ほんとうのクリスマスを教会で…
「…曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、 暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、 私たちの足を平和の道に導く。」
ー 聖書 ー

イースターは、イエス・キリストの復活を記念するキリスト教のおいわいの日です。
キリストの十字架と復活は、現代に生きる私たちにも大きな希望を与えるものです。聖書は、クリスマス以上に、キリストの復活の希望を伝えています。ご一緒に教会でイースターを祝いませんか。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、 …… 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、 この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。 ―聖書―
4月5日(日)
※どの集会も参加費無料です。
聖書は、神がイエスをよみがえらせてくださったと教えています。イエス復活の意味の一つは、この世の歪んだ裁きに対する勝利です。この世では、正直な者、誠実な者が顧みられるとは限りません。口が上手な人、外見が魅力的な人、人脈・金のある人、そのような人が力を持ち、事実をゆがめ、自分たちに都合の良い価値観を広めてしまうことも少なくありません。しかし、イエス・キリストは、この世で影響力を持つ、あらゆる力を捨てられました。ご自分を認めさせることに力を使わず、人の罪を背負うためにしもべとして誠実に従われました。神は、このような方こそ高くされる。それがキリストの復活なのです。
また、ご質問等ございましたら、問い合わせフォームから是非お問い合わせください。
昨今、「力による現状変更」が世界で横行し、多くの人の生活やいのちをおびやかしています。そこには、この世の力によらない正直さ、誠実さ、思いやり、謙遜、愛に対する失望があるのではないでしょうか。
確かにこの世は、様々なものが力を持ち、真実さの価値を低くしてしまいます。どれだけ正直に生きても、誠実に生きても、結局ずるがしこく、うまくやってのける人が先に行ってしまう。そのような人が人気を集め、周囲の人の意見や価値観をコントロールしてしまう。そのような現実が多々あるのではないでしょうか。
2,000年前の地中海周辺世界もそうでした。ローマ帝国が世界を支配し、皇帝に取り入る者が大きな力を持ちました。イスラエルでも、神を尊んでいるように言いながら、実際には、大祭司たちはローマとの取り引きを重視し、表と裏を使い分け、神とローマの権威を利用しつつ民衆を支配していました。また、ファリサイ派と呼ばれる人たちは、そのような世俗権力に反発して始まった運動でしたが、次第に偽善に陥り、聖書よりも派閥で力ある指導者・先祖の意向が重視され、自分たちの厳格な教えに従えない人たちを「地に属する民(アムハーアーレツ) 」と呼び、見下すようになりました。
その中でイエスは、この世のあらゆる肩書きに頼らず、派閥にも入らず、だからといって自分を高くしようともせず、ただただ聖書の神の教えに従われました。弟子に裏切られ、理不尽な裁判を受けても、争わず、ののしらず、犯罪人のように辱めを受け、苦しめられ、誰にも認められずに死にました。弟子たちでさえ、逃げました。この世の価値観では、だれもイエスの誠実な歩みに価値を認められず、敗北者・神に呪われた者としか映りませんでした。
しかし、このようなイエスを神はよみがえらせて、この世の歪んだ裁きに対して勝利されたのです。
このイエスの卑しい十字架と復活による勝利を聖書は預言していました。
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと(イザヤ書53:8)。
家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった。
これは主がなさったこと。
私たちの目には不思議なことだ。 (詩篇118:22~23)
たとえ、この世が価値を認めず、勝手な価値基準で真実をゆがめ、裁いたとしても、結論をくだしたとしても、神はこの世の歪んだ裁定を覆し、神に信頼し、真実に生きる価値を証明された。それがイエス復活の重要な意味の一つだったのです。
確かにこの世は、正直者がバカを見る世の中に見えるかも知れません。けれども、そのこの世において、イエスをよみがえらせた神のみわざがある。そこに希望があります。なぜなら、この復活の意味は、イエスと同時代に生きる、まさにこの世の権力、この世の価値観に支配されている同時代の世を生きる人たちに語られたからです。イエスが十字架に架かられる前に、弟子たちに教えられたからです。イエスの復活は、決してこの世離れした、現実離れした希望ではありません。現実を生きる人たちに、今、この社会の中で生きる者たちへの希望として語られたのです。それが聖書です。
是非、この希望を教える聖書の教えそのものに耳をかたむけませんか。
]]>一年の初めにいのちと万物の造り主なる神を礼拝し、神のお言葉である聖書の御言葉を聞いて、新たな年を始めませんか。新たな年も、すべてをご存じの神がお一人お一人の歩みを導き、祝福してくださいますように。
主によって人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。
その人は転んでも倒れ伏すことはない。主がその人の腕を支えておられるからだ。
―聖書―(詩篇37:23~24)
2026年1月1日(木) 午前11時~
]]>今でこそクリスマスは、賑やかな飾りで、派手に祝われることが多いのですが、最初のクリスマス、つまり救い主がお生まれになったときは、貧しい羊飼いと異国の賢者だけが祝いました。賛美歌「きよしこのよる」が作られたのもチロルの山奥の小さな教会だったと言います。私たちの教会も派手な楽しみはありませんが、真心から本当のクリスマスをともに祝いたいと願っております。是非、教会で本当のクリスマスを祝いませんか。
ほんとうのクリスマスを教会で…
「…曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、 暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、 私たちの足を平和の道に導く。」
12月21日(日)
12月24日(水)
※どの集会も参加費無料です。
「信仰とは何か」 ~クリスチャンって何を信じているの?~
家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。 ー 聖書 ー

講師:斎藤秀文(金沢聖書バプテスト教会牧師)
講師の斎藤牧師は、学生運動を経験し、世の中に様々な疑問を抱き、聖書にもありったけの疑問をぶつけながら信仰を持たれた先生です。また、精神障がいを持つ娘さんのことで葛藤されながら取り組んで来られた先生でもあります。そのような意味で、キリスト教ありきではなく、現実的な視点から語ってくださる先生です。
※どの集会も参加費無料です。
宗教というと、何か宗教活動にのめり込んだり、組織に入ることと思われがちです。しかし、聖書の教える信仰は、そのように形で入るものではありません。意外かも知れませんが、聖書には、「このようなときにはどうすべき」という方法論、紋切り型の教えはほとんどありません。神のご性質(人間で言えば人格)に信頼することを教えています。方法論のない聖書のみを通して神を信頼する生き方は、ある点で自立した生き方です。それでいて誘惑に打ち勝つ力を与え、人を愛し、困難の中でも生きる意味を見出す希望を与えるものでもあります。斎藤牧師は、常にご自分を正しいとせず、謙虚に丁寧に、わかりやすく語ってくださる先生です。是非、この機会に信仰とは何か、ともに聞いて見ませんか。
また、ご質問等ございましたら、問い合わせフォームから是非お問い合わせください。
具体的には講師の先生が語ってくださいますので、ここでは簡単に触れます。少なくとも聖書が教える信仰は、よく日本人が言う「宗教に入る」とか「信仰に入る」とはまったく異なるものです。確かに日本語訳の聖書には、「信仰に入る」という言葉が出てきますが、もとの言語では「信じた」と書かれているだけで、翻訳にも日本的宗教理解が入り込んでいるように思われます。
聖書の教える信仰は、むしろ人を思いやりますが、人の顔色を窺わない生き方です。実際には、人に配慮しようとすると顔色を窺い、顔色を見ないようにすると独善的傾向に陥ります。けれども、聖書の最も重要な教えの一つは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」です。
聖書が教える本当の信仰は、心をご覧になる神を見上げ、人の顔色を窺わず、なお自分の利害に関係なく相手も神に愛されていることを覚え、相手の立場に立って愛すること。もちろんそれだけではありませんが、これも聖書の教える信仰の大切な要素です。ですから、私たちは宗教に入ることを勧めたいのではなく、聖書の教える信仰をまず知って頂きたいのです。
聖書の教える教会は、聖書が教えるイエス・キリストを信じる人の集まりです。とは言っても、信じていない人も自由に集うことができますし、信仰が強要されることもありません。信仰は、人に指示されるものではなく、一人一人が自主的に信じるものであり、そうでなければならないと理解しているからです。私たちの教会では、献金も信じる方だけに限定しています。 信じる人の集まりというのは、上意下達的な組織ではなく、信じる一人一人が尊ばれ、聖書から学び、自主性を持ち、ともに責任を担い、助け合う集まりだということです。
バプテスト派というのは、儀式ではなく聖書の言葉そのものを信じることを大切にする立場です。その中でも聖書バプテストは、教団を作らず、一人一人が聖書そのものから答えを頂いて生きることを目指す立場です。地方の教会単位で意志決定をし、大きい教会が小さい教会に命令したりすることはありません。そのために独善的傾向に陥るリスクもあることを意識し、常に聖書から自己吟味しつつ、謙虚に歩みたいと願っている教会です。
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イースターは、イエス・キリストの復活を記念するキリスト教のおいわいの日です。
キリストの十字架と復活は、現代に生きる私たちにも大きな希望を与えるものです。聖書は、クリスマス以上に、キリストの復活の希望を伝えています。ご一緒に教会でイースターを祝いませんか。
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。 ―聖書―
※どの集会も参加費無料です。
聖書は、神がイエスをよみがえらせてくださったと教えています。イエスが神のままであれば、死ぬ必要も、よみがえる必要もありません。それなのに死んでよみがえってくださったのは、わたしたちのためだと聖書は、教えています。
正しいことでも周りの人と違うことをすることは、ときに死ぬよりつらく感じられます。また自分でどうにもならない短所や失敗を認めることも、死ぬほど難しいことがあります。しかし、神はそのような私たちのために、古い自分に死に、新しい人として生きる道をひらいてくださいました。
ですから、たとえ今までどれ程、自分ではどうにもならない弱さ(性格的、肉体的面を含め)、あるいは取り返しのつかない過去の問題があったとしても、それでもなお、それを乗り越えて新しく生きる道があるのです。それは、必ずしも自分の好みの道ではないかも知れません。しかし、その道を開くために、神の御子が死ななければならなかったのです。是非、このイエス・キリストによって開かれたいのちの道について、ともに聖書に聞くときを持ちませんか。
私たちの教会では、儀式や伝統や牧師の好みではなく、二千年前から変わらない聖書そのものが持つメッセージを大切にしております。聖書には、今読んでもまったく古さを感じない、古くて新しい教えがあります。ぜひ、この変わらない聖書に聞く時を持ちませんか。あなたのご来会を心からお待ちしております。
また、ご質問等ございましたら、問い合わせフォームから是非お問い合わせください。
]]>一年の初めにいのちと万物の造り主なる神を礼拝し、神のお言葉である聖書の御言葉を聞いて、新たな年を始めませんか。
2024年1月1日 午前11時~
]]>クリスマスは、イエス・キリストの御降誕です。あえて「降誕」と呼ぶのは、いと高き所から最も低い所に下って来てくださったからです。イエス・キリストは、小さな村の家畜小屋でお生まれになりました。そして、イスラエルで最も辺境のナザレで大工として育ちました。それは、イスラエル人のメシヤ(救い主)観としては、あり得ない事でした。それでもそこまで低くなられたのは、最も低く苦しい立場をご自分で経験されるためでした。だから、私たちの痛み、苦しみ、生活苦を自分事として理解してくださる。そのために神が低く降られたのがクリスマスなのです。この救い主のご降誕を一緒に祝いませんか。
ほんとうのクリスマスを教会で…
「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。
あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。
それが、あなたがたのためのしるしです。」
ー 聖書 ー
12月24日(日)
※どの集会も参加費無料です。
]]>あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。マタイ5:7
この言葉を聞いて、本当にここに幸いがあると思える人は少ないのではないでしょうか。その理由は、恐らくほとんどの人は、「あわれみ」という言葉を嫌うからです。とくにあわれみを受けるということを嫌います。それは、人間の「あわれみ」は、しばしば言葉だけであり、その人の価値を低く見てしまうからではないでしょうか。しかし、聖書が語る神の「あわれみ」は、人間のあわれみとは大きく異なります。そして、聖書はこのあわれみの心こそ、すべての人に必要であり、神の「あわれみ」がなけ人は救われないことを教えています。たとえ、どれ程人格的に優れ、悩みもない人であってもです。私自身、神の「あわれみ」を受けることなしに、生きることはできません。また、この「あわれみ」の心がなければ、人間関係も不公平で潤いのないものになっていくでしょう。そして、すべての人が聖書の教える「あわれみ深い」心を持つところにこそ、本当の幸いがあります。
聖書に教えられている神の「あわれみ」の重要な一側面は、契約・約束に忠実であることです。日本人の私たちからすれば、契約・約束に忠実であることと「あわれみ」は、まったく結びつかないように思えます。しかし実は、旧約聖書で「あわれみ」と訳される「ヘセド」という言葉は、主にこの意味を持ちます。これを見るだけでも、私たちが考えるあわれみと、聖書のあわれみ、神のあわれみがいかに異なるかがよくわかります。
そして、旧約聖書における神のイスラエルに対するお取り扱いを見ると、確かに契約に対する忠実さが、あわれみと結びつくことが具体的に伝わってきます。イスラエルの民は長い歴史の中で、神との契約を何度も何度も破ってきました。彼らの罪に対して、神は何度も警告し、怒り、時に厳しい刑罰を与えました。それでもなお、神は決して彼らを見捨てることなく、愛し続けられたのです。その愛の一例が、エレミヤ31:3に記されています。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛(ヘセド)を尽くし続けた」。当時イスラエル南王国は、神に対して罪に罪を重ね、彼らは神からの厳しい罰を受けていました。その時に、神が語られたのがこの言葉です。正しい神としては、彼らを厳しく罰しなければならず、怒りをもって臨まなければならない。それでもなお、神はアブラハムへの契約のゆえに、彼らを愛し続けられたのです。本人たちの態度や行動からすれば、愛される資格を失っていました。それでもなお、約束のゆえに決して見捨てず、愛し続ける。これが神の「あわれみ」なのです。
ですから、感情だけで人を愛したり、かわいそうに思ったりするのは、「あわれみ」ではありません。愛せる理由を相手がすべて失ったとしても、それでも愛し続ける。それが「あわれみ」なのです。
さらに、聖書の「あわれみ」は、単なる言葉や態度ではなく、行動的です。ヤコブ2:13で語られている「あわれみ」は、この世の富や身分によって差別せず、同じように敬意をもって受け入れることを言っています(2:1~7)。また、実際に困窮している兄弟姉妹のために言葉だけをかけるのではなく、実際に必要なものを差し出すことを言っています(2:14~16)。このように聖書の言う「あわれみ」とは、実際にその人の立場に立ち、心を痛め、言葉よりも行動をもって、その人の必要に応える。そのような態度を言うのです。
神は、まさにこのような意味であわれみ深い方です。だからこそ、聖書の律法に照らせば罪に定められるしかない者のためにも、救いの道を開いてくださったのです。罪に対して最も怒られるお方が、その怒るべき相手を愛してくださったのです。その罪のゆるしのために、ご自分の御子をさえ差し出し、十字架に架けてくださったのです。イエス・キリストも、私たちを愛するというとき、言葉だけでなく行いで示してくださいました。どれ程疲れていても、ご自分の所に来る人を決して見捨てることなく、そして、私たちの身代わりのために十字架にまで架かってくださったのです。聖書によれば救い主は、世を裁き、刑罰を与えるために来るはずでした(マラキ4:4、マタイ3:11~12等)。しかし、キリストは人を罰する前に、ご自分が人が受けるべき刑罰を受けて、私たちを救う道を開いてくださったのです。救い主は行動をもって愛してくださる。身代わりなって苦しんでくださる。これが、救い主の「あわれみ」なのです。
そして、この保障のために神は私の罪の身代わりとして、あなたの罪の身代わりとしてイエス・キリストを十字架に架けてくださったのです(Ⅰペテロ2:24)。
今まで見て来たように神の「あわれみ」は、人間のあわれみとはまったく異なります。人間の愛は、しばしば移ろいやすく、自己中心的で不安定ですが、神の「あわれみ」は異なります。神が一旦、ご自分のものにすると約束されたら、永遠に見捨てることなく、行動をもって愛してくださる。これが「あわれみ」なのです。このような「あわれみ」は、私たち人間には、とても持ち得ません。聖書は、「あわれみ深い者は幸いです」と言いますが、私たち人間にとってこの「幸い」は、途方もなく厳しい条件なのです。しかし、それでもこの「あわれみ」の心を持ちたいと願うならば、その人こそ、マタイ5:3に語れていた「心の貧しい人」です。「心の貧しい人は幸い」なのです。
そのように自分の心に「あわれみ」が足らないことを自覚する人こそ、本当の意味で人を愛せるようになります。自分は愛せると思っている人の愛ほど高慢なものはありません。だからこそ、人間のあわれみは非常に醜いものとなるのです。しかし、自分の弱さを知っている人、愛の足らなさを自覚している人こそ、本当に相手の立場になって考えることができるようになります。
さらに、イエス・キリストの救いを受けいれるならば、その人は自分に「あわれみ」の心がなくとも、神の「あわれみ」を経験します。聖書を通して自分の心を点検するときに、私たちは自分の心がどれほど醜く、自己中心的で、弱いものかを嫌と言うほど示されます。とくにマタイ5~7章で教えられているいわゆる山上の説教を基準にすれば、どれ程自分が罪深いかがわかります。しかし、イエス・キリストはそのような者のためにいのちまで捨てて、愛してくださったのです。そして、生涯にわたり愛し続けてくださるのです。自分がどれ程問題を抱えてもです。そして、肉体の死後もです。このような神の「あわれみ」を経験するときに、人に対して誇ったり、人を批判したり、裁いたりすることはできません。批判は「あわれみ」の逆ではないでしょうか。批判する思いが出てくるからこそ、愛せなくなります。争いを生みます。しかし、自分自身が誇れる者ではなく、神の「あわれみ」を受けなければならないことがわかるときに、本当の意味で人を愛せるようになるのです。そのように愛せるだけで、本当に幸いなことです。その愛は、家族関係、友人関係、さまざまな人間関係を豊かにしていきます。そして、神もまた、その人をゆたかにあわれみ、愛し続けてくださるのです。
確かに、神の愛と比べれば、まだまだ自己中心的で、いい加減な愛かも知れません。それでもなお、神はそのような人を喜んで愛してくださるのです。責めるのではなく、弁護人となり、盾となり、後ろ盾となってくださるのです。ここにこそ、本当の幸いがあるのです。
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イースターは、イエス・キリストの復活を記念するキリスト教のおいわいの日です。
キリストの十字架と復活は、現代に生きる私たちにも大きな希望を与えるものです。聖書は、クリスマス以上に、キリストの復活の希望を伝えています。ご一緒に教会でイースターを祝いませんか。
わたし(イエス)は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。―聖書―
※どの集会も参加費無料です。
私たちは、様々な形で過去にとらわれます。過去にしでかした失敗、間違い、悪い行い等。失敗は成功の母とも言われるように、それらの経験を活かすことは大切です。しかし、そのことによって過去がなかったことにはなりません。その結果が変わるわけでもありません。どれだけ前向きに考えたとしても、その結果は一生ついてまわるものです。しかし、イエス・キリストの復活は、この点で私たちに希望を与えてくれます。過去の問題を直視しつつ、なおそこにとらわれず、新しく生きる道を開いてくださったのです。この復活こそ人が正直に、最悪の現実を受け止めつつ、なお前を向いて生きるための唯一の希望なのです。
約2,000年前、イエス・キリストは十字架に架けられて死なれました。これは歴史上の事実であり、この点を問題視する人はほとんどいないでしょう。しかし、この十字架は不可解です。なぜなら、当時ユダヤ地方の総督であったローマ人ピラトが取り調べをしても何の罪も見つからなかったからです。それにも関わらず、ローマ帝国でさえ滅多に実行しない残酷な刑、十字架刑が執行されたのは、それほどイエスがユダヤ人の政治的指導者、宗教的指導者のねたみを買ったからでした。支配者の立場であるピラトも、治安維持のため、また自分の立場の都合上、彼らの訴えを退け続ける事が出来ませんでした。そのためにまったく罪を犯していない人物が、よほどの大罪人に対しても執行されない十字架刑に処せられることとなったのです。
この出来事は、人間の醜さ、この世の理不尽さ、不公平さを如実に示しました。また、聖書の神を信じているつもりのイスラエル人自身でさえ、神に反抗する心を持っている事実をえぐり出しました。しかし、この出来事は不意に起きた出来事でも、神にとって不都合なできごとでもありませんでした。むしろ、この出来事の約700年前に記された預言書、イザヤ53章の預言どおりが実現したのです。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」(イザヤ53:4~5)。
イエス・キリストの十字架は、まじめな人の内にさえ潜む、人間の心の醜さ、自己中心性を浮き彫りにしました。それと同時に、神はその罪の責任から、人間を救うためにご自分の御子を十字架につけてくださったのです。まるで、大罪人のように。私たちの罪を、御子に負わせるためです(Ⅱコリント5:19, 21)。
そして、神は、そのイエスを死者の中からよみがえらせてくださいました。それは、信じる者が過去の罪にとらわれず新しく生きるためです。神は、決して過去を曖昧にしたり、水に流す方ではありません。過去の失敗、過ち、悪い行いの結果を受け止めつつ、なお新しく生きる。キリストの十字架と復活は、そのためだったのです。
聖書が語るイースターの希望をご一緒に学びませんか。
]]>一年の初めにいのちと万物の造り主なる神を礼拝し、神のお言葉である聖書の御言葉を聞いて、新たな年を始めませんか。
2024年1月1日 午前11時~
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