメージを言葉に落とし込んでいく格闘の過程が見えてくる。いっぽう、コンピュータで入力された文章はきれいに完成されたもので、そこにいたる変遷の一切が隠されてしまっている。パソコンで執筆する現代の書き手たちによる未来の文学館は、いったい何を展示するのだろう。『さびしい文学者の時代』という本があるが、そんなことを思ってしまう。
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