「リンパを流しましょう。」
この言葉を聞くと、僕はついつい反応してしまいます。
リンパマッサージ。
リンパドレナージ。
リンパを流してデトックス。
老廃物を排出して代謝アップ。
むくみを取ってスッキリ。
特に美容や健康の世界では、
「リンパ=流せば身体にいいもの」
というイメージが、かなり定着しています。
もちろん、気持ちいい。
施術を受けたあと、脚が軽く感じることもある。
むくみが少し減ったように見えることだってあるでしょう。
だから、
「リンパマッサージなんて全部意味がない」
と言いたいわけではありません。
医療の世界には、リンパ浮腫などに対して行われる専門的な用手的リンパドレナージもあります。
僕が疑問に思っているのは、そこではありません。
僕が引っかかるのは、
「リンパは滞まっているから、外からマッサージして流してあげなければならない」
という身体の捉え方です。
本当にそうなのでしょうか。
そもそもリンパとは何なのか。
なぜ身体には、血管とは別にリンパ管というシステムが必要なのか。
そして、
なぜリンパ液は血液のように高速で循環していないのか。
そこから考えていくと、
僕たちが普段何気なく使っている
「リンパを流す」
という言葉そのものが、少し違って見えてきます。
身体には、いくつもの液体があります。
血液。
リンパ液。
組織間液。
脳脊髄液。
消化液。
細胞内液。
僕たちの身体は、ある意味では巨大な「液体の世界」です。
成人の身体のかなりの割合は水分でできています。
だから健康を考えるうえで、
「身体の中の液体がどう動いているか」
という視点はとても大切です。
ただし、
血液とリンパ液を同じように考えてはいけません。
血液循環には、心臓という非常に強力なポンプがあります。
心臓が収縮するたびに血液が送り出され、動脈から毛細血管へ、そして静脈を通って心臓へ戻ってきます。
ところがリンパ系には、
心臓のような巨大な中央ポンプがありません。
ここが決定的に違います。
リンパ液は末梢の組織から回収され、リンパ管に入り、リンパ節などを経ながら、最終的には静脈系へ戻っていきます。
つまり、
血液循環の横にもう一つ高速道路が走っている、
というような単純な仕組みではありません。
リンパ液は、どこか特別な場所で作られて全身に送り出されているわけではありません。
毛細血管から組織へ移動した水分やタンパク質などのうち、静脈側だけでは回収しきれないものがあります。
それを回収しているのがリンパ系です。
つまりリンパ系は、
身体の組織環境を維持するための「回収システム」
でもあるわけです。
さらにリンパ管の途中にはリンパ節があります。
リンパ節には免疫細胞が存在し、外来抗原などに対する免疫反応の重要な場になります。
だからリンパ系は単なる排水管ではありません。
ここを僕は強調したい。
「老廃物を捨てるための下水道」
みたいに説明されることがありますが、それではあまりにも雑です。
リンパ系は、
体液の恒常性と免疫監視を担う、非常に高度な生体システムです。
「ゴミを流す管」くらいに考えてしまうと、身体の本当の面白さを見失ってしまいます。
リンパマッサージの説明で必ずと言っていいほど登場するのが、
「老廃物」
という言葉です。
でも、
老廃物って何でしょう。
乳酸?
二酸化炭素?
尿素?
代謝産物?
細胞の破片?
余分な水分?
何を指しているのかが曖昧なまま、
「老廃物が溜まっていますね」
と言われる。
そして、
「リンパを流して老廃物を排出しましょう」
となる。
なんだか身体の中にゴミ袋が溜まっていて、それをマッサージでゴミ収集車まで運ぶようなイメージです。
でも人間の身体は、そんな単純な構造ではありません。
代謝によって生じた物質の処理には、
血液循環、
肝臓、
腎臓、
肺、
消化管、
そしてリンパ系など、
さまざまな器官が関与しています。
身体は一つのシステムとして動いています。
だから僕は、
「リンパを流せば老廃物が出る」
という説明には、どうしても違和感があります。
では、心臓のような強力なポンプがないのに、
リンパ液はどうやって移動しているのでしょう。
ここがものすごく面白いところです。
リンパ管自体にも自律的な収縮機構があり、弁によって逆流しにくい構造になっています。
そして、それを外側から助ける重要な要素があります。
代表的なのが、
骨格筋の活動。
歩く。
立つ。
腕を動かす。
身体を捻る。
筋肉が収縮するたびに周囲の組織やリンパ管に圧変化が生まれます。
特に下肢では、この筋ポンプ作用が体液の還流に重要な役割を果たします。
そしてもう一つ。
呼吸です。
息を吸う。
横隔膜が下がる。
胸腔と腹腔の圧力関係が変化する。
息を吐く。
横隔膜が戻る。
この繰り返しによって胸腹部には周期的な圧力変化が起こります。
これもリンパ還流を助けます。
さらに身体の内部では、消化管を含めたさまざまな組織運動が絶えず起こっています。
つまり僕たちの身体は、
じっとしているように見えて、
内部ではずっと動いている。
だからリンパを考えるとき、
僕は「どうやって外から流すか」より、
「この人の身体は、自分で体液を動かせているか?」
と考えたいのです。
ここが今回、一番伝えたいところです。
僕たちはいつの間にか、
身体を外から管理しなければならないものとして考えるようになりました。
硬ければ、ほぐす。
歪んでいたら、戻す。
リンパが滞っていたら、流す。
血行が悪ければ、揉む。
代謝が落ちたら、何かを飲む。
でも本来、人間の身体には、
自分で調整する仕組みがあります。
心臓は勝手に動いている。
呼吸は続いている。
腸は動いている。
体温は調節される。
傷は治ろうとする。
体液も移動する。
もちろん病気や手術、外傷などによって、その仕組みが十分働かなくなることはあります。
だから医学的な介入が必要な場合もあります。
でも健康な身体まで、
「外から流してもらわないとリンパが詰まってしまう」
と考える必要があるのでしょうか。
僕には、そこがどうしても疑問なのです。
ここも面白いところです。
マッサージを受けて、
「脚が細くなった!」
「むくみが取れた!」
ということは実際にあります。
それ自体を否定する必要はありません。
外から組織に圧を加えれば、組織間の水分分布が変化することがあります。
静脈還流やリンパ還流に影響する可能性もあります。
つまり、
短時間で見た目が変化すること自体は不思議ではない。
ただし、
「脚が細くなった」
↓
「リンパの老廃物が流れた」
↓
「デトックスされた」
↓
「代謝が上がった」
↓
「免疫力が上がった」
と一直線につなげてしまうのは別の話です。
身体の中で起こっている現象は、そんなに単純ではありません。
むくみが軽減したことと、
「毒素が排出された」ことは同義ではない。
ここは分けて考えた方がいいと思います。
僕は、
「リンパマッサージには何の意味もない」
とまで言い切る必要はないと思っています。
触れられることは気持ちいい。
リラックスする。
皮膚への刺激が感覚神経系に入力される。
筋緊張が変化することもある。
一時的な体液分布に変化が起こる可能性もある。
そして先ほど書いたように、リンパ浮腫などに対して専門的に行われる用手的リンパドレナージには、また別の臨床的な意味があります。
だから問題は、
マッサージそのものではない。
僕が疑問を持っているのは、
「リンパは外から流してあげないといけない」という説明です。
ここを混同してはいけないと思います。
もし健康な人から、
「リンパの流れを良くするにはどうしたらいいですか?」
と聞かれたら、
僕ならまず、
動いてください。
と答えます。
歩く。
腕を振る。
スクワットする。
身体を捻る。
深く呼吸する。
横隔膜をしっかり動かす。
長時間同じ姿勢を続けない。
そして普通に食べ、普通に水分を取り、普通に眠る。
ものすごく地味です。
「リンパデトックス○○」みたいな華やかさはありません(笑)。
でも身体の仕組みを考えれば、
こちらの方がずっと自然です。
特に僕が重要だと思っているのは、
骨格筋と横隔膜です。
人間が歩く。
呼吸する。
身体を動かす。
そのたびに圧力が変化する。
血液が動く。
組織液が動く。
リンパ液が動く。
僕たちの身体は、
「動くこと」を前提に設計されているのだと思います。
ただし、ここでも一つ注意したいことがあります。
筋肉が大きければいいわけではありません。
筋力が強ければいいわけでもない。
重要なのは、
必要なときに、必要な筋肉が働けること。
例えばふくらはぎ。
筋肉量が十分あっても、一日中座っていたら筋ポンプはほとんど使われません。
横隔膜も同じです。
呼吸が浅く、胸郭がほとんど動かず、横隔膜の運動が小さければ、呼吸によって生まれる圧力変化も十分に活用できません。
だから僕が考える「活性」とは、
筋トレだけではありません。
歩くこと。
呼吸すること。
身体を大きく使うこと。
姿勢を変えること。
日常生活の中で筋肉が仕事をすること。
そういう意味での、
身体活動そのものです。
治療家として考えるなら、ここからがさらに面白い。
患者さんの身体に触れたとき、
「リンパが滞っていますね」
で終わらせるのではなく、
なぜ、この人の体液循環が悪くなっているのだろう。
歩いているか。
呼吸は浅くないか。
胸郭は動いているか。
横隔膜は機能しているか。
下肢は使えているか。
長時間座っていないか。
痛みによって動きを失っていないか。
そうやって身体全体を見る。
そして、
外から液体を押し流そうとするのではなく、
本人の身体が自分で循環を生み出せる状態を取り戻す。
僕は、こちらの方が治療として面白いと思っています。
健康業界には、
「○○してあげる」
という考え方がたくさんあります。
リンパを流してあげる。
血流を良くしてあげる。
老廃物を出してあげる。
代謝を上げてあげる。
身体を整えてあげる。
もちろん必要な介入はあります。
でも、
僕たちは身体の能力を少し低く見積もりすぎているのかもしれません。
人間の身体は、
僕たちが思っているよりずっと賢い。
リンパ液も、
誰かに毎週スリスリしてもらうことを前提に存在しているわけではありません(笑)。
歩けば筋肉が動く。
呼吸すれば横隔膜が動く。
身体を動かせば圧力が変化する。
そして体液は動く。
身体には最初から、
自分自身を循環させる仕組みが備わっている。
僕たちがやるべきことは、
その仕組みの代わりをすることではなく、
その仕組みが働ける身体をつくることなのかもしれません。
リンパマッサージが好きな人には、
ちょっと嫌われそうな記事を書いてしまいました(笑)。
でも、
気持ちいいなら受ければいいと思います。
リラックスしたいなら、それも立派な価値です。
ただ、
「老廃物が溜まっているから流さなきゃ。」
「リンパが詰まっているからデトックスしなきゃ。」
と不安になる必要はない。
身体には、
もともと循環する力があります。
だから僕なら、
リンパを一生懸命スリスリするより、
まず立って、
歩いて、
腕を振って、
大きく息を吸って、
身体を動かします。
結局のところ、
リンパの問題を考えていたはずなのに、
最後にたどり着くのは、
いつものところです。
人間の身体は、動くことで身体であり続ける。
だから、
「リンパをどうやって流すか?」
ではなく、
こう問い直してみた方がいいのかもしれません。
あなたの身体は今日、ちゃんと動いていますか?
リンパだけを流そうとする前に、
人間そのものを動かす。
その方が、
ずっと身体の仕組みに素直な健康法だと、
僕は思っています。
]]>治療家は、
手で身体に触れる。
皮膚に触れる。
筋肉に触れる。
関節に触れる。
骨の位置を確かめる。
背骨を一椎一椎追っていく。
動かしてみる。
少し押してみる。
少し引いてみる。
左右を比べる。
抵抗を感じる。
そして、
そこに何が起きているのかを考える。
僕たちは、
それを当たり前のように、
「触診」
と呼んでいる。
けれど、
触診とは、
いったい何をしているのだろう。
指先で、
身体の中を直接見ることはできない。
皮膚の下にある筋肉を、
目で確認しているわけでもない。
関節の内部を、
手のひらで見ることもできない。
それでも僕たちは、
触れることで、
何かを感じ取ろうとしている。
硬い。
柔らかい。
動く。
動かない。
熱い。
冷たい。
張っている。
逃げる。
抵抗する。
左右で違う。
呼吸によって変わる。
触れた瞬間、
身体が緊張することもある。
しばらく触れていると、
少しずつ緩んでくることもある。
では、
僕たちが感じているものは、
本当に、
その組織そのものなのだろうか。
それとも、
身体から返ってくる反応を、
自分の経験を通して解釈しているのだろうか。
前回のKEISHO 032では、
「診るとは何か。」
について考えた。
診るとは、
悪いところを見つけることではなく、
目の前の身体が語っているものを、
先入観をできるだけ外して受け取ろうとすること。
だとすれば、
触診とは、
その「診る」という行為を、
手によって行うこと
なのかもしれない。
見るために、
触れる。
しかし、
触れた瞬間、
身体はこちらの手にも反応する。
ここに、
触診という行為の、
難しさと面白さがある。
治療家の勉強を始めると、
最初に触診を練習する。
棘突起を探す。
横突起を探す。
肩甲骨を触る。
腸骨稜を探す。
上前腸骨棘を確認する。
筋肉の走行を追う。
関節裂隙を探す。
解剖学の教科書を見ながら、
身体の上から、
その構造物を探していく。
これは、
触診の基礎として非常に重要だと思う。
どこに何があるのか分からなければ、
身体を正確に扱うことはできない。
しかし、
触診の目的を、
「骨を当てること」
だけにしてしまうと、
触診は途端に狭くなる。
C7を見つけた。
上後腸骨棘を見つけた。
梨状筋を見つけた。
それで終わりではない。
そこから、
その組織がどう動くのか。
周囲とどう関係しているのか。
触れたときに、
身体がどう反応するのか。
その情報が、
症状や動作とどう関係しているのか。
そこまで考えて初めて、
触診は臨床になる。
場所を当てることは、触診の入口であって、目的ではない。
「ここが硬いですね。」
治療院では、
よく聞く言葉だと思う。
僕自身も、
身体に触れながら、
硬さを感じることはある。
しかし、
その「硬い」は、
いったい何なのだろう。
筋肉なのか。
筋膜なのか。
皮膚なのか。
関節なのか。
浮腫なのか。
組織の粘弾性なのか。
筋緊張なのか。
防御性収縮なのか。
それとも、
僕の手が強すぎることで、
相手の身体が緊張した結果なのか。
触診では、
複数の組織を、
皮膚の上から同時に触れている。
だから、
手で感じた感覚を、
そのまま特定の解剖学的構造の状態だと断定することには、
慎重でなければならない。
科学的に考えれば、
手だけで正確に判断できることには限界がある。
特に、
微細な位置異常や、
深部組織の状態を、
触診だけで絶対的に判断できると考えることには注意が必要だ。
けれど、
だからといって、
触診に意味がないわけではない。
触診によって、
局所の圧痛。
温度感。
組織の抵抗。
関節運動に伴う感覚。
左右差。
患者さんの反応。
そうした臨床情報を得ることはできる。
大切なのは、
「手で感じたこと」と「身体で起きている事実」を同じものにしないこと。
僕はこう感じた。
その事実と、
身体はこうなっている。
という断定の間には、
一つの距離が必要なのだと思う。
触診という言葉からは、
こちらが一方的に、
身体の情報を読み取っているような印象を受ける。
しかし、
実際には違う。
触れた瞬間、
身体はこちらの手を感じている。
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自分の身体のことを、
僕たちは、どれくらい知っているでしょう。
身長は知っている。
体重も知っている。
健康診断の数値も知っている。
血圧を毎日測っている人もいるでしょう。
スマートウォッチをつけていれば、
歩数も、
心拍数も、
睡眠時間も、
消費カロリーも分かる。
今では、
昔よりずっとたくさんのことを、
僕たちは自分の身体について知ることができます。
でも。
少しだけ変な質問をします。
いま、あなたの身体はどんな感じですか?
そう聞かれたら、
すぐに答えられるでしょうか。
健康について、
これほどたくさんの情報がある時代はなかったと思います。
一日に何歩歩けばいい。
何時間眠ればいい。
何を食べればいい。
何を食べてはいけない。
どんな運動をすればいい。
何歳になったら何に気をつけるべきか。
検索すれば、
いくらでも「正しい健康法」が出てきます。
SNSを開けば、
昨日まで身体に良いと言われていたものが、
今日は身体に悪いと言われていたりする。
逆もあります。
そうして僕たちは、
自分の身体を知るために、
どんどん外側の情報を見るようになりました。
もちろん、
医学的な知識や健康情報は大切です。
健康診断の数値も大切です。
必要な検査を受けることも大切です。
でも、
それとは別に、
いつの間にか僕たちは、
とても身近なものを置き去りにしているのかもしれません。
それが、
自分自身の身体です。
ちょっとだけ、
画面から意識を離してみてください。
いま、
身体のどこに気づきますか?
肩でしょうか。
腰でしょうか。
手の温かさでしょうか。
椅子に触れている背中でしょうか。
足の裏でしょうか。
あるいは、
「別に何も感じない」
かもしれません。
それでもいいんです。
大切なのは、
良いとか悪いとか、
正常とか異常とかを判断することではありません。
ただ、
「あ、いま自分はこんな感じなんだ」
と気づいてみる。
それだけです。
でも実は、
こういう時間を僕たちはほとんど持っていません。
考えてみれば、
身体というのは不思議な存在です。
生まれたときから、
ずっと一緒にいる。
寝ているときも、
仕事をしているときも、
笑っているときも、
落ち込んでいるときも、
身体はそこにあります。
一日たりとも、
身体と離れて生きた日はありません。
それなのに、
僕たちは身体のことを、
意外なほど知らない。
むしろ、
身体に興味を持つのは、
どこかが痛くなったときだったりします。
腰が痛い。
肩が上がらない。
頭が痛い。
疲れが取れない。
眠れない。
そんなとき、
突然、
身体がこちらを向いてきます。
いや、
本当は身体が突然現れたわけではありません。
ずっとそこにいた。
僕たちが気づいていなかっただけなのかもしれません。
僕は30年以上、
人の身体に触れる仕事をしてきました。
その中で、
ずっと面白いと思っていることがあります。
それは、
同じ身体が一つとしてないことです。
骨格の教科書を見れば、
人間の身体は同じように描かれています。
でも実際に触れてみると、
まったく違う。
立ち方も違う。
歩き方も違う。
呼吸も違う。
力の抜き方も違う。
身体の使い方も違う。
そして、
同じ人であっても、
昨日と今日では違います。
だから僕は、
身体というものは、
「正解を覚える対象」というより、
観察し続ける対象なのではないか
と思っています。
もう一つ質問します。
今日、
自分の呼吸を感じた瞬間はありましたか?
もちろん、
僕たちはずっと呼吸しています。
この記事を読んでいる間も、
吸って、
吐いている。
でも、
普段はほとんど意識しません。
それでいいんです。
身体は、
意識しなくても働いてくれています。
ただ、
たまに呼吸へ注意を向けてみると、
面白いことがあります。
今日は浅い気がする。
思ったよりゆっくりしている。
胸が動いている。
お腹が動いている。
あるいは、
よく分からない。
それも含めて、
今日の自分の身体です。
今回作った小さな冊子では、呼吸も7つのQUESTの一つにしています。
でも、
「正しい呼吸法」を教えるページではありません。
ただ、
「呼吸に気づくと、何が見えてきますか?」
と問いかけています。

答えは書いてありません。
なぜなら、
答えるのは僕ではなく、
あなたの身体だからです。
健康について考えると、
僕たちはすぐに、
「どうすればいいですか?」
と考えます。
正しい姿勢は?
正しい歩き方は?
正しい呼吸は?
正しい座り方は?
もちろん、
そういう知識が必要になることもあります。
でも、その前に一度、
「自分はいま、どうしているんだろう?」
と見てみる。
これが意外と面白い。
例えば、
いま座っているなら、
身体のどこが椅子に触れていますか?
両足は床についていますか?
右と左で、
何か違いはありますか?
直す必要はありません。
左右を揃える必要もありません。
ただ、
知ってみる。
「へえ、僕ってこんなふうに座っているんだ」
それでいい。
身体への興味は、
そこから始まるのだと思います。
身体について調べていると、
「悪い癖を直しましょう」
という言葉にもよく出会います。
猫背。
脚を組む。
片側でバッグを持つ。
利き手ばかり使う。
確かに、
状況によって見直したほうがいいこともあるでしょう。
でも、
癖を見つけた瞬間に、
全部「悪い」と決めなくてもいいと僕は思っています。
コーヒーカップを取るとき、
どちらの手を使うのか。
立ち上がるとき、
どちらへ身体を動かすのか。
スマートフォンを持つ手はどちらか。
階段の最初の一歩はどちらなのか。
そんなことを観察していると、
だんだん、
自分の身体の使い方が見えてきます。
これは結構面白い。
身体には、
その人が生きてきた時間が、
少しずつ刻まれているからです。
ここは、
僕がとても大切にしたいところです。
身体に興味を持つというと、
すぐに「健康になるため」と考えてしまいます。
でも、
身体は健康になるためだけにあるのでしょうか。
歩く。
食べる。
眠る。
働く。
遊ぶ。
笑う。
好きな場所へ行く。
誰かと話す。
大切な人を抱きしめる。
好きなものを見る。
季節を感じる。
身体は、
人生を経験するためのものでもあります。
だから、
身体について考える最後の問いは、
「どうすればもっと健康になれますか?」
だけではなく、
こんな問いでもいいと思うんです。
「この身体と、何を楽しみたいですか?」
今回の7つのQUESTも、
最後はこの問いで終わります。

僕は、
これが結構好きです。
今回、
Alive&Well! Projectで、
一般の方に無料で読んでいただける小さな冊子を作りました。
タイトルは、
です。
健康法の本ではありません。
トレーニングの本でもありません。
病気を診断するための本でもありません。
身体を良くするための「7つの正解」が書かれているわけでもありません。
書かれているのは、
7つの問いです。
「いま、身体のどこに気づいていますか?」
「呼吸に気づくと、何が見えてきますか?」
「いまの自分を、何が支えていますか?」
「いつもの動きに、どんな自分がいますか?」
「気持ちと身体は、どう並んでいますか?」
「あなたにとって、休むって何でしょう?」
そして、
「この身体と、何を楽しみたいですか?」

この冊子には、
使い方があります。
でも、
とても簡単です。
読む。
感じてみる。
ひと言残す。
それだけ。
最初から順番に読む必要もありません。
毎日やる必要もありません。
7つ全部やる必要もありません。
気になるページだけ開いてもいい。
一つだけ試して、
閉じてもいい。
そして、
答えが分からなくてもいい。
「よく分からない」
それだって、
自分の身体についての立派な発見です。
身体というのは、
テストではありませんから。
気づきに点数をつける必要なんてありません。
僕がこの冊子を通して伝えたいことは、
もしかすると、
たったこれだけなのかもしれません。
身体って、面白い。
心臓は今日も動いている。
呼吸は続いている。
重力の中で身体を支えている。
無意識にバランスを取り、
何気なく手を伸ばし、
歩き、
座り、
眠る。
そんなことを、
身体は毎日やっています。
知れば知るほど、
不思議です。
そして、
自分の身体に少し興味を持つと、
いつもの日常が、
ほんの少し違って見えてきます。
昨日は気づかなかったことに、
今日は気づくかもしれない。
朝と夜では、
答えが違うかもしれない。
一年前と今では、
身体との付き合い方そのものが変わっているかもしれない。
それでいいんです。
身体は、
ずっと変わっています。
だからこそ、
何度でも問い直せる。
あなたが一生付き合っていくもの。
それは、
あなた自身の身体です。
なのに、
僕たちはその身体について、
まだ知らないことだらけです。
だから、
難しい勉強から始めなくてもいい。
まず、
ちょっと気づいてみる。
ちょっと感じてみる。
そして、
「へえ、面白いな」
と思ってみる。
そこからでいい。
身体を知ることは、
自分に会い直すこと。
そんな小さな探求を、
今日から始めてみませんか。
いちばん身近で、まだ知らない。
あなたの身体をめぐる、小さな探求。
感じる。
考える。
また、気づく。
7つの問いと小さな観察を通して、
いつも一緒にいる「自分の身体」に、もう一度目を向けるための小冊子です。

昨日、何歩歩きましたか?
何時間眠りましたか?
体重は何キロですか?
血圧は?
心拍数は?
血糖値は?
最近では、スマートフォンやスマートウォッチを開けば、自分の身体について驚くほどたくさんのことが分かるようになりました。
睡眠時間だけではありません。
深い睡眠が何時間あったのか。
安静時心拍数はいくつだったのか。
心拍変動はどうだったのか。
一日にどれくらい身体を動かしたのか。
消費カロリーはいくつだったのか。
身体の中で起きていることが、次々と数字になって表示される。
便利な時代です。
僕自身、こうした技術を否定するつもりはまったくありません。
むしろ、自分の身体を知るための一つの手段として、とても面白いものだと思っています。
でも。
ここで一つだけ、聞いてみたいことがあります。
今日、自分の身体はどんな感じですか?
そう聞かれたら、どうでしょう。
すぐに答えられるでしょうか。
「睡眠スコアは82でした」
ではなく。
「今日は身体が軽い」
「なんとなく背中が重い」
「呼吸が浅い気がする」
「昨日より脚が動く」
「理由は分からないけれど、今日は調子がいい」
そんなふうに、
数字を見なくても、自分の身体について話せるでしょうか。
もしかすると僕たちは、
身体について知るための情報をたくさん持つようになった一方で、
自分の身体そのものを感じることは、少し苦手になっているのかもしれません。
少し前まで、僕たちは今ほど自分の身体を測っていませんでした。
もちろん体重計はありました。
血圧計もありました。
健康診断もありました。
でも、それらは基本的には必要なときに測るものでした。
ところが今は違います。
朝起きた瞬間から睡眠を確認する。
食事を記録する。
歩数を見る。
心拍数を見る。
体重を記録する。
運動量を確認する。
一日の終わりには、その日の身体活動が「達成できたかどうか」まで教えてくれる。
身体が、
一つのダッシュボードのようになってきた。
もちろん、これは悪いことではありません。
数字だからこそ分かる変化があります。
高血圧や糖代謝の異常のように、自覚症状だけでは気づきにくい問題もあります。
自分では「元気」と思っていても、検査によって病気が見つかることもある。
だから、
「身体の感覚だけを信じればいい」
という話をしたいわけではありません。
むしろ僕が気になっているのは、その逆です。
数字しか信じられなくなっていないだろうか。
ということです。
例えば朝。
目が覚める。
なんとなくよく眠れた気がする。
身体も軽い。
「今日は調子がいいな」
そう思った。
ところがスマートウォッチを見ると、
睡眠スコアが58。
「睡眠の質が低下しています」
と表示されている。
その瞬間、
「え、今日、調子悪いのかな……」
と思ってしまう。
少し不思議な話です。
さっきまで自分では調子がいいと思っていたのに、
数字を見た瞬間、
自分の身体への評価が変わってしまう。
逆もあります。
睡眠スコアは高い。
十分眠れている。
心拍数も正常。
でも、
なんとなく身体が重い。
頭がぼんやりする。
やる気が出ない。
そんなとき、
「数字は問題ないから大丈夫」
と身体の感覚を無視してしまう。
ここに、現代の健康管理の少し面白い矛盾があります。
僕たちは身体を知るために数字を使い始めたはずなのに、
いつの間にか、
数字に身体の状態を教えてもらうようになっている。
身体は突然壊れるわけではありません。
もちろん事故や急性疾患のように突然起こるものもあります。
でも、多くの身体の不調には、その前に小さな変化があります。
なんとなく疲れやすい。
朝起きてもスッキリしない。
呼吸が浅い。
食欲がいつもと違う。
肩に力が入る。
身体が冷える。
歩く速度が少し落ちる。
集中できない。
いつもなら気にならないことにイライラする。
理由は分からない。
病院へ行くほどでもない。
検査をしても、おそらく何も出ない。
でも、
いつもの自分とは少し違う。
僕は、この「少し違う」という感覚はとても大切だと思っています。
身体は、
病名がついてから初めて変化するわけではありません。
検査値が異常になった瞬間に突然悪くなるわけでもありません。
もっと前から、
小さく変化している。
そして僕たちは本来、その変化を感じ取る能力を持っています。
僕は臨床で、
「どこが悪いですか?」
と聞くことがあります。
すると、
「いや、痛いところは特にないんですけど……」
と言われることがあります。
「じゃあ、どうしました?」
と聞くと、
「なんとなく調子が悪いんです」
と。
この、
「なんとなく」
という言葉。
医学的には非常に曖昧です。
数値ではありません。
画像にも写りません。
検査項目にもありません。
でも僕は、この言葉を軽く扱わないようにしています。
なぜなら、その人は毎日その身体で生きているからです。
昨日もその身体だった。
一週間前もその身体だった。
一年前もその身体だった。
その人にしか分からない、
「いつもの自分」
があります。
そこから少しズレている。
だから、
「なんとなく違う」
と感じる。
これは決して精密な診断ではありません。
そして、この感覚だけで病気の有無を判断してはいけません。
でも、
身体から届いている情報の一つとしては、十分に意味があると思うのです。
僕たちは外の世界だけを感じているわけではありません。
目で見る。
耳で聞く。
皮膚で触れる。
それだけではない。
身体の内側の状態も、脳へ送り続けられています。
心臓の拍動。
呼吸。
胃腸の状態。
体温。
空腹。
喉の渇き。
筋肉の緊張。
疲労感。
身体の内側から送られてくるさまざまな情報をもとに、僕たちは自分の状態を感じています。
こうした身体内部の感覚は「内受容感覚(interoception)」という言葉でも語られます。
さらに、
関節がどの位置にあるのか。
身体がどの方向を向いているのか。
どれくらい筋肉に力が入っているのか。
そうした情報には固有受容感覚も深く関わっています。
つまり人間は、
スマートウォッチが登場する遥か以前から、
身体をモニタリングする仕組みを持っている。
ただし、その仕組みは数字では話しません。
「心拍数72」
とは教えてくれない。
「血糖値105」
とも言わない。
代わりに、
「なんとなく落ち着かない」
「今日は身体が重い」
「少し休みたい」
「お腹が空いた」
「眠い」
「身体を動かしたい」
そんな感覚として現れる。
とても曖昧です。
だからこそ僕たちは、
より明確な数字を求めるようになったのかもしれません。
健康情報を調べると、
本当にたくさんの「正解」が出てきます。
一日何歩歩けばいい。
何時間眠ればいい。
水を何リットル飲めばいい。
タンパク質を何グラム摂ればいい。
何時までに寝ればいい。
何を食べるべきか。
何を食べてはいけないか。
もちろん、その多くには研究や統計があります。
だから参考にする価値はあります。
ただ、
一つ忘れてはいけないことがあります。
人間は平均値ではない。
同じ八時間睡眠でも、元気な人もいれば身体が重い人もいる。
同じ一万歩でも、気持ちいい人もいれば疲労が残る人もいる。
昨日の自分にはちょうどよかった運動が、今日の自分には強すぎることもある。
身体は毎日同じではありません。
睡眠。
食事。
仕事。
気温。
湿度。
精神的な緊張。
人間関係。
運動量。
前日の疲労。
さまざまな要素の中で身体は変化しています。
それなのに、
毎日同じ「健康の正解」を身体へ当てはめようとすると、
健康になるための行動そのものが負担になることもあります。
健康のために歩かなければならない。
健康のために運動しなければならない。
健康のために早く寝なければならない。
健康のためにこれを食べてはいけない。
健康のために体重を減らさなければならない。
健康のために毎日記録しなければならない。
いつの間にか、
「健康でいなければならない」
になっていく。
これは少し不思議です。
健康になるために始めたことなのに、
それができなかった自分を責める。
今日は3,000歩しか歩けなかった。
昨日より体重が増えた。
夜更かししてしまった。
甘いものを食べてしまった。
運動できなかった。
そして、
「今日もダメだった」
と思う。
でも、健康とは本来、
毎日満点を取る競技だったのでしょうか。
僕たちは身体を、
つい機械のように考えてしまいます。
正常値があって、
そこから外れたら異常。
部品が悪くなれば修理する。
正しい状態へ戻す。
もちろん医療では、こうした考え方が必要な場面があります。
しかし、生きている身体はもう少し複雑です。
心拍は一定ではありません。
体温も一日の中で変化します。
血圧も変わります。
食欲も変わる。
集中力も変わる。
筋肉の緊張も変わる。
眠気も変わる。
気分も変わる。
人間の身体は、
一定だから健康なのではなく、変化しながら調整している。
暑ければ汗をかく。
寒ければ震える。
疲れれば休みたくなる。
水分が足りなければ喉が渇く。
睡眠が不足すれば眠くなる。
身体は常に変化を受け取りながら、自分を保とうとしています。
だから健康を考えるとき、
「数字を一定に保つこと」だけではなく、
変化に対応できる身体であること
も大切なのだと思います。
僕は健康データを否定しません。
むしろ、これからもっと重要になると思っています。
ウェアラブルデバイスの精度は上がるでしょう。
今まで病院でしか測れなかったものが、自宅で測れるようになるかもしれない。
AIがデータを解析して、病気の兆候を早期に見つける時代もさらに進んでいくでしょう。
それは、とても素晴らしいことです。
でも。
どれだけ技術が進んでも、
一つだけ忘れたくないことがあります。
数字は身体についての情報であって、身体そのものではない。
地図がどれだけ精密になっても、
実際の土地を歩く感覚とは違います。
気温が22度と表示されていても、
暖かいと感じる人もいれば寒いと感じる人もいる。
心拍数が正常範囲でも、
本人が強い違和感を感じていることもある。
だから僕は、
数字と感覚のどちらが正しいのか、
という話ではないと思っています。
両方を見る。
数字を見る。
そして身体にも聞く。
その二つがあって初めて、
自分の身体をより立体的に理解できるのではないでしょうか。
では、
身体を感じるために何をすればいいのでしょう。
難しいことではありません。
朝起きたとき、
すぐにスマートフォンを見る前に、
ほんの数秒だけ身体を感じてみる。
今日は身体が軽いのか。
重いのか。
呼吸は楽か。
どこか力が入っていないか。
お腹は空いているか。
眠気は残っているか。
昨日と何か違うところはないか。
答えを出す必要はありません。
分析もしなくていい。
ただ、
「今日の身体はどうだろう」
と聞いてみる。
それだけです。
そして、そのあと数字を見る。
すると、
数字に身体を教えてもらうのではなく、
自分の感覚と数字を照らし合わせる
ことができるようになります。
この違いは、小さいようで大きいと思っています。
ここは、とても大切なので書いておきたいと思います。
身体の感覚を大切にすることと、
自分の感覚だけで病気を判断することは、
まったく違います。
「自分では大丈夫だと思うから検査はいらない」
ということではありません。
逆に、
強い痛みや息苦しさ、突然の神経症状、長く続く体調変化などがあるなら、感覚だけで判断せず、適切な医療機関で評価を受けるべきです。
数字には数字の役割があります。
医学には医学の役割があります。
検査には検査の役割があります。
そして、
身体感覚には身体感覚の役割があります。
どれか一つを絶対視する必要はない。
僕が言いたいのは、
医学やデータが進歩するほど、
自分の身体を感じるという能力まで手放す必要はない
ということです。
僕たちは今、
かつてないほど健康について知っています。
食事。
睡眠。
運動。
腸内環境。
血糖。
自律神経。
ストレス。
筋肉。
脳。
ホルモン。
SNSを開けば、
毎日のように新しい健康情報が流れてきます。
それなのに、
健康について不安を感じる人は少なくありません。
もしかすると、
情報が足りないからではなく、
情報が多すぎるから自分の身体が分からなくなっている
ということもあるのかもしれません。
昨日まで良いと言われていたものが、
今日は悪いと言われる。
これを食べろ。
これは食べるな。
歩け。
休め。
筋トレしろ。
ストレッチしろ。
朝食を食べろ。
朝食はいらない。
情報を追い続ければ、
正解を探すだけで疲れてしまいます。
そんなときこそ、
一度、自分の身体へ戻ってみてもいい。
医師は医学の専門家です。
治療家は身体を見る仕事をしています。
研究者は身体について研究しています。
トレーナーは運動について多くの知識を持っています。
栄養士は食事の専門家です。
それぞれの専門性は、とても大切です。
でも、
あなたの身体で、
24時間365日生きている人は、
あなたしかいません。
だから、
専門家の知識を借りながら、
データも使いながら、
最後まで失ってほしくないものがあります。
それは、
自分の身体に興味を持つこと。
痛くなってからではなく。
病気になってからでもなく。
健康診断で異常が出てからでもない。
「今日は少し違うな」
「最近よく眠れるな」
「この運動をすると身体が楽だな」
「この生活が続くと肩に力が入るな」
そんな小さな発見を重ねていく。
僕は、それも立派な健康管理だと思っています。
いや、
もしかすると、
「管理」という言葉すら必要ないのかもしれません。
自分の身体と付き合っていく。
そのくらいの方が、
人間の身体には合っている気がします。
健康になりたい。
誰もがそう思います。
できるだけ病気になりたくない。
元気に歳を重ねたい。
好きなことを続けたい。
自分の脚で歩きたい。
美味しいものを食べたい。
家族や友人と笑っていたい。
そのために健康について知ることは、とても大切です。
でも、
健康になるための情報に追いかけられて、
自分の身体を見ることを忘れてしまったら、
少しもったいない。
一万歩歩けなかった日があってもいい。
夜更かしする日があってもいい。
ケーキを食べる日もある。
何もしたくない日だってある。
大切なのは、
そのとき身体がどう反応しているのかを知ること。
そして必要なら、
また少し戻していくこと。
身体は、
毎日完璧であることを求めているわけではありません。
変化しながら、
揺らぎながら、
その都度バランスを取り直しながら、
僕たちは生きています。
だから、
健康になろうとするほど苦しくなっているのなら、
一度だけ立ち止まって、
こんな問いを自分に向けてみてもいいと思います。
「今日は何歩歩いた?」
ではなく。
「睡眠スコアはいくつだった?」
でもなく。
「体重は増えた?減った?」
でもない。
もっと単純な問いです。
今日、自分の身体はどんな感じだろう。
疲れている。
軽い。
重い。
気持ちいい。
眠い。
動きたい。
休みたい。
なんとなく調子がいい。
なんとなく変だ。
それでいい。
その「なんとなく」を、
すぐに正解や不正解へ変換しなくてもいい。
まず感じてみる。
身体は、
数字になる前から、
ずっとあなたに話しかけています。
僕たちが少しだけ、
聞かなくなっているだけなのかもしれません。
健康とは、
すべての数字を正常にすることなのでしょうか。
すべてを管理できることなのでしょうか。
それとも、
自分の身体の変化に気づき、
必要なときには休み、
必要なときには動き、
必要なら専門家の力を借りながら、
その身体と長く付き合っていけることなのでしょうか。
答えは一つではないと思います。
だからこそ、QUESTです。
最後に一つだけ。
今日、スマートフォンを開いて、
自分の健康を確認する前に。
ほんの数秒でいいので、
自分の身体に聞いてみてください。
「今日、身体はどう?」
そして、
どんな答えが返ってくるのか。
少しだけ、
聞いてみてください。
健康を知ることは、
もしかすると、
そこから始まるのかもしれません。
]]>患者さんが、
治療院の扉を開ける。
その瞬間から、
臨床は始まっている。
歩く速度。
足音。
身体の傾き。
ドアを開ける手。
靴を脱ぐ動作。
椅子へ座るまでの時間。
表情。
声。
呼吸。
そして、
最初に発せられる言葉。
「腰が痛いんです。」
僕たちはその言葉を聞いて、
腰を見る。
けれど、
本当に診なければならないのは、
腰なのだろうか。
前回のKEISHO 031では、
「評価とは何か。」
について考えた。
評価とは、
身体に点数をつけることでも、
異常を探し出すことでもない。
目の前の身体に問いを投げかけ、
そこから返ってくる情報を受け取り、
仮説をつくり、
また問い直していく。
そんな臨床の始まりなのではないかと書いた。
では、
その評価をする前に、
僕たちは何をしているのだろう。
それは、
「診る」
ということなのだと思う。
見る。
観る。
視る。
そして、
診る。
同じ「みる」でも、
そこには大きな違いがある。
治療家は、
身体を見ているだけではない。
その身体の向こうにあるものまで、
理解しようとしている。
今日ここへ来るまでに、
その人の身体に何があったのか。
その痛みは、
何を伝えようとしているのか。
なぜ、
この身体は今、
この姿勢を選んでいるのか。
なぜ、
ここを動かさないのか。
なぜ、
ここを緊張させているのか。
そして、
この人は、
何を取り戻したくて、
僕の前に座っているのか。
診るとは、
身体の異常を見つけることではない。
もしかすると、
身体の中にある「物語」を読み始めることなのかもしれない。
人間は、
目を開けていれば、
ものを見ることができる。
姿勢を見る。
歩行を見る。
背骨を見る。
肩の高さを見る。
骨盤を見る。
しかし、
目に映っていることと、
診えていることは、
同じではない。
肩の高さが違う。
これは、
見れば分かる。
胸椎が少し回旋している。
これも、
ある程度の経験があれば分かるかもしれない。
歩行時に右脚の立脚時間が短い。
それも、
観察すれば気づくことができる。
けれど、
診るという行為は、
そこから始まる。
「なぜだろう。」
なぜ、
右肩が下がっているのか。
なぜ、
胸椎が回旋しているのか。
なぜ、
右脚に長く乗らないのか。
痛いからなのか。
怖いからなのか。
過去の怪我なのか。
仕事なのか。
習慣なのか。
それとも、
別の場所を守るためなのか。
見えるものは、
答えではない。
見えるものは、
問いの入口である。
ここを間違えてはいけないと思う。
「どこが痛いですか?」
そう聞けば、
患者さんは場所を教えてくれる。
「ここです。」
指で腰を示す。
肩を押さえる。
膝を触る。
首の付け根を指す。
その場所は、
とても大切な情報である。
しかし、
その場所だけを診ていると、
身体全体を見失うことがある。
腰痛の人にも、
首がある。
胸郭がある。
股関節がある。
足がある。
呼吸がある。
睡眠がある。
仕事がある。
過去の怪我がある。
生活がある。
そして、
その人なりの身体の使い方がある。
身体は、
部位ごとに切り離されて生きているわけではない。
だから、
「腰が痛い」
という訴えを、
「腰の問題」
と翻訳してしまうのは早い。
症状は、
患者さんが僕たちに渡してくれる、
最初の情報である。
けれど、
それが身体からの最終回答とは限らない。
臨床では、
痛みのある場所と、
治療する場所が一致しないことがある。
これは、
治療家であれば経験することだと思う。
腰が痛い。
けれど、
股関節の動きを変えることで、
腰の動きが変わることがある。
肩が痛い。
けれど、
胸郭の動きや姿勢、
頚部との関係を見直すことで、
肩の使い方が変わることがある。
膝が痛い。
しかし、
足部や股関節を含めて考える必要があることもある。
もちろん、
だからといって、
「痛い場所には原因がない」
ということではない。
痛みの局所には、
局所として診るべきものがある。
組織損傷。
炎症。
関節。
筋肉。
神経。
あるいは、
医療的な評価を必要とする病態。
そこを飛ばして、
何でも全身のつながりだけで説明してしまうことも、
また危険である。
重要なのは、
局所か全身か、
どちらか一方を選ぶことではない。
局所を診ながら、全体を見る。
そして、
全体を見ながら、
もう一度局所へ戻る。
臨床とは、
この往復なのだと思う。
患者さんが話しているとき、
治療家の頭の中では、
すでに仮説が動き始める。
いつからですか。
何をしたときに痛みますか。
朝ですか。
夜ですか。
動き始めですか。
動いているうちに楽になりますか。
痺れはありますか。
既往歴はありますか。
怪我をしたことはありますか。
こうした質問には、
臨床的な意味がある。
しかし、
問診で注意したいことがある。
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患者さんの身体に触れる。
僕はこれを、30年以上やってきました。
腰に触れる。
背中に触れる。
頚椎に触れる。
関節を動かす。
筋肉の緊張を感じる。
左右を比べる。
動きを確認する。
おそらくこれまでに触れてきた身体の数を数えたら、とんでもない回数になると思います。
だから、
「30年以上やっているなら、触れば全部分かるんでしょう?」
と思われることがあります。
いやいや。
分かりません(笑)。
むしろ30年以上やってきたからこそ、
「分からないことが、こんなにあるんだ」
ということが、よく分かるようになりました。
今日はそんな話です。
治療家を始めた頃の僕は、今よりずっと身体のことを知りませんでした。
でも不思議なことに、
今より自信があった気がします(笑)。
「ここが硬い。」
「ここがズレている。」
「原因はここですね。」
なんて、割とはっきり言っていた。
今考えると、
よく言えたなと思います。
若さとは恐ろしいものです(笑)。
勉強していなかったわけではありません。
むしろ必死でした。
解剖学を勉強する。
技術を習う。
セミナーへ行く。
上手い先生の手を見る。
自分でも何度も練習する。
そうやって少しずつ「分かること」が増えていきました。
ところが面白いもので、
分かることが増えるほど、
簡単には「分かった」と言えなくなっていった。
身体というものが、それほど単純ではないことに気づいたからです。
例えば背中を触ったとします。
右側が硬い。
昔なら、
「右が硬いですね。」
で終わっていたかもしれません。
でも今は違います。
なぜ右が硬い?
筋肉なのか。
関節なのか。
皮膚なのか。
筋膜なのか。
防御性の緊張なのか。
姿勢によるものなのか。
呼吸との関係は?
反対側はどうなっている?
立った状態では?
座ったら?
仰向けでは?
動かしたら?
本人はそこをどう感じている?
そもそも、
この硬さは治療する必要があるのか?
一つ触っただけで、次々と疑問が出てきます。
困ったものです。
30年以上やっているのに、
昔より質問が増えている(笑)。
でも僕は、それでいいと思っています。
治療家になったばかりの頃は、
触診というものを、
「悪いところを見つける技術」
だと思っていました。
もちろん、それも間違いではありません。
でも今の僕は少し違う捉え方をしています。
触診とは、
身体から情報をもらう行為。
そして、
その情報から次の問いを作ること。
右が硬い。
だから右が悪い。
ではない。
右が硬い。
「なぜ?」
動きが少ない。
だからここを動かす。
ではない。
動きが少ない。
「本当にここを動かす必要がある?」
この「?」が一つ入るだけで、治療は随分変わります。
僕は治療家にとって、
答えをたくさん持っていることより、良い疑問を持てることの方が大切なのではないか
と思うようになりました。
触診については、以前KEISHOでももう少し深く書きました。
「触診とは何か。」
技術としての触診ではなく、治療家が身体に触れるということについて考えています。
→ KEISHO 033 The Palpation 触診とは何か。
これは治療家として、あまり言いたくない話かもしれません。
僕たちは手で、
「ここが動いている。」
「ここが硬い。」
「ここがズレている。」
と判断します。
でも人間の感覚は、機械ではありません。
その日の自分の状態にも影響される。
疲れている。
集中できていない。
手が冷たい。
自分の身体が硬い。
先入観がある。
「ここが悪いはずだ」
と思って触れば、本当にそこが悪く感じてしまうことだってあります。
だから僕は、
自分の手を信じています。
でも同時に、
自分の手を疑っています。
一見、矛盾しているようですが、
この両方が必要だと思っています。
セミナーをしていると、
受講生から質問されることがあります。
「先生、これは何ですか?」
触ってみる。
……
……。
分からん(笑)。
もちろん、その場で考えます。
動かしてみる。
左右を比べる。
姿勢を変える。
もう一度触る。
そうすると見えてくることもあります。
でも、それでも分からないことはあります。
そんなときに、
分かったふりをして、
「これは○○ですね。」
と言えば、先生っぽく見えるかもしれません。
でも僕は、それをやりたくありません。
分からないものを、分かったことにしない。
これは臨床でも同じです。
患者さんの腰が痛い。
検査する。
触診する。
動きを見る。
話を聞く。
それでも、
「これが原因です。」
と言い切れないことはあります。
身体はそんなに単純ではありません。
ここが大事です。
「分からないから仕方ない。」
ではありません。
分からないから、もう一度診る。
触る。
動かす。
聞く。
考える。
仮説を作る。
試してみる。
反応を見る。
違ったら戻る。
そしてまた考える。
僕が30年以上やってきた臨床は、
案外この繰り返しだったような気がします。
ものすごい答えを持っているわけではありません。
むしろ、
「あれ?違うな。」
を何万回も繰り返してきただけなのかもしれません(笑)。
でも、その「あれ?」を無視しないこと。
そこに臨床の面白さがあります。
若い頃は、
新しいテクニックを覚えると嬉しかった。
これで腰痛が治せる。
これで頚椎を矯正できる。
これで骨盤を調整できる。
武器を手に入れたような気分になります。
僕にもありました。
ところが技術が増えてくると、別の問題が起きます。
「で、いつ使うの?」
です。
テクニックが10個ならまだいい。
50個。
100個。
たくさん持っていたとしても、
目の前の人に何を使うのかを決められなければ意味がありません。
だから結局、
診ることに戻ってくる。
そして、
触ることに戻ってくる。
僕が今、基礎技術を大切にしている理由の一つです。
強い手でしょうか。
柔らかい手でしょうか。
正確な手でしょうか。
僕は最近、
「聞ける手」
なのではないかと思っています。
身体に対して、
「こうだろ?」
と答えを押しつける手ではなく、
「どうなってる?」
と聞ける手。
動かない関節に対して、
「動け!」
と力を入れるのではなく、
どちらへなら動けるのか。
どこで止まるのか。
何と連動しているのか。
身体から返ってくる情報を感じながら触れる。
だから触診は、
指先だけの技術ではありません。
姿勢。
立ち位置。
自分の呼吸。
肩の力。
肘。
手首。
そして、
頭の中に何を思い描いているか。
全部が触診になります。
そして「触れた情報をどう治療につなげるのか」という話になると、もう少し技術的な話になります。
触診、評価、脊柱の動き、力の方向。
この辺になると僕も急に真面目になります(笑)。
→ LOGICS|○○○○
解剖学書を見ると、
人体は本当に綺麗です。
骨盤があって、
脊柱が積み上がって、
左右に筋肉があって、
神経が走っている。
素晴らしい。
ところが患者さんが治療院に入ってくると、
全然その通りじゃない(笑)。
右肩が上がっている。
身体が捻れている。
昔の怪我がある。
仕事の癖がある。
スポーツ歴がある。
眠れていない。
疲れている。
本人も忘れているような既往歴がある。
さらに、
「昨日YouTubeで見たんですけど……」
という新しい情報まで持ってきてくれる(笑)。
だから臨床は面白い。
教科書を覚えるだけでは足りない。
テクニックを覚えるだけでも足りない。
目の前の身体を診なければならない。
僕が今、若い治療家に伝えたいことは、
派手なテクニックを覚えるな、
ということではありません。
僕だってテクニックは大好きです。
たぶん人より好きです(笑)。
だから30年以上やっている。
でも、
技術を増やす前に、
触れること。
診ること。
動かすこと。
自分の身体を使うこと。
ここを大切にしてほしい。
遠回りに見えるかもしれません。
僕自身、随分遠回りしました。
もっと早く気づいていれば……。
まあ、
今さら言っても仕方ありません(笑)。
だからこそ、
これから治療家になる人や、
今、技術に迷っている治療家には伝えておきたいのです。
30年以上やっても、
分からないことがあります。
でも昔ほど、それが怖くなくなりました。
分からないなら、
触ればいい。
動かせばいい。
考えればいい。
勉強すればいい。
そして翌日、
また患者さんの身体に触れればいい。
治療家という仕事は、
もしかすると、
分かるようになる仕事ではなく、分からないことに気づき続ける仕事なのかもしれません。
だから面白い。
そして僕は明日も、
患者さんの身体に触ります。
たぶん、
また何か分からないことが出てきます。
そのときは、
「30年以上やってんだけどなぁ……」
と一人でぼやきながら(笑)、
また考えます。
それでいい。
僕はそんな治療家でいたいと思っています。
僕が30年以上の臨床で大切にしてきた基礎技術を、一冊のハンドブックにまとめています。
ただし、
「腰痛にはこの技!」
というテクニック集ではありません。
触診、身体の使い方、ポジショニング、力の方向。
これから治療家になる人にも、もう一度基礎を見直したい治療家にも読んでもらいたい内容です。
『整体基礎テクニックハンドブック』
無料で配布しています。
この記事を読んで、
「自分も、もう一度ちゃんと触診を考えてみようかな。」
そう思っていただけたなら、
ぜひ読んでみてください。
そして読んでみて、
「ここ、どういう意味?」
と思ったら大丈夫です。
僕も30年以上、
そんなことの繰り返しです(笑)。
僕が30年以上臨床を続けてきて、結局戻ってきたのは、
触ること。
診ること。
動かすこと。
自分の身体を使うこと。
でした。
そんな整体技術の基礎を、一冊のPDFにまとめています。
整体基礎テクニックハンドブック
治療家、そしてこれから治療家を目指す方へ。
無料でお読みいただけます。
[無料でハンドブックを読む]
腰が痛い。
頭が痛い。
背中が痛い。
膝が痛い。
肩が上がらない。
身体が重い。
なんとなく調子が悪い。
自律神経が乱れている気がする。
病院に行った。
整形外科にも行った。
湿布も貼った。
薬も飲んだ。
リハビリにも通った。
整体にも行った。
それでも、
思うように良くならない。
だったら、一度ウチに来てください。
そう聞かれると、
昔は少し困りました。
腰痛専門でもない。
肩こり専門でもない。
自律神経専門でもない。
骨盤矯正専門でもない。
僕がずっと診てきたのは、
症状ではなく、その人の身体だからです。
同じ「腰が痛い」でも、
原因まで同じとは限らない。
背骨かもしれない。
股関節かもしれない。
身体の使い方かもしれない。
長年染みついた姿勢かもしれない。
仕事や生活習慣かもしれない。
あるいは、
身体だけを見ていても分からないことだってある。
だから僕は、
「腰痛だから、この施術」
とは考えません。
あなたの身体に、今、何が起きているのか。
まずは、そこから考えます。
身体の構造を勉強しました。
痛みについて研究しました。
背骨を学びました。
関節を学びました。
筋肉を学びました。
神経を学びました。
運動機能を学びました。
身体とココロの関係についても考えてきました。
どうしたら人間の身体はもっと動けるのか。
なぜ痛みが出るのか。
なぜ治る人と治らない人がいるのか。
なぜ同じ技術を使っても結果が違うのか。
そんなことを30年以上、
臨床の現場で考え続けてきました。
そして今でも、
毎日のように身体について勉強しています。
難しい理論を語りたいわけじゃない。
知識があることを見せたいわけでもない。
すごい技術を持っていると
自慢したいわけでもない。
僕が身につけてきた技術も、
積み重ねてきた経験も、
勉強してきた知識も、
すべて何のためにあるのか。
考えてみれば、
答えはものすごく単純でした。
目の前に、
身体のことで困っている人がいる。
だったら、
何とかしたい。
ただ、それだけでした。
僕は医者ではありません。
何でも治せるとも思っていません。
僕の仕事ではない症状もあります。
病院へ行った方がいいと判断すれば、
そうお伝えします。
専門医に診てもらう必要があると思えば、
そのようにお話しします。
それでも、
整体師として30年以上、
人の身体に触れ続けてきました。
僕の手でできること。
僕の技術でできること。
僕の経験から考えられること。
僕が持っている知識から提案できること。
それなら、
最後まで一緒に考えます。
病院へ行っても、
なかなか変わらなかった。
長いことリハビリしているけれど、
思うような結果が出ない。
いろいろな整体や治療を受けたけれど、
まだ困っている。
どこへ相談したらいいのか分からない。
そんな時に、
「あそこに行ってみよう。」
そう思い出してもらえる治療院でありたい。
その一言でいいんです。
僕にできるかどうか、
まず身体を診させてください。
そして一緒に考えましょう。
30年以上かけて身につけてきたものを、
全部使います。
技術も。
知識も。
経験も。
そして、
この手も。
それが、
30年以上この仕事を続けてきた僕が、
最後にたどり着いた
治療家としての答えです。
]]>治療を始める前に、
僕たちは身体を見る。
立ち方を見る。
歩き方を見る。
姿勢を見る。
関節を動かす。
筋肉に触れる。
左右を比べる。
痛みの場所を聞く。
そして、
その身体に何が起きているのかを考える。
それを私たちは、
「評価」
と呼んでいる。
治療家にとって、
評価は当たり前のように行われている。
姿勢評価。
可動域評価。
筋力評価。
整形外科的テスト。
触診。
動作分析。
問診。
画像所見。
疼痛評価。
神経学的評価。
さまざまな方法を使って、
目の前の身体を理解しようとする。
けれど、
ここで一度立ち止まって考えてみたい。
僕たちは、いったい何を評価しているのだろう。
身体だろうか。
症状だろうか。
異常だろうか。
それとも、
「正常からどれくらい外れているか」を探しているのだろうか。
評価という言葉は、
臨床の中ではあまりにも日常的に使われている。
だからこそ、
その意味について、
深く考える機会は意外と少ない。
しかし、
治療家がどのような評価をするのかによって、
その後に見える身体は変わる。
そして、
見える身体が変われば、
選択する治療も変わる。
もしかすると、
治療は、手を触れる前から始まっている。
評価とは、
その最初の一手なのかもしれない。
腰が痛い患者さんが来る。
僕たちは腰を見る。
肩が痛ければ肩を見る。
首が痛ければ首を見る。
そして、
痛みの原因らしきものを探し始める。
筋肉が硬い。
関節が動かない。
骨盤が傾いている。
左右差がある。
姿勢が悪い。
筋力が弱い。
あるいは画像上、
変形や狭窄などが確認される。
すると、
その所見と症状を結びつけたくなる。
「ここが硬いから痛い。」
「骨盤が歪んでいるから痛い。」
「この筋肉が弱いから痛い。」
「この関節が動かないから痛い。」
原因が見つかると、
臨床は少し安心する。
原因が分かれば、
そこを治療すればいいからだ。
しかし、
人間の身体は、
それほど単純ではない。
同じような姿勢でも、
痛みのない人がいる。
同じような左右差があっても、
何の問題もなく生活している人がいる。
画像上の変化があっても、
ほとんど症状のない人もいる。
反対に、
明確な構造的異常が見つからなくても、
強い痛みを感じている人もいる。
つまり、
「異常を見つけたこと」と「原因を見つけたこと」は同じではない。
ここを混同すると、
評価は簡単に、
「悪いところ探し」になってしまう。
評価をするとき、
僕たちは無意識のうちに、
何かと比較している。
右と左。
正常可動域と実際の可動域。
理想的な姿勢と目の前の姿勢。
教科書に書かれたアライメントと、
患者さんの身体。
つまり評価には、
必ず「基準」がある。
基準がなければ、
良いとも悪いとも判断できない。
しかし、
その基準は、
本当にその人にとっての正常なのだろうか。
例えば、
肩関節の可動域には、
一定の参考値がある。
それは臨床にとって重要な情報であり、
身体機能を客観的に捉えるうえで大きな意味を持つ。
けれど、
すべての人間が、
まったく同じ可動域を必要としているわけではない。
野球選手。
美容師。
デスクワーカー。
大工。
ピアニスト。
高齢者。
それぞれの生活で、
身体に求められる能力は違う。
同じ身体でも、
必要とされる機能は違う。
だから評価では、
「正常か異常か」だけではなく、
「この人にとって、この身体は機能しているのか。」
という視点が必要になる。
臨床において、
数値化できる評価には大きな価値がある。
関節可動域。
筋力。
歩行速度。
疼痛尺度。
血圧。
心拍数。
バランス能力。
こうした指標は、
治療家の感覚だけでは捉えにくい変化を、
比較可能な形にしてくれる。
治療前と治療後。
一週間前と今日。
右と左。
数値は、
曖昧になりやすい臨床に、
一定の客観性を与えてくれる。
これは非常に重要なことだと思う。
しかし同時に、
数値にならない身体も存在する。
「今日は歩きやすい。」
「朝起きたときの怖さがなくなった。」
「久しぶりに子どもと遊べた。」
「仕事をしていて身体のことを考えなくなった。」
「階段を見ても不安にならなくなった。」
これらは、
角度計だけでは測れない。
筋力計にも表示されない。
それでも、
その人にとっては、
非常に大きな変化である。
評価とは、
数字を捨てることではない。
数字だけにしないことなのだと思う。
姿勢評価では、
立っている身体を見る。
肩の高さ。
骨盤の位置。
頭部の位置。
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「健康になりたい。」
そう願う人は多い。
健康のために運動をする。
健康のために食事を選ぶ。
健康のために睡眠をとる。
健康のためにサプリメントを飲み、
健康のために身体を整える。
けれど、
そもそも私たちは、
「健康とは何か。」
ということを、
どれほど考えたことがあるだろう。
痛みがないことだろうか。
病気ではないことだろうか。
血液検査の数値が正常であることだろうか。
よく眠れること。
よく食べられること。
疲れないこと。
身体が柔らかいこと。
姿勢が整っていること。
それらは確かに、
健康を考えるうえで大切な要素なのだと思う。
けれど、
それだけで健康を説明することはできない。
病気を抱えながら、
とても生き生きとしている人がいる。
反対に、
検査では何の異常も見つからないのに、
どうしても身体がつらい人がいる。
痛みがあっても幸せな人がいる。
痛みがなくても、
生きる力を失っている人がいる。
だとすれば、
健康とは、
単純に「病気ではない状態」のことではない。
もっと身体の奥にある、
生命そのものの在り方なのではないだろうか。
現代医療では、
身体を評価するために、
さまざまな「正常値」が使われる。
体温。
血圧。
血糖値。
心拍数。
血液検査。
骨密度。
関節可動域。
筋力。
体脂肪率。
それらは身体を理解するための、
非常に重要な指標である。
医学は、
膨大な人間の身体を観察し、
データを集め、
そこから一定の基準を作ってきた。
その恩恵によって、
私たちは多くの病気を早期に発見し、
危険な状態を予測し、
命を守ることができるようになった。
これは疑いようのない、
医学の大きな成果だと思う。
しかし、
ここで一つ考えておきたいことがある。
「正常であること」と「健康であること」は、本当に同じなのか。
人間の身体には個体差がある。
年齢も違う。
生活環境も違う。
仕事も違う。
睡眠時間も違う。
身体の使い方も違う。
これまで歩いてきた人生も違う。
統計的な「正常」は存在しても、
すべての人間に共通する、
たった一つの「健康な身体」が存在するわけではない。
むしろ臨床に立っていると、
健康というものは、
もっと個人的で、
もっと動的で、
もっと曖昧なものに見えてくる。
私たちは健康を、
一つの完成した状態のように考えやすい。
姿勢が整っている。
筋肉が柔らかい。
関節がよく動く。
左右差がない。
痛みがない。
疲労がない。
そうした身体を、
「健康な身体」と呼びたくなる。
しかし、
生命はそもそも、
静止していない。
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人間の身体は、
「元に戻ろうとする。」
体温が上がれば、汗をかく。
寒くなれば、身体を震わせる。
血糖値が上がれば、それを下げようとする。
水分が不足すれば、喉が渇く。
眠らなければ、眠くなる。
身体の中では、
私たちが意識していないところで、
常に無数の調整が行われている。
生きている限り、
身体はただそこに存在しているわけではない。
変化しながら、
揺らぎながら、
それでも自分自身を保とうとしている。
それを私たちは、
Homeostasis。
恒常性。
と呼んでいる。
しかし、
30年以上、患者さんの身体に触れていると、
この「恒常性」という言葉を、
単なる生理学の仕組みとしてだけ考えることができなくなってくる。
なぜなら、
私たち治療家が毎日向き合っている身体そのものが、
常に「変わろう」としながら、同時に「変わらないように」している
ように見えるからである。
恒常性という言葉を聞くと、
身体を一定の状態に保つ仕組み、
という説明を思い浮かべる。
確かに、それは間違いではない。
しかし、
人間の身体は決して止まってはいない。
心拍は変わる。
呼吸も変わる。
血圧も変わる。
体温も変わる。
筋肉の緊張も変わる。
姿勢も変わる。
朝と夜でも違う。
仕事をしているときと、
眠っているときでも違う。
緊張しているときと、
安心しているときでも違う。
つまり、
恒常性とは、
「同じ状態であり続けること」ではない。
変化し続けながら、
その人が生きていける範囲を保つこと。
揺れながら、
崩れながら、
また戻りながら、
身体全体として破綻しないように調整し続ける。
むしろ、
変化できるからこそ、身体は安定していられる。
私はそう考えている。
KEISHO 022で、
「安定とは何か。」
を考えた。
治療家にとって、
この二つの違いはとても大切だと思う。
動かない身体は、
一見すると安定しているように見える。
筋肉を固め、
関節を固定し、
姿勢を崩さないようにしている。
しかし、
それは本当に安定なのだろうか。
例えば、
強い風の中に立つ一本の木を考えてみる。
まったく動かない木と、
風に合わせて枝や幹をしならせる木。
どちらが強いだろう。
身体も同じである。
本当の安定とは、
動かないことではない。
変化に対応できること。
右へ傾けば左へ戻れる。
前へ崩れれば後ろへ調整できる。
力が入れば抜くことができる。
緊張したあとに緩むことができる。
身体にとって大切なのは、
一つの「正しい位置」に固定されることではない。
必要に応じて変化できる余白を持っていること。
そこに恒常性の本質があるように思う。
私たち治療家は、
「正常」という言葉をよく使う。
正常な可動域。
正常な姿勢。
正常なアライメント。
正常な筋緊張。
正常な関節運動。
もちろん、
基準を持つことは必要である。
しかし、
身体は本当に、
教科書に書かれた「正常」へ戻ろうとしているのだろうか。
私は、少し違うと思っている。
身体が求めているのは、
理想的な姿勢でも、
左右対称の身体でも、
誰かが決めた完璧なアライメントでもない。
その人が、
今いる環境の中で生き続けられる状態。
身体はそこを探しているのではないだろうか。
毎日10時間座って仕事をする人。
重いものを持つ人。
一日中立っている人。
スポーツをする人。
子どもを抱く人。
年齢も違う。
生活も違う。
身体の使い方も違う。
ならば、
全員に同じ「正常」があるはずはない。
身体は、
その人の生活に合わせて変わる。
それは時に、
私たち治療家から見ると、
「歪み」
に見えることもある。
しかし、
その歪みさえ、
身体がその環境で生きるために選んだ答えなのかもしれない。
猫背。
巻き肩。
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