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恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。
サムエル記下 9章3節
ダビデとヨナタンが主の前で堅い約束をしてから数十年後、ダビデはイスラエル全土の王となります。ダビデはサウル王に仕えていたツィバに尋ね、ヨナタンの子メフィボシェトを呼び寄せます。そのときの言葉が冒頭の聖句です。「忠実を尽くそう」の「忠実」はヘブライ語では「ヘセド」。「忠実」の他に「慈しみ」、「憐れみ」、「恵み」とも訳されます。神の性質を表わす言葉でもあります。
今日の箇所から示される一つは隣人になることへの招きです。マキルは両足に大けがをした幼いメフィボシェトを保護し大切に育てました。ダビデが後に自分の息子のアブサロムから追われる状況になった時にもダビデを助けた人の中にマキルがいました。自分の利害に関係なく、目の前の困っている人を助けた彼は、イエス様のいう「隣人になった」人です。
二つ目には謙遜と素直さです。メフィボシェトは自分にはダビデが喜ぶようなことを何一つ差し出すことができない。前王の血筋の生き残りである自分は、命を奪われてもしかたのない立場だと自覚していました。ダビデの申し出を、メフィボシェトは疑うことなく固辞することもせず素直に受け取りました。私たちもまた、イエス様のゆえに、神の子として迎えられています。自分に価値があるからでも、徳を積んだからでもなく、とても神の子どもとして受け入れていただけるような者ではないけれども、ただイエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、赦され神の子とされています。
三つめに教えられることは住まいを選ぶ自由についてです。メフィボシェトがダビデに服従してしぶしぶ一緒に住んだというよりも、ダビデの王宮に住むことの安心を選択したのだと思います。メフィボシェトがダビデと住まうことを選んだように、私たちも父なる神がいつも一緒にいる生活を選び取りました。その場所が一番安心していられる場所だと確信したからです。イエス様がなさった「放蕩息子の譬え」にある兄と弟のように、義務と強制と束縛を覚えて住まうのではなく、私たちにいつもヘセドつまり、慈しみと憐れみと恵みで接してくださる神との生活を喜び住まいたいです。
8月のテーマは「和解と平和」でした。平和は、どこからか与えられるものではありません。平和とは程遠い現実にいる私たちですが、その解決はわたしたちにヘセド、慈しみと憐れみと恵みを示してくださる主を見上げ倣っていくしかないのだと思います。それが隣人になることであり、謙遜になることであり、そして安心の中で喜んで生きることだと思います。「平和を実現する人々は幸いである」とイエス様は言われました。私たちにできること、示されることを少しずつでもなしていけたらと思います。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3章16節
この聖句は、どなたもが一度は目にし、知っている有名な箇所です。でもそれを現実のものとして受け入れられないのが人間の弱さなのです。この世で生きていくには、豊かになりたい、他者を支配したい等自己実現に支配されがちになります。これでは、自分が上に立てば他者を顧みるという、自己中心的で傲慢な行動をとり得るものになってしまいます。現実世界では、虐げられたもの、差別されたもの、弱いもの、貧困に苦しむものが、生活するにも汲々の状態にあるのが現状です。このような時にこそ、一人ひとりが他者を思いやり、助け支え合う、要するに愛の精神で結び合っていくことが求められるのではないのでしょうか。どんな小さなことでもいいから、自分でできることから行ってみてはいかがでしょうか。今日の聖句は、わたしたちの犠牲となってくださったイエスの愛の行いを互いに深く噛みしめ、心に受け止めて日々を歩んでいくことの大切さを示しているものと言えましょう。
T. T
]]>知恵の初めとして/知恵を獲得せよ。これまでに得たものすべてに代えても/分別を獲得せよ。

「かえって自分を無にして、僕の身分になり」
フィリピの信徒への手紙2章7節
インドに伝わる猿の捕え方があります。口の細い壺に木の実を入れておく。猿は手を差し入れ、実を握りしめる。握った拳は、その細い口を通りません。手を開けば抜けるのに、放さない。猿を捕えているのは壺ではなく、猿自身の手です。「固執する」(2:6)はギリシア語でハルパグモス、「強奪」「分捕り物」を意味する言葉です。まだ持たぬものを奪うにせよ、すでに持つものにしがみつくにせよ、手の形は同じ、握りしめた拳です。キリストは神と等しくあることを、まことにご自分のものでありながら、分捕り物とはされませんでした。
今週の聖書教育はサムエル記下6章。ダビデはエルサレムを陥れ、神の臨在のしるしである「神の箱」を、自らの足もとへ運び入れます。牛車が傾き、支えようとしたウザが打たれて死ぬ。テキストは、この失敗の責任はウザではなくダビデに帰されるべきだと記します。神の託宣も、祭司や預言者の意見も求めず、独断で進めた事業でした。箱をつかみ、王座をつかみ、人をつかむ。ダビデの手は、開いていません。
「自分を無にする」(2:7)はケノオー、空にする、という言葉です。あの物語の終わりにも「空っぽ」が出てきます。踊るダビデを窓から見たミカルは、彼を「空っぽ、軽薄」と蔑む。ダビデは「自分は神の前に軽くなる」と答え、妻を言い負かしました。信仰の言葉として、非の打ちどころがありません。けれどもその正論は、関係を変えるためにではなく、相手を軽んじる根拠として働きました。「信仰」が「自分の正当化」になるとき、へりくだりは偽りになります。
キリストのケノーシスは、言葉ではありませんでした。何ひとつ自分のものを持たぬ僕となり、最も辱められた十字架の死にまで降られた(2:8)。ミカルが投げつけた「軽い」という場所に、この方は実際に立たれたのです。十字架で叫ばれたのは詩編22編、傷ついた心の祈りでした。聖書教育は「小さな声と神の沈黙」と題し、その沈黙が小さな声に寄り添っていると記します。窓辺にひとり立つ人の側に、神はおられます。
「このため、神はキリストを高く上げ」(2:9)。上げられたのは、自分を高くした王ではなく、自分を無にした王でした。しかも上げたのはご自分ではなく、神です。私たちが握りしめるのは恐れているからで、その恐れを解くのはキリストの完全な愛だけです(1ヨハネ4:18)。握りしめた拳では、握手ができません。納めた剣を打ち直して鋤とする(イザヤ2:4)。平和月間のこの月、握りしめた指を今日ひとつ、ゆるめてまいりましょう。
]]>「わたしの手はあなたに下しません」(サムエル記上24章13節)
洞窟の暗がりに、剣も従者もない王がひとり立っています。兵たちは言いました。「主が敵をあなたの手に渡すと約束されたのは、この時のことです」(24:5)。けれども、主がそう約束された言葉はサムエル記のどこにもありません。自分たちの願いに神の名の衣を着せたのです。同族ユダの人びとさえ、虐殺(22章)に怯えて彼を通報しました(23:12)。恐れは人の口を閉ざし、正当な痛みは、いつのまにか暴力の燃料になります。
ダビデは上着の端を切り取ります。ヘブライ語の「切り取る」(カーラト)は「(契約を)結ぶ」とも訳され、ヨナタンとの契約も同じ語です(18:3)。結ぶことも断つことも、同じ一つの刃です。「上着の端」(ケナフ)は王の尊厳と子孫にまで及ぶ言葉。その行為はサウルを嘲るものでもありました。だからダビデの心は痛みます。原文は「心が彼を打った」。剣は抜かなかった。けれども刃は動いていた。剣を納める勇気は、自分の内側にある刃に気づくところから始まります。
ダビデはサウルを「敵」ではなく「主が油を注がれた方」と呼びます(24:7)。「敵」と呼ぶ間は殺せますが、「神に愛されたひとり」と呼んだ瞬間、手は下せなくなります。そして殺気立つ兵たちを、言葉だけで押しとどめました(24:8)。剣を抜く勇気より、納めさせる勇気のほうが大きいのです。ゲツセマネで耳を切り落としたペトロに、主は「剣をさやに納めなさい」(ヨハネ18:11)と言われ、その耳に触れて癒されました。
洞窟を出たダビデは黙ってはいません。証拠を示し、無実を語ります。剣を納めることは泣き寝入りではなく、真実を語りつつ、報いを自分の手で取り立てないことです。「主がわたしとあなたの間を裁き……わたしの手はあなたに下しません」(24:13)。裁きの放棄ではなく、正しい裁き手への返還です(ローマ12:19)。復讐とは相手に自分の人生を明け渡すこと。剣を納めた人は、その支配から解き放たれます。
剣が納められたとき、はじめてサウルの耳が開きました。王は声をあげて泣き、「お前はわたしよりも正しい」と認めます(24:17-18)。刃を向けられている間、人は自分の非を認められないのです。もっとも二十六章で、サウルは再びダビデを追います。平和は一度で完成する成果ではなく、その都度選び直す道です。昨日は終戦の日であり光復の日でした。平和月間のこの月、目の前のひとりに向けた剣を、今日、鞘に納めてまいりましょう。
父がダビデをののしったので、ダビデのために心を痛め、新月の二日目は食事を取らなかった。
サムエル記上 20章34節
私たちは、今日の聖書箇所のダビデとヨナタンの姿を、多くの人が見習うべき友情として語ることもあります。しかしダビデとヨナタンのこの美しい友情のお話を通して、私たちキリスト者がどのようにこの世を生きるべきかが分かります。
キリスト者は神様によって結ばれた神の子どもです。そのため、御言葉を読み、聞き、学びながら神様の教えに従おうと努めています。このような共同体が教会なのです。教会の一員として信仰生活を送る中で、同じ御言葉を通してどれだけ深く受け入れるかは、人それぞれ違うこともあります。しかし、その違いを自分の判断で正しいかどうかと区別するのではなく、御言葉を通してお互いに理解し、尊重して生きることこそ、キリスト者が目指す生き方なのです。
今日の聖書箇所に描かれているのは、命を懸けたダビデのためのヨナタンの献身です。その献身というのは、私たちが送っている日々の中で自分ができること、小さな配慮や奉仕を、周りの人々に向けていくだけでよいのです。このようなことが、私と、ここにいらっしゃる皆さんが今日の聖書箇所で覚えるべき、キリスト者の生き方です。
神様と結ばれている私たちは、日々の中で続けているさまざまな形の礼拝を通して回復できます。こうして、人それぞれの生活が癒された時こそ、私たちは回りの人々の悩みや喜びに共感し、分かち合うことができます。私たちがそれぞれの生活の場で出会った神様の恵みを分かち合い、共感し、互いに仕え合うことこそ、キリスト者の姿なのです。私たちの生活を振り返ってみた時、自分は本当に神様に出会ってキリスト者として変えられたかを改めて考えながら、皆さまが信仰生活の中で立ち上がることができることを願います。
「キリストはわたしたちの平和であります」
エフェソの信徒への手紙 2章14節
ゴリアトの武器は、巨体でも最新の兵器でもなく、「戦う前から相手を震撼させ、志気を削ぐ」大言壮語にありました。エラの谷を挟んで四十日、勇敢に戦ってきたサウル王さえ身動きが取れません。恐れが人を支配し、恐れが壁を高くしていく。「敵意という隔ての壁」は、石やコンクリートでできているとはかぎりません。少年ダビデの真の武器も、石投げ紐ではありませんでした。「万軍の主の名によって」立つこと(サムエル記上17章45節)、それだけでした。
ヘブライ語のツェバオートは、創世記二章一節「天地万物は完成された」の「万物」と同じ言葉です。しかも侵略戦争が語られるヨシュア記やモーセ五書には一度も出ません。初出はサムエル記上一章、子を授からない女性ハンナの祈りの場面です。軍神の名ではなく、すべての命を造り、最も小さな嘆きに耳を傾ける創造主の名でした。だから今週の聖書教育は、「万軍の主」よりも「万物の主」と。「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない」(47節)。
けれどもダビデもまた、敵に侮蔑的な言葉を発しています(17章36節)。敵と味方を線引きし、敵を軽んじ、暴力を正当化する価値観から、この少年も自由ではありません。ゴリアトが倒れたあと、谷を隔てていた線は消えません。向きを変えて、勝った側と負けた側のあいだに引き直されただけでした。恐れの中で、私たちは敵を作ることで安心しようとします。そうして倒された壁は、必ず別の場所に建て直されるのです。
エフェソによる信徒への手紙は、そこを越えます。「十字架によって敵意を滅ぼされました」(2章16節)。滅ぼされたのは敵ではなく、敵意です。キリストは応酬の連鎖をご自分の体で受け止め、断ち切られました。十字架は、敵を滅ぼす場所ではなく、敵意が死ぬ場所。「規則と戒律ずくめの律法」の廃棄も、人を分け序列をつけてきた仕切りそのものの除去でした。
平和の福音は「遠く離れている」者にも「近くにいる」者にも告げられます。遠い者が近い者の側へ移るのではありません。「両方の者」のまま、一つの霊に結ばれて御父に近づくのです。八月十五日、日本では終戦の日、韓国では光復の日。同じ一日に二つの記憶があります。違いを消さず、しかし敵意を消して、同じ御父の前に立つ。今日の主の晩餐でも、主は裏切る者にも否む者にも、同じパンを渡されました。今日から始まる平和月間を、「共に仕え、共に育つ」群れとして歩んでまいりましょう。
神様の支えを思います。主の恵みを一つずつ数えます。
そして祈られていること、支えられていることの幸いと感謝を思います。
祈ることのできる幸いを思います。
あなたのために祈っているよと話してくださる友、
あなたのために祈っているよと言ってくださる友、
その時私の心は平安で満たされます。
讃美歌 483 番の歌詞の中に
「その時に 主の光 わが道を照らしだす 主が共に歩まれる 恐れなし われには」 とあります。
その時共に歩んでくださり
助けてくださる神様の御手に感謝していきたいと思います。
H.U
]]>神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます
テモテへの手紙二 1章6節
「短い間に生物の世代は移り変わり、走者たちのように、命のたいまつを手渡してゆく」。紀元前一世紀の詩人であり哲学者でもあったルクレティウスは、唯一の著作『物の本質について』にそう記しました。神話に頼らず自然の法則と原子論で世界を説いたこの人にとって、それは原子が生む連鎖にすぎず、火を託した方はおられません。けれども信仰の継承は、たいまつよりも、かつての日本の家の「埋み火」に似ています。灰の下の小さな種火を、朝ごとに掻き起こす。パウロがテモテに書いた「再び燃えたたせる」は、まさに灰の中の熾を掻き起こす言葉でした。
パウロはまず「先祖に倣い」と書きます(3節)。ダマスコで人生をひっくり返された人が、なお受け継いだものの上に立っていると知っている。そして「昼も夜も祈りの中で絶えず」テモテを思い起こし、その「涙を忘れることができず」と続けます。信仰は制度によってではなく、名前を挙げて祈られ、涙を伴う関係の中を通って手渡されていきます。週報の祈りの課題に毎週並ぶお名前も、同じ営みです。
その信仰は、まず祖母ロイスと母エウニケに宿りました(5節)。教会の指導者でも、記録に名を残す立場でもない二代の女性です。「宿る」とは、教え込まれることではなく住みつくこと。今週の聖書教育はサムエル記上十六章、数のうちに入れられていなかった末の子ダビデの選びを取り上げます。「主は心によって見る」(16章7節)。信仰の系図は、世の物差しで数えられない家々を通って流れてきました。
「再び」と勧められるのは、テモテの火が灰をかぶっていたからです。若さゆえの侮り、教会の困難、獄中のパウロ。受け継いだ信仰も、置いておけば必ず灰をかぶります。火とはそういうものだからです。継承とは保存ではなく、その都度掻き起こされること。しかも掻き起こすのは、たいてい自分ではありません。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を「わたしたちに」くださいました(7節)。
テモテは、ユダヤとギリシアの線の上に生まれた子でした。受け継がれる信仰は、線の内側に閉じこもらず、線を越えて手渡されていきます。来週から始まる平和月間の歩みも、この一点につながっています。私たちの内にある火も、誰かが灰の中に残しておいてくれたものでした。今度は、私たちが残す側に立ちます。名前を挙げて祈ること、子どもたちの傍らに座ること、共に賛美を歌うこと。灰の下に小さな種火を残す者として、「共に仕え、共に育つ」群れとして、新しい一週間を歩んでまいりましょう。