The post 『父をたずねて三十里』森水陽一郎(『クオーレ』) first appeared on BOOK SHORTS.
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インターネットにふれていれば、一度は検索欄に自分の名前を打ち込んだことがあるだろう。プロサーファー、宝石鑑定士、創作フレンチのシェフ、畳職人。私の場合はざっとこんなところだ。悪くない。彩り豊富で奥行きもある。ただ一点、どうしても見過ごせないことがある。名前を打ち込んださい、検索の手助けとして「猫泥棒」という関連ワードがそばに並ぶのだ。もちろん気持ちのいいものではないし、私は猫を盗んでもいない。トートバッグに塩抜き煮干しを忍ばせるほどの猫派である。
深追いは禁物、知らぬが仏。それが自分の名前を打ち込んだときの最適解である。ただ、デマのたぐいや、あらぬ疑いを自分にかけられている可能性も捨てきれない。念のため名前のあとに「逮捕」のワードを足して、ウェブサイトをひらき、千葉タイムズの記事を読んでいく。それほど長いものではない。ワゴン車にいくつかの檻を積んだ六十八歳の男が、関東地方を転々としながら野良猫を捕獲し、自宅で飼育していたという。捕獲場所はおもに公園の茂みで、神社や墓地に檻を仕掛けることもあったらしい。
虐待の事実はなく、まちがって家猫をつかまえて、首輪のGPSから足がついたために逮捕され、その後、きわめて軽微な処分で事件は落ち着いている。わざわざ実名を挙げて、記事として取り上げる必要はあるだろうか。多頭飼育による猫たちの惨状を訴えてもいない。無慈悲に保健所に持ち込んでいる事実もない。おそらく業者への売り渡しも難しいだろう。病歴の不明な野良猫を、研究機関の動物実験で使えるはずもなく、三味線の皮は傷の少ない別のルートでまかなわれるはずだから。
もし起訴されていれば、裁判記録に詳細が出ているだろう。千葉タイムズに問い合わせれば、さらに手間が省けるかもしれない。でも本当に知りたいのはそこじゃない。保護施設を名乗るわけでも、NPO法人を立ち上げるわけでもなく、ただひたすら野良猫をつかまえて自宅に持ち帰る変わり者。そこにどうしても、すでに三十年以上も音信不通の、父親の姿が重なる。
息子である私に、自分と同じ名前をつけようとして役所と揉めに揉め、苦肉の策として、父「日和(ヒヨリ)」息子「曰和(イオリ)」で押し切った、常識やルールの瀬戸際を歩きたがる父親。その結果私は、いまだに「曰」ではなく、「日」と誤記されることが常で、初読のさいは父の名と同じ「ヒヨリ」と呼ばれることが多い。実際、インターネットの検索欄に名前を打ち込んださいも、いらぬお節介で「曰和」が「日和」に自動変換され、それが思わぬ結果として反映された。
父と同名で、同年齢の「西脇日和」による猫泥棒のニュース記事には、おおまかな自宅の住所まで記載されている。千葉県香取市山田町。九十九里から60キロ、車で一時間足らずの距離だ。もしその犯人が、私たち家族を捨てた父親であるなら、伝えたいことがある。いまだからこそ会わなければいけない理由がある。インターネットを介した偶然のいたずらに導かれ、私は旅に出た。
カーナビにしたがって海岸線を北上し、森にはさまれた丘陵地を縫うように走り抜けると、刈り入れを終えた冬枯れの田んぼがあたり一面に広がった。民家はまばらで、その多くが樹液に群がる虫のように数軒ずつ肩を寄せ合っている。人捜しにはむしろ田舎のほうが好都合だ。警察沙汰になるようなカラフルな珍事が起きたならなおのこと。
案の定二軒目の家で、「ああ、猫の家ね、この神社の北」と、スマホの地図アプリを指差してのおばさんの案内を聞くことができ、車で三分、屋敷林に囲まれたその一軒家を訪れてみた。しかし待っていたのは、雨戸の閉め切られた、玄関の引き戸に不動産屋の看板がかけられた空き家で、遠巻きに様子をうかがったが、まるで人の気配はなかった。
さっそく不動産屋に電話をかけ、管理番号を伝えて現状を確かめてみる。
「ええ、そこなら空いてますよ、ご案内しましょうか?」
猫なで声の男性が、物腰柔らかに提案し、私は現地にいることを伝えた。
「実は人捜しをしてまして、ここまで来たんですが」
「探偵さんか何かで?」
「いえ、前の借主の親族です」
「失礼ですが、お名前は?」
私は名字だけを伝えた。ニシワキ・ヒヨリとイオリ、ただでさえあやしい問い合わせだ。下手な冗談に聞こえてしまう。
「たしかに前の借主は、西脇さんです。お父さまで?」
「ええ」
「でもおかしいな。天涯孤独と話してましたよ。だから保証人の欄も、専門の仲介業者に入ってもらったんです」
「あの、何かご迷惑は?」
「といいますと?」
「半年前のニュース記事なんですが、父が猫を盗んで逮捕されていたことをインターネットで知りまして」
「ああ、あれね。私はお父さまの味方ですよ、うちでも飼ってるから余計に」
どういう意味だろう。沈黙をもって続きをうながす。
「たしかに退去時に、敷金をこえる修繕費がかかりました。畳も傷だらけでね。でも不足分は私が肩代わりしたんです。体調のこともあったから」
「体調?」
「ああ、ごめんなさい。話したらいけないんだった」
「教えてください。実は三十年以上、音信不通なんです」
「じゃあなおのこと、謝らないといけません。変な期待をさせて」
「どういう意味です」
「退去されたのは二ヶ月前です。移り先は、九十九里にあるホスピスなので、もしかしたらもう」
教えてもらったホスピスに向けて、私は九十九里にとんぼ返りをした。往復120キロで、三十里と少し。わざわざ九十九里を選んで越してきたのだろうか。そこしか空きがなかったのだろうか。それとも鮭がふるさとの川に遡上でも果たすように、生まれ故郷の海辺の町に戻ってきたのだろうか。
自宅からほんの数キロ、雑木林に囲まれた別荘地の一画に、その古びたホスピスは待っていた。数年前までは、たしか老人ホームだったはずだが、知らぬ間にのれん替えされたらしい。建物自体はくたびれているが、生垣の椿はよく手入れされ、部屋の窓から深紅の花じゅうたんが見渡せるはずだ。
さっそく受付に向かい、ニシワキ・ヒヨリという男性が入院しているかたずねた。いた。まだ生きていた。しかし面会はすべて断ってくれとお願いされているらしい。私はフルネームを伝え、息子である可能性を説明した。体に無理のない範囲で、短い時間でいいので話ができないか聞いてくれないかと。
受付の女性は、困惑しながらも廊下の奥に向かい、引き戸の並びの一つに姿を消し、ほどなく了承のうなずきとともに、どうぞこちらへと、私を招き寄せる。ひとまず門前払いはクリアしたらしい。お礼を言って引き戸を抜けると、そこはこぢんまりとした、日当たりのいい一人部屋で、なかば起こされた電動ベッドに、父らしき老人がパジャマ姿で待っていた。
短く刈り込んだ白髪頭に、落ちくぼんだ瞳、たくわえた無精ひげはこけた頰を隠しきれず、遠くない迎えの日を物語っている。顔色こそすぐれないが、点滴の管や酸素吸入器はなく、少なくとも命の危機を知らせる緊迫もなく、おだやかな午後の時間がそこにはたゆたっている。
「香取にあった猫の家、さっき見てきました」
背後でそっと引き戸が閉じられるのを待ってから、私は話しかけた。
「そこの椅子、使いなさい」
私が息子であることを確信した物言いで、父はそばの丸椅子に目をやる。私はうなずくが、丸椅子には手を伸ばさない。ベッドにも近づきすぎない。
「あの人は、元気か?」
「なぜ聞くんです、三十年も逃げていたのに」
「元気なら、それでいい」
「母さんなら死にました、二年前に」
「死んだ」
「ええ、交通事故で。信号無視のトラックに轢かれて」
「そうか」休符でもはさむように、小さく息をつく。「お礼、言いそびれたな」
「お礼?」
「ああ、書き置きを残した。捜さないでくれと」
行方不明者届のことを言っているのだろう。もし出していれば、免許証の更新や職務質問のさいに、父の生存や所在地が明らかになり、連絡があったはずだ。でも母は実行しなかった。その理由も明かさなかった。
「イオリ、どうして俺が逃げたのか、考えたことあるか?」
「五歳で何を考えるんです。どう自分を納得させるんです。あるのは失望と怒りでした」
「あの人はどう言ってた、俺のこと」
「それを知って満足ですか? 借金、女遊び、駆け落ち、いまさらどうでもいいです」
「どれも違う」
私は自分でも嫌な笑みを思わず浮かべてしまう。
「なるほど、母さんになすりつけるつもりか」
重い沈黙があり、エアコンの稼働音で室内が満たされる。父は目線を落とし、自身を覆うシーツに向けて言葉をつむぐ。
「冒涜のつもりはない。自己弁護のためでもない。ただ、俺もあの人も、立派な人間ではなかった」
「どういう意味です」
「イオリ、俺はお前の父親じゃない。戸籍上だけで、血のつながりはない」
言葉が出てこない。父の目にいつわりの曇りはない。
「生まれたときは、みな同じ赤ん坊だ。でも二歳、三歳と成長するにつれて、俺にはそれを確信させるものがあった。いや、お前の生まれる前から、心のどこかで疑っていた。それを断ち切るために、迷いを受け入れるために、せめて名前だけでもつながりを強めたかった」
「くだらない。そんな理由で、自分と同じ名前を」
「きっとあの人も、三十年、答えを先送りした。俺がいないことで、真実は守られた」
枕元のタオルを手に取り、口をおさえる。こもった咳が二度三度、父の頭を揺らす。姿を消し、沈黙をつらぬくことでしか、母への復讐を果たせなかった枯れ木の父。
「三十年、何をしてたんです」
「さあ、何してたのか。毎日毎日、人の最期を見送ってきた。葬儀社の使い走りとして。だからわかる。近いうちに、ここを離れるって」
「離れる」
「旅立ちをひかえた人間は、死の匂いがする。不思議な力でもオカルトでもない。だからこそ、猫の手助けができた」
どういう意味だろう。窃盗ではなく、猫の手助け。
「彼らの弱点は腎臓だ。だめになると鼻につんとくるアンモニア臭が、体からじわりとあふれる。手厚い治療が受けられて、家族に看取られる家猫とは違って、野良猫の最後はひどいもんだ。雨に打たれたぼろぞうきん、最後はカラスについばまれて、燃えるゴミとして処分される。俺は休みになるたびに、あちこちまわって、そんな猫たちをさがした。捕獲用の檻も用意したが、いらないことが多かった。抵抗する力はすでになかった。されるがままに、そっと抱き上げて、キャリーケースに寝かせて自宅に連れ帰った。からまった毛を櫛でといて、暖かな毛布にくるんで、彼らの出立を静かに見送った」
作り話には聞こえなかった。不動産屋が不足分を負担したとおり、きっと悪い人間ではないのだろう。誤解が解けたからこそ軽微な処分ですんだのだろう。でもだからこそ、この三十年のあいだに、一度でいいから母と向き合ってほしかった。たとえ立派でなくてもいい。相手を責め立ててもいい。血のつながりを持たない新しい家族のかたちを、私を含めた三人で模索してみたかった。
「無理をさせて、すみません」と私はタオルに残されたかすかな血痕に気づいて言った。残された時間は、たしかに長くない。秘めてきた思いを伝えなければいけない。
「今日会いにきたのは、犯罪者である父親と、面と向かって決別するためです。今後一切、私と、私の家族に関わりを持たないよう釘を刺すためです。でも何もかも違った。あなたは父親でもなければ、思い描いた犯罪者でもなかった」
「そうか、結婚したのか」左手の指輪に気づいて、かすかに目を細める。「子供は?」
「来月には、父親になる予定です」
「性別は?」
「一応決まってますが、最後は本人の心に任せます」
一瞬遠くを見て、「ああ、そうだな」と小さくうなずく。
私はふと思いつき、父親でなくなった目の前の老人に言う。
「ニシワキ・ヒヨリ。それは私にとってこの三十年、憎しみや寂しさをあらわす、忌むべき名前でした。でもあなたと話して、その意味が少しずつ変わりつつあります。もしかしたら慈愛や温かさをあらわすものとして、生まれてくる赤ん坊に、引き継がせることができるんじゃないかと」
老人はあいまいにうなずくだけで、何も答えない。なじみの匂いをふと嗅ぎつけたように、窓の外に目を送る。寒空の下、深紅の椿が散りどきを忘れたように咲きほころんでいる。
きっと間に合う。名は手渡しされる。血は温かく、まだ赤い。
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駐在所の前で自転車から降りた宮坂武志巡査は、額から流れ出る汗を何度も拭いた。
少し遅れて駐在所に着いた寺本巡査部長は、暑さの怒りを自転車にぶつけた。
「サドル。びしょびしょだよ。普通じゃねえよ、この暑さ。悪かったなあ、折角来てもらったのに、これじゃ避暑にならんなあ」
「いえ、勤務ですから」
武志は、苦笑いで答えた。真夏の市街の派出所勤務よりは楽かと思ってこの駐在所に来たことを見透かされていた。
寺本が姪の結婚式へ奥さんと出席するため、1週間の臨時勤務で武志は下津駐在所に赴任したのだった。
初日の月曜に、寺本と一緒に村を巡回し、主だった人への挨拶を済ませてきた。
「川の氾濫が一番やばいけど、今週は天気が良いらしいから大丈夫だろう。あとは今日紹介した年寄りの家は必ず見回ってくれ」
「はい」
「おー、いい返事ですねえ」
元気な声に振り返ると、駐在所の入り口に少女が立っていた。目鼻立ちがはっきりした端正な顔立ちの少女だった。
少女は二人の前を堂々と歩いて宿直室の入り口にチョコンと座った。
「池田のばあちゃんが言ってた通り。かっこいいお兄さんだね」
寺本がフーとため息を吐く。
「もう聞き付けたのか。夏休みだからって遊んでばかりじゃいかんぞ」
「お兄ちゃんの名前は」
「お兄ちゃんでなくて宮坂巡査だ」
「宮坂なんていうの」
「あっ、武志です」
テンポのいい質問に武志は思わず答えてしまった。
「この子は、俺の兄の孫で亜希子って言うんだ」
「あのぽつんと一軒家の」
森の中に建っていた藁葺の大きな屋根の家である。寺本の兄の家らしいが、ここは寄らなくてもいいとの寺本の一言で、屋敷を見上げるだけで帰ってきたのだった。
「そう。兄の長男夫婦の娘。えーっと何年だっけ」
「小学2年生。何度言っても”寺じい”は覚えないんだから」
「”寺じい”?」
「ああ、兄貴のことは、じいじで、俺は”寺じい”だとよ。そもそも、俺はこの子の爺さんじゃないっていうの」
「そう、じいじは、偉くて、”寺じい”は不良」
「警察官に不良っていうな」
「そういえば、寺本巡査部長のお兄様は人間国宝と聞いたのですが」
「ああ、うちの家系は代々人間国宝だから、そのうち人間国宝になるだろ」
「あの、人間国宝って、何をされているのでしょうか」
「人形づくり。まあ、江戸時代は傀儡師とか言って、それからずっと能面や浄瑠璃の人形を作ってんだよ」
「はあ。す、すごいですね。ご挨拶に行かなくていいのでしょうか」
「いや、いいんだよ。いや、そうだ、宮坂が一人で行けばいい、うん。そうしなさい」
「”寺じい”は、じいじが怖いから行かないのよね」
「嫌なこと言うねえ。そうじゃなくて、どうもあの家は、なんて言うか薄気味悪くてな」
「薄気味悪いって」
「うーん。まあ、この話しはもういいや。亜希子、お兄さんは、仕事中なんだぞ。俺が送ってやるから帰えるぞ」
「嫌だ、もっとここにいる」
武志から離れようとしない亜希子を抱き上げて、寺本は駐在所を出て行った。
***
ゆったりとした1週間が過ぎ、駐在所勤務の最終日となった。
お盆が過ぎて、暑さが和らいできた穏やかな日曜日の昼下がり、この一週間を噛み締めるように駐在所から青空を眺めていると、急に暗雲が立ち込め、そして土砂降りの雨が降ってきた。
それでも30分も経つと、嘘のように晴れ、一斉にセミが鳴き始めた。
「武志兄ちゃん、いる?」
亜希子が駐在所に入ってきた。
そして、そのあとを追うように若い女性が入ってきた。
その女性はガタガタ震えていた。
武志は女性を椅子に座らせて、麦茶をデスクに置いたが、手もつけずに急に話し始めた。
「キャンプ場でマネキンに襲われたのです」
「は?」
「マネキンに襲われたんです」
武志は、まずは気を落ち着けるように言い、名前を聞いた。
女性は俯いたまま、何も答えない。
亜希子が「まり、桜田まり、だよね」と言うと、女性は静かにうなずいた。
「思いつく順番でいいので、何があったのか話してもらえませんか」
「私達、私と優斗と健二でキャンプをしようと思って…」
武志の横でニコニコしながら亜希子が聞いている
「亜希子ちゃんは家に帰ってね。ここからはお兄さんのお仕事だから」
「えー。家には”じいじ”しかいないからつまらない」
「けどね、お姉さんと二人でお話ししなくちゃいけないから」
「えー、ねえ、お姉さんも私がいた方が話しやすいよね」
亜希子が桜田の顔を覗き込むように言うと「ええ、一緒にいてもらった方が」と亜希子の手を握り締めるのだった。
「しょうがないな、じゃあ、向こうの部屋で待ってて」
亜希子は、渋々宿直室に入り、引き戸をゴロゴロと閉めた。
桜田がゆっくりと話し始めた。
「キャンプ場に行く途中で、マネキンが捨てられていたんです」
「マネキン?あの不法投棄場?家具とか電化製品が捨ててあった場所ですか」
「はい」
麓から駐在所へ来る途中に山の景色には似合わないゴミ捨て場があった。寺本の話だと誰かが電化製品を捨てるようになり、あちこちから人がやってきて不法投棄場となってしまったらしい。村でも監視カメラを設置したのだが、死角を見つけては電化製品や家具が捨てられ続けているのだと言う。
「マネキンですか。潰れた衣料店の人とかが捨てたのかなあ」
「優斗と健二が、面白がってマネキンを引き摺り下ろして、いたずらをしたんです」
最初は振り回していたが、そのうち、足や手や背中にタトーを書くと言って、落ちていた釘で四角や三角を上下に重ねた絵を何個も描いて、最後には夜に肝試しをしようと首だけ外してキャンプ場に三つ持ってきたのだと言う。
「ちょうどテントを張り終わった時です。急に土砂降りの雨が降ってきて、私達はテントの中で雨が止むのを待っていたんです」
「先ほどの雨、ゲリラ豪雨ですね」
「はい、テントの中で雨が止むのを待っていた時、外から何かが聞こえてきたんです。雨の音が激しいので、最初は何の音か分からなかったのですが、だんだんと音が、歌がはっきり聞こえてきたんです」
「歌?」
「はい、かごめかごめです」
「かごめかごめ?」
「かーごめ、かーごめ、かごのなかの鳥は、いついつでやーる。夜明けの晩に、鶴と亀がすべった、後ろの正面だあれ」
宿直室の中の亜希子の声であった。桜田は、怯えるように宿直室の戸を見ていた。
「亜希子ちゃん、仕事中だから静かにしてくれないかなあ」
「はあーい」と亜希子の返事が聞こえる。武志が「すみません」と謝ると桜田が話し始めた。
「テントの隙間からみんなで覗いてみたんです。最初は何かが近づいて来るとしか分からなかったんです。けど、歌と一緒にどんどん近づいてきました。優斗がマネキンだと叫びました。私も健二もすぐに分かりました。マネキンが3人、踊りながら近づいて来たんです。そして、私達は囲まれました。テントの周りを歌いながら回っているんです。その時、優斗が”逃げるぞ”と言って飛び出しました。その後を追って健二も私もテントから走り出ました。そしたら二人にマネキンが飛びかかったんです。二人の叫び声が聞こえました。けど、怖くて怖くて、振り返ることができなくて、河原の上まで登って道を走っていたら、この子…」
「亜希子ちゃん」
「はい、亜希子ちゃんに会ったら、駐在所が近くにあるよって、それで連れて来てもらったんです」
武志は何と答えていいか分からなかった。きっとこの人は、心の病にかかっているのに違いない、そう思った時、駐在所の電話が鳴った。武志が勤務している市街の警察署からであった。
キャンプ場で二人の男性が倒れていると住民からの通報があったので、現場に来ている。駐在所が留守になるのは悪いが、武志も来るようにと言うことであった。
武志は宿直室で休んでいるように桜田に言い、亜希子にも少しだけ一緒にいてくれと頼んで駐在所を飛び出した。
***
武志が下津河原についた頃には、立ち入り禁止の縄の周りは村の住民で溢れていた。人ごみをかき分けて河原に行くと、顔見知りの警官数人が現場検証を行なっていた。
「宮坂」
先輩警官の杉山が、「こっちへ来い」と呼んでいる。
既に二人の男性が救急車で運ばれたと言う。
「このあたりで倒れていた。身体中擦り傷だらけだったよ」
「杉山先輩、これは」
「ああ、この首なしマネキンだろ。何でこんなのが二つ転がっているのか、今話していたところだ」
「先輩、実は、駐在所に、この事件に関連すると思われる女性が救助を求めて来ています」
「そうか。じゃあ、その人を県警まで連れて行ってくれないか。県警で事情を聞こう」
武志はパトカーを借りて駐在所に戻った。
武志が駐在所に戻ると、そこには、早めに休暇から帰ってきた寺本がいた。
武志は、急いで宿直室に行ったが、そこにはテレビを見ている亜希子しかいなかった。
「亜希子ちゃん、桜田さんは」
「お姉ちゃんは、どっかに出て行っちゃった」
「どっかって」
武志は、慌てて女性の探索を依頼する電話を県警にかけるのだった。
「寺本巡査部長、自分は、一旦署に行きます。休暇のところ済みませんが、駐在所をお願いできますか」
「おお、いいから、いいから、ここは俺が見ておくから、早く行って来い」
***
数時間後に、武志が駐在所に戻って来ると、寺本が制服に着替えて日誌を読んでいた。
「おお、お帰り。亜希子は宿直室で昼寝してるよ。さっきまでお兄ちゃんが帰るまで待ってると起きてたんだが。で、どうだった」
「男性二人には大きな怪我はなかったのですが、数日は検査入院するそうです」
「それはよかった。で、何か事件についての進展はあったか?」
「はい、キャンプ場に設置されていたカメラで映像を確認しました」
「あー、ちょうど夏前に俺が設置したやつだ。もう役にたったのか、しかし、流石県警はやることが早いなあ。それで何か写ってたか」
「雨音と、かごめの歌が聞こえた途端に、何者かがカメラに布の様なものを被せたらしく、画像は真っ暗になり、それから全く見えなくなって、数分間、かごめの歌と男性の叫び声だけが聞こえて終わりでした」
「それじゃ、何も分からんな」
「はい。それより桜田さんがいないのです」
「ああ、お前の後から出て行ったという女性か。気が動転してたんだろ。県警が探してるから、すぐに見つかると思うがな」
「いや、そうじゃなくて、被害者の男性に、ざっと事情を聞いたらしいのですが、キャンプは二人で行ったと言うのです。それからマネキンについて聞いたら不法投棄場で拾ってきたというので、そちらのカメラも確認したところ、やはり、男性二人しか写っていなかったということで…」
「はあ?つまり、その女性はそもそもいなかった、ということか」
「何が何だか分からなくて。明日もう少し二人が落ち着いたら聴取を再開するとのことです。それから亜希子ちゃんの話も聞きたいと」
「それはいいが…」
宿直室からゴトンと音がした。
「亜希子、聞いてたよな」
宿直室の戸が開いて、亜希子が出てきた。
そして「エヘ」と小さく舌を出した。
「亜希子ちゃん、悪いけど、明日警察署で桜田さんについて話して欲しいんだ」
「いいよ」
宿直室から出てきた亜希子は、寺本と話している武志の背後にそっと周り込んだ。
「後ろの正面だあれだ」
ゾクっとして振り返ると亜希子が楽しそうに笑っている。
可愛いすぎる笑顔に、武志は心の奥が凍りつくような気がした。
「亜希子いい加減にしろ。もう帰るぞ。宮坂、俺はこいつを屋敷まで送ってから、また来るわ」
そう言うと寺本は、亜希子の手を引いて駐在所を出て行った。
外に出ると寺本は周りに誰もいないことを確かめて、小さな声で亜希子に聞いた。
「お前は、どこからその女性を連れて来たんだ」
「だから、道で会って」
寺本の鼻の穴が大きくなった。寺本が本気で怒る時の前触れであった。
肩をすぼめて亜希子が言う。
「裏にいるよ」
寺本が亜希子を引きずるように駐在所の裏に行くと、そこには首のないマネキンが一体転がっていた。
「あちゃー。亜希子、もういい加減にしてくれないか」
亜希子がムッとした顔で答えた。
「けど、川を汚す人は嫌いだし、人形を壊す人は、もっと嫌いだし」
寺本の鼻の穴が大きくなる。
「せっかくの力を無駄に使うんじゃない。じい様に言いつけるぞ」
「やだやだ、もう使わないから、じいじに言わないで」
そして「エヘ」と亜希子は舌を出して笑うのだった。
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冬は寒いもの、のはずだった。
今年はダメかもね。
管理人さんは薄く氷の張った水面を長い爪で叩いた。氷はサクリと割れて水に沈む。
この小さな丘、茜ヶ丘のスケートリンクは私が3年ほどアルバイトしている大事な収入源だ。小さな池が自然と凍ってできるそれはこの錆びついた地方の町の唯一の観光地と言っても良かった。
どういうわけか、もう11月も半ばなのに今年の冬はちっとも寒くならない。例年であれば凍てつくような寒さでこの池はカチカチに凍りついているはずなのに。地球温暖化って本当だったのか。
どうするんですか?
どうにかするわよ……。
22歳のギャルは長い爪をあわせてカチカチ音を出しながらため息をついた。どうにかって、どう考えても今年はスケートリンクを作れない。私のバイト代はどうなるんだ…喉元まで文句が迫り上がってきたが、いかにも困っている大人に食い下がるほどの胆力を私は持っていない。それに、どうにかするというのなら雇われは待つしかない。
考えとくから、とりあえず高校生は帰った帰った。
管理人さんはピースサインを元気なくフリフリ振って帰りを促した。
丘の上から自転車で駆け降りる。日はすっかり沈んでいる。吹き付ける風が冷たくて気持ちがいい。街灯の光が目の端を流れて消えた。
ガラリと引き戸を引く。
いらっしゃいませー!
奥から顔を出した母は、にっこり上がった口角をきゅっと反転させた。絵に描いたようなへの字口。
なんだ、雪か、おかえり。
ただいま、今日もお客さんいないんだ。
だめだめ。こんなに冷えないと誰もお蕎麦食べたくならないんだわ。あんたんとこの氷もだめなんでしょ。
私の実家は蕎麦屋を営んでいる。ルーツを辿れば1000年も続く蕎麦屋だと祖父は誇らしげに言っていたが、それは真っ赤な嘘だろう。平安時代に麺類の蕎麦は存在していない。ただかなり昔からお店をやっていたことは確からしく、母屋の棚から墨でびっしり書かれた勘定帳を見つけたこともある。
困ったわね…。
母の言葉をかき消すようにガラリと扉が開く音がした。母はパッと明るい表情をして立ち上がる。
かけ…いや、ザル一枚ね。
お客さんは珍しくあまり知らない顔だった。私は小さく会釈してその場を立ち去った。
大ニュースよ。
次の日、管理人さんは珍しくすっぴんだった。
ここ、なくなるかも…言いづらいんだけど。
私は事務所の窓の外を見た。日はまだ沈んでいないが薄暗かった。管理人さんの言葉の意味がわからない。
あのね、このスケートリンクなくなるかも。
息ができなかった。
どうしてですか?
ほら温暖化で、やっぱり自然のスケートリンクって危険だし、何かとリスクがあるでしょ。前から町長が考えてたらしくって。昨日雪ちゃんが帰った頃にやってきて、ここは眺めがいいから、池は埋めてマンション作るつもりだからって……。
私は管理人さんの目を見た。黒縁メガネの奥の目は真っ赤に腫れ上がっていた。
ごめんね。
あまりにショックを受けた顔をしていたのだろうと思う。管理人さんは私を励ますように少し微笑みながらそう言った。管理人さんにとってこの場所がどれだけ大事だったか、私は知っている。そして、この町に住む私たちは、町長の鶴の一声の強硬さもよく知っている。前例になく若くして当選した現町長は、今まで変化のへの字もなかったこの町に驚くほどの潮流と実績をもたらした。1年ほどで町議会の変革や予算の立て直しから、小学校の環境整備といった身近なものまで、この変わり映えのなかった町が追いつけないほどのスピードで改革を進めている。結果的に、その物腰の柔らかさや人好きのするルックスも相まって、町長の発言力は強大なものになっていた。
その町長が言うのなら、『決まったこと』なのだろう。お腹の底が抜けたような絶望感にしゃがみ込みそうになった。何かしなければならないと言う焦りと、でもどうすることもできないという悲しみがぶつかって、衝動となって私の中を暴れる。
無力でごめんね。
管理人さんの泣き顔を直視する勇気はなかった。
私は小さい頃から茜ヶ丘が好きだった。何か心が晴れないことがあると、1人になれる場所を探して丘を登った。中学3年生のある冬の日、確かお正月に来訪した親戚に何か言われたのだったろうか、馴染みのある道を駆け上がり茜ヶ丘に登った。
シャーーーッ
鮮烈。冷たい空気を切り裂くような鋭い音だった。ハーメルンの笛の音を聞いた子供のように無心に音を追い、そうして凍りついた池で舞う女性の姿にたどり着いた。音は、スケートシューズのブレードが氷を削るものだった。
それまでの私は、美しいという言葉自体を知ってはいれど、これこそが美しさだと心から震える気持ちは知らなかった。木々の間からこっそり水浴びをする天女を見るように、ただ見惚れていた。
それが、私と管理人さんの出会いだった。
その後、管理人さんは池をスケートリンクとして営めるように町に働きかけ、晴れて管理人となり、私も縁あって手伝うことになったのだ。
設立時は物珍しさから混み合う時もあったが、寒さの厳しい町ではスケートリンクに訪れる人もなかなかおらず、2人で過ごす時間も必然的に多くなった。
管理人さんの身の上話もそこで聞いたものだ。彼女は幼い頃よりフィギュアスケートを習っていて、どうやら将来有望な選手だったとか。何かの事情で両親と離れることになり、金銭的にも選手を目指すことができなくなった。引き取られた親戚と住み始めたこの町で小さな凍りついた池を見つけ、古くなったスケート靴を持ち込んで時折滑っていたとのことだった。見せてもらった写真では確かに幼い管理人さんが大きなトロフィーを持って微笑んでいた。
別に続けたかったわけじゃないのよ、何かと大変だったし。
管理人さんは事務所のストーブの前に座って、よくココアを飲んでいた。
でも、好きなのよね、滑るのが。
私も好きだった。ピンと伸びた指先や真っ直ぐな眼差しが。何かを諦めなければいけなかったのに、それでも受け入れて好きだと言える素直さが。
窮屈だった。学校も、家も、何もかも嫌だった。いじめがあったわけではない。家庭に問題があったわけではない。小さな町の学校の閉塞感、思春期特有の鬱憤、言葉にすればよくあるごく普通の悩みと言えるだろう。しかし人並みの苦悩は、人並みに私を苦めてくる。
管理人さんを見ていると、私は自分自身が何かから解き放たれるように感じた。管理人さんといられることが自分を特別な存在にすると思った。
もう一度話してみませんか、町長に。
難しいとわかっていても、ただ受け入れるなんてできなかった。
そうしたいけど……でも。
管理人さんも町長を知っている。
大丈夫です。こんなに美しいんだから。
彼女は目を丸くした。私も同じ顔をしていたかもしれない。美しいなんて、まさか口から出るなんて思っていなかった。彼女はどう思ったのだろう。何か言いたげに口を開いたが、何も言わずに頷いた。
次の日から目まぐるしく時間が過ぎていった。目標があるとこんなにも時間が早く過ぎていくものなのかと、これまでの暮らしぶりを見直そうと密かに思うほどだった。
スケート場が無くなるかもしれないと言う話は、町中にすぐ広まった。決して賑わっているとは言えないスケート場ではあったが、意外にも反対の声は多く、学校でも私に話しかけてくる生徒は多かった。
まずは嘆願書の作成から取り掛かる。町長に自然のスケートリンクの良さや貴重さを理解してもらう。SNSを使えば今より大幅な集客ができて、利益も生まれ、町おこしの一つになるだろう。利点を理解して貰えばきっと潰さなくても済む。次に署名活動だ。いかに多くの町の人がこのスケートリンクが大事だと思っているかを知ってもらうことができれば、町長の考えも変わるだろう。管理人さんは町内会、私は学校と分担し、目標を2週間でそれぞれ300ずつとした。
やると決めたものの、私は校内で明るい方ではない。正直足取りは重かった。しかし、私から言い出したことは、私がやるしかない。数少ない友人に頼み、ポスター作成やホームルームでのスピーチ等思いつくことは片っ端から行った。恥ずかしさもあったが、あのスケートリンクを管理人さんと並んで守る誇らしさが私を後押しした。驚くことに次第に活動に賛同する人も増え、結果的には通う高校だけでなく隣の高校や中学校にも活動は広がり、署名数は500を超えた。思えば、こんなに精力的に何かの目標に向かって懸命になったことは初めてのことだった。
そうしてあっという間の2週間で、目標通り嘆願書と署名はまとまることになった。
こんなに協力してもらえるなんてね。
役所に向かう道で、管理人さんは嬉しそうだった。暖冬のおかげで手持ち無沙汰であった母の協力もあり、町内会でも多くの署名を集められ、町でも多くの人が知る一大運動となっていた。この小さい町のことだ。勿論町長の耳にも入っているはずだ。
町長は、約束の時間きっかりに執務室に私たちを招き入れた。
茜ヶ丘スケートリンクの取り壊しについての嘆願書と署名ですね。確かに受け取りました。
しかし、申し訳なさそうな顔で町長は続けた。
ただ、正直なところ、もうだいぶ計画は進んでしまっているんです。明るいお返事は出来ないと思います。
達成感で昂っていた私たちの喉元に突きつけられたのは冷たい現実だった。
ありがとうね。
帰り道、管理人さんは言葉が出ず黙りこくる私に微笑みかけた。駄目で元々と思って始めた活動ではあったが、思った以上の反応や達成度があった。上手くいくのではないかと大きな期待が生まれていた分、落胆は大きい。
管理人さんの穏やかな声に、込み上げる涙を抑えることができなかった。嫌だ、あそこがなくなるのは嫌だ。だって、私にとって、あそこは、管理人さんと並べる唯一の場所で……。
この2週間本当に楽しかったよ。雪ちゃんのお母さんのおかげでたくさん知り合いができちゃった。それも全部やろうって言ってくれた雪ちゃんのおかげだから。
でもあそこは無くなってしまう…そう言おうとした時だった。
雪ちゃん!スケートリンクどうだった?
道の向こうから話しかけてきたのは活動に協力してくれた隣のクラスの女の子だった。協力してくれたからには事情を説明しなくてはならない。私は涙を拭いて管理人さんの方を向いた。
雪ちゃんも、何かが変わったみたいね。
管理人さんは微笑んで、手を振っていた。
そこで私は気がついたのだった。失ったものだけはないのだと。
2ヶ月後。スケートリンクが解体される日がやってきた。朝早く、管理人さんと2人で池に待ち合わせる。
薄暗い早朝、暖冬といえど流石に息も白くなるほどの寒さだったが、結局この冬は池は凍らなかった。あれからすぐに取り壊しが決定し、事務所もずっと閉めていたので、訪れるのは久しぶりだ。
朝来るのは初めてです。
そうだよね。でも冬の朝が1番綺麗なのよ。空気が澄んでるから。
管理人さんは足首まである白いロングコートに青いベルトを締めている。久しぶりに会った彼女は、今までのギャルのイメージから一転、雰囲気が変わっていた。
本当に、今日で無くなっちゃうのね。
寂しくなりますね…。
それでも、もう大丈夫なのだ。
2週間の活動のおかげで友人が増えた。友人が増えたことで新しい価値観を知った。新しく居場所と言えるものもできた。新しい好きなものも。
私は大切にしていたものを失った。それは確かだ。
だが、大切なものは変わり、私も変わり、きっとこれからも大切なものができては消え、その度に生まれる感情を乗り越えて、それがきっと大人になっていくということなのだろう。
茜ヶ丘の名前の由来は美しい茜色の朝焼けである。自転車で丘を駆け降りる。眩しい光が私を包む。なんて美しいんだろう。そうか、冬は空気が澄んでいるから。
後ろから、管理人さんが何か言った気がするが聞こえなかった。
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過去のトラウマが私の心を終始押さえつけていた。朝、学校の校門をくぐるたびに忌まわしい記憶が鮮明さを増し、心の中で大きく膨れ上がる。普段萎んでいるそれは、校内に入ったことをきっかけとして私の心を圧迫してきた。私は学校にいる間中、ずっとその存在を感じていた。いったい私はいつまで、この贖罪のような瞬間に耐えなければならないのだろう。
今の自分に不満があるわけではない。むしろ、能力の低い私としてはよく頑張っている方だろう。昔の私を知っている人が今の私を見れば、きっと両手放しで褒めてくれるはずだ。得体の知れない芋虫が美しい蝶に生まれ変わるように、私は努力して変わった。
私が小学生のころ、クラスでいじめが行われていた。対象は、私ではない。でも、私が親しくしている友人だった。彼女は口数の少なく大人しい子で、集団の中にいても自ら言葉を発さないような子だった。私も教室の中では彼女と同じような存在だったので、似た者同士の私たちは自然と一緒にいるようになった。頻繁に言葉を交わし積極的に親交を深め合う間柄ではなかったが、無言で同じ空間にいても気まずさを感じることのない、かけがえのない存在だった。
それがある日、彼女だけがイジメの標的にされてしまった。何がきっかけでそうなったのか、今はもう覚えていない。体育の授業で一人だけ体操服を忘れただの、授業中、先生にあてられて質問に答えられなかっただの、そういう些細でどうでもいいことだったと思う。とにかく、彼女は教室という狭い空間で活発なグループに目を付けられてしまった。
初め、彼女を獲物として認識したグループは、シューズを隠したり面倒な掃除当番を彼女に押し付けたり、後で冗談だったと言い逃れ出来るようなことをした。その線引きはとても絶妙で、法律に詳しい犯罪者が決して証拠を残さないような、手際の良さだった。
被害に遭った彼女は直接的な言葉こそ発しなかったものの、明らかに困惑しており、どのように対処すればいいのか分からずただ黙って耐えていた。そんな彼女の隣で私は、運が悪かったね、まあ、明日にはこの災難も収まっているよ、というような苦笑を浮かべ、彼女を助けてあげていた。
しばらくそういう時間が続くと、イジメのグループは彼女が抵抗しないということを学習した。そして、いよいよ本格的に牙を剝き始めた。
教科書を破ったり、彼女が個室トイレに入ったときバケツで水を掛けたり、明らかに痕跡の残る行動を起こすようになった。そして、言葉を発さず俯いてただ黙っている彼女を見て、楽しそうに笑っていた。どうして、他人が困っている様子を見て、面白そうにしているのだろう。当時の私にとって、そのグループは物語に出てくる未知の生物の様に感じられた。
当然、行為がそこまで露骨になると、クラスメートたちは彼女がイジメられているという事実に気づき始めた。クラスメートたちが気づき始めると、彼女の雰囲気が少し緩んだような気がした。これできっと、イジメがなくなるだろうと考えたのだ。自分で声を上げることは出来なかったが、誰かが先生に報告してくれると想像したに違いない、と。どうして私が彼女の思考を察することが出来たのか、それは、私も似たようなことを思っていたからだ。
しかし、意外なことに事態は何も変化しなかった。クラスメートたちはイジメが行われていることに気づいたというのに、そのことを誰も先生に報告しなかった。皆、見て見ぬ振りをして過ごそうとしたのだ。その事実に気がついた時、私は憤った。どうして、クラスメートたちは彼女を助けようとしないのだ、不義理じゃないか。
しかし、その思いは私を自己嫌悪に陥らせた。いったい私は何様なのだろう。クラスメートたちの行為は、今まで私がしていた行為そのものではないか。彼女がゆっくり静かに傷ついていく過程を、一番近くにいながら見ているだけで助けようとしなかった。私の罪は他の人達よりも重いのではないか。
やはり、私たちは似た者同士だったのだろう。私が自分の罪を自覚すると同時に、彼女も同様の考えに至ったようだ。それまで、自分の不運を嘆きつつも私のことを数少ない友人だと思っていてくれたようだったが、その認識を改めたようだった。
彼女にとって私は友人ではなく、他のクラスメートたちと同じ傍観者という立場に位置付けられた。いや、近く、長く傍観を決め込んでいた分、その罪を上乗せさせられたのだろう。彼女が私を見る目には、冷たく鋭いものが込められるようになった。
その圧は本当に僅かで他の人ならば気づかないようなものだったが、私に影響を与えるには十分だった。
私は彼女から距離を取るようになり、やがて、彼女は学校から姿を消した。
彼女が学校に来なくなって私が最初に考えたことは、イジメの標的が私になることへの懸念だった。ここでも彼女の身を案じるのではなく、自分のことばかり考える己の醜さに後悔を覚えるのだが、当時の私は保身以外に考える余裕がなかった。
しかし予想外にも、彼女をイジメていたグループが私に悪意を向けることはなかった。そのグループは他に楽しめるものでもあったのか、彼女が視界にはいらなくなると自然にイジメを行うことを辞めてしまった。なんてことはない。彼女はただ、暇つぶしの消耗品として扱われただけだったのだ。
彼女の存在と引き換えに教室からイジメはなくなり、クラスメートたちは何事もなかったかのように平穏を取り戻した。けれど、私だけ以前の自分に戻れずにいた。目の前でイジメが行われ、それを見て見ぬ振りした事実は、私の記憶の中に決して消えることのない楔となって深く突き刺さったままになっていた。
あれから幾年か過ぎ、私はそれなりに成長した。少なくとも、地を這う芋虫が空を舞う蝶に変化するくらいには。しかし、現実は残酷だ。いや、他人から見れば公平だと写るかもしれない。何故なら、またしても私のクラスでイジメが行われるようになったからだ。
今回のイジメのきっかけは明白だった。イジメられている生徒の外見や言動が他の生徒と少し違ったからだ。彼は他人と喋る時必要以上に緊張しているのか、顔を真っ赤にしてよく言葉を詰まらせていた。制服はいつもシワがついており、肩にはうっすらとフケが積もっていた。
高校生というものは小中学生と比べ異性を気にする確率が高くなるため、多少なりとも外見を気にし始める。そんな中で外見を気にせず少しも改善しようとしない彼の外見は、教室の中で明らかに浮いていた。
だから、クラスの活発なグループが彼をターゲットに選ぶのは、もはや自然の摂理のように思えた。
「ねえ、○○ちゃん」
ある日の休憩時間中、女生徒が私に親しそうに話しかけてきた。彼女は、クラスの活発なグループと交流が盛んな子だった。そういう子から話しかけられるくらいには、私もクラスの中に溶け込んでいた。
「クラスの連絡網が出来たんだよ。〇〇ちゃんも入れてあげるね」
そう言うと彼女はSNSのグループに私を招待してくれた。そのグループ名は『連絡網』だった。内容を覗いてみるとなんてことはない、学校非公式の私的なSNSグループだった。ただ、驚くべきはクラスのほとんどの子がそこに加わっていたことだ。
こういう集まりは仲の良い友人だけで固まり、普段、接点の少ない子はお呼びがかからないものだ。それをここまで高い参加率にするとはなかなか大変だっただろう。
もちろん、ただ声を掛けられ、なし崩し的に参加させられた生徒も何人かいるはずだ。実際、参加人数と既読数が必ずイコールとはなっていなかった。
私は招待されたことでそのチャットを閲覧し発言する権利を得た。放課後、頻繁に更新されるやり取りを眺めていると、心がざわつく文面を見つけた。
「明日××のシューズ、誰か隠せよ」
それは授業の要点を相談する内容だったり、体育の内容が長距離走だったことを嘆いたり、学校生活を綴ったメッセージのやりとりの中で、あまりにも不穏な内容だった。
どうやら、イジメの首謀者と思われる生徒が、面白半分で書き込んだようだ。
一瞬、私の精神状態は小学生の頃まで戻る。贖罪の時は、今しかない。私を今現在も苦しめる黒い影を払拭する機会がやって来たのだ。
無論、私がこの書き込みを諫めたところで、昔の彼女が救われるわけではない。けれど、非常に情けない話だが、今、私が行動を起こすことで、少なくとも今の私が救われることが出来る。
私は震える手で、特定の誰かを皆でからかうようなことをしてはいけない、という趣旨の文章を何度もミスタップしながら完成させていく。そして、いよいよ送信しようとしたその時、携帯電話から新着メッセージを知らせる通知が来た。
「いいねそれ」
「面白そう、やろうやろう」
新たに表示されたメッセージはイジメを後押しするメッセージだった。普段、皆と接している私ならば分かる。彼らは決して悪い子たちではない。日常生活を送れる社交性を持ち、勉強に精を出す、普通の子たちだ。それが今では、私と違う楽しみを見出した化物の集団となっていた。
やはり、皆と私は違う。
それを認識した瞬間、私は打ち込んだメッセージを消去した。
翌朝、携帯電話のアラームで目を覚ました。不快な音を発し続ける携帯電話を操作してアラームを止める。目は覚めたがどうにも体を起こす気になれない。ベッドの中で携帯電話を握り続ける。
昨日の『連絡網』で行われた内容を思い出し身震いをした。携帯電話の表面を見てみるとタッチパネルはツルリとした滑らかな表面をしており、とても禍々しいものを伝えられるツールとは思えない。私は意を決して体を起こすと、学校に向かうための準備を始めた。
怖いことは二つある。1つ目は、いつの時代でも教室の中にいるだけで攻撃の対象にされてしまう可能性があること。そして2つ目は、結局、私が小学生の時に感じが後悔は、何も活かされていないということだ。
朝、学校の校門をくぐると、今までとは比べ物にならない気持ち悪さが私の心を覆いつくした。それは今までと形が変わっている。表面から刺々しいものが無数に生えており、私の心を容赦なく突き刺した。
この棘を一本ずつ抜くことなどできるのだろうか。それにはどれだけ途方のない時間がかかるのだろうか。ああ、もう嫌だ。昔のトラウマも、今の教室も。私はポケットの中の携帯電話を強く握りしめた。
その時、私の頭にひらめきが起こった。それはなんの脈絡もなく、誰の益にもならない、まったく意味のない行為に思えた。けれど、出血し続ける私の心から痛みを取り除くことが出来るのではないかと期待出来るものだった。
私が教室に入ると始業を告げるチャイムが流れた。日直が席を立ち、「起立」と号令をかける。皆、訓練された兵隊の様に日直の言葉に従い、「礼」の言葉と共に私に首を垂れた。
私は密かに姿勢を動かして××くんの足元に注目する。彼はシューズを履いておらず、靴下のまま床の上に立っていた。
それを見た瞬間、私の精神は小学生のころに戻っていた。もう迷わない。私は、後悔の元を断つため携帯電話を取り出すと、119番通報をした。
「〇〇ちゃん?」
教壇の近くに女生徒が不安そうに私のことを見つめる。ああ、きっと彼女の視線は、私がイジメを行うグループを見つめていたときと同じ、理解の出来ない生物を眺める時の視線と同種のものなのだろうと考えた。
私は淀みなく学校の住所を告げると、通話を終了して携帯電話を教壇の上に置いた。ディスプレイは××くんのシューズを隠そうと提案した画面を表示しておいた。そして、そのまま無言で教室を出た。
教室から生徒たちのざわめきが聞こえてくる。当然だ。昨日まで新人ながら一生懸命勉強学業を教えてくれ、年が近く友達のように感じていた教師が、わけの分からない奇行を起こし教室から出ていったのだから。
廊下を歩いていると火災を知らせる発信機があったので、それもついでに押しておいた。途端、目覚ましのアラームとは比較にならない警報音が学校中から鳴り響き始めた。私の奇行で××君に対するイジメを有耶無耶に出来たらいいなと考えた。
いやいっそ、学校で本当に火事が起こって全て燃え尽きてしまえばいいのだ。
イジメを行うグループや、それを見て見ぬ振りした昔の私自身も。
そんな空想を愉快に想いながら、私は帰宅するため下駄箱へと向かった。
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あろうことか、お釈迦様が極楽さんぽを楽しんでいる。
極楽は本来、阿弥陀如来様のテリトリーである。そこをお釈迦様が逍遥しているのだ。
これがどのくらい場違いかと言うと、ドラゴンボールにドラえもんが登場するくらい、新海誠作品にトトロが登場するくらい、長嶋茂雄が阪神を監督するくらい違う。完全なカテゴリー違いだ。しかしそもそもこの物語の起源がそういう設定で、言わば宇宙のルールみたいなものなので、ここは潔く飲み込むしかない。
極楽はいいところのようだ。部外者なので本当のところはよく分からないが、お釈迦様は極楽の心地よさを全身で感じていた。みずみずしい朝靄を掻き分けるようにぶらぶら歩いていると、どこが光源なのか、全体的に露出オーバー気味の世界は白く輝き、起きながら白昼夢を見ているようだ。
真っ白な蓮の花が咲き誇る池の縁に差しかかったお釈迦様が、花の香りを嗅ごうと身を乗り出すと、透明度が高すぎる水は深く深く水晶のようにどこまでも透き通り、水底さえも突き抜けて遥か彼方、どのくらい遠くまで見通しただろう、地獄の底が、三途の河や針の山、賽の河原までくっきり見えた。
お釈迦様がさらに身を乗り出して覗き込むと、地獄の底にある血の池で、神田多恵(カンダタエ)という女が一人、罪人たちと揉みくちゃになりながら蠢いている。
この神田多恵という女、夜の街でポールダンサーを生業にしていた。程よく肉のついた豊かな肢体を全て曝け出すようなセクシーなポーズで、男という男を虜にし、貢がせるだけ貢がせては捨てるを繰り返し、歌舞伎町の女王として君臨していたが、独占欲に駆られた熱狂的な贔屓客のナイフで滅多刺しにされ殺された。店の黒服たちが客を取り押さえるも時すでに遅く、多恵の周りは真っ赤な血が蓮華座のように広がっていたという。彼女の死はよくある風俗嬢とその客との痴話喧嘩として片付けられ、あまつさえ政治家の汚職事件や芸能人によるレイプ事件等のビッグニュースにかき消され、新聞の社会面の片隅に小さく取り上げられて終わった。
SNS上では因果応報、自業自得と吐き捨てられた“人でなし”の彼女も、当の本人が自覚していたかどうかはさておき、ただ一つ、善いことを行っていた。ポールダンサーとして駆け出しの頃、公園の登り棒でスピンの練習をしていると背後から乾いた拍手が聞こえた。振り返ると薄汚れた老人がベンチに座っている。垢でテカテカの顔から推すにホームレスだろう。「冥土の土産にいいものを見させてもらった」老人は多恵に手招きすると、汲み取り便所のような臭いのするグラウンドコートのポケットから黒ずんだ硬貨を渡そうとするが、多恵はキッパリ断った。「じいさん、あたしのダンスはこんなもんじゃない。いつかお店に見に来てよ」「そうだな。きっと素晴らしいステージなんだろうな」力無く笑う老人の目は、遥か遠い宇宙の果てでも見ているかのように黒光りしていた。
この老人が公園に出入りする中高生のグループに「臭い」「汚ない」ことを理由に嬲り殺しにされたのは、それから一週間後のことだった。文字通り冥土の土産になってしまったが、薄れゆく意識の中で老人が最後に思い浮かべたのは、月明かりの中ポールと一つになりスピンする多恵の姿だった。
お釈迦様は地獄で苦しむ多恵を見ながら、この女の踊ったポールダンスというものがホームレス男性にとって人生最後の眼福となった善行の報いに、できれば地獄から救い出してやろうと考えた。幸い、そこへ阿弥陀如来様が通りかかったので、お釈迦様は声をかけ、阿弥陀様が背負う後光のうちとびきり長い一本の光芒を譲り受け、白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ真っ直ぐにそれを下ろした。
この血の海はどこから始まり、どこで終わるんだろう。
多恵は血の池で、罪人たちと浮いたり沈んだりしながら漠然と考えていた。地獄の責め苦に喘ぐ罪人たちの声が始終聞こえてくるが、慣れとは恐ろしいもので、今となっては冷蔵庫のコンプレッサー音程度にしか気にならない。暗闇におどろおどろしく浮かぶ針山も、今では自分の位置を確かめるためにはちょうどいい。
多恵自身、血の海に投げ込まれた当初は激しく咽び泣いていたものだが、そうすると鼻から口から血が流れ込み、それで咽せたり吐き戻したり、もう死んでいるのに何度も死にかけた。最近では溺死体のようになすがまま漂うことで、実害を最小限に食い止めるよう、“人でなし”なりに工夫していた。
いつものように血の池を漂い死んだ魚のような目で空を眺めていた多恵は、遠い遠い雲間から一筋の光が差してくるのに気づいた。あまりの眩しさに目を細めよくよく見てみると、金色に輝くポールが自分に向かってくるではないか。多恵は身体の底の方、恐らく芯にあたる部分が疼きだすのを感じた。多恵にとっては相棒のようなポール。生活の糧だったポール。このポールをどこまでも上っていけば、地獄から抜け出せるかもしれない。何より身体がポールを欲している。多恵はポールに飛び移り、両手でしっかり掴むと、巧みに四肢を使って上へ上へと上り始めた。死ぬ寸前まで現役のポールダンサーだったし、子どもの頃は校庭の登り棒を上り下りしていた多恵にとって、こういうことは造作もないことだった。
とはいえ地獄と極楽の間は何万里となく離れている。そう易々と“地獄の果て”へは出られない。しばらく上るうちに多恵はエネルギーを使い果たし、もう1ミリも上れなくなってしまった。腕を少し休ませたい。多恵はナイトクラブでショーを務めていた頃のようにポールを股の間に挟んで逆さまになり、遥か下の地獄を見おろした。さっきまで溺れていた血の池は、闇の中では赤黒い染みにしか見えず、幾度となく身を貫いた針山も、遥か下にある。多恵はポールに脚を絡ませたまま、「このまま上ってけば脱出できんじゃね?」と内心ほくそ笑んだのも束の間、血の池の方から何百何千、ポールを伝ってうようよと這い上がってくるゾンビの群れ、ならぬ罪人たちの群れが上へ上へと、一心不乱に上ってくるのが見えた。
連綿と続く罪人たちの重みで黄金色のポールが振り子のようにゆらゆら揺れる。振り落とされないようポールにしがみついた多恵は、今初めて恐怖を感じた。このままでは奴らに足を引っ張られるかもしれない。万が一奴らの重みでポールが折れたら、多恵もまた地獄まで逆戻りだ。ネガティブな思いが次々浮かんでくる。これはあたしの元に降りてきたポールだ。あたしのポールだ。罪人どもを蹴落としてやろうか。ポールをぐっと握り締めると、自分の醜く歪んだ顔が映っている。多恵は自嘲気味に笑った。
てか、あたしも罪人じゃないか。
金蔓を見つけるためなら何だってした。ほぼ裸のような衣装で踊るのは日常茶飯。ポールに絡みつき腰を振って見せたことも、舌なめずりする男たちの前でポールを舐めて見せたことだってある。そうやって虜にした男に絡みつき、その人生をしゃぶれるだけしゃぶり尽くしてはポイ捨てしてきた。生きるために。いつか自分の店を持つために。そう、あの男に刺されるまでは。本当にクソだ。クソオブクソだ。借金で首が回らなくなるほど貢いでくれなんて誰も頼んじゃいない。
でもそれももう終わりだ。死んじゃったんだから。
これからは、あたしはあたしのポールダンスを踊る。これまでとは違う、誰かのためじゃなく、あたしのためのダンスを!
多恵は改めてポールを握りしめ、大きくスピンした。
白く柔らかな肢体が美しい弧を描いた。
大丈夫、まだ舞える。
地獄の責め苦を何度もリプレイされて身も心もボロボロだったが、ポールダンスに必要な体幹は衰えちゃいない。
もっともっと、高みを目指そう。
罪人たちは握力が持たずにどんどん脱落してゆく中、多恵はポールと一つになり、ダイナミックな技をこれでもかと言わんばかりに繰り出した。ハンドスタンド、スピン、チェアスピン、レイバック……そしてクライム。
極楽からの光を浴びて、多恵は光り輝いていた。
お釈迦様も阿弥陀様も瞬きするのを忘れるくらい、多恵の自由奔放なダンスに釘付けになり、もっとよく見ようと前のめりになるあまり危うく地獄に落ちそうになった。
いわゆるダンシングハイというやつだろうか、もっと高く、もっと美しく、上へ上へと目指した多恵は、あっさり極楽へ到達した。
お釈迦様は、想定外の展開に唖然とした。
ただ一つの善行に報いるために与えたチャンスだったが、まさか本当に上って来ようとは。
人間とは出る杭は悉く打ち、レベルの低い者同士、足の引っ張り合いをするあさましい生き物だと思っていたのだが、これはどうだ。
一人の女の「踊りたい」という純粋な思いが、宇宙のルールを壊したのだ。
「アンコール! アンコール!」
隣りの阿弥陀様が後光を点滅させ声を枯らしている。カオスだ。お釈迦様は頭を抱えた。
しかし。
こういうのも悪くないのではないか。お釈迦様は悟りのような境地に達した。
そもそも私がここにいること自体、番狂わせなのだから。
多恵の全身から玉のような汗が噴き出し、一粒一粒が宝石のように煌めいている。その恍惚とした表情には独特の艶がある。
この女は己れのダンスの力で極楽を勝ち取ったのだ。女の好きにさせればいい。お釈迦様自身もまたルールから自由になった。
蓮池の白い花々は、多恵の熱情にもお釈迦様の動揺にも一切頓着なく花びらを閉じ始め、蕾へと戻ってゆく。正午が近いのだろう。お釈迦様は阿弥陀様に誘われるがまま、ランチへ向かった。
「我々も、彼女にしゃぶり尽くされてしまうのだろうか」
我に返った阿弥陀様が不安そうに呟く。お釈迦様は即答した。
「いいんです。しゃぶり尽くされても、狂っても。そもそも世界が狂っているんですから。まともでいようとすること自体が間違っているんです」
極楽に辿り着いた多恵は、地獄からずっと自分を抑圧していたものを突き抜けた感覚はあったが、ここが極楽かどうかはよく分からなかった。
さっき仏像みたいな二人が目を細めて多恵を見ていたが、あれは一体誰なんだろう。かかったかな、と多恵は思った。
いや。もう誰かに媚びる必要などない。
多恵は鼻腔を広げて、白い蓮の蕾から漂う何とも言えない残り香を掻き集めるように吸い込んだ。
ここが極楽でも地獄でも構わない。
さっきの仏像顔が誰でも構わない。
多恵は思った。
踊り続けよう。これからも。
誰のためでもない。自分のために。
ポールダンスが、好きだから。
蓮池の中に突き刺さったままの黄金色のポールを抱いて、多恵はくるくる回りながら自分のポールダンスを踊った。
その白く伸びやかな肢体は、蓮の花のようだった。
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私には、愛する夫を産み育ててくれた人を、愛する義務がある。たとえそれが、年老いた小言ばあさんであっても、無邪気な少女であっても、だ。
「ゴン」―鈍い音が聞こえた。洗濯かごを足元に置き、小走りで居間へ戻る。嫌な予感は的中した。また・・・義母だ。
「お義母さん、お手洗いの時は遠慮なく声かけていいんですよ」。転倒し、そのまま粗相してしまった義母を起こしながら優しく声をかける。頬をヒクヒクさせながら口をつぐむ彼女は、自分の体が思うように動かないことにひどくショックを受けているようだった。かける言葉が見つからない私は、彼女の腰にタオルを巻きつける。大きな怪我こそはしていないようだが、今月三度目の転倒で彼女の膝には立派な青あざができていた。「冷えないうちに着替えましょう」。肩を借りるのも嫌そうな義母を半分抱きかかえ、風呂場へと向かった。
この1年で義母の認知症が進行していることに、私はもちろん夫も気づいていた。義母は少女のように歌を口ずさんでうっとりしていたかと思えば、編み物をしながら急に涙ぐみ、それから玄関に佇んでぼーっとしていることが多くなった。
「お袋はさ、うちにいた方がいいと思うんだ」と夫は言う。かの国の女王が、晩年を夫との思い出が詰まった屋敷で過ごしたニュースを見たらしい。異国の戦地へと向かった主人の帰りをこの家で待ち続けたから、介護施設に移すのは可哀そうだというのが彼の言い分だった。優しい性格の彼が言いそうなことだった。
「でもねアキノリ、お義母さんの生活を見ているとそんな綺麗ごとは言ってられないのよ」。そうだ。問題は日々増えているあざにとどまらない。火の不始末、分別が全くできていないゴミ箱・・・目を離した隙の出来事が徐々に増えていき、サポートする側も一向に気が休まらない。そんな現状を夫はわかってくれない。いや、わかりようがないのだ。しかし、夫は自分の意見が通らないとひどく落ち込むところがあるので、私はそれ以上の言葉を飲み込んだ。
梅雨に入り、じめじめした空気が家にも充満していた日だった。湿気で滑りやすい箇所にすべりどめのシートを貼ろうとした時、義母が「ちょっと!」と声を張り上げた。勝手なことをしてしまったか・・・と義母の元へ駆け寄る。すると彼女は焦った様子の私を見て「別にあなたのやりたいことを否定しているわけではないのよ」と優しい口調で話し始めた。
「二階に連れて行って。あなたに見せたいものがあるの」
「構いませんが、二階には以前入らないでほしいと言いましたよね」
「ええ。でも私もようやく決心したわ」
一体、「今の彼女」は何歳なのだろうか・・・初めて見るその態度を不思議に思いながら、補助スロープに取り付けた電動椅子に彼女を乗せる。
二階の閉め切られたその部屋は、湿気も相まってかカビのような埃のような、まさに「古い」においが染みついていた。今の今まで、私はこの家には和室があることすら知らなかった。
「押し入れの右奥の桐の箱を取り出してちょうだい」。言われるがままに固い引き戸を開け、埃を被った平たい箱を取り出す。彼女の前に置くと、一度深く目を閉じたあと私に中身を確認するように言った。
少しがびがびするフタを開けると、鮮やかな朱色の着物が姿を見せた。ほんのり白い椿の花がちりばめられ、花弁の周りには淡い緑と金色の葉が美しく添えられている。思わず見とれてしまうデザインだ。
「お義母さん、これは・・・?」
「前にね、お店でこの着物を見つけた時、あなたに似合うと思ったの。衝動買いね。でも、これを着てもいいと、簡単にはあなたに言えなくてね」。
つまり、これは義母からの初めての贈り物・・・目頭が熱くなった。着物の綺麗さよりも、義母が私のことを思い出し、私のために買ってくれたという事実が何よりも嬉しかった。
義母に好かれていない自覚は結婚前からあった。女性との交際経験が無かった夫と、バツイチな上に子どもを作れない私。私たちの出会いは結婚相談所での紹介だった。自分に自信が無い、似た者同士の私たちは何となく運命を感じて意気投合した。しかし、子どもを望めない私との結婚に、義母は初めから難色を示していた。何度も話し合い、納得してくれた上で入籍したにも関わらず、傷つくような言葉を投げつけられたことも覚えている。でもそれを除けば尊敬できる逞しい女性だった。女手一つで彼を大学まで通わせた実績がある。当時女性が働きながら子育てをするなんて、想像を絶するほど孤独で大変だっただろう。だから、どれほど息子のことが大事なのかもわかっていた。
やっと私を受け入れてくれた―。義母が贈ってくれた着物を見て感情を抑えきれず、涙がぼろぼろこぼれた。そんな私を見て「あらあら、しょうがないわね」と頭を撫でてくれる義母。その手にぬくもりを感じて、初めてこの人のことを母親のように思えた。
その日は夫に早く着物の話をしたくて、久しぶりにそわそわしながら帰りを待っていた。今思えば、少々ご機嫌すぎたかもしれない。「お義母さん、今夜は好きなものを作りますので何でもおっしゃってください」。「それなら、久しぶりにパフェを食べたいわね」。「パフェですね・・・わかりました」。
何でも、と言った手前材料が無いとは言いづらかった。パフェなんて作ったこと無いが、果物と生クリームが無いと厳しいことはわかる。この時間から買出しか・・・腰は重いが、近所のスーパーへと向かった。夫が帰ってくるまで1~2時間。お義母さん一人でも大丈夫だろう。
スーパーからの帰り道、その決断をしたことを深く後悔した。お義母さんを一人置いての久しぶりの外出は、生きた心地がしなかったからだ。自宅に戻って居間のドアを開けた時、お義母さんがきちんと座っていて、今まで感じたことないほど安堵した。私の中で、彼女を失う恐怖がいつもより大きくなっていることがわかる。
「お帰り。パフェまだ?」無邪気な瞳が私に問いかける。まるで少女だ。「パフェは晩ご飯の後ですよ」。エプロンのひもを結びながら、優しい口調で彼女を諭した。
いつぶりだろうか。その日は3人で話しながら穏やかな食卓を囲んだ。だから思い切り、気が緩んだのかもしれない。食後のパフェの準備に集中していたら、彼女が席を立っていたことに気が付かなかった。
何かを打ち付けるような鈍い音がした。トイレから出た夫が廊下に母親が倒れているのを見つけた時。梅雨のじめじめした廊下は結露で濡れていた。
「あの日、なんでパフェをリクエストしたんだろうな」。遺品整理の休憩中、夫が呟いた。紙たばこの香りが、和室の古いにおいと混ざる。夫曰く、最後にパフェを食べたのは子供のころに母親に連れられて行ったデパートだという。
「ちょうどこの写真の時のかしら?」
手元にあったアルバムのページをめくる。あどけない表情の男の子がレストランでお行儀よく座っている写真が出てきた。「この時のこと、よく覚えているんだ。七夕の季節でさ・・・」。写真をよく見ようと頁から取り外した時、メモ書きのようなものが2枚、はらりと床に落ちた。拾い上げ、夫は目を丸くする。そして何かを決意したかのように、読んでくれとこちらに渡した。
―スカートをはいてもおこられませんように。 こばやしあきのり
―この子が自由に生きられますように。
気まずそうに彼が言う。
「俺さ・・・本当は女の子になりたかったんだ」。
驚きすぎて、言葉が出てこなかった。いつから?いまでも?それじゃあ私のことはどう思っているの?-聞きたいことは山ほど浮かぶのに。
「お袋は、気づいてたんだよ。でもそういうのが受け入れられる時代じゃなかった。だから、短冊も飾らずに持ち帰ったんだろうな」。
夫が淡々と話す一方、私は状況を理解するのに必死だった。結婚してから10年以上経つが、そんな素振りを見せたことが今まで一切なかったからだ。虫も殺せない優しい性格なのは知っていたが、それを女らしいとか、男らしくないとか考えたこともなかった。でも、お義母さんはとっくに知っていた・・・。
「もしかして」。私は押し入れを開け、下の段に仕舞っていた桐の箱を取り出した。「あの日・・・お義母さんが廊下で倒れた日。私に着物をくれた話をしたよね」。そう言って箱の中身を広げると、夫は膝から崩れ落ちた。驚きと喜びと、懐かしさが入り混じった顔で言う。「よく覚えているんだよ。俺、あのデパートで浴衣をねだったんだよ。ちょうどこういう柄の・・・」。
義母の言葉が蘇る。
―これを着てもいいと、簡単にはあなたに言えなくてね。
そうか、あの時あの人は私ではなく、息子に着物を贈っていたのか・・・。
母親の思いに気づいて涙が止まらない夫と、いろんな感情でぐちゃぐちゃになった私。どうしても、どうしても、その日私たちは遺品整理を続けられなかった。それから眠りにつくまでのことは、私もよく覚えていない。
墓参りに、義母が残した着物を着て行こうと提案したのは夫だった。後になって気が付いたことだが、着物はよく見ると虫食いがひどくて着られる状態ではなかった。それでも捨てるという選択肢は二人にはなかった。修繕できる専門店を探し出し、私たちの手元に戻ってきた頃には1周忌をとっくに過ぎていた。
「お義母さん、納得いかないかしら」。墓地の階段を上りながら、夫に尋ねた。
二人で話し合った結果、着物は結局私が着ることになった。夫は比較的小柄な体型で、着られないことはなかったはずだ。でも、「今の俺であることを選んだのは、俺だからいいんだよ」。出かける前にそう言って、こっそり教室に通っていたという彼は手際よく私に着物を着せてくれたのだった。
「大丈夫だよ。俺は、君に着てほしいと思ったんだ」。
慣れない着物で歩きにくい私の手を優しく引いてくれる彼。男性として生きていくことを決めた時、私では想像できないくらい色々な思いをしたに違いない。でも、もし彼が女性になることを選択していたら私とは出会わなかっただろう。
「これが今の俺だよ。そして一番幸せな形だよ。ありがとう」。墓石に話しかける夫。彼の言葉にうそは感じられない。私は、無言で手を合わせた。
「お義母さん、パフェが食べたかったんじゃなくて、食べさせたかったのかもね」。
ふと、私はあの日のことを思い出した。夫はたばこの煙を吐き出しながら一旦考え、「どうだろうね」と返した。
「でも、3人で食べられたらそれで良かったんじゃないかな」。
私は小さく頷いた。
夕暮れの赤い空を見上げて、駐車場でそんな会話をした。
雲が、いつもより早く動いているような気がした。
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雨宿りをしていたら、ヤマンバに遭遇した。
「もう、めっちゃ降るじゃん」
ヤマンバは鏡を見ながら目の周りの分厚いメイクを確認し、色素の抜けた前髪を整えた。浅黒い指先から鋭く伸びる赤い爪。あんなもので襲われたら、きっとひとたまりもない。
年の瀬の大学のキャンパス内は閑散としていて、辺りには人がいなかった。突然の雨が作り出した密室にヤマンバと二人きり。少し身の危険を感じてしまう。大丈夫、僕が手に持っているのは芋煮用の大きな鍋だ。いざとなれば、これで交戦・・・いや、戦いは好きじゃない、これを傘がわりに自分だけでもこの場から立ち去ればいい。
雨は止みそうにない。
「ねぇ、いつ止むの、この雨」
独り言のようには聞こえなかった。ヤマンバはどうやら僕に話しかけているようだ。チラッと声の方を見ると、青い色をした瞳と目が合った。
「めっちゃ退屈、なんか面白い話してよ」
「ぼ、僕ですか?」
「あんたしかいないじゃん」
初対面なのに、ものすごい勢いで距離を詰められた。
「僕は、面白い話なんてできない人間ですから」
「なにそれ、草」
今、“クサッ”って言われた? 臭い? 匂っているのか? もう、この芋煮用の鍋を頭から被ってこの場を立ち去ろう、そう思った時、“グオー”と大きな音がして、ヤマンバはお腹を押さえた。
「お腹すいたぁ」
その後も、ヤマンバのお腹はグウグウと鳴り続けた。
「私さぁ、バイトクビになっちゃって、生活カツカツなんだよね」
ヤマンバは一方的に僕に喋り続けている。とても立ち去れる状況にない。
「今日、大学に食料探しに来たんだよね」
「食料・・・?」
「食べられる虫とか草とか、ないかなぁって思って」
「虫、草?」
「私、こう見えて山の近くで育ったんだけど、余裕で虫とか草食べてたんだよね」
「・・・イナゴとかですか?」
「そう! 食べたことある?」
「・・・はい、実はあります」
「マジ? 同胞じゃん」
まずい、仲間だと思われてしまった。同時に、このヤマンバギャルが“同胞”という言葉を知っていることにも驚いた。
「結構イケるよね、イナゴ」
「僕は好きじゃないですけど」
「じゃあ何の虫が好きなの?メガネ君は」
勝手にあだ名をつけられた。
「虫はイナゴしか食べたことがないです。昆虫は率先して食べたいものではありませんから」
「私だって、できれば普通のご飯が食べたいよ」
雨は降り続け、ヤマンバのお腹も鳴り続けている。
上着のポケットに手を入れてみた。
「これ、よかったら・・・」
ポケットに入っていたキスチョコふたつをヤマンバに手渡した。
「くれるの?」
ヤマンバは目を輝かせながら僕を見た。そのストレートな反応に不覚にも少し可愛らしさを感じてしまった。
「ヤバ、神! 超うれしいんだけど」
ヤマンバの瞳が少し潤っているように見えた。ゆっくりと銀の紙を剥がし、小さなキスチョコを少しずつ味わうように口に運んでいる。本当にお腹を空かせていて、普段もろくに食べていないことが伺えた。
「めっちゃ、美味しい。ありがと」
雨が少し弱くなった。この程度なら走って研究室まで行けば、そんなにずぶ濡れになることもない。早く行かないと、芋を煮る時間がなくなってしまう。大量に里芋を剥いている研究室の仲間は、きっとキリキリしていることだろう。そう思った時、またヤマンバのお腹の音が大きく響いた。
「なぜ、絶滅危惧種を連れてきた?」
研究室仲間の佐藤が僕を問い詰める。
「私、人参の皮剥くの、めっちゃ得意だから、お手伝いさせて!」
ヤマンバは長く鋭い爪の手で包丁を持ち、器用ににんじんの皮を剥いていった。
「絶滅危惧種なのかな?」
「絶滅危惧種だろ。今時見たことあるか、あんなハードなヤマンバギャル」
「お腹が空いているみたいなんだけど、帰ってもらったほうがいいかな?」
「今更そんなこと出来るか?」
ヤマンバは楽しそうに人参の皮を剥き続けている。これからありつける芋煮のことで頭がいっぱいなのだろうか、顔に笑顔が張り付いている。話によると、学部は違うがヤマンバは同じ大学の学生らしい。そのことが我々の警戒心を少し弱めた。
「稲山、俺はお前のあの言葉が好きだ」
「は?」
「芋煮は人を選ばず」
「そんなこと言ったっけ?」
「芋煮会のたびに言ってるぞ。ギャルだろうが絶滅危惧種だろうがヤマンバだろうが、受け入れよう」
ヤマンバは里芋と格闘していた。
「なにこれぇ、めっちゃツルツルするんだけど!」
“芋煮は人を選ばず” はじいちゃんの口癖だ。山形の実家では日常的に芋煮会が開かれた。じいちゃんは老若男女、いろんな人を家に招いては芋煮を振る舞っていた。素性のよく分からない人も家にあげていたもんだから、ばあちゃんや母ちゃんはあまり良い顔をしていなかったが、芋煮を囲う賑やかな空気が僕は嫌いじゃなかった。
研究室のコンロの上でグツグツと芋煮が煮えていく。
「めっちゃ幸せ。こんなに温かいもの食べたの、久しぶりなんだけど」
ヤマンバはハフハフと芋煮を頬張り、遠慮なく何度もおかわりをした。酒も好みらしく、ビール、日本酒、焼酎と注がれるだけ飲んだ。気分がよくなったのか、まさに箸が転がるだけで大笑いし、スマホから好みの音楽を流しては、曲に合わせて踊り始めた。残念ながら、一緒に踊るタイプの人間は研究室内には居らず、皆、残り少ない芋煮を頬張りながらヤマンバの舞を傍観していた。毎回しっとりと催される研究室の芋煮会を変な空気にしてしまったのではないかと自責の念に駆られた僕は、いつもより酒が進んでいた。
目を覚ますと、見慣れた自分の部屋だった。いつもと違うのは隣にヤマンバが眠っていたことだ。状況がよく分からない。身体中の血が一気に引いて冷たくなっていく心地がした。ヤマンバも僕も、服は着ている。大丈夫だ、きっとなにもない。あるはずがない!
「女っ気がないと思ってたけど、お前はああいうのがタイプだったんだな」
ことを把握するために、佐藤に連絡をした。
「違う!断じて違う!」
ヤマンバを起こさないように気を使っていた小声が大きくなる。
上機嫌で酒を煽っていたヤマンバは研究室で寝てしまったようで、そのままにしておくこともできず、連れてきた僕が責任をとるということで全会一致したらしい。僕自身も相当酔っていたので、その辺の記憶が全くない。
「厄介な絶滅危惧種を見つけてしまったな」
そう言って佐藤は電話を切った。ヤマンバは大の字でいびきをかきながら眠っている。
「この状況、どうしたらいいんだよ」
僕はプラケースの中の家族に問いかけた。家族はなにも言わず、朽ち木にくっついている。
「頭痛い」
ヤマンバが目を覚ました。
「お水ある?」
僕は台所からコップ一杯の水を持ってきてヤマンバに差し出した。自分の家だと言うのに、なぜか緊張してヘコヘコしてしまう。
「ここってメガネ君の家? なんで私ここいるの?」
「・・・すごく酔っ払っていたようです。あの、安心してください、なにもないですから」
「・・・本当に?」
「ないです!ないです!絶対にないです!」
1ミクロンも疑われたくなかったので、全力で否定した。
「ふーん」
ヤマンバのお腹がまた大きく鳴った。昨日あんなに芋煮をおかわりしていたのにだ。
「お腹すいちゃった」
「あいにく、いま食べ物は何も無いです」
「このゼリー食べていい?」
ヤマンバは棚に置いてあるゼリーに手を伸ばした。
「ダメです!それは、この子のゼリーなので」
「カブトムシ?」
ヤマンバはプラケースの中のカブトムシを覗き込んだ。
「はい。それ、昆虫ゼリーなので、食べても美味しくないかと」
「美味しそう」
「え?」
ヤマンバの視線はゼリーではなくプラケースの中に向けられていた。
「この子、美味しそうだね」
「え、カブトムシ食べるんですか?」
「美味しいよ、カブトムシ。ボリボリそのまま食べてもいけるけど、天ぷらとかフライにするのもいいんだよねぇ」
ヤマンバは楽しい記憶を思い出したかのように恍惚としていた。
「この子は、ち、違いますから」
「食べるために飼ってるんじゃないの?」
「断じて、そんなんじゃありません」
「こんなに美味しそうなのに」
ヤマンバのお腹が鳴る。赤く長い爪がカブトムシに触れようとしていた。
「もっといいものがあります。何か美味しいものを買ってきますから、待っていてください」
僕は財布を手にコンビニへ向かった。空腹のヤマンバに大事な家族を食べられてたまるか。袋いっぱいの食料を手に、急いで家に戻る。買ってきたパンやおにぎりを広げるとヤマンバは目を輝かせて僕を見た。
「どうして、こんなに優しいの?」
「僕も、お腹がすいているので・・・」
カブトムシが食べられたら嫌だからです、という本音は胸にしまい、僕もチョココルネの袋を開けた。僕の優しさに意味なんてない。全て面倒ごとから逃げるために起きた、たまたまの優しさだ。
僕はヤマンバに付き纏われるようになった。家がバレてしまったので、用もないのにインターフォンを押される。
「お腹すいた、何か食べ物余ってる?」
「無いです」
「家、上がってもいい? カブトムシに餌あげたい」
「ダメです」
バイト先のスーパーにもやってきた。
「メガネ君。こっちにも半額のシール貼ってよ」
「この時間はまだ2割引ですから」
「えぇ、いいじゃん、いいじゃん!」
店長が“面倒だから、貼ってやれ!”と視線を送る。
ヤマンバは何処にいても目立つので、アパートの住人やバイト仲間からもあっという間に認知された。メガネで地味な僕との組み合わせはきっと歪に映っているだろう。周囲から僕に向けられる視線が少しずつストレスになっていった。
休みが明けてからの大学が一番しんどかった。キャンパス内のあちこちでヤマンバは僕を待ち伏せしている。僕が学食で友達とご飯を食べていると、ズカズカと輪に入ってくる。友達は僕に似たタイプばかりで、控えめで地味、そして揃ってメガネだ。ぺちゃくちゃと喋り続けるヤマンバに合わせられるタイプでは到底なく、彼女の存在は明らかに彼らの居心地を悪くさせていた。
ヤマンバとの関係について考える。恋人では、もちろんない。友達も違う気がしている。関係性を表す言葉がうまく見つからない、そんな関係だ。もうひとつ、彼女が僕に付き纏う理由についても考えてみる。これまで僕は彼女に食料をひょいひょいと与えてきてしまった。僕はきっと、たかられているのだろう。よからぬ想像も浮かぶ。もしかして彼女はまだ僕のカブトムシを諦めていないのかもしれない。大事な家族が衣まみれになって油でジュージューと揚げられている画が浮かび、僕は頭を大きく振った。
「もう、付き纏わないでもらえないでしょうか」
僕は怯えながらヤマンバに伝えた。分厚いメイクの奥で一瞬、悲しい顔をしたような気がした。
「付き纏ってるかな、私」
「明らかに、付き纏っているかと」
「迷惑?」
「迷惑と言われれば、迷惑です」
「じゃぁ、付き纏わないから、私と付き合って」
思いもよらない返答に心臓がドギマギした。ヤマンバが僕に付き纏っていたのは、僕に好意があったからだというのか。
「付き合うって、僕とあなたが?」
「それ以外にある?」
生まれて初めての告白に、どう対応していいのか分からない。一体どんな言葉をかけるのが正解なんだろう。
「属性が違いすぎます」
「ゾクセイ?」
「あなたと僕は違いすぎます」
「違っちゃいけないの?」
明らかに機嫌を損ねている。
「属性とかじゃなくて、私を見てほしい」
ヤマンバは僕の顔をじっと見つめている。その目があまりにまっすぐで、僕はすぐに瞳を逸らしてしまった。
「私はあなたが好きなの、あなたはどうなの?」
「僕には、あなたにしてあげられることは、何もありません」
それ以降、彼女に付き纏われることはなくなった。穏やかな日々を取り戻したはずなのに、今度はどこか寂しさが付き纏い、僕は自分が欲深い人間だということを知った。
彼女は今日もお腹を空かせているのだろうか。最後に彼女が言った言葉を時々思い出す。「もっと一緒にいたかった」僕はこの先、こんな言葉を誰かにかけてもらうことはあるのだろうか。
ある日、家に帰るとカブトムシが消えていた。空になったプラケースを見ながら、彼女のことが過った。キャンパス内を隈なく歩き回ってみても、彼女に遭遇することはなかった。
「絶滅したのかもしれないな」
誰かにそう言われた時に気がついた。僕はもう二度と彼女を見つけることはできない、ということに。
〈了〉
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線香のにおいがする。これがこの家のにおいだったと思い出す。もったりとして眠くなるようなにおい。お仏壇の部屋にいなくても、なんとなく漂ってくるにおい。
眼は閉じたまま、今度は耳をすましてみる。一つや二つ聞こえる音があってもいいはずなのに、何も聞えない。カッチカッチという時計の音すらしないのは、おばあちゃんのニンチショーが進んだ頃に時計の音がイヤだと大さわぎして、おじさんが家中の時計を処分したからなのだけれど、近くにある山がこの家から出る音をぜんぶ飲み込んでしまうからだとボクは思っていた。ボクんちのそばには山がないから、外を走る電車の音やどこかの子どもの泣く声やおとなりさんが扉をばたんと閉める音が聞こえてくる。
つむっていた眼を開けた。ここにはボクんちやボクんちの周りにはないものがたくさんある。立派なお仏壇もあるし、だれだかわからないおじいさんの写真も飾ってある。今は使っていないらしい、ぐるんぐるんのコードがついた黒電話もある。庭には柿の木もあるし、その向こうには山がある。
気配を感じて起き上がると襖からおじさんが顔を出していた。
「やる?」
手には油性ペンと丸めた雑誌が握られている。雑誌は飛行機の写真が表紙のいつものやつだった。
「みんな帰ってきてからやろっかな」
少し考えてボクはそう答え、おじさんはうなずいた。
おじさんが引き返そうとした瞬間、庭から玄関までの砂利をじゃくじゃく踏みしめる音と楽しそうな話し声が聞こえてきて、ボクとおじさんの目が合う。
「ただいまぁ」
先ほどまでの静寂が嘘みたいに、一瞬にして家の中がにぎやかになった。
飛行機の雑誌を定規にして線を引き、その横に「はる8才」と書き込むと、おじさんは息を吐いた。線を引くのを失敗しないように息を止めていたみたいだった。
「はい、はるちゃん」
六つの眼が黒い線に集まる。はるちゃんは引いたばかりの線の横に置いた人差し指を「はる7才」のところまで下げた。
「やったぁ! いっぱいのびたぁ」
十センチくらいだろうか。はるちゃんの背は確かにのびていた。畳の上で靴下をすべらせて、はるちゃんはくるくる回る。うれしいと回るのは一年前と一緒だった。
「はーい、はいはい、どいてくださーい」
はるちゃんの脇をするりと抜けて、ともくんが柱に背中をぴたっとくっつけた。はるちゃんは腕組みをしてきびしい目つきでともくんを見る。
「ちゃんとあご引いて」
「引いてる」
「もっと」
「引いてるよ」
「もう少し」
「引いてるってば」
双子の言い争いが終わるのを見計らってから、おじさんは雑誌をともくんの頭の上に置いた。もう一本、新しい線が柱に引かれる。線はほんのちょっとだけはるちゃんの線より下だった。
「わー、はるに負けたー」
ともくんはくやしそうに顔をしかめたけれど、去年よりもうんと背がのびたからか、どこか楽しげだった。ボクもともくんもそれを口にはしなかったけれど、のびた量ははるちゃんよりともくんの方が多かったかもしれない。
「とも、どきな。次、ゆうくん」
腕組みをしたままはるちゃんが言うと、ともくんは「へいへい」とおじいさんみたいな顔で柱からはなれた。
「ありがと」
小さい声でそう言ってからボクは柱に背中をくっつけた。柱のかたさが伝わってくる。
「はしらぁのきーずーは、おととーしーのー」
ともくんが突然、歌い出した。「おととし」のところで声が裏返ったのがおかしくて、みんなで笑った。おじさんもにこにこする。ともくんはみんなが笑って気をよくしたのか、何度も同じフレーズをくりかえした。
「つづきは?」
「ここしか知らなぁい」
はるちゃんとともくんのやりとりに、もう一度みんなで笑った。実際にボクも「五月五日の背くらべー」までしかこの歌のつづきを知らなくて、それがまたおかしくて、くすくす笑った。様子を見にきていたお母さんとおばさんも一緒に笑ったら、なんだか家ごとゆれているみたいだった。
この、背をはかって柱にそれぞれの名前と年を記録するイベントには特に名前がついていなかった。ボクは「はしらのきず」と言っていたし、はるちゃんは「背くらべ」、ともくんは「いつもの」と言っていて、おじさんにいたっては油性ペンと雑誌を持って実際に記録をするだけで言葉では何とも表現していなかった。
おじさんがボクの頭の上にそっと雑誌を当てる。頭の上できゅっと線が引かれる音がして、それを合図に柱から背中を離して見てみると、線の横に「ゆう9才」と書き込まれていた。ボクの身長はあまりのびていなくて、そのことはちょっと残念だったけれど、初詣でおみくじを引くのとおなじくらいボクにとっては当たり前の、引いたおみくじが末吉だった時と同じような感覚だった。まあそうかくらいかと思うだけ。その結果を引きずるようなことはしない。
「これで、今年もできたね」
点検するような目つきで柱を見たあとにそうつぶやき、おじさんは和室から出ていった。
おじさんはごはんの時と「はしらのきず」をやる時以外はほとんど自分の部屋から出てこない。
前に一度、おじさんが何をやっているのかが気になって、はるちゃんとともくんと部屋をのぞきにいったことがあった。静かだから寝ているのかと思ったら、ベッドに腰掛けて本を読んでいた。普段はケンチョ―の仕事があるんだろうけれど、好きなことができていいなと思った記憶がある。たぶん、今も部屋で一人やりたいことをやっているんだと思う。ボクももっとぼーっとしたり、寝転がってマンガを読んだりしたい。
「ゲームしていいって!」
「やる!」
おじさんの家に到着した時からしきりに持ってきたゲーム機で遊んでいいかを聞いていたともくんは、ついにおばさんの許可が下りたらしく、パタパタと部屋を出ていった。はるちゃんも慌てて後を追いかけていく。
ボクはその場に残り、畳の上に寝そべってぼうっとすることにした。「はしらのきず」をやる前と同じように目をつむって耳をすましてみたけれど、しゅぴーん、ぴこーというゲームの効果音や叫び声がひっきりなしに聞こえてきて落ち着かなかった。空いている部屋でごろごろしていたはずのお父さんもいつの間にかゲームに混ざったみたいで、聞こえてくる中に太い笑い声も加わった。はるちゃんとともくんのお父さんは、今年も来なかった。相変わらず仕事が忙しいの、とおばさんが困った顔で言っていた。
ともくんとはるちゃんがそれぞれ違うタイミングで誘いにきてくれたけれど、たぶんあんまりうまくできないから参加する気にはなれなくて、ボクはおじさんの家を探検することにした。
和室から出て一番奥の部屋に入る。昔、お母さんたちが子ども部屋にしていたところで、この部屋にもお母さんとおじさんとおばさんの「はしらのきず」がある。ボクとはるちゃんとともくんと同じ三人分だけれど、半年に一回くらいの頻度で記録していたせいか、ボクらのよりも柱はにぎやかだった。
「アスミ11才」
「モモヨ11才」
「ヒロシ9才」
下から見上げていくと、おばさんとお母さんは十一才、おじさんは九才まで記録があって、それぞれその年で「はしらのきず」をやめたのだとわかった。おじさんと同じ年でやめるとしたら今年で最後。お母さんたちと同じ年でやめるにしても、あと一回しかできない。そう思ったらなんだかさみしくなってしまった。別におじさんたちと同じ年でやめないといけないなんてルールはないのに、なんとなくそうしなくちゃいけないような気がした。
次にキッチンにつながる畳の部屋に行った。ボクは置いてある座布団をつなげてベッドをこしらえ、寝転がった。この部屋は、おばあちゃんがいた頃は大きすぎるくらいのテレビの音が聞こえてきて、ボクは見えない画面を想像してはうとうとし、いつの間に寝ているというのをここ最近はやっていた。今はお母さんとおばさんのしゃべり声がよく聞こえた。
「どうするんだろうねー」
「ちょっとヒトゴトみたく言わないで」
「ごめん、でもまあ? 元気だからありがたいけどね」
「でも、お兄ちゃんだっていつかは介護が必要になるかもよ?」
おばさんの「お兄ちゃん」という呼び方から、おじさんの話をしているのだと気づく。お母さんとおばさんは友だちみたいに仲がよくて、二人にしておいたら何時間でもしゃべるけれど、その中におじさんはいつも、いない。それは年が十才近くはなれていることや性別が違うことも関係していそうだけれど、二人とおじさんとの間には大きな距離があった。
「いつまで住みつづけるんだろう」
「一人じゃ広すぎるし、掃除も行き届かないのによく住むよ」
「もしものことがあった時のためにと思ってさ、いろいろ聞くのにうんともすんとも言わないの。もう、やんなっちゃう」
「お母さんの時もそうだけどさ、結局なぁんにも考えてないんだよね」
おじさんはたしか、五十代半ばだ。すぐにおばあちゃんみたいに倒れたり、死んでしまったりするとは思えなかったけれど、おばさんとしては「もしも」をきちんと考えてほしいみたいだ。顔は見えないけれど、声が怒っていて、ボクの胸はきゅうと締めつけられた。おばあちゃんが元気だった頃はお母さんもおばさんもこんなふうに怒ってはいなかった。そんなことを考えていたら、おばあちゃんを思い出して、今さらいなくなってしまったさみしさがこみ上げてきた。
もう一度、お母さんとおばさんの会話に聞き耳を立てると、話は塾のことに変わっていた。お母さんが先週末だかに説明会を聞きにいっていた塾の名前が聞こえる。学年はボクより一つ下だけれど、はるちゃんとともくんは春から塾に行くみたいだった。チュージュ、チュージュ、トーキコーシュー、カキコーシュー、モシ……。
来年のお正月はもう、この家には集まらない。そんな気がした。そのままお母さんたちの会話を聞いていれば来年のお正月をどう過ごすかがわかったのかもしれないけれど、聞くのが怖かった。ボクは急いで体を起こすと部屋から出ていった。
「これで、今年もできたね」
廊下を歩きながらさっきのおじさんの言葉が頭の中で響く。言葉では表現しないけれど、おじさんが毎年の「はしらのきず」を楽しみにしていることはボクでもわかり、そのことを考えれば考えるほど苦しくなった。
ボクは一番奥の部屋に行くと、てぎわよく油性ペンを缶から取り出した。「はしらのきず」が終わった時におじさんがしまうのを見ていたのだった。
お母さんたちの「はしらのきず」の前に立つ。
「アスミ11才」
「モモヨ11才」
「ヒロシ9才」
目線よりも少し上に書かれた記録はさっき見た通り、それぞれ「11才」、「11才」、「9才」で途絶えていた。
ボクはつばを飲み込んでから、左手の人差し指を横向きに柱に押しつけてそれぞれの記録の少し上に線を足していった。おじさんのは十一才までになるように二回分。名前と年は書き込んでいる字をまねて書いた。途中からゆっくり書くよりも思いきって書く方がもとの字と似たふうに書けることに気づいて、少し乱暴に書いていった。
新しくつけた「はしらのきず」を確認して息を吐くと、ボクの手はガマンしていたのをやめたみたいに震えだした。震えているのは怒られるかもしれないという恐怖もほんの少しだけあったけれど、それ以上にやったぞ、やってやったんだというすがすがしさが湧き上がってきたからだった。ボクの体の中には今まで感じたことのないほどの自信が渦巻いていて、何でもできるような気がしていた。
手の震えが落ち着くのを待ってから油性ペンを元に戻す。缶のフタを左手で開けた時に人差し指が黒くなっているのに気づいた。定規代わりにしていたから黒いインクがついてしまっていたのだった。ボクは大切な宝物を隠すようにセーターのそでを指先まで引っ張って爪だけが見えるようにした。
晩ごはんの時にでも「来年もまたみんなで『はしらのきず』をやろう」と言ってみようか。お母さんやおばさんがすぐに「いいよ」って言わなかったら、「おじさんだって十一才までやったんだから、それまではやらせてよ」って言い返そう。きっと大丈夫だ。
深呼吸をすると、線香の香りが鼻じゅうにひろがった。
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ピシャッと柔らかい肉を打つ音がして、菜穂は肩を震わせた。この音を菜穂は知っている。その時に手のひらに染みる痺れも。信号待ちをしている群衆の背後から「どうして余計なことするのっ」と尖った声が響く。ざわめきのなか、やけに鋭く。この声も菜穂は知っていた。
うつむく菜穂の右を、左を、支流のように足並みは通り過ぎてゆき、
「お母さん?」
とカナにコートの袖を引っ張られ、菜穂は慌ててカナの手を握ると信号が点滅をはじめた交差点を足早に渡った。カナの手はすこしかさついていて、あたたかい。ちいさな手の親指の付け根には三日月型の薄いあざと、もう目を凝らしても見えないほどの傷があるはずだった。
この冬で、カナは四つになる。誕生日プレゼントに、菜穂はカナが前から欲しがっていた水でくっつくパズルビーズのセットを用意して手作りのカードと一緒にクローゼットに仕舞ってあったし、いちごの乗ったチョコレートのケーキを作る約束をしていた。先月の保育園の学習発表会で、カナは赤ずきん役をやった。保護者面談では、担任の若い先生はカホが舞台で自信を持って台詞を言えたことをとても褒めてくれた。
「絵本も、お母さんにおうちでたくさん読んでもらってるんだって話していますよ。だからですかね、いろんな言葉をよく知っていて」
お母さん、本当によく頑張っていますね!
その言葉を聞き、菜穂は曖昧に微笑みながら若い先生のはがれかけたネイルへ目を落とした。
そうだ。私は頑張っている。菜穂は思う。早起きしてカナの好きなパンダの顔をあしらったおにぎりをお弁当箱へ詰めるし、暑い日も寒い日も公園に付き合い、夕食を作りながらひらがなの練習だってみている。夜はカナが眠りに落ちるまで子守唄を歌い、汗ばんだ額を撫でてそっと布団を胸までおろす。
でもそれは、カナのためじゃない。すべて自分の罪滅ぼしのためだ。カナの三日月型のあざに触れ、毎夜菜穂はため息をつくのだった。
年の瀬の電車は混んでおり、カナひとり座れる席も空いていなかった。仕方なく菜穂はカナにスカートの裾を握らせ、吊り革を握る。すると、優先席に腰掛けていた女性が席を立った。「どうぞ」という仕草でカナへ微笑みかける。カナは困ったように眉を下げて首を振り、菜穂を見上げた。小さな声で、「カナちゃん、立てるよ」と菜穂へ囁く。
すると女性は、
「お嬢ちゃん、遠慮しないで。あたしは次で降りるから」
とにこやかに空いた席へ促した。菜穂の母と同じくらいの歳の頃だろうか。なんて穏やかな口調なんだろう、と菜穂は思った。それから不意に母の尖った語尾と鋭い声、頬に走った痛みが蘇り、吊り革を握る手に力を込める。
カナはおずおずと優先席へ腰を下ろし、上目遣いに菜穂を見上げると「ごめんなさい」と言った。菜穂の胸が疼く。
「カナ、ありがとうございます、だよ」
そう言うと、カナは席を譲ってくれた女性へ「ありがと」と早口で言い直した。
カナはよく「ごめんなさい」と言う。忘れ物をした時も、トイレを失敗してしまった時も、熱を出して菜穂がおぶって病院へ連れて行く時も、おやつを出してやった時でさえ。もちろん菜穂は、そんなことでカナを怒ったことなど一度もない。それでもカナは消え入りそうな声で、「ごめんなさい」と言う。その言葉の裏に「だから、叩かないで」の一言が隠れているのではないかと思うと、菜穂は呼吸が苦しくなる。
カナのことを叩いたのは、一度きりだ。
産後すぐから菜穂は不調で、ひとりきりの育児にいつも疲れ果てていた。カナの成長を楽しむよりも、自分の未熟さやできないことばかり不安になり、カナを手放した方がこの子も自分も幸せになれるのではないかと、眠れない夜には泣き止まないカナを抱え、裸足でベランダに立った。なかなか寝付けずにぐずるカナを怒鳴りつける日が増え、ある日菜穂は手を上げた。
ピシャッと柔らかい肉を打つ音。
火がついたように泣き喚くカナをあわてて胸にきつく抱き、菜穂はちいさな頭を撫で続けた。自分の心臓の音がドクドクと耳に響き、取り返しのつかないことをした、とさぁっと血の気がひいた。カナの妊娠がわかった時、かたく誓ったはずだった。「私は、叩かない」と。
ようやく寝息を立てはじめたまだ髪の生え揃わないカナの頭を撫でながら、菜穂は心の中で繰り返した。カナはまだ言葉も喋れない赤ん坊だ。だから、記憶になんて残らない。大丈夫、大丈夫。しかし、カナの手のひらには時間がたっても消えることのない傷跡とあざが残った。そして、菜穂の心にも。
やがてカナがひとりで歩けるようになり、電車で出かけたある日の帰り道、西日を遮ろうと菜穂が窓のブラインドをおろそうと手を上げた瞬間、カナは首をすくめ舌足らずに言ったのだ。
「ごめんなさい」
その日から、手のひらの痺れは消えない。
駅の改札を出て狭い車道をしばらく歩くと見えてきた病院の外壁にはいく筋も煤けたひびが入り、入り口の花壇には枯れたススキがたなびいていた。歩き疲れたカナが脇道にしゃがみ込んでしまったので、菜穂はちいさなリュックと水筒を受け取って腕にかけ、カナをおんぶした。
「ここ、おばあちゃんのおうち?」
背中にカナの体温を感じながら、「そうだよ」と菜穂は答える。吐く息が白かった。
「おおかみ、いない?」
「いないよ」
「ぶどう酒やパン、持っていってあげなくてよかった?」
赤ずきんの話をよく覚えている。菜穂は口の端からふっと息を漏らし、答えた。
「いいの。おばあちゃんは、もう食べられないからね」
母が入院していると聞いた病棟へ足を踏み入れると、背中でカナがはっと緊張するのがわかった。
「なんだか、においがするね」
カナが言う。菜穂は頷いた。消毒液と尿、それからうっすらと死の匂いが長い廊下に充満している。規則正しい電子音と呼吸の気配はあるのに、言葉や声はなかった。
菜穂は、入り口のネームプレートを順番に確かめながら冷え冷えとした廊下を進んでいった。時折響くナースコール。微かな呻き声。菜穂の心臓は勢いよく打ちはじめたが、不思議と頭は冷静だった。
もう、母にあの頃のような力はない。生きる力さえ、もう残っていないのだから。母はとにかく、二言目には菜穂に手を上げる人だった。ティッシュケースやマグカップ、手元にあるものを投げつけることも多く、目元が切れた時はびっくりするほど血が出た。でも、傷は残らなかった。
ある日、相手よりも上背があることに気づいた菜穂が母を押し倒し、
「あたしはもう、叩かれなくてもわかる」
そう言って驚いたような傷ついたような顔をした母を残して家を出た日以来、会っていなかった。
ネームプレートに刻まれた名前に目を細め、カナを背中から下ろして菜穂が病室へ入ると、細く開いた窓から吹き込んだ風がクリーム色のカーテンを揺らし、蛍光灯の反射する床をさぁっと洗っていった。
一番奥のベッドを覗き込んだカナが怯えた顔であとずさり、
「これ、おばあちゃん?」
とおずおずと尋ねた。
「そう」
「生きてる?」
「うん」
菜穂は唇を噛んだ。ずるい。それが、とっさに込み上げた感情だった。ずるい。なぜ、こんなに穏やかな顔で目を閉じているのだろう。
間もなく終わってゆく菜穂の母は、ひろびろとしたやさしさ、やさしさに似たあきらめをぼんやりとまとっているようだった。
意地も恨みも消失を前に滔々と遠ざかり、あかるい死のひかりに洗われた顔を前に、菜穂はついかたくなだった心をほどいてしまいそうになる。無力な存在を蔑み虐げはしても、憎むことはないように。菜穂は顔を背けた。
「菜穂ちゃん?」
弱々しい声が菜穂の耳に届く。語尾は尖っていない。菜穂は肩を震わせ、でも体をこわばらせて顔は向けなかった。
「菜穂ちゃんじゃないよ、カナちゃんなの」
カナの声がした。菜穂は反射的にカナの薄い肩をつかみ、母から遠ざけようとした。醜くしわだらけになった母は、どう見ても弱者だった。でも、どんなに力を失ったからといって、相手にされた仕打ちを忘れることはできない。私は、嘲笑いに来たはずだ。菜穂は目を見開いた。あの母がどんなにみすぼらしく弱り、苦しみ、孤独であるかを。
「菜穂ちゃん」
母はカナへ向かってなおも呼びかける。
「あたしね、菜穂ちゃんにずっと謝りたいと思っていたの。ごめんなさい。許してもらえるなんて思ってないけれど、本当にごめんなさい」
菜穂の心に激しい怒りが込み上げた。今さら、何なの。菜穂は睨みつけたが、母は菜穂の方を見ていなかった。そして幼い子どものように繰り返した。
「ごめんなさい」
母の窪んだ目の端に涙が光っていた。
汚い。菜穂は目を伏せた。それに、ずるい。今さら、こんなに優しい穏やかな口調で許しを乞うなんて。鼻の奥がつんと痛くなり、菜穂は咳払いした。これでは、頑なに拒む自分が悪者みたいではないか。
「おばあちゃん、泣いてるよ?」
カナの困ったような声がした。
「ごめんねって言ってるよ。許してあげる?」
目を伏せたまま、菜穂は黙っていた。もうほとんど物もわかっていない老人に対して我ながら大人気ないとは思っても、どうしても、うんとは言えなかった。すると、カナが言った。
「じゃあね、カナちゃんが許してあげるね」
菜穂は、はっとして目を上げた。カナがベッドの柵から手をいっぱいに伸ばしていた。そして、母のからまった白髪をそっと撫でながら、
「もう、いいよ」
と言ったのだった。
風が吹いた。クリーム色のカーテンが膨らみ、カナの前髪を散らし、菜穂のスカートの裾を揺らし、清潔な風が病室を洗ってゆく。細く開いた窓から差し込む光に、ほこりがきらきらと踊っていた。
「もう、いいよ」
その言葉を耳にした途端、菜穂がこれまで何とかかんとか立っているためのよすがだった怒りと憎しみ、それから深い罪悪感が、ささくれを剥くようにはがれ落ちたような気がして、少しだけよろめいた。ベッドの柵に手をつき、菜穂はそろそろと息を吐いた。胸元をつかんだ手のひらから、あの痺れが消えていた。
もう、いいよ。
帰りの電車はがらがらだった。菜穂はカナと並んで腰掛け、ひろい窓の向こうを流れてゆく街並みをぼんやりと見つめていた。カナは膝の上に絵本をひろげ、覚えたばかりのひらがなを指さしたり、気に入りのページを声に出して呼んだりしていた。カナの親指の付け根のあざへ目を落とし、菜穂は思った。
カナに許されることは、きっとないだろう。でも、いつか時が流れて、何かに自分が救われる瞬間が、やって来るのだろうか。菜穂はささくれた手の甲をもう片方の手でそっと包んだ。
トンネルを抜けると窓から西日がさっと差し、カナの膝の上の絵本を濡らした。カナがまぶしそうに目を細める。
菜穂が腰を上げ、手を伸ばしてブラインドを下ろすと、
「ありがと」
少しだけ早口で、カナが言った。
(了)
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母が戻らない。母の消えた方向を見つめ、私はどうしようもない不安に駆られた。
悪い予感がしたんだ。二度と会えないようなそんな予感。だから行かないでほしいと頼んだ。それこそ泣いてすがった。それでも母はいつものように笑って、私には理解できない言葉かけ、私の手を離した。何故笑うの?もう会えないかもしれないのに。そう言って手を伸ばす私を少し困った表情で見つめ、もう一度ぎゅっと抱きしめるとまた何ごとか言葉をかけた。そしてやはりいつもと同じ言葉で締めくくり、母は去って行ってしまったのだ。
私と母は意思の疎通ができない。敗因はそれだ。
いやもしかして、母が戻らない原因ですらあるのだろうか。実は母とは生まれた星が、故郷が違っていて、だから私たちはお互いの言葉を理解することができない。それに疲弊して母は生まれ故郷に帰ってしまったのかもしれない。
ということはやはり置いて行かれたのだという結論に達すると、腹の底で言いようのない悲しみと孤独と絶望がぐらぐらと煮えたぎるような感覚に襲われた。喉の奥からそれらがマグマのようにせりあがってくる。こらえきれずにそれを吐き出そうと口を開けたが、ふと、別の考えが思い浮かぶ。
もしくは帰りたくても帰れないのかもしれない。
この世には予期せぬことがたくさん起こる。何かの下敷きになったり、狭いところに顔を突っ込んで挟まったり、思いのほか自分の頭が重くて起き上がれなかったり。突然お腹が空いたり、眠くなったり、歯がむずむずしたり。そう、アクシデントはそこかしこに転がっているのだ。母が一人で困っている様子を思い浮かべ、想像はどんどんと悪い方へと膨らみ、血の気が引いていく。大変だ、泣いている場合ではない。
こうして私は居心地の良い場所を離れ、母を探す決心をした。
母が消えた方角を目指し両手両足を懸命に動かした。少し行った先には変わった生き物達の住んでいる森がある。母が出かけている間私はよくそこへ出向いて遊ぶのだ。森の仲間たちと時間を忘れて遊び、気づくと寝入ってしまうことさえある。姿かたちこそ変わってはいるが、母とは違いそこに住む生き物たちとは意思の疎通を図ることができた。
私が来るとみんなこぞって駆け寄ってくる。お腹を押すと素敵な音が鳴る白いクマに、歯がむずがゆくなると「私を噛んで」と駆けてくるキリン。ふわふわの毛のハリネズミ。小さなウサギは揺れるとそれに合わせて鈴の音が鳴る。みんな小さくてしきりに私の手の中に収まりたがるし「遊ぼう」と誘うのだった。
今日は行くところがあるというと「そっちはあぶないよ」「ここにいようよ」とみんな心配そうに私をみる。抗いがたいつぶらな瞳とキュートなボディ。
それでも行かないといけない。どうしても母に会いたいと訴えるとみんなは強くは止めなかった。
ところがしばらく進んで森の出口に差し掛かると、大きなウサギと角のあるウマが立ちはだかった。
「ここから先は通せないよ。」
このウサギとウマは母にとても忠実だ。体も大きくてびくともしない。母に会いに行くのだと言っても、頑なに首を横に振る。
母が危ないかもしれない。一人で動けないのかも。そう言うと一瞬不安そうな顔をして顔を見合わせたが、すぐに思い直して「ダメダメ」と通してくれない。
困った。ここを通らないと母を追うことはできない。
一瞬でも二本足で立ち上がって威嚇してみようか。
考えを巡らせていると、急にウサギとウマの体が浮いた。大きな手が二匹を持ち上げたのだ。
“母だ”と思った。が違った。
その女性の笑った顔は母に似ていたが、雪のような白い肌にたくさんの皺が寄っていた。それになんだか色が薄くて日の光に当たると見えたり見えなかったりはっきりしないし、風に棚引くようにゆらゆらと揺れて頼りない。
けれど森の生き物や私に比べると母に近い姿形をしていた。その人はウサギとウマを抱えたまま私を通そうと横にずれた。お礼を言うとまたニコリと笑うので、どうやら私の言葉がわかるらしい。母ともこんな風に通じ合えたらどんなにいいだろう。
それにしても、森にはいつも来ているが初めて見る顔だ。
あなたは誰?聞いてはみたが微笑むばかりで何も言わない。口はきけないのだろうか。
その人はウサギとウマをそっと下すと、私の頬を両手で優しく包んだ。二匹は一目散に駆けて行ってしまった。
私はまっすぐその顔を見つめて、ふとある質問をしてみたいと思った。それは母が私に一番頻繁に、一番嬉しそうに使う言葉のことだった。もしその言葉を覚えたら、母は喜んでくれるかもしれないと思ったのだ。ただ何を意味するのか分からない。
その人はそれを聞くととても嬉しそうに笑って、初めて口を開いた。
「とてもいい言葉だよ」
「私はその言葉を聞くと、春を思うわね。暖かくて優しい季節だよ」
そう言うと、その人はフっと消えてしまった。暖かくて優しい声だった。
私は頬に感じた温もりが消えてしまったことを少し寂しく感じながら、先へ進んだ。
森の外は街だ。
森の地面は柔らかくて暖かい。地面だけではなく、生き物でもなんでも触るもの全てが柔らかくて暖かいし、私が手で持ち上げられるような軽くて小さいものが多い。
けれど森を出ると固くて冷たい地面が続く。そして私よりも大きいものや見慣れない不思議なもので溢れていた。
無限に柔らかい紙の出てくる箱、壁にはつい覗きたくなるブタの鼻のような穴が並んでいて、真っ暗かと思うと突然何人もの人が映りこむ板なんかもある。可愛い服の集まる広場もあって、舞い上がる服たちと踊るのがとても楽しい。
そこにあるものはどれもとても魅力的で私の好奇心を誘ったが、それ故だろうか、母は森の外に私を一人で行かせたくないようで、ウサギとウマを森の出口に置いたのだった。
そんな魅惑の街に足を踏み入れた私だが、今日は寄り道をする余裕はない。私は鉄の意志で前へ前へと進んだ。
街のはずれには高い壁がそびえたつ。私が一生懸命二本足で立ってもまだ足りないくらい高い壁で、押しても叩いてもびくともしないのだ。
困った。ガリガリと爪を立ててみても変化はない。
すると、背後に気配を感じた。
“母だ”と思った。が違った。
その男性は母のような目元をしていたが、頭に毛がない。そしてやはり<春の人>のように揺らめいて、微笑むばかりで口は開かない。
だがこの人も助けてくれるかもしれない。期待してここを通りたいと伝えるのだが、急に少し厳しい目をして首を横に振った。
どうしても通りたい。母に会いたい。熱心に伝えるのだが今回は一向に首を縦に振ってもらえない。こちらの意思は伝わっているようなのに、聞き届けてはもらえない。そういうこともあるのかと、私はがっかりした。
それでも粘り強く訴えた。母が動けないかもしれない。助けを必要としているかもしれないのだ。
そうして半ば根比べのような状態が続いたが、しばらくするとその人は壁の外を見て目を細めた。何かを見つけたようだ。そして諦めたようにため息をついて、私に向き直った。高い壁に手をかけると、私がぎりぎり通れるくらいの隙間を開けたのだ。
通してくれるようだ。
お礼を言うと私の頭を撫でた。みっしりしたその重みを感じると私はひどく安心し、またあの質問をしてみることにした。
「いい言葉だ」その人はもう厳しい目をしていなかった。優しく目じりを下げて続けた。
「その言葉を聞くと、始まりや初めてを思い浮かべるね。数字でいうなら一だ」
そう言うとその人は、消えてしまった。
私は頭に触れたしっかりとした掌の感触が消えてしまったことを少し寂しく感じながら、壁の隙間に体をねじ込んだ。
<始まりの人>がなかなか私を通さなかった理由はすぐにわかった。壁の外は崖だ。段々にはなっているが、その一つ一つがとても急だし足場は少ない。崖の先も見えずどのくらい続いているかもわからない。もしかすると母はここを転げ落ちたのかもしれない。そう思うとゾッとした。
私は少し迷ったが、行ってみるかとまず頭を崖に突き出した。
その瞬間、体がフワっと浮いた。誰かが私を抱き上げたのだ。
“母だ”と思った。が違った。
その男性は母のような鼻をしていたが、やはり頭に毛がなかった。<始まりの人>よりももっとない。
私はジタバタともがいてそのツルっとした頭をてしてしと叩いたが、すぐに壁の傍に引き戻された。
私はまたも訴えた。この先に行くのだと。
<始まりの人>と同じように透明でゆらゆらとしながらその人は腕を組んで私を見た。真剣な目をしているが、怒っているわけではなさそうだ。何かを考えているようなそんな素振りを見せて、しばらくすると両掌を上に向けた。
次の瞬間にはそこに森にいるはずのミントグリーンのウマが現れた。ウマは手からフワフワと浮くとその場で一回転して私の高さまで下りてくると、乗れと片目を瞑ってみせた。ウマの首に腕を回すとそっと背中に手が添えられた。大きな手だ。
その手に支えられると私は何でもできるような自信が沸いてきて、またあの質問をしてみることにした。
「いい言葉だな」その人は楽しそうにかかかっと笑って続けた。
「それは今までにないものを表す、進歩的な意味を持つ言葉なんだよ。」
添えられた大きな手にポンと送り出されるとウマはゆっくりと崖を降り始めた。私は振り返らなかったが、きっと<進歩の人>も消えてしまったとわかった。寂しかった。
崖の下が近づくと頑張って浮遊していたウマも力尽きたのか、若干勢いがついたが、ぼよんっとマシュマロのような体が跳ねてショックを和らげた。それにしても世紀の大ジャンプだ。崖の上を見上げて私は少し誇らしい気持ちだった。
あれは、母の脚だ。
前方に捉えた母の脚に私は夢中で駆け寄った。抱きしめてこれでもかと顔をこすりつける。一瞬足がびくりと震えるのと、「えっ?」と頭上から声がしたのはほぼ同時だった。
目を大きく開いた母が私を見下ろしている。
慌てて私を抱きあげて、私と崖を交互に見た。
「どうやって来たの?」
母の話す言葉はやはりわからない。でも、私は得意げに母を見た。
そしてあの言葉を口にしてみた。
「アータ」
母が口にするときと少し違う言葉に聞こえた。しかし、伝わったようだ。母の驚いた顔はとても嬉しそうにとろけ、何事か言って私を抱きしめた。母はやはりこの言葉がとても好きなようだ。
春のように暖かくて優しく、始まりであり、今だかつてない。
『アラタ(新)』
これが私の名前だと知るのは、まだもう少し先の話。
***
「ただいま」
玄関のドアが開く音と夫の声に女ははっと顔を上げた。そしてすぐさま炬燵の上で組まれた腕に違和感を覚え、視線を下に向ける。つい先ほどまで感じていた温もりが、重みがきれいさっぱり消え去っているのだ。いるはずの何かが視界に入らないことを一瞬受け入れられず、しばらくまじまじとその腕を見る。
…いない?
炬燵をめくる。…いない!
ガタンと手をついて立ち上がり、ズダダダダと帰ってきたばかりの夫の鼻先をかすめ、リビング階段を駆け上がる。アニメだったら夫はそのはずみで高速回転しただろう。
ベビーゲートを乗り越える。そこに敷かれた小さな布団の中に…いない!?
ひえぇと両手で顔をつぶし、掛け布団やら座布団やらをひっくり返す。いない。いない。
ひと騒ぎした後、何事かとやってきた夫が電気をつけると、またいできたベビーゲートのすぐそばで行き倒れるように眠る娘を見つけた。へなへなと力が抜ける。
「大丈夫?」
血走った目の女を見て夫は少し怯えるように声をかけた。その声にようやく正気を取り戻す。「なんか、寝てたみたい」ととりあえずわかっていることを口にして、「変な夢を見たよ」そういえば、と続ける。口に出してから、そうかあれは夢か、と女は合点が言ったようなでもまだ焦点が定まらないような頭で夫に報告した。
「新がベビーゲート突破して、大冒険スペクタクルの末一階のキッチンまでくる夢。死んだおじいちゃんおばあちゃんも出てきて、ベビーゲート開けさせたり階段下りる手伝いさせて、それで最後に自分の名前言って」
「めでたしめでたし?」混乱の末、最後を疑問形で締めくくったために夫は少しズッコケたが、そっかと言って肩をたたいた。
「毎日お疲れ様」
うん。と女は頭をかいて答えた。
ふと階下に目を落とすと、ミントグリーンのウマと目があった。
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