興味のある方はどうぞ期待せずにご期待ください。
]]>スピリチュアルを学ぶと、物理的な現実はあくまで創造の一部であり、制限のない思考によって、奇跡のような現象も現実化できることを体験したり理解したりします。
しかし一方で、そんなスピリチュアルな自分を世間一般に“受け入れやすい形”で存在させようとするあまり、
「この世は努力しても報われないことがある」
「夢物語に逃げるのではなく、地に足をつけよう」
といった“常識”に歩調を合わせてしまうことがあります。
するとどうなるか。
本来の自分の無限の創造力を抑え込む形になり、結局は「たいしたことない現実」に自ら引き戻される羽目に。
かつての自分は、常識では考えられないような「あり得ない引き寄せ」を平然と現実化していた。
そんな生き方をもう一度取り戻そうか…と思ったとき、今度はまた別の不安が顔を出します。
それが、
という問題。
実際、私自身も“魔法使いを育成するスクール”という使命的な活動をしてきた以上、俗世との関係を完全に断ち切るわけにはいきません。
役所や書類上の立場も必要だし、社会の中で通じる言葉での自己紹介も求められる。
それは見栄や承認欲求ではなく、「世渡りの現実」として。
では、どうすればいいのか?
私なりの今の答えは、
つまり、「私はこういう人と、こういう関係性で、こういう人生を創っていきたい」というビジョンを、あらかじめ明確に持っておくことです。
これはアファメーションでもあり、現実創造のコマンドでもあります。
すると、制限だらけの思考を押しつけてくる人が現れたとしても、ただ翻弄されることなく、境界線を引けるようになります。
そしてその人に対して、「私が救ってあげなければ」という義務感を持つ必要もありません。
創造主とその人の関係性の中で、必要な学びはちゃんと届けられるのです。
今、地球はシステムレベルで大きなアップデートが完了しています。
マルチプルな世界線が重なり合いながらも、それぞれが有機的に連動する時代。
もう、「どうしても合わない人と無理して付き合う」ことが前提の世界ではなくなってきているのです。
同じ国、同じ会社、同じ学校にいたとしても、それぞれの“現実のレイヤー”は別物。
今や、しんどい“スパルタ式の人間関係学習”を通らなくても、もっと柔らかく、軽やかに、自分の波長に合った人とだけ関わることが可能になってきています。
スピリチュアルを実践する人たちにとって、今はとても重要な「境界線」と「選択」の時代。
このバランス感覚が、これからの人生を大きく左右します。
あなた自身が信じる未来とつながるために、まずは「誰と、どんなふうに生きたいのか」を明確にしてみてください。
それが、スピリチュアルと現実を融合させた“本物の創造力”の第一歩になるはずです。
]]>そして実際に収録した番組がこちら。
20代の頃、私はある会社で働いていました。その会社には、ほとんど言葉を交わす機会もなく、ただ遠くから見つめるだけの「雲の上の人」がいました。当時取締役だった女性。その凛とした存在感、厳しさ、そしてどこか近寄りがたい雰囲気は、若かった私にとって憧れと同時に畏れでもありました。
そんな彼女と、20年近い時を経て、まさかの再会。立場も肩書きも変わり、かつての「部下と役員」ではなく、「起業家同士」として話す時間が持てたのです。
彼女は現在57歳。上場企業での長年の役員経験に加え、今は自ら会社を立ち上げ経営しているとのこと。詳しい数字は聞いていませんが、その実績とスキルから考えれば、年商数億円以上、役員報酬も年間で数千万円はあって当然でしょう。
けれど、そんな「ザ・成功者」の彼女が醸し出していたのは、金銭や地位への執着ではなく、余裕と深い愛情、そして静かな知性でした。
「私なんてもう、すっかり『おばあちゃん』だからさぁ」と笑いながら言う姿に、どこか清々しささえ感じました。社会的には何一つ不足のない人が、承認欲求や競争心に縛られることなく、ただ等身大で生きている――それが、なんとも印象的だったのです。
会話が進む中で、私自身のキャリアについても話しました。会社を辞めてからの20年、誰にも頼らず、個人事業から法人へと形を変え、自分なりに生きてきたこと。決して華々しくはなくても、困らず暮らしていける程度には実績を築いてきた自負もありました。
彼女は「それはすごいね」と言ってくれました。
でも、次の話題――「これからはどうしたいの?」という問いに、私はスピリチュアルな探究をはじめ、「自分がやりたいことをやる」系のことを述べつつ、
「かといってもういい加減、ただ自分のやりたいことをやれていさえすればいいだけの独りよがりでどうにかフリーランス的に生きていけさえすればいいというわけでもないんですが」
といったことをモゴモゴ言う形に。
要するに、確固たる言霊が乗っていない。論理的にも成立していないし、抽象的で漠然としていて頼りないと自分でも思えました。
そして、そういったことは人材紹介業で長年、一部上場企業のトップにして現場も率いるプレイングマネージャーとして動いてきた彼女からしてもお見通しだった(見透かされた)のを感じました。
その時の彼女の反応。
言葉にはしませんでしたが、「あ、この程度か」と思われたような、ほんの一瞬の空気の揺れを感じました。
穿った見方で憶測を立てていいなら
「なぁんだ。起業までして、いわゆる起業家レベルの能力と視座、思考のスケールの大きさを持っているのかと思って話していたら、ちょっと稼げてる個人事業主どまりの人なのか」
とがっかりした様子(をマナー的に隠してこちらに悟られて私が傷つかないよう?、平静を装ってくれた)。
彼女の描くビジョンは、人を雇い、育て、社会に大きなインパクトを与え続ける会社経営。
年商何億〜何十億円というスケールで、経済を回し、従業員や顧客など関わりある人たちみんなの人生を支え、起業活動を通じて生み出した付加価値を社会に還元していく。
対する私はといえば、自分の暮らしが成り立つだけで満足して、あとは「探究を続けたい」などと言っている。
口ばっかりではなく、言った通り20年近くもちゃんと誰に金銭的に頼るでもなく自活できているので、そこまでダメで惨めというわけでもないとは思いつつも、
たしかに『大企業の経営で社会に大きな規模でインパクトを与える形で貢献していく』ことを数十年単位で地で行けた彼女と比較したとき
「俺、ちんまいなぁ」
と感じました。
率直に「上には上がいる」と思いました。
上と下というのも一個人の勝手な基準でいえばこそなのは百も承知であえて便宜上、言い分をわかりやすくするために使いますが、私は何かと「下」を見て嘆いたりがっかりしたり、気をよくしてそこを引き上げようとしてしまう傾向がある。
それは優しさというよりは、悪気なく無自覚に私が低能・低脳ともいえる界隈で生まれ育った出自ゆえの「さもしさ」なのだと思います。
そして、たしかに大人になる前の時点から東京に上京してその視座や目がいく先を是正?したければすることもできうる環境にいたものの。
ある種の頑固さと逃げ(なんだろうか)?、
ここでいいやという怠惰?、
上を目指して辿り着けたら御の字という20世紀的なあるある成功パターンを今回も繰り返すのは避けたいからという霊的本能?etc
ゆえに、そこまであっさり「ビジネスでエリート化が正解&成功」というふうに思考も行動も変えてこなかった。
それは一理あるし、たしかにビジネスエリートが正解とは今でも思いません。
ただ、逆にいえば
「必ずしも正解だか成功だかと言えるわけでもないけれど、ビジネスの世界でエリートと言ってもらえるだけの実績まで辿り着く『生き様』と得た経験値で上がる人間としてのレベル、大きくなる器というのはあるのでは」
とも素直に思います。
その、自分が選ぶことができなかった&選ぶわけにもいかなかった、20世紀型的なビジネスエリート化を目指そう路線でちゃんとすごいところまで歩んでくることができている彼女が、1つのモデルケースとして目の前に現れた。
歩んでいる道の違いを超えた、人間としてのトータルな経験値の違いを感じざるを得ませんでした。
彼女が見ている世界は具体的で現実的、何よりハイレベル。そこに圧倒されたのは事実です。
ただ、それでも私は、彼女のような経営者になることが「自分の正解」だとは思えませんでした。
私の人生の軸は、やっぱり見えないもの――スピリチュアリティ、エネルギーワーク、魂の在り方の探究と宇宙全体に対する提案etcにあります。
それは社会的に見れば、取るに足らない個人の独りよがりかもしれない。屁理屈だと思われても仕方ないかもしれない。だけど、20年経ってもブレずにそこに情熱を持ち続けていることに、私は自分で誇りを持っています。
ただ同時に、だからといって「ちんまい」ところで終わってしまうのでは、単純に残念な人というだけ。
じゃあ、どうするか。
私は社会にとって価値ある人材として貢献しようというからといって、わかりやすく会社を大きくして上場させようとは(現時点では)思っていません。
また、「社会に貢献したい」という意味では、それがわかりやすく経済を回すとか雇用の創出といった起業を通じてではないものの、「なんなら1つの会社をただ創業して大きくするのとは桁違いな宇宙的なインパクト」というところでそれを実現するために受肉してきたという自負もあります(言葉にすると厨二病感がすごくて自分でも顔にタテ線が入る心地ですが)。
形が違うだけ。売上では測れない貢献も、あると信じています。
もし仮に、私がビジネスに全力を注げば、彼女のような成果を出せる可能性もある――そのくらいの誇りは持ちつつ、私はあえて“別の山”を登ることを選んでいるのだと思います。
ただ実際どうなのか?と省みたとき、まだ言語化しきれてないですが「なんだかんだいって経験不足」と率直に感じました。
スピリチュアルな探究を自己満足で終わらせないために。誰かの人生に小さくでも光を届けることができるように。魂レベルでの「社会的インパクト」を、私なりに追求していきたいと思っています。
大きなビジョンに触れたことで、自分のちんまさが際立ちました。でも、そのちんまさを恥じるのではなく、「自分の立っている場所を確認する機会」だったのだと思います。
私がここに書いたような感慨で唇をひそかに噛み締めながら平静を装って会話を続けているのを彼女の側でも当然のごとく察したようで。
昔の知り合いのよしみだからおせっかいに感じたらごめんだけど言っちゃうね、という感じで
「具体的にあなたが今、考えてるプランを私は詳細に把握できているわけではないんだけど」
と切り出し、
「今の殻を破ってまた一段、上と前に進むためにはこうするしかないと思えているものがあるなら、大変だろうけど重い腰を上げないと、『やろうとしたけどできなかったおじいちゃん』になってしまうよ?」
といった旨のことを言ってくれました。いきなり見知らぬ人から言われたらムッとするところでしょうが、不思議と腹は立たず、むしろありがたい指摘に感じました。
還暦を前に、50代を過ぎていろんな意味でなにかと億劫に感じるようになってきて今はもう昔できていたことがどんどんできなくなっていってしまっているから、と自身の体験談を交えつつ
「今まだ40代でしょ?50代に入る前のこの数年間、『今しかない』と思ってやってみたら?」
と。
そこで思い出した。
私、ちょうど20年前に会社に転職して挨拶に伺った際も、彼女から同じ図式のことを言われたのです。
「納得する30代からの人生を叶えるために、20代後半のこの数年間をがっつり仕事に打ち込んでみるのもいいんじゃない?」
という内容でしたが。
なにかスピリチュアルな縁あるメンターとして、節目になぜか現れてきてくれる人だったりするんでしょうか(←お花畑系スピあるあるの都合のいいでっちあげふぅw)。
ちょうど2025年の5/19前後、また一段と世界線というか宇宙の次元がワンランク、アセンションする(しない人たちと次元が分かれる)という都市伝説めいたスピ話が出回っている週。
これもまたおめでたいこじつけだろうと思われても仕方ありませんが、先週からこの手の、サナギが蝶に変態するかのような、それまでの延長線上ではない全然違うところに脱皮するきっかけ・刺激・メッセージになる出来事が相次いでおり、私自身ちょっと出来事の連続をうまく整理しきれてない段階。
でも、べつにマスコミがニュースで騒ぐわけではないけれど、エネルギー的にすごい節目が来てる実感がビンビン。
会社を育てる人がいて、魂を探究する人がいる。両方があっていい。だからこそ私は、魂の仕事に誇りを持って、この先の人生を歩いていきたい。
そして、どの道を歩くにせよ、「べつにこのへんのショボさでいいや」とは、少なくとも私は思わない(ようにしよう)。
……という契機になりましたとさ。(ただの日記、乙!)
]]>スピリチュアルヒーリングの指導に長年携わってきた私は、いわゆる「お花畑系スピリチュアリスト」とは一線を画し、現実を生き抜く力としてのヒーリング技能を教えてきたつもりです。理想は、人生や仕事に具体的な成果をもたらす力としてのスピリチュアルを育むこと。
ですが、現実は理想どおりにはいかず、「理想的な指導」に応えられる生徒さんはごく一部。
ただ、これは他の習い事にも通じる、いわば誰にでも起こる「ままならぬ現実」だと受け止めて我慢していました。
私はこれまで、生徒がスピリチュアルに「本気で取り組めない理由」は、時間の制約や、仕事や家庭との両立の難しさ、あるいは精神的な覚悟の足りなさだと考えていました。
なにしろ私自身、大人になってから始めた楽器などではダメダメな生徒側。
10年以上も習ったところで、そもそも月に2回のレッスン(1回あたり50分)でしかない。
その上、フルタイムで会社に通勤して仕事をしてとなるとそもそも毎日練習すること自体が至難の業。
練習できたとしてもせいぜい15分を捻出するのがやっと。その15分の練習さえ、仕事で疲れ切って集中力ゼロ、みたいな。
そもそもプロになる覚悟なんてないし、音大受験生のように期限がありそこまでにどのレベルまで実力が到達していなければいけないかというノルマも目標もない。
そりゃ音楽教室の先生方みたいに、子供の頃からなんなら週に何度も(基本的に毎日とか?)レッスンに通い、部活や他の習い事も一切せずにひたすら1つの楽器に打ち込んで受験期には1日何時間も練習に練習を重ねて音大に進学した後はさらに卒業できるか、プロになれるか否かで熾烈な競争……というガチンコ音楽人生を過ごした人たちとは、取り組む姿勢から投下する時間・労力・お金などの資本各種の質も量もなにもかも桁違い(に、私の方がショボい)。
それがスピリチュアルヒーリングに関しては私が教える側になっただけの話で、生徒の方々は楽器を習う私同様、ショボショボでもそれは仕方がないことなのかもな、と割り切っていたのです。
しかし、ITスキルや創作ワークショップなど、スピリチュアルとは異なる実務的な領域で一緒に作業してみた結果、もっと根本的な問題に直面したのです。
それは、「そもそも物事を論理的に理解し、判断・実行する能力が著しく低い人が意外と多い」という現実でした。
当然、誰でも最初は不慣れで下手であるのは当然のこと。しかし、彼らの「できなさ」は単なる不器用を超えていました。
はっきりと断言しても偏見になりかねないので控えますが、ちょっとやそっとの「ちゃんとする」「気をつける」といった心がけではカバーできない能力値にいることを痛感せざるを得なかったのです。
にもかかわらず、彼らはなぜか口先だけは達者。
「私は特別な魂」
「この世に存在するだけで波動が高くて影響力がある」
といった、大言壮語を繰り返します。
最初は「口ばっかりだな」と苛立ちましたが、やがて気づいたのです。
他のことがろくすっぽなにもかもまともにできない彼らのスペックからすれば、唯一「妄想を繰り広げて、無責任でもインチキでもなんでも概念を練り上げてそれを発話して表明することができる」能力だけは人並み以上に身についたということ自体が奇跡なのだと。
子どもの頃から何をやっても理解できない、言われたことがわからない、うまくできない──そんな人生を歩んできたとしたら、「できない自分を見つめる現実」はあまりにも残酷でしょう。
だからこそ、科学で証明できない、目に見えないからこそ無責任にどんなデタラメでもでっちあげの空想でも妄想でもどこまでも好き勝手に口先でだけ言えて、かつ「自分は選ばれた存在」といった香ばしい選民思想で優越感という悪徳に浸れる、傷ついた自尊心の補償行為としての”スピリチュアル”は、初めて手に入れた“癒し”のように感じられてしまうのかもしれません。
しかし、これはもはやスピリチュアルではなく、ポルノのような快楽装置となってしまった「現実逃避」とも言えるのです。
そんな相手に向かって、「逃げるな」「現実を見ろ」と言うことは、残酷すぎるのかもしれない──そう思い始めた私は、自分の指導者としてのスタンスに疑問を感じざるを得ませんでした。
スピリチュアルヒーリングは本来、人並み以上にありとあらゆる能力(論理力、観察力、感性、さらには笑顔や演技力といった接客、対人コミュニケーション能力etc)が求められる複雑な技能です。それを「普通とされる水準よりはるかに劣る能力の持ち主」に伝えることは、もはや不可能なのかもしれない。
厳しい現実に直面した今でも、私は信じています。
スピリチュアルヒーリングは本物であり実在する。
ちゃんと取り組めば、「できる」し「ある」ものだと。
ただし、それを形にできるかどうかは、取り組む人間の資質に大きく左右される──それは否めません。
よく、鬼才のピアニストや武術家など傑出した存在がそのあまりに独自の才能ゆえ弟子にその真髄を伝えられないというような話がありますが、それがまさか私にとって他人事じゃ済まないとは思ってもみませんでした。
それでも、今ここに現れてくれている人々こそが私にとってインストラクターとしての資質を高めるための現場経験を積む相手をしてくださる「霊的に最善の縁」だと信じたい。
そして完全にあきらめることなく、また自分のエゴ的な独善を押し付ける形の指導に終わることなく、彼らが歩めるペースで、彼ら1人1人のペースと現段階からせめて半歩先の未来を示し続けるインストラクターでありたい──そう思いを新たにしています。
気づけば何分も、何時間もSNSのタイムラインを無意識にスクロールしてしまう──。
そんな経験、きっと誰にでもあるはずです。
でも、その時間、果たして本当に“有益”なものだったでしょうか?
もちろん、SNSにも価値のある投稿はあります。でも、無作為に流れてくる情報の海に、私たちの集中力や思考力が飲み込まれていくことも事実。
だったらいっそ、自分が本当に興味のある分野、もっといえば「究めたい」と思えるジャンルの情報に、積極的にアクセスしてみませんか?
その手段のひとつとして、私はnoteを強くおすすめします。
noteの魅力は、一人ひとりの投稿に込められた熱量の高さ。
単なる思いつきではなく、「伝えたい」「残したい」という想いが込められた文章が並んでいます。
ブロガー、起業家、クリエイター、研究者、趣味人まで、それぞれが専門や体験を軸に、深く、丁寧に発信しているのが特徴です。
SNSでは投稿が単発で流れてしまいがちですが、noteでは1人の書き手の全体像を知ることができます。
まるで個人のミニブログ・メディアのような存在感で、その人の視点や価値観を一貫して追うことが可能です。
フォローすれば、新着記事をすぐにキャッチできるのも便利です。
noteの中では、フォローしたアカウントから新しい記事をたどるのはもちろん、おすすめ機能やタグ、ランキングなどから、新たな書き手に出会うこともできます。
この「回遊性の高さ」は、noteを知的好奇心を刺激するプラットフォームとして際立たせています。
noteは「読む」だけでなく、「書く」側の使いやすさも大きな強み。
その結果として、クオリティの高い書き手が集まりやすい土壌が整っています。
SNSでなんとなく時間をつぶすのではなく、自分の興味関心を深めるためにnoteを“知のポータル”として使うという選択肢。
その日々の積み重ねは、必ずどこかであなたの価値になるはずです。
スクロールで消費するのではなく、noteで蓄積する。
そんな情報との付き合い方、始めてみませんか?
あなたは最近、こんな感覚に襲われることはないだろうか。
「新しいことを始めても、なんとなく結末がわかっている気がする」 「旅行に行く前から、すでにその場所を知っている気がして、わくわくしない」 「新しい趣味や挑戦より、SNSのタイムラインをだらだらスクロールしてしまう」
これは単なる「飽き性」ではなく、デジタル時代特有の”知的好奇心の危機”かもしれない。今回は、スマホ依存と情報過多がもたらす「知ったつもり症候群」について考えていきたい。
今や私たちは、スマホ一台で世界中のあらゆる情報や体験に「触れた気になれる」時代に生きている。
こうした「疑似体験」の快楽は、脳内で実体験に近い満足感を生み出す。旅に出なくても「行った気分」になれるし、新しいスキルを学ばなくても「知っている気分」になれる。
しかし、この便利な「疑似体験」こそが、私たちから本物の好奇心を静かに奪っていく原因になっているのだ。
人間の脳には「快楽順応」という仕組みがある。どんなに強い刺激も、繰り返し受けると次第に効果が薄れていく現象だ。
スマホの無限スクロールで常に新しい刺激を受け続けると、脳は徐々に「情報耐性」を獲得してしまう。その結果:
「スマホ依存と集中力低下」に関する2023年の研究では、1日6時間以上スマホを使用する若者の47%が、新しい趣味や活動への興味が薄れたと報告している。これは偶然ではない。
動画やSNSからの情報摂取は、「自分は理解した」という錯覚を生みやすい。しかし、本当の理解は行動と経験を通じてのみ得られるものだ。
例えば、料理動画を100本見ても、実際に包丁を持たなければ料理は上達しない。しかし脳は「知っているつもり」になり、実際の行動へのモチベーションが下がってしまう。
このように、「知ったつもり症候群」は実践と探求を妨げる最大の障壁となる。「どうせやってもこうなるだけ」という先入観が、新たな発見や感動の機会を奪っているのだ。
私たちの知的好奇心が奪われていくプロセスは、以下のようなサイクルで進行する:
このサイクルは気づかないうちに進行し、「何をやっても面白くない」という慢性的な状態を生み出す。本来なら胸を躍らせるはずの新体験も、「どうせインターネットで見たような内容だろう」と切り捨ててしまうのだ。
では、この状況から抜け出すには何が必要だろうか? 最も効果的なのは意識的な「情報デトックス」と「実体験への回帰」だ。
「デジタルデトックス実践者の78%が集中力の向上を実感」という調査結果もある。脳に「休息」を与えることで、自然な好奇心が戻り始めるのだ。
「知ったつもり」を「本当に知っている」に変えるには、体験と実践しかない。情報収集だけで満足せず、小さな行動から始めよう。
便利さを追求するあまり、人間本来の「探求→発見→感動」というサイクルを失っていないだろうか。時には「不便」を選ぶことが、新たな発見につながる。
知的好奇心を取り戻すためのアクションプランを紹介しよう:
「行動科学研究によれば、新しい体験を定期的に取り入れている人は、そうでない人と比べて幸福度が23%高い」という結果も出ている。
スマホ画面の向こう側には、確かに膨大な情報と疑似体験がある。しかし、本当の知的好奇心と探究心は、スクロールの先ではなく、実際の行動と体験から生まれる。
「全部わかった気がする」という感覚は、実は何も深く理解していないことの裏返しかもしれない。真の知恵は、失敗や困難、そして感動を伴う実体験からしか得られない。
情報過多の時代だからこそ、意識的に自分の好奇心を守り、育てる努力が必要なのではないだろうか。スマホを置いて、今日は何か新しいことに挑戦してみよう。あなたの世界は、思っているよりずっと広いはずだ。
あなたも「知ったつもり症候群」に陥っていませんか? この記事が少しでもあなたの好奇心を刺激するきっかけになれば幸いです。実体験の素晴らしさを再発見するための第一歩を、今日から踏み出してみませんか。
]]>「明るくて元気で、いつも前向き」
そんなポジティブな印象を持たれる人っていますよね。
でも、年齢を重ねて周囲を見る目が養われてくると、
その「明るさ」が実は本人の未熟さや能力の低さをカバーするための処世術であることに気づくことがあります。
たとえば――
そんな人がいたら、明るさや元気さは、単なるごまかしでしかないのかもしれません。
こうした「強みっぽいけど実は弱みの裏返し」というケースは他にもたくさんあります。
いつでも誰とでも話せるけど、実は一人でいられない寂しがり屋。孤独や不安を紛らわすために群れている。
行動力があるように見えるけれど、実は深く考えるのが苦手で、検討や調整を放棄して突っ走っているだけ。
ニコニコしているけれど、実は「嫌われたくない」という不安の裏返しで、本音が見えない・信用できない。
ある時から、私はこうした「表面的な強みの裏にある癖や欠点」を見抜けるようになってきました。
本人が気づいていなくても、その人の言動の奥にある無意識のバランスや歪みが見えるようになるのです。
でも、だからといっていちいち指摘したり、正したりはしません。
指導する関係でない限り、口出しはしない。
私は私で、自分の人生という“ゲーム”を進めていかないといけません。
だからこそ、
まるでテトリスやぷよぷよのように、
目の前の人を見極めて、
「この人は今の自分にとって使えるか、使えないか」を判断するようにしています。
冷たく感じるかもしれませんが、実際そのほうがトラブルにも巻き込まれず、
かえって世の中、スムーズに生きていけるものなのです。
人の欠点というのは、本人が「直したい」と思っていない限り、
誰に何を言われても変わりません。
それどころか、他人からの指摘にムッとしたり、逆ギレされたり、距離を置かれたり……
損をするのはこっちです。
だから私は、
「欠点を放置した結果、ちんまい人生で終わるなら、それもその人の選択」
と、割り切っています。
そんな私も昭和生まれ。
かつては「人との絆」や「助け合い」が大切だと信じて生きてきました。
でも、今の若い世代を見ていると、
「え、知らないし関係ない。私はこうしたいだけ」
と、あっさり自分軸で動いている姿に、時代の変化を感じます。
そして思うのです。
私も、「生まれは昭和」でも「生きるのは『今、そしてこれから』」。
時代に合わせて、軽やかに、要領よく、しなやかに。
自分のために、賢く、美味しいとこ取りで生きていこうと。
他人のことを自分のことのように真剣に考えるのは、
一見優しさに見えて、時に自分を疲弊させ、誰のためにもならないことがあります。
「冷たい」と思われるくらいが、
ちょうどいい。
そんなふうに思えるようになった今、
私はもっともっと上手に生きていきたいのです。
先日、あまり信用していない知人とどうしても行動を共にしなければならない用事がありました。
その人は、悪気があるわけではなさそうなのですが、「約束を守らない → とりあえず謝る」で済ませるタイプ。責任感という言葉からは少し遠い人です。
その日はもう一人を交えて、三人で会話する時間がありました。私は、新しく知り合った人との会話の中で、自然な流れでこんな話をしました。
私は、もうあまり人に期待しないことにしています。
なぜなら、多くの人は「誠実」よりも「気分」や「都合」で言動を変えがちだからです。そして、多くの場合、その変化に対して説明責任を果たす人はいません。
こちらが「どうして?」と問いただし、ストレスを抱えても、何も得られない。だから私は、コロコロと言い分やスタンスが変わる人との人間関係にいちいち動揺しないために、最初から「期待しない」というスタンスを取っています。
期待しなければ、裏切られても怒ることも、恨むこともない。だからこそ、いい加減な人には重要な用事や責任ある役割を任せない。私なりの精神的セルフケアの方法です。
そんな話をしていたら、隣で聞いていた同伴者が、まるで自分の言い訳が通ったかのように「うん!うん!」と頷きはじめたのです。
私は正直、唖然としました。
この人にとっては、「他人が信じてくれない」「責めてこない」方が都合がいいのでしょう。要するに、自分のいい加減な言動を他人が割り切ってくれた方がラクで、自ら変わるつもりはない。むしろ「周囲が合わせて当然」と思っている節さえあるのです。
私が話していたのは初対面の方で、その方は困惑しつつも、どうリアクションしていいか分からず苦笑い…。そりゃそうですよね。何とも不思議な空気になっていたはずです。
改めて思いました。
いい加減な人は、もう「そういう人」なんです。ある程度の年齢で今のままなら、これから劇的に変わることはまずない。きっと何十年もそうやって、周囲に迷惑をかけながら、それでも適当に「すいません」と済ませて生きてきた。
そういう人に期待する方が間違いで、むしろ私たちが学ぶべきは「期待せず、距離を取る術」なのです。
思い返すと、私の人生にはこうした「悪気はないけれど無責任」な人が一定数、常に登場してきました。個人は変われど、属性は同じような人たち。
つまり、私はそういう人たちから何かを学ぶために、この現実を引き寄せているのかもしれません。そして、学ぶべきことを学び終えたら、もう二度とそういう人たちは私の前には現れなくなるのでしょう。
無責任でコロコロ変わる人たち。
やることも中途半端で、完成度も低く、責任をとる気もない…。そんな人から何を学べるのか?
それでも、私は学びたいと思います。
「信じないこと」「距離を取ること」「任せないこと」、そして「自分の心を守る術」。
彼らを変えることはできなくても、自分のあり方を整えることはできる。
それが、私にとっての前向きな選択なのです。
先日、シータヒーリングの創始者であるヴァイアナ・スタイバルによる講義「KARMA: How to UNDERSTAND it, How to SHIFT it, How to WORK with it.」を聴きました。シータヒーリングにおいて、カルマという概念をここまで明確に取り上げたのは初めてではないかと感じました。
講義の冒頭、ヴァイアナは「カルマとは『悪いことをしたら罰が返ってくる』という単純なものではなく、もっと広く深く捉え直す機会となるかもね」と語りかけました。彼女特有の語り口調で、自身の経験や知人とのエピソードを交えながら、聞き手が自然に気づきを得るように話が進んでいきました。
ヴァイアナが伝えたカルマの核心は「先祖や他者が私たちに示してくれたものは、すべてが自分の学びのためにある」という考え方です。
また、これまではカルマから学ぶというと、悲劇的なトラブルやアクシデントに襲われるといったショッキングな出来事から学ぶことが多いイメージがありましたが、彼女は「楽しく学ぶこともできる」と強調しました。
他人の苦しみを見て自分を省みるだけでなく、ポジティブな出来事も含め、すべてが成長の糧になる、と。
今の社会では、苦しみながら学ぶスタイルは古く、効率的でもないとされています。
ホワイト化する社会の一方で格差が広がる今の時代において、明るく楽しく、笑顔で学ぶことはこれからの生き方として重要になると思います。
(そういえば還暦に近い、いわば高齢でありながらヴァイアナが時代の変化の先端を敏感に捉え、講義を通じて若い世代が聞いても感銘を受けるメッセージに昇華させることができるというのもあらためてすごいな、と)
講義を受けたことで、私自身も大きな気づきを得ました。
最近、遊びや習慣化していた娯楽に対する興味が急激に薄れ、時間の使い方に迷いが生じていたところだったのです。
そんな時にこの講義を受け、カルマを「学びの羅針盤」として捉えることで、人生の次のステージを開くきっかけを掴んだように感じました。
これからは、頭で考えるのをやめて、日々の何気ない体験や他人との関わりに「次の人生ステージへの鍵」を見出すスタンスを大切にしたいと思います。これまで繰り返してきた小さな成功や失敗に囚われず、もっと大きな視点で人生を見つめ直すことができるようになりました。
ヴァイアナ・スタイバルの講義を受け、カルマの捉え方が大きく変わりました。これからの時代を生き抜くためには、カルマを「過去の因果」ではなく、「未来の学び」としてポジティブに活かす姿勢が大切です。自身の成長に直結する学びを見逃さず、楽しみながらシフトしていくことが、これからの生き方に繋がると強く感じました。
今回の講義に参加して、本当によかったと心から思います。
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