Advertise with Googlier.com 史跡巡り おすすめ観光スポット http://bakumatu.wealthyblogs.com 幕末史跡中心におすすめ観光スポットを紹介します Thu, 12 Oct 2017 03:40:18 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.9.19 会津若松のおすすめ観光スポット http://bakumatu.wealthyblogs.com/archives/1325 Sun, 07 Nov 2010 14:11:24 +0000 http://bakumatu.sitemix.jp/?p=1325 幕末スポット好きなら一度は行くべき会津若松 会津若松市は福島県の中通り、中央北部の町ですが、その歴史は古く、中世の蘆名氏、伊達氏の支配を経て、江戸時代には二代将軍「徳川秀忠」の四男として産まれた「保科正之」を祖とする会津 […]

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幕末スポット好きなら一度は行くべき会津若松

会津若松市は福島県の中通り、中央北部の町ですが、その歴史は古く、中世の蘆名氏、伊達氏の支配を経て、江戸時代には二代将軍「徳川秀忠」の四男として産まれた「保科正之」を祖とする会津藩の藩都として肥沃な農地を背景に、幕末まで約250年間に渡って栄えてきました。

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NHKの大河ドラマでも度々その歴史がクローズアップされ、白虎隊や新撰組の土方歳三や斉藤一、新島八重などにまつわる様々な逸話が残された土地です。

戊辰戦争の中でも最も激戦となった会津戦争の舞台でもあり、幕末スポットが好きな人ならば一度は訪れたい史跡が点在する、最も魅力的な町と言えるでしょう。

最低限押さえておきたい会津若松の幕末史

会津若松に観光で訪れる人は史跡探訪が主な目的だと思いますので、幕末史の簡単な流れは是非押さえておきたいところです。

一般的に学校で教わる歴史はその良し悪しは別として、戊辰戦争の勝者、即ち薩摩・長州・土佐・肥後を中心とした明治政府側の都合の良い様に書き換えられていますので、幕府側に付いた会津藩や仙台藩、長岡藩の立場から見た戊辰戦争を知って置くことがポイントになります。

日本はペリーの来航から本格的な幕末の動乱を迎えますが、戊辰戦争の終結まで会津藩は一貫して幕府を支える最大の有力藩として大きな役割を果たしました。

会津藩が幕府を献身的支えた理由

藩祖の保科正之自身が将軍家に恩を感じて尽くした人だった

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保科正之は二代将軍「徳川秀忠」の四男として認知はされているものの、秀忠が側室ですらない身分の低い女性に産ませた子で、所謂落胤でした。
本来であれば藩主になれる身分ではなかったのですが、異母兄弟である三代将軍「徳川家光」の厚意で会津藩を与えられます。

正行は家光がもっとも信頼する家臣となり、将軍家に恩を返すべく忠義を尽くしました。

そして幕府に忠義を尽くす事を藩訓と定め、代々の藩主がその藩訓に従う事になります。

最後の藩主 松平容保は聡明で孝明天皇の信頼が厚かった

松平容保

松平容保は徳川御三家、尾張藩の支藩である高須藩松平家出身で、12歳の時に会津藩の8代藩主である松平容敬の養子となりました。

養父の容敬が病弱で40代半ばで死没した為、16歳という若さで大藩、会津の9代藩主となりますが、幼少の頃から儒学の英才教育を受けていた事もあり、会津藩の藩訓を誰よりも重要視した人でありました。

日本の国体と言うものは天皇家の賢威により成り立ち、徳川将軍家は最高権威者である天皇の政権委任を受けているからこそ、正当な政権運営者であるとみなされるのが常識でした。

特に容保が藩主となった時の天皇は、幕府に厚い信頼を置いていた「孝明天皇」でしたので、天皇家にも徳川家にも忠勤を尽くす容保は、孝明天皇にとっても最も信頼のおける人物だったと言われています。

家臣の反対を押し切って京都守護職に

京都では、尊皇攘夷派の志士達による暗殺が横行し、治安が極端に悪くなりましたが、志士らを抑えて京都の治安を回復させる為に容保は京都守護職の任に就くことになりました。

大量の会津藩兵を率いて京都の治安に当たる事は藩の財政を圧迫し、西郷頼母などの重臣がこれに強く反対しますが、最終的に容保は藩訓に従い、その任を受ける決意をします。

会津藩兵や新撰組を使って志士らを殲滅

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新撰組による池田屋の襲撃により、多数の死者を出した長州側の志士達は、更に蛤御門の変でも会津や薩摩を中心とした治安部隊に散々に蹴散らされ敗走します。

こられの治安維持行為が長州志士らの根深い恨みを買い、後の苛烈な会津戦争に繋がって行きます。

鳥羽・伏見の戦いで充分な戦力を残しながら敗走を余儀なくされた旧幕府軍

薩摩の裏切りにも遭い、第二次長州征伐に失敗した幕府は次第にその力を失い、戊辰戦争の幕開けとなった鳥羽・伏見の戦いでは長州が作らせたニセモノと言われている「錦の御旗」の出現に足並みを乱し、戦闘に破れます。

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既に容保を信頼していた孝明天皇は既にこの世を去り(暗殺の可能性あり)、世界と日本の時流の大局を見極めていた15代将軍徳川慶喜が、容保ら徹底抗戦派を押さえて彼らを連れて江戸に遁走した事で、正当な旧幕府軍としての抵抗に終止符を打ち、その後旧幕府は一貫して恭順の意を示し続けましす。

恭順の意を示すも許されなかった容保

慶喜の謹慎を受け、容保も新政府軍に対して恭順の意を示したものの、その処遇についての裁定は慶喜が謹慎であったのに対して、容保は死謝という苛烈なものでした。

この裁定には、容保が京都守護職であった時に、傘下の新撰組や会津藩兵による取締りで多くの志士の命を奪われた長州の私怨が含まれていると言われています。

ここに至り、鳥羽・伏見の戦いではまだまだ余力を残して撤退した会津藩は、やむなく徹底抗戦の構えを捕る事となります。

会津周辺の奥羽越の諸藩は会津救済に団結するも力及ばず

東北北陸の諸藩や新撰組の残党など、会津藩に恩があったり、その幕府への忠勤を高く評価していた勢力は、会津を救済しようと外交努力を重ねるも結果が出ず、やむなく新政府軍との交戦の道を辿る事になりますが、兵の装備の差が激しく、白河・二本松・長岡など、次々と要所を攻略されてしまい、ついには会津若松に新政府軍がなだれ込む事となりました。

既にこの段階で会津藩には万に一つも勝ち目は無かったのですが、会津藩士は老若男女を問わず、勇敢に戦い抜きます。

市街戦の局地的な斬り合いでは、会津側が有利に戦いを進めた場面もありましたが、銃器や大砲などの火力の差が大きく、野戦ではほとんど勝ち目がありませんでした。

白虎隊の悲劇もこの一連の戦闘の最中に起きています。

次々とアームストロング砲の砲弾が鶴ヶ城に打ち込まれる中、籠城戦で1ヶ月持ちこたえるものの、ついに会津藩はやむなく降伏することとなりました。

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戊辰戦争の史跡を辿るならこのルートがおすすめ

東京から新幹線を利用して会津若松を目指すのであれば、およそ3時間で会津若松に到着する事が可能です。

ですが、会津若松には各所に史跡が点在していますので、市内はレンタカーで移動した方が何かと便利ですし、新政府軍の侵攻ルートに沿った形で白河や二本松の史跡に立ち寄りながら車で会津に向かうのもおすすめです。

東京から新白河まで1時間20分掛けて新幹線で移動し、新白河でレンタカーを借りてそこから北上して二本松を経由、新撰組の土方歳三が奮戦した「母成峠古戦場跡」に立ち寄り、猪苗代市、会津若松市外に向かうルートです。

白河市 戊辰戦争の史跡

白河市は白河の関で有名なように、関東から東北への玄関口となる、古来から地政的に重要な場所とされてきました。

会津に攻め入る為には、新政府軍がまず攻略しなければならなかったのが白河です。

この地を巡り、1868年閏4月から7月にかけて同盟軍と新政府軍の間で8回に渡る攻防が繰り広げられました。

初戦は会津藩・仙台藩がそれぞれ1,000の援軍を出しており、これに旧幕府軍・新撰組・棚倉藩兵が加わり、同盟軍は2,500の兵力となりました。

会津藩は西郷頼母を総督、横山主税を副総督としています。

対して新政府軍は伊地知正治を参謀として700~800の兵力でしたので、兵力としては圧倒的に同盟軍が有利な状況でした。

しかしながら、会津藩・仙台藩ともに総督・参謀らに近代戦の実戦経験がなく、自ら前線で采配を振るい、次々と指揮官が銃弾に倒れて行きます。

昔ながらの白兵戦と違って、思わぬところから弾が飛んできてやられてしまったのでしょう。

指揮官を失い、同盟軍は壊滅状態となり、開戦から3日目に白河城をあっさり奪われてしまいます。

この後、城を巡って3ヶ月間に渡り、両軍の攻防が続きますが、最後は新政府軍が同盟軍を退け、この地が二本松・会津侵攻への足掛かりとなります。

白河小峰城址

白河小峰城址
奥に見えるのが三重櫓です。

本丸は戦火により消失しています。

三重櫓…平成2年に再建されていますので非常に綺麗です。

白河小峰城三重櫓

内部はこんな感じです。

3階部分まで上がる事が出来ます。

白河小峰城三重櫓挟間

挟間からの景色です。

市内が一望出来ていい感じです。

三重櫓

築城の際に人柱にされた娘の碑です。

三重櫓の脇に建っています。

おとめ桜の碑

おとめ桜の碑

展覧産馬記念碑、白河にも明治天皇が巡幸してるんですね。

天覧産馬記念碑

 

白河市稲荷山古戦場跡

白河市稲荷山古戦場跡は白河口の戦いで激戦地となり、会津藩の若年寄、横山主税などが戦死した場所です。

周辺には両軍の墓碑が数多く見受けられます。

戦死墓
白河市稲荷山古戦場跡

会津藩戦死墓

横山主税・海老名衛門ら、304人の名が刻まれています。

白河市稲荷山古戦場跡会津藩戦死墓

会津藩士、田辺軍次の墓

田辺軍次は、白河口の戦いで同盟軍が敗れたのは、後に白河県から白坂町取締りを任命された大平八郎が、新政府軍の道案内をした為であると信じていました。

戊辰戦争後に会津藩が滅藩となり、斗南藩(青森県むつ市)に転封された後に、約一ヶ月を要して白坂に到着後に、白坂宿鶴屋にて八郎を惨殺し、自らもその場で切腹して果てます。

白河市稲荷山古戦場跡会津藩田辺軍次の墓

長州・大垣藩六人之墓

白河口の戦いで戦死した、長州藩と大垣藩の将兵6名が葬られています。

大正4年までは薩摩藩7名の戦死者もここに葬られていました。

明治9年6月に明治天皇が立ち寄り、供養しています。

白河市稲荷山古戦場跡 長州藩 大垣藩 薩摩藩 戦死墓

稲荷山古戦場跡

西郷頼母の歌碑が建てられています。

白河市稲荷山古戦場跡

西郷頼母の歌碑

「みをかくす ことのできる かたつむりが うらやましい」

白河市稲荷山古戦場跡 会津藩 西郷頼母 歌碑

西郷頼母は、会津の祖である保科家の血を引く会津藩の家老でした。

一方で会津藩主・松平容保は、御三家尾張の支藩・美濃の高須藩から養子として会津藩を継いでいました。

祖父が水戸から高須に養子に入っていましたので、容保は水戸の血筋という事になります。

容保は会津藩初代藩主、保科正之の残した家訓に縛られ、西郷頼母の反対を押し切る形で、京都守護職を引き受けます。

要所要所で会津藩はかの家訓に縛られ、幕府の為に倒幕派の恨みを肩代わりして受けて行きます。

西郷頼母は保科家の血筋であったからこそ、家訓に縛られ過ぎないように諫言を重ねています。

これは会津藩の未来を思えばこその行動でした。

戊辰戦争の初期は、一貫して恭順する事を訴え続けていましたが、これが受け入れられずに蟄居させられてしまいます。

もう、戦争が避けられない状況となってから同盟軍の指揮を取るために戻されるのですが、白河口の戦いでは惨敗し、会津戦争の際には一族21人の自刃という憂き目に遭っています。

頼母自身は明治36年、74歳まで生き永らえており、この悲痛の思いに耐えながら、戦後の半生を送っている訳です。

周囲からも、朝敵会津・恭順を主張した腰抜け・切腹せずに生き永らえた臆病などと酷評されながら、そのような歌を残しています。

頼母としては、会津藩を思うが為に行った事ばかりでしたので、この様な結末となり、無念の思いであった事でしょう。

二本松市 戊辰戦争の史跡

白河から東北道を北上、車で約1時間で二本松に到着します。

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二本松藩も新政府軍による激しい攻撃を受けて、白虎隊よりも若年舞台が参戦しています。

白虎隊よりも若年の部隊 二本松少年隊

隊長木村銃太郎と少年隊士

白虎隊は16歳~17歳で編成された部隊でしたが、二本松少年隊は12歳~17歳の部隊でした。

会津は観光地としても非常に有名ですし、白虎隊の存在は万人が知るところであると思います。

それに比べて、二本松少年隊は認知度が低く、史跡に訪れる人もあまり多くはない様ですね。

二本松藩は織田信長の家臣、丹羽長秀の血筋の藩で戊辰戦争当時は、9代藩主丹羽長国が藩主を務めていました。

二本松藩は奥羽列藩同盟に加入し、主力部隊を白河方面に出していたのですが、1868年7月26日に近隣の三春藩が新政府に恭順してしまい、白河から進軍した板垣退助の部隊が三春城に無血入城します。

この板垣の部隊が二本松に侵攻を開始するのですが、二本松領内には主力部隊不在の為、少年や老人達までが出陣しなければならない緊急事態に陥ります。

藩は止むを得ず、数え年で13歳以上の少年にまで出陣許可を与えます。

ここで12歳から17歳までの出陣を嘆願した少年62名が、各部隊に配属されました。

特に最大の激戦地と言われた、城下入口の大檀口は、22歳の砲術師範・木村銃太郎を隊長とする、木村塾門下生を中心に編成した25名の少年のみで防衛に当たる事になりました。

それ程に正規の兵が不足していたという事です。

7月29日の朝に城下の各所で戦闘が開始されましたが、新政府軍7,000の兵力に対して、二本松防衛軍は僅か1,000の兵力しかなく、武器の性能差も大きなものがありましたので全く勝負にはなりませんでした。

その日の正午には城は炎上し、落城してしまいます。

この二本松での戦闘に関する逸話を2つ程紹介します。

長州藩士・白井小四郎を討った14歳の成田才次郎

二本松藩の剣術は、「斬る」事よりも「突く」事に重きを置いていました。

これは忠臣蔵で有名な浅野家と丹羽家が婚姻関係にあり、浅野が松の廊下で吉良を討ち損じたのは斬りつけた事によるという教訓から来ているそうです。

才次郎も父親からこういう教育を受けており、戦場でこれを実践しました。

白井と対峙した時に迷わず腹を狙って「突いた」のです。

この「突き」より、才次郎は白井を倒す事が出来ましたが、その直後に銃撃を受けて自らも命を落とします。

倒された白井の方も、才次郎と対峙した時に戸惑った事でしょう。

その隙を突かれて刺殺されてしまいますが、こういう少年兵と戦わなければならなかった新政府側の兵も自分たちの戦いに疑問を抱いたのではないかと思います。

13歳・岡山篤次郎

篤次郎は出陣にあたり、着物から手拭いに至るまで「二本松藩士 岡山篤次郎 十三歳」と母親に書いて貰うように頼みました。

自分の遺体を探し易くする為でしたが、母親はどういう気持ちでこれを書いたか考えると、やるせない気持ちになりますね。

二本松市はこういう出来事が起きた地です。

人口は約6万人と大きな市ではありませんが、こういう事が起きた事を後世に伝えようと、市の歴史資料館で重点的に展示しています。

また、二本松霞ヶ城址を訪れる人は少ないのですが、しっかりと整備を行っています。

少しでもこういう歴史を後世に残したいと思っている方は、是非訪れた方が良いと思う場所です。

二本松城址

非常に綺麗に管理されていますが、訪れる人が少ないのが残念でなりません。

二本松霞ヶ城址

二本松少年隊群像

大義の為に戦う、隊長木村銃太郎と少年隊士です。

隊長木村銃太郎と少年隊士

国指定史跡 旧二本松藩戒石銘碑

駐車場の脇に建てられています。

旧二本松藩戒石銘碑

これはかつて藩庁前だった城の東手から移設されたものだそうです。

「爾が俸 爾が禄は 民の膏民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き難し」と刻まれています。

武士の俸給は領民の汗と脂の結晶であり、領民を虐げる事は出来ても、天を欺く事は出来ないという戒めで、こういった気風が二本松藩には根付いていました。

明治天皇駐蹕碑(ちゅうひつひ)

城内に建てられています。

明治9年、明治天皇が東北巡幸の際に、立ち寄りました。

明治天皇東北巡幸 駐蹕碑 二本松霞ヶ城址

大隣寺

二本松少年隊、隊長・副隊長と14名の少年隊士の墓

二本松少年隊 隊長 副隊長 墓

地元の方か、お寺の方が供養されている様子です。

大隣寺 二本松少年隊の墓碑

大隣寺 二本松少年隊墓碑

会津藩士・仙台藩士の戦死墓です。

二本松 会津藩 仙台藩 戦死墓

大隣寺の向かいには、土産物屋と隊士館があります。
二本松少年隊 隊士館

二本松の史跡は、地元の人達の思いとは裏腹にほとんど訪れる人がいないように感じますが、戊辰戦争の戦地を辿るなら是非とも訪れておきたい場所です。

猪苗代市 母成峠古戦場跡

二本松市から国道459⇒国道159というルートで北側から国道を進んで行きます。

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このルートは良く路面も整備されていて走り易く、時折霞んで見える山肌や市街地がとても綺麗です。

途中で市街が一望出来る休憩所がありますので、ゆっくりドライブするには持ってこいのコースです。

母成峠への道

母成峠での戦闘

さて、二本松城を陥落させた新政府軍は、三手に分かれて母成峠に殺到しますが、新政府軍、板垣退助・伊地知正治・谷干城・川村純義率いる3,000の兵を迎え討った同盟軍は、大鳥圭介・田中源之進・丹羽丹波・土方歳三以下800名でした。

多勢に無勢、その上三方から攻めかかる機動性に優れた戦術に、同盟軍の陣地は次々と突破され、この戦いは早朝から夕方の半日で決着がつきます。

新政府軍の戦死者は25名、同盟軍の戦死者は88名と言う事です。

母成峠古戦場跡

周囲は小さい公園になっており、鶯(うぐいす)などの野鳥のさえずりが真夏の暑さを和らげます。

夕方になれば涼しくなるでしょうから、ここで夜通し酒を飲みながら、英雄達を慰霊するものまた趣があると感じました。

母成峠古戦場跡

亀ヶ城址公園(猪苗代城)

母成峠を破った新政府軍のが次に目指したのは、この亀ヶ城です。

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思いのほか母成峠を短時間で突破され、防備が手薄だった会津軍は、虚を突かれて城に火を放ち会津若松に退却しました。

亀ヶ城址公園

当時の建造物は焼けてしまった為残っていませんが、小さい公園になっており良く整地され、地元の住民や観光客の憩いの場となっています。

野口英世も、少年時代にここに写生に来ていたそうです。

写真を見れば分かると思いますが、緑に囲まれとても綺麗な場所ですよ。

亀ヶ城公園址

会津藩の祖 保科正之墓所 土津(はにつ)神社

亀ヶ城址公園から車で数分で、保科正之の墓所である土津(はにつ)神社に到着します。

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保科正之は2代将軍徳川秀忠の庶子として、1611年に生まれましたが、母親は北条家旧臣、神野栄加の次女である「お静の方」です。

秀忠の正室で淀殿の妹である「お江の方」が嫉妬心の強い女性であったらしく、「お静の方」は義兄の家で正之を産んでいます。

正之誕生の翌日、秀忠は我が子であると認知をしましたが、正之は江戸城に入る事を許されませんでしたので、武田信玄の娘である「信松院」、後に「信松院」の姉である「見性院」のもとで育てられる事になりました。

因みに、「見性院」に正之の療育を依頼したのは、老中土井利勝であるとされています。

1617年、正之は7歳になっていましたが、将軍家から何の音沙汰もなかった為、「見性院」は今後の療育を信州高遠(たかとお)藩主、保科正光に委ねる事にします。

保科家は、正光の祖父の正俊の代に武田信玄に仕え、父の正直の代に徳川家に出仕して、信州高遠領2万5千石を与えられています。

この保科家というのが剛勇と名高い一族で、武田勝頼の時代に織田・徳川連合軍が高遠城を攻め落とした際に、副将であった保科正直は最後まで戦い抜いた後、落城間際に城を脱出しますが、半年後にわずか500の手勢で織田信忠軍から高遠城を奪い返すという荒業をやってのけます。

武田の家臣の中でも、最も気骨のある一族でした。

この保科家に迎え入れられ、武田の気骨を受け継いだ正之は1631年に、21歳で高遠藩主となりますが、その後出羽最上(山形)を経て会津23万石に転封を命じられ、会津藩の祖となる訳です。

会津藩主となった正之は、兵力の強化・殖産興業・備蓄倹約を奨励し、その能力を高く評価した3代将軍家光は1651年の死の床で、正之に4代将軍家綱の補佐を託します。

これ以降、正之は幕政の中心的存在になり、数々の善政を行いその名を後世に残す事になります。

そして、会津藩に例の家訓を残す訳です。

幕末の会津藩にまで「高遠以来」という言葉があり、高遠藩から仕え続けた家臣達が武田の気骨を受け継いでいました。

これが一時代を築いた会津の藩風であり、会津戦争の悲劇は新しい時代を迎えるのに必要だった「痛み」であると解釈しています。

保科正之の墓所、土津神社(はにつじんじゃ)は、亀ヶ城址公園から北に1Km程の小山の麓にあります。

土津神社 保科正之墓所

土津神社(会津藩の祖,保科正之墓所)

土津神社(会津藩の祖,保科正之墓所)

 

 

この山道を登っていった先に正之の墓があるのですが、当日は夏場は暑く、アブや蚊も多いため出来れば虫除けスプレーなどを用意した方が良いでしょう。
土津神社(会津藩の祖,保科正之墓所)

 

そして…ようやく辿りつきました。

土津神社(会津藩の祖,保科正之墓所)

仏式の墓とは大分違いますね。土が盛ってある墳墓です。

土津神社(会津藩の祖,保科正之墓所)

会津若松市内の史跡

白虎隊奮戦の地 戸ノ口十六橋 戸ノ口原古戦場跡

母成峠を抜いた新政府軍は、亀ヶ城(猪苗代城)が自焼するのを確認し、怒涛の勢いで戸ノ口十六橋に殺到します。

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この橋は、戦略上非常に重要なポイントになっており、ここを抜かれれば会津若松の城下は無防備な状態となります。

新政府軍としては、敵の本拠は目前、会津藩側にとってはなんとしても抜かれてはならない要所でした。

少しでも時間を稼ごうと会津軍は橋の破壊を試みますが、あまりにも新政府軍の侵攻速度が予測を上回り、敵が目前に迫ってから橋の破壊を開始する羽目になります。

しかし、これが石橋だった為に容易には破壊出来ず、短時間で橋を奪われてしまいます。

その後戸ノ口原で戦闘となり白虎隊もこれに加わりますが、新政府軍の猛攻に全く歯が立たず、白虎隊はちりぢりになりながら鶴ヶ城を目指して退却して行きます。

ここで本体とはぐれた士中二番隊の20名が、戸ノ口堰洞穴を抜けて飯盛山に辿り着くのは有名な話です。

戸ノ口原古戦場跡

戸ノ口十六橋,戸ノ口原古戦場跡

 

戸ノ口十六橋,戸ノ口原古戦場跡

西軍九十八士供養塔
戸ノ口十六橋,戸ノ口原古戦場跡

戦死者供養塔
戸ノ口十六橋,戸ノ口原古戦場跡

因みに会津戦争に備えて会津藩は軍制改革を行っていますが、その時に部隊を年齢別に4つに分けています。
玄武隊…50歳以上
青龍隊…36歳~49歳まで
朱雀隊…18歳~35歳まで
白虎隊…16歳~17歳まで(それ以下も結構いたようです)

更に藩士の身分で次の3つに分けています。
士中隊…上士
寄合隊…下士
足軽隊…足軽

この中で更に~番隊の様に分かれていて、例えば白虎隊の場合は、士中・寄合・足軽が各2隊あり、定員は1隊につき約50人といったところだったそうです。
白虎 一番 士中隊みたいな感じで部隊を識別してたのでしょう。

通常の藩ならば青龍隊、朱雀隊といったところが戦力になりますが、当時の状況が状況でしたので、藩士皆兵、女性までもが志願して出陣しています。

戦況からして勝てる見込みはまずありませんでしたが、武家としての誇り、忠義を尽くす為、それを分かっていながら皆戦いに出ていました。

白虎隊出陣の地 滝沢本陣

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松平容保を護衛する事が任務であった白虎士中二番隊は、戸ノ口十六橋を突破した新政府軍を迎え討つ為に護衛の任を解かれ、滝沢本陣で容保の命を受け、出撃して行きます。

既に戦況は悪化の一途を辿っており、白虎隊が出撃したところでこれを覆す事は不可能な状況でした。

西洋式の火器で完全武装され、母成峠では土方歳三や大鳥圭介など、戦闘のエキスパート達を難なく打ち破って来た新政府軍に立ち向かうのは、竹槍で火炎放射器に突撃するようなものでした。

白虎隊は戸ノ口原古戦場跡で新政府軍と交戦するも、歯が立たず、飯盛山に敗走する事となります。

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会津軍を打ち破った新政府軍は城下に押し寄せ、至る所で市街戦となりました。

弾痕や刀疵が壁や柱のあちらこちらに残っており、当時の戦闘の激しさを物語ります。

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家具や農具も展示されており、武家の生活様式が窺い知れます。

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日本式の庭園です。

最近少しずつこういう物の良さが感じられる様になってきました。

便利さとは対局の美しさです。

心の豊かさと言うのはこういう環境で養われるのでしょうか。

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白虎隊自刃の地 飯盛山

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白虎隊記念館の先にある長い階段を上ると辿り着くのが白虎士中二番隊十九士の墓です。

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人気のある自刃した十九士の墓には、常に多くの線香が焚かれています。

それとは対照的に、傍らにひっそりと建てられている十九士以外の戦死者の墓にはほとんど線香が焚かれていない様子でした。

十九士だけが特別な存在ではなく、命を落とした人達全てが私にとっては尊敬に値する存在ではないでしょうか?

これをどう捉えるかは、人それぞれの人生観次第だと思いますが。

十九士自刃の地に向かう途中にある飯沼定吉の墓です。

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十九士と共に自刃したものの、一命を取り留めた定吉は、晩年になりようやく飯盛山に撤退した士中二番隊の顛末を語ります。

一般的には城下町が燃えているのを見て、城が燃えていると勘違いして自刃したという事になっています。

しかし、実は状況の判断を誤ったのではなく「新政府軍の追撃を逃れて城内に入るのは不可能と判断した為」と定吉が語ったという説もあります。

白虎士中二番隊十九士自刃の地です。

ここは市内を一望出来る場所ですので、当時ここから鶴ヶ城がどの様に見えたか想像に難くない眺めです。

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旧幕府側に付き、関東から東北にかけて転戦し、鶴ヶ城での籠城戦にも参加した「郡上藩凌霜隊の碑」です。

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郡上藩の藩論は新政府側に恭順でしたが、旧幕府側の勝利の可能性も考え、藩命で45士が江戸藩邸を脱走して旧幕府軍に加わったとされています。

戸ノ口堰洞穴

一旦十九士の墓に戻り、別ルートで山を下ると「戸ノ口堰洞穴」を見る事が出来ます。

士中二番隊の二十士は、戸ノ口原古戦場跡(白虎隊奮戦の地)から、この水路を通って飯盛山に辿り着くのですが、意外と水の流れが激しく、満身創痍の者が多かった様ですから、必至の思いでここを抜けて来たのだろうと感じます。

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会津藩武家屋敷

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戸ノ口十六橋を新政府軍が突破すると、随所で市街戦が発生し、会津若松の城下は地獄絵図と化します。

予想外に新政府軍の侵攻が早まった為、鶴ヶ城内への避難が間に合わなかった誇り高き藩士の家族らは、敵の辱めを受けじと次々と自刃して果てました。

実際に自刃の現場となった会津藩家老の西郷頼母邸を忠実に再現したのが会津藩武家屋敷です。

香取慎吾が近藤勇を演じた、2004年NHK大河ドラマ「新選組」のロケにも使われた場所です。

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流石に会津23万石の家老ともなると、他の武家屋敷とはスケールが違います。

用途の違いによって様々な部屋が設けられており、各部屋の用途により格式の異なる作りとなっています。

最も格式の高い、藩主を迎える間です。

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城からの使者が家老に謁見する、使者の間です。

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市街戦の際に、頼母の一族が自刃したとされる自刃の間です。
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他にも質素な造りの家族の間などがあり、同じ屋敷の中でも公と私を明確に線引きしているのが見てとれます。

会津藩主松平容保の墓所 会津松平家廟所

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二代目会津藩主「松平正経」から九代目藩主「松平容保」は、東山町院内の山中に眠っています。

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廟所の入り口は山の麓にあり、同じく神道の墓である土津神社の保科正之墓所に似た雰囲気です。

目指すはもちろん、九代藩主容保の墓でが中々険しい山道なんですね、これが。

しかも、登っても登っても中々先が見えてきません。

20分程歩いてようやく代々藩主の墓に辿り着きます。

苦労して辿り着いた喜びもひとしおでしたが、それ以上に何か汚れた物を寄せ付けない神聖さを感じました。

神道の墓はまじまじと見た事はなかったのですが、かなり変わった形をしています。

土台の石は亀を表しているそうです。

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容保の墓は、ここから更に奥に進んだ場所にありました。

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この人の人生を史実に忠実なドラマにしたら、非常に面白いのではないかと思います。

徳川御三家尾張藩の支藩、美濃高須松平家から養子に入り会津藩を相続した彼は、ひたすら義を貫き通した人でありました。

容保は何を想ってここに訪れる人々を見ているのでしょう。

会津若松 鶴ヶ城

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鶴ヶ城

難攻不落と言われた鶴ヶ城は、場内に避難してきた藩士やその家族らの非戦闘員3割を抱えて1ヶ月間の籠城戦を持ちこたえた名城です。

【会津戦争後の鶴ヶ城】国立公文書館

新政府軍の無数の砲弾を受け続け、無残な姿になった「名城」鶴ヶ城は、修復もされずに雨ざらしになっていました。

1873年(明治6年)12月に、若松県(現在の福島県北部)権令の沢簡徳が、この見るに堪えない鶴ヶ城の惨状を右大臣、岩倉具視に示し、一旦これを撤去し、後日改築して欲しいと訴えました。

これはその実情を訴える為に使用された写真なのですが、これを受けて翌1874年(明治7年)に鶴ヶ城は解体されます。

しかし・・・朝敵の汚名を着せられた会津藩の城でしたから、そう簡単に改築という訳には行きません。

結局、その城跡は1934年(昭和9年)に旧会津藩士の方々の力添えがあり、国定の史跡となります。

そして、市民の強い要望で、解体から約100年の歳月を経て、1965年(昭和40年)に天守閣が再建されました。

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平成23年には幕末時代の瓦(赤瓦)への改修が行われ、日本で唯一の赤瓦をまとった天守閣を持つ城として、白虎隊自決の地、飯盛山と並んで会津若松のNo,1の観光スポットになっています。

奥会津 河井継之助記念館

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河井継之助記念館

会津若松市から、国道252線を只見川沿いに東に向かって走る事およそ2時間、会津塩沢の河井継之助記念館に到着します。

道中はこんな景色がしばらく続きます。

只見川

駐車場は国道沿いにあり、車を停めて徒歩で線路を渡ります。

のんびりしていて、なかなか良い雰囲気ですね。

会津塩沢

建物もモダンな感じで凝った造りになっています。

自治体のこだわりが感じられますね。

河井継之助記念館

中に入ると、いきなり河井継之助が出迎えてくれます。

河井継之助記念館

展示物は北越戦争時のビデオや勢力図など、視覚・聴覚に訴える物が多く、歴史に詳しくない人でも当時の状況を簡単に把握出来る様になっています。

また、只見町の広報も無料で配布されており、河井継之助の周知にはかなり気合が入っている様子です。

河井継之助記念館

ガトリング砲を自ら操る河井継之助もいました。

河井継之助記念館

記念館の裏手には河井継之助の墓もあります。

河井継之助の墓

河井継之助の墓

河井継之助の墓

継之助の最期を看取り、墓を建てた当時の会津塩沢の人々や、それを風化させぬように現代まで残した人々。

現代人が無くしてしまった志や心がそこにあるように思います。

北越戦争

北越戦争は約二ヵ月半に渡る大激戦で、戊辰戦争において旧幕府勢力が最も新政府軍を苦しめた戦いと言われています。

現在の新潟県長岡市にあった長岡藩は、家老の河井継之助が藩政の抜本的な改革を行い、戊辰戦争中期には、北越随一の近代的武装国家になっていました。

河井継之助

長岡藩は全藩士をフランス式ミニエー銃で武装し、大砲14門、また、当時日本に3門しかなかったと言われる、ガトリング砲を2門も購入しています。

軍備が充実していた同藩ですが、国力をいたずらに疲弊するような内戦は良しとせず、第二次長州征伐にも出兵していません。

財政的な事情からの日和見ではなく、世界的な視野で日本を考えての選択でした。

新政府軍が進軍して来た際に、継之助さんは単身で小千谷の新政府軍本営を訪ね、「国力を消耗させるような内戦は国家の為にならいので、長岡藩は抵抗する意思はなく、あくまでも中立を保ち、それが認められるのであれば領民とともに国に尽くす」というような内容の嘆願書を土佐藩出身の岩村高俊に手渡し、交渉を行います。

しかし、岩村は23歳という若さで、上層部の「会津攻めに従わない藩は、討伐せよ」という命令に忠実に従い、これを全く受け入れませんでした。

長岡藩の戦力分析を全く行わなかったようです。

これで戦闘が避けられなくなり、戊辰戦争最大の激戦となった訳です。

一度は列藩同盟入りを断っていた長岡藩ですが、ここで列藩同盟入りする事になります。

戦闘は5月4日から開始され、当初、同盟軍側が陣取った小千谷の朝日山が主戦場となりましたが、新政府軍はなかなかこれを落とすことが出来ずに、膠着状態が続きます。

そこで新政府軍は防備が手薄になった長岡城に裏手から回り込み、5月19日に城を落とす事に成功します。

ここで勝負あったかと思えるところなんですが、ここからが継之助の凄いところで、一旦退いた後に長岡城に夜襲をかけ、なんとこれを奪還する事に成功します。
継之助は政治面だけでなく、戦術にも優れ、胆力もあったんですね。

しかし、新規に投入された新政府軍の猛攻により同盟軍は壊滅し、長岡城は再度落城してしまいます。

継之助はこの戦闘で膝に被弾し、会津藩領の塩沢まで撤退しましたが、破傷風を発症し42歳でその生涯の幕を閉じます。

幕臣の小栗忠順と言い、新政府で活躍できそうな先見性の持ち主がどんどん死んでいったのが戊辰戦争だと思います。

歴史の潮流というのはこういう優秀な人たちを容赦なく呑み込んでいってしまいます。

それが運命だったとも言えるかもしれません。

継之助の墓は長岡と塩沢にあります。

火葬された骨を塩沢の人たちが残った骨を拾い集めてお墓を建てたそうです。

私と会津若松

今年は夏休みに家族で会津若松に行く予定です。
若松には小学生の頃に一度と会社の絡みで2度行っているんですが、落ち着いて好きなところに行けるのは子供の頃以来なんですよね。
確か小学4年生くらいではなかったかと思います。

私の母親が引率者となって、友達を数人連れていったのですが、旅行に出る前にちょっとした事件が起きました。
まぁ、私にとってはちょっとしたどころではなかったんですけどね。

実は予定されていた日に私が高熱を出してしまったんです。
寝ているだけでも天井がグルグル回っている状態で、まともに起き上がる事すら出来ませんでした。

しかしながら、母親が旅行の言いだしっぺでしたので、友達の親御さんの手前、息子が熱出したからといって自ら中止にするとは言い出す訳にはいかず、なんと私は置いて行かれる事に…。
もう、失意のドン底どころではなく、本気で死ぬかと思いましたがこちらの心境でじっと我慢する事にしました。

まぁ、結果としてはお察しの通り、友達の親御さんが気をきかせてくれて、旅行は延期になるんですけどね。
子供でしたので、成り行きが読めず、本気で置いていかれたんだと思いました。

さて気を取り直して旅行の日がやって来ます。

寒かったような覚えがあるので、冬休みにでも行ったのだと思います。
そこら辺の記憶が曖昧なのは、多分年齢のせいで脳が劣化しているからなのでしょう。

電車を乗り継いで会津若松に向かったのですが、車窓から眺める景色がとても綺麗だったんですよね。
私は神奈川生まれの埼玉育ちでしたので電車で渓谷を通ったのは初めてでした。
あまりにも幻想的な景色でしたので、何か現実の世界ではないような気がした、という事ははっきり覚えているんですね。
ただ、記憶が断片的過ぎるんですよね、きっとアホな子だったんでしょう。

さて、会津若松では武家屋敷と飯盛山に行った記憶があります。
子供ながらに壮絶な出来事があったんだなと実感しました。
唐牛の毛を被った官軍は怖い人たちなんだと…漠然とそう感じたかと思います。
当時は明治維新の歴史は詳しく知りませんでしたので、そう感じるのが普通でしょうか。

まぁ、詳しく知りすぎるとやっぱり官軍にはマズイ人も中にはいたようで・・・いや、結構いたかもしれません。
ただ、官軍の方にも色々な事情があったでしょうから、私はこの事を以って一概に善悪の判断は致しませんけどね。

話は変わりますが、当時の土産物屋さんにはミニチュアの短刀(ちゃんと刃がついている)などが売られていました。
今では色々と規制が厳しくなって店頭からは消えていますが、私は刀だとか甲冑に興味がありましたので、その一つを買って帰りました。

結局、果物やら野菜やらを切りまくってサビサビになるまで遊んでいましたが、刀という物がどういう物なのか…荒唐無稽な漫画なんかでは何でもかんでもスパスパ斬っていたりするのですが、遊びながらこんなのものかと体感的に理解していったような気がします。

それ以来特に刃物という物に興味を持つ事は無くなったのですが、最近になり博物館などに展示されている刀を見て美術品としての価値というか、まぁ私は美的センスはゼロなのですが、真剣という物はとても美しいなぁと思うようになってきました。

刀匠が魂を込めて鍛えた作品ですから、美しいのは当然でしょうか。
我が家の床の間にも一振り飾って置きたい気分ですが、値段が値段ですし届け出も必要ですから、いつか環境が整ったら検討してみようかと思います。
20年位先になるかも知れませんけどね。

さて、前振りが長くなりましたがそんな訳で、会津若松への思いはこれくらいにして、次回は旅行の計画について書こうかと思います。

戊辰戦争の戦地に赴く

今回の旅行では埼玉から会津に向かいますので、以下のようなルートで戦地を辿ってみようと思います。
1.白河城⇒稲荷山・白河の関⇒二本松城
2.母成峠⇒亀ヶ城⇒土津神社
3.戸ノ口十六橋⇒戸ノ口原古戦場跡
4.白虎隊記念館⇒飯盛山⇒滝沢本陣
5.鶴ヶ城⇒会津武家屋敷
6.松平家墓所⇒天寧寺⇒愛宕神社
7.大内宿

ちなみに「白虎隊」を子供の自由研究のテーマにする事になったので、先日図書館で白虎隊に関する子供向けの本を借りに行ったんですよね。
そこで出てきたのが、良い具合に日に焼けた40年位前の本だったのですが、意外と分かり易く書いてあって良い感じでした。
子供向けの本も捨てたもんじゃないです。
結構面白いですよ。

この夏には日野の新撰組資料館や、勝沼古戦場跡、時間が許すようなら会津藩の祖、保科正之が育った高遠城まで足を伸ばしてみようかと思います。
これではまるで私の方が自由研究ですね。

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北関東 戊辰戦争の史跡 古河市~小山市 http://bakumatu.wealthyblogs.com/archives/2697 Fri, 05 Nov 2010 15:20:52 +0000 http://bakumatu.sitemix.jp/?p=2697 古河市 古河城址 古河歴史博物館 鷹見泉石記念館 幕末を題材にした書籍にはあまり登場しませんが、茨城県南西部に位置する下総古河藩主は、代々老中などの幕府要職を歴任しており、1837年の「大塩平八郎の乱」から1853年の「 […]

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古河市 古河城址 古河歴史博物館 鷹見泉石記念館

幕末を題材にした書籍にはあまり登場しませんが、茨城県南西部に位置する下総古河藩主は、代々老中などの幕府要職を歴任しており、1837年の「大塩平八郎の乱」から1853年の「ペリー来航」あたりにかけての幕末動乱の初期にも、幕政に関与しています。

第4代藩主「土井 利位」(どい としつら)は大坂城代の時に、「大塩平八郎の乱」を鎮定し、この功績によって、京都所司代に抜擢されます。
さらに、1839年には幕府老中に任命され、幕府内での発言力を高めて行きました。
また、古河藩では最も知名度が高いと思われる「鷹見 泉石」(たかみ せんせき)を家老に抜擢しています。

泉石は23歳で鷹見家250石の家督を継いでいますが、徐々に昇進し、1831年に47歳で家老500石の座に就いています。
元々上級藩士の家ではありましたが、徐々にその実力を買われて出世していった感じでしょうか。

「大塩平八郎の乱」の時にも、泉石が現場で指揮に当たり、乱を平定しています。

ここまでは「実務力が高い能臣」というイメージなのですが、「政治家」としても非常に開明的な思想の持ち主で、早くから西洋事情に精通していました。
「蛮社の獄」で有名な「渡辺華山」とも親交を厚くし、様々な情報交換を行っています。

ペリー来航に際しても幕府に意見書を提出しており、その内容は「外国の技術を積極的に取り入れる」という内容でしたので、当時では少数派の先進的な思想の持ち主だったという事でしょう。
後に、「岩瀬 忠震」(いわせ ただなり)と共に日米修好条約の調印に当たった「川路 聖謨」(かわじ としあきら)もこれを絶賛したと言われています。

さて、「政治家」としてこの様に先進的な思想を持って、幕政に影響を及ぼしていたのですが、泉石がここまで注目されている理由は「学者」として、また「コレクター」として、舶来の品々を多数(異常な程に)収集していたと言う事でしょう。

その分野は「洋書」・「地図」・「絵画」・「陶器」・「貨幣」・「織物」など多岐に渡り、「マニア」の域に達しています。
集める事が楽しかったから集めたんじゃないかと、そう思ってしまう位の…ある意味「変人」じゃないかと思う位の収集の仕方です。
博物館のパンフレットには「幕政に参与する藩主の補佐という立場から収集を行った」となっています。

個人的な見解ですが、最初はそういう目的で集めだしたのですが、色々な物を見ているうちに次から次に興味が湧いて、自分の興味がある物をどんどん集める様になったのではないかと思います。
その辺りは現代人の我々も理解し易く、なかなか素敵な人だと思います。

実務力もあり、優秀な人ですが、これにある意味「変人としての資質」(個人的な見解ですが)が加わった事で、後世にここまで名を残すようになったのだと思います。

何かを極めるにはそういう要素も必要なのかなと実感しています。
凄く勉強になりました。

また、これを積極的に世に広めようとしている「古河市」も頑張っているなぁと感じます。
博物館も結構立派でした。
機会があれば訪れてみる事をお勧めします。

◆古河歴史博物館

JR宇都宮線 上野⇒古河60分―徒歩15分
東武日光線  浅草⇒新古河70分―徒歩25分

古河歴史博物館

鷹見泉石記念館

小山市 市街戦の弾痕が残る如来像と地蔵

上野駅からJR宇都宮線で約75分の栃木県小山市というところは、大鳥圭介率いる伝習隊と宇都宮藩を中心とした北関東諸藩が市街戦を繰り広げた事で有名な場所で、駅の周辺には当時の戦闘の激しさを物語る史跡が点在しています。

常光寺

駅から歩いて数分の常光寺には、台座に流れ弾による弾痕が残る阿弥陀如来像があります。

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阿弥陀如来像
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弾痕が残る台座
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興法寺

こちらはも同様に駅から歩いて数分です。

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弾痕の残る地蔵

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バックリえぐれていますね。

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小山宿脇本陣跡  明治天皇御駐輦之碑

この他にも、小山市の駅周辺には戊辰戦争戦死墓などの史跡が点在しており、徒歩でまわる事が出来ます。

先日、日帰りで古河と小山の史跡に行ってみたのですが、「な、何するんだ…」と思ってしまうような状況に出くわしました。

現場は栃木県小山市、「小山宿脇本陣跡」にある「明治天皇御駐輦之碑」です。

明治天皇 小山行幸之碑 小山宿脇本陣

明治天皇が奥羽巡幸を行った時にここに立ち寄ったそうです。

また戊辰戦争の時に大鳥圭介なんかがここに本陣を置き、この周辺は激戦となりました。

他にも彦根藩士の戦死碑だとか、弾痕の残る阿弥陀如来像や地蔵が周辺の寺社に現存します。

その辺りの戊辰戦争絡みの史跡を見にいったんですが、ここが小山のスタート地点でした。

上の写真だとこれと言って変わったところもない様に見えますが、別の角度から撮るとこんな感じです。

明治天皇 

これは立派なゴミ収集所ですよ…。

しかも、ネットが石碑を覆っていました。

その時は愕然として「な、何するんだ…」と心の中でつぶやき、少し萎えただけで終わってしまいましたが、後でなんであんな事になってるんだろうと、色々考えてしまいました。

小山市の史跡に対する考え方が気になりましたので、市の公式サイトを見てみますと「小山市内の文化財(史跡編)」というページがあるではないですか。
という事は、史跡の文化的な価値を広めようという意識はあるみたいですね。

このページに出ている史跡は、おそらくこういう扱いは受けていないだろうと思います。

もし、そこら辺の史跡の管理もひどい様なら、史跡に対しての意識が一律に低いだけだと思います。

一通り予定していた史跡を巡った後に感じたのは、小山市は戊辰戦争関連の史跡をあまり重要視していないという事です。

それはそれで、好きな人は自分で調べて行きますから構わないんですけどね。

ただ、調べて行った先がゴミ収集場になっていたら萎えるんですけど・・・。

その後、小山市立博物館にも行ってみる事にしました。

行って分かったのは、やっぱり小山市は戊辰戦争については、あまり宣伝する気はないという事ですか。

縄文時代の展示が多く、その辺の内容は充実していました。

一応小山市の歴史年表もあったのですが、戊辰戦争の記述は「大鳥圭介の軍と激戦」の一行だけでした。

別に幕末だけが歴史ではありませんし、小山市の歴史については全く詳しくありませんので何とも言えませんが、幕末好きの私としてはちょっとがっかりしました。

まぁ、幕末マニアのわがままですね。

ただ、幕末マニアの視点から見なくても、現在も日本の象徴である天皇の行幸碑を、あんな風に扱ってしまうのは、ちょっとどうなんだろうと思ったりもします。

そんな事よりも住民税を払っている市民の生活の利便性の方が重要なんだと、そう言われてしまえば、部外者の私は何も言う権利はないと思いますが。

それにしても、小山市には「教育委員会文化振興課」というセクションがあるのに、なぜ「史跡」である「明治天皇御駐輦之碑」を、ないがしろにしてしまうんだろうかと、そういう疑問が残ります。

政治思想が絡んでいたりするんでしょうか。

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仙台市 戊辰戦争の史跡 http://bakumatu.wealthyblogs.com/archives/2685 Thu, 04 Nov 2010 09:08:37 +0000 http://bakumatu.sitemix.jp/?p=2685 春院 奥羽列藩同盟会議責任者「玉虫左太夫」の墓 仙台藩の玉虫左太夫は奥羽越列藩同盟会議の責任者だった人物で、日米修好通商条約の批准の際に渡米し、その後幕府の独断的なやり方を否定しています。 アメリカに習って民主主義的な社 […]

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春院 奥羽列藩同盟会議責任者「玉虫左太夫」の墓

仙台藩の玉虫左太夫は奥羽越列藩同盟会議の責任者だった人物で、日米修好通商条約の批准の際に渡米し、その後幕府の独断的なやり方を否定しています。

アメリカに習って民主主義的な社会変革を目指しており、幕藩体制に対しては懐疑的な思想の持ち主だった様です。

勝海舟同様に広い視野を持ち、日本の未来を大局的に見据えていましたが、一方で彼は義の人でもあり理不尽に追い詰められた会津藩を救済する為に力を尽くしている仁義を通した人物です。

明治の世でも国家の為に活躍できる力がありながら、左太夫は列藩同盟会議責任者として戊辰戦争敗戦後に戦争責任を問われて切腹を命じられています。

己の志を貫き、筋を通して死んでいった誠の武士ですね。

保春院 玉虫左太夫の墓

仙台駅西口バスプール
5番のりば…荒町・若林区役所経由沖野・閖上行
6番のりば…荒町・若林区役所経由古城三丁目、遠見塚・霞の目、深沼、農業園芸センター、荒井行
若林区役所で下車

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墓石が傾いています。

現代ではあまり有名ではない人ですが、日本の歴史はこのような偉人達によって創られてきました。

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仙台市 戊辰戦争の史跡 瑞鳳寺

瑞鳳寺 西南戦争敗者 鹿児島県人七人の墓

仙台駅西口バスプール15番乗り場から「るーぷる仙台」に乗り、4つ目で下車すると瑞鳳寺に向かう坂が見えてきます。

この坂の途中に旧薩摩藩士七人の墓があります。

関東から東北にかけて存在する西南雄藩系の藩士達の墓は、ほとんどが戊辰戦争における戦没者の墓である事が多いのですが、この墓は西南戦争後に宮城県内の開発に従事した鹿児島県人の墓です。

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明治十年西南戦争に従軍し、敗戦後に官軍に投稿した西郷軍は、国事犯として全国の監獄署に護送されました。

宮城県には305人の国事犯が収容され、彼らは自ら宮城県内の開発を願い出て開墾作業や築港工事に従事し、明治初期の宮城県の開発に大きな役割を果たしています。

このうち13人は獄中で病死してこの地に葬られたそうです。

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西南戦争の敗戦で自らの志を国政に反映させる事は出来ませんでしたが、その後も国家の為に国の開発に従事して死んでいった人達です。

彼らが無念の思いで死んでいったか、満足して死んでいったかは分かりませんが、そういう生き方をした人達がいたという事を知るだけでも、我々現代人の生き方を考える上での助けになるのではないでしょうか。

仙台東照宮

仙山線東照宮駅を降りて駅前の公園を抜けると右手に仙台東照宮が見えてきます。

仙台東照宮

仙台東照宮は、日光東照宮同様に徳川家康を祀った神社です。

この地はかつて徳川家康が大崎一揆の視察を終えて江戸に戻る途中に、仙台藩祖伊達政宗公と共に宿陣した事があり、それ故に社地に選ばれたとされています。

仙台藩二代藩主伊達忠宗公は徳川幕府への尊崇・感謝の標として1649年、三代将軍徳川家光に東照宮建設の許可を得ます。

表向きは尊崇・感謝という事でしたが、実際のところ強大な力を持つ伊達家が二心を抱かず、徳川家に忠誠を誓うという証であったと言われています。

藩祖政宗公が稀代の名君で実力者であった為に、代々の仙台藩主は徳川家から警戒される事に対してかなり気を遣っていました。
自国領安堵の為の知恵であったと言えます。

石畳の鳥居抜けると、国指定重要文化財の石灯籠が無数にそびえび立つ石段が眼前に現れます。

この石灯籠は奉納された年代がそれぞれ違っており、石の材質や形も微妙に違う様子が見てとれ、見る者に永い歴史を感じさせます。

仙台東照宮

石段を上りきるとその先では国指定重要文化財の隨身門が重厚な門構えを見せています。

仙台東照宮
隨身門をくぐり、ようやく本殿に到着しました。

仙台東照宮

清浄光院 星恂太郎の墓

仙台東照宮から南に歩き、線路を渡ると数分で額兵隊隊長の星恂太郎が眠る清浄光院に辿り着きます。

清浄光院,星恂太郎,額兵隊

墓自体は比較的目立つ場所にありますが、現在は無縁仏になっており、寺が管理をしているそうです。

清浄光院,星恂太郎,額兵隊

仙台藩 星恂太郎と額兵隊

軍備の近代化が遅れていた仙台藩ではありますが、額兵隊と呼ばれるイギリス式の訓練を受けて、元込め式のスナイドル銃を装備する最新鋭部隊がありました。

額兵隊は赤と黒のラシャ服(ウールの織物)を身に纏い、ラッパ手や軍楽隊も備えた本格的な西洋式部隊です。

星恂太郎(ほしじゅんたろう)は若い時に仙台藩を脱藩しますが、江戸や横浜で兵学を学んだ後に帰国し、額兵隊の隊長としてこの最新鋭の部隊を指揮する事になりました。

残念ながら、額兵隊が調練を終えた時に仙台藩が降伏を決めてしまい、出陣の機会を与えられる事はありませんでしたが、恂太郎は仙台藩に見切りをつけ、榎本艦隊に合流し大鳥圭介の伝習隊に次ぐ函館政権の主力部隊として奮戦します。

函館戦争で生き延びた恂太郎は、蝦夷地で製塩業を営みますが業績が芳しく無かった為に仙台に帰国した後、病に倒れ37歳の若さで命を落としてしまいます。

恂太郎の墓は仙台市青葉区にある清浄光院で、無縁仏となっています。

現在は寺が管理しているそうですが、この様な国家に忠義を尽くした英雄が無縁仏になるというのは寂しい限りです。

龍雲院 細谷十太夫 林子平の墓

仙台藩、烏組隊長の細谷十太夫が眠る龍雲院は仙台市街北西部の住宅地の中にあります。

この辺りは非常に寺社が多く、歴史を感じさせる町並みとなっています。

龍雲院

受験生に人気の細谷地蔵。

龍雲院

龍雲院,細谷地蔵

細谷十太夫の墓。

龍雲院,細谷十太夫の墓「

こちらは林子平の墓です。

龍雲院,林子平の墓

林子平は1700年代後半の仙台藩出身の経世評論家で、尖閣諸島問題でもその名を知られています。

少し興味の範囲を広げてみると、意外な発見があるものですね。

仙台藩 細谷十太夫と烏組

仙台藩と言えば、徳川家康や豊臣秀吉と互角に渡り合った伊達政宗公が余りにも有名で、幕末期に活躍した英雄達は一般的にあまりその名を知られていない様ですね。
戊辰戦争後期には、奥羽越列藩同盟の盟主であった仙台藩は東北での主要な戦闘に参加しましたが、軍備の近代化が遅れた為に、各地で辛酸を舐めさせられる結果となりました。

正規軍の戦闘は、前述の通り芳しくない状況が続いていましたが、細谷十太夫率いる烏組と呼ばれたゲリラ部隊は、宵闇に紛れて新政府軍に奇襲をかけ、30数回の戦闘でことごとく勝利を収めたと言われています。

細谷十太夫という人は仙台藩大番士であり、他藩の情報を集める密偵でありましたが、白河での同盟軍の敗戦後は須賀川で博徒や侠客を集めて衝撃隊を編成しました。

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その装束が黒であった事、隊長の十太夫がカラスを連れていた事から烏組と呼ばれる様になったそうです。

会津戦争でのゲリラ戦でも同様ですが、武器や戦術の差は白兵戦を伴う市街のゲリラ戦においては、必ずしも戦局を決定する要素ではなかった様です。
新選組をはじめ、旧幕府側の軍隊は斬り合いには強かったんですね。

戊辰戦争後の十太夫は西南戦争や日清戦争にも従軍し、晩年には仙台市内にある龍雲院の住職となり戦死者達の慰霊につとめています。

現在では連戦連勝の十太夫にあやかろうと、受験生の間では龍雲院にある細谷地蔵詣でがブームとなっているそうです。

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白石市 戊辰戦争の史跡 http://bakumatu.wealthyblogs.com/archives/2636 Fri, 22 Oct 2010 13:02:40 +0000 http://bakumatu.sitemix.jp/?p=2636 白石うーめん 東北本線の白石駅を降り外に出ると、駅前には「白石うーめん」のお店が数軒見えてきます。 折角なのでそのうちの一軒に入ってみる事にします。 因みに「うーめん」というのは白石の独特の製法で作られた麺で、そうめんと […]

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白石うーめん

東北本線の白石駅を降り外に出ると、駅前には「白石うーめん」のお店が数軒見えてきます。

折角なのでそのうちの一軒に入ってみる事にします。

白石うーめん

因みに「うーめん」というのは白石の独特の製法で作られた麺で、そうめんと違って油を一切使わず小麦粉と塩水で作られています。

ここで選んでみたのは3色ダレ。

3種類の味が堪能出来てお得です。

白石うーめん

左から普通の麺ツユ、クルミ、ゴマです。

味は個人差があると思いますが、個人的にはクルミ⇒ゴマ⇒麺ツユという感じでした。

肝心の食感ですが、食べ比べをしないと私にはそうめんと区別が付きませんね。

分かる人には分かるんだと思います。

まぁ、違いの分からない男ですから仕方ありません。

美味しくて満足したので良しとしましょう。

白石城 奥羽越列藩同盟の舞台

白石城は伊達政宗公の腹心である、片倉小十郎の居城として有名ですが、戊辰戦争後期には奥羽越列藩同盟結成の舞台として歴史上の重要な役割を果たしています。

江戸時代の一国一城令により、大名の居城以外の城は全て廃城となりましたが、加賀藩の小松城と仙台藩の白石城は格別のはからいを受けて残されました。

仙台藩の南の守りを固める片倉家の居城白石城、城下町は幕末まで260年間に渡り栄え、白石固有の文化を育んでいます。

天守閣は明治7年に取り壊されましたが、平成7年に130年振りに再建されています。

白石城

天守は3階建てとなっており、戦後の木造復元天守では、高さ・広さ共に最大級を誇ります。

白石城 天守閣 大櫓

当日は生憎の曇天で、やや霞掛かっていました。

右手に見えるのが東北新幹線、白石蔵王駅です。

白石城 天守閣 城下町

城内には「白石城・歴史探訪ミュージアム」もあり、片倉家にまつわる展示品の他、立体ハイビジョンによる映画2作品を上映しています。

この日は第一作の奥羽越列藩同盟秘話「賊にはあらず」を観てきました。

中々の迫力でしたし、こういう物に触れる事により地域の子供達は故郷の歴史に誇りを持てる様になるのではないかと思います。

白石城下 片倉家中武家屋敷

白石城の裏手の沢端川沿いの道を上流に向かって進むと、ほどなくして片倉家中武家屋敷(旧小関家)が目に入って来ます。

白石城下 片倉家中武家屋敷

川岸は土塁になっており、かつてはこの川沿いに武家屋敷が連なっていた事をうかがい知ることが出来ます。

小関家は中級藩士だったそうですが屋敷は質素な造りとなっており、当時の中級藩士の暮らし振りを想像する事が出来ました。

白石城下 片倉家中武家屋敷

庭園も質素ではありますが、それ故にそこにわびさびを感じる事が出来るのでしょう。

屋敷の前を流れる川沿いに、駅方面に向かって歩くとこんな光景に遭遇しました。

人慣れした大きな鯉が無数に泳いでいます。

白石城下 片倉家中武家屋敷

奥羽越列藩同盟

初代会津藩主「保科正之」をご存知でしょうか。
徳川幕府第2代将軍秀忠の子である正之は、幕府において仁政を尽くした事で名君として非常に名高い人物ですね。
会津藩がここまで徳川幕府の為に尽くしたのは、正之が残した家訓があったからです。
これが「幕府の為に忠勤を尽くさない奴は我が子孫ではないと思え」という感じなんですが、藩主はもとより家臣達から見ても、これを守らない藩主は主君とは認めるなって事になるんですね。

さて、奥羽越列藩同盟についてですが、実は保科正之の存在が幕末の会津藩、奥羽・越後の諸藩の行動にも大きな影響を与えていたんです。

なかなか歴史の表舞台に出てこない奥羽・越後の諸藩ですが、会津藩が朝敵とされた時にこれを救済しようと尽力しますよね。
これには藩の命運を掛けた重大な選択が必要だったのは、当時の状況を考えれば想像に難くないと思います。
ここにも沢山の物語が存在した筈ですが、現在語られる事はあまり多くないですね。

新政府軍の奥羽・越後の諸藩に対する対応というのは、会津藩を攻撃しなければ同じく朝敵とみなす、という非常に酷なものでしたから、各藩ともに藩論が分かれた筈ですね。

奥羽越列藩同盟に加わった理由というのは、個々の藩によって様々なものがあったと思うのですが、その中には「過去の恩義に報いる」という要素も含まれていました。

まず、米沢藩上杉家ですが第3代藩主上杉綱勝は嗣子を残さずに27歳で病没してしまい、上杉家はお家断絶の危機にさらされます。
この時に正之は上杉家が実は吉良家の長男である綱憲を養子にしていたのだが、幕府に届け出を出し忘れていたという事にしてやり、30万石から15万石への減封で済ませています。

次に河井継之助で有名な長岡藩牧野家です。
河井継之助

1675年、越後に餓死者2万人以上を出す大飢饉が起きた時に、正之は米2,000俵、大豆1,000俵を送って長岡藩を救っています。

こういった非常時の対応が特に優れていた正之は名声が高く、人望があったんですね。
正之の恩を受けた藩は他にもあると思うのですが、こういった恩を長い年月忘れずに、東北・越後の諸藩は会津と共に戦う道を選ぶ事になります。
これだけが理由ではないでしょうが、これも大きな理由だと思います。

さて、この奥羽越列藩同盟はご存知の通り、新政府軍に短期間で敗北してしまい、その後も朝敵藩の烙印を押される訳です。

私個人としては、この戦いに命を掛けた列藩同盟側の人達も、とても立派だったと思いますし、もっとスポットを当てても良いんじゃないかと思う訳であります。

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彦根城 http://bakumatu.wealthyblogs.com/archives/2260 Sun, 10 Oct 2010 15:08:20 +0000 http://bakumatu.sitemix.jp/?p=2260 引っ越しの途中で観光がてら彦根城に立ち寄りました。 彦根市には9年程前に1年間住んでおり、10年振りの登城となりました。 彦根城には内堀、外堀と二つの堀が現存しています。 内堀と外堀の間は市街地となっており、学校や図書館 […]

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引っ越しの途中で観光がてら彦根城に立ち寄りました。

彦根市には9年程前に1年間住んでおり、10年振りの登城となりました。

彦根城には内堀、外堀と二つの堀が現存しています。

内堀と外堀の間は市街地となっており、学校や図書館、裁判所といった公共の施設が数多く見受けられます。

彦根城

東の表門の石碑です。

彦根城

この日は秋晴れとなり非常に天候に恵まれ、そのお蔭で迷カメラマンの私でも素敵な写真を沢山撮る事が出来ました。

表門橋を渡り、こちらの石段を登って天守閣に向かいます。

彦根城

程なく天守閣に到着しました。

色々な角度から撮影しましたが、この角度が一番好きです。

彦根城

天守の中はほとんど築城時のまま、手が加えられていない様でした。

天守から望む琵琶湖の景観は、四季折々の多彩な表情を見せてくれる事でしょう。

10月上旬だとこの様な感じです。

青空と雲と山、水面と木々の緑のコントラストが、日常の喧騒から別世界へと誘います。

彦根城内、城下周辺には博物館や井伊直弼が育った埋木舎もありますが、時間の都合で今回は天守閣のみの訪問となりましたが、行った甲斐がありました。

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小栗忠順と西洋式造船所 http://bakumatu.wealthyblogs.com/archives/1358 Tue, 27 Jul 2010 14:03:11 +0000 http://bakumatu.sitemix.jp/?p=1358 小栗忠順(おぐり ただまさ)をご存知でしょうか。 この方、幕末の幕臣の中で抜群に先見性があり、優秀だったと名高いお方です。 なるほど聡明そうなお顔です。(多分これは気のせいですが) 幕末の幕府の財政は知っての通り窮乏して […]

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小栗忠順(おぐり ただまさ)をご存知でしょうか。
この方、幕末の幕臣の中で抜群に先見性があり、優秀だったと名高いお方です。

なるほど聡明そうなお顔です。(多分これは気のせいですが)
幕末の幕府の財政は知っての通り窮乏していましたが、1865年当時の勘定奉行が小栗さんでした。

小栗さんの発想は、その後の明治政府で掲げられた「富国強兵」そのものでした。
外国の技術を積極的に取り入れ、産業と軍備の改革を行うというのがその趣旨ですが、この一環として江戸の近くに西洋式艦船を造る為の造船所を作るべし、と言って周囲の反対を押し切るんですね。
幕府の財政が苦しかったものですがら、当然反対する人が多い訳です。
この時の彼の名言というのが「造船所を作らなければ、その金は無駄に使われるのであるから、造船所を作れば金の無駄使いが抑えられる。仮に幕府が政権を返上したとしても、立派な蔵を作ったという名誉が残る。」といった内容だそうです。
なかなか面白いというか、おそらく現代であればカリスマ経営者になっていたような人だと思います。

さて、当時の幕府はフランスと親密な関係にありましたので、フランスの助言を聞き入れて建設地は横須賀になりました。
残念ながら、造船所の完成を見ずして江戸城の引き渡し後に、間もなく小栗さんは新政府軍に捕縛され斬首されてしまうんですけどね。
特に罪状が云々という訳ではなかったようなのですが、強硬な佐幕派でしたからね。
惜しい人を亡くしたもんです。

ちなみに、この人が考えていたのは藩を廃して郡県制とし、幕府の完全な中央集権体制に持って行くという事だそうです。
個人的にはここが本質を突いていて一番凄いかなと思います。
明治政府がやった廃藩置県そのものですからね。

それと、これは物凄く見解が分かれるところでしょうけど、最速で「富国強兵」を推し進める為には強力な専制に近い統治システムが必要ですし、明治政府は大久保派が諸侯や他の派閥の人達を追い払って自分達のやりたいようにやった訳ですからね。
小栗さんは高禄の旗本として生まれて来た為に、こういう選択しかなかったんだろうと思います。

横須賀造船所は新政府に引き継がれ、1871年(明治4年)に完成しました。
横須賀造船所

これで蒸気船などの洋式艦船の製造が可能になり、「富国強兵」策を加速させる事になるんですね。

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長州砲の行方 http://bakumatu.wealthyblogs.com/archives/1045 Tue, 20 Jul 2010 13:13:38 +0000 http://bakumatu.sitemix.jp/?p=1045 下関戦争の時にイギリス・フランス・オランダ・アメリカは戦利品として長州藩の大砲を全て持ち帰ってしまったんですよね。 各地でそうやって色々な物を分捕り、自国の博物館に展示したりしていらっしゃいますね。 まぁ、それは置いてお […]

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下関戦争の時にイギリス・フランス・オランダ・アメリカは戦利品として長州藩の大砲を全て持ち帰ってしまったんですよね。
各地でそうやって色々な物を分捕り、自国の博物館に展示したりしていらっしゃいますね。

まぁ、それは置いておくとして、何年か前にフランスに向かう飛行機の中で読んだ雑誌に長州砲が保管されている博物館を紹介している記事がありました。
残念ながらどこの博物館だったか忘れてしまったのですが、その後長州砲の1門が、フランスのアンバリット軍事博物館から返還されていて、現在下関市立長府博物館にて展示されているんですね。

長州砲の返還についてはこういう本も出ています。

わが長州砲流離譚

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最近図書館で見かけたので今度借りてみようと思っています。

まだまだ日本人が知らない場所に保管されている物もあるかもしれませんね。
海外に行った時に出会えるかも知れませんので、少し気に留めておきましょう。

観光スポット
◆下関市立長府博物館

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幕末史の概略 http://bakumatu.wealthyblogs.com/archives/36 Tue, 20 Jul 2010 06:55:37 +0000 http://bakumatu.sitemix.jp/?p=36 ペリーの来航~日米和親条約 1853年6月3日、江戸の町を揺るがす大事件が起きました。 アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官であるペリーが旗艦「サスケハナ号」を先頭にして、計4隻の軍艦を(蒸気船)を率いて浦賀沖に(神奈川県 […]

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ペリーの来航~日米和親条約

01

1853年6月3日、江戸の町を揺るがす大事件が起きました。

アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官であるペリーが旗艦「サスケハナ号」を先頭にして、計4隻の軍艦を(蒸気船)を率いて浦賀沖に(神奈川県横須賀市)に姿を現したのです。

「太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」

これは250年間続いた江戸の太平の世を揺るがす大事件で、この狂歌は町民が皮肉っぽく武士や当時の江戸の町の様子を現したものです。

ペリーが乗って来た蒸気船(黒船)、これを上喜撰(宇治の高級茶)になぞらえて、お茶は4杯飲んだら眠れなくなるでしょうから、「たった4隻の軍艦で江戸中が夜も眠れない位に大騒ぎになっているよ」と言う風に当時威張っていた武士達を皮肉って楽しんだのでしょう。

当時の日本は鎖国状態でしたが、日本近海にはフランスやイギリスなどの外国船が頻繁に姿を現していました。

この事件の少し前の1839年に隣りの清国(現在の中国)とイギリスの間で「アヘン戦争」と呼ばれる戦争が起きています。

アヘン戦争

イギリスは中国にアヘンという麻薬を輸出していましたが、アヘンの常用により当然精神や健康を害す人が増えて来ました。

これに耐えかねた清国政府が、アヘンの輸入を禁止しました。

ところがこれに納得のいかないイギリスが清国に因縁をつけて戦争を仕掛けたのです。

ahen

この戦争に清国はあっさり敗北し、多額の賠償金を取られた上に非常に不平等な条約を結ばされてしまいます。

アヘン戦争が日本に及ぼした影響

清王朝に限らず「中国は大国であり負けはすまい」と考えていたところ、あっさり負けてしまったことで幕府の高官や知識人達は相当危険な奴らが日本の周りをウロウロしているという認識を持ち、彼らを非常に警戒するようになりました。

幕府の中でも、戦争では勝ち目がない欧米列強に対してどう接していくのか、激しく意見が分かれる状態が続きます。

外国の武力を分析出来ていたと出来ない人がいた為、容易には意見がまとまりませんでした。

戦争で勝ち目がないのだから清国の様になっては困ると、開国を主張する人も出てきました。

これに対して、時の将軍徳川家慶が幕府の方向性を打ち出せずにいた為、中々問題解決には至りません。

苦し紛れに幕府は、開国を求めてやってくる外国船への対応を「無二念打払令」(問答無用で打ち払う)から、「薪水給与令」(対外紛争を避ける為に、燃料と水を与えて速やかに立ち去らせる)に変える事になりましたが、これは一時しのぎに過ぎず、有効な手立てを打てない間に時間だけが過ぎて行き、ついにペリーに江戸湾への突破を許してしまう事になります。

日米和親条約

peri

さて、この黒船に対して浦賀奉行所の与力の中島三郎助という人が最初に交渉に当たります。

小舟で「サスケハナ号」に渡り長崎へ行くように奉行所の命令を伝えたのですが、ペリーに断固拒否されます。(正確にはペリーの部下でペリーは中々姿を現しません)

ペリーはあくまでもトップ同士の会談を要求しますが、この報告が幕府に届くと、てんやわんやの大騒ぎになります。

ペリーはこの間に幕府への威嚇行為を繰り返し、ボートに軍隊を載せて江戸湾に入ってきたり、武装した測量船を江戸湾内部まで進ませたり、軍艦ミシシッピ号までも江戸湾に侵入させました。

これに恐れ慄いた幕府は、戦争になったらとても勝てはしないという分析から国書を受け取るという判断を下します。

つまり武力による脅しに屈した訳です。

そして1853年7月14日、5,000人の武士が警護する中でペリーは武力を誇示する為に、陸戦隊や軍楽隊などの士官ら300人を従えて久里浜海岸に上陸しました。

彦根藩など、各藩がこの警護に参加しますが、これを見た藩は改めて外国の武力の優位性を認識し、その後の攘夷・開国に関する藩論に大きな影響を受けています。

ペリーはフィルモア大統領の国書を渡し、わずか9日間の滞在だけで去って行きます。

それは彼ら一行が残り1カ月分の食糧しか保有していなかった為と言われています。

翌年再来したペリーの強要により、幕府は日米和親条約を結び、下田・函館の両港を開港しました。

ここでもまた、幕府内で大揉めしますが、最終的には前回と同様に武力を恐れて押し切られてしまいます。

これを以って日本の鎖国体制は終焉を迎えますが、当時の世界情勢と日本の生き残りを考えれば、開国は止むを得ない状況であったと言えます。

幕府への反発の強まり

本来であれば武力での威嚇に屈するという形ではなく、そのような状況になる前に開国するべきだったのですが、当時の10年間で将軍は12代家慶、13代家定と2代に渡っており、それは両名とも体力・気力・判断力の面で非常時の将軍の資質に欠けていたからと言われています。

将軍の資質に恵まれず、日本は不利な形で開国を選ばざるを得なかったのです。

とは言え、老中の阿部正弘などが尽力して国論を取りまとめようとしたのですが、開国を認めない攘夷派も多く、この開国という幕府の判断に対する国内での反発が急激に強まって行くことになります。

このペリーの一件から、将軍の実質的不在、言わば国家元首が不在という状況の中で、日本は未曾有の混乱の時代に突入して行きます。

日米修好通商条約~桜田門外の変

日米修好通商条約

日米和親条約が締結されてから4年後の1858年に、初代アメリカ総領事であるタウンゼント・ハリスの圧力に屈する形で幕府は不平等条約である「日米修好通商条約」に調印してしまいます。

harisu

ハリスは「早く条約を締結しなければイギリスやフランスが来て日本は清国のような扱いを受ける」などと脅しまがいの名演説によって日本に圧力を掛けました。

この条約には①更に各地の港を開港する事、(現在の横浜・神戸など)②領事裁判権をアメリカに認める事(アメリカ人が日本で犯した犯罪を日本は裁けない)③関税を日本が自由に設定出来ない事、など日本に不利な条項ばかりが盛り込まれていました。

当時の日本人がアメリカに行くような事は出来ませんでしたので、お互いの権利を認めていた条約であったとしても実質的には日本に不利な不平等条約でした。

当初、権力を失い掛けていた幕府は更に政情が不安定になる事を恐れ、孝明天皇に条約締結の勅許を貰う為に画策しますが、岩倉具視(いわくら ともみ)などの朝廷権力の回復を願う公家88名の参列により、これは失敗に終わります。

朝廷内も保守派と改革派に分かれ、政治は幕府に任せようという勢力、幕府には任せておけないという勢力の対立がありました。

お互い色々工作を行いますが、最終的には反幕府勢力の思う壷となりました。

窮地に追い込まれた幕府は、大老で彦根藩主の井伊直弼(いい なおすけ)と幕府の老中らの合議により、幕府の独断で止むを得ずこの条約に調印せざるを得なくなります。

攘夷派の反発

攘夷派の水戸藩主徳川斉昭は、この直弼の専断に対して条約調印は「違勅」であると幕府を糾弾しました。

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この斉昭という人物は朝廷や幕府に対する影響力が大きく、この問題を引っ掻き回して実子である一橋慶喜を次の将軍に立てるべく朝廷に様々な工作を仕掛けます。

こうして将軍継嗣について血統重視の井伊直弼を筆頭にした保守派と、能力重視の徳川斉昭を筆頭とした改革派の対立が深まって行く事になります。

直弼を始めとする保守派の言い分としては、天皇家も徳川幕府も代々血統を重視した後継者選びをしてきたのであり、更に13代将軍家定の意向としても継嗣は紀伊藩の徳川慶福(よしとみ)であった為、強硬に慶福を推します。

「将軍は優秀ではなくとも、補佐役の大老や老中らが優秀であれば良い」「徳川幕府は260年もこの方式で存続して来たのだし、それが幕府権力を強化するのだ」という主張です。

これに対して改革派の主張は「国家の危機だからこそ、将軍には聡明で人望のある人物を置くべきだ」というもので、聡明で人望があると評判の徳川斉昭の実子、一橋慶喜を推してくる訳です。

時流を考えればこちらの方が正しく思えますが、この斉昭本人が大変な攘夷思想の持ち主で「武力で外国を追っ払え
」などと危険な思想を振りまく為に、将軍継嗣問題がこじれてしまいます。

「条約の調印」「将軍継嗣」の意見の申し立ての為に、徳川斉昭・一橋慶喜・越前藩主の松平慶永らが江戸城に押しかけ登城で散々意見を言うのですが、井伊直弼や老中達にうまくあしらわれてしまいます。

安政の大獄

「幕府権力の強化を以って外国と渡り合う国力を付けたい」と考えた井伊直弼らは、強硬手段に出て改革派の勢力を粛清・弾圧という手段に打って出ました。

naosuke

これが「安政の大獄」です。

徳川斉昭(水戸藩主)の蟄居(謹慎)、一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)・松平慶永(越前藩主)らの隠居、吉田松陰・橋本佐内らの死罪など、安政の大獄は人々の予想をはるかに越える極刑だった為に大老怨嗟の声が湧き、新たな危機を生み出す結果をもたらします。

桜田門外の変

特に攘夷思想の強い水戸藩では過激派が激昂し、藩も彼らを抑えることが出来なくなってしまいます。

水戸藩としても過激派を抑えようという努力はしますが、納得いかない者らは脱藩して浪士になり、大老暗殺に向かいました。

sakuradamon

1860年3月3日、江戸城桜田門で薩摩藩士を含む水戸浪士ら18名が直弼を襲撃し、暗殺を決行、井伊直弼は命を落とします。

これが世に言う「桜田門外の変」であります。

この事件の後、政局はまたも大きな転換期を迎える事になります。

和宮降嫁~生麦事件

和宮降嫁

kazunomiya

幕府権力回復の為に選ばれた、大老「井伊直弼」を暗殺されて力を失った幕府は、朝廷の力に頼ろうと考えます。

幕府単体の力では国論を抑えることが出来ないと考え、親幕派である「孝明天皇」の妹「和宮」を14代将軍「徳川家茂」の夫人に迎え入れようと画策しました。

実は「井伊直弼」の生前もこの話は検討されてましたが、直弼が暗殺された事で「残る手はこれしかない」という状況に陥ったのです。

「孝明天皇」は大の夷敵嫌いだった為、幕府は交換条件として孝明天皇に「7~8年の間に条約を締結している国々を打ち払う」という、実行不可能な誓約をしてしまいました。

これは親幕派の孝明天皇個人の意向ではなく、その周囲の人間達が何か条件を付けて幕府に対する朝廷の権限を回復させようと目論んでいた為に起こりました。

幕府と朝廷の駆け引きの中で権力を失いつつあった幕府が、朝廷によって不利な条件を飲まされた訳です。

島津久光と生麦事件

Shimadu_Hisamitu

安政の大獄を免れた巨星「島津斉彬」は、急病で(暗殺との疑いも)あっさり死んでしまい、次の薩摩藩主「島津茂久」の実父であり、藩政の実質的な掌握者であった「島津久光」が幕政に影響力を持つようになります。

過去十数年の間に、薩摩藩は幕府とは対照的に密貿易や藩政の改革に成功しており、国力を大きく伸ばしていました。

1862年、久光は天皇の勅使を伴い江戸に入り、幕府の人事に干渉、安政の大獄で隠居させられていた「一橋慶喜」を将軍後見職に、「松平春嶽」(慶永から改名)を政治総裁職に任命させる事に成功しました。

幕府は朝廷と外様大名の圧力に屈してしまう程、力が弱くなっていたのです。

帰路に着いた久光は、道中生麦事件(行列を乱したイギリス人を薩摩藩士が殺傷した事件)を起こしましたが、もはや力なき幕府は薩摩藩に手を出す事が出来ず、犯人を裁く条約上の義務を果せませんでした。

この事件を巡る幕府の対応は、幕府が日本の政府としての実質に欠けるという内情を対外的に露呈する結果となりました。

Namamugi_incident

幕府の攘夷宣言~蛤御門の変

幕府の攘夷宣言

幕府が日増しに弱体化していく中、1862年に2度目の勅使として「三条実美」(さんじょう さねとみ)と「姉小路公知」(あねこうじ きんとも)が攘夷行動を求めて江戸に入りました。

sanjo

幕府は天皇に攘夷を約束し続け、その見返りとして政治を幕府に任せるという条件のもと、攘夷実行の日を1863年5月10日決定するところまで踏み込む事になります。

これは形式的には全大名に攘夷実行を宣言したことになります。

しかしながら、現実的に不可能であることは幕府を含めたほとんどの藩が認識しており、実際に攘夷行動を起こす気はありませんでした。

ところが長州藩だけは本気で攘夷を実行しようとやる気満々でした。

長州藩は関ヶ原の戦いで西軍に付いた為、敗戦により領地を減らされた上に広島から山口に追いやられています。

その遺恨が幕末まで残っており、正月に家臣が藩主にあいさつする時に面白い風習がありました。

「殿、まだでございますか?」「まだじゃ」

これがその風習なのですが「徳川家に復讐するのはまだか?」と言う事だそうです。

長州は江戸から遠く、過去の遺恨が代々引き継がれていた為に反幕の志が育ち易かったのです。

このような背景から、当時の長州藩の過激派の志士らは朝廷内の過激派公家と深く結び付き、幕府から権力を奪い取ろうと考えるようになりました。

下関事件

そして遂に攘夷実行の5月10日がやって来ます。

攘夷運動の最先端を行く長州藩は、関門海峡を通過するアメリカの船を砲撃しました。

「三条実美」などの尊王攘夷の過激派が支配する京都朝廷は、これに対して直ちに感状を発します。

意気の上がった長州藩過激派志士と朝廷内の過激派公家達は「攘夷の出来ない幕府を討たなければ攘夷は達成出来ない」という理屈を持ち出して孝明天皇を担ぎ出そうとしました。

しかし孝明天皇は非常に保守的で親幕であった為、あくまでも幕府の主導でこの難局を解決して欲しいと願っていました。

長州系過激派を危険分子とみなした「孝明天皇」は彼らと訣別する道を選ぶようになります。

蛤御門の変

1863年8月18日、「孝明天皇」の意向に従い、最も天皇の個人的信任を得ていた京都守護職「松平容保」率いる会津藩と、西日本最大の雄藩である薩摩藩が手を結び、長州藩と長州系激派公家らは京都から追放されます。

これを「文久の政変」と言います。

「三条実美」らは長州に亡命し、京都の回復を目指す様になります。

なんとか朝廷を抑えようと考えた長州系過激派は、翌1864年7月18日の深夜から再び孝明天皇を自陣営で担ぐ為に御所に攻め込もうと行動を起こしました。

長州藩内でも過激派と慎重派に意見が分かれていましたが、池田屋事件(同年6月5日起きた新選組による、藩士の殺害)の影響で、藩政は過激派に傾く事になり、この出兵に至りました。

しかし、不穏な動きが事前に察知され、会津藩・桑名藩・薩摩藩との戦闘に敗れた長州藩はあえなく敗退してしまいます。

この時最も戦闘が激しかったのが蛤御門の辺りであった為に、この戦闘は「蛤御門の変」(禁門の変)と言われています。

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この事件により京都守護職であった「松平容保」(会津藩主)は、長州の尊攘激派を弾圧する体制を強めて行く事になり、蛤御門の変の際に長州藩士が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に長州は朝敵の汚名を着せられ、第一次長州征伐を招く結果となりました。

下関戦争~第一次長州征伐

第一次長州征伐

蛤御門の変で長州を京都から追い出した幕府は、1864年8月、幕府権力の回復のチャンスを逃すまいと「朝敵」の烙印を押された長州藩に対し、征長の勅命を奉じて軍隊を差し向けます。

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総督を尾張藩の隠居「徳川慶勝」、薩摩藩の「西郷隆盛」が参謀格として従い、広島に36藩15万の兵を終結させて長州に進軍を開始しました。

下関戦争

しかし、幕府軍が長州に到着する前に長州ではとんでもない事件が起きていました。

1863年5月10日に長州藩が攘夷実行の大義のもとに関門海峡を航行中の米仏商船に砲撃を加えて海峡を封鎖し続けた事に対し、米英仏蘭の4ヶ国が報復を行ったのです。

1864年8月5日、17隻の連合艦隊は下関中心部の砲台を徹底的に砲撃し、陸戦隊がこれを占領・破壊しました。

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武器の性能の差は如何ともし難く、長州藩は完膚なきまでに叩きのめされ、既に幕府軍と戦う余力は残っていませんでした。

またこの事件により、長州藩内部では過激派が力を失い、保守派が藩政を取り仕切る様になりました。

長州藩は征長総督参謀の西郷隆盛の出した条件を呑んで、禁門の変の責任者である三家老の切腹と三条実美ら激派公家の他藩への移転の処置を行い全面降伏します。

これにより、第一次征長軍は長州藩と戦火を交える事なく撤退する事になります。

幕府側から見ればこの甘い処置が原因で崩壊への道を早めた訳ですが、日本という大きな視点で見れば無駄な戦闘を起こさずに済んだという事になります。

奇兵隊の決起~第二次長州征伐

奇兵隊の決起

第一次征長により幕府への恭順派が藩政を握り、過激派は暗殺されたり藩政から遠ざけらるようになります。

しかし、これに屈しない高杉晋作を始めとする過激派の志士達は、1865年12月から翌年1月にかけて奇兵隊を中心とした兵力で次々と恭順派の拠点を撃破し、再び藩政を握る事に成功します。

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下関での2度に渡る西欧列強との戦争を経験した事により、圧倒的な軍事力の差と武士の兵士としての戦闘力の低さを痛感した彼らは、攘夷を行う為には開国して軍事力を増強する必要性を理解し、水面下で軍隊の近代化を推し進めて行きます。

第二次長州征伐

この事態を知った幕府は、第一次征長が手ぬるかったと気付き第二次征長を将軍親征で行う事を決め、1865年4月に諸藩に長州再遠征を命じました。

しかし、莫大な軍事費の負担を嫌った諸藩の足並みは揃わず、頼みの綱であった薩摩藩は「幕府と長州の私戦である」と出兵を拒否しました。

それでも幕府は5月には大坂城でまで軍を進めました。大坂城まで進軍すれば、長州が恭順の意を示すだろうと読んでいたのです。

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ところが、長州は徹底抗戦の構えを見せます。

1866年1月、土佐藩の坂本竜馬、中岡新太郎らの取りはからいで、長州藩にとっては仇敵である薩摩藩との間に薩長同盟が結ばれました。

長州にとっては、幕府軍を迎え撃つ為に早急に海外の近代式の武器や装備を揃える必要があり、それを幕府に妨害されない様に薩摩藩名義で購入するという目的がありました。

1866年6月7日、幕府海軍が長州藩陣地に砲撃をしかけ、戦闘の幕が切って落とされました。

幕府軍の兵力は10万2,000、対する長州軍はわずかに3,500でしたが、幕府軍を上回る大量の最新式兵器をを駆使して長州軍が幕府軍を翻弄しました。

7月20日、戦いのさなか14代将軍の徳川家茂が病没し、窮地に陥った幕府は8月に家茂の喪を口実に停戦を宣言して惨敗の局面を収拾します。

もはや幕府は一藩の反抗さえも制圧出来ないほど弱体化していたのです。

15代将軍徳川慶喜の登場~大政奉還

15代将軍 徳川慶喜の登場

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第二次長州征伐中に家茂が病没した後、幕閣は次期将軍に聡明と評判の高い「一橋慶喜」を推しました。

慶喜は旧来の合議制による幕府の意志決定ではなく、将軍の裁量で幕政改革を行う事が必要と考えていました。

それには有力諸侯や老中達の推挙が必要だった為に、その条件を飲ませる為に慶喜は将軍就任を再三固辞しています。

そして、思惑通りに松平慶永らに自分の希望を飲ませることに成功すると、1866年12月5日に15代将軍に就任します。

ここから幕府の威信回復と延命を掛けた慶喜の活躍が始まります。

慶喜は、幕府を中心とする強力な中央集権体制の確立を目指して次々と新政策を打ち出しました。

経済・軍政の面ではフランス公使ロッシュの建言も聞き入れ、改革はかなりの成果をあげつつありました。

ところが、将軍就任からわずか20日後に親幕思想の孝明天皇が急逝してしまいます。

これは岩倉具視らが暗殺しという説もありますが、真相は定かではありません。

幕府びいきの天皇を失い、慶喜は大きな痛手を負う事になると共に討幕派にはまたとないチャンスが訪れることになります。

大政奉還

薩摩の「西郷隆盛」と「大久保利通」らは、翌1867年1月に即位した「明治天皇」がまだ16歳の少年である事に乗じて、薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を行い徳川を一大名に引きずり下ろす為に、朝議を反幕の方向に操ろうと画策します。

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しかし、こうした動きを慶喜は先手を打ってかわし続けます。

西郷らはもはや平和的な方法での討幕は不可能と考え、武力による討幕を決意するに至りました。

こうした討幕の動きを察知した慶喜は、土佐藩前藩主である山内容堂の進言を聞き入れる形で大政奉還(政権を天皇に返す)を決意します。

これにより幕府自体が消滅し、武力衝突は避けられると考えていたからです。

幕府が本気で軍事的衝突を想定した場合、当面は負ける事はなかった筈ですが、慶喜は内戦で国力を疲弊させる事を望みませんでした。

また政権を返上したところで実質的に政治を行う機能が朝廷にはなく、結局最終的には自分が政治を取り仕切る事になるとの予測もありました。

しかしこの情報が討幕側に漏れており、西郷らは武力討幕の準備を急ぐと共に武力討幕の密勅を得る為に3人の公家宛に書簡を送ります。

この公家らの暗躍により、薩摩藩・長州藩は討幕の密勅を得る事に成功します。(但し、この密勅は天皇自ら書いた物ではなく、内容を知らない天皇が押印だけさせられた物であり、偽の密勅であるという説もあります)

1867年10月「徳川慶喜」は大政奉還の建白書を上奏します。

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偶然ですが、慶喜が大政奉還の建白書を提出した同日に密勅が届いた事になりますが、大政奉還により討幕の密勅の名分は失われました。

慶喜が武力衝突を謀略でかわし続けたのです。

王政復古の大号令

王政復古の大号令

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大政奉還により徳川幕府は政権を朝廷に明け渡しましたが、慶喜の読み通りに朝廷は当面の政務を幕府に委任する事になります。

出鼻をくじかれた討幕派は、武力を背景にしたクーデターに最後の望みを繋ぐべく謀略をめぐらせます。

既には国論は皆開国でしたから、完全に権力闘争の図式になっています。

そして1867年12月9日、討幕派の策が実行されました。

まず、午前中に「岩倉具視」が天皇に「王政復古の大策」を差出し、これに基づいて天皇は親王、諸臣を集め「王政復古の大号令」を発します。

この内容はこれまでの摂政や関白などの朝廷の官職を全て廃止し、新たに総裁・議定・参与によって政治が行われるという物でした。

これが新政府の最初のスタイルでしたが、このメンバーに慶喜は入っていません。

既にこの時点で慶喜が朝敵にされる事が明白となりました。

そして、この日の午後にいきなり戒厳令が敷かれ、薩摩藩・土佐藩・尾張藩・越前藩・芸州藩の兵が、御所の会津藩・桑名藩の兵を追い出します。

御所が占拠、幕府寄りの公家が全て御所から追い出され、討幕派が宮中を占拠したのです。

そしてその日の夜、王政復古の名のもとに重大な会議が開かれます。

その会議の趣旨は、慶喜の現任する職を全て奪い、徳川家の領地を朝廷に変換するという物でしたが、その会議のなかで「山内容堂」と「松平春嶽」(慶永)がこれに反発します。

しかし、最終的には「岩倉具視」がこれを制し慶喜の「辞官・納地」が決定します。

この決定は翌日に二条城にいた慶喜に伝えられます。

周囲の者はこれに激怒しましたが、慶喜は朝廷に対しては何があっても逆らわない、として数日後に京都守護職・「松平容保」と京都所司代・「松平定敬」を引き連れ、大坂城へと退きます。

鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦い

慶喜が大坂城に入ってからも江戸の幕臣や会津藩・桑名藩の憤激は収まらず「君側の奸は薩摩である、薩摩を討て」といきり立ちますが、慶喜がこれをなだめます。

一方、朝廷側でも「西郷隆盛」・「大久保利通」・「岩倉具視」ら強硬派と「山内容堂」・「松平春嶽」(慶永)らの徳川擁護派の対立が続いていました。

次第に主導権を擁護派が握る様になり、強硬派は窮地に追い込まれます。

しかし、西郷はあらかじめこの様な事態を予測し、江戸に腹心を送り込んでいました。

江戸で攪乱の浪士団を結成して旧幕府を挑発する為です。

1867年10月下旬から12月にかけて江戸では頻繁に強盗が入り、続いて12月23日には江戸城の二の丸が放火で炎上します。

また、同じ日に薩摩の枝藩、佐土原藩士が市中警護の庄内屯所に発砲襲撃を仕掛けました。

これに耐え切れなかった旧幕府の強硬派である「小栗忠順」が、庄内藩に命じて1000名以上の兵を以って薩摩藩屋敷に焼き討ちを掛けました。

ここに至って、さすがの慶喜も「松平容保」らの強硬派を押さえきれず「薩摩のみを討つ」として京都への進撃を許します。

1868年1月3日、幕府軍は15,000の兵力を二手に分け、一方は伏見に布陣、もう一方は鳥羽街道を北進しました。

これを迎え撃つ薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍は、5,000の兵力でこれに対峙します。

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戦いの火蓋は薩摩軍の大砲により切って落とされました。

兵力では旧幕府軍が圧倒的に勝っていましたが、士気の面、装備の面では近代化が進んでいた新政府軍の方に分がありました。(旧幕府軍の装備は最新式でしたが、指揮官の熟練度に難があり、会津藩・桑名藩の装備が貧弱でした)

戦闘は一進一退の膠着状態が続きますが、1月5日に戦況が急変します。

「大久保利通」らが長州で作らせた錦の御旗が淀川の北岸に翻ったのです。

このままでは旧幕府軍は薩賊を討つ為の軍ではなく、朝廷に弓を引く朝敵となってしまいます。

大坂城で錦の御旗の知らせを聞いた慶喜は、朝敵になる事を嫌い江戸に帰ると言い出します。

総大将が逃げ腰になった事で、旧幕府軍は浮足立ち淀藩・津藩の寝返りにも遭い大坂城に敗走します。

これを知った紀伊藩などの畿内の中立の諸藩も討幕側に寝返りました。

開戦当初から慶喜は大坂城から出陣する事は無く、1月6日になって「これより出陣する」と告げたかと思えば、その日のうちに主戦派の筆頭「松平容保」らを連れてひそかに大坂城を脱出し開陽丸に乗り込んで江戸に帰ってしまいます。

慶喜の撤退により、鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わります。

江戸城の無血開城

江戸城の無血開城

1868年1月、江戸に戻った慶喜は、事後の処理を全てを幕臣の「勝海舟」に託して恭順の意を示します。

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勝は日本の未来と徳川家の存続の為に、より優位な降伏条件を勝ち取ろうと様々な策を講じます。

まず江戸の火消を集め、万一交渉が決裂した場合の策としてナポレオン戦争時にロシアが行った焦土戦術(江戸の町を焼きつくし、敵から住居も食料も奪う)を行い、籠城戦に備える準備を進めました。

更に旧幕府軍に軍事指導を行っていたフランスが新政府軍を支持するイギリスとライバル関係にあった為、フランスの援助を断ち切りイギリスの新政府軍への影響力を弱める事により、イギリスとフランスの代理戦争の色を消し去ります。

また、駿府の新政府軍の大総督府に「山岡鉄舟」を送り、世界的な視点で現状の日本が置かれている状況と、自分たちが恭順の意を示しているのは徳川の為だけではなく、日本の為である事を西郷に示しました。

そして1868年3月14日に「勝海舟」と「西郷隆盛」の会談が行われます。

この会談で勝は慶喜の水戸での隠居、旧幕臣や会津藩などの旧幕府勢力を許す事などを降伏条件として提示します。

西郷はこの条件を新政府の上層部の判断に委ねる事として、江戸城の総攻撃を一時中止する事を決定しました。

ただし、まだこの時点では完全に戦争が回避される事が確実になった訳ではなく、今後の状況の変化次第では戦争になる可能性が多分にありました。

西郷はこの降伏条件ついての判断を仰ぐ為に一時京都に戻ります。

3月20日、京都でこの降伏条件についての会議が行われます。

「岩倉具視」、「大久保利通」などは慶喜の切腹を主張しましたが、木戸孝允が慶喜擁護を強く訴えます。

最終的に木戸の意見が採用され、水戸での謹慎を言い渡す事になりました。

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また、 旧幕臣や会津藩などの旧幕府勢力を許す事もここで認められます。

ただし、旧幕府勢力を許す事に関しては西郷が江戸に戻る際に駿府の東征大総督府に寄った時の会議で削除されました。

会津が非常に強い為に、会津と戦う事はないだろうとの見解から削除に至った様です。

3月27日、勝はイギリス公使「パークス」のもとを訪れ、旧幕府が全面的に恭順の姿勢である事を伝えました。

それにもかかわらず新政府軍が攻撃を行うので有れば、江戸を焼きつくし交戦による混乱は横浜まで及ぶ為、イギリスにとっても横浜での貿易に被害が及ぶ事を言明します。

これを受けて「パークス」は、万国公法では降伏の意志を明らかにしている敵に対しての攻撃を禁止している事、それでも江戸城に攻撃を行った際はヨーロッパ諸国は新政府を卑下する事になるであろう事を横浜で京都から戻る最中の西郷に伝えました。

西郷は随分驚きましたが、既に慶喜の処置など京都で決めていましたので鳥羽伏見の戦争を起こした会津藩などについても寛大な処置を行うと返答しています。

そして勝がパークスに根回ししていた事を悟っていましたので、これ以上勝のいう事は聞かない様、パークスに頼んでいます。

4月10日、勝と西郷は江戸城引き渡しに際しての打ち合わせを行う為、再度会見を行います。

ここに至ってようやく戦争回避が確定的になり、翌日にそれを見届けた慶喜は江戸を去り、水戸へ向かいます。

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その日のうちに江戸城開城が平和裏に行われ、徳川家だけではなく、日本のその後の運命も救われる事になりました。

彰義隊の抵抗

彰義隊の抵抗

江戸城は無事に引き渡されましたが、これで全てが終わった訳ではありません。

大政奉還以来、慶喜が恭順姿勢を崩さ無かった為に新政府の挑発に耐えて来た佐幕派の人達の無念の思いがマグマの様に吹き出します。

まず、上野の寛永寺で慶喜を警護していた彰義隊が新政府軍の兵士を斬殺するなど、挑発的な行動を重ねた事から1868年5月15日に遂に討伐令が下されました。

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最盛時には3,000人もの兵力がありましたが、討伐令が下されると半数以下に激減します。

対する新政府軍は2,000人の兵力があり、彰義隊は一日の戦闘で壊滅してしまいました。

それと前後して関東以北でも戦闘が続いています。

会津戦争

江戸城開城の際の条件として、旧幕府勢力に対しては「抵抗しないならば許す」という項目がありましたが、義を重んじて武装を解除しない会津藩を討伐する為に新政府軍が進軍しており、各地の進軍経路で戦闘が起きました。

当初、新政府軍は近隣の藩に会津を討たせようと考えていましたが、仙台藩や米沢藩など、東北諸藩ははこれに応じず会津に恭順する様に説得を行い、これに成功します。

仙台藩は奥羽25藩の重臣と連名で討伐軍の総督府に対して会津の恭順を認める様に願い出ましたが、参謀の世良修蔵により嘆願書を握り潰されてしまい、この世良の対応に激昂した仙台藩士らが、閏4月19日、福島の旅館に宿泊中の世良を捕縛し、翌日に斬首してしまいます。

ここに至って、奥羽25藩は5月3日に「奥羽列藩同盟」を結び、会津と共に新政府軍と戦う事を決意します。

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また、これに北陸の6藩が加わり5月6日には「奥羽越列藩同盟」となりました。

5月から7月にかけては白河城周辺で一進一退の攻防が繰り広げられます。

しかし新政府軍の増援が送られてくるにつれ、武器や戦術の近代化が遅れていた東北の諸藩は各地で次々と新政府軍に打ち破られる様になり、新政府軍への寝返りも起こるなどして同盟の脆弱さを露呈する事になります。

会津藩も開戦当初は善戦していましたが、圧倒的な兵器の性能と兵力の差に抗し切れず、遂に9月22日に降伏開城します。

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この会津戦争での会津側の死者は2,600人近くになり、白虎隊自刃の悲劇もこの戦いで起きています。

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最後に盛岡藩が降伏して奥羽諸藩は全て新政府軍の軍門に降りました。

函館戦争

函館戦争

東北諸藩が苦戦を強いられる一方で、江戸では軍艦の引き渡しを巡って事態が動きます。

江戸城開城の交渉時に、幕府の軍艦引き渡しが決定していましたが、旧幕府の海軍副総裁であった榎本武揚が全面的にはこれに応じず、主力の軍艦は榎本の管理下に置かれたままでした。

榎本は元々は主戦派でしたが、1868年5月24日に徳川家が駿府70万石に移封になると、旧旗本達の行く末を心配するようになって行きます。

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そこで旧幕府勢力とともに軍艦で蝦夷地まで移動し、蝦夷地を開拓しようという事になります。

8月19日、彰義隊やその他敗残兵を乗せた艦隊は、仙台に寄港しそこでも敗残兵の収容を行いつつ10月9日に仙台を出航します。

そのまま北上を続けた艦隊は10月20日に函館付近の海岸に上陸します。

そこから函館府に向けて進軍を開始しました。

戦闘慣れした榎本軍は函館府の守備兵に一方的に勝利し、これを簡単に奪っています。その勢いで松前城も攻略し、蝦夷地は完全に榎本軍の支配するところとなったのです。

蝦夷地を占領した榎本ら首脳は、次の内容を朝廷に嘆願書として送ります。

①蝦夷地に徳川家を迎える事。

②旧幕臣の失禄者を外国への警備要員として当てる事。

③蝦夷地の開拓を行い、失禄武士を救済する事。

しかし、朝廷(新政府)はこれを拒否しました。榎本らはそれならば新政府を樹立しようと考え、士官以上の者による投票を行い総裁と各奉行を選出します。

こうして榎本武揚を総裁とした函館政府が誕生しました。

五稜郭に総本部を移し、不備を補い要塞の防備を固めます。イギリス・フランスも榎本らを単なる反乱軍とはみなさず、一独立政権として折衝を行っていました。

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しかし、この間新政府軍の蝦夷地奪回作戦は着々と進行していました。制海権を握るために、新政府側は新型軍艦「甲鉄」をアメリカから購入し、海軍力を強化します。

1869年3月21日、新政府の艦隊は宮古湾に入港しました。この情報をつかんだ函館政府は宮古湾に奇襲をかけて、「甲鉄」を奪う作戦を立てますがこれが失敗に終わり、逆に大きな被害を受けます。

4月6日、新政府軍は上陸作戦を開始し、大兵力で松前城など各拠点を落とします。局地的な戦闘では、土方歳三や大鳥圭介の部隊が善戦し、新政府軍を撃破する場面もありましたが、函館政府は圧倒的な兵力の差で徐々に追い詰められて行きます。

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1869年5月18日、遂に榎本ら首脳陣は降伏開城を決意し、ここに至って1868年1月3日の鳥羽・伏見の戦い以来の戊辰戦争の全てが終結する事になります。

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明治維新は国家としての脱皮 http://bakumatu.wealthyblogs.com/archives/1474 Sun, 18 Jul 2010 15:03:45 +0000 http://bakumatu.sitemix.jp/?p=1474 蛹から出てくる成虫の種類は決まっている 明治維新は国家としての「脱皮」だったのではないか、と私は思うのですが「脱皮」というのは中から出てくる成虫は決まっている訳で蝶のサナギからカブトムシの成虫は羽化しません。 この「脱皮 […]

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蛹から出てくる成虫の種類は決まっている

明治維新は国家としての「脱皮」だったのではないか、と私は思うのですが「脱皮」というのは中から出てくる成虫は決まっている訳で蝶のサナギからカブトムシの成虫は羽化しません。

この「脱皮」という言葉を使ったのは、ペリーの来航までに既に中から出てくる虫の種類は決まっていたと思うからです。

近世までの日本は、島国のメリットを最大限に生かしてきた

末期までに日本が歩んできた歴史の大きな特徴は、中国や韓国から断続的に技術・学問・宗教を取り入れながら、大陸とは上手く距離を置き、それを日本流にアレンジして独自の文化・支配制度を作り上げて来たというところでしょう。

日本は島国ですから、江戸時代の初期は大陸のように常に他国や異民族の外圧にさらされる事も無く、国内統治さえ上手く行っていれば太平の世が続く環境でした。

そこで徳川家康が作り上げた、幕藩体制の統治システムが国内統治という面では力を発揮して、260年もその体制が続きます。

産業革命で島国を取り巻く環境が激変した

しかし幕末になり、アメリカや西欧諸国の拡張主義の手が日本にも伸びて来た時に、島国で有る事の特性が半減してしまいました。

産業革命により、国境を接していない国からでも、海を介して簡単に上陸を許してしまう国になってしまったんですね。

そこで、国家として脱皮をする必要性が生じた訳です。

そこでまず、江戸時代の封建制度の大きな特徴について考えてみます。

1.身分制度が絶対的な物であり、原則として世襲で引き継がれる。

2.幕府が強力な統治権を有し、諸藩の自治権の範囲をコントロールしていたが、各軍隊は諸藩に帰属する。

幕末に向かうにしたがってこの特徴が薄れて行くのですが、封建制度というのはこの二つの点で外圧に対抗するには問題がある制度でした。

身分が世襲で固定されてしまうと、能力のある者が活躍出来ませんし、戦国時代を見れば分かるように戦乱の時代というのは実力主義を求めるようになります。

また、軍隊も各藩の私兵の集まりという事になり、外国に対抗するには不利な体制です。

ここでお隣の中国の状況を見てみましょう。

当時の清国は中央集権国家だったが・・・

常に異民族の脅威にさらされるていた中国は、清朝までは皇帝(官僚)が絶対的な支配力を持つ中央集権国家でしたし、科挙によって能力がある者が官僚として重用されるシステムでした。

対外的に紛争が頻発するような国の場合は、こういった強固な中央集権と実力主義でやっていかないと隣国に滅ぼされてしまう可能性がある訳です。

実際のところ元・清王朝は異民族の王朝なんですが、統治システム自体は漢民族の物を引き継いでいますから、大陸の帝国としてはよほど都合のいいものだったのでしょう。

この清国もアヘン戦争などでイギリスに良いようにやられてしまうのですが、これは統治体制の問題ではなく、「中華思想」という「中国が世界の文明の中心で他は劣等」という考え方から、西欧文明を軽視した事が問題だと思われます。

産業革命を経て大幅に進歩した、西欧の技術を取り入れる事には消極的でしたし、そこから何か学ぼうという意思は当初全くありませんでした。

当時から、中国に他国から何かを学ぼうとする姿勢があれば恐ろしい事になっていたと思いますし、現在はそういう姿勢がありますので今後は恐ろしい事になって行くと思います。

日本が外圧に対抗する為に抱えていた問題点

さて、ここで話は戻りますが、大きな視点から見ると封建制度と鎖国政策により、当時の日本が外圧に対抗するには以下の問題がありました。

この問題をひとつずつ解決して行きながら、やがて外国に対抗しうる国家となって行きます。

1.人材登用面での柔軟性のなさ

2.権力と軍事力の分散

3.産業・軍事面での技術の遅れ

特に問題が大きかったのが、1.人材登用面での柔軟性のなさについてですが、これは幕府・諸藩での対応は様々です。

封建制と相容れない身分の低い者の重用

幕府の場合は外国の脅威に対してどう対応して行くかという問題を抱えた際に、世襲で引き継がれた能力のない上級の旗本達よりも、身分は低いが能力のある下級の旗本や、御家人株を購入した農・工・商の家格の優秀な者たちが重用されるようになります。

その代表格が勝海舟なのですが、他にも岩瀬忠震・大鳥圭介など、家格にとらわれずに実力で出世していった人がいます。

こういう家格を重視しない人材登用というのは、家康以来の封建制度の根幹を揺るがしかねない行為だったと思いますし、反対する者も多かったでしょう。

ここで一般的に指摘される、儒教と幕藩体制の矛盾というものが問題になってくる訳です。

儒教は中国の統治制度の教科書みたいな物です。

徳のある者が政治を行うべきであり、善政を行わない君主は打倒しても良い、というのがその思想の根幹です。

日本は島国であり、外圧に関しては中国とは違いましたので、儒教を実際の政治に部分的に取り入れる形で、善政を行おうとしてきました。

しかし、前述したように、産業革命によって日本も外国の脅威にさらされるようになると、この儒教寄りの人材登用を行っていく訳ですが、本来これは幕藩体制と相反する物ですから、封建制度の基盤が揺らいで行く事になります。

実際にこういった形で低い家格から出世していった人達は、老中や高禄の旗本達が如何に無能であるかを痛感していたでしょうし、幕府に対しての忠誠心と、国家としての利益を天秤にかけた時に国家の利益を優先する思考が強った人が多いようです。

世襲の身分制度なんかクソ喰らえ、といった心情だったかも知れません。

しかしながら、彼らはそれでも幕臣でしたから、大っぴらにそんな事を言えば下手をすれば切腹ものです。

苦悩の日々が続いた事でしょう。

こういう封建制度自体を揺るがすような人材登用を行っていった訳ですが、これは外圧の中で日本が生き延びる道を考えた時にやむを得ない選択であり、それが歴史の自然な流れというか、日本にそれを行わせるだけの実力(歴史の積み重ね)があったという事だと思います。

幕府内部でも、幕府なりにこういった危機に対応する動きがあった訳です。

また、開明的な人たちは、この封建制度の矛盾に気が付いていた筈ですから、今の幕藩体制ではこの危機を乗り切る事は出来ないと思っていた事でしょう。

勝海舟は早くから幕府が政権を返上し、公議によって政治を行うべしとしていましたが、明治維新後に当初実行された各藩主による公議というのは全く機能していません。
そもそも各藩主というのが実力でもなんでもなく、世襲で身分を引き継いだ人が多かったからです。

小栗忠順による近代的な幕府権力の強化思想

また、小栗忠順などは幕府の権力を強化して、幕藩制を郡県制とし、強力な幕府の中央集権にもって行きたかったそうです。

小栗は高禄の旗本でしたから、そういう考えになったのだと思いすし、日本を手っ取り早く強化する事を考えた場合は、幕府側の人間としてはこれが一番理にかなった支配体制だったと思います。

ただ、これも現実を考えると幕府の支配力が著しく低下し、ガタガタになりかけていましたので実現は不可能でした。

しかし、統治システムという観点から考えた場合は、小栗の発想は当時の日本が最も必要としていたところに近いと思います。

つまり強力なリーダーによるパワープレイですね。

改革は外様大名から進んで行った

幕府の対応は前述のような物でしたが、これが諸藩の対応になると、徳川家に恩を感じていない、もしくは薩摩・長州などのように関ヶ原以来恨みを持っている藩が一番分かり易く、能力のある者をどんどん重用して行きます。

外様大名にこういった傾向が多く、逆に譜代・親藩になると弱くなる感じですね。

外様大名にとっては徳川幕府が崩壊しても、自分たちが新しく出来た政治体制の中枢に居座れればなんら問題がない訳です。

実力のない藩主達は舞台を降ろされた

しかし、誤算として儒教的な発想で行くと、徳(実際には実力)の無い幕府の君主は倒しても良い事になり…ここまでは問題ないのですが、いざ新体制がスタートしてみると、自分たちの徳(実力)の無さを露呈してしまい、大久保利通を中心とした実力のある家格の低い人達に権力を持って行かれてしまいます。

まぁ、最終的に小栗と大久保は、明治維新後の一時的な機構であれ、日本を急成長させる為に似たような統治機構を考えていた(統治する側は違いますが)というのが面白いところですし、そうやって家格の低い実力者たちが権力を持って行く訳です。

明治維新は国難に対抗する為に自然に湧き起こった流れ

また、これは面白いだけではなく、これが時代に要求されて起こった事であるというか、起こるべくして起こったと捉える事が出来ると思います。

「誰それ」がああして、こうして、という事も重要な要素だとは思いますが、仮にその「誰それ」がいなかったとしても、遅かれ早かれ明治維新は行われていた、と私は考えていますし、それがその時点での日本の歴史の集大成なのでしょう。

ですから、最初から出てくる虫の種類は決まっていて、羽化の時期が少し変わっただけだ、というところです。

だた、その羽化の時期が遅くなりすぎてしまうと、外国にパックリ食べられてしまったかもしれませんので、「誰それ」の存在というのは、やっぱりそういった意味で重要だったと思います。

かなり、個人的な見解で恐縮ですが、明治維新はそれぞれが歴史に与えられた役割というのを、討幕側・佐幕側ともに皆が全うした事によりなし得たと、そういう見方をしています。

戊辰戦争の敗者も、西南戦争の敗者も、日本が脱皮する為には痛みが必要ですから、自分の志を貫き通して、その痛みを背負って行ったと捉えることが出来ます。

明治維新は暴力革命か?

暴力が政局を変えてきた

ペリー来航から大久保利通の暗殺までをざっと振り返ってみると、政局が変わる重要な場面では、大抵暴力による実力行使が行われています。

1.安政の大獄…警察力による暴力

2.桜田門外の変…テロによる暴力

3.志士による天誅…テロによる暴力

4.新撰組の取り締まり…警察力による暴力

5.蛤御門の変…軍事力による暴力

6.長州征伐…軍事力による暴力

7.孝明天皇の暗殺…テロによる暴力(あくまでも岩倉具視による暗殺の疑いがあるというだけですが)

8.戊辰戦争…軍事力による暴力

9.西南戦争…軍事力による暴力

10.大久保利通の暗殺…テロによる暴力

明治に入っても、しばらくは暴力と暴力のぶつかり合いが続きます。

ということは、やっぱり明治維新は暴力による革命だったのかって事になるのですが、確かに暴力による革命だったと言わざるを得ないでしょう。

西南戦争やフランス革命はどうか?

ただ、世界の歴史を見ると暴力の程度が違います。

フランス革命の死者数は数十万とも100万とも言われています。

アメリカの南北戦争も死者数は20万程度でしょうか。

戊辰戦争の死者数は1万8千~9千、西南戦争の死者数は1万3千~4千となっていますから、これ以外の戦争や戦闘、暗殺などを含めてもこれが2倍、3倍になる事もないでしょう。

現代の我々の価値観からすると、暴力=忌むべき物となるかもしれません。

もっと遺恨を残さずに、明治維新を成し遂げる事ができなかったかという疑問も抱き得ると思います。

しかしながら少し冷静に考えてみると、過去の歴史では国内外を問わず人間の権力闘争では必ずと言っていい程多くの血が流れていますし、幕末維新の時代でもそれは世界の常識だったでしょう。

日本の庶民の学力、文化レベルが高かった

戊辰~西南戦争の戦死者数と、世界の内乱や革命の戦死者数を比較すると前者の方が圧倒的に少ないですよね。

これは当時の日本が、軍備・産業の面では欧米に大きく引き離されていましたが、文化や教育、精神性のレベルは世界でもトップクラスだったという事が重要なポイントだと思います。

寺子屋の普及により、商人や農民にも学問が普及していましたので、当時の日本男子の識字率は50%を超えており、これは当時の世界一の数字でした。

当初は開国・攘夷を巡って国論が割れ、その後は権力を巡っての争いになる訳ですが、これは根本的には「日本という国家として外圧にどう対抗して行くか」という問題から発生しており、大部分の人がそれぞれに国家を憂う気持ちを持ってのです。

そういう思いがあったからこそ、他国に比べて少ない犠牲で済んだのではないかと思います。

ちなみに戊辰戦争を回避出来たとしたら、現実としては明治になってからも不平士族の反乱が各地で起きている訳ですから、これに旧幕府側の士族が勢いを残したまま加わっていた可能性が高いでしょう。

戊辰戦争時の新政府側の徹底した討伐姿勢は、心情的にはあまり良い物ではないのですが、結果としては西南戦争時に旧幕府側の士族が蜂起していたとすると、兵器の殺傷力が一段と高まっている分、もっと悲惨な結果になったのではないかと想像してしまいます。

従って、日本は最小限の暴力で上手く動乱の時代を乗り越え、新しい国家に生まれ変わる事が出来たという評価で良いのではないかと思います。

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悲劇の大老 井伊直弼の評価 http://bakumatu.wealthyblogs.com/archives/491 Sun, 18 Jul 2010 14:20:36 +0000 http://bakumatu.sitemix.jp/?p=491 井伊直弼の出自 井伊直弼(いいなおすけ)さんは日米修好通商条約を独断で締結し、それを非難する勢力を安政の大獄で粛清した事で独裁者、悪役のイメージが強い方です。 確か中学の教科書にも「こいつは悪い奴だ」的な事が書いてあった […]

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井伊直弼の出自

井伊直弼(いいなおすけ)さんは日米修好通商条約を独断で締結し、それを非難する勢力を安政の大獄で粛清した事で独裁者、悪役のイメージが強い方です。
確か中学の教科書にも「こいつは悪い奴だ」的な事が書いてあった様に思います。
何が悪いって、そりゃ粛清弾圧で維新の志士をたくさん殺したからって事でしょうけどね。少なくとも20年ちょい前くらいの教科書ではそういう扱いでした。

まあ、明治維新後に歴史を書いたのは薩長側の人でしたし、安政の大獄ではいわば長州志士の大先生だった吉田松陰さんなんかも死罪になってますので、極悪人にされて然るべしだったのでしょう。

では本当にこの方はそんなに悪い人だったのか検証してみたいと思います。

まずは、この方の略歴ですが、1815年に11代彦根藩主の井伊直中の14男として生まれました。
彦根藩は徳川四天王と言われた井伊直政を藩祖とする35万石の日本有数の雄藩でした。2代目の井伊直孝がその基礎を作り、木綿の服を着るなど質素倹約を徹底したおかげで、藩の士風は質実剛健なものに変わって行った様です。

また、直弼さんの父である直中は殖産や農業改革などを行い、藩の運営も上手く行っていた様ですから、幕末の彦根藩は幕府にとっては非常に頼り甲斐のある味方だった事でしょう。

さて、直弼さんは14男って事で家督を継ぐ予定はありませんでした。それどころか、5歳の時に母を、17歳で父を亡くした直弼さんは、藩の余り者として家臣以下のわずか300俵という捨扶持で、城のはずれの屋敷で17歳から32歳までの不遇な青年期を過ごしています。
ちなみにその屋敷は埋木舎(当時松が47本あった事から)と言われておりまして、彦根城下に現存しているみたいです。
あの強権を振るった大老にこんな過去があったなんて意外ですよね。
どうでしょう、直弼さんこれで少しポイントアップでしょうか。

そんな境遇にもめげない直弼さんは、武術や学問、茶や禅などをせっせと学んでいたそうです。
因みに、後に居合では「新心新流」という流派を起こす程研究熱心でした。

長野主膳との出会い

さて、17年間の自己修練の時代に、直弼さんは長野主膳という本居流国学者と出会い、彼に師事します。
本居流国学というのは「古事記」や「日本書紀」、和歌などの日本古来の文学の研究をするというのが一般的でしたが、長野主膳はこれを生かして国家の有り方を説くというところまで踏み込んでいました。ここが他の国学者とは一味違うところですね。

主膳の思想は、「日本は天皇家が神の思し召しにより国家を統治する皇国であったが、幕府は天皇家により実質的な統治を全て任されているのである」と言う当時の封建制、幕藩体制を強化する物でした。
この思想が生きてくるのは直弼さんが正式な彦根藩の跡取になってからですけどね。

二人が出会ったのが直弼さん、主膳さんともに28歳でしたが非常に考え方が似通っており、ツーカーの仲になって行きます。
和歌や書物の解釈などを巡り三晩連続で語り合うなど、ちょっと気持ち悪いくらいの直弼さんの傾倒ぶりでした。
「先生、先生」みたいに…28歳の大の男は思えないような手紙が結構残っています。
それ位気があったという事ですね。

15年間こういった学問・武術・茶の道に深くはまり込む日々が続きます。

この間に直弼さんの兄弟達は、着々と他の大名家の養子になって行きます。
血筋としては井伊家は悪くありませんから、そういう話は結構あるんですね。
けれども、直弼さんはあまり人当たりが良くないと言うか、口下手で率直に物を言うタイプでしたので、養子縁組の面接ではあまり好印象を持たれず、縁組も進まなかったんです。
兄弟の仲では一番優秀だったんですけどね。
めんどくさそうな奴だと思われたんでしょう。

兄弟の中で一人取り残されてしまった直弼さんですが、この頃の彼の事を世捨て人の様であったと評価する方もいます。
ですが、実はそうでもなかったようです。

この辺りの直弼さんの心情がなかなか難しいところなんです。
禅道・武術などの業(わざ)を真摯に追及するところはまるで求道者のようですが、実際のところ直弼さんとしては迷いは常にあったものの、その業というのは自分の生まれを受け入れ、大名の庶子(跡取になれない子)として生きて行く為の業であったようです。

いわゆる武士としての禅道や茶道、学問の研究であり、これを生かして理想の武士になりたいと、そういった物であると思います。
この人は真面目で頭も良いので、当時は藩主になれる身分ではなかったのですが、藩の理想像などと絡めてそれらの業を自分なりに研究、改良していった様です。

ただし、迷いというのも抱いており、このまま庶子として生きるよりは仏門に入りたいなどと、周囲に漏らしたり寺に手紙を送ったりしています。
直弼さんは禅道も極めていますし、彦根藩の庶子達には寺の法嗣となっている人も多かったので、これも自然な流れだと思います。

実際に、年代は確かではないのですが、直弼さんが29歳くらいの頃でしょうか。
領内の長浜大通寺から直弼さんを法嗣として迎え入れたいという申し出がありました。
直弼さんは願ってもない機会と思い、この養子入寺を一旦は志願したんですが家臣に止められたんですね。
というのは、直弼さんの兄である12代藩主直亮(なおあき)には実子ななく、直亮と直弼さんとの間の兄弟、直元が藩主直亮の養子になっていたんですが、これまた直元にも実子がいないという状況だったからです。
なんだか複雑ですね。

それでもって、今度は直弼を更に直元の養子にするなんていう計画がかなり現実的に進行していたんです。
そいう言う訳で、この養子入寺の話は流れてしまいます。

転機、彦根藩世嗣へ

人生何が起こるか分からないもので、1846年1月、直弼さんは兄直元の急死により12代藩主直亮の世子となりました。
これは直弼さんにとっては思いもよらぬ出来事で、この境遇の変化に当初は戸惑っていたそうです。
数か月前に大通寺に入寺を志願し、それを井伊家の相続の可能性があった為に諦めたといういきさつがありましたが、兄直元に実子が生まれれば庶子のまま一生を終える可能性もあったのですから無理もありませんね。

これで直弼さんの前途は順風満帆かと思いきや、実はここからまた苦悩の人生が始まる事になるのです。
藩主直亮は仕方なく直弼さんを世子にしたのですが、昔から直弼さんとはあまり気が合わなかったようで、直弼さんを疎ましく思っていました。

この直亮も一風変わった人物で、藩主としては洋学者を登用したり、洋書を買い集めるなど開明的なところもありましたが、家臣からの評判はよくありませんでした。

これは実父であり、先代藩主であった直中も生前非常に心配していた事で、自分が死んだら開封して欲しいと、家老宛にこんな遺言状を残しています。

まず、冒頭では「嫡妻の子であった為、その性格や能力を考慮せず直亮に家督を譲ってしまった。」とあります。
そして、七ヶ条に渡って直亮の人格を憂いた理由を示しています。
1.勇気と決断力が乏しい
2.家来からの人望がない
3.怒りの感情を押さえられないほど、気性が激しい
4.隠し事をするなど、不誠実である
5.善悪の判断力が乏しい
6.言語が不明瞭である
7.親の忠告に耳を貸さない
とこんな感じですが・・・ちょっと痛々しい内容ですね。
これは、実父から見た評価ですからかなり信頼性のある評価だと思います。
全く他人の意見に耳を貸さない専制的な藩主であった様です。

自分が死んだらこれを見せて藩主を交代させて欲しいという内容だったのですが、当の直亮はこれを無視してしまいましたので、結局この遺言状は効力を発揮出来ませんでした。

さて、直亮がこういう人格でしたし、直弼さん自身も自分を「朴訥者」と評していましたので、直弼さんは直亮から疎まれてしまう訳ですね。
直弼さんは「朴訥者」ではありましたが、自分の能力を良くわきまえておりまして、直弼さんが手紙や直弼の発言などの記録を見る限りは非常に謙虚な物言いが多く見受けられるんですけどね。
おべっかなどを使わない人でしたから、嫌われる相手には徹底的に嫌われるような感じだったのでしょう。

直弼さんは大名の世嗣として江戸に駐在する事になるのですが、藩主直亮に度々苦しめられます。

例えばですが、徳川家斉の七回忌の法会で「御先立」という役を幕府から貰っていたのですが、直弼さんには衣冠がありませんでしたので新調しようとして、小納戸役(主君の雑用係)と掛け合うのですが、これが中々許可が下りません。
気心の知れた家臣を江戸に呼ぶことも自由には出来ませんでしたので、江戸の藩邸で直弼さんは半ば孤立していたようなんですね。
仕方なく、亡くなった兄直元の衣冠を使用するという事になったのですが、これがなかなか送られて来ません。

挙句の果てに法会まであと1ヶ月と迫った時に及んで、彦根にいた藩主直亮から、直元の衣冠を使用する事は藩の恥さらしになるという指摘を受け、結局どうにもならなくなり、疫病に掛かったと仮病を使い出仕を断念します。
実はこんな事が2回もあったんですね。
やはり、直亮は相当な変わり者だったようで、直弼さんは年中こういった気苦労をし続ける事になります。

しかし、悩みながらも兄を反面教師として、仁政を行う準備を怠らないところが直弼さんの偉いろころです。
これは禅道などの業(わざ)で培われた精神力でありましょうから、あの15年間はかなり直弼さんの人生に役立っているんですね。
そして、自分が藩主になった時に備えて、藩内の目ぼしい人材に手を付けて行くのです。
おおっぴらには出来ませんから、手紙のやりとりなどが多かったみたいですけどね。

彦根藩主としての直弼

1850年9月、12代彦根藩主直亮が国元で病没し、直弼さんはついに13代彦根藩主となりました。

ここで彦根藩の藩政運営システムを紹介します。
これがちょっと意外なんです。
まず、藩の政策決定の鍵を握るのは、実は藩主ではなく家老達です。
原則として、全ての政策決定は家老評議を経てから藩主の判断を仰ぐ事になります。
藩主が好き勝手に決める事は出来なかったんですね。

本来彦根藩にはこのような規定があったのですが、先代藩主の直亮は家老評議を重視せずに専制的な藩の運営を行っていました。
家老には藩主に意見し、時には藩主を諌める(いさめる)義務があったのですが、直亮の重用していた家老達はこれを怠り、万事直亮の意向通りに事を進めており、当時世子であった直弼さんは、彼らを無策・無能と痛烈に批判しています。
これはどちらかと言えば藩主の方が責任が重いでしょうけどね。
良くある具合の悪い会社みたいですね。

さて、藩主となった直弼さんは、直亮の治世を反面教師として藩の改革に取り組みます。
まず手始めに、直亮時代の無能な重役・側近達を不忠の士として、隠居・左遷を行います。
一方で藩政運営の方針として8ヶ条の御書付を家中に提出しました。

これには、井伊家代々の規則通りに皆で協力し合って藩政に取り組む事、飛び抜けた才能を持つ者がいれば重用する事、文武や家芸熱心な者は昇格や褒賞の対象にする事などが盛り込まれています。
改革というよりも代々上手くやって来た方法にちゃんと戻そうとする保守的な考えなんですね。
藩政に対する考え方も、幕府に対する考え方も、古き良き時代の井伊家のやり方に戻そうという発想なんです。

要は幕府強化=封建制の絶対死守ってことが根底にあるんですが、封建制だと血筋でトップが決まってきますから、愚鈍な者がトップに立った場合でも藩政が上手く行くように家老評議って物を機能させておく必要があったんですね。

因みに、この辺りの直弼さんの考え方は、大老になってからもあまり変化はありません。
封建領主の子として生まれて、元来生真面目な性格でもありましたし、当時で言うところの模範的な業(わざ)の数々を極めて来たのですから、こういった考え方になるのは必然ではないかと思います。
直弼さんは天才肌ではなく、いわば秀才なんですね。

こういう事がこの時代の人物を語る上では、非常に重要だと思います。
直弼さんは「彦根藩主」の子として生まれたがゆえに、「彦根藩主」として幕府に対する責任感を持てば持つほど、結果として時代の流れに逆らう事になるんですね。
彦根藩は代々大老を出す家柄であり、幕府の信頼も厚く、幕府への発言力も大きいものがあり、生真面目で責任感の強い直弼さんは、この「彦根藩主」としての役割をまっとうする事が自分の役目だと強く考えるようになって行きます。

社会的地位の高い幕府側の家柄の人と言うのは、優秀で忠義に厚く、実直な者ほどドツボにはまって行く状況だったと言えるでしょう。
これは会津藩主、松平容保も同様だと思います。

奇人・変人の類か、天才でなければあの難しい局面は切り抜けられなかったと言う事です。
ちなみに、15代将軍の徳川慶喜が奇人・変人の類か、天才にあたると個人的には考えます。

さて、話を戻しますが、直弼さんは藩主として合計9回も全領内を巡検します。
過去に彦根藩主が行ってきた巡検は、統治する領土を確認するというだけのものですが、直弼さんは巡検範囲を広げ、間接的に領民らと接触しながら、模範的な者には褒賞を与えるなど、士民(武士と領民)を一体化させる事を意識していました。
また、藩校弘道館の改革を行い、藩士の教育レベルを向上させます。

人材登用の面では、国学者の長野主膳を正式に彦根藩士として登用し、宇津木六之丞や中川禄郎、三浦安庸など、世子時代から目を付けていた者達を重用して行きます。

こうして直弼さんは藩主としての足場を固めならが、仁政を行って行くのです。

幕政への参画

1850年に直弼さんがが彦根藩主になってから、1858年に大老になるまでは「溜詰」(たまりづめ)として幕府と関わって行く事になります。

「溜詰」と言うのは、大名の格付けを表すもので、江戸城では将軍に謁見する際の控室の種類が、大名の家格によって細かく分けられていました。
徳川一門と家格の高い譜代大名の控室が「溜間」(たまりのま)と呼ばれており、この部屋に詰める大名を「溜詰」と言います。

また、この「溜詰」の中にも更に格付けの差があり、代々これを許されていたのが彦根藩井伊家・会津藩松平家・高松藩松平家の3家のみでした。
この3家は「常溜」(じょうだまり)と呼ばれ、その時々の政情により、幕府の特命を受けて溜詰となる藩は「飛溜」(とびだまり)と呼ばれます。
この他にも老中経験者が一代限り溜詰を許される「溜詰格」などがありました。
この複雑さは「The 封建制度」みたいな感じですね。
こういうのをしっかりさせていたので、徳川幕府は長く続いたんだと思います。

ちなみに、会津・高松は親藩でしたので彦根藩は譜代の筆頭という事になりますね。
ですから、直弼さんは幕府に対する責任感を人一倍強く持っていました。

ペリーが浦賀にやって来たのは1853年でしたから、直弼さんは溜詰としてこの事態を迎える訳です。
当時直弼さんは国許への暇(いとま)を得て、江戸から彦根に到着したばかりでした。

幕府はペリーの国書の写しを家格の高い大名に示し、意見書を提出するように求めます。

さて、こういった事態になり直弼さんは、藩の規則通りに家臣たちに意見書の提出を求めました。
この意見書が彦根博物館に残っているのですが、様々な意見が出ており、鎖国・攘夷の徹底を訴える者もいましたが、その多くは交易を拒絶する事を前提に軍備を整え、陸戦に備えるという物でした。

ただ一人、直弼の腹心であった藩の儒学者中川緑郎という人が、「打ち払いは不可能であるから一時的に開国し、外国の技術を取り入れて軍備を整えてから攘夷を行うべし」という意見書を提出しています。
この人は儒学者ではありましたが、諸国へ遊学を行い、長崎では蘭学者と交流をもっていましたので西洋事情には明るく、彦根藩内では開明的な人でした。

最終的に直弼さんはこの中川の意見を採用し、幕府に意見書として提出しています。

ちなみに他の大名たちから提出された意見書は、溜詰・大広間・大廊下の31家の中では通商を肯定したのは彦根藩・佐倉藩・福岡藩の3家のみで、老中を含む帝鑑間(ていかんのま)大名の5家のうち、4家は主戦論・拒絶論でしたので、井伊家は当時の格式の高い大名の中では先進的であったと言えますし、この辺りは直弼さんの藩政(人材登用・教育面)が上手く機能していたという事だと思います。

結局幕府はほぼこの方針通りに対外姿勢を決めるようになる訳ですね。

しかし、この一件から幕府の方針を巡り、水戸の藩主の父、徳川斉昭と直弼さんは対立するようになります。
先代の直亮が藩主の時には、直亮が斉昭の好物であった牛肉を水戸に送るなど、彦根藩と水戸藩は良好な関係だったのですが、ペリーの再来航の時に開かれた幕府評議の場で、斉昭が「外国船の断固たる打ち払い」を主張、直弼さんは「交易許可」を主張します。

他の溜詰大名もほとんどが「打ち払いは不可」との見解を示した為、斉昭が列席した一同から反対にあったという事になります。

ここから幕府の海外政策と将軍継嗣の問題が複雑に絡み合い、幕府権力をめぐる混迷の時代に突入して行く事になります。

大老への道

さて、徳川幕府が抱えていた難問「将軍継嗣問題」ですが、ペリー来航以来紀伊の徳川慶福を推す保守派と、水戸藩徳川斉昭の子である一橋慶喜を推す改革派で意見が分かれ、両者の対立は深まって行きます。

保守派である直弼さんの見解としては、「そもそも将軍継嗣というのは従来通りに血統を重視すべきものであり、将軍個人の能力は問うべきではい。
将軍の能力が足りなかったとしても、それを補うのが臣下の役目である。
また、最も優先すべきなのは、13代将軍家定の意向であり、臣下の者たちがとやかく言うのは筋違いである。」といったものです。
家定は紀伊の慶福を推していましたのでこれに従う訳ですね。

以前に述べた国学などの影響で、直弼さんは封建制度、つまりは幕府権力の強化という事を第一に考え、これにより難局に当たって行こうという考え方でした。

儒教の考え方だと、君主は善政を行う義務があり、これを怠る君主は倒されるべきとなります。
直弼さんは、もちろん藩政においては儒教の考え方を取り入れて善政を行うわけですが、長野主膳の国学の影響を強く受けていますので、天皇と幕府、諸藩の関係性というものについては絶対不変のものであるという考えなんですね。
これを崩すと封建制度つまり、幕府の支配を揺るがす事になるという事です。
身分制度についても、直弼さんはあれほど信頼していた長野主膳ですら、いきなり重用した訳ではありません。
藩主になった時に平藩士で召し抱え、その後徐々に役職を上げています。
この様に封建制度の土台を揺るがすような事はやらない訳です。

この点については、直弼さんの死後に幕府がどうなっていったかを考えると、的を得ている理論であったと思います。
これを保守的な考え方だと言ってしまえば簡単ですが、直弼さんの死を契機にして幕府の支配がゆらぎ、そして封建制度自体が無くなってしまう訳ですから、直弼さんはいわば「封建制度の最後の番人」という表現が個人的にはピッタリだと思います。

この時期に、近い未来に版籍奉還や廃藩置県などが行われる、などど想像していた藩主はどれだけいたでしょうか?
直弼さんもそこまでは考えていないと思いますが、結果としてテロ行為により「封建制度の最後の番人」が倒された事で、後の世に殿様が殿様でなくなり、家来も家来で無くなってしまった訳です。

話を最初に戻しますが、徳川斉昭、松平慶永などの改革派はこの難局に当たるには能力が高く、人望がある者が将軍になるべきであるという主張でした。
それで一橋慶喜を推す訳ですね。
こちらの考え方の方が現代的(儒教的なんですが)で我々にとっては受け入れやすい考え方だと思います。
また、ああいう緊急時の対応としては、老中によるの合議で政策が決定されるよりも、優秀な将軍の専制的な政策決定方法の方が適しているとも考えられます。

ですから、幕府の支配にこだわらず、今後の日本国をどう改革していくかという観点から捉えると、改革派の主張の方が現実に即していたという風にも考えられますね。

ただ、実際のところこの改革派の人達は、雄藩大名の後押しを得て推薦を行っていますので、幕府内では優秀な将軍が専制的な運営を行ったとしても、幕府と諸藩との関係性を考えた場合、政策の決定方法としては諸藩との合議という形になります。

この2つの派閥の方向性を簡単にまとめると
保守派:幕府内部では合議による政策決定だが、国内でとらえると幕府の専制。
改革派:幕府内部では専制による政策決定だが、国内でとらえると幕藩の合議。

このようになると思います。

最終的に明治政府はどうなったかというと、政府内部での権力闘争を経て、大久保利通とその取り巻き達による専制的な政策の決定という方向で進んでいますし、あの当時はその小回りの効く運営方法の方が日本が飛躍する為には向いていたと私は考えます。

ですから、保守派・改革派ともに当時の情勢を考えると、簡単にどっちが優れていたなどと言えない気がします。

そういった難しい局面に置かれて、直弼さんは将軍継嗣問題の切り札として大老に選ばれる訳です。

将軍継嗣と外交での対立

1858年4月23日、幕府保守派の後押しを受けて、直弼さんは大老となります。
幕府がハリスとの日米修好通商条約の勅許を得る為に、老中の堀田正睦を上洛させ、それが失敗に終わった直後の事です。

この前後に外交問題と将軍継嗣問題の絡みで色々な事が起きていますので、ここで一度当時の状況を整理してみましょう。

外交問題・将軍継嗣問題と二つの大きな問題がありましたので、各勢力のこれに関する姿勢を表にしてみます。

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保守派の勢力
1.外交問題については一時的な開国を行い、軍備を整えた後に鎖国を行う。
2.将軍継嗣については、家定の意向に従い紀伊の徳川慶福を推す。
両問題とも、見解は共通しています。

改革派の勢力
1.外交問題については攘夷、消極的な開国、積極的な開国(外国と交流を深め、取り入れるべき物は取り入れ、海外に打って出る)に分かれている。
2.将軍継嗣については、斉昭の働き掛けで一橋慶喜を推す。
政策面での見解に相違があり、将軍継嗣の問題のみ共通しています。

水戸の徳川斉昭が、子である慶喜を将軍にして、それにより自らの幕府への影響力を強める為に諸侯や朝廷に働きかけ、この様な図式になっています。

堀田正睦の上洛に際し、斉昭は朝廷に幕府の外交状況を頻繁に報告していました。
これにより、朝廷内部は攘夷派が大勢を占めており、このまま条約を幕府の一存で結ばせたくはないとする攘夷派が、幕府の頼みの綱である九条関白を抑え込んでしまう結果となりました。

そこで下った勅命というのが「諸侯の意見を集めてから判断する」という内容だったんですね。
こういういきさつで堀田正睦は条約調印の勅許を得る事に失敗した訳です。
多分ここが幕末の歴史のなかで一番複雑で分かりにくく、見解が分かれるところではないかと思います。
慶喜を将軍に推す人の思惑が、それぞれ違いましたから、改革派と言っても政策が一致しないんですよね。

こんな状況で直弼さんは大老になった訳ですが、まず将軍継嗣問題については将軍、老中の意見は一致していましたので、幕府の一存で紀伊の徳川慶福に決定します。

そして外交問題については、超開国派の幕府の外交官である岩瀬忠震が、諸侯の意見を集める前に止むを得ない状況であるとして条約に調印してしまいます。
これは直弼さんが事前に、「やむを得ない場合は調印の許可をくれ」という申請を承諾してしまった事が原因です。
詳しくはこちらをご参照下さい。

この勅命に従わない調印に孝明天皇や公卿達が非常に腹を立て、朝廷と幕府の関係は最悪の状態になってしまします。
直弼さんはのっけから絶体絶命のピンチに陥る訳です。

安政の大獄への道

幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約に調印した事により、孝明天皇が憤激して譲位をほのめかすようになります。

この辺りの事実関係はいくつかの資料でも同様になっていますので、孝明天皇は相当強く攘夷へのこだわりを持っていたという事になります。

だたし、あくまでも具体的に日本と外国の戦力を把握していた訳ではなく、これといった策があった訳でもありません。
孝明天皇がそこまで攘夷にこだわった理由というのは、家近良樹氏著の「孝明天皇と一会桑」によれば、自分が決断してしまう事により、外国人が日本を好き勝手に引っかきまして国を乱すような事になったら困る、というもので自分の代でそういう事にはしたくなっかったからだという事になっています。

幕府が和親条約の時の事後報告のような対応を行っていれば、ここまで問題がこじれる事もなかったでしょうし、孝明天皇自身もこれほど悩まずに済んだかもしれませんね。

そもそも幕府には政治全般の権限が朝廷から委任されており、それまでは重要事項の決定の際でも、事後承諾という形がとられていましたので、今回も勅許を得る必要が必ずしもあった訳ではありません。
京都の情勢を正確に把握していなかった幕府の老中達が、簡単に勅許が下りるだろうと判断を見誤って堀田を上洛させたのが原因だと言われています。

とにかく孝明天皇の攘夷の意志は強い物でした。
結局、孝明天皇は高位の公家達の意見を聞き、幕府の違勅に対する詰問を行う事で譲位を思いとどまる事になるのですが、これがまた大問題に繋がって行きます。

この勅書は、幕府の無断調印に対して幕府・尾張・水戸を叱責しており、また、幕府は諸侯と評議して政治をやるように、諸侯は幕府を助けるようにと、そういった内容でした。

この勅書が幕府と水戸藩に下される訳です。
この内容自体は大して問題になる程の事でもなかったのですが、ここで反幕・攘夷派の公家達の策により、幕府より二日先に水戸藩に勅書が届いてしまうんです。

さらに、この勅書と合わせて、朝廷から別紙で「格別に信頼のある水戸藩が中心になって諸侯をまとめ、幕府をバックアップするように」というような添え書きが送られていましたので、これが大問題となるんですね。
朝廷が、幕府に政権を全面的に委任しているという原則を否定する事にもなり兼ねない事件です。

だたでさえ、将軍継嗣問題が絡んで幕府と水戸藩との確執はが深まっていましたので、「朝廷が幕府と対立している水戸藩を支持している」と受け取れる勅書が水戸藩に先に下りた事で、幕府内は大騒ぎとなり、また過激派の多い水戸藩の士気も大いに盛り上がる事になります。

これは「水戸密勅」といわれ、以前から水戸の徳川斉昭が京都で攘夷派の公家達を抱き込んだり、将軍継嗣と勅許なしの条約調印を巡り、江戸城に押しかけ登城を行い、直弼さんを糾弾したりと、ややこしい事になっている時に、この勅書が引き金になって後の安政の大獄に繋がって行く事になります。

安政の大獄の幕開け

前述の「水戸密勅」を重く見た直弼さんは、京都での幕府権力回復を目論み、警察力を使って政敵を排除しようと考えます。
幕府にあって朝廷に無い物が武力でしたから、これを行使すれば簡単に朝廷を抑える事が出来たからです。

京都では、直弼さんの腹心であった長野主膳が影の権力者となり、幕府老中や幕府役人達を上手く動かし、政敵の逮捕の中心的な役割を担って行きます。
1858年9月7日、安政の大獄は攘夷・反幕を唱える、浪人儒者の梅田雲浜(うめだ うんびん)の逮捕から始まりました。
9月18日には「水戸密勅」を工作した水戸藩の鵜飼吉左衛門が逮捕されます。

また、江戸でも9月17日に三条家の家士、飯泉喜内が逮捕され、ここから反幕の三条・近衛・鷹司家の家士・大夫らがバタバタ逮捕されて行きます。
これが反幕公家達に恐怖感を与え、彼らは慌てふためきました。

この武力を背景とした圧力により、朝廷では親幕派の九条家が力を取り戻す事になります。

さて、この武力行使については賛否両論あると思いますが、私なりの考えを述べておきます。
それまでの京都朝廷への裏工作で、幕府が改革勢力に遅れを取った為に「水戸密勅」が引き起こされた訳ですし、正面から話し合っても埒があかない状況でした。
ここまで逼迫した状況下で、幕権強化を第一に考えるのであれば、警察力を使うという発想はごく自然だと思います。

この武力行使から、血なまぐさい暴力による報復の連鎖が始まりましたから、その引き金を中心となって引いたのは直弼さんだと考えられます。
後世の人から見れば「これは愚行であった」とか、「もっと平和的に解決する方法があった」とか、そういう事も言えるでしょう。
また、歴史学者の方であるとか評論家の方は、そういう分析をする必要があると思います。
何故かというと、そういった分析によって「こういった事態にはこう対処すべき」など、歴史から学ぶ教訓が生まれるからです。

ただし、だからと言って「直弼さんが政治的に無能であった」とか、「高慢であった」とか、「専制的であった」と評価するのはどうかと思います。
井伊家の歴史、徳川幕府の歴史と、直弼さんの出自を考えると、必然的に選択肢の幅は狭まります。
直弼さんが「無能」・「高慢」・「専制的」ではなかったというのは、前回までに説明した通りです。

加えて当時の幕府の置かれた状況が、直弼さんの様な人を必要としていた訳です。
ですから、直弼さんは時代によって表舞台に引き出されて、その役割を忠実に全うした人と言えると思うんですね。

安政の大獄の処罰者と量刑

直弼さんと長野主膳の主導で行われた安政の大獄の目的は、一言で表現すれば「政敵の排除」です。
将軍継嗣問題で対立していた一橋派の藩主・藩士・幕臣・公卿がその処罰の対象となっています。

幕府は警察力による圧力に物を言わせ、一橋派公卿の処罰を朝廷、特に九条関白に求めます。
また、先に述べ逮捕者だけでなく、一橋派の藩主や、幕臣にも処罰を行いました。

その処罰は江戸幕府開府以来、例がない程広範囲に渡り、刑も非常に重かったとされています。
処罰された主要な人物を表にまとめるとこうなります。

安静の大獄

安政の大獄の処罰者は69人にのぼり、そのうち極刑が8人に及んだとされています。

逮捕者の量刑を決める前に、直弼さんは取り調べを担当する五手掛の人事を見直し、非常に厳しい態度で取り調べに臨んでいます。
そして、直弼さんの意向により、評定所が出してきた量刑よりも更に重い刑が課されたという説が一般的になっています。

これが「井伊直弼批判論」の理由の一つになっている事が多いのですよね。

安政の大獄で自らも処罰され、右腕の橋本左内を処刑された松平慶永の記した「逸事史補」に、「量刑を記した書類を直弼さんが預かり、後日それに更に思い量刑が書かれた附札が添付されて来た」という記述があり、それが根拠になって直弼さんが独断で刑を更に重くしたとなる訳です。

しかしながら、母利美和氏はこれに反論されています。
当時の老中評議内での直弼さんの権限はそれ程絶対的な物ではなく、老中評議が幕府の意思決定の最高機関であったという説を主張されているのですが、その根拠となるのは以下の通りです。

1.この安政の大獄での逮捕者に対する取り調べの2~3ヶ月前に直弼さんは「老中の間部詮勝が自分の悪口を言いふらしており、同じく老中の太田資始も間部と結託し、何事も自分の知らない間に決まってしまう、退役を願いたいが不本意である」という書状を老中・松平乗全宛に送っている事。

2.上の書状の内容が長野主膳に伝わり、主膳は京都所司代・酒井忠義の「太田・間部との確執にとらわれずに、幕政参与の田安家徳川慶頼に相談し、大老の考え通りに事を進めて欲しい」という伝言を書状で伝えている事。

3.長野主膳の意見は「孝明天皇の皇子・皇女と田安家の間に婚姻関係が成立すれば、田安家徳川慶頼は格別の昇進になり、そうなれば田安家徳川慶頼と大老との意見一致による、老中評議に対しての優先決定権が1つや2つ認められる事もあるのではないか」という内容だったという事。

4.量刑が修正された附札は現存しており、この筆跡が直弼さんの物ではない事。

どうでしょう、私はなかなか説得力がある説だと思います。

松平慶永という人物は、安政の大獄の被害者です。
その被害者の視点から直弼さんを語っているという面もありますので、個人的な恨みも多少はあった事でしょう。

また、「実際にどういう過程でその附札が書かれたか」という事を証明する史料が発見されていない、という事も大きなポイントだと思います。

こうなれば、客観的に史実の可能性が高いと思われる事項から判断するべきですよね。
上記の直弼さん・主膳の書状というのは、当時の幕府の意思決定の状況を判断するには、非常に信憑性の高い物だと思います。

ですから、安政の大獄における刑の決定は、「直弼さんの独断」ではなく、「幕府の正規の意思決定の手順を踏んだ総意である」と見るべきではないでしょうか。

将軍継嗣に関する一橋派の行動が、「幕府存続に関わる程重要な問題だった」と言うのが幕府の総意であったでしょうし、これが「幕府の存続に関わる」という部分は間違っていないと思います。

「桜田門外の変」の予兆

「安政の大獄」以降、水戸藩では斉昭派(尊攘激派)の「天狗党」と藩主慶篤派(幕府協調派)の間で対立が続きます。
この頃、幕府には「慶篤派の者達は直弼さんを賞賛しているが、斉昭派の「天狗党」の者達が直弼さんを恨み、大老暗殺を企てているという噂がある」という旨の探索書が届けられているんですね。

幕府は水戸藩に弾圧を加え、この「天狗党」の動きは一時は沈静化に向かい、事態はここで一段落したかと思われました。

しかし、1859年12月に幕府が「安政の大獄」のきっかけとなった「水戸密勅」を朝廷に返納する事を水戸藩に命じます。
あれほど幕府が重要視していた問題の密勅ですから、当然と言えば当然でしょう。
水戸藩ではこれを巡って大論争が巻き起こりますが、藩主慶篤は既に幕府に全面的に恭順の姿勢を見せていますで、大勢としては返納止むなしと言う事になります。

ところが、上層部の方針としては返納に固まったものの、これに納得しない下級藩士を中心とした「天狗党」の圧力により返納は阻止されてしまいました。

翌1860年2月に事態が動きます。
謹慎中の斉昭自らが事態を重く見て密勅の返納を求める諭書を出したのです。
これにより「天狗党」は後ろ盾を失い、幕府と水戸藩の両方から追い詰められる事になってしまいます。

「天狗党」としては、自らの信じる正義を貫く為にはテロによる実力行使を行うしか道は無くなります。
そして彼らは脱藩し、大老暗殺への道へと向かう訳です。

この辺りを見ていると、「桜田門外の変」は起こるべくして起こった事件と言わざるを得ませんね。
「安政の大獄」も然りです。

水戸藩の歴史が生み出した徳川斉昭、彦根藩の歴史が生み出した直弼さん、この二人が幕末前期の主役ではないかと思うのですが、この方たちは己が藩に代々根付く思想や文化から逸脱した考え方を持っていた訳ではないでしょう。

斉昭としては水戸学の勤皇思想や、水戸藩が代々将軍を出さない家柄であった、水戸藩は幕府を補佐する役目を担ってきた家柄であった事など、水戸藩の歴史全般から影響を受けてああいった権力欲を持ったのだと思います。
そこ出した答えが、将軍継嗣については一橋慶喜、外交問題は攘夷となった訳ですが、これは2代藩主光圀の時から水戸藩が辿ってきた歴史を考えれば必然ではないかと思えてなりません。

また、直弼さんについても徳川四天王と言われた井伊家の歴史を考えれば、ああいった人生を歩むのも頷けます。

これが歴史の面白いところではないでしょうか。
特に封建制度という枠組みの中では、個人というよりもその家柄が代々固定された役割を持っていました。
幕末に活躍していた人達を語ろうとするのであれば、何百年も遡ってその家柄を見て行かなければ、その人の生い立ち、人となりは中々理解出来ないのかも知れませんね。

永きに渡る歴史に導かれ、この国家の大事の時に斉昭と直弼さんは、それぞれ自分の持てる限りの力を出し切って、ぶつかり合い、それが「安政の大獄」「桜田門外の変」に繋がって行ったんだと思います。

桜田門外の変

1860年3月3日の節句の日、直弼さんは駕籠に乗り、総勢60名を随行させて外桜田の藩邸を江戸城に向けて出発しました。
行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を過ぎた辺りで、大名の登城を見物する振りをしていた水戸藩激派と薩摩藩士に襲撃されます。

この日は雪が降っていましたので、彦根藩士達は雨合羽を着ており、刀には雪が入るのを防止する為に柄袋をつけていました。

この為、不意を突かれた彦根藩士達は刀を抜くのに手間取り、散々に斬りたてられてしまいます。
そして藩士達の防戦空しく、直弼さんは駕籠の外から銃で狙撃され、動けなくなったところに白刃を突き立てられます。
幕末前期を大いに揺るがせた巨星が墜ちた瞬間です。

さて、この襲撃事件の少し前には、水戸藩激派の不穏な動きがある程度幕府側に察知されていたと言います。
そこで湧いてくる疑問が、何故その様な非常時の状況下で、かくも容易に暗殺が成功してしまったかと言う事です。

僅かな距離しかない彦根藩邸から江戸城、その登城途中で襲撃するなどとは、彦根藩側には考えもよらなかったのか。
それも可能性の一つではあると思います。

ただ、襲撃の可能性を予測はしていても、封建制度の格式を重んじる直弼さんは登城の際に別段の警護を付けた訳では無いとする説もある様です。
つまり、封建制度の格式を崩してまで我が身を守る事はよしとせず、と言ったところだと思います。
これは潔いとも受け取る事が出来ますが、私は少し違った見方をしています。

私の捉えた井伊直弼像というのは「封建制度の維持に生涯を捧げた朴訥な仁君」というのがしっくり来ます。
あくまでも封建制度の枠組みから逸脱せず、頑なに徳川家に忠誠を誓い続けた直弼さんは、封建制度の枠組みから逸脱した方法でこれを守る事は考えてはいなかった様です。
そこまでしなければ幕府を守れないのであれば、それは守れなくても仕方がない事であると考えていたのでしょうか。
潔いというよりも、ある意味自分の生の役割というものに対して達観視していたのではないかと思います。

直弼さんの死を契機に、時代は急激に流れを反対方向へと変えて行きます。
幕末という時代に井伊家に生まれ、尊攘派のマグマが噴き出さんとする火口に大岩の様に立ちふさがり、圧力を加えられたマグマはより強大な力を蓄える事になりました。

そしてその力が臨界点に達した時に、大岩は粉々に打ち砕かれ、時代が大きく変わっていったという見方をすると、直弼さんの存在は逆に明治維新の実現時期を早めたのではないかとも考えられます。

幼少時代からの数奇な運命と、時代に与えられた大きな役割を考えると、井伊直弼という人物はもっと現代で脚光を浴びるべき人物ではないかと私は考えます。
派手さが無いが故に、ドラマで主役として取り上げられる事がないというのが残念でなりませんが、いつか脚光を浴びる日が来る事を願っております。

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