しかし、ChatGPTの勧めで、初めてみました(笑)
実際には自伝のような形でここ30年くらいの私自身の養育周りの事を徒然と綴ろうかと思っていたのですが、このサイトだと個人というよりは公共性のある話題にする必要があると思いますし、自伝的要素の話って色々な面で関わってきた方々も巻き沿いを食うというか、個人情報の取り扱いが難しいので、一応匿名(ペンネーム)の方がいいと思ったり。
まあ、このサイト上でも本名ではないですが^^;
興味があったら下のリンクから見てください。
]]>― 中途養育者が制度から排除される構造について
日本では、親が育てられない子を 「親族・継親・知人」などが引き取ると支援が消える という逆転現象があります。
たとえば:
祖母が引き取る → 支援なし
継親が育てる → 支援なし
親の友人が育てる → 支援なし
養子縁組しても → 支援なし
しかし
見知らぬ家庭が「里親制度に登録して育てる」 → 支援あり
この違いは、子どもの生活や安全とは無関係です。
違うのは 「どの制度に入っているかどうか」だけ。
国や自治体の制度の外に置かれたまま子どもを育てる人たちのことです。
親族(例:祖父母・きょうだい・伯叔父母)
継親(再婚家庭)
親の友人・知人
未成年後見人
養子縁組家庭 など
彼らは「家庭で子どもを守っている」のに、
制度上は 支援対象ではない扱い になります。
理由はとても単純です。
日本の制度は「実親か、制度に登録した里親か」しか想定していないからです。
つまり:
→ ここに 制度差別 が存在します。
国連子どもの権利条約ではこう決められています:
支援の対象は「養育者の属性」ではなく「子どもの最善の利益」で決めること
日本の制度はこれに反しています。
国際的には
支援がないのではなく、
支援を拒否する制度設計が存在している。
それが中途養育者問題の本質です。
支援が届かないのは中途養育者だけではありません。
その子ども自身が、制度上「支援されない側」に分類されてしまうからです。
日本の制度は次のようになっています:
| 子どもが暮らす場所 | 公的支援の扱い |
|---|---|
| 施設・里親家庭(社会的養護) | 生活費・教育費・進学支援・自立支援あり |
| 実親家庭 | 基本的に児童手当以外ほぼ支援なし |
| 親族・継親・知人など中途養育家庭 | 支援ゼロ(社会的養護と同等の援助なし) |
同じ「親が育てられない子」でも、
という逆転が起きています。
「家庭で育つほど支援が消える」という制度構造が存在しています。
これは「家庭の努力の問題」ではありません。
「制度が子どもを守らないようにつくられている」という問題です。
]]>
子どもを育てるのは、実親だけとは限りません。再婚により継親が養育を担う場合、祖父母や親族が子どもを引き取る場合、知人が一時的に預かる場合など、日本でも「実親以外が子どもを育てる形」は確実に存在しています。それにもかかわらず、日本の制度や支援体系は「養育する立場の違い」によって大きな支援格差が生まれています。
たとえば、里親には研修・手当・相談支援などが制度として用意されていますが、継親にはほとんど存在していません。どちらも「途中から子どもを育てる」という点では共通しているにもかかわらず、支援のあり方に明確な差があるのが日本の現状です。
こうした状況は、「家族の形が変化した時に生まれる責任と負担」が可視化されていないことから生じています。
国際的には、実親による養育が難しくなった場合に行われる「親以外による養育」をまとめて オルタナティブ・ケア(Alternative Care) と呼んでいます。
ここには、里親や親族による養育だけでなく、継親(ステップペアレント)が育てる形も含まれます。
イギリス・オーストラリア・アメリカの複数の地域では、継親は「血縁ではないが、子どもと生活を共にする養育者」として制度的にも認められ、支援対象に含まれる仕組みがあります。つまり、国際的には「血のつながり」よりも「養育を担っているかどうか」に重点が置かれています。
同じく途中から親になる立場であっても、日本では里親は「制度の中に位置づけられた存在」、継親は「家族の一員なので支援対象外」という扱いになってしまうことが多くあります。
しかし実際には、継親の立場には次のような特徴があります。
子どもとの関係づくりを「ゼロから」始める
法的に親権がない場合もあり、決定権に制約が出る
社会的には「本当の親ではない」と扱われやすい
親支援講座や相談機会がほとんどない
にもかかわらず、「家族なのだから当たり前にできるはず」と見なされ、支援の入口が制度的に用意されていないという矛盾が存在します。
そこで、有効な考え方として提案されているのが 「中途養育者」 という視点です。
中途養育者とは、出生時点では養育者ではなかったが、ある時点から子どもを育てる立場になった人のことを指します。
この中には、次のような人たちが含まれます。
継親(ステップペアレント)
親族養育者(祖父母・きょうだいなど)
里親(公的に委託された養育者)
未成年後見人
友人・知人などによるインフォーマルな養育者
つまり「制度で定められた養育者」かどうかではなく、「途中から子どもを育てることになった」という実態を基準に支援を考えるという発想です。
この視点をとることで、「支援がある人」と「支援がない人」に線を引いていた“制度の壁”を乗り越えることができます。
国際的な枠組みである 「オルタナティブ・ケアラー」(親以外の養育者)を上位に置き、その中の「家庭ベースで子どもを育てる人たち」を 「中途養育者」 として整理することで、日本でも制度のすき間に取り残されてきた養育者を明確に位置づけることができます。
この考え方は、「誰が法律上の親か」ではなく
「誰がいま子どもを育てているのか」を軸に支援を組み立てることにつながります。
養育者が孤立すれば、子どももまた孤立します。
制度の外側で子どもを育てている人たちを見えないままにしておいては、
子どもの安心も、社会の安全も守ることはできません。
継親を含む「中途養育者」に目を向けることは、
家族のかたちが変化している現代において避けて通れない課題です。
子どもを育てているのは「実親だけではない」という事実に、
社会がもう一度目を向ける必要があります。
「途中から親になる人」にも、支援が届く社会へ。
その第一歩は、言葉にすることから始まります。
あるいはこちらのQRコードから↓↓
日常的に使っているLINEアカウントとは別に、個人情報を特定されたくない場合は別のニックネームで参加する事が出来ます。
このオプチャはトークルームを6つ持っています。
です。なるべく近いテーマで投稿してもらえればと思います。
また、現状ではNGワードとして「普通」と「う〜ん」があると投稿出来ない設定となっています。
理由としては両方とも「自らの既定の概念から」何かを否定するための前置詞と考えられるからです。
それ以外でも様々な立ち位置の方がいる事を前提で使って欲しいと思います。
立ち位置が異なる方々との対話は難しい事は承知しているつもりです。 でも我々はそれをしていかなくてはいけないと考えています。
何故なら、声なきマイノリティは社会的排除に加担するのと同じだからです。
でも世間は優しくない
その通りだと思います。
だからこそ、何を話しても受け入れてくれて、問題解決に繋げる場所を作りたい。
そういう思いでオープンチャットを作りました。
上手く行くとは限りませんが・・・皆さんの参加をお待ちしています。
]]>大変遅くなりましたが・・・こちらにもリンクしておきます。
聞き苦しい点多々ありますが、パーソナリティの石原さんが良い具合に話を展開してくださっており助けられました。ここでも再度お礼申し上げます。
ありがとうございました。
]]>
殆ど内容は同じですが、今回は最終ページにあった足立区の相談先一覧の情報を省いています。
このページは自分の地域にあわせて自分で作っていただけるようにしています。
現状、中途養育者全般にわたる相談先は存在していませんので、様々な角度から各々が情報にアクセスしてもらうしかありません。
インターネットやスマートフォンの普及により様々な情報が手軽に入手できるようになった反面、欲していた訳ではなかった心無いメッセージを受け取る機会も増えているかと思いますが、どうか諦めずに支援を探ってください。
また、この冊子が必要な方は送料負担頂ければお送りすることも出来ますので、そのような方はこちらのフォームからお問い合わせください。
↓↓下のリンクから冊子のPDFは開けると思います。こちらはご自由にお使い頂いて構いません。

大変遅い更新で申し訳なく思いつつ、前回(2019年11月)に、「私が親になろうとしてごめんなさい~目黒区・結愛ちゃん虐待死事件における中途養育の苦悩を考える」という文章をアップした後、自分はこの事件を発端に中途養育者支援の仕組みを作り出していくために、どのような方法をとるべきなのか、暗中模索・・・というよりも、五里霧中に差し掛かっていました。
どこから何をすれば良いのか。
子ども食堂を開設しても当事者の子どもが来ないと困っている主催者が多いと聞いていますが、中途養育者にしても同じというか、困っている事を言う事が出来ない、仮に言ったとしても理解されず、そんな思いをするくらいなら相談などしなければ良かったと殻に篭る、というのがほぼ想定されている世の中。
では実際の支援側にいる立ち位置の方が先ず中途養育者問題をしっかり理解する事が先決。しかし、その支援側の人達に向けてのアピールをする事に対して、どこから何をすれば良いのか・・・
そうこうしている間に、このたび、上記事件の被害者である結愛ちゃんの母親、船戸優里被告が手記を発表したと聞きました。
正確にいえば、Facebook上で友人がシェアしているのを見つけたというのか正解です。
正直、加害者側や被害者側が発表する手記が内容的にどの程度のものなのか・・・という思いと、感情移入の方向性を見るのが怖いと思って些か購入を躊躇する部分がありました。
なんとなく、元少年Aの名で発行された絶歌のようなものではないかというイメージが浮かんでしまいました。(この本は未だに読んでいませんが)読後感が悪いものになるような気がしてしまったのです。
しかし、前回の、もう一人の加害者である雄大被告についての文章をアップし、その後に自分は地元でこの本の中で解説をされているルポライターの杉山春さんを招き、地元で講演会を行う機会がありました。(その際に優里被告との接見についてなど、様々な話を聞いていましたが、内容について公に出来ない部分もあったのでこのサイト上での紹介はしませんでした)
そんなご縁もあり、杉山春氏の解説が読めるのならと、とりあえず書籍を購入し、読んでみました。また、今回の事件について興味を持つ方なら、巻末資料の白川美也子医師の意見書を読むのも非常に価値があると思います。
で、実際の手記本文を読み終わり、その読後感になります。
先ず、言える事は今の自分は怒りも後悔もない事。
そして「多くの人に手にとって読んで欲しい」と思っている事。
それは何故か?
内容についてあまりネタバレするのは良くないと思うので、詳細は→ 版元 小学館のページを参考にして頂くか、AMAZON等で購入をご検討頂ければと思いますが、自分がこの本を多くの人に読んで欲しいと思う理由の一つに、この本から感じる、皆さんの感想を聞きたいという事があります。
小学館の紹介ページの中で、編集者からのおすすめ情報として、
「その答えが本書にある」としています。確かにそうかもしれませんが、そうではないかもしれません。
これらについて、自分が書くよりは実際に本を読んでもらえば良いのであえて触れませんが、個人的に感じた、特記しておきたい部分がいくつかありますので、そのあたりに少し触れてみたいと思います。
※見直して、わりとネタバレしてる気がします・・・気をつけてお読みくださいm(__)m
全体的に、文章の組み立てが上手い、という妙な??印象があります。
おそらくとても几帳面で、真面目な印象が漂っています。真面目に自分を責め、真面目に思った事、感じた事を丁寧に書いている印象です。公判で咄嗟に間違えた事を言ってしまったのを「嘘をついてしまった」と悔やみ、「嘘つき罪で逮捕されたい」と書いています。どれだけ自分に正直なのでしょうか。
巻頭に大谷恭子弁護士が書いているように「夢と現実が交錯している」感、時系列的には、被告が逮捕されてから日記形式で書かれたものが先にあって、それに結愛ちゃんが生まれて~亡くなるまでの期間を振り返り、加筆したもののようで、後半部分と前半部分がかなり印象が異なります。(印象は人それぞれだとは思いますが)文章的には、最初の「プロローグ」など、装飾された文体に何か不自然な感じを受けました。抒情的な表現に溢れているというか、手記というよりも、小説のような。
おそらく、優里被告は拘留中にかなりの本を読んでいるらしく、その影響が手記の文章に表れているのではないかと自分は思います。
全ては自分が悪いと責め、死と生についての苦悩が全編に現れる文章から、(これもおそらく、人それぞれだと思いますが)私は何故か、若い頃に読んだシーシュポスの神話を連想してしまいました。
エピローグにおいて、シェークスピアの「ヴェニスの商人」から二本の矢のエピソードを読み、自らと向き合い、書き溜めていた手記を公開することへを決意したとあります。このような事件を二度と起こさないためには子どもの命を守る者、加害者親の支援者、DV被害の支援者、加害者自身も含めてみんなの協力が必要だと。その決意には感動を覚えます。
一方で、中学の頃「途中で話が変わる」「ちょっと変わってるね」と言われる、「コミュニケーション能力がないと感じていた」、「みんなの要求通りに表情、態度、口調を作るなんて自分には難しい」など・・・
本の中では全く触れられていませんが、どうでしょうか。ASD(自閉スペクトラム)傾向を感じてしまうのは、私だけでしょうか。このあたりの意見を発達支援に携わる人に訊いてみたいです。
調書に自分の性格を「短気」「まわりに同調しやすい」と書いてあるらしいのですが、この2つの性格が混在するのはなんとなく変な感じがするのではないかと思います。
短気については、学生の頃「真顔怖い」「怒ってるの?」と言われ、自分を短期だと思い込んでいたようです。これはとても真面目に人の意見を捉えるという、几帳面な傾向なのではないかと思います。
周りに同調しやすいについては、小学校や中学校時代は思ったことをズバズバ言って周りに合わすのは面倒くさいと思っていた一方、協調性を大事にしようとも思っていたそうで、最初の結婚相手に対してはほぼ相手のいいなりにお金を渡し、夜の仕事をしたというし、その彼と離婚して、そのお店で働く雄大被告と仲良くなったようです。これも一見すると、いい加減に感じるかもしれませんが、自分にはなんというか、非常に真面目に対人関係を考えている結果な気がします。もちろん、多くの人の価値観とは合致しないかもしれません。
本文中にも書かれていて、杉山春氏も「解説」部分で取り上げていますが、優里被告は香川県にいた頃、2度目の一時保護の後、結愛ちゃんをハグ出来なくなってしまった事を書いています。医療センターの小児科の先生から毎日ハグするる約束をさせられ、それが苦しくて「ハグできないんです」というと「じゃあタッチでいいわ」と言われ、自分がハグ出来ない「冷たいお母さん」だと思われていると感じた事、相談しているつもりの事をさらりと交わされ、アドバイスしてほしい事、聞きたい事の本質が根本的にずれる事など、書かれています。白川医師も雄大被告からの虐待誘発を無意的に避けたと書いていますが、実はこれは私も似たような経験があります。多くの中途養育者はこの「定型的ハグ神話」に苦しんでいます。ASD傾向がある方はHUGが苦手な人は結構多くいます。(優里被告がそうだとは言いません)
「ハグをする事、出来なければタッチなどスキンシップをする事」と、どこかマニュアルに書かれているのではないかと勘ぐりたくなる程、専門家の中には「ハグ神話」が溢れているように思います。
なぜ、支援者はハグに拘るのでしょうか?
2回目の一時保護の間、保護施設の職員から「普通は2カ月もすれば・・・」的なやりとりがあったようです。実際は4カ月間だったそうです。その4カ月の後、愛着は揺らぐことなく、永劫に続くものであるべき、と支援者達には信じられていたのでしょうか。
親子ならば当たり前?
一時保護中に、子どもは何を考えて過ごしていたのでしょう?
親は、どうでしょうか?
家庭環境修復は自己責任、と言われれば仕方がないのかもしれませんが、そもそも、それが出来ていれば保護されるような事態にはならないとは思わないのでしょうか。
この事件が元で今後、家庭支援施策が事実上の義務化となると思われますが(今までも義務化されていたのかもしれませんが)法律に一行追加されたとしても、鏡に書いた餅では何も変わらないでしょう。
警察官も、児童相談所の担当者も、市の女性相談の担当者も、DVの判断を誤っているようです。
優里被告はこれらの事を批判している訳ではありません。
また、ここに出てくる様々な人たち、支援者も、親族も、(実親である元夫の親族などは話の中に全く出てきませんが)著者は全てを悪く書いている訳ではありません。実直に、その時どう感じたのかを書き記しています。
著者は、この事件で誰が悪いといえば、100%自分だと書いています。
しかし、実際には、結愛ちゃんが生きている間に関わることになる関係者全員が悪いと、この本を読んで思います。
自分はボブ・ディランの歌で”Who Killed Davey Moore?”という歌を連想しました。デビー・ムーアというボクサーが死んだことについて、「誰が殺したんだ?」「自分ではない」と、レフリー、観客、マネージャー、ギャンブラー、記者、対戦相手等がそれぞれの言い分を述べるという「答えのない」プロテスト・ソングですが、この事件の公判における証言の一つ一つ、救急隊、品川児相、香川の児相、医療センターの先生、検事、裁判官、裁判員。それぞれが「自分ではない」と言っている訳ではないにしても、それぞれの証人の弁が、著者にとっては一つ一つ傷つく様が「たんたんと」描かれています。
「たんたんと」これも、優里被告の様子を表した表現にあり、裁判なので、悪い材料を用意するので当たり前といえば当たり前なのですが、大勢の人間から責められるのは「自分が100%悪い」としても、辛いことと思います。
弁護士やカウンセラーなど、逮捕されてからの支援者だけが、救いとなっていて、後押しがあって手記の発表に至るのだと思いますが、自分にとって良い事実も悪い事実も合わせて公表するという事は大変勇気のいる事だと思います。
ただ一つ言える事は、自分の立ち位置からしても、自分をさらけ出す事は「到底出来る事ではない」のです。家族の本質はアウトロー(outlaw=文字通り法の外)と自分はよく言うのですが、それは守る者があっての事であり、裏を返せば、守る者全てが清廉潔白とは限らない事を意味します。
著者の優里被告が今、守る者が何もないと思っているかもしれませんが、実際には家族としては長男がいますし、もう一人の加害者、雄大被告との心の決着の全てはまだついていないようですし、この本の反響についても現時点では全く判りません。
とはいえ、私はこの手記を発表した著者の勇気を称えたいと思います。
本当に、今後このような事件が起こらないようにするためには、悪者探しをするのではない、もっと根本的な研究がされなくてはいけない訳で、そのためには、加害当事者の研究は絶対に必要だと思います。
もちろん、もう一人の加害者である雄大被告の研究はもっと必要になります。彼も悪者のままでは根本の問題は解決しません。
とはいえ、先ずは「子どもの命を守る者、加害者の支援者、DV被害の支援者、加害者自身も含めて、みんなの協力が必要(エピローグより)。」と気づいた著者が、頑張っていけるような社会を作っていくことも、我々がやらなくてはいけない事なのだと考えます。
※この本の印税は、児童虐待やDVの被害者支援に取り組んでいる団体に寄付する予定との事です。
※自分も淡々と書きましたが、読む際には涙腺が緩むことが多いと想定されますのでご注意ください。
]]>個人がアップしていたYoutubeのリンクを掲載していましたが、やはりというか、削除されたようです。悪しからず・・・
2019年の6月に放送された、第28回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品「なぜ 結愛ちゃんを救えなかったのか~目黒・虐待死事件~ 」(こちらは見ていないので詳細は判りませんが)船戸雄大被告が東京で兄のように慕った男性や、結愛ちゃんの実父方の曽祖父が墓参りへ行くシーンなど、同じ映像を使っている部分もあるように思います。
この事件が最初にメディアで取り上げられるようになって以来、母親の船戸優里被告、義理の父親、船戸雄大被告の公判と1年以上の長期にわたり、世間の注目をあつめていることは驚きです。
国会に児童虐待防止法の改正案が提出されるなど、国のシステムを変えるきっかけを作った衝撃的な事件となったようです。
一般の評価を紹介する記事によれば、雄大被告は「鬼畜」「悪魔」などと評されているようで、世間の目は冷たいというより、被告に対する感情が憎しみに満ちているように感じます。
自分としては亡くなった結愛ちゃんに対する追悼の気持ちは当然ありますし、世間一般に、虐待加害者に対する、一定の距離間のある人間を憎みがちな心理も理解出来ます。しかし、それらの感情を訴える以上に重要なのは、このような不幸な事件の再発を防ぐために自分たちに出来る事は何かを考えていく事でしょう。
おそらく、中途養育者サポートネットの暫定的管理者というその立ち位置から、自分に出来る最善の事は、船戸雄大被告の「実親ではない人間が親になろうとした際の問題点」に関わる事を「自身の経験を通じて」文章を残すことだと思いました。
中途養育者サポートネットは2010年5月頃、暫定的管理者として自分が立ち上げたサイトです。途中放置しすぎてレンタルサーバーの引き落としされてないのに気づかず、全てのページが抹消されてしまったこともありますが・・・以前より子どもの発達段階の中途から養育に携わる困難を一般の方へ伝える事を一つの目的として、かなり細々と運営してきました。
自分も今回の「目黒・結愛ちゃん虐待死事件」に関して、様々な思いがありましたが、サイト上であえて取り上げる事はありませんでした。
もちろん、情報がさほど多くない中で憶測による意見を書くことが躊躇われたのもありますが、憶測による見解が共感を得られない危惧もありました。
また、自分自身に対する保身もありました・・・私自身は現役の子育て中に色々な事がありました。自分が虐待者だとは思ってはいませんが、児童相談所へ連絡したことも何度かあります。一般の方から中途養育者サポートネットがWebSiteが雄大被告を擁護しているように感じられれば、このサイトへの反感が共感に勝る=運営の危機にもなると考えていた部分もありました。
そこまで考えているのに何故、あえてこの問題に取り組むのかといえば、先にも書きましたが「このような不幸な事件の再発を防ぐために自分たちに出来る事は何か」を、自分に置き換え、その最善を考えた際に出てくる結論として「感じている事を隠すのも罪」だと考えたからです。
自分は雄大被告を「鬼畜」でも「悪魔」でもないと感じています。養育スキルが低い事もおおよそ判っていますし、総合的判断力に関わる部分で、致命的ミスを犯したことが結愛ちゃんの死につながったのだと思います。
もちろん、だから許してあげれば良いという事ではなく、罪は償ってもらうべきだと思います。
しかし、個人を憎むのではなく、被告と同様に養育スキルの低い者が、また同じ過ちを犯す可能性を重視し、虐待を予防出来る社会を作る事に少しでも貢献したいし、この文章を読んだ方にも社会作りに協力してほしいと思っています。
以降の文章については、個人的な推測を多く含むものであることをお断りすると共に、不快に感じる方もいるかもしれないことをあらかじめお伝えしておきます。
被告は幼少時よりバスケが得意で、明るく、協調的で友人の評価も高く、卒業文集では「日本初のNBA選手になる」など、世界に羽ばたく野望をもっており、そういう意味で自尊感情も高かったと思われます。
詳しい経緯は判りませんが、都内の大学へ入学「世話焼き、面倒見のいい人間」と評価されています。卒業し通信関係の仕事に就き、お台場あたりに住んでいたようです。三軒茶屋の行きつけの店の、被告が慕っていた先輩の話も出ていますが、20代の生活としては悪くないというか、背伸びをしている、かなり見栄を張っているようにも思えます。
仕事を辞め、地元の北海道へ戻り、再就職したけどすぐに辞めて、すすきので高級クラブのボーイのような仕事をしていたようです。そこから香川のキャバクラに移るのですが、その理由として「困っている友人を助けたい」と友人に説明していたようです。
雄大被告は被告人質問で「周りから嫌われないように、好かれるように、頑張らなきゃいけないと思っていました」と述べています。
これだけ羅列して感じる事は、彼の野望が世界に羽ばたく事だったとしたら、決して上手くいっているとは思えないけど、自分なりに理由をつけて現状に馴染まざるをえないというか、「転落していく現実」を、人の良さで弁明しているようにも感じます。
[affi id=2]
被告は何故、子連れの女性と結婚し、その連れ子の養育に関わる決心をしたのでしょうか。結愛ちゃんの実母、優里被告は雄大被告がボーイとして働くキャバクラのホステスだったようです。職場環境で嫌悪感を持つ方や、なりゆき的な自堕落な思いを想像する人もいるかもしれません。
しかし、私は被告が子連れの女性と結婚する決心をした時点で、少なくとも向社会的行動(思いやり行動や他者に対する援助的な行動)をとっていたと思います。
このあたりは想像の範疇を超えませんが、被告は単なる恋愛感情だけでなく、3歳の女の子を育てるために夜のホステスをしている若いシングルマザーが不憫に思えたのもあるかもしれません。
そして、結果的にその向社会的行動は失敗したという事だと思います。
被告の考えが甘かったというのは当然あるでしょう。しかし、それを単にダメだという事ではなく、どうしたら上手くいっていたのかを考えるべきではないかと思います。
自分は個人的に、子連れ再婚は「通常の結婚」とは違う事を経験的に、多くのステップファミリーとの対話の中から知っています。
被告はおそらく、そのあたりの知識が欠落していたと想像します。
また、「養育」に関しても、実子と(報道の中でこの言葉は使われていませんが)継子の子育ては同じではありません。
中途養育者は「通常の養育者」と同じようにはいかないのです。
ここでいう通常の養育とは、血のつながった両親による子育ての事です。
つまり、雄大被告は通常の養育者ではない、ということになります。
この事件において、通常の養育者(実父)は(その存在は自分の知っている範囲では報道されていないと思いますが)離婚していて、実際の養育に携わっていません。
通常であることが良い事とか、悪い事といっている訳ではありません。しかし再婚家庭においては、通常ではない子育てに携わるに当たってその養育に対するハンディを、誰も与えてくれません。(ここでいうハンディとは、ゴルフで実力に格差があるプレイヤーが各々の能力毎に適正な数値を与え、競技を公正に進めるためにつけれらる値のことです)
子育てにおけるハンディキャップは、「支援」という指標で考えられると思われます。社会的養護下にない、ステップファミリーや親族等の「非公式な中途養育者」は実質的な支援が存在しません。しかし、自ら進んで養育者に立候補したからには、「通常の養育が出来る人」として、社会的に期待されます。
子どもの養育は待ったなしです。
中途からであれ、養育者として立候補するからには、すぐに養育に関わる必要があります。実習の機会は通常ありませんから、実践で経験を積んでいくしかありません。
しかし、現実はどうでしょうか。
頑張る気持ちがあれば、なんとかなることでしょうか。
通常の養育においては、生まれた時点(あるいは妊娠する以前より)子育ての準備は始まっています。
これは今回の事件に関わらず、里親も含む、施設職員等の職業的養育者以外の中途養育者全員が同等のハンデを自己申告することさえ思いつかず、実際に養育に携わった後に困難に陥る問題なのです。
(里親には研修がありますが、おそらく、養育全般にわたる勉強としては個人で頑張っているのが現状と思います)
多くの中途養育者は養育スキルの劣った部分を自分の責任として、自己研鑽に励みます。
里親等の場合、上手くいかなければ、措置解除であり、ステップファミリーの場合であれば、再離婚です。
これは養育者にとっても子どもにとっても、大変な痛みを伴いますが、(少なくとも虐待を避けるという意味においては)賢明な選択なのかもしれません。
今回の事件の義父(と、多くの記事で書かれていますが、自分は継父と認識しています)は、自分にハンディキャップがあることさえ認識していなかったと思います。バスケが学校で一番上手く、職場でも仲間うちでも評判の良かった、自尊心の高かった当該被告が理解していなかったことが、自身が養育に関わるスキルが全くないという現実だったのではないでしょうか。
この文章を書いている自分も親族の子を中途より養育に関わる際に、同じような過ちに陥った経験があります。なんとかなる、という根拠のない思い込みだけでは、養育はなんとかなりません。自分は途中で養育スキルが「通常の養育者と比較して」ない事に気づいたため、医療、教育、また児童相談所へも相談し、自身も児童心理を学ぶために大学へ入りなおしました。それでもなお(恥ずかしながら)途中でギブアップし親族に養育を交替してもらった事も書くべきでしょう。なんとかならない時の対処として、自分自身が自己嫌悪に陥ろうとも、子どもに多少なりとも不幸を与える結果が判っている事であっても、今回の事件のように行き詰り、子どもの命を落とす結果になるよりはマシなのだと、自分は思っています。
しかし、そもそも「中途養育者への支援」が存在しているのなら、これら不幸な結果を劇的に軽減することが出来るのかもしれません。
通常の養育者と同様の養育スキルを持たない者が中途養育に関わらざるをえない場合、社会は「支援」をするべきではないかと、自分は考えます。
養育スキルとは何でしょうか。
子育てに関わる教則、マニュアル、参考書など、現代では巷に溢れています。それらの多くは「保育」系、若しくは「教育」系であろうかと思います。
「養育」について、一般的に参考書はないし、学べる機関は存在しないように思います。何故なら、通常「養育」とは、自分の子どもに対して行う事であり、職業として確立していないのです。(施設職員等の社会的養護はありますが、教員や保育士と比べて実数が全く違います)。
つまり、「養育」は子どもがいる親なら皆行うことでありながら、(間口の狭い専門分野であるがために)一般の親は学問として意識することなく、スキルとして日々積み上げる事が可能な事なのです。
ここでいう「養育スキル」とは、子ども一人一人同じものはなく、一緒に生活する上で身につけていくものです。「信頼関係」と言い直してもいいかもしれません。
中途養育者は、中途から養育に携わる特性から、子どもの生まれてから当該年齢に達するまでの「養育スキル」が抜け落ちます。
抜け落ちるのは当たり前の事なのですが、多くの中途養育者は実際の養育に直面した際、通常の養育者と自分達の違いに気づきません。「養育スキル」がないにも関わらず、通常の養育者と同じように養育に関わることになるのです。
それがどのような結果になるのか、想像してみてください。
もちろん、努力でカバー出来る部分もあるでしょう。多くの中途養育者は人知れず努力せざるをえない環境にあるのも含め、頑張って養育に携わっています。しかし、その人知れぬ頑張りの裏には、多くの脱落家庭が存在しており、その脱落は家庭崩壊の中にある子どものトラウマ作りに貢献することであることは、意識してもらいたい部分です。
[affi id=2]
今までの視点は、中途養育者側が実親規範に則り、親になろうとしている前提に立っていますが、子どもからみた「親」とは一体どのような存在でしょうか。
今回の事件で、義父の雄大被告は「パパと呼ばれて嬉しかった」経験を話しているようです。一方で、パパではない現実に直面した際の自身の感情については話していないように思われます。
亡くなった結愛ちゃんは雄大被告が戸籍上の親になった時点で3歳でした。3歳は発達課題でいう所の「自立」の時期であり、愛着対象としての両親、という理解は出来ている時期です。もちろん離婚等を経験しているなかでアタッチメントに課題があった、発達の凸凹はあった、と思う方が自然でしょう。
この事件に関しては、結愛ちゃんが雄大被告を本当に「パパ」と思っていたのかなど、実際のところを知る機会は永遠に無くなりましたが、実親ではない養育者の元にいる子どもの多くは(好むと好まざるに関わらず)実親の存在を知っていますし、実親が養育していない現実を受け入れるしかありません。
仮に結愛ちゃんが天真爛漫で奔放な性格であったとして、雄大被告がそれを受け入れる度量がない人間だった事が事件のきっかけだったとしても、自分はそれだけではない子どもと大人の間の認知のズレが生じていたと思っています。
つまり、結愛ちゃんにとっての(父)親は、離婚により別居している実父であるはず、と自分は思うのです。
(全ての中途養育者ではありませんが)中途養育者の多くは、子どもに実親がいる事に納得せざるを得ません。それは望むと望まざるに関わらず、事実です。
その事実を認める事に一部の中途養育者は非常に苦悩しますが、多くの子どもは、それ以前に実親が養育していない事実に苦悩します。
現在の中途養育者が親になろうとする事にも、苦悩します。
さいたまの「本当の親じゃないくせに」事例も、子どもと養親側の認識のズレがなければ起こらなかった事件かもしれません。子どもが「無垢」であるという認識はここでは事実ではないし、実際の過去を消すような努力は、たとえ実親がどのような人間であっても「出自」を知る子どもの権利を無視したものであると、自分の立ち位置からは思います。
里親や養子縁組においては「出自」の問題は以前よりずっとあります。ステップファミリー(最近のニュースでは、このキーワードも使われることが少ないように思いますが)においても、実親側が以前の結婚をなかったものにして、再婚相手に実親役割を期待してしまう事はよくあることです。
この事件における実親側(優里被告)も、おそらく可能であれば雄大被告が実父である、若しくは離婚した実父以上に親として優れていると、期待したかもしれません。
しかし「子どもは無垢」という考え方は、大人側の都合の良い解釈にすぎません。今回の事件でも被告が実父を目指さなければ「中途養育者としての養育のありかた」を知っていれば、虐待は起こらなかったかもしれません。
個人の能力を計る事がさほど重要だとは思いませんが、雄大被告は(報道の限りでは)初婚のように思えます。人生における子どもとの関わりは不明です。おそらく、ほぼ無かったのではないかと推測します。
親としての能力は0歳児の親と5歳児の親では違う事は単純に判ると思います。
では雄大被告は何歳児の親としての能力を持っていたのか。
あるいは、単純に、積み上げで5歳児を養育する能力を身につける事が不可能なのは判ると思います。
実際に多くの父親は(特に日本社会においては)さほど子育てに関わりません。父親役割と、母親役割は大きく異なります。
被告は(報道の範囲では)食事制限をしたり、読み書きをさせていたり、結愛ちゃんの生活を支配的に監視していたように思えます。
これは一般的に、こどもの躾や勉強など、父親はあまり関わらないのが普通、と思う人の中には違和感を感じる部分ではないかと思います。
ここで私自身の経験をお話します。
自分も引き取った子ども達にラジオ体操をさせたり、百マス計算をさせたりした時期がありました。
何故、そんなことを始めたのか。自分の実子と比較して、育ちに問題があるように感じたためです。もちろん実子も一緒にやりました。
そして、途中で止めました。
自分がもたなくなってしまったのです。
ある日、ラジオ体操をやらせている間に心臓が痛くなり、自ら救急車を呼びました。検査結果はなにも異常はなく、おそらく過剰ストレスから来る一時的なものだったようです。
自分の能力不足を痛感し、子どもに関わる勉強を始めました。
結論としては、中途養育者は「過度に養育に関わるべきではない」という、案外単純な結論に行きつきます。
自分はそこで止めることが出来たのはラッキーだったのかもしれません。
もちろん、雄大被告のように虐待していいとは思っていません。しかし、おそらく、心情には似通った共通部分があったはずではないかと、思うのです。
自分も当初、児童相談所、教育相談、医療機関、里親支援団体と様々な機関に相談しました。実際には核心をついた相談にはならず、児童心理全般を学ぶために46歳にして大学に入りなおしました。
それが被告に出来ていれば、少しは結果が違っていたかもしれません。
しかし、それが思いつかないのなら、どのように被告のような親としての能力の低い継父が根拠のない自信から独走することを止められるのでしょう。
自分は、社会が中途養育者を支援する仕組み作りにもっと真剣に関わるべきだと思います。子連れ再婚をする時点で、不安はゼロではなかったはずです。
今回のケースでは、子連れ再婚に関わる支援を社会がしっかり実施していれば、被告も「普通の親と同じようにしなくていい」と学ぶ機会があったはずです。
今回の事件でなくても、「普通」の社会規範のために同様に困難を抱えている家庭は少なくないと思います。
この事件を機に、我々は「中途養育者支援」を本気で考えるべき所に来たのだと思うのです。
]]>継父の船戸雄大被告と実母の優里被告の裁判が始まった事と合わせてさいたま市の継父による継子殺害事件が起きる事によって、マスコミはこぞって惨虐性の高い事件のスパイスとして「血の繋がらない子育て」をキーワードに使い、中途で養育者が交替せざるを得ない子育て環境にある養育者と子どもを社会的偏見に落とし込む事に貢献し続けています。
さいたま市の小4男子殺害事件でも書きましたが、ネットの書き込みは非当事者(中途養育者でない者)による中途養育当事者への誹謗・中傷で溢れています。
中途養育当事者やその家族からすれば、集団ヒステリーによる社会的バッシングを受けているかのように感じると思います。
中途養育者サポートネット管理者である自分は、今までもこれらのメディアで取り上げられる事件について、消極的なスタンスでいたのですが、今回に至っては、前回のさいたま市の事件にもう少し加えて、再度書こうと思い立ちました。
サイト自体を放置気味である点には大変恐縮でありますが、今回の社会的風評に対し、黙っている事自体が困窮する当事者を支援から遠ざける事に加担してしまうと思ったのです。
きっかけの一つには、今回複数のメディアより連絡を頂戴した事がありました。その問いに答えている際に、さいたま市の事件の時に伝えた事では伝えきれていなかったとも考えました。
その流れの中で、先ず最初に言っておかなくてはいけないと思うのが、自分は今回の
その上で、
ここから先は、おそらくこれらの事件を掲載する多くの関連記事とは内容の視点が異なる事と思いますが、気になる部分等あるようでしたら、下の方にありますFacebookコメント欄等でフィードバック頂ければ幸いです。
これは、血縁のない養育者では「よくあること」なのかどうかが、一般的に判らないように思います。
私の知っている限り、「本当の親じゃないくせに」と言われるのは、よくあるケースです。
これは中途養育者であれば、「本当の親じゃない」ことは単純に「事実」です。そこに「くせに」がつく。これは「実親ならば許すことでも実親でない奴が同じことをするのは許さない」といっているのと同じ、といえば、少し判りやすくなるでしょうか。
子どもからの「親じゃない」発言は、中途養育の時限爆弾だと思います。いつ言われ
ちなみに、うちでは中途養育の始まりは小2の頃でしたが、当時は親じゃない前提であってもいわゆる「2分の1成人式」等の学校が用意するイベントに対し、甥は「作文でお父さんと書いていい?」などと言っていたのを覚えています。私も「いいよ」と答えていました。「親じ
ただ今回のさいたま市の事件で感じる事とすれば
考えられる事として、子どもの知的水準(精神年齢)が高かった可
それだけ子どもの側にストレスを溜め込む要因が高かったのか、容疑者の精神構造が幼稚だったのかはわからないですが。
いずれにしても、「本当の親でもないくせに」というのは子ども側からの挑発であって、これは良くある事です。この挑発に、殆どの中途養育者は耐え、養育を続けるのですが、中にはこの言葉で挫折し、養育を諦め再度離婚、あるいは措置解除など、養育者をまたしても交替せざるをえない事情に陥るケースも少なくないと思っています。
目黒の事件にしても、埼玉の事件にしても、実母も責められています。
「親としてどうか?」というスタンスによって、問題があったのではないか、という見方からくるのではないかと思います。
義父(継父)も、父親としての自覚が足りないのは当然あったでしょう。
ただここにある「親としての自覚」とは、実母はともかく、継父側には持ち合わせようがないものであることは一般的に気づかれないと思います。
親としての自覚とは、一体なんでしょう?
中途
「判っていて結婚したんでしょ?」というのも周囲の人
本当の親とは一体何でしょう?保育者や教育者のようではいけないのでしょうか?そのあたりの認識は非常に曖昧だと思います。
そこをごちゃ混ぜにして「親じゃないから」という部分を関連付ける社会的認知に対して、当該事件の被告が自己防衛するため「親じゃないことを責められた」という事をキーワードとして使えそうです。
本来、虐待や殺人を起こす事と、「親の自覚」は別問題だと思います。
ただ、実は私自身も、目黒の継夫と同じとは言いませんが…子どもたちが家に来た当初、毎朝ラジオ体操をやらせていた事があります。自分には子どもたちより小さい娘(当時は年中組くらい)がいましたが、子どもたち2人は娘と比べて筋力がなく、姿勢が悪かったからです。子ども達は嘘も頻繁につくし、娘はいじめのターゲットになっていました。ラジオ体操や百マス計算をさせている自分が、嫌な奴に思えました。
白状すれば、そこには愛情はなかったと思います。
そういう部分で、自分は目黒の虐待親がダイエットと称して食事を与えなかった事に対し(もちろん共感はしませんが)自分にもある種の逸脱した過去を持つ身ではないかと感じるところから、無条件に責める事が難しいのです。
途中から親になる人は大概「なんとかなる」と思って中途養育に関
これを私は「向社会的活動」
子どもは「無垢」
子どもが懐かない、
さらに、「親のように振る舞う」ことを養育される子ども側からすれば「本当の親じゃないくせに」なのです。子どもからすれば本当の親は実在しているのです。
代わられても(迷惑…は言い過ぎかもしれませんが)事実とは異なる事の押し付けとなるので、「本当の親になること」は、受け入れ難いことだという事実は、認識してもらえればと思います。
困難に対して「自分が蒔いた種」として、「支援の価値なし」と判
これは社会
生活保護家庭が蔑まれるのと同様に、ステップファミリ
これは難しい課題ですが、社会は人種、宗教、性的嗜好等と同様に
中途養育も実親規範が強い社会において、昔から蔑ま
もう一つは、社会的リソースとしての「中途養育者教育」を実現す
実親規範でいうところの「親だったら当たり前」
そのギャ
シンデレラの話から変わらぬ「継親に対するいじめ」あるいは中途
福祉の世界で「普通は車椅子を使わなくても歩ける」
仮に、容疑者が血のつながった家族だったら、これらの事件は起きなかったのかどうか。そのような仮定に基づいて犯行を考える事にどのような意味があるのでしょう。
そこに価値があるとすれば、血の繋がらない家族に対する支援の必要性を先ず認めることが必要ではないでしょうか。
何度も書きますが、容疑者の資質的要因であれ、そうでないにしても、血の繋がりと犯行は関係がありません。殆どの中途養育者は虐待も犯罪も犯しません。
でも、仮に容疑者の資質的要因で事件が起きたとしても、きっかけが血の繋がらない事であるとすれば、その部分に対す配慮を社会がしっかりと根付かせる努力をしないと「臭いものに蓋」をするだけではないでしょうか。
養育者が交替する件を「臭いもの」にするのをいい加減止めてもらいたい、血がつながらなければそれ相応の支援体制を考える世の中になってもらいたい、そう願います。
このWebサイト内で何度か書いていますが、自分は離別したステップファミリーの子ども達を引き取り、代替養育を経験した親族です。
その立ち位置から、個人的には、親族里親という制度が実質的に機能していない事を挙
親族里親に関しては金銭的なものと考えるのが一般的かもしれませ
里親には研修の機会があると知り
何かないのか、と聞けばまた「すみませ
私は自分のために、児童心理学や中途からの子育てに関わるための知見を学ぶために
中途養育者は皆、大学で学びなおす必要が
しかし、
自分の経験からいえることは、中途養育者には教育の機会が必要なのです。
養育者が交替する事による、心にトラウマを抱えた子の養育は、通常の子育てマニュアルで対応出来ません。アタッチメントに関わる問題や、発達課題、二次障害など、専門の教育が必要であり、その応用は実親ケースとは異なるので、ワークショップは中途養育に特化する必要があると思います。
(ここは中途養育者側でも意見が分かれると思いますが)私は中途養育
中途養育者は
前にも言いましたが、
逆にいえば、実子の子育てよりも大変な子育てに携わることを、(自分で選んで始めた事であり)社会の責任にする
里親は「好きで始めたんでしょう」、ステップファミリーは「わかってて結婚したんでしょう」と言われます。
親族は「好きではじめた」訳ではなく、自分の家族が問題を抱えているため止むを得ず関わっている、これは案外、非当事者にも理解されるのです(もちろん家系的マイナスイメージを伴いつつですが)。
里親やステップファミリーはなぜ、困窮した際に同情されないのかといえば、親族のようにマイナスイメージを伴っていないからかもしれません。
中途養育者は、中途養育者である時点で、スティグマ(社会的烙印)を持って生きなくてはいけないことを、避るべきではないのです。
シス
私が今考えるのは、一つは社会が中途養育者の困難を軽減する「
もう一つは、中途養育当事者による「メンター活動」
中途養育は国内において課題が精査されていません。この状況は
あくまでも、自分の主観は今回の事件の容疑者を擁護するもので
「本当の親じゃないと言われて」殺害したと言われては、人
全ての中途養育者が(人知れず)頑張っているのです。
ただ、その頑張りは、
頑張って困難から抜け出した人がいたとして、その人が自分だけ「普通の枠組み」に入ってしまったとします。自力で困難から抜け出すことが難しい人たちにとっては、必死で困難から抜け出した人が頑張った部分が「普通の人には出来る事」として社会的ハードルが上がってしまい、さらに頑張ることが期待され、とても苦しくなる可能性があるのです。
規定概念の中の「良い当事者」「悪い当事者」が生まれる原因でもあります。
私は、当事者はもう「普通を目指す」のを止めるべきだと思っています。
「普通」は幻想です。
(今までと比較して)生活が良くなったか、悪くなったかはあるでしょう。でもそこの何処にも「普通」はありません。
また(自分もそう考える事があるのであえて書きますが)一般的に考える失敗例。
例えば、再離婚も、措置解除も、ダメなものと決めつけないでください。
今困難な人にとって、また支援に携わる人にとっても、貴重なリソースになる実体験だという事を考えて欲しいです。
先ず、「自分には関係ない」を止めましょう。出来る事は色々あります。自分も中途養育問題をずっと放置してきましたが・・・それではいけないと、最近は思い始めています。
これを読んで少しでも共感いただけるなら、一緒に支援活動に関わってほしいです。
もし貴方がFacebookをやられているなら、→こちらから繋がってください。
寄付という形でも良いと思います。仕組みを近いうちに作ろうと思います。
以上、まだまだ自分も活動が出来ていませんが、自分だけでは出来ない事を、意識のある人が先ず関わっていく、そんな状況を作っていきたいと思います。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
中途養育者サポートネット暫定的管理者
A-Step代表 町田 彰秀
埼玉県警は義理の父である進藤悠介容疑者(32)を逮捕、事情聴取で殺害動機を「本当の親じゃないと言われ」「腹が立った」と伝えているようです。
今回、この事件に関するネット上の記事に集まるコメントを見て、「中途養育者サポートネット」を暫定的ながらも管理している身として、個人的にも見解を述べておく必要があると思いました。
最初の部分と重複しますが、2018年9月18日に、さいたま市見沼区大矢の集合住宅に住む小学4年生、進藤遼佑くん(9歳)が殺害されました。
遼佑くんは教員の母親(42)と、義理の父である進藤悠介容疑者(32)の3人暮らしで、事件当日遼佑くんが「塾に行ったきり戻らない」ため110番通報。
警察が自宅の向かい側にあるメーターボックス内で遼佑くんの遺体を発見。
19日夜、警察は死体遺棄容疑で義父の無職新藤悠介容疑者を逮捕。
警察の事情聴取で殺害動機を「本当の親じゃないと言われ」「腹が立った」と伝えているようです。
マスコミは「本当の親じゃない」というキーワードにのせてこの事件の記事を乱出しています。以前より相変わらず、この手の事件に関してテレビのワイドショーに登場する著名な出演者の意見は世論に対して強い影響力があるように思います。ただ、殆どの記事がこの事件の解明に役立っているとは思えません。
実際の報道の中で、AbemaTIMESの報道が最も的確に犯行に及ぶ心理を捉えているのではないかと思うので、参考までにリンクしておきます。→突発的な犯行は“葛藤殺人”の典型例」小4男児殺害事件を臨床心理士が分析
マスコミは「本当の親じゃない」というキーワードにのせてこの事件の記事を乱出していますが、ネット上では、ほぼ予想通りの反応で埋め尽くされています。「本当の親じゃない」という言葉は、犯人を憎み、そのアイデンティティーを蔑むことを可能にし、事件を自分の日常と関係ない世界へ運んでくれる、免罪符であるかのようです。
2018年3月、目黒の5歳児(結愛ちゃん)虐待死事件、2019年1月、千葉県野田市の小4女子(栗原心愛ちゃん)虐待死事件と続く中、ネットを含めた世論では児童相談所を筆頭に、教育機関や警察も含めた支援体制の問題点をことごとく批判しました。また、残虐な虐待内容に対しても、なぜそのような事が出来るのか信じられない、すなわち、信じられない程残虐な「悪魔」のような人格を隠し持っている人間であるように結論づける人が多いように感じました。
もう一つ、目黒の事件では加害者の船戸雄大容疑者は義父でした。一方の千葉県野田市の栗原勇一郎容疑者は実父でしたが、ネット上には、「実は妻の連れ子で実子ではないのでは?」「実父かと思っていたけどその後の報道をみると継父っぽい」「鬼畜による継子虐待殺人」など(血の繋がりは明らかでないが2011年心愛ちゃんが2~3歳の頃、この両親は一度離婚し、6年後に再婚、その後次女を出産しているとのこと)。
事実が定かでない中で、残虐性を納得するための要因の一つに「血の繋がりのないこと」を期待しているかのように思えました。
そのタイミングで今回の「本当の親じゃない」ことが殺害理由とされている事件が起こりました。
ネット上では「再婚相手に連れ子が殺される」という事が「あるある」という反応で、認識される現実を垣間見ることが出来ました。
単純に考えて、血縁があろうとなかろうと、子どもを殺していいはずがない訳です。
しかしマスコミ及び一般視聴者は、新藤悠介容疑者が無職であったこと、出会いがネットであったことも含め、様々な憶測が飛び交う中、やっぱりな、と落ち着くところに「血の繋がり」を持っていきたいようです。
少なくとも継父(婚姻関係がない同居の男も含め)、「ステップファミリーは虐待のリスク要因」という説を強化することに貢献する事件ではないかと思います。
(捕捉しますが、今回の事件は虐待事件ではなく、殺人事件です)
付随して、この母に対しても、悠介容疑者と再婚した理由について、セクハラに近いバッシングが起きており、ひとり親支援への偏見づくりにも貢献してしまったと思えます。
いずれにしても、このサイトがサポートする「中途養育者」にとって、都合の良い事件とはいえないものとなっています。
ここで、このサイト「中途養育者サポートネット」について若干の説明をさせてもらいます。
この『中途養育者サポートネット』というサイトは、
なんらかの理由で子育てを引き継いだ親族,子連れ再婚(ステップファミリー)による継親,養親,里親となった方等, 赤ちゃんの乳児期,愛着形成期の中途,若しくは後より養育に携わることになった当事者が,お互いに補い,助け合える社会を築くことを目的としたコミュニティ ネットワーク推進活動のページ。
として、2010年ごろより私が暫定的管理者として立ち上げたサイトです。
参考:中途養育者とは
元々、中途養育者という言葉は、私の知っている限りでは認定NPO法人児童虐待防止協会理事・津崎哲郎氏が毎日新聞の記事(2010.4.10)「虐待死 なぜやまない」 野沢和弘氏による「ニュース論争」文中、当時花園大学教授であった津崎氏がこの「中途養育」という言葉を用いていたのが最初です。
里親家庭・ステップファミリー・施設で暮らす 子どもの回復・自立へのアプローチ――中途養育の支援の基本と子どもの理解
今から10年近く前の話になりますが、当時私はステップファミリーや親族が子どもの養育を肩代りしている場合にも、里親同様の研修を受ける機会を貰えないだろうかと考え、児童相談所に連絡をしました。
先方の答えは「何もありません」の一点張りでした。(しつこく粘ってアン基金プロジェクトというNPOがあることを教えてくれましたが…)
それ以来、公式(里親、児童養護施設職員等)であれ、非公式(親族、ステップファミリーなど)であれ、中途からの子育てに携わる方々は通常の子育てとは違った独特の大変さがあるという考えに基づき、その支援を受ける事が出来ない人たちのためには体制を独自に作っていく事が大事であると考え、今まで細々と活動してきました。
しかし、先にも書きましたが、ステップファミリー(血の繋がりのない養育者)は虐待のリスク要因として挙げられて(期待されて)います。
我々が声を上げる事は社会的スティグマ(差別対象としての烙印)を自ら背負うのと同じです。現実社会は甘くないのです。
中途養育者に対するサポート体制は広がりません。多くの当事者は「自分は大丈夫」と考えます。困窮したら「子どもを取り上げられるかもしれない」という事を怖れます。
多くの中途養育者には「扶養義務」はあっても親としての「権利」はないからです。
先ず、私はステップファミリーを含む中途養育者は通常の子育てとは違った独特の困難を抱えている事が世間一般に理解されていないこと、それを改善する必要があると思っています。その上で、ステップファミリーを含む中途養育者が、虐待のリスク要因となりうる事も理解しています。ただし、虐待要因と短絡的に考え家族を「監視」することによって、良い効果が得られるとは考えていません。中途養育者は「血が繋がっていなければ愛せない」という根強い実親規範によって弾圧される身の上です。
ステップファミリーは(なんらかの理由で)離散した家族に関わり、(実子以外の子育てに関わるという)向社会的活動に携わることになります。本来やらなくても誰からも咎められる筋合いのないことですが、やったとして、褒められもせず、「好きでやってるんでしょ」あるいは「判ってて始めたんでしょ」と、周囲の関係ない人たちからは認識され、「変わり者」もっと穿った見方をすれば「何か裏がある」とまで評されるのが現実です。
中途養育は一般的な子育てマニュアルには載っていない経験に対して、学習が必要です。しかし、公的にそれらを支援する機関は存在しませんから、自分でどうにかしなくてはいけない、いずれにしても気軽に出来ることではありません。
自分はステップファミリーの親族の子を引き取るにあたって、その難しさを実感し、子どもたちの最善を考え様々な機関をあたりましたが、この国には元々、実親との別離によるトラウマを抱えた子どもと向き合うために必要な知見をえるために必要な支援の仕組みが何もない、現実に直面しました。自分はそれを補うために児童心理や発達を学べる大学に入り直しました。里親子支援のアン基金プロジェクトやSAJ(ステップファミリー・アソシエーション・オブ・ジャパン)など、民間のNPO団体と繋がり、未だ何処にも存在していないと思われる「親族による代替養育」のあるべき姿について、独自に模索しました。
しかし、それらの事が誰にでも可能なことでしょうか。膨大な費用も時間も含め、自分はある程度恵まれていたといえるでしょう。一般家庭では(さらに困難を抱えた家庭であればなおさら)同じような事は出来ないでしょう。
つまり問題なのは、「ステップファミリーになること」自体にあるのではなく、「なんとなかる」と頑張り始めた当事者が、実親規範の強い日本社会において、支援体制が全くない中で孤立し、困窮するといった負のスパイラルに陥っていく事が問題なのだと思うのです。
今回の事件において、「本当の親じゃないと言われ」「腹が立って」「殺した」という事のようですが・・・
自分の経験でも「本当の親じゃないくせに」という言葉を受けたことはあります。一度だけではありません。
もちろんそう言われることはショックです。子ども側もそういわざるを得ない事情があります。実際に親でもないのに、親のように高圧的であれば、売り言葉に買い言葉、ケンカの封切になる言葉として機能してしまうのです。怒りに任せて殺意に近い感情を覚える人もいるかもしれません。
ただし、それで、殺人を実行する人はいません。当然です。
私の知っている中途養育者全員に言える事です。本当の親じゃないといわれてかっとなって殺す、のは「あるある」ではありません。
腹を立ててもじっと我慢するのが「中途養育者」の「あるある」です。
また、一般的に、親の立場からすれば実親のようになろうと頑張っているのに「親じゃないくせに」と言われれば心が折れる、と考えがちかもしれません。確かに心は折れます。しかし、「親じゃない」のは事実です。「親になりすます」事は本来、中途養育者はするべきだとは思いません。
私は中途養育者は「社会的養護」の立場、つまり「児童養護施設職員」と同じ立ち位置だと思っています。「里親」の一部の方は、実子同様に育てたいと思っている方はいると思います。しかし、中途養育者サポートネットでは「保育者」や「教育者」と同様(仮に非公式だとしても)社会的に公の立場で子どもに関わる前提の覚悟が必要だと思っています。実の親を目指すべきではありません。多くの場合、実の親は、この世に「実在」するのです。仮にこの世にいないとしても、嘘を通すことは子どもの権利に反すると、我々は考えるのです。
もちろん、子どもが健全に育つ上で、施設養護より、家庭(的)養護であるべきだと思います。職員のシフトによるシステマチックな施設養護よりは、同一人物に監護されるべきなのは難しい理屈がなくても理解できるでしょう。子どもは家庭で養育に携わる者から様々なことを学ぶのです。子育てには実の親子関係(に類似した関係性)が必要だと思います。
ただ、一つ断っておかなくてはいけないとすれば、どんなに頑張っても「実の親子にはならない」という事です。なる必要もないと思います。実際に「実の親子のようになる事を」夢見る中途養育者がいる事も知っています。そこをゴールとして頑張る事は、少なくとも子どものためにはなりません。
今回の事件において、義理の父である進藤悠介容疑者は「本当の親じゃないと言われ」「腹が立った」ことをほのめかし、マスコミはそれが殺人の動機であるかのように報道しました。先にも書きましたが、本当の親じゃないと言われて殺人を犯して良い訳がないし、そのような事は中途養育者に許されていません。しかし、中途養育者が虐待のリスク要因として期待されている事は事実であり、中途養育者特有の養育困難が解消される事が、虐待予防という観点から見て必要であることは明らかでしょう。
それと、前出の津崎氏が10年近く前から言っている事「中途養育者には教育が必要」という事を、あらためて熟考していく必要があると思っています。
それがDV親や虐待者を矯正するプログラムなのか、里親研修のように認可に必要なプログラムと同じでいいのかは判りません。養育困難に陥っていてもDVや虐待をしていないのなら、矯正される筋合いはないし、ステップファミリーや親族は非公式な養育なので(非公式という言い方も良いのかは判りませんが)認可などと上から目線で言われる筋合いはありませんから、既存のプログラムを参考にしたとしても新しい枠組みで作られるべきだと思います。
しかし、この国には家庭が困窮する前段階での「予防としての取り組み」が圧倒的に不足していて、参考になるプログラムが見当たらないのです。
自分はカナダで開発された児童虐待予防のためのプログラム「ポジティブ・ディシプリン」が中途養育者を支援するプログラムとして機能するのではないかと考え、数年前よりその普及に関わってきましたが、おそらくファシリテーターの養成も含めて相当な時間がかかることが予想されます。
施設職員や里親とは違って、「非公式な中途養育者」は学ぶ機会がありません。せめてその「学びの機会」に国家予算のほんの一部を割いても良いのではないかと思います。先ず、予防としての「中途からの子育てに関わる学び」の仕組みを検討するべきだと思います。目黒の虐待事件を受けて東京都の小池百合子都知事は「児童相談の人員や予算を優先的に措置」すると表明しているようです。中途養育者に学びの機会を作る事は、おそらく児童相談所で働く児童福祉司を増やすよりは全然お金はかからないと思われます。
もう一つは、当事者組織の確立です。
里親、施設職員、またはステップファミリーという枠組みでの自助団体は存在する事を知っています。しかし、中途養育者という枠組みでの当事者活動は、おそらく当サイト以外には存在していません。我々はLGBTの子育てにも中途養育者がいることを知っているし、週末里親やファミサポなど一時的保育者も中途養育者と考えています。
それぞれの役割は同じではないでしょう。でも子育てに関わる共通の知識や見解などは共有されて然るべきだと思います。
以前、里親子支援のアン基金プロジェクトにおいて、「里親メンター」という制度がありました(実は我が家庭も、里親ではないですがその制度の利用者でした)。たしか日本財団の助成事業であったため、残念ながら現在はなくなってしまった(はず)です。
当事者が当事者に寄り添う仕組みとして、私はその後、地域活動の中で、ペアレントメンター(発達に課題を持つ子の親によるメンター活動)の立ち上げに関わりました。
今、やるべきなのは、ペアレントメンターの概念を広げ、その中に「中途養育者メンター」を内包していくことではないかと思っています。
中途養育者は地域的に少なからずいるはずです。ただ連絡をとる機会がないだけです。多くの中途養育者は自分たちの経験が社会資源になるとは思ってもいないし、自分たちが遭遇した困難は(恥ずべき事として言い辛いと考えたとしても)なんとか乗り切ってきたことは、これから同様の困難を抱えるであろう人々にとっては勉強になるという認識もないでしょう。しかし、それらの資源を有効活用することが可能になれば、追い詰められ、困窮している家族の救いになることが出来ると私は信じています。
そういった機会を作っていく事こそ、今から私たちが取り組んでいくべき事ではないか、そのように感じています。
]]>先ず、このサイトの更新がほぼ2年半ぶりであることについて、自分自身も驚くと共に、その間中途養育問題に関心を持ち、ウエブサイトに辿り着いた方々には、更新出来ていなかった事をお詫び申し上げます。言い訳になりますが、一個人として、中途養育問題に関わっていく事に些か気持ちが折れていました。
2016年末にUPした「フューチャーセッション」の案内を除けば、前回の記事は「津久井やまゆり園の事件について」でした。元々事件を取り上げるためにこのサイトを立ち上げた訳でもないのに、このような形での更新しか出来ていないことについては、大変申し訳なく思います。
そのような状況で今回の事件を取り上げ、書かなくてはいけないような気がしたのは、この事件の容疑者の家族構成にあります。
その視点にのみ、書く意義を見出している訳であるから、この事件から多くの悲しみ、怒りを感じて当該記事に辿り着いた方は読まれるにあたり注意が必要かもしれません。
自分は今回の事件に関わるカリタス学園の子ども達や学校関係者、不幸にして亡くなった外交官の方と小学校6年生の女子に関しましては深くご冥福をお祈りし、関係の皆様にお悔やみ申し上げますが、その上で、この事件の容疑者である51歳の無職の男性について、もちろんこのような事件を起こして良いなんてことはあり得ないし、許される事ではないという前提で、単に憎しみを露わにし、怒り、極刑を望む等の感情に浸っていてはいけないと、思っています。
犯人を憎むだけでは足りないのです。
我々はこれらの事件をどうやって無くしていくのかを考えていかなくてはいけないのだと思うのです。
ただ、これは簡単な事ではないでしょう。何所をどうすれば、このような凄惨な事件が起こらないのかが判るのであれば、もっと早くに予防法が開発されているかもしれません。
先ず、この事件には判らない事が沢山あります。動機も判らなければ、容疑者が何を考えていたのかも判りません。ただいくつか判っている事もあります。
これらの要素で何か決定的に言える事があるとは思えませんが、おそらく典型的な家庭のイメージと離れている部分を感じられる人は多いと思います。
その他にも色々あるとは思いますが、上記の「何故」は、中途養育における「社会から見た何故」に似通った課題があると思われます。
中途養育における「社会からみた何故」とは、先ずは「何故、実子でない子を養育するのか」ということになります。理由はいくつかあるでしょう。
などが考えられます。
自分も含め、親族が実親に代わり養育を肩代わりする理由は「やむをえず」になる場合がほとんどでしょう。民法877条1項 で「直径血族及び兄弟姉妹は、互に扶助をする義務がある」としています。容疑者の同居者はおじ、おばであり、3親等親族となるため、実際には当然のように扶養義務を負うのではなく、家庭裁判所に申立をして家庭裁判所が「特別事情」があると認定して初めて義務が生じるものです。(民法752条)
岩崎容疑者の家庭事情は定かではありませんが、実親(父・母共)離婚したとはいえ生存しているのならば扶養義務は実親のどちらかになるのではないか、と考えるのが普通でしょう。つまり、ここが(何らかの形かは不明ですが)「普通」ではない事が判ります。
この事件の容疑者の家族は、現在話題になっている80-50問題に到達した中途養育者であることはほぼ確定していると考えられます。
8050問題とは、現代日本に発生している家族に関する問題であり、名付けたのは大阪府豊中市社会福祉協議会の勝部麗子氏であるとされていますが(→Wiki参照)ひきこもり等の家族問題の親子関係が既に20(子)50(親)ではなく、50(子)80(親)であるという実態がある、という説です。
これを執筆している自分自身、50代であり5080問題からすればまだ子ども側の世代であるといえます。しかし、養育者という立ち位置からすれば既に扶養者は成人しており、その中で進行していくであろう自身の衰えと既に社会的に養護権を失った子ども(社会的には大人ですが)との今後の展開など、生きていれば必ず訪れる年月であろうことは間違いない訳で、それらについて無関心でいることはあまりにも責任のない立ち位置になろうかと。もちろん積極的に考えるには至りませんが、気持ちの中の一つの気がかりであることは間違いありません。
この事件においては当該容疑者が自死しており、何を考え反抗に及んだのかも判らず、この事件の記事の殆どが実際に判っている事を結び付けて様々な憶測が飛び交う事に貢献しているにすぎません。定かになっている事が少なすぎるため、仕方がないのかもしれませんが、岩崎隆一容疑者が「異常だった」で片づけていい問題ではないと思います。ゆるせないとか、怒りの感情を向ける気持ちが解らない訳ではないですが、もっと本質的な問題、自分が所属する家族が社会的に「普通」とされる状態から遊離してきた際に、どう舵取りをして(家族以外の)地域社会とかかわっていくか、そういった問題だと思うのです。
従兄弟がカリスタに通っていたというのだから、貧しい家系ではないのでしょう。また、従兄弟は既に独立して同居していないのにも関わらず、ひきこもり(と思われる)甥を扶養しつづけたおじ・おばの存在は「やむをえず」にしては長期に渡りすぎているとも思えますが、これは(経済的に)扶養することが可能であったから、という捉え方も出来るでしょう。
自分たちが面倒を見られなくなったら・・・これは障害を持つ子のいる親であれば、皆考えている共通項目です。しかし、障害受容出来ていなかったら、自立若しくは自立支援は先延ばしになります。今回のケースでは先延ばした年齢が50-80になったという事でしょう。
「家」という存在はブラックボックスに成り得ます。中途養育者は外部に繋がりにくいことは、このWebsiteでは何度かお伝えしている事です。それは社会的な「普通」という概念から来る負い目を、中途養育者が感じ、さらにそれらの問題を先送りするだけの経済力を持っているから起こる事だと思います。
経済的に破綻せよ、というつもりはありません。しかしそのゆとりを、もっと違う方向に使うべきではないかと思います。
一般論で言うのは良い事だとは思いませんが、中途養育当事者が、もっと自己開示すべきなのだと自分は考えます。
これは中途養育当事者に限りませんが、困窮を乗り越えるために頑張ったとして、仮にそれを乗り越えたとして、自己完結してしまえば、自分が築いた大変な思いは「頑張れば出来た事」になり、頑張っても乗り越えられない困窮者をさらに虐げる事に加担する事になるのです。あなたが頑張って出来た事を、いくら頑張っても出来ない人達に、そのノウハウを伝えるくらいの事は出来そうでなないでしょうか。
「通常の」育児は、伝えられていきます。
発達障がい児の親による支援も、遅ればせながら伝えられる仕組みが出来はじめてきました。(参照→ペアレントメンター制度)
しかし、養育に中途から関わる、かなり大変な育児に関して、先人たちは何も伝えてこなかった。これにはいくつかの問題があって伝えることが簡単ではなかったためでもあります。
それは、実子ではない子を育てる「理由」が個々で違うからです。
また、「子育ての大変さ」が均一でもないです。
それらの事情から、大変さは「生活困窮レベル」になって初めて浮上してきます。
ここを少し「予防」という概念を取り入れる仕組みを、作っていくべきだと思うのです。
今回の事件と同様に「行き詰まる」家庭は増えていく事が予想されます。行き詰る前に、支援する。
どうやって?具体的な策が思いつく訳ではありませんが、いずれにしても、中途養育者が地域的に孤立しない仕組みを考えていく事。
これを先ず、ここまで読んでくださった方に、我々と一緒に、是非考えていって貰いたいのです。
]]>(もちろん子連れでなくてもOKです)
育児、もしくは育自に興味のある方は是非!プロのマッサージコーナーやクレープ屋さん、マフィンその他、nikoマルシェさんの企画が満載です!
「ゆる育児」と「nicoマルシェ」と「ピーくんガーデン」が手を取り合って、ココロとカラダの力を抜いて、ゆる〜く過ごせるようなイベントをやります!
ハンドメイド販売
ワークショップ体験
美味しいご飯とスイーツ
ゴロゴロマットスペース
【日時】
11月12日(日)
11:30〜16:00
【場所】
東京メトロ千代田線「北綾瀬駅」徒歩2分。
ピーアーク内1階 ピーくんガーデン
■大型無料駐車場完備!
雨でも濡れずに会場にお越しいただけます。
■駐輪場もあります。

ゆる育インスタンス=中途養育者に限定している訳ではありませんが、中途養育者を歓迎するサイト、というスタンスを取っています。
内容はリンク先の「このインスタンスについて」にも書きましたが、
・Facebookとの違いは、匿名(ニックネーム)参加OKなこと。
・Twitterとの違いは、一つの投稿の文字制限が500文字である(Twitterよりも長い)こと
・タイムラインは 1.自分 2.ローカル(ここから登録した人)3.連合(その他の場所から登録した人)の3種類あり、自分の投稿を公開する範囲を決められること。
Facebookでは友達の手前、書けない、Twitterでは言葉が足らない、などのニーズに答えられると思います。
よかったらご参加ください。
※現在、このサービスは終了しています。
]]>今年はみなさまにとってどんな一年だったでしょうか。
ゆる育児に来年度も(ゆるやかに)頑張っていく所存です。
みなさまにおかれましてはまた、お付き合い頂けますと嬉しく思います。
さて、来年の話になりますが、2017年2月11日(建国記念日)に足立区西新井にて未来の養育を考える「ゆる育フューチャーセッション」を開催します。
今回のセッションでは、里親、児童養護施設で働く方、またその当事者など社会的養護に携わる方々を招き「育児」の先にあるものをそれぞれの体験から学んでいきます。
また、ひとり親、子連れ再婚、親族養育、里親、LGBTによる子育て等に代表される「定形外の養育」、外国人問題や発達障害を抱える家族など、多様化する家族形態を学ぶ機会の中で、現状の問題や解決するべき点について、「フィッシュボウル形式」の中で立場の異なる参加者がそれぞれの立ち位置を理解する場を設け、その中で多様な養育に対する偏見の防止と「孤立した育児」に陥いる人への適切な支援を考えていきます。
このセッションによって自らが子どもの目線に立ち戻り、未来社会を構築していくための一助となればと思います。
参加費は無料、先着50名程度を予定しております。
みなさまのご参加、お待ちしております。
詳細・申し込みページはこちら↓
社会的養護から非公式養育まで、子どもの養育に関する様々な立ち位置の方をゲストに招き、地域の子ども支援にかかわる方や、関心を有する方々を集い、話し合い、情報交換することで、社会的偏見に基づく「子どもの貧困」「孤立」や「児童虐待」を防止する地域での活動にじっくりと繋げていく。
・里親、施設職員等の社会的養護に携わる方
・ステップファミリー、親族などの非公式養育に携わる方
・地域の子ども支援に関わる方
・定形外の家族のあり方に関わる方
・上記に関心をお持ちの方
※詳細情報は順次更新してまいります。ご査収ください。
ゆる育児キャンペーンは、元々は東京都内で児童虐待防止の啓発活動を行う複数の団体による協働事業でした。2012年に始まり今年で5年目を迎えます。(足立では4年目です)
本来「ゆる育児」が目指すものは、社会通念に当てはめる過程で現実的でなくなってしまった養育規範から「個々の現実に則した育児を取り戻す」ことであり、その先にある目的は、よりよい共生社会を目指すことです。
「私の子育て」と「みんなの子育て」をゆるやかにつなげば、子どもの成長を社会全体で見守れる環境になるはず。
そのためには、人知れず排除されている「子育て」当事者の形態を学びなおす必要があると考えました。
今回のセッションでは、里親、児童養護施設で働く方、またその当事者など社会的養護に携わる方々を招き「育児」の先にあるものをそれぞれの体験から学んでいく。
また、ひとり親、子連れ再婚、親族養育、里親、LGBTによる子育て等に代表される「定形外の養育」外国人問題や発達障害を抱える家族など、多様化する家族形態を学ぶ機会の中で、現状の問題や解決するべき点について、フィッシュボウル形式の中で立場の異なる参加者がそれぞれの立ち位置を理解する場を設ける。
その中で多様な養育に対する偏見の防止と「孤立した育児」に陥いる人への適切な支援を学ぶ。
「孤育て」防止が言われるようになりましたが、子育ては「個育て」でもあり、子ども一人一人の個性が尊重されるものでなくてはなりません。
このセッションによって自らが子どもの目線に立ち戻り、未来社会を構築していくための一助となればと思います。
14:00 開場
14:20 開会 挨拶
14:25 キーノートスピーチ
15:25 (休憩&会場のレイアウトなどを変更させていただきます)
15:30 フィッシュボウル(全員参加!360度トークセッション)
16:10 マグネットテーブル(ワークショップの仲間を見つけましょう)
16:20 クイックプロトタイピング(ワークショップ:地域に活動でつながる)
16:50 まとめ
17:00 交流会 (同じ会場:ワンオーダー単位精算制)
NPO法人 東京養育家庭の会 理事長
昭和19年生まれ、早稲田大学教育学部卒業後、小田原小年院に法務教官として勤務。その後東京都民生局に異動して各種障害者施設に勤務。この頃、国際障害年前後の時でもあり日本障害者協議会に関与する。
平成4年児童相談所に異動。児相福祉司の時に障害児デイサービス事業の応援、里親として里子を受託し家庭養育の仲間入りをする。平成17年に退職後、学童クラブの運営にあたりながら、東京養育家庭の会の理事長となり現在に至る。
(共著)
『施設・里親から巣立った子どもたちの自立: 社会的養護の今』
『虐待を受けた子どもが住む「心の世界」 養育の難しい里子を抱える里親たち』
『社会的養護における里親問題への実証的研究―養育里親全国アンケート調査をもとに』
和泉広恵
日本女子大学 人間社会学部 現代社会学科 准教授
里親子支援のアン基金プロジェクト理事長
モッキンバードファミリーモデル・東日本の親族事情
(著書)
『里親とは何か-家族する時代の社会学』
(共著)
『現代日本の人間関係―団塊ジュニアからのアプローチ』
福田茂雄 NPO法人 フク21ふらっとホーム 理事長
大島由紀雄 NPO法人 きずなメールプロジェクト 代表理事
ゆる育児キャンペーン実行委員会
大山光子 がきんちょファミリー こどもど真ん中プロジェクト 代表
大竹恵美子 NPO法人ぷらちなくらぶ 理事長
中村央 ワーカーズコープおひさま 所長
石坂好恵 こどものSOSに目を向ける 代表
(モデレーター)
小山訓久 NPO法人リトルワンズ 代表理事
(コーディネーター)
町田彰秀 A-Step 代表/中途養育者サポートネット HP管理人
豊住吉弘 公益財団法人つなぐいのち基金 常務理事/Link-Age Project 事務局
大久保健 クリスマスヴィレッジ 里親支援専門相談員
|セッションの詳細
下記のWEBツールに記載しております。ご査収ください
また、開催レポートやWEBコミュニティ掲示板機能とし
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