
1998年生 ● 葛飾シューレ ● 高校生 ● 不登校=小5〜 ● シューレ在籍=12歳(中1)〜15歳(中3) 不登校の始まり 小5の冬、班ごとの席で喋らずに食事をしていたら、隣の男子...
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1998年生 ● 葛飾シューレ ● 高校生 ● 不登校=小5〜 ● シューレ在籍=12歳(中1)〜15歳(中3)
不登校の始まり
小5の冬、班ごとの席で喋らずに食事をしていたら、隣の男子が「なんで喋らないの? 喋れよ」と言われて学校に行きたくなくなった。
私は喋ることが苦手だったし、喋らなくても生きて行ける、と思っていた。日々の学校生活や私立で通学に1時間もかかり疲れていたし、その頃の記憶はあまりないです。
行かなくなった時、母は私に土下座して「学校に行ってください」と言った。厳しいところのある母だから、土下座なんて、と驚いたけど気持ちは変わらず行きたくないと思っていた。双子の妹は、淡々と学校に行き続けました。
休み始めるとゲームとテレビ中心の生活になった。バイオリンと塾にも通っていたけど両方とも不登校になってすぐにやめたんです。
在籍していた学校の中学部の内部受験に失敗し、シューレを紹介された。積極的な選択ではなかったけど、合格通知が来たときは本当にうれしかったな。
でもシューレにも、行かない、と決めていた。その気持ちの底には母への反発心も大きかったです。
IPadでよく、ボーカロイドの曲を聴いていた。知らない世界を知れたし、何より心の拠り所になった。休んでいる間、学力の焦りが常に心の片隅にあって、少しずつ自習を進めていました。
登校のきっかけ
中1の時はイベントや企画中心に、外出の機会として活用しました。やることがはっきりしている方が登校しやすかったし、外に出る企画は校内と違って閉塞感がなくてよかったです。
少しずつ慣れ、時々登校しはじめ、2年の時に食と農プロジェクトに入り初めて料理を経験。食べることが好きだし、作って食べる経験がとてもよかった。友だちができたのも大きなものになりました。
友達ができた
シューレの帰り道、一人で歩く私の前を歩いているシューレの人たちは、賑やかで楽しそうで、次第にその輪に入りたいと思うようになっていきました。
食と農の人たちは親切だし、一緒に居ても迷惑な顔をしないから、声をかけても大丈夫かなと思って、プロジェクトのあと、身体の底から勇気を振り絞って「一緒に帰ってもいい?」と声をかけたら、「いいよ」と言ってくれて、その日から一緒に帰る日が増えていきました。たくさん喋れたわけではないけど、そこに居る事が嬉しかった。スタッフの幸ちゃん、絵里ちゃんに名前を呼んで声をかけた時のこともすごく覚えています。その時もすごく勇気を振り絞った。この3つのことは一生忘れないと思う。
進路について
今は通信制の毎日通学型の高校に通っています。私が入っている総合進学コースでは、たくさんの授業の中から選択できるという特徴があって、そこに惹かれました。今の高校とシューレって少し似ていて、イベントは生徒中心に作り上げていきます。
高校に入ってからはいろんな実行委員にチャレンジしています。まだ人と関わるのは得意じゃないけど、少しずつ慣れていきたいです。
シューレでよかったこと
人と会話できるようになったこと。友だちができたこと。この二つの変化は大きいです。
最近、家で独り言が多くなりました。高校に入ってから人と話す機会が増えたけど、シューレで話していたようなことは、先生に話さなくても大丈夫、と思っちゃう。
シューレではスタッフには話したかったし、聞いてもらいたかった。気軽に話せる関係がとてもよかったなと思う。
将来の夢
看護師か管理栄養士になりたいです。
看護師は就職に困らないかなって思うし、人体には興味がある。
栄養士は料理がやっぱり好きだな、って思うから。先日のシューレ中の旅立ち祭のお手伝いで久しぶりにシューレで料理をして、やっぱり料理に関わる仕事をしたいなって思いました。管理栄養士は国家資格だし、料理に携わる仕事が魅力だなと思っています。
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1990年生 ● 新宿シューレ ● NPOスタッフ ● 不登校=小2〜 ● シューレ在籍=11歳〜18歳 最初に学校に行かなくなったのは小2の3学期でした。小1の時から筆箱など自分の持ち...
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1990年生 ● 新宿シューレ ● NPOスタッフ ● 不登校=小2〜 ● シューレ在籍=11歳〜18歳
最初に学校に行かなくなったのは小2の3学期でした。小1の時から筆箱など自分の持ち物が隠される、傘を持って追いかけられる、体育のサッカーでゴールキーパーをやり、ミスをすると罵声が飛んでくるという状況が続き、学校に行く事が辛くなり死を考える事もありました。
担任に話してもいつもその場限りの対応で、誰に話しても無駄なんだと学校や大人へ不信感を抱くようになりました。ふとしたきっかけで親に学校での話をすると「行かなくていいんじゃない」と言ってくれ、小2の3学期でいったん行かなくなりました。小3でクラス替えがあり、状況が良くなる事を期待したものの、状況は良くならず辛くなったので1週間通って完全に行かなくなりました。
行かなくなってからは、家を中心に過ごしました。親は学校に行かない事について何か言う事はなかったものの、24時間一緒にいることで関係が煮詰まり、顔を合わせるだけで揉めるので、一日中布団から出られなかった事もありました。約3年間家にいる中で、親も私も落ち着いてきた事もあり、家で勉強や絵を描いたり、鉄道が好きだったこともあり、博物館に親と出かけるようにもなりました。だんだん家にいること、親とだけ過ごす事に飽きてきて外に出てみようかなと思い、小5の終わりにシューレへ見学に行き、小6で入会しました。
初めは、英語が学びたくて、英会話の講座がある日だけ週1回ペースで通いました。慣れてきて話せる人が増えて、通う日数も徐々に増えていき、ピアノ講座を始め、イベントの実行委員会、シューレ通信作り、CD制作など色々な活動に関わりました。
高校進学は考えていなかったのですが、親の勧めでアメリカのクロンララスクールに入学。自分の希望ではなく、勉強をやる気にならず、すぐに辞めました。その頃、ファーストフードのアルバイトを始め、不登校だったから採用されたという面もあるものの、最初の頃にシューレの事を話すと「不登校なのにガッツがある」と言われ、違和感を覚えました。シューレの外へ出ることで、もっとシューレの中で活動をしたい、もっと関わりたいと思うようになりました。
シューレで友達やスタッフとたくさん話す中で新しい事に興味が広がりました。イベントの装飾デザインをしたり、イラストを描いたりする中でデザインを学びたいと考えるようになり、高認を取得、美大進学を考えました。今まで美術やデザインに触れた事はなかったものの、デッサンが必須ではなく、写真や空間デザインを学ぶ事ができる場所として見つけたのが東京造形大学でした。無事合格し、シューレを卒業しました。
将来を考えながら見つけた場所
10年ぶりの学校は何も言わずとも女子と男子でグループが分かれていて、初めはとても怖かったです。通う中で話せるようになり、友達もできましたが、大人数のグループ行動には慣れませんでした。
大学では五美術大学交流展(五美展・・・今は五美交という通称になっている)の団体の立ち上げに関われて、他の大学にも友達ができたことが楽しかったです。みんなで話し合って、動いて一つのもの・展示を創ったことはシューレで活動した事が活きたんだと思います。
大学3年になり、この機会でいわゆる”普通”にならなければいけないと思い、就職活動を始めました。しかし就活は簡単にはいきません。就職支援の場所では、自己分析を求められ、上辺だけの自己PR文を書く事を推奨され、選考会場へ行けば、企業へ好印象を与えるために学生自身の策略合戦。とにかく”キラキラエピソード”を求められるけど、話を繕う事、選考の場独特の空気がとても辛くて、体調を崩し、1年半の間、何度も胃腸炎で倒れました。
大学4年の3月になり、就職が決まっていない焦りの中、グループ展を見に来てくれたシューレのOGから「ハイテンション」という場所で、障がいを持った人たちの活動に関わらないかという誘いを受け、藁にもすがる思いで行く事にしました。
それから3年近く経った今もハイテンションで働いています。そこでは利用者さんと「Photo部」を作り、撮影に出かけたり、子どもたちと音楽やアートをして過ごしています。昔は子どもが胃勝手だったのですが、今ではもっと子どもたちと関わりたいと思っています。かなり切羽詰まった状況で決まった仕事でしたが、自分が楽しいと思える仕事・場所に出会えて、本当に良かったと思っています。
カメラを通して見えてきたもの
自分が表現できるのは「学校に行かないこと」だと思い、大学の卒業制作ではシューレの子どもたちにインタビューし普段の活動を撮影した作品を作りました。その作品はありがたいことに「ZOKEI賞」という賞をいただきました。
今はハイテンションの音楽活動を撮影したり、シューレの事を撮影したり、時々作品を作るという活動をしています。
カメラのメカニックな事は苦手ですが、カメラを通して人と関わっていくことが好きで、それが私の表現方法なんだと思っています。
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1993年生 ● 葛飾シューレ ● 会社員 ● 不登校=小5〜 ● シューレ在籍=中3 学校には小5から行かなくなりました。何かがあってというよりはだんだん行かなくなった感じです。 学校...
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1993年生 ● 葛飾シューレ ● 会社員 ● 不登校=小5〜 ● シューレ在籍=中3
学校には小5から行かなくなりました。何かがあってというよりはだんだん行かなくなった感じです。
学校の中の相談室に数日行って、何日か休んで何日か行くペースでした。両親ともあまり行け行け、と言わなかったです。
中学になったら、自分でも行けるかなと思っていましたが、やはり行かなくなりました。休むと行きづらくなるので、最初の1時間目だけ出て、あとは保健室に行くということを続けていました。
そういうことを1ヶ月ほど過ごしたあと、フリースクールに行くようになりました。中1はフリースクール、中2では行政が開いている、ふれあいスクールに行っていました。ただそこだと全部の教科は勉強できず、物足りなかったので、もっと勉強したいな、と思っていました。
シューレ中のことは母親から聞き、中3で入りました。授業に出ない人がいたりしたけど、人のことはあまり気になりませんでした。文化祭ではお化け屋敷をやったり、修学旅行では広島に行って大和ミュージアムに行きました。機械に関心があるので、とても楽しかったです。
調べたいことを調べることは好き
進学先は実際にものに触る授業が多いので、高等専門学校にいきたいと考えました。5年間あり、大学の受験勉強に時間を取られずに自分のやりたい勉強ができるということが選んだ理由です。僕は勉強が好きと思われているかもしれないですけれど、調べたいことを調べることは好きですが、決まったこと、テストのための勉強というのは好きじゃないです。
高専では、8つのコースに分かれていて僕が選んだものは、医療福祉工学コースというところです。1日8時間の授業、部活ではラジコン飛行機部に入って週5日活動していて、レポートもたくさんあって大変でした。
あるものだけで工夫する仕事のおもしろさ
2014年から「日本海洋掘削」という会社で働いています。今はドバイ勤務です。海の上の施設の中で、そこにあるものだけで工夫していくところがいいなと思ったのが就職の理由です。
石油を掘る仕事なのですが、そのための機械だけじゃなく、日用品などもいちいち業者を呼んだりできないので、コーヒーメーカーなども自分たちで直します。そういうのもおもしろそうだな、と。5週間勤務、3週間休みというサイクルで、朝6時から18時までの勤務で、業務としては機械のメンテナンスをやっています。8割が海外の人で、日常会話は英語です。
不登校の経験を通して
今は仕事が楽しいですけれど、不登校を経験していなかったら、決まった道から外れるのはよくない、と思っていたと思います。きっと嫌になった時に、何も考えずもっとがんばらないといけない、転職や辞めることは考えてはいけないと思っていたでしょうね。
シューレとかフリースクールでいろんな生き方をしている人の話を聞いているので、いろんな選択肢を考えていけるかなと思います。
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1979年生 ● シューレ大学 ● 図書館員 ● 不登校=15歳(中3)〜 ● シューレ在籍=19歳〜24歳 不登校になったのは中学3年生の夏です。 勉強はできるほうで、科学研究部長、学...
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1979年生 ● シューレ大学 ● 図書館員 ● 不登校=15歳(中3)〜 ● シューレ在籍=19歳〜24歳
不登校になったのは中学3年生の夏です。
勉強はできるほうで、科学研究部長、学校新聞の編集委員長など、「長」のつく役割をいろいろ引き受けて、いっぱいいっぱいになって行けなくなったのが始まりでした。
不登校のまま中学を卒業し、1年ほど家で過ごした後、NHK学園の通信課程を2年ほど受講しました。その頃、東京シューレが若者の学び場をつくることを検討していると知り、それなら自分もぜひ、とシューレに手紙を書いたのがきっかけで、「シューレ大学設立準備委員会」に参加するようになりました。毎回、地元・長野から東京に通い、1999年4月、設立第1期の学生としてシューレ大学に入学、以来2004年3月まで、5年間在籍しました。
101本の映画を観る!斬る!
5年間でとくに強く印象に残っているのは、私の提案から始まった「20世紀と映画を斬る」と題する、101本の映画を観る一大イベントを開催したことです。
実はそれまで、映画はほとんど観たことがありませんでした。ただ、本好きで、本無しでは生きられない人間だったんですね。のちに友人と「自分たちビブリオン(造語「本人間」)だよね」と言い合ったほどで(笑)。その私が、『シネマ』という本を書いた、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの著作を通じ、映画のもつ記号とか、メカニズムに魅了されてしまったのです。
一つ興味をもつと、とことんまで味わい尽くしたいという性分で、とにかく映画を観まくりたくて提案したら、さっそく実行委員会が組織されて、当時わずか学生10名ほどだったミニ大学にしては豪華すぎる企画が実現したんです。
と言うと、いかにもスムーズなんですが、実は途中で、ゲスト講師とのやりとりで早まったことをしてしまい、そのやましさから、しばらく皆の前から姿を消すという「雲隠れ事件」を起こしたこともありました。詳細は割愛しますが……。
その反省も含めて(汗)、この企画を皆とやりきったことの意味は、私の中で大きかったと思います。
本や映画、音楽、美術などをひたすら浴びて、そこから文章にしたものを『シューレ大学紀要』に表したりもしました。書くこと……これは、私にとって、官能性のあるものといいましょうか。今も個人的に文章を書き続けています。
本好きが本領発揮!
シューレ大学を出てからもビブリオンの私は、住んでいる東京郊外の図書館に通い続けていました。そこで臨時職員を時々募集しているのを知っていて、次のチャンスをねらって応募し採用され、以来現在まで、頻度は年によって違いますが10年ほど図書館で働いています。
ある時、当時の図書館長が、私のシューレ大学という経歴を面白いと思ってくれたのか、地域資料を管理する部門に配置してくれました。
そこでは大賀一郎氏という、古代ハスの発芽成功で有名な植物学者の蔵書や、郷土史家らの資料の整理・目録づくりを行いました。古い目録が不完全だったので、一つ一つ資料を調べ直して、思わぬところから発行年を発見したり、解読しながら穴埋めしていく作業は、ドキドキもので大変面白かったです。
この時直接の上司として作業のノウハウを教えてくれた方が、地域の郷土博物館をつくるメンバーでもあった名物職員で、その方からいろんなことを教わりました。今思うと、幾つかの良い出会いに助けられてきたなあと思います。
創意工夫でねばって生きる
シューレ大学で出会った人たちは、私にとって大事な存在です。「精神的ご近所」みたいなものかな。
みんな、ねばって生きているんですね。生きていく上でぶつかる問題もありながら、そこから自分なりのテーマを見つけて、創意工夫でねばって生きている。その生き方が面白くて、楽しいんですよ。
私自身は表に出るタイプではないのですが、そんな人たちがこの社会にいることの意味を、なにか一緒に発信できないかなあと思うのです。
経済性優先の社会では淘汰されるような、小さな、でも面白いことをしている人たちを、ハブ的な立場で発信する手伝いとか、プロデュースができたらいいなあと、ひそかに思っています。
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1978年生 ● 東十条・王子シューレ ● 布絵作家 ● 不登校=小5 ● シューレ在籍=小5〜中2・(旧姓 服部) ——現在、布絵作家として御活躍ですね。どんなアートですか? 布の良さ...
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1978年生 ● 東十条・王子シューレ ● 布絵作家 ● 不登校=小5 ● シューレ在籍=小5〜中2・(旧姓 服部)
——現在、布絵作家として御活躍ですね。どんなアートですか?
布の良さを生かして、切りぬき縫いつけて、壁に掛ける絵をつくり上げるんです。布といっても、これまでにどこかで着た人がいたに違いないきものや帯が主な材料です。
日本のきもの地は、蚕も、織りも世界的にもすぐれていて、しかも北から南へ長い国なのでとてもいろいろな布がきものになっています。それが消えていくのがもったいなくて、美しい色合いも残したいし、布絵をやっていると我を忘れて夢中になっちゃいます。
——やり出したきっかけは?
2人子どもがいるんですが、子育てが一段落した9年くらい前、家に古布が一杯あって、始めはジーパンへの縫い付けから始まったんです。主人は古布とか陶芸とかコレクションしていて、本来の仕事は音楽家です。「ホピの予言」の音楽も担当した伊藤詳(AKIRA)ですが、何でもできる人で、私、絵は、主人に習ったんですよ。この古民家も江戸時代の建物で、主人が見つけてすでに住んでいました。布絵は誰もやっていなくて、新しいアートの世界を拓いていけると思っています。ライフワークとしてやっていくものが見つかり、幸せです。
——不登校したのは、いつ頃?
小1で1回行かない時があって、でも3、4年は楽しかった。小5で不登校しますが、音楽の先生が怒る先生で、やたら厳しくて、きちんとさせたい先生で。母親は、市会議員をやっていて、原発反対やリサイクルショップや忙しい人だったけど、千葉の親の会には行っていたようです。それで、シューレのことを教えてくれました。不登校後まもなく東十条のシューレに行きました。
——シューレの印象は?
狭くて、ゴチャゴチャしていて、皆好きなことをやってましたね。私はマンガばかり読んでいて、そうそう、いろいろタイムでコロッケを作りましたね。東十条は楽しかったです。
よく覚えているのは、北海道合宿。お風呂に行くのに奥地さんのワゴンにぎゅう詰めで乗って、北海道のまっすぐな道を飛ばして走ってもらって、帰りは止めて!と言って、ライトも消して満天の星を見た。子どもだけで鉄道乗り継いでシュマリナイ湖という秘境の湖に行きましたよね。山口の合宿もよかった。自然の中に行くのが好きでした。
——シューレはいつまで居ましたか?
王子に引越したでしょ。それからつまらなくなったので、中2の3月で辞めました。東十条の古いアパートの2階の窓から下をボーッと見てると、自転車に乗った氷屋さんが通り、自転車を止めてのこぎりで氷を切って配達している、そんなのが好きでしたから、王子のきれいなビルは何もかも変わってつまらなかった。
中3の夏から高1の年齢にかけては、フラメンコダンスに週2通ってましたね。主人と出会って、ギターや歌も習ったり。好きなことばかりやってました。
——結婚は?
22歳の頃です。すぐ育児に追われるようになって、2人目も生まれて。子どもが小学校に入学してからやっと自由が感じられ、布絵に取り組めるようになりました。でも小さな学校で、全校15人、とても丁寧に子どもと関わってくださり、私も長期にPTAや子ども会の役員などやって協力してきました。子どもには、自分がしてこなかったので勉強をしてほしいです。高校卒業後は留学させたいです。
——あなたにとって大切なことは?
子ども、家族が大切。次に夢中になれること。私は布絵をずっとやり続け、織り物の良さ、日本文化の良さを伝えていきたい。オリンピックで来日する人々に、個展をやって見てもらいたいと思ってます。2015年の10月に千葉三越で個展を開く予定です。(2015年7月現在)
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1997年生 ● 葛飾シューレ ● 高校生 ● 不登校=9歳〜 ● シューレ在籍=13歳(中1)〜15歳(中3) 泣きながら話した日をきっかけに不登校 最初に学校に行かなく...
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1997年生 ● 葛飾シューレ ● 高校生 ● 不登校=9歳〜 ● シューレ在籍=13歳(中1)〜15歳(中3)
泣きながら話した日をきっかけに不登校
最初に学校に行かなくなったのは、小学校3年生でした。クラスの中の暴力的な子に殴られたりけられたりとひどくいじめられました。その子も児童館でガラスを割ったりしていたということを聞いたことがあるので、その子はその子で悶々としたものを抱えていたのだと思います。
先生も知ってはいたけれど、だからといって何かが変わるわけではありませんでした。親が言うには、学校に入って2日目から「学校に行きたくない」と朝泣いていたらしいです。
学校に行く準備をしているときに、どうしてもだめ、という気持ちになって、しゃべられないくらいに泣きながら、その状況を母親に言い続けました。次の日母親が、おばあちゃんの墓参りに行くことになっていて、「一緒に行く?」と聞いてくれました。
電車とバスを乗り継いで、母親と二人でお墓参りして、気持ちがすっきりしました。泣きながら話した時点で、自分もすっきりし、親も行かせなくていいんだという気持ちになっていたのだと思います。その日から不登校になりました。
そのあと、市内にあるねむの木学級という通級に週1回通い始めました。そこは結構楽しかったです。とはいえ、学校への未練というのが、小学校卒業するまでずっとあったように思います。学校には行っては休んで、ということを何度か繰り返していました。
シューレ中のことは通級の先生から聞き、中1からシューレ中に入りました。
大人数で遊ぶ、という経験が今までなかったので、シューレに入ってからは、広いところでみんなで野球をしたり、思い切り遊んだことをよく覚えています。
中3の時、修学旅行の委員になりましたが、そこでがんばりすぎてしまいました。いつも、すぐにがんばりすぎて、つぶれることがあるのです。夏休み、すごく落ち込んで、眠れなくなって朝5時に寝ることもありました。携帯をいじったり、朝まで音楽聴いたり、そのあたりで「なんでもいいや」と楽になれました。すごくつらかったけれど、あれが一番必要な時間だったなあと思います。自分に楽な形でやっていければ、と考えられるようになりました。
高校にある時期行かなかったことも全く後悔していない
高校は野球をやりたくて、チャレンジスクールに入りました。10月頃には野球部を休むようになりました。単位も気になるし、行こうと思ったら玄関先でおなかが痛くなりました。「これは」と思い、無理して行かずに家に引き返しました。その辺の判断ができるようになったのはよかったと思います。
高校にある時期行かなかったことも、全く後悔はしていません。自分にとって必要だったと思います。今はコンビニでバイト、軽音楽部に入っているのでバンドもやっていて、忙しいし疲れるけど楽しいです。
いじめられていた時の光景は今でも目に焼き付いて離れないものもあります。でもそれを思い出したからといって、何もできなくなる感じにはなりません。そんなこともあったなあ、ととらえています。
不登校になって、一人でいろんなところに行ったり、シューレに来てからは、たくさん野球をやって、カラオケに行って、それがすごく楽しくて、前から好きだった音楽をやろうかな、と思えました。ふつうに小学校をそのまま行き続けて、何も考えずに中学高校とすすんでいたより、楽しいんじゃないかなと思っています。
今の家族関係、友達関係、自分の周りにあるもの全部含めて、「不登校ありがとう」という感じです。
楽になったのは、親の存在があると思うし、今でもどこにいても家に帰りたいなあ、と思います。反抗期であろう時期を、シューレに来て楽しく過ごせました。親には、不登校と同じくらいか、それ以上に感謝しています。
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1993年生 ● 王子シューレ ● 「権利宣言」メンバー● 不登校=小6〜 ● シューレ在籍=中2〜20歳 不登校経験からシューレとの出会いまで 幼稚園の頃からちょこちょこ休むことがあり...
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1993年生 ● 王子シューレ ● 「権利宣言」メンバー● 不登校=小6〜 ● シューレ在籍=中2〜20歳
不登校経験からシューレとの出会いまで
幼稚園の頃からちょこちょこ休むことがありました。みんなと一斉に同じことをこなすのが苦手で、「自分はダメな奴」と思わされることが多かったんです。その当時は漠然とした気持ちで、ストレスや疲れがある程度溜まっていくと、「学校に行きたくないな」と思いました。人間関係も苦手で、自分でもよくわからないうちに人から嫌われていたり、自分が人を傷つけてしまっていることがありました。
小学6年頃から継続的に欠席するように。中学には1学期は行ったけれど、秋からまた行けなくなりました。小6の時は、身体的には問題なかったけれど、中1では、朝起きれず、眠く体が重い、外出する気力がない状況でした。母も父もなんとか学校に行かせようとしていたけれど、不登校前から関わっていた心療内科の先生が「しばらくは休んでいいのでは」と話してくれ、若干対応がゆるくなりました。
それからしばらくは自宅で過ごしていましたが、「このままじゃいけない」という焦りや、所属がないことへの不安から行動を起こさなきゃという気持ちが強くなり、父がシューレを調べてきてくれました。私は基本的に一人で過ごすことが好きだから、それを確保できる場所である必要がありました。
シューレはまったく騒がしくないわけではないけれど、自分に対して入り込んできたり押しつけられてきたりする危機感は感じませんでした。自分の大事にしたいことを尊重してくれそうだと思ったのです。
九州合宿が全ての活動の原点だった
シューレの活動の中で一番印象に残っているのは九州合宿です。九州合宿に行っていなかったら、その後のイベントへの参加をやろうとは思わなかったかもしれません。一つの合宿に行く行かないということが、こんなにその後の活動に影響を与えるのかと思います。その後も、アラスカプロジェクトやその他のイベントの実行委員会にアクティブに参加しますが、それらと九州合宿との違いは、一緒にいたメンバーとの出会いでした。
あのメンバーで行ったから、特別な企画になった。ほとんどのメンバーが自分とほぼ同時期にシューレに入ってきたということもあり、とても過ごしやすく、のびのびと参加することができたし、自信も得られました。
九州合宿他、様々な活動に参加する中で、入会当初は「来なきゃ」という思いがあったけれど、仲間に会いたいという思いもあって、だんだんと自主的に行きたいと思える場所になりました。シューレにはいろいろな価値観があって、やりたいことを大切にしてくれる場所であり、一人の人間として聴いてもらえる。そして、仲間と出会えた場所でした。
今の「わたし」とシューレとの関わり
私は、幼稚園の頃からずっと「自分はダメな奴なんだ」という思いを積み重ねてきました。シューレに来て初めて、自分はできないこともあるけれど、好きなことや得意なこともあるし、こんな自分でもいいのかなと思えるようになりました。シューレという場所に居るだけで、誰かが側に居てくれた。
でも、根っこの部分には、長く積み重ねられてきた「自分はダメな奴」という感覚がまだどっしりと横たわっていることをシューレを退会した後、改めて感じさせられています。
私は今、作成に携わった「不登校の子どもの権利宣言を広めるネットワーク」の活動にメンバーとして参加しています。
この活動に参加することで、シューレにいた頃に感じていた自己肯定感の感覚を思い出そうとしているのかもしれません。それほど「私は私のままでいい」とそのままの自分で生きていくのは、今の社会はとても難しいのかなと感じています。
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1972年生 ● 東十条シューレ ● デザイナー ● 不登校=12歳(中1)〜 ● シューレ在籍=12歳〜15歳 黒の輪ゴムがなくて 中学校に入学すると、校則が細かく、生徒が週番としてチェックのために...
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1972年生 ● 東十条シューレ ● デザイナー ● 不登校=12歳(中1)〜 ● シューレ在籍=12歳〜15歳
黒の輪ゴムがなくて
中学校に入学すると、校則が細かく、生徒が週番としてチェックのために校門に立ち、生徒同士で校則違反を注意することにかなりの抵抗感がありました。
ある日、髪を結ぶ黒いゴムが見あたらなくて紫の髪ゴムで登校したら、紫は不良の色と先生に叱られました。叱られないように、細々とした校則を守るために神経をピリピリととがらせる毎日で、次第に学校へ行くことができなくなりました。
始めは母にむりやり学校の門まで連れて行かれたこともありましたが、その後、母がシューレを教えてくれました。シューレ開設時での入会です。今もシューレを探してくれた母に感謝しています。でも、入会後も、母に「2学期から学校へ行けば?」と言われました。何を言われても登校しない私に「学校へ行かないんならあんたを殺して私も死ぬ」と首をしめてきたりと親との闘いがありました。親の「学校信仰」が消えるまで時間がかかりました。
シューレでやりたいことはとことんやりました。合宿や絵やマンガ、文章の好きな女の子3人で『がとこ』という同人誌を発行したり、シューレ通信を子ども達で作るようになり、たくさんイラストを描いたりしました。
ミーティングはシューレの基だと思います。大人も子どもも同じ1票で発言できる「自由」を最も体感できる場でした。ミーティングの時間以外にも、友達同士でよく議論していました。話し合うことで自分の考えや友情が深まりました。
その後、もっと勉強したいし中卒だけでは不安な気持ちから、高校に進学。高校は自由な校風でしたが、入ってみて「ここは、やっぱり学校だな」と思いつつも、がんばって通いました。
高校卒業後、地方の芸術大に入学。でも、おしゃべりしながらの授業になじめず、中途退学し、通信制の美術短大に入り卒業しました。
就職は、美術工芸品の卸し会社に入社、その後、結婚しました。
しかし、夫の仕事の関係で東北地方に転居となり、すべてのことから切り離された生活になり、悩みましたが、2人の子どもを連れて思い切って離婚。その後、シューレの東十条時代の会員だった人と一緒になって、今は幸せに暮らしています。その後、事務の仕事をしつつ、デザインを学ぶために美大の通信教育過程に編入学。なんとか卒業しました。
世の中を良くしようという生き方がある
仕事、学業、子育てのことだけで必死だった私の目の前に現れたのが、2013年の「特定秘密保護法」です。この法案の中身を見たとき表現者として、ものすごい危機感を感じました。これをなんとか止めなければと勇気を出してデモに参加してみました。問題は追いつかないほど進み、ご存知の通り現在進行形です。
私は学んだことを生かして、プラカードを作りデモに持っていくようになりました。他の人にも利用してもらおうとサイトを作り、ツイッターで拡散しているうちに、利用してくれる人が増え、現場でも顔見知りの人が増えていきました。そのうちにチラシやバナー作成を頼まれるようになり、基本はボランティアですが、チラシ製作の依頼を受け、デザイン料を頂くことに。美大を卒業して3年、予想もしなかった形でデザイナーデビューです。
学校教育は、先生、先輩という目上のものに取り入り、空気を読むことが得なんだと、じわじわと洗脳し、私たちは羊のように飼いならされてしまったのだと感じています。結果、権力に警戒、対峙できずに、世の中に無関心な人たちが生み出されています。
私がそんなふうにならなかったのは、シューレに行ったことが大きいと思っていますし、教科書問題などでも公教育が戦前回帰を始める中、フリースクールの教育が唯一の希望だと思います。
私はこどもたちのため、平和な未来のため、自分にできることをせいいっぱいやっていこうと思っています。
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1990年生 ● 新宿シューレ ● 臨床工学技士 ● 不登校=13歳(中1)~ ● シューレ在籍=13歳~19歳 本当の気持ちを話せない 不登校...
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1990年生 ● 新宿シューレ ● 臨床工学技士 ● 不登校=13歳(中1)~ ● シューレ在籍=13歳~19歳
本当の気持ちを話せない
不登校のきっかけは中学受験です。小4の終わり頃、ただの力試しのつもりで進学塾の模擬試験を受けたら、そのまま春期講習に参加して中学受験を目指すことになってしまいました。友だちと遊べなくなり、「本当は受験なんかしたくない、みんなと同じ公立中学に行きたい」と思うようになりました。けれども幼い頃から自分の気持ちを話すのが苦手で、怒られたらどうしようと不安になり、親にはずっと言えませんでした。
結局、受験勉強を続けて私立中学に合格しました。自分の受験番号を見つけてしまった時の複雑な心境が今も忘れられません。親の喜ぶ顔を見て、本音を言えないまま入学することになりました。
登校中、ふと6年間も行きたくない学校に通うのかと思うと絶望的な気持ちになりました。中1の6月に風邪で学校を休んだ翌日、ついに足が止まります。勇気を出して電車に乗ったら目の前が真っ白になり、とにかく苦しくて、たった一駅が地獄のようでした。それから電車に乗ることが怖くなってしまったのですが、当時の私には学校に行かないという選択肢がなく、電車に乗る練習をして10日後になんとか登校出来るようになりました。
母に自分の気持ちを話せたのは、中1の夏休みに病院で点滴をしていた時です。私の中で何かが吹っ切れて、もう隠すのをやめようと思い、受験が嫌だったことや公立中学に行きたかったことを全部打ち明けました。そして2学期から公立中学に転校したのですが、体調が悪く4日目から行けなくなりました。この頃には親から無理に登校を促されることはありませんでしたが、将来この子は一人で生きていけるのかと親なりに色々心配していたそうです。
新宿シューレは、何の講座に参加するか、あるいは参加せず自由に過ごすかを選べるところが自分に合っていると思い入会しました。趣味の合う人や家が近い人とも仲良くなり、入会したての頃はパンを作ったり、テニスに行ったり、お茶を飲みながらおしゃべりするのが好きでした。その後は周年祭や音楽イベントなどの実行委員会に積極的に参加するようになりました。自分たちで企画を立ち上げて創りだす楽しさを知ったことが、その後の活動の原点になっています。
医療の仕事に就きたい
中3のクリスマスにルービックキューブと出会い、タイムを縮めるために練習を重ねて大会にも出場しました。自分に自信が持てるようになったのもキューブのおかげです。ところが、中学を卒業して、シューレの高等部に通いながら飲食店でバイトしていると、バイト先の人やキューブ仲間の人たちに「高校は行った方がいいよ、将来どうするの?」と言われるようになりました。最初はそう言われることが苦痛でしたが、それが将来のことを考えるきっかけになりました。たくさんの人に相談して、都立のチャレンジスクールへ行くことに決めました。高校受験は、「受験」という響きだけで嫌でしたが、作文・面接だけだったのでなんとか頑張れました。
高校に通っていた頃「ME(臨床工学技士)」という医療機器を扱う仕事に憧れ、専門学校に入学しました。基礎学力が足りず、小4レベルの計算ドリルからスタートです。夜遅くまで学校に残って、国家試験の過去問を何十回も解きました。自分が心の底からなりたいと思ったことにはこんなに頑張れるのかと自分でも驚きました。
23歳の時、公立病院にMEとして入職して、現在は透析室やICU(集中治療室)などで働いています。患者さんの体に接続する「生命維持管理装置」と呼ばれる機械を扱っているので、命に関わるプレッシャーや緊張感が絶えませんが、やりがいがあるので頑張れます。
私には、学校以外の場所で学ぶ期間も必要だったのだと思います。ストレートに進学していたら味わえないような出来事をいくつも体験してきました。私が学校やキューブの大会などで自発的に動き出せるようになったのも、シューレでの経験が生かされているからです。これからも色々なことに挑戦していきます!
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1977年生 ● 東十条・王子シューレ ● 財団法人役員 ● 不登校=小5〜 ● シューレ在籍=11歳〜19歳 小学5年生でいじめをきっかけに不登校を経験しました。1年位は家にいてテレビ...
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1977年生 ● 東十条・王子シューレ ● 財団法人役員 ● 不登校=小5〜 ● シューレ在籍=11歳〜19歳
小学5年生でいじめをきっかけに不登校を経験しました。1年位は家にいてテレビを見たり、ゲーム三昧になったり本を読んだりしていました。家でしたいことは一通りしたと感じた頃、いろんな人に会いたくなり、親が見つけてくれた東京シューレに通うことにしました。
日米フリースクール交流
シューレでは、いろんな講座に出たり、周年祭や夏合宿などのイベントの実行委員会に参加したり、『東京シューレ通信』の編集長も務めました。企画・運営をよくしていました。
16歳の時、1ヶ月に渡る日米フリースクール交流に参加します。お互いの国を2週間ずつ旅行し交流するプロジェクトです。先にクロンララスクールの子ども、スタッフが来日し交流。京都、姫路、広島などを一緒に旅行し、その間にシンポジウムを開き、広島平和記念公園で平和について意見交換もしました。
後半は、日本側が渡米しミシガン州にあるクロンララと交流、その後、車でニューヨークから東部を南下し、全米フリースクール大会に参加、再びクロンララに戻る、長大な企画でした。
この企画準備の時期は、高校浪人中で、再度同じ学校に受験して高校に行くか、行かないかの選択の時期でした。テレビでしか知らないアメリカを実際に自分の目で見てみたい思いと、学校に行った場合の生活を比較し、学校外でやっていく方が自分に合っていると考え、アメリカ行きを選択し、学校に行かないことを主体的に選んだのです。
日米のフリースクールは違いもあるけれど、子どもの意見や考えが尊重され、話し合いの場を持ち、大人と子どもが対話をしながら作っていくことは同じだと感じました。この交流で、世界への最初の扉が開き、世界が近くなったと感じたのです。場所や環境が変わることで、マイノリティ、外国人になるという体験も、とても大きなものでした。
ユーラシア大陸横断旅行
翌年、ユーラシア大陸横断旅行に参加。クロンララの旅行中に次は世界一周の声も出ましたが、世界一周は時間も費用も膨大なので、ユーラシア大陸を太平洋側から大西洋側まで列車で横断し、地元の人と出会うプロジェクトです。
中国から列車でモンゴル、ロシア、ポーランド、ドイツ、オランダで大西洋にたどり着くまで、1ヶ月間の旅行です。ポーランドでは地元のフリースクールの子の家へホームステイし、アウシュビッツ強制収容所にも行きました。訪れた場所はどこも第二次大戦の傷跡があり、自分たちが意識しないと歴史は風化していくのだと実感した旅行でした。
不登校は、自信とか自尊心が大きく崩れた経験でした。自分がいなくても世の中は問題なく回っていく、自分の存在の希薄さを感じていたのです。でもシューレでの日常で、自分が一歩踏み出すと世界に一歩近づく、自分一人の力は決して大きくないけれど、必ずしもちっぽけなものではないと感じられる体験と出会いました。
自分と他者との関係をつなぎ直す、自分が自分と出会い直すことを経験した大切な時間でした。
マイノリティーの視点から社会に関わる
1997年3月にシューレを退会、その2ヶ月前から財団で働き始めます。企業に子どもへの関心を高めてもらう活動と、子どもに関係するNPOへの助成を行う米国の財団です。学歴よりも経験重視で声がかかりました。
現在は、仙台で別の公益財団法人で働いています。東日本大震災を機に設立され、テーマを限定するのでなく、地域の課題を解決することに資する活動をするコミュニティー財団です。
現在、唯一の常勤役員として、13人の専従スタッフと共に、事業計画づくり、資金調達活動、助成事業の統括などのほか、支援先の組織に対する経営支援を各地で行い、岩手県、宮城県、福島県をまわっています。
不登校の経験から、マイノリティや社会的な弱者と呼ばれる方々のニーズや声なき声をどう聴けるかを大切に、物事の背景や社会的な構造を理解しようと心がけて活動しています。
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