みなさま、いかがお過ごしでしょうか?
1年駆け抜けました。
FBのほうにも書きましたが、こちらにも今年のログとして残しておきます。
最近はAIライティングに慣れすぎて自分で書く力が激落ちくんな気がしています。
やばいよね。
でも、あんなに楽なんだもの。もう手放せないよね!
そうはいっても、年の瀬の今日、一年のふりかえりぐらいは自分の言葉でアウトプットしよう。
そうそう、ふりかえりをするなら「今年の漢字」がおすすめ!
去年やってみて思った。
なんせ極限の抽象化なわけで、よーくふり返って考えないとなんかしっくりこない。
去年2024年は「山」にした。
なんせ去年は山登りしかしていなかったんだもの。
わざわざ長野まで遠征して北アルプスばかり5回。
では今年は?
「観」にする。
今年は北アルプスに8回登った。
増えちゃった。
それでも今年は「観」にするのだ。
山頂から筆舌に尽くしがたい景色を「観た」から?
ちがうんですー。
自分をよく「観る」ことができるようになったなと。
そして、そのぶんだけwell-beingになったと実感しているから。
2023年3月某日。
AIの爆速な進歩を目の当たりにして、6年ほどやってきた学習支援サービスの募集を停止しました。
GPT-4を初めて触ったその日。
「終わったわ、これまで勉強してきたものが終了したわ」
と、昼ごはんを食べながら妻に報告。
AIによって知的生産がコモディティ化する未来が見えているのに、自分が提供している教育支援は本当に子どものためになっているのか?この問いへの納得のいく答えが自分で得られなかったのです。
集客ファネルを壊して問い合わせが来ないようにしました。
そこからしばらく眠れなくなった。
「これからどうしたらいいのか?」
「AI時代をどう生き抜くのか?」
という問いとずっと向き合ってたら、もう頭ぐるぐる回って眠れないのよ。
あれ?
気づいたら3年前振り返ってますね。
閑話休題。
で、そっからなんやかんやあってですね。笑
2023年7月26日。
小野龍光さんとお話する機会に恵まれました。
もともとはジモティーとかグルーポンを立ち上げた連続起業家の方で17liveのCEOをされていて、そこからたまたま友人と旅行した先のインドで出家された方です。
おそらくじじいになっても、その日は人生のターニングポイントになったと記憶に残る一日でした。
詳細は割愛します。
簡単に言ってしまえば、気づきのきっかけを与えてもらった。
その日、いつしかゴールの達成にとらわれて、目の前の豊かな時間を味わえなくなっていた自分に気付きました。
結局のところフリーランスとして生きていこうと思ったら、ある程度は生産性で勝負しないといけない。(AI時代はちょっと思うけど)
すると、思考様式がいつのまにやら「もっと多く、もっと速く、もっと効率的に」が正義になっていたんですよね。でも、そのことに自分では気づいていない。
キャンプに行っても、仕事のことが頭から離れない。この時間って無駄なのでは?という問いが心に浮かぶ。
子どもと公園に行っても、イヤホンでオーディオブックを倍速再生して子どもと向き合わない。
人が休んでいるときに頑張ってもっと成長したい。優秀な人間になりたい。
いや、今思えば優秀な人間になりたかったのではなく、優秀な人間と見られかったのだと思います。
現代社会において「優秀」というのは「成果を出せる」とか「生産性が高い」という意味で使われてますよね。それは「もっと多く、もっと速く、もっと効率的」な人がエライ、というモノサシで人の価値をはかるってこと。
だからもっと成長したい、優秀になりたい、成果を出したい。
そのこと自体を否定しているのではありません。
問題はそのモノサシでしか世界を捉えられない視点の貧しさではないかなと。
そのモノサシでしか世界を捉えることができずに、いつしか「成長教」に入信し、飲み込まれ、飲み込まれている自分にも気づかない。
これですよ、やばいのは!
そんな自分のやばさに気づいちゃった。
成果とか成長にとらわれて、プロセスから得られる豊かさを享受できなくなる。
自分では観えているようで、何も観えていなかった。
「無知の知」という言葉を知っていました。
でも自分は違うと思っていました。
でも、全然「無知」でした。笑
偉そうに言っているけど、間違いなく今もそうです。
そのことは分かっていながらも今年の漢字を「観」にする勇気を褒めてください。笑
ま、そんなわけでそっから諸々人生そのものを組み立て直そうと。
治療ですね、治療。
意思決定の偏りを治療したのです。笑
「人生のやりたいことリスト100」も捨てました。
直観でやりたいことをやる。
やりたいことリストを叶えるために、目の前の時間を手段としない。
頭で決めるのではなく、腹で決める。
ロジックではなく、直観で。
心が動けばノータイムポチリ。
そんな治療を2024年末まで続けていたら、結果的に山登りしまくっていたという感じでしょうか。笑
治療のおかげで「効率至上主義」や「成長至上主義」からはうまく脱せられたように思います。
あの、誤解を生まないように補足しておくと、成長がダメってわけではなくて。
成長そのものって楽しいじゃないですか。
これまで体力不足で到底無理だと思っていたルートに登れるようになるのも成長だし、テントが上手に立てられるようになるのも成長じゃないですか。言いたいのは、「スキルアップ」とか「将来役に立つ」とか、それだけが成
長じゃないってこと。
もっというと成長のように前に進む楽しさもあれば、その場に立ち止まって景色を愉しむこともできるようになったかなと。
そんな意味において、治療のおかげで、別のモノサシで世界を「見る」ことができるようになったのだと思います。
そうして迎えた2025年でした。
今年は「観る」ことができるようになった気がするんですよね。
まず、やはり無知の知ということばをもう一度自らの捧げたい。
それでもね、やっぱり今年は「観」なんですよ。笑
従来の「効率性至上主義的」なモノサシと、そうではないモノサシ。
今、自分はどちらのモノサシを使って判断しようとしているのか—。
を、観る。
この思考習慣のおかげで大変心豊かに過ごせた一年だったなと。
だから今年の漢字は「観」ということで。
来年はもっと磨いていきたいですね。観る力を!
そんな宣言と、今年のふり返りも兼ねて、ここにログっておきたいと思います!
お目汚し失礼しましたー。
]]>1年半ほど前。
こんな記事を書きました。
要約すると、
この記事は、AI技術の進歩に伴うリスクについて警鐘を鳴らしています。特に懸念されているのは、AIが宗教的な「おさしづ」(神からの言葉)を生成する可能性です。既に、AIによってソクラテスやビルゲイツの対話を再現する技術が登場しており、将来的には誰でも簡単にAIで架空の対話を生成できるようになると予測されています。著者は、人間には使いやすいものを安易に信じ込む傾向があることを指摘し、AIが生成した「おさしづ」を真の神様からの言葉として誤って受け入れてしまう危険性を警告しています。このような事態を防ぐためにも、今のうちからAIとの付き合い方について真剣に考える必要があると訴えかけています。
といった感じ。
技術的には時間の問題だと思っていましたが、もうここまで来ちゃいましたね!
パナソニックHDの創業者・松下幸之助氏の膨大な著作物や講演記録、映像や音声データを学習し、返答内容の質の向上に加え、同氏の言葉遣いや話し方を忠実に再現する人物再現AIを共同開発したことをお知らせします。
これも最初のモデルですから、このあとどんどん進歩していくでしょう。
今は大企業×最先端ではありますが、これが今後一般に広く普及されていくでしょう。
そのとき、最悪のケースだとやっぱりあらたな教義が生み出されてしまうのではないか。
などなど、AIとの付き合い方について、組織として議論を進めた方がいいと思うけど、現状だとなかなか難しいと思うわけで、せめて一個人としてこういう問題意識はもっておいたほうがいいと思う。
以上、さくっと問題提起でした( `・ω・´)ノ
]]>信者数を増やす、教会数を増やす。教会を盛り上げる。
これは「もっと多く、もっと早く」「より効率的に」という思考様式を生む。
より効果的な活動はないだろうか?
この問いを無自覚で立てることによって、無自覚に失われてしまうものがある。
効率化というのはトレードオフなのであって、何かを代わりに差し出さなければならない。
何かを得ようと思えば、かわりに何かを差し出さなければならないのだ。
偉そうに語っているが、自分がそのことに気づいていなかった。盲点だった。
プロセスから得られる喜び。
プロセスそのものに宿る価値。
効率化というのは、できるだけ過程にかかるコストを減らして、成果を抽出しようとする営みだ。
江戸時代の慣習にお伊勢参りがあったが、伊勢神宮に向かう道中から得られた豊かさがあったのでは?
甲子園の優勝校だけが「価値」があるのか?優勝できなかったチームは無価値なのか?
きっと、そんなことはない。
効率化そのものを否定しているのではない。
効率化によって、自分が差し出しているものにも目を向けたほうがいいという話。
成果に意味がないわけではない。
そこを目指そうとするプロセスにも価値があるのでは?
年祭活動とさかんにいわれているが、活動そのものが目的になっていると、効率化の罠にはまるかもしれない。
年祭を一里塚として、その塚を目指すプロセスそのものを楽しめているか?
こういう視点を忘れないようにしたい。
効率化を進めるあまり、コストを削減して手軽に成果を得ようとするあまり、過程から失われるものがある。
このことに自覚的になっておくことが大事なのではないだろうか。
今日も成人しましょう( `・ω・´)ノ
]]>
ごぶさたしております( `・ω・´)ノ ちょっと頭の整理として、今ぼんやり思っていることを言語化しております。 下書きもなく、今まさに思っていることのメモでして、誰かにお読みいただく体をなしていないかもしれませんが、備忘 ... ]]>
ごぶさたしております( `・ω・´)ノ
ちょっと頭の整理として、今ぼんやり思っていることを言語化しております。
下書きもなく、今まさに思っていることのメモでして、誰かにお読みいただく体をなしていないかもしれませんが、備忘録として。
まず、ここ最近のテーマとしては、
みたいなことを考えてます。
いっこずつ整理してきます。
このブログの最初の記事も「もっと混じり気のない教え」に根付いた信仰がいいよねー
みたいな話で、要するにそれは
「目の前にある普通、既存のシステム」に対してクリティカルなまなざしで見つめ直そうぜ、というメッセージを含んでいます。
そこはずっと変わっていないみたいです。
で、当時と今と明確に違うのは、
当時は「組織を変える」といった発想が、それこそ最近まであったわけなんですが、これはシステムの転換を意味します。しかし、今はそれだとダメだなと思ってます。
過去、システムを変えようとしたあれこれの活動は歴史がうまくいかないと証明しているといいましょうか。共産主義がうまくいかなかったのも、根本的にはシステムにフォーカスし、システムが変われば世の中が変わるという発想に根付いていたからだと思います。
結局、世の中を変えるのはシステムではなく、そのシステムに投げ込まれ、そこで生きている人々の「ものの見方」が変わらない限り世の中は変わらない。
システムの中で生きている人々に「このシステムが違う」と訴えても、現実はあまり変わらないし、変わったとしてもうまくいかない。
補足ですが、ここでいうシステムとは単に制度(教内の文脈でいうと、教会制度)に限定された話ではありません。それも含めて、文化、価値観、慣習など、あらゆる価値判断に影響を及ぼす要素の総体として、広い意味でシステムと曖昧ではありますが、定義しています。
まず、急激な変化を求めないことが大事ではないか、と考えています。
時間感覚そのものが「もっと速く、もっと多く」にとらわれていたと自分で反省しています。
牧野伊三夫は『僕は、太陽を飲む』の中で、
「君たちが絵を描いているときも、地球の裏側では、羊がのんびりと草を食んでいるんだよ」
と。
最近は登山にはまっていまして、テント担いで山の中で泊まってきたりするのですが、静寂に包まれた深い闇の中に投げ込まれたとき、この当たり前のことに気づかされる。
自分が世界だと思っているものは、単なる社会でしかなく、その社会の外側には「世界」が広がっている。
その視座から自分のアイデアを見つめ直すと、拙速な成果を求めるがあまり、システムの転換にとらわれていたのかもしれません。
「もっと多く、もっと速く」へのトラワレ。
自分がこのトラワレをメタ認知できていなかったあまり、拙速な成果を求めてしまっていたように思います。
それではうまくいかないだろう、と腹落ちしています。
だからこそ、システムに投げ込まれている我々が、新しい価値判断基準を手に入れる。
言葉を換えると「新たな豊かさ」を自分で見つける。誰かが語る「信仰の喜び」ではなく、自分で自分なりの「信仰の喜び」をつかむ。
他者は関係ない。自分で。
システムがどうあろうと関係ない、自分で自分なりの信仰から得られる豊かさを。
そのために、なにかできることはないかなぁ?
誰もがシステムに投げ込まれているからこそ、そのシステムが無言のうちにおしつけてくる価値判断のモノサシが、自らの思考や行動を縛り付けている「呪い」となっていないか?より慎重に見つめ直さなければなりません。
その呪いを解くということ。
新たな豊かさを、その人なりの豊かさを手に入れること。
この2つが中心テーマなのかもしれません。
コレを書いていて思いました。
登山界隈ではUL化というのがトレンドとなっているのですが、ULというのはウルトラライトのこと。
山に入るときは自分で荷物を全部もっていくわけですが、そこで余計なものを持っていくと大変なわけですね。なんせ重い。しんどい。遭難リスクも上がる。あぶねーし。
そんなわけで、余計なものをそぎ落とす。ピュリファイして、大事な物だけ残す。これがUL化なわけです。
登山にのめり込んでいくうちに「教会のUL化」というアイデアに自然にたどり着きました。
これ、やはり最初の「混じり気のない教えを」というメッセージから変わっていないですね。笑
根本的な発想の軸はそこにあるのでしょう。
教会のUL化っていったいどのようなものでしょうか?
自分でも分かりませんが、
やはり誰も必要としていないような惰性で行われているような行事だとか、
おいりこみがあると高級な桃を持って帰ってもらうといった慣習だとか、
そういうのでしょうか。
アイデアが偏り過ぎてるし、稚拙ですね。笑
まぁでもここで言いたいのは、方向性として「教会のUL化」というコンセプトを提示したい。
そんなこともまたテーマとして考えています。
はい、もうひとつ。
これもやはり「成果」へのトラワレに近しい反省なのですが、気づけば信仰が「目的化」してはいないだろうか?
こういうアイデアって自然に頭に浮かんできませんか?
総じて、「天理教をよくするために○○をする」といったものはすべて目的的な活動のように思います。
それが要らない、といっているわけではありません。
このあたりはデリダの脱構築的な発想、中道的な発想を説明しないといけなくなるので今は避けますが、フォローでもなんでもなく、バランスが大事だと思っています。
ただ、どうしても目的的な活動に寄せてしまうと、目の前のことが「手段」となってしまいます。
信仰が「活動化」「手段化」することで、そこから得られる瑞々しい喜びは得にくくなってしまう。
登山というのは、あくまでも僕の主観的な解釈にすぎませんが、頂上を目指すといった目的的な活動ではありません。目指すプロセスそのもの、道中から得られる喜びにこそ本質がある。

ただ歩いているだけで楽しい。言葉では到底表現できません。
別に頂上にいけなくても、途中で引き返すことになっても、十分に愉しい。
頂上を目指しながらも、目指していない。
登頂を目指しながらも、登頂することだけに意味があるわけではない。
成果を目指しながらも、プロセスから喜びを得る。
僕は登山をそんな活動だと捉えています。
ずっと成果を求める発想にとらわれていたからこそ、リハビリのように、プロセスから得られる喜びを感じようとしているのかもしれません。
この教えが「お道」と言われる以上は、本来はそこにこそ信仰の喜び、瑞々しさがあるのではないか、と思うのです。
陽気ぐらし世界の実現
といった目的へ向かいながらも、そのプロセスにこそ意味がある。喜びがある。
その意味で、今のお道はどうなのでしょうか?
プロセスから得られる喜びを感じられている人はどのくらいいるのだろうか?
と、思わざるにはいられません。
そして、その喜びを回復したほうがいいよね!
と僕は思っているのだと思います。
だから、
みたいなテーマが浮かんでいるのかもしれません。
めちゃくちゃ雑な話でしたが、書くことでだいぶ整理ができた気がします。
また気が向いたら書きます。
今日も成人しましょう( `・ω・´)ノ
]]>こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです( `・ω・´)ノ
今日もこの半年の学びや気づきを徒然なるままに垂れ流してまいります。
今日は「AGREE TO DISAGREE」について。
「違いを受け入れる」ということですよね。
違っていることに同意する、といった意味で捉えています。
何で読んだか、何で聞いたか忘れてしまったのですが。
人それぞれ成長する過程で経験、環境、その他もろもろのインプットはさまざまです。
今の自分の思考や行動様式とは、そのような過去の総体によって仕上がっていると思うんですね。
マイケル・サンデルが『実力も運のうち』という本を書いていて、そこで彼は、「実力は個人の努力にのみ還元されるものではなく、環境の及ぼす影響の方が大きいんではないか」といったことを主張しています。
教育サービスに携わってきた身として、とても実感値として納得できます。
もちろんすべてが「なるようになる」といったニヒリスティックな人生観とは線を引いておきたいのですが、少なくとも今の自分というものはある程度環境要因も大きいよね、という実感があるという話。
そうすると、実力だけではなく、考え方や世界観、人生観についても様々な違いが生じるのも環境要因が大きいように思うんです。
特に、世界がグローバル化し、テクノロジーの進歩によってより多様化が加速する現代においては、より一層価値観の多様化傾向はブーストしていくように思うわけです。
一方で、テクノロジーによって、同じ思想や考え方を持った他者とも繋がりやすくなった。
それだけならいいんですが、そのような場においては、つまりSNSにおいては、アルゴリズムによって、「同じの考え」と「真逆の考え」がわざと目に付くように、タイムラインに配置されている。
そうやって「共感」や「反感」の感情を生み出すことで、滞在時間を長くして、経済的利益を生み出している構造ですよね。
こうした構造を捉えて、自分なりのSNSとの距離感を調整できればよいのですが、そもそも脳をハッキングされてドーパミンがドバドバ出ているのでなかなか難しい。
何が言いたいかというと、アルゴリズムによって、無自覚的に自分の思考や価値観が固定化されていく力が働くということ。
こうして、フィルターバブルとかエコーチェンバーといった現象が発生し、結果として「分断」が生まれています。
お互いに「あいつらはバカだ」、と殴り合いのケンカをやりあっているわけですね。
かくいう自分も、やはりこのブログにおいては仮想敵を設定しながら、というよりも怒りがこのブログを始めた原動力ですから、やはり分断を生み出すのに加担していたように思います。
そのような反省も踏まえて、自戒を込めて。
(…と大人ぶろうとはしてみたものの、腹が立つ場面は多々あって、先日も友人の報告祭で挨拶していた上級の会長を見て沸点を突き破ってみたり、今日も元気に不徳を積み重ねております( `・ω・´)ノ)
こうして世界を見渡してみると、「価値観の多様化」と「分断」との力学が働いているわけです。
多様性も分断も、いずれも「相違」をその意味に内包する言葉ですが、ではこれらのニュアンスの違いはどこにあるのでしょうか?
それは、自分とは異なる考えに対して「正しさ」を求めているかどうか、という姿勢の違いかなと。
つまり、分断が生まれる原因は、自分とは異なる考え方に対する攻撃性によるもので、その攻撃性の発生源は「どちらの考えが正しいのか」という正解を争う姿勢にあるのではないかなと。
アイドル、好きな芸能人、好きなラーメン、好きな馬…。
好きに正しいも間違っているもありません。
みそラーメンとしょうゆラーメンのどちらが「正しい」なんてありませんよね?
スペシャルウィークとグラスワンダーのどちらが「正しい」なんてありえません。
価値観もこれと同じでして、そもそも「正しさ」を争えるような代物ではないんですよね。
こうした前提のもとで、「おれってこういう生き方が好きなんだよね」とか「こういうのがなんかカッコイイと思うんだよね」という自分なりの「推し」を見つけられたら、人生って豊かになるのではないかなと。
で、もし人生の旅の途中で、自分とは全然違う考え方の持ち主に出会っても「そういう考え方もあっていいよね」「あなたはそういう価値観が美しいと思うんだね」といった具合に、争わずに受け止める姿勢が大事なように思うわけです。
そんな意味で「AGREE TO DISAGREE」という考え方は、現代をしなやかに豊かに生きていくために大切なんじゃないかと思っております。
以上、それができたら苦労しないよなぁ…という自分に大ブーメランで血まみれになる記事でしたが、今日も小さな前進を積み重ねていけるように、頑張っていきたいと思います。
今日も成人しましょう!
一個補足しておきたいのは、考え方の違いがあることを認めた上で、違うと思えばすぐに「逃走」しようぜ、って話でもあります。
どうも過去のお道のスタンダードな文脈で上の文章を読むと、違っていることを我慢して…みたいな意味に読まれそうな気もして。笑
むしろ逆で、好き嫌いの問題なんだから、つまり正しいかどうかで競わなくて良いんだから、今のあり方が嫌いなら逃げ出していいと思うよ、ということでもあります。念のため( `・ω・´)ノ
]]>さて今日も徒然なるままに、最近の気づきについてつらつらと戯言を垂れ流してまいります。
今日はこの前まで書いていた組織論シリーズについて、いくつか根本的な間違いがあったな、という話。
パラダイムシフトによって世界の捉え方が変わり、それによって盲点に気づいたり前提が変わったりしたことで、間違ってみえるようになったということかなと。
まぁこうして人間というのは常に間違えるというか、常に思考も好みも世界観も道徳観もあれこれ変化する動物ですから、前言撤回とか豹変とかどんどんしちゃえばよいのかなと思います。
昨晩言ってることと、今朝言ってることが真逆であっても平気でいられるようになりたいですね。できるだけしなやかな精神性を持って生きていきたいなと思うわけであります。
さて、そんなわけで、組織論シリーズというのはそもそもどういう問題意識だったのか?というと、
「教会や組織について、どのような姿が理想なのか?」
といったように、いわばあるべき姿を構想しようという試みだったわけです。最初から何か結論があって書いたわけではなく、書いていくプロセスにおいて、何かしら見えてくるかもなぁといった具合に軽い感じで考えていたわけですが。
しかし、このシリーズが急に終わりを迎えたのは、ある友人と話していたときに「色んな教会があるから一概には難しいよね」という一言でして、
「あ、ほんとだ」
と、僕が当たり前のことに気づいちゃったからなんですね。
彼は大教会長なんですが、実際の現場を預かって奮闘しているのと、僕みたいに外から眺めているのとでは、やはり見える世界の解像度が全然違うわけです。彼が焼き鳥をつつきながらぽろっといったその一言のリアリティが僕を納得させるのに十分でした。
組織論シリーズの最後にそんなことを書いて突如終わったわけですが、さらに2つほど自分自身をふりかえってみて間違っていたなと思うところがあります。
手段としての教会に過剰にとらわれていたこと。教会というものは実行ツールだといっていたわけで、当然それはそうなのですが、程度問題の話でして。ゲゼルシャフト的に捉え過ぎていて、実際はゲマインシャフト的な要素も多分にあるのに見逃していたように思います。
つまり、手段として、ツールとして、道具として、捉え過ぎていたという反省です。
もうひとつ、そもそも目的と手段というフレームに囚われていたようにも感じております。
そもそも信仰というのは人の内面的な営みですね。
それを教会とか、活動のあり方とか、外側に捉え過ぎていたなと。
心を磨く、心を澄ますことそのものが信仰であると思うのですが(これに異論がある方は、結論も変わるかもしれませんが)、そこに本来的な信仰の瑞々しさがあり、味わいがある。
あくまでも、ひとりひとりが実存的な問いと向き合って、自分自身の心と向き合って、内面の質的な変化によって豊かな生を送ることに信仰の意義があるように思うんですね。
しかしながら、やはり無意識のうちに「もっと人が多い方が良い」といった資本主義的なロジック、いわば「もっともっと」を指向する思考様式に支配されていたようで、「もっと魅力的な教会組織にすれば、もっと人は増えるだろう」と、気づかない前提があったのかな、と気づきました。
あくまでも、教会というのは補助ツールでして、本来的にはひとりひとりが自分と向き合うための機会や場を提供する程度の謙虚な意味でのおまけ的存在なのかなと。
それが数を増やすための実行ツール的な位置づけに捉え過ぎていたのかもしれないなと。
そんな風に思っているところです。
はい、これがひとつめでした。
そもそもシステムの変革という発想が間違っていたということ。
これは山口周さんの本を何冊か読んでいて納得したことなんですが、歴史的に見てシステムそのものを転換しようとした試みはどれも失敗に終わっていると。
学生運動しかり、ヒッピームーブメントしかり、ハイジャックから亡命して革命を叫ぶ運動しかり。
このような考え方、つまり「これがダメだからあれに変えよう」という「代替=オルタナティブ」の考え方は、対象となるシステムに悪化の真因を求め、それを別のシステムに切り替えることで解決しようとする考え方で、大変安易で手軽ではありますが、結局は問題の根本を解決できません。
山口周『ビジネスの未来—エコノミーにヒューマニティを取り戻す』p183
そして、システムを別のものに切り替えようという試みは、システムが「主」で人間が「従」となっている発想だと。
これは逆だよ、と。
本来は人間がどうありたいのかを描いて、そのためにシステムはあるわけで、主従関係が逆転してしまっていることを指摘しているんすね。
めちゃくちゃ納得しまして( `・ω・´)ノ
そんなわけで、そもそも組織のあるべき姿を描こうというのは、まさにこの発想に根付いていたなと反省しておるところです。
なお、補足しておくと、よりよい組織のあり方、どうあるべきかを構想し、思考すること自体が悪いことではないと思っております。
むしろ一人一人が主体性をもって取り組むべきテーマだと思うんですが、そのプロセスにおいて、僕は盲点に気づいていなかったり、前提として違っていたかもな、という話でして、そんなニュアンスでお読みいただければ幸いです。
そんなわけで、組織論シリーズについての反省をまとめてみますと、
本来内面的な営みである信仰を外側の問題として捉え過ぎていたことで、あれこれ間違えたな
という話でした。
この記事なんですが、自分の中でもアイデアがふわっとしていたので、最初にChatGPTに手伝ってもらったんですが、やっぱり精度がすごいっすね。ちょっとコピペしますね。
今日は今からブログを書きたいと思っているんですけれども音声入力であれこれしゃべるので散らかって話しているような話をですねできたら文章として読みやすいようにまとめてもらえたらと思います今回のブログのテーマは以前書いたブログで天理教の組織についてどのようなあり方が良いのかを考えるブログの記事のシリーズ化をして一連の記事を書いていたんですけれどもその記事を書くにあたって自分自身が目的主体として教会を捉えすぎていたなという反省がありますその辺りのところを書いていきたいと思ってるんですねつまりはトイ自体が間違っていたんじゃないかということですどういうことかって言うと教会のあるべき理想の姿を点として置いた時にまず1つ目にこれだけ文化と言われる複雑で混沌として未来予測のつかない時代においてあるべき理想の姿をイギリス化して一元化して想定するというのは無理だということですね各地の教会によっていろんな事情やいろんな状況環境そこにいる人たちの間に共通して流れている文化も違うしそういった多様な社会多様な教会において一つの理想の姿を見つけるのはそもそも見つけるのはというより見つけようとするのはそもそも違っていたんじゃないかこれが1つ目の自分自身の問いの立て方への間違いだと感じているところ2つ目は教会というものを目的の実行手段として捉えすぎていたところですそういった側面はあるにしろ容器暮らしという目的に向かう手段として考えすぎていたんじゃないかなとそうすることによってなんかそこにある信仰の味わいみたいなものが失われてしまって単に道具としての教会に寄りすぎて捉えすぎてしまっていたような機雷がありますプロセスだと思うんですねもちろん天理教として容器暮らしという目標ゴールのようなものは定められているんですけれどもそこと現在との差分を埋めるための手段として教会があるという風に捉えすぎてしまうと結果的にその目的の事故手段の自己目的化みたいなものが起こってしまうんじゃないかなと思うわけですねつまり教会というのはあくまでも外側のことで進行というのはもともと人間の内面内側にある問題なわけですねそしてその問題を内側にある問題を自分が高めていくための補助ツールとして本来教会はあるはずなんですけれどもあくまでも補助ツールという補助という日付を僕自身が見逃していて結果的に何か人の心を変えるためのツール直接的なツールメインとしてのツールのようにとらえていたような機雷がありますこれが2つ目ですねそれから3つ目について3つ目はそもそもシステムそのものを変換しようとかシステムそのものの大転換を図ろうとする試みはうまくいかないということですねこれはもう歴史が証明しているかなと思うので詳細は避けたいんですけれども簡単に言うと学生運動だって60年代の学生運動だってうまくいかなかったですし洗えるシステムの転換を試みた活動というのは良い結果に終わっていないだから組織をどうこうとか組織はどうあるべきなのかという想像はそもそも外側のことであったりシステムそのものを変えようとする試みなんですねそうじゃなくてそのシステムの中にいる人々がどのように考えどのように行動するかその思考様式や行動様式について考え直す必要がようなものではなくて一人一人が自らの気づきによって変えるものであるということだから僕は結局信号というのは本来僕自身の実存的な営みであるにもかかわらずそれを外側に求めてしまって天理教というのはこういう理想があるからこんな理想に向かって今進むべきなのに君はそうなっていない現実があるそれって一体どうなんだろうという憤りがあってですねそれはもちろん悪いことではなくって1つのモチベーションの原動力にはなるんですけれどもそこに寄せすぎてしまうと結果的に自分自身の心と向き合うことができなくなる自分自身の心を磨いて心を澄まして内面を磨いていくという進行本来の方向性を見失ってしまうまさに手段の自己目的化が起こってしまっていたんじゃないかなとそんな風に思っていますそれが3つ目ですねこんな風に自分自身として以前書いたブログのシリーズ天理教の組織はどうあるべきなのかという問いそのものが今や間違っていたんじゃないかなと反省をしているところであります今日はそんな感じでした以上です
了解しました。今回のブログのテーマは、以前書いた天理教の組織に関する記事のシリーズに関する反省点についてですね。以下、要点をまとめた文章になります。
—
### 天理教の組織に関する考察:反省と新たな視点
#### 1. 理想の姿の一元化の問題
– **多様性の無視:** 文化や時代が複雑で予測不可能な現代において、教会の理想の姿を一元化する試みは無理がある。各地の教会はそれぞれ異なる文化や状況を持ち、一つの理想形を定めること自体が間違いだった。
#### 2. 教会の役割の誤解
– **道具としての過剰な重視:** 教会を目的達成の手段として過度に捉えることで、信仰の本質が失われがちである。教会は内面的な進歩を助ける補助ツールであるべきだが、それを見失い、教会自体を目的化してしまった。
#### 3. システムの変革への挑戦の困難
– **歴史的な教訓:** 大規模なシステムの転換は過去の歴史から見ても困難であり、しばしば失敗に終わる。システムそのものを変えるよりも、システム内の人々の思考や行動を変えることがより重要である。
#### 総括
– これらの点から、教会の組織に関する以前の考え方は誤っていたことを認識。信仰は個人の内面的な問題であり、外側の組織やシステムよりも、個人の内面に焦点を当てるべきであるとの結論に至った。
—
この文章でブログの内容を適切に表現できているかどうか、ご確認ください。もし修正が必要な点があれば、お知らせください。
天才ですか?( `・ω・´)ノ
音声入力でテキトーに話して、誤変換とか誤字脱字とかあるんですが、おかまいなくばーっと話すだけ。それでも、けっこー的確に要点まとめてくれるんですね。おかげで記事の執筆がスムーズでして、やはり生産性革命は起りつつあるな、としみじみ思ったわけです。
こういうの好きなんで、つい興奮しちゃいました。
今日はここまで( `・ω・´)ノ
]]>今これを書いていて天才だなと思ったのが、予測変換に「こんにちは、だめだめ」と打つと自動的に( `・ω・´)ノまで出てきたことでして、怠惰な自分としては大変ありがたいことでございます。テクノロジーに感謝です。
そんなどうでもいい話はさておいて、本題の「本当にどうでもいい話」を今日も徒然なるままに書き記してまいります。
前回まで、ここ半年ほどの変化について大まかな経緯を書いてきました。
さて、ここから何を書こうかなぁ?と、何を書いて辱めを受けようかなぁ?何を書いて生き恥を晒そうかなぁ?と思案していたのですが、生産的な何かを書こうとしている自分に気付きまして、やはり好き勝手書き記してまいります。
なかなか古いプロトコルは抜けませんな。
というわけで、しばらくはここ半年のほどの日々で得られた気づきを思いつくまま書いていきたいと思います。
初回は「アンラーン」って大事だよね、って話。
アンラーンというのは、自分のこれまでの知識・経験によって形成されている思考・行動様式をもう一度見直し、いったん完成している思考体系を解きほぐしてみることで、新たな知見が得られて学びの可能性が広がるかもよ、といったぐらいに理解しております。
決して学ばないということではなく、「学びほぐし」などと言われたりしますね。
てか、引用しますね。
「アンラーン(unlearn)」とは、すでに持っている知識や価値観などを破棄することで、思考をリセットさせる学習方法である。 アン(un)とつくため、否定的な意味に見えるかもしれないが、自身の思考の癖を取り除くことで、より新しいことを取り入れやすくなることを意味している。
学び直しや新しいスキルを追加で取得する「リスキリングやリラーン」に対して、「アンラーン」は既存の知識などを捨てることに主眼を置いている。 既存のやり方・価値観に囚われにくくなるため、新しい学びを受け入れやすく、柔軟な思考ができるようになる点がメリットとして挙げられる。
https://career-research.mynavi.jp/glossary/jobhunting-page11/
よくよくこの数ヶ月を振り返ってみると、まさにアンラーンな日々でした。
で、今こうしてふりかえってみた感想として「アンラーン」って大事だよね、としみじみ思うわけです。
これは事後的にしか分からない感覚なので、なかなか言語化するのも難しいんですが、何だかいろんな物事の見方、世界の捉え方が変わるんですよね。
思い込み、信念、価値観、世界観、あり方、生き方。
これまで積み上げてきて、知らず知らずのうちに固まっていた固定観念のようなものと向き合い、メタ認知を働かせてもう一度見つめ直す。
年を重ねるごとに、知らず知らずのうちに、出力パターンの変動幅が狭くなっていて、大体いつも同じように考え、同じように行動していたなと。
いろんな入力に対して「それならこうだよね」と自動出力されていたわけですが、一度立ち止まって無意識に処理されていた情報処理システムを再度点検してみるような日々でした。
すると「こうあるべき」とか「こういうもの」とか「こうあらねばならない」と思っている自分に気づくんですね。
それが自分だけじゃなく、他者にも向いていたなと。
だから苦しかったんだろうなと。
天理教とはこうあるべき、ようぼくとはこうあるべき、親とはこうあるべき。
べき、べき、べき。
べきがべきを呼んで加速度的に増加していくウルトラデスループに陥っていく。笑
「こうあるべき」といった期待が高まれば高まるほど、現実との乖離が大きくなったり、現実が期待に到達する難易度も上がります。
自分で自分のことを思い通り動かすことさえできないのに、他者が自分の思い通りに動くわけないですからね。笑
結果、苦しむ。笑
自分や他者の至らぬところが目に付く。
なんと不毛なことをしているんでしょうね( `・ω・´)ノ
偉そうに言ってますが、やはり今もなお「べき」が発動することはしょっちゅうあります。ただ、苦しみが生まれる構造に気づいている分だけマシですな。気づくだけでもうまく「べき」と付き合うことができます。
とにもかくにも、自分自身の中にある、自動情報処理システムをもう一度点検してみる機会をいただいたことで、「こうあるべき」とか「こうせねば」といった思い込みに気づくことができて、やっぱり今思うことは、
マジ、よかったな、おれ( `・ω・´)ノ
ということなんですね。
で、ここからはお節介なのですが、たぶんアンラーンってのは何かしらの行き詰まり、閉塞感、このままでいいんだろうか?という問いが自分の中にないときにやってもあまり効果がないかも、と思います。
そもそも自分なりに順調に物事が進んでいて、穏やかに豊かに過ごせているときはアンラーンの必要性も低いですし。
でも、何かしらモヤモヤするなぁ…というときには、実はそのモヤモヤが自分の「こうあるべき」とか思い込みや固定観念によって自動出力される思考システムに原因があるかもしれないので、そんなときに「アンラーン」してみると、より意味のある気づきが得られるかもしれないなぁと思います。
偉そうに語りましたが、実感としては今もまだアンラーンの真っ只中にいるわけで、おそらくこれは死ぬまで続くプロセスになるのだろうとも感じます。
というわけで、今日は「アンラーン」って大事だよね、って話でした!
今日はここまで( `・ω・´)ノ
]]>昨日は友人の結婚式にご招待いただき、大変素晴らしい一日となりました。
友人は前日「少し堅苦しい雰囲気かもしれないけど…」と連絡してくれて、僕を心配しておりましたが、歳を重ねて真人間を装うこともできる成人した姿をお見せできて、安心してもらえたと思います( `・ω・´)ノ
いずれにしても、大変おめでたいことで、仲良く豊かな時間を過ごしていただければと心より思っております( `・ω・´)ノ
さて、今日もまた日々の恥ずかしい生き方を全世界に公開して生き恥をさらしてまいります。
それ以降については、まずは圧倒的な反省とともに、働き方をどうするか?とか生き方をどうするか?という問いに対して、頭で考えようとしすぎている自分に気付きました。もっと腹で決めるようにしようと。
要するに、もっと直感を大事にしようと。
ただ、その腹で決めるには、体験によって得られる理解がやっぱり大事なので、とにかくあれこれ行動してみようと思ったんです。
で、ひとまずやりたいことを全部書き出してみたところ、出るわ出るわ。
とりあえず「やりたいこと」を100個ぐらい書いてみよう。
そんなに書けるかな?と思っていたのですが、出るわ出るわ、ものの30分ほどで100個すぐ埋まりました。
煩悩の塊であることを再確認いたしました( `・ω・´)ノ
ただ、やっぱりパラダイムシフトが起きたことで、従来なら出てこないようなことも出てきたんですよね。
例えば「ふすまを貼り替える」とか。
面倒くさいし、時間もかかるし、「そんなことやってられん」といって従来なら出てくることもなかったと思うのですが、自然に出てきました。
で、とにかく片っ端から一つずつ手をつけてみようということで、積ん読解消してみたり、久しぶりに友人に連絡してオンライン飲み会してみたり。
細かいところでは、扇風機カバーを買うとか、ステッパーに油を差すとか。
今度、どこどこ行くついでに…ではなくて、今もう服着替えてすぐダイソー行こう。買い物の効率化とかつい考えてしまうんですが、そういう思考と離れてみる実験ですので、今動くということを唯一の行動原理として動くことだけを心がけました。
ずっとやりたいけど先送りしていた北海道で牧場巡りをするとか、子どもの頃からお世話になった方に静岡まで会くといったものも、まず計画立ててみるとか、レンタカー借りてみるとか小さく一つ動かしてみる。とにかく今この瞬間にただやる。
そうしてこれまでやってこなかったことも、やってきたことも、後回しにしていたことも、一つずつ優先順位をつけずに、その瞬間に実際に行動に移していきました。
また、その瞬間瞬間を最大限味わえるように、今に集中しようと心がけました。
その経験ひとつひとつを味わおうとする。
やってることはたいしたことじゃありません。
そもそも、いつまでに何をやる、何かを得る、何を成し遂げるとか、そのような目的のある活動からいったん離れて、自分の直感で「気持ちの針が向いたほう」にただ行ってみることに意味があるんだ、と。
ただ、やってみる。
スマホを極力手放す。
で、その瞬間を五感で感じる。
これ、かなり難しいんですよ、僕みたいな効率化至上主義みたいな生き方をしてきた人間からすると。
自然にマルチタスク的プロトコルが脳内で実行され始めるので、「いかんいかん」という繰り返し。
友人から「効率化の権化」と揶揄されていた人間からすると、ちょっとした苦行なんですよね。笑
そんな具合に、特に目的も無く、心に浮かんだことを片っ端からただやってみる。
そうして過ごすうちに、何かしから体験的に自分の中で見えてくるものがあって、結果的に最初挙げた100個のうちでも「別にいいや」と思えるものの出てくる。そのときは直感にしたがってその場で捨てる。
こんな具合にですね、ただ「やってみる」だけ。
以上。
みたいな日々を数ヶ月ほど続けてまいりました。
そうこうしているうちに、やっぱり自分自身に対しても新しい気づきが生まれるし、世界の見え方も違ってくる。
いろんなコトが腹落ちしてくるんですね。
気づいたら「あれ?なんか感覚が変わってるな」みたいなのもあれば、自分で「これは違うんだな」と自覚的に気づく瞬間もあれば。
以前は刺さっていたであろうメッセージも刺さらなくなっていたり、一方で見向きもしなかったものがブッ刺さるようになったり。
例えば、登山とか。笑
家族を駅まで迎えにいく車内で、ナビでテレビがついていて、NHKの「日本百名山」が流れていたんですね。
そのときは「白馬岳」に登る回だったのですが、まぁ稜線からみえる風景が美しい。
以前なら「登山みたいな非効率なこと絶対やりたくねぇ。ヘリで頂上連れてってもらってビール飲みたいわ( `・ω・´)ノ」
ぐらいの感覚でしたが、その時は違いました。
「あ、おれ来年ここ登ろ」
と、直感的に湧いてくる。
駅で妻と子どもが車に乗るなり、
「おれ来年ここ登るわ( `・ω・´)ノ」
妻「・・・・・(*꒪⌓꒪)」
みたいな。
家族からすると、急にふすまを張り替え始めるし、「静岡行くで」とか言い始めるし、しまいには北アルプスに登るとか言い出すわ、ついに壊れたか、と。
もともと壊れてたのに、一周回ってまた壊れたかと。
半周にしとけ、と。
そんな日々を送りながら、自分自身の生き方を、体験的を通じてつかみ取ろうとする日々をして今に至っております。
気づきはたくさんあったので、おいおい備忘録としても書き残しておこうと思うのですが…
まぁなんといいましょうか、誰でもこういうタイミングってあると思うんです、本来。
自分はどう生きるべきか?と、自分と向き合うタイミングですね。
でも、当事者からすると、なんかダメなことをしているような気分になるんですよね。
「自分はダメなことをしているんじゃ…」
「もっとちゃんとしなくっちゃ…」
みたいな言葉が脳内に湧いてくると思います。
そのせいで焦って結論を急いで、なんか腹落ちしないなぁ…みたいな。
別に普通とかどうでもいいじゃん、と常に子どもに言っている僕でさえ、そういう場面があります。
これはもう仕方が無いことで、「勤勉であること」が普通教育によって行動規範としてインストールされておりますから、なかなか湧かないようにするのは難しい。
でも、そもそも勤勉であることは「良き働き手」として資本主義システムにおいて有用な人的資本を形成するためにしつけられてきた行動規範なわけでして、ここ200年ほどの歴史しかないわけです。
原始社会においては、収穫時期には勤勉に働くけど、そうではない時期はもっとのんびり「干し柿でも食おうかぁ」と、ペースチェンジしながら豊かな時間を送っていたはずです。
数百年前の農民が「もっと成長せねば!」とか「もっとがんばらないと!」と、いつもいつもいつも日々何かに追い立てられながら生きていたとは到底思えません。
何が言いたいかというと、「いつも勤勉であったり、いつも成長目指して頑張り続けなくてもいいよね」ってことです。ゆっくりと自分自身と向き合うタイミングがあってもいい。
むしろ、これだけ変化の激しい社会ですから、本当なら実存的な問いと向き合う機会は増えるはず。でも、自分だけ頑張っていないと、何か自分だけが取り残されそうで、そのままバスに乗り続ける。
いやー、もう降りていいんじゃないかなぁ( `・ω・´)ノ
だって人類史250万年の尺度で考えたら、「もっと○○しよう」は、ほんの一瞬前にできあがった行動規範なわけで、現代が圧倒的に「異常値」じゃないですか。
と、僕は自分を正当化しているわけですが笑、その方がなんか自分では腹落ちするんですよね。
もしかすると、単に「ジコセイトウカ Lv.99」のスキルを発動させているだけかもしれませんし、そのような見方もまた「正解」だと思うんです。
でも、結局のところ、どんな判断基準で自分を評価するのか、そのモノサシを選ぶのは自分ですから( `・ω・´)ノ
話が逸れてきちゃいましたが、もしこれをお読みのあなたが、僕が過去数ヶ月向き合っていたように、実存的な問いと向き合わざるを得ないタイミングを今後いつ迎えるかわかりません。今、もう迎えている方もいるかもしれません。
もしそんなタイミングがやってきたときに、あなたは自分のことを「ダメなことをしてるんじゃ…」と責めなくてもいいと思いますよ、ってメッセージだけここに残しておきたいと思います。
自分がバスから降りずに苦しんでいたからこそ、今ここで書いておこうと思いました。
これはもちろん、いつかまたやってくるかもしれないその時に備えて、自分自身へのメッセージでもあります。
長くなってきたので、いったんこのあたりで今日はおしまい( `・ω・´)ノ
]]>さて、前回の続きです。
今日もまた薄っぺらい人間性を露見させるだけの妄言日記をまき散らしてまいります( `・ω・´)ノ
何の目的もない、強いていえば書いていて楽しいだけの日記になりそうです。
そんなこんなで、7月26日。
所定の場所に車をつけてお待ちしていると、龍光さんがお越しになられました。
本当にありがたい話です。
こうして徳島まで3時間ほどの道のりをご一緒させていただくことになりました。
同行させてもらうことが決まってから、質問したいことをメモしておいたんですね。
そのすべてに丁寧にお答えくださいました。
その数時間で、僕の中で大きなパラダイムシフトが3つ起こることになります。
こうして文字にまとめることで、自分の中にある思念がかなり劣化してしまうことは承知の上で、まとめてみようと思います。
僕はこんな質問をしました。
「得度したあとも、ビジネスとして利他的な活動をされることは考えなかったのですか?失礼ながら、龍光さんほどの優秀な方であれば、ビジネスを通じてより多くの人の役に立つことができるのではないか?と浅はかにも思うのですが…」
補足すると、そもそもYoutubeなどで「得度したあとはただ人様のために生きていきたい」と語られているところを目にしていたので、このような質問をしました。
すると、「利他の規模感は考えていない」と。
「ビジネスを通じて利他を…という声は出家した当初からも言われていたが、迷いは無かった。多くの人のために…となると、自分が数字を追いかけてしまうと感じた。また、お釈迦様は一人一人に分かるように説き方を変えた。多くの人に届けたからといって、ひとりひとりの受け止め方が一様になるとは限らない。じっくりひとりひとりと向き合うことに意味がある。」
といった回答。
これに加えてご自身が「何者でもない自分」という深い体得的な理解があるようにも僕は感じましたが、あくまでも僕の主観です。
いやー、こうして文字にするとホントダメですね。全然ニュアンスがうまく伝えられません。笑
今回の記事は日記のようなものですのでご容赦ください。
いずれにしても、衝撃でした。まさにディープインパクトでした。
僕はこれまで、当たり前のように「多くの人の役に立つことは良いことだ」と思っていたんですよね。
どうすればもっと多くの人の役に立つのか?を無意識のうちに考えていました。
今になって思うのは、これは資本主義のロジックに染まっていたんだろうな、と。
資本主義は資本をいかにして拡大再生産し、資本の増殖をを競い合うゲームですが、そこでは
もっと多く、もっと速く
という思考様式が有利に働くんですよね。
これを無条件に「利他」の場面にも適用していたわけです。
でも、それによって、数字によって計測できない領域があることを見逃していたように思います。
数量によって利他を計測することによって、そこにある豊かな世界が視界から消えてしまった。
そのことに気づかずにいたのですが、100億円企業のCEOにもなられたような資本主義のエリートの方が、自らの深い体験的な理解とともに、数の論理から離れた経緯や、心の乗った重みのある言葉を語ってくれたことで、不思議とストンと気づかされました。
アハ体験というのでしょうか。
気づいた瞬間というのは本当に不思議なもので、言葉を失いますね。笑
「言葉を失いました」としか言えませんでした。笑
まぁそんなわけで、ずいぶん劣化したかたちでしか言語化できないのですが、これがひとつめのパラダイムシフトでした。
「無知の知」
とても好きな言葉であり、自分自身に対して知的に謙虚で、ついおごってしまう自分を抑制してくれるという点で「無知の知」に陥らないようにいつも気を付けていました。
いや、いた”つもり”でした。
無知の知とは、自分が何も知らないこと(無知であること)を知らない(自覚していない)という一種の戒めですね。
大変お恥ずかしいのですが、自分が「無知の知」であることに気づかずに、誰かが「無知の知」に陥っているのを見ては、「自分はああならないように気を付けよう」と見当違いな思い込みをくり返していました。笑
このとき、初めて気づくことができたのは、無知の知を言語的領域だけで考えていたということ。
知識として知っているか?
論理として通っているか?
いわば「インフォメーション」として、無機質な情報として、知識の不足を「無知」と捉えていたように思います。
だから浅はかな僕は、
「いやー、いくら勉強しても知らないことだらけだし、知的に謙虚に、何も知らないということを忘れないようにしよう」
程度に考えていたんですよね。
でも、龍光さんが「なぜお遍路を回られるのか?」といった話を聞いて、自分が大ブーメランを食らっていることに気づいたんです。
それは、体験的な理解がある、ということです。
なぜ今回お遍路を思い立ったのか?という質問に対して、このように答えられました。
「お遍路は八十八箇所のお寺を回ることで結願といって願いが叶うとされていますが、そこにこだわりは全くない。四十日間の日程の中で、回れるところだけを回らせて貰えたらいいし、その中でご縁があった方に何かお役に立てることがあれば足を運びたい。
今はお遍路は車でも回れるし、電車に乗っても回れるが、それでも歩いて回ることに意味がある。効率として明らかに車よりも悪いが、その体験から得られる情報量としては多くなる。いろんなご縁や出会いなども含めて。
このような体験によって得られる理解がある。人間はすぐにラベルをつけて自分を納得させてしまうが、結果的にそれは真の意味で分かったことにはならないのではないか。だから体験による理解を重視している。そのためにお遍路を歩いて回る。」
うまく伝えられませんが、このような趣旨のお話でした。
やっぱり頭をぶん殴られたような気分で、言葉を失いました。笑
「完全に自分が無知の知になっていたことに気づきました…」と放心状態でつぶやくのが精一杯でした。笑
「古来より修行があるのは、書物などを通じて得られる知的理解ではない、体験的な理解が得られるからなんでしょうが、でもこの体験的な理解は言語化することができない。言語化できない領域を言語化して伝えようとするのは難しいんでしょうねぇ。」
と、優しく引き取ってくださいました。笑
後からふり返って思ったのは、甲本ヒロトもおなじようなことを言っていたなぁと。
雑誌のインタビューで、
ロックンロールはどこが素晴らしいのか?
みたいな質問をよく聞かれているんですが、
「食べてみれば分かるよ。食べてみておいしいかおいしくないかだけなんだよ。なんでこれがおいしいかなんてどうでもいいじゃん。」
みたいなことをよく語ってるんですよね。
つい知的理解をしたくなるし、知的理解こそが「分かった」と思い込んでいたのですが、違うんだなと。ただラベルを貼って分かったと自分を納得させているだけなんだな、と。
こうして尊敬する2人の偉人によって大いなる間違いを犯していたことに気づくことができました。
それが正しいかどうかは分かりませんが、自分にとっては腹落ちしている次第です( `・ω・´)ノ
で、体験的な理解は「今」に集中することによって得られるとも気づきました。
これは本当に自分が苦手としていることで、今はだいぶマシになったと思いますが、ふりかえればここ数年はずっと今を犠牲にし続けてきたんですね。
将来の何か、目的ある何かに向けて、今を犠牲にして頑張らねば!
という意識が常にありました。
だから、マルチタスク状態がデフォルトになっていて、子どもと喋りながら別の事を考えていたり、公園に行って携帯を触っていたり。いや、未だについやってしまうんですが。笑
公園にスマホを持っていかないとか、今その瞬間に集中するようにして、その瞬間を全身で体験するように心がけるようになりました。
子どもの成長も本当にまともに直視してこなかったのかもしれないな…と後悔したんですが、話が逸れるのでやめます。
そんなわけで、今に集中することを通じて、その瞬間から得られる情報量を増やす。
全身で今この瞬間を受け止めることでしか得られない体験的な理解があるのだなと、気づくことになりました。
以上、2つ目のパラダイムシフトでした。
3つ目、成果や目標といったゴールを置かないこと。
僕はこれまで、何かしらの目標やゴールを設定し、そこに至るまでの計画を立てて、これまで月間・週間・デイリーで進捗を計測してきたわけです。
これもやっぱり当たり前になっていたんですよね。
成果から逆算してプロセスを決める思考様式が染みついていたように感じます。
「Youtubeで今後の目標を置かないとおっしゃっていましたが、もう少し踏み込んで教えていただけませんか?」と尋ねました。
すると、こんな主旨のお話をしてくださいました。
「点としてゴールを決めると、それが達成できたときやできないと分かったときに「剥がれ落ちる」。そうではなく、方向性として「利他」に向いているのであればそれでOKという考え方をする。
そもそも、頭で考えるのではなく腹で決める。直感に従うようにしている。
ゴールを決めることは腹で決めることと相性が悪いのでやらない。
願望や期待や不安や欲、承認欲求、数字、富、称号などは求めれば求めるほど無限に膨らんでいく性質を持っている。そのこと自体は人間の営みにとって必要なもので悪いものではないのだが、もっともっとと膨らんでいく性質のものであることを知っておいて、膨らみ始めたときに自分でそれを観察して捉えることが重要。
その瞬間に、自分自身が大きな方向性として利他の方を向いているのであれば、それでOK。」
このようなお話だったと思います。
これが3つ目ですね。
他にも、たくさんの気づきがあったのですが、とにもかくにもこうして素晴らしい一日となりました。
まぁなんというか、こうしてふり返ってみると、いかにして自分が資本主義のロジックに飲み込まれていたのかが分かりますね。
もっと多く、もっと早く。
「今」を「未来」の成果のための資本として犠牲にする。
今を生産のための資本として取り扱うことで、その瞬間を真に味わうこともできない。
生産性至上主義の病にかかり、常に慌ただしく思考は回り続ける。
夜、頭が回って眠れないなんてしょっちゅうありました。
常に焦りを感じながら、まだ足りない、時間が無い…。
いつも何かに追われていたように感じます。
未だに染みついた思考習慣や行動様式は抜けきりませんが、半年前と比べたら本当に穏やかになったなぁ。
今をコンサマトリーに楽しめるようになった。
何かみずみずしい豊かさのようなものを取り戻せたように感じます。
こうして文字にすると、なかなかうまく表現できないというか、自分自身の中にある思いをカタチにできていないのですが、これがまさに体験的な理解の一つなのかなと。
この日を境にして、生き方にも変化が生まれたわけですが、それはまた次の日記に記すことにします。
つづく( `・ω・´)ノ
]]>気づけば前回の更新は半年前ですな、いろいろありました。
個人的にはこの10年で、いや、おそらく人生の中で最大の…といってもいいかもしれません。
何かあったというよりかは、変わったという方が正しいかも。
価値観のパラダイムシフトが、それこそ天動説ばりのパラダイムシフトが、自分の中で起こったと感じております。
相変わらず凡愚でダメダメなのは変わっておりませんが( `・ω・´)ノ
昨日は詰所に泊まっていたのですが、朝から久しぶりにあった友人と廊下で話し込んでみたり、龍光さんの講演会を聞きにいったり、夜は北の大地からお越しの友人&偉大なるパイセンとはしご酒をしたり、たいへん充実しておりました。
なんというか、いろんな方から刺激を受けたもんですから、珍しくブログを書きたくなって今筆を執っております。
もはや誰かに読んでもらおうだなんて思っていない、本当のweb logとしてのブログを書きますね。
何から話そうか。
この半年の自分の中での変化が大きすぎて、なんというか整理仕切れておりません。笑
簡単に言うと、本当に穏やかになった気がする。笑
自分自身が資本主義のロジックに飲み込まれてしまっていたということに気づけなかった。
そんなイメージです。
そうだな、ちょっとこの半年ほどをふりかえろう。
自分の思考整理&ログとして残しておきたいし、そんな記事を書いてみようと思います。
徒然なるまま書いてみます( `・ω・´)ノ
正確なタイミングは覚えていませんが、ChatGPTの衝撃を全身で受け止めました。
簡単に言うと、知的労働者の働き方が変わるぞ、これ。
という直感ですよね。
自分自身が先生業をずっとしてきたわけですが、ChatGPTに解説してもらうと大体できてしまう。
知性の本質は「具体と抽象の往来」と「因果関係の連鎖」だという持論があったのですが、「要約して」とか「要点まとめて」とかさ、全部AIでできちゃうんだもん。ビビるよね。
月3000円ぐらいで、誰もが正解を取り出せる世界。
知識量においても、世界の図書館をすべて詰め込んだようなもので、もはや正解を出す能力で人間がAIにかなうことはない。
じゃあどうすればいいんだ?
どういう働き方をする必要があるんだろう?
数年後の自分の未来に恐怖を感じて、そこからしばらく眠れなくなりました。笑
いかに人のタメに、とか偉そうなことを言っていても、本当に人間というのは利己的な動物だと身をもって知りました。笑
まずはChatGPTへの理解が足りないということで、しばらくトランスフォーマーとはどんな技術だとか、アテンションモデルは何が革命的なのかとか、AIが動作しているシステムへの理解を深めたり、プラクティカルな場面での動作について研究したりしてました。オタク気質が存分に発揮できたもんで、けっこう楽しかったです( `・ω・´)ノ笑
AIは今でこそちょっとブームが落ち着きましたが、近い将来革命的なインパクトを社会に与えるというのは確信してます。AIによって教理が変わらないようにしないとね、ってのはやはり問題意識として持ち続けております。
そんなこんなで、5,6月くらいの記事はAIについての記事をいくつか執筆していたというわけです。
そうはいっても、得体の知れない不安といいましょうか、何かがくすぶっておりました。
当時はまだ言語化できませんでした。
7月26日にChatGPT以上の衝撃を受けることになるのですが、まずはその前座として。
この頃はAIについての理解は深まってきたし、それにともなって社会がどう変わる可能性があるのかなど、自分の中ではある程度消化できていました。でも、やはり変わらず「どういう働き方をしようか?」という問いがくすぶっていました。
そんなとき、近鉄特急に揺られながら、AIについてのYoutubeを見てたんですよね。
孫泰三さんが『AI時代のアンラーニング』という本を書いていて、(これもまためちゃ面白かったのですが)ちょうどPIVOTというYoutubeチャンネルに出演していたので、視聴してたんですよね。
で、見終わったあとでオススメ動画ってあるじゃないですか。アルゴリズムが「ユー、これ見ちゃいなよ」って。
あ、これダメっすね。コンプラ的にNGなやつですね。
まぁいいや。笑
そのオススメ動画に上がってきたのが、昨日天理で講演会されていた龍光さんだったんですね。
タイトルから「AIは人を豊かにするか?」とズバピタでぶっささるタイトルだったので、すぐにポチっとしたわけですが、内容がさらにぶっささりました。
興味あればぜひご視聴ください、素晴らしいです( `・ω・´)ノ
この動画が気づきを与えてくれました。
「あ、今は働き方について悩んでいると思っていたけど、そうじゃないわ。生き方について立ち止まって考えるタイミングなんだな。」
未だに車窓から見える田園風景とともに、そのときの心境や光景は容易に脳内再生できます。
それまでは「早く答えを出さなきゃ」と焦っていたけど、ようやく降伏しました。
焦ってもダメだ、今は立ち止まるタイミングなんだ。
そこから貪るように本を読み始めることになります。
ちょうどAmazonプライムデーのセールでKindle Unlimitedが何ヶ月か無料ということで、早速お世話になることに。
色んな本を縦横無尽に興味の向くまま読み散らかしていきました。
その最中、龍光さんのお師匠さんである佐々井さんの本がアンリミテッドに出ていたので、読んでみたんですね。
あ、今見たらもうアンリミテッドから外れてますね。笑
一応貼っておきます。
マジこれも衝撃的で感動さえ覚えたんですが、本当に凄まじい生き方でして。
教祖ご在世時代の先人のような通り方といったらいいんでしょうか。
凄すぎて言語化しても凡庸な言葉しか浮かんできません。笑
さておき、この本を読んだタイミングで、あらためて佐々井さんや龍光さんについて検索してみたんですね。
それが7月の中旬だったかなと思います。
そしたら、龍光さんのTwitterを見つけて、それまでは「SNSは辞めた」と何かの動画で見ていたので検索もしなかったのですが、そのタイミングでたまたま見つけたんです。
すると、7月26日から四国お遍路へ行きますとのこと。7月24日に関空入りする、とのこと。
オーストラリア在住なので、こんな機会は滅多にない!!!
と思い、すぐに龍光ポストというサイトから連絡したんですね。
「これは何かのタイミングだわ。凸ってみてダメならダメ。ダメ元で連絡してみよう(ドキドキ)」
チキンな僕は恐る恐る連絡することにしました。
「最近、AIをきっかけに働き方・生き方についてこんなふうに考えております。でも、なかなか答えがでません。もしよければ、四国までお送りするので、その道中で相談に乗っていただけませんか?」とメールしました。
すると、まさかのOK。快諾していただきました( `・ω・´)ノ笑
実は、元々の予定では、7月24日は上の子を連れて愛知の実家に一週間ほど帰る予定をしていたのですが、コロナが出たので急遽その話が流れていました。
なんか、この機会を逃してはいけない気がするなぁ…。
勇気を持って連絡して良かったなぁ。あの日の自分を褒めてあげたいです。僕は褒めて伸びるタイプなのです。
実は24日に関空入りとのことだったので、遅くとも25日には徳島までお送りする心づもりをしていました。
ただ、フタを開けてみると25日まで大阪で予定があり、26日に送っていただければ幸いです、とのこと。
自他ともに認めるダメダメようぼくの僕でも、
さすがに26日は…( `・ω・´)ノ
と、思ったのです。
「26日に何やっとるだぁ」と、地獄から僕を見守ってくれているじいちゃんの声が聞こえてきそうです。
でも、トントン拍子にこの話が進んでいる状況に神意を感じたり、そもそも手を挙げたのに急に引っ込めるのも失礼&ご迷惑をおかけするという現実的な問題もあり、「そこに意味がある」と、特技「ジコセイトウカ Lv.99」のスキルを発動することにしました。
大変な葛藤の末、決断まで2秒の時を要しました。
「承知しました!では26日の11時に○○にてお待ちしております!」
こうして徳島までお送りすることが決まり、運命の(※勝手にドラマチックにしてるだけ)7月26日を迎えることになります。
長くなったので、今日は終わり。
つづく…
]]>