山月御教話・続編(二十) 石田秀夫先生筆録
教育主任会講習会発開式ご教話(1) 昭和五年二月四日
『神の八方面』の《美》については大体話したが、今日はその他の方面について話してみたいと思う。
宗教は宣べ伝えさえすれば、人が善くなり、世のためになるなどと思われているが、そういうものではない。(例えば)いくら広告を見たり読んだりしても、実際にその品が手元になければ(=信仰が身に付いていなければ)何の役にも立たない。売る側(=布教する側)にしても、もし宣伝どおりの品を、今すぐ売ってくれ(=教えの根本を聞かせてくれ)と言われたらどうするか。
その点、ペテロなどは違っていた。
「金銀は我になし、然れども我に有るもの(=正しき道)を汝に與ふ、ナザレのイエス・キリストの名によりて進め」(使徒3-6)
社訓についても同じ事である。講釈ばかり聞いていても、実行しなければ、ただのお題目(=口先だけの言葉)である。いくら《神の完全》を宣伝しても、それで人が完全になるものではない。神は愛であるならば、献身的な愛を自分が持っているかどうか。《絶大》を声高に喧伝しても、人と調和できない者なら絶大ではない。
自ら体験実行し、人にも体験実行させて行く事が大切である。それには、自ら人の仰ぎ慕うような人格を養って、その日々の行ないや勤め方を(手本として)見たいと思わせるようでなければならない。
《神の純美》の続きとして、
忠烈の美
私は十二歳の時、村の夜学で『日本外史(=頼山陽の史書)』を学んだのであるが、他家からも本を借りて楠木正成の事を読み、『桜井の訣れ』に感動して涙を流した。「七度人間に生まれて朝敵を亡ぼさん」という忠烈の心は、日本歴史のあらん限り永久に滅せぬ美である。
広瀬中佐(=日露戦争下、旅順港閉塞作戦で殉職)の精神、乃木大将(=旅順攻略の司令官)の精神、橘中佐(=同じく遼陽の戦いで戦死)の精神もそうである。己を棄てた忠誠の心は、天をも動かし、当代をも後世をも感ぜしめるものである。
義(神の至善)
私の祖父は長州(=山口県)の士族で、日本武芸の殆どの免許を修得したほどの天才で、武者修行にも三度出掛けたという。大変厳格な人で、父はその教育を受けたので、私に対しても厳しかった。「正しい道を踏む事、嘘をつかぬ事、人の物を盗まぬ事」の三つを徹底的に教えられた。子供でも実行できる事ばかりである。《義》の精神が深く植え付けられたのは、この父の感化である。
昔の田舎の風紀の悪い中で、男女の仲を正しくすべき事、金銭上の不正を働かぬ事などを教え、自ら実践躬行(=口に言うとおりを実行する)して示してくれた。
母の事は、考えるだけで涙が出るほど慈愛深い人であった。経済的には常に貧しくて、凧も一銭の絵凧は買ってもらえず、独楽も金輪の嵌まった十銭のものは無理だった。米が足りなくて粥にして食べる事もしばしばであった。そんな中で、父母は衣食の不自由など超越して、私に義の教育を施したのであった。お陰で私は貧賤を恥じる事もなく、反って豊かな気持で過ごしたので、周囲からも裕福な家庭と思われていたくらいである。
『中庸(=中国古代四書の一)』に、「君子はその位に素して行ない(=己の境遇に応じて身を処する)、その外(=それ以上)を願わず。富貴に素しては富貴に行ない、貧賤に素しては貧賤に行ない、夷狄(=未開の僻地)に素しては夷狄に行ない、患難に素しては患難に行なう。君子は入るとして自得せざる事なし(=いかなる境遇になろうとも、必ず自ら充足する)」とある。己の分(=身の程)に応じて生き、分限以上の事を望まないのである。
英国の宣教医ホブソン(=漢名・合信)が著わした『全体新論』という医学書があり、父はこれを熟読して、私に川合信水という名前を宛がい、行く行くは医者にしたいと願ったのであった。この書の後半に『霊魂妙用論』という章があり、大変有名であった。「十読は一写に如かず」(鶴林玉露)で、父はこれを私に筆写させた。当時私は十五・六歳で、まだまだ外で遊びたい年頃であったけれども、早く終わらせようと思うと、写し間違えて反って時間がかかる。そこで純一になって書き写すよう努めた結果、静かで落ち着いた性格が養われたと思う。
その頃に読んだ本に『三国志』がある。中でも、「義を守ること鉄石の如し」と詠われた関羽の義に感銘を受け、「我こそは日本の関羽たらん」と思った。甲州の土地柄として、任侠の気風が濃かった所為もある。「義とは何ぞや」と問われれば、「義は我なり」と即答し得る自覚があった。
そんな直截的な義に変化を齎したのが基督であった。聖書の説く義は、儒教や仏教の義とは異なって、遥かに厳格なものであった。すなわち実行に現われる以前、心に少しでも悪が浮かんだ時点で、既にその人は義ではないのである(マタイ5-28他)。この心中の義を考える時、自分が多年苦労して得て来たはずの義など、もはや義ではない。それを知った時、かつてパウロも経験したあの深い罪悪感(=ロマ7-19他)に打ちのめされた。そして自分の力だけでは、到底そこから抜け出せない事を知って、初めて神の《救い》というものを悟った。即ち《義》の精神が強くないと(己が内なる悪を自覚できず)、真の救済は経験できないものである。
教理で考えれば、自分の本質が変わらなくても救いは得られる筈であるが、そういう姑息な(=間に合わせの)慰めでは満足できず、自分が神を信ずる以上は、徹底的に聖くなりたいと思った。
「汝らの義(が)、學者・パリサイ人に勝らずば、天國に入ること能はず」(マタイ5-20)、即ち我々は、神道・仏教・儒教の人達の義しきよりも義しくなければ、天国に入れないのである。そう考えて、自分を責め、修めて行った事が、大いに為になった。いかに教理が立派であっても、それを己の内に(素通りさせずに)有していなければ何の役にも立たぬ。いかに金時計が立派であっても、実際に所持していないのなら、安物のニッケル時計の方が役に立つ。
(吉田)松陰の修養の跡形を見ても、一貫して義を重んじている。
「義は勇によりて行なわれ、勇は義によりて長ず」(士規七則)
艱難を避けては義は行なわれない。故に勇が無ければ義は行なわれないのである。松陰のこの義の精神の薫陶を受けたのが、後の維新の志士達である。
信仰は義を離れると腐敗する。神の愛に狎れて堕落するのである。今日の基督教界の無力はそこから来る。
義は《(人体を支える》骨格》のようなものである。(現今の)義なき世にあって満身これ義となって改革して行く決心が必要である。
神に対して義しく、人に対しても職務に対しても義を行なう。ソドムの町は十人の義人を欠いたため、地上から抹殺された(創世記18-16以下)。一個人の存命も、一家の存続も、一国の存立も、義によって立ち行くのである。
神の義から人の義が生じ、人と人との間に行なわれて続いて行く。「いと小さき者(=名もなき隣人)」を愛する事は、神を愛するのと同じである。神の義は宗教となり、人の義は道徳となった。
孔子は天の義と合一した結果、「心の欲する所に從えども矩を踰えず(=自由気儘に振舞っても行き過ぎない)」(論語・為政)という境地に達した。
孟子は、《浩然の気》を説明して、
「至大至剛にして直く、養いて害することなければ、則ち天地の間に塞がる。その気たるや、義と道とに配す。これなければ餒うるなり。これ集義の生ずる所、襲いて取れるものに非ざるなり。行心に慊からざること有れば、則ち餒う(=[浩然の気は]この上なく大きく、この上なく強く、真っ直ぐなものであり、それを養い育てて害わなければ、天地一杯の精気となるが、もし義と道とに恵まれなければ、この気は生まれない。この二つがなければ飢えて死んでしまう。また、この気は内なる義によって生ずるのであって、外から借りて来ようとしても得られない。自分の行動に疚しい所でもあれば、たちまち飢え萎んでしまう)」(孟子・公孫丑上)と言っている。
神は人の良心よりも大きいから、己の良心に咎められているような時には、むろん神からも咎められているのであって、いずれにせよ義からはほど遠い。まず自分の中の(=良心と実行との間の)矛盾・衝突をなくし、(己を抑えて)忍耐して行く事が、神の義を受け入れる第一歩である。
義は天から生じるので、義を体現する者は天と一体となり、神を代表(=代行)する者となり、果ては天地を改革する事さえできる。
孟子の場合は、どちらかと言うと人間関係に重きを置いており、むしろ(社会の中にあって)相対的・道徳的になっているが、押川先生は、「より大きく、宗教的に考えるように」と忠告なさった。孟子のように「俯仰天地に愧じず(=天にも地にも何ら恥じる所がない)」(孟子・尽心上)、即ち良心の満足を基準に生きるのみならず、《完全》の高みに理想を置いて、日常を義しいものにして行く。それによって心が綺麗になり、平安になり、広大になり、大いなる義を懐いて、宇宙を抱擁する魂魄(=大精神)となる。
「これ集義の生ずる所、襲いて取れるものに非ざるなり」、着々と義を積んで合一する。根気が必要である。一つ克己すれば一つ義を積む事になる。(自分から)上ろうとする心と(神が)引き上げようとなさる心が合致する時がある(=啐啄同時)。そこに至れば、自由に考え、自由に語り行なって、それで終始良心が褒めてくれる。「義をおこなふ者は義人なり、即ち主(=神)の義なるがごとし」(ヨハネ1書3-7)。釈迦や孔子の跡形を思いつつ、日々に徳を積んで行く事は楽しいものである。
「美なる哉、万徳の聖人」(耶蘇の聖像に題す)
「それ神の滿足れる徳はことごとく形態をなしてキリストに宿れり」(コロサイ2-9)
人間一個の存在に、天地の神の絶対無限の徳が入って宿る喜びを、パウロは経験したのである。(続く)
教訓集第三巻より
山月先生文集(151)
山月子『女学雑誌』記事(二十五)
女の慎み
慎みは女の美徳なり。「心さえ正しからば」などと言いつつ、その言語・挙動等に少しも構わぬ人ほど、気の毒なるは無し。人世(は)、真に知己に乏し(=この世に己を理解してくれる人など非常に少ない)。如何に立派な心を持つとも、容易には人に知られぬものなり。
まして婦人の無頓着なる言語、不作法の挙動などは、多くの人の誤解を招き、思いもよらぬ悪評を蒙るものなり。惜しき事この上もなし。パウロは「神の我儕に賜へる靈は、臆する靈に非ず、能と愛と謹の靈なればなり」(テモテ後1-7明治訳)と言えり。
余(=私)は心にも無き一種の外形的謹慎を嫌うこと甚だしと雖も、神は常に我儕の上に在すという信仰を有し、人の霊を敬愛する心より、自然に出づる謹慎を大なりとし、重しとし、貴しとなす者なり。 明治二十五年九月十三日 女学雑誌三二三号乙
随感録
この炎々の烈火を如何せん。この滾々(=溢れて尽きぬさま)の熱涙を如何せん。我が身はもと(=元来)これ我が有(=所有物)に非ず、基督の血によりて贖われたるもの。真に弱く、小さく、及ぶべくも非ずと雖も、平生望むところ、この五尺の身(=貧弱な体躯)を透して基督の光の幾分かを世に顕さんとにあり。希くは我をして天地の涙を代表し、天地の憤を代表する者とならしめよ。希くは我をして愛の人たらしめよ。
この祈願・この熱望は我をして、我自らさえよく知ること能わざる不思議の人とならしめたり。深情多感、火は燃え、涙(が)溢るる点に於いて、かのパウロの友とならしめ、劉備(=中国三国時代の覇者。漢室再興を志して辛苦した)の兄弟とならしめたり。熱情(が)動く処、苦悶(は)屡々これに伴う。
霊に於ける一妹(が)我にあり。年少にして夫あり、艱難(を)具に(=悉く)甞む。而も忍び信じて、大道を勇信す。この人(は)、我が憂国の情に同感すること切なり。嘗て書を寄せて曰く、「吾は兄の(=あなたが[兄は男性に対する敬称])家庭の徳(=和楽団欒の家庭の情愛)を知らん(=いつか知るであろう)ことを望む」と。その意は、我が孤身寥々(=一人で孤立した状態)、国を思い、人を思うの情に身を痛むるを憂いて(=心配して)なり。
妹(=親しい女性に対する呼称)の帰郷前、祈りと涙とを以て互いに語りぬ。我は粛然(=静粛厳粛なさま)として謂いて曰く、「日本は我が恋人なり。山梨は我が愛妹なり。我が心(は)これが為に思い悩む。人(が)もし我を思わば(=案じてくれるのなら)、我と共に邦国(=国家)の事を憂えんことを望むなり」と。
ああ我がこの心、分外の(=身の程知らずの)傲慢か。もし傲慢ならば、これ我が罪なり。はたまた、古来の愛国者と同一の心か。もし然りせば(=もしそうなら)、これ(は)基督が我に在し給うが故なり。
ただ我をして、世間一般の雷同者(=定見なく濫りに他人に同調する者)、もしくは感情にのみ馳する者とするは、未だ我を知らざるの言に他ならず。古来聞かずや、預言者・改革者は、多く狂人と呼ばれしを。
寂々たる(=人材が乏しい)天地の間、愛する霊の兄(=親しい男性に対する呼称)二人あり。一人は繁劇(=激務・繁忙)の中にありて、その脳を痛めんことを我は憂う。今一人は既に脳を痛めて病床にあり。ああ我が一片の赤心(=真心は)、邦国(=国家)を思い、二兄を思う。方寸(=心中は)乱れて糸の如く、解くべからず。祈りによりて安んずる(=心を休める)ところありと雖も、人の情を持てる者、焉んぞ(=どうして)人の同情を欲せざらん。「請ふ、汝ら乾葡萄をもて我が力を補へ、林檎をもて我に力を付けよ。我は愛によりて疾み患ふ」(旧約・雅歌2-5)。
ああこれ(は)我の痴(=愚かしさ)か。一派の儒者(や)仏家はこれを痴と称さん。されども我は、悟り顔に「有限(=一定限度内の)責任の愛(『日本評論』記者の語なり)」を以って人に対し、人の為に全く己を献ぐる能わざる大弱点ある者(=全面的に人に尽すことのできない欠陥人間)の為に悲しむなり。ああ我は、これら非献身的なる魂を思いて悲しむなり。
嘗て病の為に帰省せし二妹(=親しい2人の女性が)、無事の顔を以て、先には青ざめたる頬は肉付き、微紅を帯びて出で来りぬ。我が心は嬰児の如く、処女の如く、喜悦の情に堪えざりき。
ああ我が霊の姉妹は少なしとせず。我(は)、何を以て彼女らを愛するか。
ソロモン(=古代イスラエルの王。旧約『雅歌』『箴言』などの作者とされる)曰く、「誰か賢き女を見出すことを得ん。その價は眞珠よりも貴とし。(・・・・)艶麗は偽りなり、美色は呼吸(=たちまち消え去るもの)の如し、惟ヱホバ(=ユダヤの唯一神)を畏るる(=畏れ敬うところの)女は譽られん」(箴言31-10~30)と。ああ艶麗・美色なるが為に愛すと言う者、そは世の情(=俗情)にして大いに非なり(=よろしくない)。
基督の心を以って彼女らの永遠の霊を愛し、彼女らの霊をして次第に基督と一ならしむるよう勤む。これ(が)神聖の愛、これ高潔の愛、これ人物修養の秘訣、これ善をなすの根源なり。ああ我(は)これを悟れり。神聖・高潔の愛は、基督を愛する者にして初めてこれを語るべし。
この愛の動くところ、真誠の博愛となり、美絶の(=最も美しい)愛国心となり、無類の忠孝となり、讃嘆すべき友愛となる。これに激し、これに触るるも(=これに腹を立て、これに手を掛けたとしても)、これを退く(=退却させる)べからず。火焰もこれを焼くこと能わず、洪水もこれを溺らすこと能わず。愛の向かうところ、天下に敵なし。
愛を説きて、端無くも(=思いがけず)パウロの事を憶う。
「斯故に爾曹儆醒(=はっと目覚めさせる)せよ、我三年のあひだ、夜も晝も断ず涙を流して各人を勧めし(=訓戒した)ことを憶ふべし」(使徒20-31明治訳)
「われ(が)爾曹を見んこと(=会うこと)を深く願ふは、爾曹を堅固にせん為に、靈の賜を與へんと欲へばなり」(同ロマ1-11)
「われ(は)大なる患難と心の哀痛あるにより、多くの涙を以て爾曹に書遣れり。此は爾曹をして憂へしめんとするに非ず、我(の)なんぢらを愛する事の深を知らしめん爲なり」(同コリント後2-4)
「我(は)いよいよ爾曹を愛すれば、いよいよ爾曹に愛せられず。然れど欣びて爾曹の靈魂の爲に財を費し身を盡すべし」(同12-15)
「我(の)キリスト・イエスの心を以て爾曹衆を戀慕ふことに就いては、其の證をなす者は神なり」(同ピリピ1-8)
彼は実に斯くの如き熱愛の人なりし。テモテに向かいては、「我が愛する子テモテに書を贈る」(同テモテ後1-2)と書けり。諸教会に書翰を出すや(=出す時は)、「誰々と誰々の安き(=安否)を問ふ」(同ロマ16-21他)と、一々その名を記せり。彼は基督によりてこの愛あり。故に「患難・困苦・迫害・飢餓・裸體・危險・刀劍」、それら全てに「勝ち得て餘あり」(同ロマ8-35~37)しなり。
改革時代の日本は、パウロの如き人物を要す。パウロの如き手腕を要す。彼は日本に倍する程の地(=日本の二倍ほどの地域)を、ただ一人にて伝道せりと聞く。確信の人・熱愛の人、我は基督の心を以てこれを愛さんとするも得んや(=可能だろうか)。
我が思うところは老父の身の上。心に寂然の感ある時、未だ嘗て芙蓉峰下(=富士山麓)の茅屋(=粗末な家)を想起せずんばあらず(=思い出さないことはない)。敬愛の父は、難に処してはますます堅く、正義沈勇(=内に秘めた勇気)、日本武士の面影を残す。されど年重なりて身(の)衰うるを如何せん。馬上顧眄す(=大将などが馬上悠然と四辺を望見する)と雖も、老伏波(=忍び寄る老いの波。黄庭堅の詩に見える語)は即ち老伏波なり。我が弟妹は果たして阿父(=父の敬称)を慰むることを得るや否や。これを思えば石腸万断す(=堅固な意思もずたずたにされる)。
嘗て帰郷せし時、父より聞きぬ、郷人(は)しばしば児(=私)の事を父に問うと。父は即ち答えて曰く、「彼の事は神に任せ置くなり。彼が確信して生死浮沈を神に任する如く、余(=私)も信じて彼を神に任せ置くなり。故に安心して一つも心配することなし。ただ病気や寒暑の時には、親の情として少しく気に懸るのみ」と。
出京(=上京)の時、車(=人力車)に乗じて門を出づ。車夫(=車を曳く男)は行く行く語りて曰く、「先生(=蘭方医であった父親を指す)も貴君の為に心配し給うこと少なからず」と。ああ我は多病にして、父を如何ほど憂えしむることか。生まれ来て二十五年、父母に対して幾何の孝を尽せしか。たとえ世人に比して恥ずかしからずとするも、基督に対して畏れ謹むの心なからんや。在天の神よ、我を鞭打ちて進ましめ給え。故山の父よ、忍びて(=忍耐して)我を寛し給え。
家を思い、国を思い、人を思う、万感(は)交々湧出す。我は愛の楽を知り、また愛の苦を知る。この苦よりして、基督のゲッセマネの祈りの心を幾分か知り得たり。未だ基督の苦痛を知らずして、誰か基督の喜楽を味わうを得ん。未だ艱難の杯を甞めずして、誰か愛の楽泉を飲むことを得ん。
これを思う故に、我は謹みて艱難を受け、謝して悲哀を受く。而も人情・苦悶(が)甚だしき時、「ああ我は如何にすべき」の嘆声(が)起こる。この嘆きより我を救い出だす者は、ただ至愛の基督、ああ我をして凡ての愛する人に優りて基督を愛することを得さしめよ。基督の愛を以て、父に兄弟に姉妹に、またこの天下に尽くすことを我に得さしめよ。
明治二十五年九月二十二日女学生第二十七号
]]>基督の心 第三一三集
山月御教話・続編(十九) 石田秀夫先生筆録
日曜礼拝ご説教 昭和五年一月十九日
聖書朗読 ルカ伝第二章二十五節から三十五節
視よ、エルサレムにシメオンといふ人あり。この人は義かつ敬虔にしてイスラエルの慰められんことを待ち望む。聖靈その上に在す。また聖靈に主のキリストを見ぬうちは死をず見ずと示されたりしが、此のとき、御靈に感じて宮に入る。兩親その子イエスを携ヘ、この子のために律法の慣例に遵ひて、行はんとて來りたれば、シメオン、イエスを取りいだき、神を讃めて言ふ、『主よ、今こそ御言に循ひて僕を安らかに逝かしめ給ふなれ。わが目は、はや主の救を見たり。是もろもろの民の前に備へ給ひし者、異邦人を照らす光、御民イスラエルの榮光なり』。かく幼児に就きて語ることを、其の父母あやしみ居たれば、シメオン彼らを祝して母マリヤに言ふ、『視よ、この幼児は、イスラエルの多くの人の或は倒れ、或は起たん爲に、また言い逆ひを受くる徴の爲に置かる―劍なんぢの心をも刺し貫くべし―これは多くの人の心の念の顯はれん爲なり』
釈迦は生まれて一週間目に母親が死に、叔母の手で育てられることになった。日ならずして(=何日も経たないうちに)、ヒマラヤの山中で修行を積んだ百二十歳の阿私陀仙人という老僧が、その甥に当る那羅童子を連れて宮中に参内し、生まれたばかりの王子に恭しく拝礼した。
それから曰く、「この御子は実に八十もの好相を備えておられる。もし王位を継がれたならば、さぞ立派な王様となられましょう。またもし出家なされたならば、さぞ偉大な覚者となられましょう」と奏上し、それから思わず感涙にむせんだ。「なぜ泣くのか」と問われ、「老いたるこの身は、御子の説かれる正法を聞くことなく、先に身罷らねばならぬかと思うと、遺憾の涙が止まりませぬ」と答えた。王はこれを聞いて一喜一憂の思いをした。
阿私陀仙人は、百二十歳にして斯くの如き旺盛な向上心を持っていたのである。向上心に老いはない。肉体は歳と共に衰えるが、向上心はむしろ盛んになる。
仙人は那羅童子に向かって、「他日、この御子が正覚なされた時は、必ず馳せ参じてその門を叩くように」と命じた。童子はその言葉どおり釈迦の弟子となって、羅漢(=修行の最高段階)の悟りを開いたとされる。
基督が生まれた時、エルサレムにはシメオンという老人がいた。「義かつ敬虔にして(・・・・)救世主を見ぬうちは死を見ず(=生前に必ず救世主に会える)」と聖霊から預言されていた。
「義」は《人》に対して正しい事、「敬」は《神》の前に正しい事である。
「君子は敬(を)以て内を直く(=正しく)し、義(を)以て外を方(=方正)にす」(易経)
「敬義(が)立ちて徳(は)弧ならず(=敬と義が行なわれれば、徳が孤立する事はない)」(同)
「敬義夾持して直上せよ、天徳に達するは此よりす(=敬と義を兼備して真っ直ぐ進め、それが徳に達する出発点である)」(程子)
シメオンの記述は宗教的であり、儒教の言葉は修養的である。
ちなみに両者を対照してみるなら、

シメオンは「イスラエルの慰められん(=救われるであろう)ことを待ち望」んでいた。即ち己一個の信仰が深まり、人格が修まるのみならず、一国全体が善くなり、天国が実現されるようにと願い続けていた。神に対して《私》のない、生きた関係が付き、人に対して正しい道を行ない、自分の住む国全体の聖化を望む情熱を有する時、その人に聖霊が降るのである。
彼の肉体は老いていたけれども、救世主を待望するその精神は若々しかった。その敬虔の心を神が嘉(=褒める)して、「基督を見ぬうちは、汝は死を見ず」と約束してくださったのである。
そしてこの日、ついにその時が来たのである。神の霊に感じて神殿に入って行くと、そこに両親に抱かれた幼子イエスが宮参りに来ていた。彼は神の御手に導かれるまま、待ちに待った救世主をその腕に抱いた。
「主よ、今こそ御言に循ひて僕(=私)を安らかに逝かしめ給ふなれ。我が目は、はや主の救いを見たり」。
「はや主の救い(=救世主の出現)を見たり」の一句は実に重要である。老シメオンは『旧約(=モ-セの戒律)』の全てを見来たった上、今ここに『新約(=キリストの救い)』の始まりに立ち会う事となった。
「是(は)もろもろの民の前に備へ給ひし者」
世間一般は、ただイスラエル一国を救う指導者を待望していたのであるが、シメオンはこの幼児の中に、「もろもろの民」、すなわち「全人類」を救う救済者を予見したのである。
「(これぞ)異邦人を照らす光、御民イスラエルの榮光なり」。
光=智光―慈光―生光
智光は精神界の暗黒を照らす光、慈光は罪を洗い清める光、生光は滅びゆく霊を生き還らせる光である。
「異邦人を照らす光」。イスラエル人は異邦人を蔑視していたが、新たなる主(=キリスト)は、異邦人をも平等に愛する救世主であると(シメオンは)見抜いた。それこそ人智を超えた創造的見解である。
また基督の如く、一国の枠組みを超えて世界的に働く大人物を生んだ事は、取りも直さず(=即ち)「御民イスラエルの榮光」であると言っている点、昨今の頑冥・偏狭な国家主義者たちのよく熟慮反省すべき所である。
小国イスラエルは間もなく滅んだ(=紀元70年)けれども、一人の救世主を世に送り出したという事実によって、今も世界的名誉を保っている。しかも(シメオンは)右も左もわからぬ幼児の中に、将来のその栄光を見抜いたのである。釈迦、孔子、ソクラテースも、それぞれ生国を超越した世界的人物であり、しかもそれぞれ故国の栄光を担っている。
この二十九節から三十二節に掛けてのシメオンの独白は、全体が詩文で記されており、西欧のクリスチャンは、今も臨終に際して、これを口ずさんで死ぬと言われている(=讃詠560番)。
「かく幼児に就きて語ることを、其の父母(は)あやしみ居たれば、シメオン(は)彼らを祝して母マリヤに言ふ、『視よ、この幼児は、イスラエルの多くの人の(=多くの人が)或は倒れ、或は起たん爲に、また言ひ逆ひを受くる徴のために置かる――劍(が)なんぢの心をも刺し貫くべし――これは多くの人の心の念の顯はれん爲なり』」
「父母あやしみ居たれば」、神の御意はわかり易く示される場合と、わかり難く示される場合とある。その時にはわからなくとも、後でわかる事があるから、全てよく心に留めておく事が大切である。
「多くの人の或は倒れ、或は起たん爲」、信ずる者は起ち、信ぜざる者は倒れ、受け入れる者は栄え、拒む者は衰える。信ずるか信ぜぬか、それが人間の運命の分かれ道になる。
「言ひ逆ひを受くる徴のために(=非難の的として)置かる」。世に基督論は何億あるか知らぬが、基督は「われは道なり、眞理なり、生命なり」(ヨハネ14-6)と仰せられたのであって、基督に逆らう者は道に反し、真理に反しているのである。肉体の生活のみを思い煩う者は、基督に対して迷っているのである。その迷いの頂点が基督の十字架となった。
「劍なんぢの心をも刺し貫くべし」。十字架の下に立ったマリヤの心中は、まさにこれであった。血を分けた我が子が、最も残酷にして恥辱的な刑罰に遭っている。最も光栄あるべきマリヤは、同時に最も悲劇的な母親であった。この苦しみ在りてこそ、我々は罪の中から救われたのである。
「これは多くの人の心の念の顯はれん爲なり」。
学者・パリサイ人らが基督の前に出ると、その心持が露わになった。ヘロデの陰険、ピラトの虚勢、ペテロの軽卒も、全て基督の前に露見した。それは単に史上の逸話ではなく、今もってそうである。基督についていろいろ言う人は、それによって己の浅薄さが丸出しになる。無論、我々の心もそのまま顕れる。それを神・基督がご覧になって、お褒めになるか、お叱りになるか、それは我々次第で決まるのである。
教訓集第三巻より
教婦養成科卒業式訓辞 大正十五年九月一日
社訓の初めに《信仰》を掲げ、完全なる天父を完全に信仰すべき事を謳ってあるが、まだ充分にわかっていないと思う。信仰というものは何を信じても、如何に信じても可いと思っている人もあるが、そうではない。今それを詳細に説く時間はないが、とにかく天地の根源は神・天父である。
では神とはいかなる存在であるか、

という内実になっている。これを知らずして、あるいは認めずして、ただ「神は愛なり、救いなり」と一方的に頼るのは、賤しいご利益信仰である。神は救済者であると同時に教育者であり、労働者である。救いは真剣な学修と純一の勤労の後に、初めて来るものである事を知っておかねばならぬ。
「ここ(郡是)では基督教の教理や儀式を教えてくれないから、町の別の教会へ行く」と言うのも間違っている。世俗の所謂信仰は、救いのみを説き、それを伝えて「布教は終り」としているのであって、それでは神の愛に相応しい人間となるべき進歩がなく、人格・精神の向上もなく、祈祷も念仏のようなものになってしまって、やがて信仰は行き詰る。
そもそも普通の学校でも、中級・上級過程に進めば、日々の予習が欠かせない。神の教育も同じで、まず学習意欲、即ち自ら向上しようという意欲がなくてはならず、下調べ、即ち日々の修行を継続しなければならない。修行しない信仰は、下調べしない生徒と同じで、何年続けても成果は乏しい。まずは己の悪と欠点を知って改める事。それを続けて行けば、その誠心が他人を動かす。
神はいずこにも在して、その教育は常に行なわれている。我々を行住坐臥(=行く時・止まる時・坐る時・臥す時、即ち日常の起居動作の全てを通じて)教育し、救済し給う。
基督の時代のパレスチナはユダヤ、サマリヤ、ガリラヤに分かれ、ユダヤ人は神殿をエルサレムに建てていた。四十六年の歳月を費やしたその輪奐の美(=壮麗さ)は、荘厳にして言語に絶しており、ユダヤ人は必ずここに拠って神を拝した。ユダヤ三百万にとって、神の住まう所はここ以外になかった。
一方、サマリヤ人はゲリジムの山(海抜二千六百尺=800㍍)で神を拝して、エルサレムに行く事はなかった。基督はガリラヤへ向かわれる途中、サマリヤを通られた。飲み水を所望して村の井戸に立ち寄られた時、たまたま水を汲みに来たサマリヤの女が、「真の神が在すのは、エルサレムなのかゲリジムなのか」と問うた。
基督はそれに答えて、「婦よ我を信ぜよ。唯に此山のみに非ず、亦エルサレム而已にも非ずして、爾曹(が)父を拜すべき時きたらん。 爾曹の拜する者を爾曹は知らず、我儕の拜する者を我儕は知る。そは救はユダヤ人より出るが故なり。 眞の拜する者(=真に信仰する者が)、靈と眞を以て父を拜する時きたらん。今その時になれり。夫父は是の如く拜する者を要め給ふ。神は靈なれば拜する者もまた靈と眞をもて之を拜すべき也」(ヨハネ4-21~24明治元訳)と言われた。
これは神の遍在(=何時でも何処にでも存在する事)を信じ、常に戒慎(=神の前に畏れ慎む)すべき事を教えられたのである。このような信仰を持つ事は、《良師》を日常普段に傅(=守役)として持つのと同じで、常に自分を導いてくれる。
世人は独り居る時は寂しいと言うが、私など独居の時が一番(心が)賑やかである。なぜなら専一に神と共に居られるからである。そういう心を以て人を扱えば、愛と誠を失わずして(=がむしゃらにならずに)、仕事の成績も立派になる。そういう良師を内に持てば、希望も喜楽も共に生まれるものである。
神は労働者でもある。なぜなら、大は太陽・地球の運行から、小は人体細胞の電子の動きまで、細大漏らさず神が司っておられるからである。
基督はこれを指して、「わが父は今にいたるまで働き給ふ、我もまた働くなり」(ヨハネ5-17)と言われた。この信仰が労働の本義である。カーライル(=19世紀英国の思想家)も「労働は(神に対する)礼拝なり」と言った。
労働が大切なのは、心を停滞させない事にある。溜まり水は腐るが、流水は腐らない。人が一心に労働している限り、精神は停滞しない。我々は信仰と修行と労働の三つを以て神と連なり、神はこれを通じて我々を教育・救済してくださるのである。これによって、当社の教育の立て方が世俗のそれと違って、完全なるものである事がわかる。
諸君はこの六ヵ月間の研修によって、必須の事は一通り学ばれたであろう。けれども、真の仕事をなすには、勤労の本源たる精神を修めなければならない。この講習で成績の良かった人は、会社に帰っても進歩・向上するものである。ここで身に着けた精神を一層深く修め、一層細かく研究し、実地に当って一層勤労の本義を尽すからである。
特に教婦(=技術指導係)は、自分に修めた所を以て実地に示すのであるから、決して研究・勤労を怠ってはならないのである。
心が狭量であると孤立しやすい。人の上に立つ者は、心を大きく保ち、全員一体の観を持たねばならぬ。(この一体観を推し進めて行けば、社会・国家・世界を超えて、天地一体の大悟を得るのであるが、今日はそこまで説かぬ。)
今の人はとかく個人主義的になり易いが、ペテロは遠の昔に言っている、「何事を思ふにも黨を結び、或は虚榮を求る心を懷べからず。各々謙りたる心を以て、互に人を己に愈りと爲よ。又おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ」(ピリピ2-3~4)と。
また曰く、「我(は)受る所の(神の)恩に藉て爾曹各人に告ん、心高りて思を過すこと勿れ、神の各人に賜りたる信仰の量に從ひて公平に思念べし。即ち我儕一體に多の肢(=諸器官)あれども、皆その用を同うせざるが如く、各人キリストに於て一體たれば、亦たがひに其肢たる也。然ば賜る所の恩に藉て各々賜を異にせり。或は預言あらば信仰の量に循ひて預言をなし、或は役事(=奉仕)あらば其役事をなし、或は教誨(=説教)をなす者は其教誨をなし、勸慰(=教導)をなす者は其勸慰をなし、賙濟(=寄付)をなす者は吝なく施こし、治理(=事務)をなす者は懈らず治め、矜恤(=慈善)をなす者は歡びて憐むべし」(ロマ12-3~8)と。
これは、各自で仕事を分担していても全員は一体である事を教えている。当社の仕事も組織上では分かれているが、郡是社員という点では一心同体である。各自の小我など棄てて、一致協力しなければならぬ。各科の連絡が充分でないとか、意志が疎通しないとか言う事であってはいけない。
殊に教育科や衛生科との連絡を疎かにしてはならない。仕事は決して機械がするのではなく、生きた人間がするのであるから、社員の心身の健康が第一である。工女の精神を善くするのは教育者であり、身体を善くするのは衛生係である。その他、各科にはそれぞれ責任者がいて、それぞれの業務を円滑に進めているのであるから、日ごろから協力一致するよう心掛けねばならぬ。然るに心得の悪い教婦は、己の勢力を振り回して威張る。そうして人望を失って窮地に陥るのである。
人の楽しみとする所によって、凡そその人がわかるものである。今から十八年前、私が初めてここに来た時、「皆の楽しみは何か」と聞いたところ、「盆踊りが一番楽しい」との答えであった。猥雑な謠に合わせて、男女で夜通し踊る事が、人生一番の楽しみだとは、哀れにも悲しく思った。
働く者の喜びは、何よりもまず勤労でなければならぬ。宇宙第一の労働者たる神は、愛を以て義しく天地を経営なさっておられる。基督も神と共に喜んで働かれた。基督の弟子たちも基督と共に生涯、勤労に励んだ。
今日の新聞によれば、竹久夢二という画家(=「夢二式美人」によって一世を風靡した)は、「人生に疲れ果てた」との理由で、日本を棄てて仏蘭西へ移住すると言っているそうである。自分の働きが苦になるような人は、仏蘭西へ行こうがどこへ行こうが、安住できないと思う。
西洋の学者は、「労働争議は労働苦から起こる」と言っている。労働を苦役と考えるから辛くなる。私の郷里を流れる桂川は、清澄なる山中湖から流れ出ているので、水は清らかである。正しい心から迸り出る労働は、美しく楽しいものである。凡そ聖人の勤労は喜びに満ちている。基督は生涯労働なさって、晩年には宿る家もなく、「狐は穴あり、天空の鳥は巣あり。然ど人の子(=イエス)は枕する所なし」(マタイ8-20)と言われ、事実、橄欖山(=オリブ山)に露宿された事もある。それでも労働を辛いとはおっしゃらず、休みたいなどとは一度も仰らなかった。
諸君もこの心を以て勤労すれば、春の雨が万物を育てるように、昨日より今日、今日より明日へと、工場内の人を立派に育てる事ができ、それに伴って仕事の成績も上がって、どこまでも楽しく進んで行けるようになる。人として生まれて、自分の本業に喜びを覚えること、それに勝る喜びはないのである。
《奉仕》なる語の出どころは基督のお言葉にある。基督の弟子たちも初めは世間並みの名誉心・虚栄心が強く、ヤコブとペテロは来たるべき王国の右大臣・左大臣になりたいと願い、イスカリオテのユダは大蔵大臣の座を狙っていた。これに対して基督は、「異邦の領主はその民を主どり、大人(=権力者)どもは彼等の上に權を操る。これ(は)爾曹が知るところ也。然ど爾曹の中にては然すべからず(=そうであってはならぬ)。爾曹のうち大ならんと欲ふ者は、爾曹に役るる者となるべし。また爾曹のうち首たらんと欲ふ者は、爾曹の僕となるべし。 此の如く人の子(=イエス)の來るも人を役ふ爲には非ず、反て人に役はれ、又おほくの人に代て生命を予へ、その贖とならん爲なり」(マタイ20-25~28)と戒められた。「自ら僕となって人に役れ、人の贖となる事」、これが奉仕の精神である。
こういう心はどこから来るのか、愛からである。英国のグラッドストーン(=19世紀英国の政治家)は、当時ビスマルク(=同じくドイツの名宰相)と並ぶ二大政治家であった。ある日、某氏がその私邸を訪ねると、室内が非常に騒がしい。そっと覗いてみると、何と天下に名だたるグラッドストーン氏が、子供を背中に乗せて四つん這いになって、馬の代わりをしていたと言う。真に力の有る人はそういうものである。人前で威張って見せるのは不徳者の証拠で、そんな者の権威は長続きしない。
基督は人類への奉仕の究極として、その生命までも棄てられた。その結果、今日に及んでますます栄光を受けておられる。諸君は教師に学んだ所を、この奉仕の心を以て実行して、会社の期待以上の働きをなされたい。
第一教育例会質問会における訓話 大正十五年九月三日
信仰
お話しすべき事はいろいろあるけれど、殊に大切なものは信仰である。信仰は我々の現世のみならず、来世にも及ぶ問題である。然るにその信仰が旧態依然として中途で止まっているようでは、人格が進歩しない。己の人格が進まなければ、他人を進ませる事はできない。
昨日も話したとおり、神の一部分のみを見てわかったとせず、完全なる信仰を持って、完全の神を見る事が大切である。「神は愛なり」などと狭く考えていては、せっかくの社訓を実地に応用する事ができない。社訓の実践には智・能・善・美、その他あらゆる要素を要するのである。
ゆえに古聖人の信じたように、神を主宰者・労働者・救済者・教育者として信ずる事を要する。而してこの信仰を一貫するには、神の遍在、即ち神はいつでもどこにでも在す事を信ずる信仰が必要である。しかし現今、大宗教家と言われているような人でも、この大事な事を忘れている。諸君はよく注意して、事務を執る間も休憩の間も、神のお働きを忘れてはならない。
日常不断にこの信仰を持するならば、日曜毎に教会へ通うよりずっと大きな感化を受ける事ができる。私が最近、養生院(=郡是付属の療養施設)で療養中の人に贈った書に、「病室は神の家、病床は神の座たる事を信じるならば、儀式的信仰の空しい事がわかるであろう、云々」と記したのも、同じ趣旨である。パウロが「祈を恒にし」(ロマ12-12)と言った祈りは、常に神と交通する事、即ち絶えざる礼拝を言っている。
信仰とは、自分と神との間に生きた関係を結ぶ事を言う。それは他人を恃む(=頼る)事ではない。人を恃んで信仰に入ろうとする者を、古聖人(=臨済か?)は乞食に擬えた。本来、自分で行なうべき事を、人に縋ろうとするからである。
神は我々を教え(=「教育」し)、導き(=「主宰」し)、救う(=「救済」する)べく、日々働いて(=「勤労」して)おられる。その確信を得た時は、その喜びたるや、家なき者が家を見付けて、親にも再会したようなものである。その心で以て人を愛せば、愛の労苦もまた喜びとなる。なぜなら基督も我々と同じように労されたからである。
諸君は職場に帰って、よくこの筆記録を読み返し、単に知識に留めずして、各自、応分に(=精一杯、己の能力に応じて)神の経営に参画するよう努められたい。そうすれば、世界に傑出した働きをなす事もできる。それでこそ完全なる信仰となるのである。
神を父とする
今朝の朝礼で読んだルカ伝の第十章で、「父(=天父・神)の外に子(=イエス)は誰なると(=何者であるかを)識る者なく、亦子、および子の顯す所の者(=弟子たち)の外に、父は誰なると識る者なし」(10-22)と基督は仰っているのであるが、基督が「誰なると識」られた所の父、即ち神は、釈迦にも孔子にも、またモーセにもエリヤにも(=両者ともに古代ユダヤの大預言者)、未だ見る事のできなかった《完全》なる神である。
即ち基督は、《救い主》としては十字架上の死によって、人を愛する事の極みを示された。これは他の三聖人の及ばぬ所である。
(神を)《主宰者》と見るのは、我が明治天皇(=「天つ神」の信仰を持された)や殷の湯王と同じであり、孔子も、「天命を畏れ、云々」(論語・季氏)と畏敬している。
《労働者》として信ずる事に関しては、カーライルが「労働は信仰なり、労働は礼拝なり」と言っている。
神を《教育者》として信じた孟子は、「天の将に大任をこの人に降さんとするや、必ず先ずその心志(=心身)を苦しめ、云々」(孟子・告子下)と言った。
これら全てを兼ね備えた《完全なる神》を我々は示されているのである。これは非常に大切な所であるが、それだけに誤解すると非常に害がある。即ち、「自分は、釈迦も孔子もモーセもエリヤも知らなかった神を知っている」などと思い上がると、とんでもない事になる。
それら諸聖人・預言者の大徳を我々が持っているかと言えば、到底その足元にも及ばない。そんな分際で聖人を批評したり、軽視したりするのは身の程知らずと言うものである。たとえ世間のクリスチャンは誤っても、我々はあくまで神の恩寵を信じて、感謝する心を失ってはならない。人間の幸福は、神を父として愛慕し、神に教えられ、救われる事であり、これより大いなるものはない。
ちょっと名の知れたような人が、軽薄な考えを臆面もなく書物に載せる。世人はその名声に幻惑されて無批判にそれを信じ込む。かつて二木謙三博士(=日本疫病学の重鎮。郡是衛生顧問)は、「ドイツの栄養学を直輸入して、日本人に適用するのは害がある」と言われた。宗教に於いてもこれに類する事が多々ある。例えば、「基督教は万人共通の宗教であり、誰でも入れる平易なものである。修業だの学習だの語るのは邪道である」などと言う人がいる。米国辺りの基督教をそのまま日本に持ち込むとそうなる。
古の学者・パリサイ人は、聖書(=旧約聖書)の中に、救世主の現れる事が預言されているのを熟知しながら、現実に出現された基督には敵対した。[続く]
山月先生文集(150)
山月子『女学雑誌』記事(二十四)
故山の日(=故郷に於ける日々)
(一)愁苦
一人の病者に侍す(=看護する)、而して家人(は)悉く半病。余(=私)もまた病後(につき)、破れたる衣を縫うべき人もなく、布団の綿出るもこれを繕う人もなし。家内整頓せず、食事の時間一定せず、愁雲漠々(=憂いの雲はむらむらと湧き)、惨霧濛々たり(=憂いの霧はもくもくと漂う)。灯火の功(=効果)を知らんには、これを滅して暗黒とせよ。家庭の徳(=和楽団欒の家庭の情愛)を知らんには、女性を去り(=去らせ)て乾燥寂寞たらしめよ。ああ余は豈(=どうして)永久に母の徳を忘れんや。無声の歎・無涙の悲、何ぞ我を慰むる人なくして、我を憂えしむる人のみ多きか。
人生、字を知るは憂いの初めか(=人間は文字や言葉を知る事によって、物思いが始まるのではないか)。余は敢えて言う、「人間(が)、基督を知るは一種未知の憂いを知るの初めなり」と。然り、憂いを知ればこそ、真の喜悦を得るなれ。
(二)亡き人を夢む
母と兄と弟妹と、相次ぐ五人の死去によりて、余は無常を観じ、而して有常(=無常の逆を示す造語。ここは後述の真神の常在)を見出しぬ。浮世の定まりなきを知り、而して真神の常に在すを識りぬ。短き人世を観じ、而して愛の無窮(=窮り無い事)を悟りぬ。故に初めは甚だしく哀苦に沈み、今は頗る感謝に堪えざるなり。而も人情の喜楽ある毎に、また愁苦ある毎に、亡き人を想い出さざるはなし。
一日(=ある日)、裏の川に魚を獲る。母(が)在せり。余は母に請うて盥を取り、魚をこれに放つ。瞬間、「俚諺(=地元の諺)に曰く、魚の夢を見るは凶事の兆なり」と気づく。そこで余は母に問う、「これ夢に非ずや」、母は微笑して答え給わず。そこで余は思う、「夢には非ず」と。暫くして覚む(=眼覚めた)。
後の日、一室に坐す。母(が)来り給えり。仕立て上げたる羽織を携え、手ずから(=自分の手で)余に着せしむ。羽織の丈長し。母は離れてよく見給えり。余は思う、「余が年長けて、さぞ身長も伸びたらんと思われ、長めに仕立て給いしならん」と。さらに熟々見れば、袖の所は古き別模様の布を継ぎ給えるなり。ああ経済に巧みなる母、裁縫に妙なる(=非常に優れた)母、よくも別布を、かくも知れ難きよう継ぎ給いしものかなと、心に感嘆して、先に脱ぎたる羽織を取り、「この袖口は切れ掛かりたり。今のうちに縫うて戴きたし。これは絹なれば仕舞い置きて、この新しき羽織を日常に着すべし」と。この楽しき夢は忽ちにして覚めぬ。
(三)朋友を想う
余は深情多感、時としては一死惜しまざるの盲目的猪勇(=猪突猛進の気概)ありと雖も、時としては「何故にかくまで弱きか」と思うほど、涙もろく、処女の如くなることあり。今や諸友を離れて、独り茅屋の裏(=みすぼらしい住居の中)に在り、霖雨蕭々として(=長雨が物寂しく降り)、転た(=いよいよ)想慕の念を増す。
一夜(=ある晩)、仙台の東北学院に在り。押川先生の演説了わる。眼鏡を掛けたる人、室の一隅にあり。忽ち思う、「彼は〇〇君に非ずや」と。相会して歓然(=喜ぶさま)、倐忽にして(=忽ち)夢(は)覚む。
その翌々日、東京より雑誌着しぬ。中に親友の作れる文あり、『粘土流の愛』、『嘔吐すべき青年』の二篇、痛罵叱咤(=厳しい非難と叱り付ける言葉は)、紙上に声あるが如し。余は見て快然(=愉快を感じて)、微笑せり。その夜の夢、再び親友に会す。余は自らの哀苦を語るよりも、まず彼の文の事を語りぬ。「今日の青年に最も嘔吐すべき種類二つあり、傲慢なる粗暴擬強者(=粗暴で剛毅を気取る者)と、柔軟義骨なき粘土流の唱愛空笑者(=口に愛を唱えて作り笑いをする軟弱者)なり」の句を挙げて、相共に一笑せり。而して遂に覚む。
夢に入る者(は)二人、夢に見ずとも深く思う人また多し。東京を発つ前、病より起きたる友の状(は)、今や如何に。余自ら顧みて、余の思いの清潔善美なるを信ず。この思いは余の胸間に幾多の愛友の幻影を写し、余をして覚えず賑然(=楽しく)一笑せしむることあり。余はこの情を与え給いし基督に感謝せざるを得ず。
(四)茅屋の生活
苦痛の最も甚だしきは、言い難き苦痛なり。悲愁の最も大なるは、述べ難き悲愁なり。六月九日、東京を発せんと決せし夜より、余は実にこの境(=心境)に沈めり。而も次第に深きに沈む。これ母兄弟と死別以来の大苦痛。茫然として頭重く、歯痛み、ただ祈祷によりて生く。
二十日、忽焉として(=たちまち)悟る、「何を考うるにつけ、何をなすにつけ、決して我が身を弱めるべからず、我が信仰を高めざるべからず」と。すなわち祈る、「信仰と望みと愛とを持ちて苦惨憂愁(=苦しく惨めで憂いに閉ざされる)の境に、悠然として(=ゆったり落ち着いて)立つことを得せしめよ」と。また祈る、「まず我自らを進ましむるより他なし。如何に思い煩うも詮方なし(=仕方がない)。希くは我を進歩せしめよ。我が思い・我が言行(が)、無意(=無意識)に人を導くことを得るに至らしめよ」と。
聖書、その他の書籍を読む時間を多くし、狭き裏庭に武術の独稽古をなし、或は桂川激流中の巌上に端坐瞑想し、或は父の肩を揉みつつ、その経験を謹聴す。要はただ己が智・徳・体の三育を図るにあり。
(五)感謝
二十二日夕、人なき郊外を独り散歩す。忽然として(=急に)自己の精神上の経歴を思う。ああ我(は)、伝記・小説に顕るるが如き(波瀾激動の)経歴を有す。固より立派ならざること多し。されど自ら顧みて、立派なりと思うこと無きにしも非ず。この伝記・この小説を、一日また一日、次第に神の前に厳かに、思いを以て、言を以て、行(=行ない)を以て書く事の楽しさよ。
我は人を尊敬するの念(が)、最も深し。而して自己の心の幾何(=どれほど)進みしやを知らざること多し。一たん事ある時、自他の真の位置を知り、自ら案外に高められたるを思い、感謝し祈願すること多し。ああ我が今日の愁苦は、一層我を進ましめんとする神の摂理(=神慮)に非ずや。喜び湧然として(=嬉しさにわくわくしつつ)前面を仰げば、半ば雲に覆われたる三ッ峠の山頂(が)、神の在すが如く覚ゆ。ああ神は直ぐ近く、我が上に在すなり。神よ、希くは我に一層の艱苦を与えよ。我は汝の愛を深く感謝す。
二十三日、『創世記』、『出埃及記』を読む。エホバ(=旧約の神)が艱難の中にヨセフ(=ユダヤ人の祖・ヤコブの子。イスラエル人を大飢饉から救った)を守り給いし事、モーセが神より選ばれし事、パロ(=ファラオに同じ。古代エジプト王の総称)の心の剛腹(=強情)なる事、読み来りて深く感ず。而して我が導かんと思う人々の剛腹にして、我が心を痛むること、豈(=どうして)我を艱難の中に守り給う神の、測るべからざる愛の摂理なるなからんや(=神慮でないことがあろうか)。ああ我が身(を)、重んじざる(=自重せざる)べからず。霊に肉に、深く自愛の念を増す。感謝して思うに、この一日、心の進歩に於いて、実に不信者たりし時の一年(分)に相当すと。
(六)富士山
二十三日夕、霖雨(=長雨は)全く晴れ、雲霧(は)漸く散じて、初めて富士を見る。覚えず手を拍ちて莞爾たり(=にっこり微笑む)。ああ富士よ、汝は真に我が愛友なるかな。梅雨濛々、孤情寂々の時は、自ら思う、西郷南州(隆盛)が(奄美)大島に謫(=島流し)せられし時の如きかと。而して今や青天下に富士を見る。我が寂情の半分は汝によりて去れり。ああ我(は)この地に立つ、豈(=どうして)、汝の独り立つが如くならざらんや。汝と我と真によく似たり。以て互いに無言の同情を寄すべし。
〇〇先生(は)嘗て戯れに余(=私)に曰く、「富士は君の理想の佳人(=美女)なり」と。ああ理想の佳人、汝と我との間に於ける神の媒酌(=仲介を)、余は喜んでこれを謝す。(明治25年6月24日誌) 明治二十五年八月二十七日 女学雑誌三二六号甲
]]>山月御教話・続編(十八) 石田秀夫先生筆録
海辺の巌(2) 昭和五年一月十七日 於 第一教育会
(第四)風景の調和
動―水―洋々
静―巌―巍々
高―天―無辺
動・静、高・低、寛・厳・・・景色は種々対照的な部分部分が集合して、一幅の絵画を成している。海浜なら、水あり島あり、舟が浮かび、鳥が飛び、魚が泳ぐ、それら全てが調和して天地の美を形づくっている。
人間も同様である。大人物には往々にして、内に対立・矛盾した所があるものであるが、小さくこせこせして矛盾しているよりは、遥かに益しである。人世を解脱した部分と、職務に暁通した部分が調和していれば、まさに鬼に金棒(=強い上にも強い)である。東も知れば西も知り、古きも知れば今をも知る。考える時には水の如く冷静、行なう時には火の如く熱烈、それが大人の器量(=力量)と言うものである。
それには、基督の教えられた所を絶対謙遜して、従順・素直に学び、個人として心技を高め、団体として協力一致して行く。殊にこれからは一人一人が真剣に取り組まねばならぬ時である。
(第五)有限と無限
海の果ては天に続いている。「天は水に連なり、水は天に接す」(出典不詳)の語の如く、有限と無限は繋がっている。人間は有限、神は無限である。宗教の《義(=正しくある事)》は有限と無限の一致したものである。基督はそれをわかりやすく、主従・親子・兄弟・朋友の関係に譬えて、最後に 《一》たるべき事を教えられた。
「これ皆一つとならん爲なり」(ヨハネ17-21)
これに関連して、エックハルト(=中世ドイツの神学者)は、「神と吾人(=我々)との間に疎隔ある所以のものは(=隔たりが生じる理由は)、吾人がその箇身(=自己)に執着するが故なり。箇身を忘了(=忘れ去る)すれば神と合体す」と言っている。
自分を残したまま自分を忘れようとしても、忘れようとする自分が残存してしまう。《忘れる》のではなく、逆に純一に神を《思う》事によって、自分を忘れ去る事ができる。純一の時には、文字通り心には一つの事しか存在しないからである。
それには基督心宗の信仰を養い、社訓の精神を実行し、完全の神を純一に思い続ける事である。そうすれば万一悟らなくても、進んで行く事はできる。思いを一つにする事によって、思う者(=我)と思われる者(=神・キリスト)とが一つになるのである。
何と言っても、罪の根源・心の病根は己の中にある。
「己をすて、己が十字架を負ひて、我に從へ」(マタイ16-24)
世俗を忘れ、没入して心に見入る者は、凡夫(=平凡人)の上に超越して、唯一の神に合一するを得る。その時、もはや時間は消えて、ただ妙楽(=言いようのない喜び)あるのみ。
我々の目的とするところは、自らに死ぬる(=己を捨て去る)事である。換言すれば、凡ての智(=人智)を失くして、無識・無思の寂寞(=俗念を離れた静寂の境地)に入る事である。そこに神の智がある。そこに入れば、自分で考えずに神の考えが自分の考えとなり、一歩一歩進む足取りも、神と偕に歩むのであるから、過つ事がなくなる。
とにかく己を捨てなければならぬ。孔子も釈迦もそれを教えている。殊に基督は強くそれを教えられた。(了)
教育講習会発会式ご講話 昭和五年一月十八日
道を学び修めるのに、如何なる心を以て学ぶかが根本問題である。これを誤ると、何十年経っても目的を達する事はできない。
「発心(=初心が)正しからざれば、万行(=あらゆる修業は)空しく施す」(道元)
宗教の入り方に二種ある。一つは、「自分など全く無価値な者である」とし、そこから一番大きな神に帰依服属して行くもの。今一つは、「人間の心は神に似せて造られたものであり、本心が覚醒すれば神の如くなれる」とし、修業に邁進するもの。前者は、《信頼の信仰》に行き着き、後者は《修業の信仰》に行き着く。
「須らく(=当然の事ながら)是その心を大にし、開闊(=広々と)ならしむべし。譬えば九層の台を為るが如し。須らく大いに脚を做して(=土台を堅固にして)方に(=当然の結果として)得べし」(程明道)
信仰に入るには、心を大きく、広くして行く事が大切である。大建築にはしっかりした基礎工事が不可欠である。富士山は非常に広い裾野を持っているがゆえに、あれほど高く、美しいのである。およそ神々しいほどの山は、必ず大きな地盤を擁している。
「寧ろ聖人を学んで至らざるも、一善を以て名を為すこと勿れ(=たとえ聖人を学んでその境地に至れなくても、小さな善をもって安易に名を揚げるような事をしてはならぬ)」(同)
人間の寿命には限りがある(時間そのものは無限であるが、人と生まれたからには有限なのである)。ゆえに二義的・副次的なものに時間を割いている余裕はない。一番大事な事に一意(=一点集中して)専心すべきである。読書するなら第一級の書を読む。徳を磨くなら、真っ直ぐ聖人を目指して進む。「悪い事はせぬ」と心掛けているくらいでは、《平凡な善人》になるのが関の山(=限度)である。
精神が高尚で、人が仰ぎ見るような人格を養うには、必ず大志を立てなければならない。大志を懐いて、小事に動かされない。そして自らを高めて、人をも高めて行く。
人間には横(=隣人)に尽すばかりでなく、自身が上に伸びたい(=向上したい)という欲求がある。そこでまず自分が立派になり、その感化によって人を立派にするのである。
向上―自愛 (本我は向上の性質を帯びている。その本我を愛するのが自愛である。
×
信仰―他愛 (自分が信仰を積んで、人を向上させて行く事が真の他愛になる。)
罪はどこから来るか。罪に苦しむ時は必ず心が横向き(=相対的)か下向き(=退歩的)になっている。誘惑も横向き・下向きの時に来る。ゆえに真の愛は横向き(=隣人への働きかけ)だけではない。どこまでも基督の教えを守って進んで行く(=進歩・向上する)事が自愛であり、他愛であり、真の信仰である。宗教は平面的(=相対的)・立体的(=絶対的)・向上的なものである。
「我もし地より舉げられなば(=天上界に召された時には)、凡ての人を我が許に引きよせん」(ヨハネ12-32)
謙遜とは、ただ頭を低くする(=低姿勢になる)事ではなく、心の《我》を無くす事であり、謙遜の極致は《無我》である。基督はそれを「心の貧しき者」(マタイ5-3)と言われた。幼児は本来無心であるから、そのまま「心の貧しき者」であり、「天國にて大なる者」(同18-4)である。
心が無一物な人間は絶対的に無心である。而して、比較を絶したものほど大いなるものはないので、真の謙遜と真の偉大とは究極的に一致する。しかしそこに僅かでも小我が残っていると、決して偉大にはなれない。少しでも自己中心の心があると、傲慢と知らずに傲慢になる。ゆえに過去の知識・修養・経験など全て振り捨てねばならぬ。孔子はその精神で以て一生涯学んで行った。
信仰に入った者は、信仰の光によって神・基督の栄光を顕さねばならない。それにはまず、己の人格を修めなければならない。しかし今日の教会に、果たしてどれだけ人格者が育っているであろうか。
また一方においては、あくまで信頼して修養して行かねばならない。かつて押川先生は、「基督の中に基督はない」と言われた。私は久しくその真意をわかり兼ねたが、「わからないのは自分が低いからだ」と謙遜して学んで行った。
先生はまた、「道は大人の為にある」と言われた。これについてもいろいろ考えさせられた。つまり《教え》と《道》とは違うのである。教えの本源が道であり、道は基督ご自身であるから、基督の心を己の心とせぬ限り、道は得られない。ゆえに「道は大人の為にある」のである。「自分にわからないのは、自分が低いからだ」と思うのが無我である。
教育の極致は、自ら修め、自ら行なう事に尽きる。それを、「いかにして生徒を善くするか」など、小手先の事のみ考えているから善くならない。教師が相手ばかりを見ていると、相手も教師を見ているから、一向に教育の実は挙がらない。
程明道(=宋の名儒)の弟子に謝顕道という人がいた。万巻の書を読み、広く学んで、人に伝える事が道であると考えていた。ある時、程明道に会って、自分の作った文書を暗誦して聞かせたところ、
「賢(=秀才は)却って許多(=多くの事柄)を記得(=覚え込む)し、物を玩び、志を喪う(=玩物喪志[つまらぬ物に愛着し、本来の志を忘れている])](近思録)
と嗜められた。
自分が何事か学んだなら、それを己の中に養わねばならない(=真に身に着けねばならぬ)。それには謙遜して神の無限の声を聞くようにしなければならぬ。人に与えるには、まず自分が修めるのである。
(第四)隠徳を積む
「右の手のなすことを左の手に知らすな」(マタイ6-3)
(人に見せるためでなく)隠れた所で修めて行く。心の使い方が、隠れた所で緩まない事。寝む時も、神の懐に憩うという気持であれば、休眠さえ修養になる。
隠れた所で自らを修め、隠れた所で人のために尽し、行ないを慎み、一言でも人のためになるよう努める。それには、人に話す前にまず神に話し、必ず愛を以て人に語るようにする。
悟った人と悟らぬ人とでは、話し方も違い、徳を積んだ人と積まぬ人では、言葉が違う。真似して善い事と悪い事があるので、よく気を付けねばならぬ。
これら全ては、まさに十字架を負ってなさねばならぬ(困難な)仕事と言っても過言ではない。
教訓集第三巻より
院長室職員への訓話 大正十五年八月二日
教育と救済
世人は教育者としての基督を見落としている。今朝(場長会で)お話したように、神のお働きにおいては、《救済》よりも《教育》の方が先行している(=人類の祖・アダムとイヴに対する教育)。まず最初に神の教育があって、それに背反した者を、なおも基督が救済なさるという順序である。
従来の宗教家は下から(=人間の側から)のみ説くから間違う。上から見ればよくわかる。神は全人類を完全たらしめんと思召され、仮令そこから落ちこぼれた者が出ても、それをお見捨てにはならずに救済なさる。それは人間の親子関係と同じである。親は最初から子の救済に頭を悩ますわけではない。立派に育って欲しいから、まず教育に心を用い、救済はもっと後である。
即ち宗教は、ただ信頼して救われるためのものではなく、神を学んで上を望み、勇んで進み行くべきものである。パウロはこの両方面を弁えていた。西欧人の言うような、単なる「信頼の使徒」(=信ずれば救われるとのみ説く弟子)などではない。
自分で経験して見ればよくわかる。もし人間が本来、善をなすこと能わざる者であるならば、何ゆえ我々の心に、「善をなせ、悪をなすな」という声が聞こえるのか。
パウロは、「我が願ふ所の善は之を行はずして、反つて願はざる所の惡は之を行へり」(ロマ7-19明治元訳)と嘆いたが、実際、我々の心には善もあれば悪もある。もし善のみならば、この世に戦争など起ころう筈もなく、またもし悪のみならば、良心の囁きなど聞こえない筈である。
「絶対信頼」とは「絶対他力(=ただ神の救いを希求する信仰)」であり、そこには純粋なものもあるが、一つ間違えると、その身は罪にまみれたまま、ちょっと麻酔薬を服用して良心を麻痺させながら、その日暮らししているような事になる。そんな信仰では、到底真の救済など得られない。
神と人は、親であり子であるという事実を実感すれば、心の変化は大きいものがある。
聖人の教育
某学校の教員から、「郡是では如何なる教育をしているか」と問われ、私は「聖人の教育法を実践している」と答えた。
然らば「聖人の教育」とは何か。孔子の言葉がそれを代表している。
「子曰く、黙してこれを識り、学んで厭かず、人を誨えて倦まず(=黙って天道を悟り、学んで嫌にならず、教えて飽きない)」(論語・述而)と。
即ち、
この三項であり、社訓とも一致している。
「黙してこれを識る」とは、深い認識である。せっかく聖賢の言葉を読んでも、その精神と直接交渉しなければ、何にもならない。しかも普通の人なら、「識って」満足して止まってしまうものであるが、孔子はなおも「学んで厭かず」と言い、「識った」上でさらに学んだのである。それで天地の真理がますます明らかになり、ますます内に蓄えられるから、自然にそれが「教え」となって溢れ出て、《厭く》事がないのである。
然るに今の教育は、この根本を蔑ろにして、ただ方法論ばかりを議論している。曰く「何々式」、曰く「何々法」と、枝葉末端に拘泥して迷っている。東西(=東洋と西洋)ともにそうである。
謙遜
謙遜と言っても、わざと自分を卑下し、包み隠すというような事ではない。すなわち「燈火をともして升の下に置く」(マタイ5-15)事ではない。
ペテロは、「爾曹の装飾は髪を編み、金を掛け、また衣を著るが如き外面の装飾にあらず、ただ心の内の隠れたる人、すなはち壊れることなき柔和恬静なる靈を以て装飾とすべし」(ペテロ前3-3~4)と言っている。
孔子は非常に深く悟って、それでも非常に謙遜であった。「君子の道は三つ、仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れず。我これを能くするなし(=自分はまだ実行できていない)」(論語・憲問)。徹底した謙遜には《我》がない。謙遜を教理のように考えて、それを以て他人を律する(=束縛する)など大いなる誤りである。似て非なるものは誤まり易い。基督が偽善者を悪まれたのも、そのためである。
郡是の教育
郡是の教育も、最初から今の如く組織立っていた訳ではない。私が長年養って来た信仰・識見を、東西古今に照らして検証した上で、天の事・地の事・人の事に応用して(教育組織を)定めたのである。
従来の教育者は、道徳指導のみで社員教育は事足りると思って来た。しかし工場などでは、智慧と応用力と決断力がなくてはならない。経済において、経済学の書物に書いてないような事が日々起こるように、信仰においても、聖書にはないような問題が常に発生する。人を教育するにも、それぞれの個性を知って応病与薬しなければならぬ。それらをどう処理するのか。しかも即答を求められる事が多い。
それに応えるには、ただ信仰だけでは充分でない。私が初めて前社長に会った時、「どうか職工を善くして貰いたい」と言われて、「職工を善くしたいなら、まずあなたご自身が善くならねばならない」と答えたのであったが、これは初対面の挨拶としては言うべき事ではない(礼に欠ける)。けれども工場を善くしようと思えば、自分の信ずる所を尽くさねばならぬ。ゆえに敢えて言ったのである。その思いは社長にも伝わり、だんだん向上進歩された。
生命
生命は説明できない。説けば(生命が)死んでしまう。生命は神の命と人の命(=神の意思と人の意思)が結んで相合し、(心が)綺麗で清浄になった時、その心に入って来るものである。
事業の場合は、首脳が率先して労すれば成績は上がる。けれども教育伝道はそう単純ではない。第一、成績が数字に現われない。目に見えないから油断しやすい。これを如何にすべきか。道は一つ、教育伝道の任に当たる者が、日々、自ら進歩・向上する事に尽きる。これを怠れば、早晩、教育は頓挫する。
質と量
仕事の質を考えずに、量のみ考えると過つ。質すなわち本質は、道や生命と一つである。ゆえに神がわかれば、天地の大と合一した仕事ができて、「我すでに世に勝てり」(ヨハネ16-33)の境地に出られるのである。
これは上より下に及ぼすのみならず、下より上に及ぼすべきものでもある(=上下を越えて取り組まねばならぬ)。
天父の完全なる直接教育 大正十五年八月七日
於本社職員修養会
当社の社訓を難しいからと敬遠して、なかなか本気で学ぼうとしない。その結果、某工場では、念仏婆さんを呼んで来て話をさせ、お陰でよくわかったので、社訓の写しを婆さんに差上げたなどという馬鹿な話がある。私などから見れば、「なぜそんな軽薄な事を」と思ってしまう。
普通の宗教では、救済という事を重く見る結果、基督まで阿弥陀さん(=念ずれば応えてくれる神仏)程度に考えてしまう。そして逆に「教育に宗教を混ぜてはいけない」などと言う。そうではない。真の宗教は、必ず教育と救済とを兼ね備えたものでなければならない。
前にお話ししたとおり、教育の起源は人類創生の時に始まるのである。私はこの事について、初めて今年、無意識状態のうちに神から示されたのである。この経験から考えるに、宗教の奥義というものは、教理や解釈を超えた、神の直接教育によって示されるものであり、それほど厳粛なものである事を知った。
旧約聖書に、「神、人を創造り給ひし日に、神に象りて之を造りたまひ、彼等を男女に造りたまへり」(創世記1-27明治元訳)とある。これは、神固有の《自由》が人間にも分与された事を意味している。自由は万物に与えられたわけではない。動植物はただ本能に従って生きて行くだけであって、善悪の観念などない。
一方、人間だけは自由を与えられて、善に生きる事も悪に生きる事もできる。ただし心の奥底に《良心》というものが埋め込まれていて、自然に善を慕い、悪を憎む性質が刷り込まれている。これが教育の淵源(=大本)である。
かつてイヴ(=人類の祖・アダムの配偶者)は蛇の誘惑を受けて、智慧の木の実を食ってしまった。これこそ人類が良心に背いた最初の罪悪である。そこで神は救済という事を考えられ、そのための教育を始められた。すなわちまず教育が行なわれ、その結果として救済があるのである。こういう事を説いた書物は未だ見た事がないので、これは私の創見であろうと思っている。
ユダヤのアブラハム(=イスラエル、アラブ両民族の始祖)の事は、パーレーの『万国史』(=福沢諭吉が日本に紹介した古典的歴史書)にも出て来るが、釈迦、孔子より古く、紀元前二千年頃の人であった。信心深く、「信仰の父」と呼ばれていた。その彼が九十九才の時、神が現われて言われた、「我は全能の神なり、尓(は)我が前に行みて完全かれ(=私の前に完全無欠であれ)」(創世記17-1)と。
当時、世界はまだ人口も少なく、人心は純朴で、神と人(は)相近く暮らしていたので、神の声もよく聞こえたのであろう。これは基督が、「尓曹、神の完全きが如く完全かれ」(マタイ5-48)と言われたのと同じである。
神はアブラハムの如き信仰篤い人をも、なお教育され、基督もまたそれを踏襲しておられる。これを考えれば教育の重要さがよくわかるであろう。当社の社訓は、その神に相談しながら作ったものである。それを「人の作ったものだから遵奉する必要はない」などと言うのは大間違いである。
罪と義についても神の教育は降っている。古のソドムとゴモラの町は背徳に陥ったので、神はこれを滅ぼそうとなさった。それを知ったアブラハムは、「もしもこの町に五十人の義人がいたら、滅ぼさずに許していただけるか」と問うと、「許そう」と神は言われた。「では五十人に五人欠けたらどうか」、それからだんだん減らして行って、最後十人にまで引き下げて、「それでも許す」と言われたのであるが、結局、義人十人は見つけられず、町は天よりの劫火に焼き尽くされてしまった(創世記18-16~19-28)。
人は義を以て立っている。悪をなして神の教育に背く者は、よほど悔い改めて正道に立ち還らない限り、自ら滅亡するのである。
神の教育が義人に降る事もある。モーセ(=ヘブライの指導者)がイスラエルの民を率いてエジプトを脱出したのは、紀元前千三百二十年、支那(=中国)では殷の湯王の時代であった。神はモーセをシナイ山に導き、そこで神の直接命令を授けられた。『十戒』である。神は非凡なる一人を通じて万民を教育なさったのである。
では特別に選抜された独子イエスを、神は如何に教育なさったか。
その父ヨセフは義しい人、母マリヤは信と愛の深い婦人、そういう家庭に神は基督を生まれさせ給うた。当時ユダヤでは、生まれた子供に対して、まず何よりも神の事を教えねばならぬとされていたから、幼時より聖書(当然、旧約聖書)をよく読まれたはずである。
基督(が)十八歳くらいの時、父ヨセフが亡くなった。もともと中流家庭であったから、父亡き後の生活は苦しかったであろう。それでもヘブライ語・アラマイック語(=ヘブライ語の俗語)・ギリシア語を学ばれ、祈祷と瞑想に親しまれた。
地理的環境はどうであったか。ナザレは景勝の地であった。北には九千尺余(=二千七百㍍)のヘルモン山が見え、その彼方に一万尺(=三千三百㍍)のレバノン山が聳え、西には地中海を控えてエズレルの原と、シャロンの野が広がる。
父亡き後は長男として一家を支え、弟妹を養育なさった。この間に、「わが父は今にいたるまで働き給ふ、我もまた働くなり」(ヨハネ5-17)という事を、如実に学ばれたであろう。そして三十歳の時、洗礼のヨハネが出て、人々に悔改の洗礼を施し、基督が世に出られる準備を整えた。
これら全てが神のご教育である。宗教家は学習と言えば、集会を持ったり、聖書の輪読会でもすれば済むように思っているが、それは誤りである。宗教をただ信仰箇条(=お題目)のように考えていてはだめである。日常茶飯、自分のために働く時も、人のために尽す時も、学習する時も、休息する時も、全てに神のご教育が含まれている。
基督が世に立たれるまでの三十年間、どのようにして信仰・人格を養って来られたのかについては、古来学者の研究して来た所であるが、唯一言える事は、折に触れて神から直接に学ばれたのである。ルカ伝には、「イエス知慧も齡も彌増り、神と人とに益愛せられたり」(2-52)とある。神の教育は天地一杯に満ちている事を知る。現に今ここで話を聴いている諸君の上にも、神の教育は豊かに降り注いでいる。それに気づかずに、ただ聖書を読んだり祈祷したりする時だけが修養だと思っているのは、非常な間違いである。
基督がヨハネから洗礼を受けて水から上がられた時、神の霊が鳩のごとく舞い降り、天より声あり、「此は我が心に適わが愛子なり」(マタイ3-17他)と言った。これによって基督は道を説く者としての大自覚を得られた。これまた神の直接教育である。
この天命を如何にして果たすべきかを考えておられる時、悪魔の誘惑に遭われた。基督の如き空前絶後の(=後にも先にも二度と出ないほど優れた)偉人に対しても、神はなお教育なさるのである。基督は前後三回の大いなる誘惑を全て退けられ、悪魔は諦めて離れ去った。
こうしていよいよ福音を述べ始められたのであるが、それと共に、妨害者・敵対者の攻撃も強まって来た。そこで基督は、近い将来、自分の亡き後の継承者を育てるべく、十二人の弟子を選んでガリラヤの北へと退かれた。ここから基督による高等教育が始まる。
「イエス、其弟子に問て曰けるは、(・・・・)『爾曹は我を言て誰とする乎(=私を何者と思うか)』。シモン・ペテロ(が)・答けるは、『爾はキリスト(=救世主)、活る神の子なり』。イエス答て曰けるは、『ヨナの子シモン(よ)、爾は福なり、蓋、血肉(=人智が)(その真理を)なんぢに示せるに非ず、天に在す吾父なり(=神が直接示し給うたのである)』」(マタイ16-13~17・他、明治訳)。
基督の中に神があり、ペテロの中にも神が入ってこれを言わせた。神が自分の心に入って初めて神がわかるのである。この句は私の悟り(=29歳、宮城野原における最初の見神経験)の時の実体験となったものでもある。
他日、三人の弟子(=ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)を連れてヘルモン山に登られた時は、山頂で基督の容貌が変わり、光り輝くモーセとエリヤ(=ともに古代ユダヤの偉大な預言者)が現れた。感激したペテロは、「御意ならばここに庵を建てて住みたい」と言った。すると雲の中から声があって、「此は我旨に適ふわが愛子なり、爾曹(は)(モーセやエリヤではなく)これ(=イエス)に(教えを)聽べし」(同17-5他)と告げた。ここには、基督に対する神のご教育と、基督の弟子に対する神のご教育とが含まれている。基督が受けられた神の教育は他にも無数にあるが、釈迦や孔子にもその例が見られる。
釈迦は王家の跡継ぎとして生まれたので、凡そ世人の欲するほどの奢侈(=贅沢)・栄華・名声は、全て初めから備わっていた。
しかし真理を求めて已まぬ精神は満足しない。ある日、都の東門を出て「老人」なる者を見、別の日、南門で「病人」という者の存在を知り、西門では「死人」を見送り、北門では「僧侶」を目撃した(=四門出遊)。また別の日には、美しい娘が通りかかって釈迦を見、「このような子供を授かった父母は嬉しかろう。このような男子に嫁ぐ娘は幸せであろう」と思い、思わず微笑んだ。(基督も、「爾を孕し腹と爾の吮し乳は福なり」(ルカ11-27)と言われた事がある。)釈迦はそれを見て、自分の心を見て微笑んでくれたものと思い、感謝の印に自分の首飾りを取って娘に与えた。しかし娘の方では、これを恋愛の意味に取り、恋着の心を起した。これによって、人には《煩悩》のある事も知った。
うしていろいろの経験を経て、人にはみな四苦(=生・老・病・死)があって免れ難い事を知り、何とかしてこれを救いたいと思い、遂に二十九歳で出家したのである。
釈迦と孔子は殆ど同時代人であって、釈迦が十二歳の時に孔子が生まれた。神はこの二大聖人を、ほぼ同じ時期にアジアに送り込まれたが、二人は結局相知らずに終わった。一人は印度で、一人は支那(=中国)でそれぞれ神の御旨を行なう事を以て生涯の務めとなした。
孔子の一生は不遇に終わった。三歳で父を喪い、十五にして学問に志し、結婚して、委吏(=穀物倉庫の出納を司る官吏)となり、料量を平らかにして(=計量を公平にして)、会計相当たる(=計算に間違いがない)という有能ぶりを示した。次に司職史(=儀式用家畜の管理係)となり、家畜(が)繁息する(=増え肥る)という好成績を挙げた。
釈迦は一生托鉢して暮らしたが、孔子は自活の道を選んだ。二十四歳で母を喪い、三十にして天下に道を広める決心を固め、五十一歳の時、公山弗攘(=季氏の領地・費[現・山東省費県一帯]の代官。後に反乱を起こして費に立て籠もる)の招聘に応じようとした。
高弟の子路がこれに反対した。すると孔子は、「夫れ我を召ぶ者にして豈(=どうして)徒ならんや。如し我を用うる者あらば、吾はそれ東周を為さんか(=私を招くからには、それなりの理由があるのであろう。もし私を本気で用いる者があるなら、私はこの東国の費において、あの周の文王・武王の道を再現したいものだ)」(論語・陽貨)と答えた。
孔子はかねてより季氏の横暴を快く思っていなかったから、初めに公山を援けて、後に帰順させる事ができるかも知れないと考えたようであったが、結局、公山氏の人物を見極めて、行かずに終わった。
その後、母国・魯の中都の宰(=地方長官)となり、五十二歳、夾谷での会談に陪席し、斉との間で外交上の成果を上げた。五十六歳で相の事を摂行する(=総理大臣の仕事を代行する)に至り、大夫(=大臣)・少正卯を誅し(=死刑に処し)、魯は大いに治まり、政は頗る挙がった。
これを見た斉が脅威を感じて、定公(=魯の君主)を誑かせんとて、選りすぐりの女楽(=女楽人たち)を送り込んで来た。季桓子(=権臣)がこれを受け入れ、定公はさすがに孔子の前を憚って(=遠慮して)、微服して(=私服に着替えてこっそりと)これを見に行き、やがて君臣共々、政治を怠るようになった。孔子は自分の道が行なわれなくなった事を知って、遂に魯を去って諸国周流の途に就いた。これもまた神の教育である。
衛の国の儀に滞在中、封人(=国境警備の役人)が訪ねて来て言った、「二三子、何ぞ喪うことを患えんや(=お付きの方々よ、先生が地位を失われたからとて、何の心配がありましょうぞ)、天下の道なきこと久し、天は将に夫子を以て木鐸と為さんのみ(=天下に道が行なわれなくなって久しく、今や天は将にこの先生を、世の木鐸[=人心に警告を与える人士]にしようとしているのです)」(論語・八佾)。
斯くして孔子の道は天下・後世に広まり、畏くも(=畏れ多くも)我が明治天皇をも教え奉り、ために陛下は斯くも聖明にわたらせられた(=知徳が優れておられた)のである。
神の教育は古今にわたり、上下を貫き、四方に周(=行き渡る)して、所謂「天地に充ち満ちて」いる。明治天皇が直接孔子から学ばれた如く、我々も絶えず神の教育の中に身を置いているのであるが、信仰(が)浅く、心(が)熱からぬため、いつまで経っても孔子の如くなれないのである。
不断に信仰すれば不断に教えられ、不断に祈祷すれば不断に養われる。ヨハネは、「わが與ふる(平安)は世の與ふる如くならず」(14-27)と言った。
どうか諸君も、浅い信仰に安住せず、聖人の如き大いなる信仰を持って、神の直接教育に与かる人になって頂きたいものである。
山月先生文集(149)
山月子『女学雑誌』記事(二十三)
『片々』編輯の言
明治の青年は改革の雄兵たらざるべからず(=優れた戦士とならねばならぬ)。国家(の)将来の運命は、青年の傾向によりて、その盛衰興敗(=盛んになるか衰えるか、成功するか失敗するか)を決するものと謂わざるべからず。嘲ること勿れ、黄口児(=嘴の黄色い雛鳥・青二才が)何をか為すと。吉田松陰を見ずや、松下村塾を見ずや。
吾人(=我々)は青年を愛し、青年を重んじ、一方ならぬ希望を持ちてその運動を注視する者なり。すなわち相議(=相談)して、この一欄(=『片々』欄)を以て全国各青年会の模様を報ずるの機関(=手段)に供し、あわせて各青年会が互いに気脈を通ずる(=意志疎通する)の便宜に供せんとす。
筆を執るに先立ちて、慎みて青年諸君に告ぐ、曰く、自重(=自尊)と共に謙遜なるべし。剛くあると共に優しくあるべし。運動(=活動)と共に修養を怠るべからず。柔弱なること勿れ、傲慢なること勿れ、浮足立つこと勿れ。真理と潔白と良善と公義の味方たれ。而して最後の戦勝者たれ。 明治25年8月13日 女学雑誌325号甲
英雄
時、難にして(=時代の難局に臨んでは)偉人を思い、世、乱れて(=乱世には)英雄を思う。不正・不法・不義の社会に、正人は泣き、義人は悲しみ、良民は苦しむ。思うに昔、皇天(=天なる神)は社会の腐敗を憤り、人民の疾苦(=悩み苦しみ)を憐れみ、前後(=各時代に)、幾多の英雄を出だせることを。昔これを出だせり、豈(=どうして)今これを出ださざらんや(=英雄を出さない筈がない)。ああ現今・将来、如何なる英雄か出でて、同胞のために泣き、同胞のために尽くすべきか(=尽くすだろうか)。請う、少しく吾人が(=我々の)愛する英雄を描かしめよ(=記述させよ)。
蓋し(=まさしく)英雄は時勢の子(=時代の申し子)にして、また時勢の父(=時代の導き手)なり。時勢が彼を生む。然れども彼は、己を生みたる時勢に盲従する者に非ず。反って時勢に先立ち、もしくは逆らい、時勢を導く者なり。天国をこの世に来らせん(=実現させる)ためには、英雄の力―英雄によって顕わるる(=具体化される)基督の力―を要すること大なり。
英雄は質朴なり、天真爛漫なり。人は粉飾(=己を飾る)せざる時、最も美なりとせば(=すれば)、英雄は常に最美なり。彼の言行は真実なるが故に、人はよくその一面を知る。而るにその全体は、複雑錯綜せるが故に、容易にこれを知るべからず。
彼が悠然として静かなる時は、清風明月、花香馥郁たる (=花の良い香りが漂う)が如し。これ一個の君子なり。彼が烈然(=節操固く強く正しいさま)として動くや、黒雲勃々(=もくもくと湧き)、飛龍隠見(=見え隠れ)するが如し。これ多くの記者・評者が好んで写す(=描写する)ところなり。
英雄は親に孝、兄弟に愛、朋友に親、国民に忠なり。彼の一言一行は至る所に活議論(=現実に即した議論)を起こし、活詩歌(=生き生きした詩歌)を生む。山の如く、河の如く、月の如く、花の如く、火の如く、電(=稲妻)の如く、変幻自然にして、窮り無き活文章なり。豈(=どうして)杓子定規の(=決まりきった)死論を以って評定し去る(=批評し尽す)ことを得んや。
「その容は靄然として(=容貌は穏やかで)春風の如く、その神は凝然として(=精神は不動で)金石の如し」(=出典不詳)、この詩を以って彼の肖像に題す(=表題とする)べし
彼の身には一種の霊光あり、愛すべくして狎るるべからず。畏るべくして離るるべからず。彼が人を思う時は、優しく処女の如し。「玉容寂寞、涙欄干(=玉の如き顔に、しとどの涙)」(白居易)の句に、英雄が独り涙する姿を連想すべし。
まさに誠涙万斛(=無尽の感涙)と活火千丈(=無限の熱情が)、合して彼の内にあり。彼が世を憤るや、「猛虎一声、山月高し」(兪紫芝)、激烈にして英雄の本色(=本来の性質)を見る。而して温顔涙痕の湿うところ、眼中に一点、義烈殉難(=固く義を守って難に殉ずる)の精神を見わすは、彼が同志者と深く結んで分離すべからざるところなりとす。
英雄は人と共に喜ぶよりも、寧ろ他と艱難を共にし、悲哀を共にす。同情・恩愛はパウロが教会に於けるが如く、劉備(=三国代の英雄)が将士に対するに似たり。同胞を思い、国家を憂い、社会の下層に同情を表する彼の念は、已まんと欲して已むこと能わざるものあり。その愛国の精神の一たび激動するや、全身悉く火となる。而してその面(=表情)に発し、言に出るや、熱涙反って襟に落つ。この時に於いては、接する者・聴く者、彼と同じく感じ、彼と同じく泣き、彼と同じく(心を)奪う。彼の敵と雖も感激して動く。至誠が至誠を生む。英雄の涙の如何に価値多きか。
人に対し、社会に対する英雄の情は斯くの如し。而して天然(=自然界)に対するや、優悠として一個の詩人なり。晈々として(=白く明るく)野を照らす月、聳然として(=高く聳えるさま)雪を戴く山、渺々たる(=広く果てしない)海原、滔々たる(=流れて止まぬ)大河、樹陰の清風、花間の小鳥、英雄がこれらに対するや、もはや市井(=日常社会)の人には非ず。思い起こす、赤壁(=湖北省長江南岸。蜀・呉連合の水軍の前に曹操率いる魏が大敗を喫した)明月の夜、曹孟徳(=曹操。三国時代の覇者の一人)が戟を横たえて詩を賦せし(=詠った)時(=「山は高きを厭わず、水は深きを厭わず。周公[=文王の子。兄の武王を援けて文武に業績を修めた]は甫を吐きて、天下の心を帰す[=周公は高い山も深い河も厭わず、訪う人あれば、食べかけの食事を吐き出してまで面談して、広く人材を求めたので、天下の人心はみな彼に帰した]、云々[短歌行]」)。思い起こす、能州(=能登)明月の夕、謙信が宴酣にして詩(=「越山并せ得たり能州の景」『九月十三夜』)を作れる時。
何ぞ況や、神を愛し人を愛する英雄に於いてをや(=ましてや、神を愛し人を愛する英雄において、自然を愛でる心は一層強いことは言うまでもない)。天然は実に彼の好友なり。英雄が天然を愛すること尋常(=人並み)ならず。故に天然は、彼に対して充分の共感を示し、彼を慰励し、彼を讃美す。
英雄は神の前に謙遜・従順なり。彼の祈祷・感謝は恰も幼児の如し。無心に、自然に、訴えては泣き、泣きては訴うなり。
英雄の信仰・希望・愛国は、彼の品格の基盤なり。彼が人に戴かるる(=人の頭とされる)は、人を率いんとするの心より起こるものに非ず。統御を好む彼の心は霊化せられて柔和謙遜となれり。彼は人々の足を洗う心を有せり(ヨハネ13-1以下)。この心あるが故に、神は彼を高め、人は彼を戴く。彼は自己の弱きを知り、穢れたるを知り、卑しき(=取るに足らぬ存在である事)を知る。
彼は己を棄てて神に従う。彼の強さ・清さ・高さはみな神に由るものなり。彼が驚くべき自信を有するのも、己の衷なる神の光を信ずるによりてなり。彼が自らを愛し、同胞を愛するは、みな神を愛する愛に基づくなり。
彼は英雄の名・聖賢の名を喜ぶ者に非ず。むしろ英雄・聖賢の名は、進歩する人、及び弱き人の進歩を止め、もしくは遅らせ、あるいは僻せしむる(=偏らせる)懼れある事を思えばなり。彼はただ基督の良僕たらん事を望み、かつ人にも望むなり。
蓋し(=まさしく)彼は基督の僕なるが故に、世の英雄なり。思い見る、林中に祈祷するワシントン(=米国建国の父・初代大統領)は、米国創業の英主(=優れた統率者)なる事を。吾人(=我々)が英雄を愛するは、英雄としてこれを愛するに非ず、基督の僕としてまずこれを愛するなり。
ああ基督の僕の名を犯して(=名を騙って)、その実(=実体・実質)なき者の多きは何ぞや(=どうした事か)。ああ世の英雄の称(=称号)を簒うて(=横取りして)、その真(=誠心)なき者の多きは何ぞや。吾人は現今の日本に於いて、偽の預言者らが妄りに誤解の愛を説きて、軟弱・繊弱(=きゃしゃで弱々しい)の気風を養成し、妄りに英雄豪傑の謬論(=過った論)を吐きて、粗暴・虚喝(=こけ脅し)の青年を輩出(=続出)せしむる傾あるを悪む(=苦々しく思う)。
豈(=どうして)、粛然(=静かに)祈祷して、真正英雄の人物を写し出さざらんとするも得んや(=心に思い描こうとしてもできないのか)。ただ英雄の人物(は)吾人青年(=我々青年)の未だ全く知ること能わざるものあり。もしこの文にして諸君に遺憾(=不満足)を感ぜしむるところ有らば、これ余(=私)の思いの及ばず(=私の思考が不充分で)、筆の至らざる罪なり。 明治25年8月22日 女学生夏期号
]]>山月御教話・続編(十六) 石田秀夫先生筆録
昭和十一年五月十五日朝
会社のような組織体においては、何よりも上下各部の協力一致が大切であり、それに関する質問もよく受けるのである。社員や幹部の統一が取れなかったりすると、社長・場長は己の不徳(=不行き届き)に帰する事になるので、悩んだ末に質問に来るのである。
それは団体を纏める人に共通した悩みであるが、小手先の方策などでは到底凌げない。やはり根本は信仰問題なのである。
およそこの天地の生ずる以前から、至善なる大精神(=神意)が遍在(=遍満)していて、ある時、ついに時到って万物を造化発育させ、人間を創生育成した。その上で、(自らの創造物を)昔も、今も、そして未来永劫、見守り続けているのである。それを神の《道徳性》と言い、古人は《道》とか《真理》とか名づけて来た。教育勅語にも「古今に通じて謬らず(=過去・現在に照らして誤りがなく)、中外に施して悖らず(=国内外に実践して道理に反するところがない)」と言ってある。
この信仰が修まらぬ限り、内心の統一も、団体の統一も付かない。人を統一しようとすれば、まず自分が統一されていなくてはならない。天地一杯の神と繋がっていない限り、人の心は善と悪の間を揺れ動いて止まない。すなわち信仰・修養と教育・訓練が一つになっていなければならないのである。
上に立つ者は、誰からも見られる。下にいた時なら問題にもならなかったことが、上に立てば、嫌でも目立つようになる。ゆえにそれまで以上に身を正さねばならない。ところが人の耳目ならともかく、天地一杯の神の眼・神の耳を相手にする時、一体どう取り繕えばよいのか。それを考えれば、否応なく心が変わって来る。例えて言うなら、監視係に見張られて働いていた工員が、神の前に働くという気持に目覚めた時には、もはや監督など不要になるのと同じである。
西洋などでは古くから基督教の伝統があって、《天職》の観念が行き渡っており、職工自身が良心の監督者になっている。私どもも信仰によって人格を大きくしていかねばならない。人は草木と同じで、成長が止まればすぐ朽ち始める。いくら書物を読んでも、それによって育つことがないなら、単なる記憶の集積、活きた本箱、世に言う「本の虫」で終わる。物事をよく咀嚼(=噛み砕く)して役立てるのが修養である。
福島の片田舎の巡査の細君(=妻)が、覚えたての平仮名で聖書を読み、「旅人を懇ろに待せ」(ロマ12-13)と書いてある所を読んで感心し、夫の上役・同僚・部下に、隔てなく親切にした。すると夫の評価が上がって、どんどん出世したという。私の話を聞き慣れて、一向に実行しない幹部よりも、初めて聞いて、「なるほど」と感じて実行する職工の方が、ずっと進歩が速いことがある。
信仰・修養の心がないと、忍耐ができず、継続して進むことができない。昔の立派な人はみな、困難を克服して進んだ。それを見習って己の人格を作っていくことが大事である。
西郷隆盛の子息(=西郷菊次郎氏)が京都市長をしていた。私は会って話したことがある。西南戦争で片足を失くし、顔は(父に)似ていないが、親切な人であった。その語る所によると、西郷は沖永良部島に流された上、牢に入れられたので、精神的抑圧と運動不足とから、あんなに太ってしまったのだという。誰も見ていない牢の中で端坐・黙想して、日々考えたのであろう。内には火のような感情と、断行の勇を持ちつつ、焦らず、悲観せず、じっと堪えて、天命に従い、藩侯(=島津斉彬・久光)に従順の精神を持ち、人格を鍛錬し、天地と共に鎮まる(=取り乱さない)方面を養っていったのである。
若い時は短気であったが、利き腕を負傷したことと、親友・真木和泉らの忠告によって、物に動ぜぬ大器の人間になっていった。修養する事によって、欠点が特徴を養っていくことになる。また国家のために尽すには、学問も不可欠である。彼は歴史書を繙いて、時勢を見極める力、適材を適所に使う力などを身に着けていった。
歴史を作る人と作られる人とがある。英雄は歴史を作る。工場にもそれぞれ歴史がある。どうか諸君は修養を積んで、この本宮工場の歴史を作っていく人になって貰いたい。善い事を競うのは善いことであって、パウロはそれをオリンピックの競走に譬えた(コリント前9-24他)。
〇精神を大きくし、誠を充実させること
己の器を大きくし、品質を善くするよう努める。大器であっても品質の悪い者は《奸雄》と貶められる。器には大小あっても、品質は努力次第で幾らでも善くなり得る。
〇力を養う
修業し、実行し、力を養っていく。己の実力は他人の実力を生み、己の実行は他人の実行を生む。無線電信のように、個人が実行する事が工場全体に伝わる。この工場が実行する事が郡是全体に影響する。
どうかこのことを経験して、一人一人が大きくなっていって貰いたいと思う。
昭和〇年八月二十八日
「我らは神の中に生き、動きまた在るなり」(使徒17-28)
信仰に入ってから四十年、経験を積めば積むほど、なおもその深さを悟るものである。本日午前三時、(私は)限りなき生命というものを、以前にも勝って悟った。(真の生命は)広さにおいても、深さにおいても、時間においても、限りなきものであるという事が、よくわかった。
我々はなぜ存在し、なぜ生き、なぜ活動しているのか。それを考える時、神によって自分が在ることを知る。凡ては神によるのであって、一分一秒の間も、神と離れることなどできない。これを考える時、学院(=郡是誠修学院)の精神を(退職後も、社外において)継承する事ができる。継承して進み、神より育てられた道徳的・宗教的生命を以て新しい社会に入り、自分が入る事によって社会を清くすることが使命であることを自覚する。
これ(=当社の精神)を適用する時には、謙遜と柔和と愛と従順を以てしなければならない。行なうにも言葉よりも実行を以てしなければならない。
一方、後に残る者は、後任の人とどうして協力していくことができるか。神の生命が一緒に働いてくださることを信じ、自分自身が神によって存在していることを自覚するようにならねばならない。自分の存在が、神を根底にしていることを確認できねばならない。
「父の命ずる所の外、我これを行うこと能はず」(ヨハネ5-19か)
この言葉を徹底して考え、パウロの意識した所を正しく意識せねばならない。神の希望は斯くの如きものであるから、神のご希望に添うようにしなければならない。(退社によって)身体は離れても、精神は神によって常に一体であるから、別れも別れではなくなる。
渋沢(栄一)子爵の孫(=渋沢敬三)が第一銀行で、「銀行を善くすることは方便(=便宜上の手段)に過ぎず、むしろ銀行を利用する者が善くなっていかねばならぬ」と言った。我々も社訓の順序(=「誠を一貫して信仰・人格・勤労・貢献の完全を期す」)を間違えてはならない。
《土台》を一番に考えることが大切である。絶えず進歩する人が、絶えず周囲を引き上げていく。しかも完全を目標にしているから、如何に成績が良くても、謙遜してどこまでも進歩する。
(我々の宗教も)完全を理想としているから、どの宗教をも学んでいくのであるが、あらゆる真理は神から出ているのであるから、決して混濁させられることはない。
先人の説いた所にばかり固着していてはならない。神は我らの上にも、周りにも居給うことを信ずる信仰が大切である。
有形のものを変えようと思えば、まず無形のものを変えていかねばならない。
確固たる自信と絶対の謙遜が大切である。一つ一つ自分が学んでいかねばならない。学ぶことによって、教えることができる、教えることが学ぶことになる。まず己を修め、それによって人を善くしていく。
(逆に言えば)絶えず人格を進歩させるような信仰を、己が持っているかどうか、それが問題なのである。
教訓集第三巻より
大正十五年五月十三日 於 工務主任会
「取る」とは、学んで自分のものとする事である。
「善を学ぶ者は、人の長(所)を取って短(所)を補う」(呂氏春秋)
これは完全の人格を修めるに必要な修養である。
「朱に交われば赤くなる」(太子少伝箴)
偉人の長所・美点は努力してもなかなか身に付かないのに、短所・欠点は黴菌のように、知らぬ間に感染してしまうものである。プラトーン(=ソクラテ-スの高弟。『イデア論』を説いた)は身体が痀瘻(=猫背)であったが、世人はそこばかり真似た。
白河楽翁(=松平定信。江戸後期の幕府老中)は(寛政の)改革を断行するに当たって起請文を捧げ、「もし業(が)成らずんば、我が生命を召し給え」と祈った。そして先代・田沼意次の政策を廃して、緊縮財政を敷き、風紀を取り締って文武二道を推奨した。ゆえに遊興者・贅沢者・規律を嫌う者からは批判され、蜀山人(=大田南畝。江戸後期の連歌師・戯作者)は、「世の中に蚊ほど(=これほど)煩きものは無し、文武文武と夜も寝られず」
とからかった。そんな事で、せっかくの改革も余り効果を上げられなかった。
この蜀山人はもともと大酒飲みで、見兼ねた弟子たちが禁酒を誓わせた。ところが出入りの魚屋が初鰹を持って来るとたちまち気が緩み、ついに深夜に及ぶ深酒となってしまった。偵察に来た弟子が咎めると、「我が禁酒、破れ衣となりにけり、刺して(=注して)下され、継いで(=注いで)くだされ」と悪びれもせずに詠い、結局禁酒は一生できなかった。
私が二十四歳で東京に出て来た頃、この白河翁の事を雑誌に書いた所、その人物・政策について賛否両論が起こった。先輩はおおむね褒めてくれたが、友人はむしろ蜀山人を面白がった。ところがそんな連中の多くは、今どうなったかわからない。他人の努力を貶し、短所を真似るような生き方は、実際問題として、やはり善くないのである。
「上人は物事を直に見、中人は物事を察し見、下人は物事を曲り見る」(大江重房)
世に下人は多く、中人は少なく、上人は稀である。楽翁は上人に属し、蜀山人は下人に属す。自分自身を見る時、また人の言を聞く時、よく注意すべき言葉である。
純一は頭でわかっても、実際にできなければ意味がない。昔、楚の孫敬という人は読書が好きで、いつも戸を閉ざして本を読み耽っていた。その細君(=奥さん)は働き者で、女手一つで一家の暮らし向きを支えていた。ある日、「穀物を庭に干したまま畑へ行きますから、もし雀が来たら追い払ってください」と、竿を手渡して出て行った。間もなく俄か雨が降り出して、穀物は水に漬かって流れて行ってしまった。細君が帰って見ると、孫敬は竿を手にしたまま、何も知らずに本を読み続けていたという。
ドイツのムンゼン博士(=前出)の純一ぶりは既に話した。
私はかつて東嶺和尚(=白隠禅師の筆頭弟子)の書の中に、「仏祖の言教(は)、一々明了ならざれば措かず(=はっきりさせずには措かぬ」とあるのを読んで疑問を起こし、以来十年間研究した事もある。
他人が成果を挙げるのを見て妬んだりしてはいけない。人が成功するにはそれなりの努力や工夫があるのである。それを考えずに、自分は楽をしたまま、結果だけ良くしたいと思っても、そうはいかない。
アレキサンダー大王(=アレクサンドル3世)は世界五大英雄の筆頭である。古代マケドニアの王子に生れ付き、錚々たる名士に就いて学問を修めた。家庭教師はあの有名なアリストテレス、数学はユークリッド(=共にソクラテース門下の世界的大学者)に就いて学んだ。さすがに幾何学は難しかったと見え、「予(=私)は帝王なるぞ。もっと簡便に解ける方法はないのか」と癇癪を起した。するとユークリッドは、「幾何学は宇宙の真理であります。真理を前に帝王も乞食も違いはありませぬ」と窘めた。さすが曲学阿世(=真理を捻じ曲げて世に阿る)の学者などではなかった。
シラー(=18世紀ドイツの文豪)は、「貞操は唯一の至宝にして、皇后の尊きと雖も(=いかに尊貴な皇后陛下であろうとも)、市井の(=庶民の)婦人と(公平な)競争せずば、これを得難し」と言った。
サルバーク(=前出。『完全訓講話改訂版』二四五頁には、18世紀イタリアの名ヴァイオリニスト、ジャルディーニについて同趣旨のエピソードが語られている)が楽器を取って楽壇に立てば、必ず聴衆を恍惚たらしめた。ある人がその妙技の所以を問うと、サルバークは答えて曰く、「一曲を聴衆の前に奏するには、千五百回の練習を要します」と。
全て優れた働きの背後には、斯くの如き労苦の存する事を知らねばならぬ。このような用意と熱心とを以て事に当れば、工務の成績を上げるくらい何でもない。
「雄々しき服従は、真に頂天立地(=広天を頂いて大地に立つ)の独立男子にして、初めてその消息(=奥深い真相)を解(=理解)すべし」(ワーズワース)
現代は反抗的気風が広まっていて、反抗しない者は気弱な人間と見做され兼ねぬ風潮さえあるが、それは本我と私我を混同しているのである。己の立場も弁えずして、むやみに私我を立てるなど、決して雄々しい振る舞いではない。特に団体組織においてはそうである。
人間は決して独力では生きられぬ。早い話、もしこの地球に引力が無かったら、地上のものみな全て、遠心力によって宇宙の彼方へ飛ばされてしまう。引力のお陰で水も空気を地上に留まり、我々人間も地に足を着けて生きておられるのである。この消息を知って神に感謝し、本我を目覚めさせねばならぬ。すなわち天地の真理を知り、それに従って初めて責任ある人間となれるのである。
真に責任感ある人間は、己の不完全を自覚し、独善を慎み、我が儘勝手を押さえ、神に従い、社訓に従って、一致団結、協力一致して職務に励むのである。しかも諸君は職場の主任なのであるから、率先してこの精神を工場内に弘め、相共々に進むよう努めねばならない。それはまさに勇気ある任務であって、臆病では決してできない仕事である。
社訓の講習を受けた人は、「時は生命なり」という言葉を覚えているであろう。私も殊に近年になって、この感を強くしている。
「挙頭弾指(=ふと頭を挙げ、無意識に指を弾く間)も嘆息して、須らく(=必ず)寸陰分陰(=一分一秒)の空しく過ぐるを惜しむべし」(道元)
「光陰(を)惜しむべし。空しく雑用心する(=無駄な事に心を用いる)こと勿れ」(大灯)
「道うこと勿れ、老来(=年を取ってから)初めて道を学ばんと。古墳(=古い墓の)多くはこれ少年(=年若い人のもの)」(徒然草)
森田悟由氏(=永平寺第64世貫首)は曹洞宗第一流の大徳(=名僧)であった。一方、本願寺派の村上専精氏(=東京帝国大学インド哲学科の初代教授)は仏教史の大家で、かつて悟由氏に、「各宗の開祖はみな長寿であるのに、道元禅師のみは短命で逝かれて、甚だ悔やまれる」と言ったところ、「いや、早く死んでくれてよかった。長生きされたら、我々のわからない事を一杯遺されて、えらい事になったろう」と答えたという。
この問答からも、道元の偉さと、彼が寸暇を惜しんで著述した事がわかる。無い時間も工夫すれば生まれる。メランヒトン(=16世紀ドイツの人文学者。ルターの思想の体系化に尽力した)の例を見よ。私も歩行の時間・食事の時間・車中の時間を瞑想・祈祷に当てた。群馬県の女学校では、校長と教授と兼ねて事務繁多であったが、廊下を歩く時間・登下校の時間を修養に用いた。やってみると、結構多くの時間が得られるものである。諸君も多忙の中、よく時間を工夫して、日常不断の修養に努められたいものである。
大正15年6月4日 本社職員修養会
昨日までは、もっと別の題でお話しするつもりであったが、今日ふと思い付き、俄かに変更した。それが図らずも社長の(訓辞の)意向とも合致していたようで、不思議の感を懐いている。この話はかつて一度、横浜で講演した事がある。
私共が歴史を読んで、感動と希望と勇気を与えてくれるものは、英雄たちの人格と事業である。もし我々が英雄のような性質を持つならば、事業経営など容易い事であろうし、多数を動かす事も難しくはなくなる。私は英雄の精神特質を研究して三十年になる。今日はその詳細には渉らず、大要を五つばかり挙げて、英雄の本質に迫りたいと思う。これを本当に修めて行ったならば、人を引き上げるにも、事業経営の上にも、大いに益する所がある筈である。
(一)誠実
「英雄の第一特性は至誠なり」(カーライル)
私がここ(=郡是)に来て以来、何十回となく話す事であるが、いくら社訓を諳んじていても、実行が伴わなければ何にもならない。
支那(=中国)三国時代の諸葛孔明(=劉備玄徳の覇業を支えた智将)は、誠実を超えて至誠の人であった。あの『出師表(=出兵を上奏する文書)』を読んで泣かぬ者は人に非ずとまで言われたほどであった。
しかしそんな彼を動かしたものは、他ならぬ主君・劉備の至誠であった。劉備は崩ずる(=崩御する・死ぬ)に臨んで太子・劉禅と孔明とを召して、遺詔(=君王としての遺言)して曰く、「我が子・劉禅よ、この父は不徳にして業半ばにして逝く。朕(=君王の自称・私)亡き後は丞相孔明を父と仰ぎ、全幅これに事えるべし」。孔明に対しては、「もし太子にして佐け得べくんば(=輔佐するに足る人物ならば)、これを支えて漢の政を復興せしめよ。而してその器たらずんば、君(が)自ら国を取れ」と。孔明はその至誠に感泣し、帝の手を取って、太子を輔佐する旨を誓った。
北条早雲(=室町後期の武将、後北条氏の始祖)は戦国の世に出た人で、応仁の乱後の乱世に、己一個の才覚によって今川の客将(=お抱えの武将)となり、遂に小田原を奪って小田原北条家(=後北条氏)の基を開いた。早雲は智者・巧者たるの一方、存外誠実な所があった。その徳を慕って諸方から人が集まって来たのである。
その言に曰く、
「人は陰の勤が肝心なり」と。
今日は『能率論』などが持て囃されているが、目立つ所ばかりを努めても誠は育たない。
秀吉が信長に仕えた頃、今川には優秀な人材がたくさんいた。秀吉はそういう人を味方に引き入れようとあれこれ働き掛けた。その中に大沢次郎左衛門という武将があった。鵜沼城主であったが、秀吉の勧めで降伏し清州城に出頭した。けれども信長は信用せず切腹を申し付ける。秀吉は密かに一刀を与えてこれを逃がした(=その後は柴田勝豊・秀吉・秀次らに仕えた)。信長の短慮と秀吉の誠実とを物語る逸話である。
荒木村重は信長に仕えていたが、(或る)事を以て信長を怨み、伊丹に拠って背いた(=謀反の原因は諸説ある)。秀吉は村重を翻意させようと、単身その城に乗り込んで説得した。この時、村重の部下の者が、「秀吉は供回りを連れておりませんぬ。今これを討てば信長には痛手となりましょう」と説いたが、村重はそれを潔しとせず、そのまま秀吉を帰らせた。これも秀吉の誠実さのなせる業である。
秀吉の話が続くが、越後の雄・上杉景勝は信長と間で次第に反目を強めていた。そんな中、秀吉は景勝に会って直談判しようと、僅か三十八騎を率いて糸魚川の城に向かった。その時、景勝は落水城(=越後勝山城)に行っていて留守であった。そこで景勝の手の者が、「秀吉殿は丸腰で来ております。討つなら今ですぞ」と早馬で知らせた。景勝はこの書状を見て、秀吉の誠意に感じ、「この景勝に疎略あるまじき(=無礼の振舞などあり得ぬ事)を御存じゆえの御出なり」と言って、会談に応じたのであった。
人は誰でも誠実に対しては感動するものである。英雄は努めずしてこの心を持っている。
私の所にいろんな人が相談に来る。その多くは、人と衝突したとか、感情を害したとかいう話である。そういう問題は大志を欠き、大局を見ないから起こる。学問があると学問に凝り固まり、才智があれば才智を恃み、文章家は文筆を、弁舌家は弁舌を誇って人を低く見る。それは大志でなく小志というものである。英雄はみな天稟(=生まれつき)に大志を持っているが、我々凡俗は修養してこれを持たねばならぬ。
毛利元就が十二歳で厳島神社に詣でた時の、従者との問答はよく知られているから今は略す。信長が毛利攻めを開始し天正十年には、その元就は既に亡く、輝元(=長男)が家を継ぎ、吉川(元春)、小早川(隆景)二叔(=元就の次男と三男)がこれを輔けていた。
信長は秀吉を派遣するに当たり、「毛利討伐に成功すれば、毛利の領地を全て汝に与える」と言った。秀吉はそれを固辞して、「森(成利)殿、滝川殿、柴田殿の如き宿将(=功労ある名将)でさえ、そのような大賞は受けておられませぬ。もし中国挙がらば(=もし中国地方を平定できれば)、私めはその一歳(=一年分)の収入を頂戴致し、それを以て大艦巨船を造り、朝鮮を攻降し、支那(=中国)に入り、天竺(=インド)を降伏させてご覧に入れます」と言った。「汝、またもや大言するか」と信長は笑ったが、秀吉は後年、実際にその壮図(=壮大な企て)に取り掛かったのであった。
山崎の合戦では、中川清秀(=通称・瀬兵衛)が敵将・斎藤蔵之助を破って、頗る戦功があった。その時、秀吉が轎に乗って通りかかり、「瀬兵衛、骨折り(=ご苦労さん)」と声を掛けた。清秀は、「猿(=秀吉の愛称)め、早や天下を取った気でおるわ」と苦笑いした。秀吉の大志は既に天下を呑んでいたのである。
ナポレオンが一敗地にまみれて(=大敗を喫して)セント・ヘレナ(=南大西洋上の孤島)に流された時、ある人が、「あなたの生涯最良の時はいつでしたか。皇帝即位の時でしたか、華燭の典(=婚礼)の時でしたか」と問うと、「それは世界制覇を志した時だ。雄大の気が天地を震撼させる(=震わせる)ように思われたものだ」と答えた。
英雄には生まれついての覇気がある。我々も小人物ながら、小我を棄てて、英雄の如き大望を懐くべきである。(続く)
山月先生文集(147)
武芸
吾が祖父(=長州藩武芸指南役)の説なりとて、父上(=蘭方医)の語り給いし言に、
「武は無形なり。撃つに撃たれず、斬るに斬られぬものなり。(・・・・)勇者はその手を刀に触れずして(=刀に手を掛けずに)、よく敵を服さしむ、云々」とあり。
我は思う、かの血気粗暴の輩が他(=相手)を斬らんとて赴き、他が(=相手の)自若(=平然)として動ぜざる風采(=態度)に気を呑まれ、胆(=胆力・気力)を砕かれて、何も成すこと能わざりしというが如きは、蓋し(=恐らく)他が「撃つに撃たれず、斬るに斬られず」という《武》と一なりし(=合一している)が故に非ずや。切言すれば(=端的に言えば)、活きたる武なるが故に非ずや。今、武を習う者(が)、もし《芸(=技術)》のみに留まらば、何の効かあるべき(=何の効果があろうか)。
明治25年4月23日 女学雑誌314号
読むべきものは豈(=どうして)書物のみならんや。自らを読むべし、人を読むべし、天地を読むべし。
(二)大なれ
吾人(=我々)の憂うる所は小なるにあり。目を挙げて天地の広大なるを観んかな(=見ようではないか)。吾人(は)この天地を造れる神を信じ、これを愛し、これを信じ、これと一にならんことを欲する者。即ち天地の如き広大なる心を持たざるべからず。
(三)完きを望め
自ら公平なりと信じ、正義なりと任ずる者は愛に乏しく、愛を説き、人情を唱うる者は、毅然(=確乎たるさま)・粛然(=厳かなさま)の精神に乏し。今日の信者は偏僻(=偏り拗ける)の者多し。ああこれ未だ深く基督を愛せざるの故に非ずや。
基督は完全なり。剛く、優しく、大きく、小さく、悠然たり、靄然(=穏やかなさま)たり、毅然たり、粛然たり。真と善と美とはその一身にあり。果たしてよくこれを愛せば、吾人(は)豈(=どうして)化せられざるの理あらんや(=どうして感化されない理由などあろうか)。人々よ、岐路に彷徨する(=分かれ道に迷う)こと勿れ、請う、基督を観よ、完きを望め。
明治24年12月26日 女学生第19号/明治25年4月30日 女学雑誌315号
○書法大意(小野鵞境堂氏著)
博文館にて発見するところ、真にその《大意》の名に負かず。もし一本(=この一冊)を机上に備えば、裨補(=助け補う)するところ鮮少ならざるべし(=少なくないであろう)。
○万世之師(金鴎館蔵版)
これ和漢洋の格言を集むるもの。上欄には熟語の詳解あり。既に四集まで発兌(=発行)せり。木版なれば誤字の憂い(=惧れ)も無かるべし。至極重宝の書なり。
明治25年4月30日 女学雑誌315号
〇国語漢文講義録(吉川半七発行)
中等教育を目的として発行するもの。講義明晰にして遺憾なし(=申し分がない)。且つ質疑応答、懸賞文などあるは、この誌の特色なるべし。
〇城南評論
これ文学の雑誌、屹然として(=すっくと立って屈しないさま)一旗色(=独自の主張)を樹つ。載するところの文、面白きもの多し。
○後進
青年の手に由りて成る。活気鬱勃(=活気盛んなさま)たり。吾人(=我々)は『後進』が義侠の心を発揮すると共に、寛弘偉大の精神を修養せんことを望むものなり。
〇東京批評
政界益々繁忙ならんとする際、『東京批評』は出でたり。国政経緯に通ずるを以って任ずる(=自任する)もの、吾人は発刊の辞を読みて、よくその実を尽さんことを祈る。
〇おだやか
横浜より発行す。基督教青年の手に成る。自任(=自信)の気、紙上に躍々たり。前途有望の雑誌よ、自重なる(=自尊する)べし、謙遜なるべし。
〇呼声
長崎より発行。基督教の雑誌なり。願わくは同地方の光たれ。
〇ぱらだいす
雲州(=出雲地方)松江より出づ。基督教主義の雑誌なり。
〇朝鮮新報
朝鮮の事は、本邦人にして注意せざる者多し。吾人(は)、豈(=どうして)この新紙を紹介せざるを得んや。 明治25年5月7日 女学雑誌316号
(随感『一村雨』[ひさご筆]の文後に)
山月子曰く、「我この文を読みて、憮然として(=やり切れぬ思いで)涙下る。ああ日本の女子(は)、多くは弱く小さし。未だ真正の偉人を観るの眼識を有せず。而して日本の男子(は)、多くは霊眼なく、純義なし。未だ赤心(=偽りのない心)より淑女を重んずるの精神あらず、これを如何にすべき。
我は確信す、男女の愛をして基督の直接なる洗礼を受けしめずんば(=受洗させなければ)、決してこの状況を救うこと能わずと。
世に軽佻浮薄の男児有り、而して義人(が)これと同じく視られんとす(=同一視されそうになる)。世に不義不節の女子あり、而して淑女(が)これと等しく遇せられんとす。遺恨何ものかこれに如かん(=その遺憾なること何物にも較べ難い)。吾人は天を仰いで、基督の愛の泉が、日本社会を隈なく潤さんことを熱祷する者なり」。
明治25年5月7日 女学雑誌316号
五月十四日(土曜日)、迎春客(=巌本氏の筆名の1つ)巌本善治氏の慰労会を開きぬ。明治女学校の教員生徒諸氏、孤女学院(=現・滝之川学園の前身。濃尾地震の孤児救済の為に創設された)の大須賀(石井)亮一氏、並びに我が社員等、合して百余名、軽舟四艘に乗じて、牛込より流れ(=外堀と神田川)に随いて隅田川に出で、遡りて向島に着し、松寿園(=鳥料理の料亭。広い庭園があった)に入りたり。
清風(は)翠(=緑樹)を吹きて、麗日(は)躰に快く、談話遊歩(しつつ)また他事を忘れぬ。
日(は)傾き、会(は)散じて、軽舟(は)再び隅田に浮かぶ。時恰も高等商船学校(=現・東京海洋大学)生徒の端艇(=ボート)競漕を観る。喝采の声、水に響きて快し。これ当日(の)期せざるの楽なりき。
巻層雲(は)穏やかに落日を呑み去り、水波は静かにして、舟は既に御茶ノ水の辺にあり。心は澄み、談は熟して愉然快然(=心楽しく愉快なさま)の中、自ずから端然粛然(=落ち着いて心静かなさま)たり。這般の心事(=このような心理状態)を知る者、独り在天の父のみ。
舟は岸に着して、各々家に帰りたり。 明治25年5月21日 女学雑誌318号
〇問 事を成さんと欲するも(その事の長短[=善悪]を問わず)、中途にして気力を失い、加えて何物を見、何物を聞くも愉快を感ぜず。世事、さらに望み無きの感を惹起する事(=引き起こすこと)しばしばあり候。これ如何なる理由にや。この悪魔を退治するの術を併せて御教示くだされたく候。
〇答 物事を成す時、中途にて気力を失うということは、身体の関係もあり。然らずしてただ心の関係のみにてあらば、その事業に対する心の誤れる故なり。否、むしろ人生に対する考えの誤れる故なり。さればこそ、望み無き感をも起こし給うなれ。
人生・人間、これ実に大問題なり。この問題に答えて、吾人(=我々)の霊性を満足せしむるものは基督なり。もし基督を確信することを得ば、望みを得べし、愛を得るべし。基督は言えり、「懼るる勿れ、我すでに世に勝てり」(ヨハネ16-33明治訳)と。
事を厭う者、世を厭う者は、世に負くる者なり。君(が)、未だ基督を信ぜずば、請う、教会に行きて説教を聞き、かつ牧師を訪ねて質問されよ。また既に入門されしおらば、更に確信せらるべし。誠心の熱涙の祈りを以って基督に求め給うべし。
基督は曰く、「求めよ然らば受けん。(・・・・)しかして爾曹の喜び満つべし」(ヨハネ15-7~11明治訳)と。君が世を厭い給うことは幸せなり。そは(=それは)真正の楽に入る門なればなり。君が悲しみに沈み給うことは幸せなり。そは基督の同情を求め得べければなり。ただこの際、最も虚心にして道を求め給うことを要す。
明治25年5月21日 女学雑誌318号
]]>山月御教話・続編(十五)
石田秀夫先生筆録
神人合一の境地(続き)
昭和十年六月九日 於 東京教会
「吾、十有五にして学に志し、三十にして立つ」(論語・為政)
この《学》は、今の人が学校で学ぶくらいの意味ではない。天道・人道を学び知ることである。それでも《而立》(=三十而立)まで十五年かかっている。すなわち十五年の修業を積んで道を修め、その道の上に立つことができるようになった。あれだけの人が十五年間、専心修業していったのである。
ルーテルはウォルムスの会議で、自らの信仰を糺された時、「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできぬ。神よ、助けたまえ」と述べたとされる。これには当時の帝王も宗教家も、何も言うことができなかった。
孔子はさらに十年修行して《不惑》(=「四十而不惑」)となった。
偉い人ほど誘惑が強くなる。「高木は風に折らる」(古諺)である。スポルジョン(=19世紀英国のバプテスト派伝道師)は、「先生ほど偉くなれば、もはや悪魔の誘惑など無くなるのでしょうね」と問われたのに対して、「いやいや、私の所には悪魔の親分が来ますよ」と答えたという。私なども、若い時は早く悟りの境地に出たいと思ったが、こちらの心構えが未だできていないうちに、早々悟ったりすると、その後が危ない。早く進まないことが反って好かったのかも知れない。
孔子は《不惑》に達して、さらに十年修業して《知天命》(=「五十而知天命」)に至った。「汝が学び来ったところを以て、これより立って天下万民を救え」という天の命を聞いたのである。それでようやく、五十歳にして政治に携わった。因みに釈迦が衆生済度の自覚を得たのは三十五歳、基督は三十歳である。しかし孔子の善政も僅か五年しか続かず、後は不遇のままに終わった。
今の人は、「忙しくて教えを聞く暇がない、修行する時間が取れない」などと言う。伝記など見れば孔子の日常など実に多忙である。それで修業を中止したかと言えば、止めてなどいない。東奔西走、席の温まる暇もない中に修業を続け、ついに六十の時、《耳順》(=「六十而耳順」)に達した。人から何を言われても、そのまま受け取れる心境である。相手の精神状態が手に取るように見えるから、気の毒に思いこそすれ、腹の立てようもないのである。
パウロは、「靈に屬する者は、すべての事をわきまふ(=理解する)、而して己は人に辧へらるる事なし」(コリント前2-15)と言った。私の場合も、述べ十数万の人を教えて来たが、私の全てを《弁えている》人など、五人あるかないかである。けれども霊の上の事は、そう簡単にわかるはずもないと思うから、腹が立つこともない。
孔子は老境に入っても修業を止めなかった。普通なら隠居してもよい年頃に、なおも諸国を周流し、六十九歳の時、ようやく故郷に戻り、七十歳では、思う事・言う事・行なう事が、全て道に外れなくなった(=「不踰矩」)。心が天と一つになったのである。私は、神を知る事にかけては孔子以上であるが、実際の行ないは未だ孔子に及ばないと思っている。
パウロは孔子と同じように学んだ。
「唯この一事を務む」(ピリピ3-13)
《一事》と言っても広大・無辺の一事である。長さは過去・現在・未来にわたり、広さは宇宙一杯に亘っているのである。およそ宗教の祖師・開祖と言われるほどの人は、みなこの《一事》を悟得している。澄み切った綺麗な心で、後のものを忘れ、恩を施した事も、傷つけられた事も忘れて、「神のキリスト・イエスに由りて上に召したまふ召にかかはる褒美(=神がキリストを通して天上へ導いて下さるという褒美)を得んとて之を追求む」(同-14)。
生きた神の力が自分の中に入って、上に引き上げてくださる。そうなれば、去年と今年、今月と来月とでは、自分が違って来る。
基督は神を父子の関係によって示された。旧約の神は天上に君臨する神、妬む神・怒る神であって、人間が直接その姿を眼にしようものなら、即刻死ぬかも知れない畏敬すべき神であった。それを基督は慈愛ある父親としてお示しくださった。父であるから、これを愛し親しみ、懐き甘えてよいのである。しかしそうかと言って、いつまでも親離れしないのは不自然である。「這えば立て、立てば歩めの親心」である。齢相応に育っていかねば、親は心を痛める。年々、着実に成長して、親の代りが勤められるようになることこそ、恩返しというものである。基督はご自分の名代となるべき十二人を選んでおられる。パウロも「標準(=目標)を指して」進んだ。この《標準》はすなわち《完全》のことである。完全の八方面に連なって、生きた関係を持つことである。
私もそうなりたいと思い、決死の覚悟で宮城野の原で端坐・瞑想した。その結果、「面帕なくして鏡に映る如く、主の榮光を見る」(コリント後3-18)の経験に入ったのである。仏教・儒教の人ならそこで止まってしまうのであろうが、こちらは完全を《標準》に掲げているから、一度の見神体験などほんの入口で、さらにどこまでも進む。それが「栄光から栄光に進む」ことである。
信と修は一体である。《小我》を取り去れば、神の霊が上から降って、邪魔なものを取り除いてくださる。基督の人格に同化されて小基督になるのである。パウロはそれを「産の苦痛をなす」(ガラテヤ4-19)と言った。
宗教と教育は一体である。まず自分がその経験をしない限り、人を導く事などできない。そうするには、悔改・信頼・信仰・実行・勤労の間に、いかなる苦しみがあろうとも、光を見つめて希望を失わない。「爲ん方つくれども希望を失はず」(コリント後4-8)、希望は信仰箇条(=お題目)ではない。
それから愛慕である。親を慕うようにしてついて行く。「愛するは似るの初めなり」(出典不詳)、俗には「似たもの夫婦」などと言う。十九世紀後半、英国の大宰相・ディズレリー(=保守党党首。2期6年間、首相を勤めた)は、「英雄たらんと欲するは、英雄たるべき階梯(=はしご)なり」と言った。その言葉どおり、ユダヤ出身という不利を乗り越えて首相となったのである。
ディズレリーや王陽明(=明代の大儒者。聖人たらんと立志して励んだ)より以上の完全の理想を懐けば、絶えず進んで、心が広く大きくなり、磐石の如き堅固な心境に入ると共に、心が柔和・謙遜になって、優美と剛直が一つに修まる。それを小学校程度の低い所に安んじて、停滞してしまってはならない。初等教育でも宗教でも、初めは易しい所から始めて、だんだんに育てていく。それが天地の親たる神の御心である。それがわかると、神が天地を美しく、聖くなさっていく過程がわかる。
人生は斯くの如きもので、個人・家庭・学校・企業・国家が天国になり、国と国が天国になるのが神の御心である。そうなるには一人一人が学修、進歩、向上、合一し、それによって、神がこの世を進化・聖化なさる働きと合流していくのである。この大精神をよくわかって、完全の信仰も日々着々進んでいくようになりたいものである。
郡是本宮工場ご教話
昭和十一年某月某日
かつて当工場(=在・福島県本宮市)が未完成の時に訪れ、(繭の)乾燥場を借りて講話したことがある。それで竣工の暁には、ぜひ再訪してお話をしたいと思い、工場長もそれを望んでおられたのであるが、諸般の事情で実現できず、今回、仙台の東北学院(=押川方義師創設の神学校)の創立五十周年記念式があり、それに出席するため、三月一日に家を発ち、京都・大阪・綾部・沼津・甲州・東京・仙台と回って、ようやくここへ来たのである。
郡是では諸君の健康・衛生に配慮して、いろいろ工夫しているので、まずそれについて考えてみたい。
(第一)健康・衛生
健康に留意しないのは、当人の不幸であるばかりか、広くは国家の損失でもある。明治維新の頃、皆がその死を惜しんだ人に山岡静山がある。天下無双の槍の遣い手で、精神が立派で、人柄は誠実、血のにじむような修業を重ねて、二十代にして既に日本一の名人になっていた。
然るに当時は健康知識が乏しく、主食は白米が上等と信じられていた。(当社の衛生顧問の)二木謙三博士(=日本伝染病学会初代会長。文化勲章受章者)は早くから玄米食を提唱されておられ、岩波(茂雄)氏(=岩波書店創業者)は二木氏の説を聞いて、従業員に玄米を食べさせて、(反発を買い)ストライキを招いたことがある。静山も白米を食べ続けて脚気を発症していた。
折しも、静山の師匠が反対派に疎まれて、隅田川における遠泳に誘い出されてしまった。静山はそこに奸計(=悪だくみ)あることを悟って、病身を押して身代わりに川に入り、たちまち心臓発作を起して死んでしまったのである。二十七歳の若さであった。
彼に妹が一人あり、山岡家を継がねばならぬこととなり、小野鉄太郎を婿に迎えた。これが後の山岡鉄舟で、西郷隆盛が明治天皇の教育係に抜擢した人である。この人は剣の名手であったが、大酒呑みでもあった。およそ豪傑というものは、「斗酒なお辞せず(=一斗[18㍑]の酒をも拒まぬ)」という風潮があって、斯く言う私なども、信仰のない時分には、とても信じて貰えないような暴飲をしたものである。
この鉄舟が水戸の酒豪と飲み較べをした時は、相手は五升で倒れたが、さらに二升呑んで、平然と帰って行ったという。食べる方も健啖(=大食)で、安倍川餅を百八個食べたとか、ゆで卵を九十七個食べたとかいう話が残っている。とうとう三十四、五歳の頃、胃に腫れ物ができ、胃癌と診断された。さすが精神が鍛えられているので、取り乱すこともなく、平然として生き続け、五十三歳で死んだ。生きていればまだまだ役立った人を、健康に留意しなかったばかりに、早々に失ったのである。
先ほど申した東北学院を建てたのが押川方義先生で、明治・大正・昭和を通じての大人物であった。日本中から先生を慕って英才が集まっていた。先生はお仕事の為にはご自分を顧みることがなく、「今のままではお倒れになります」という忠告を無視して働かれ、田中義一(=対中国強硬派の首相)と満州を買い取る算段をなさっておられる最中、昭和三年一月十日に亡くなられた。
そうであるから諸君も、精神の健康だけでなく、身体の健康にもよく気をつけて、せっかく与えられた命を大切にして、長く社会のために働いて貰いたい。そのためには、工場長・衛生係の言う事をよく聞いて、丈夫な心身を鍛えねばならない。
(第二)喜んで忠告を聞く
《忠告》の逆で、人の機嫌を取るだけの言葉を《諛言》という。精神上の修養を考えない人は、自分の気に入らぬ言葉は、たとえ善意から出ていても聞かないし、気に入る言葉なら、悪い事でも喜ぶものである。昔の偉い人は、自分に媚び諂うような者は退けた。毛利元就は、家来が媚びて、「殿は尭・舜(=共に古代中国の伝説的聖天子)にも勝る名君であります」と言うのを聞いて、「自分は未だ尭舜に遠く及ばぬ。彼らはこんな諂臣を持たなかった」と嘆いた。
英国王の家来が、「陛下のご威光は限りなく、今やお言葉どおりにならぬ事など御座いませぬ」と持ち上げた。王は黙ってその臣下を海岸に連れて行き、打ち寄せる荒波に向かって「波よ、鎮まれ」と命じて見せた。当然、波は収まらない。「朕(=君侯の自称)の意向など少しも通ぜぬわ」と言うと、大臣は本心を見抜かれて恥じ入った。
自分の《実際》が大事であって、信仰・修養を積んだ人なら、過分に褒められることを恥じ、至らぬ点を指摘されて喜ぶ。凡人は逆で、例えば顔にちょっと汚れが付いているのを教えられれば感謝するが、もっと重大な、心の汚れを諭されようものなら、たいてい逆恨みする。
山岡鉄舟は、ある事件に関して過激な意見書を認めた。お付きの者がそれを戒めて、「書いた物は後世まで残りますから、充分配慮してお書きになるべきです」と言った。鉄舟は「よくぞ言ってくれた。人がいろいろ言うので、つい感情に走ってしまった」と猛省し、改めて書き直したという。
蓮如上人(=浄土真宗中興の祖。石山本願寺開山)は、自分の言行を陰で悪口する者があると聞き、「人から言われぬと気付かないことがある。面と向かっては言い難かろうから、陰でなりとも言って貰えるなら有難い」と喜んだという。後世に名の残るような人格は、こうして成ったのである。
私は二十七歳で押川先生に就いたのであるが、学校の教育方針について、先生と考えの違う所があったので、敢えて意見を申し上げたところ、先生は黙ってお聞きになり、「そこまで学校の事を考えてくれて、有難いと思う」とおっしゃってくださった。
人の忠告を素直に聞くことは、自分の進歩に大変役立つことであるから、忠告してくれる人に出会ったら、大いに感謝して耳を傾けるよう心掛けたい。
(第三)正しい行ないをなす
中国三国時代に徐庶という人(=軍略の士)がいた。初め劉表(=荊州の長官。名門出の美丈夫であったが、優柔不断で天下を逃した)に仕えたが、間もなく辞して去った。先輩格の司馬徽(=人物評をよくした隠士。別名・水鏡先生)から、「どうして劉表を見限ったのか」と問われ、「劉表は善の善たるを知って之を行なわず、悪の悪たるを知って之を行なわざる能わず。およそ仕うるに足らず」と切って捨てた。
一つの敢行が一つの勇気を生む。戦争でも一度勝つと勢いがつく。私の友人で克己心の強い人がいた。最初はむしろ意志の弱い人間であったが、ある時、食事の事で悩み、三日三晩かかって初志を貫徹してみせた。それから次第に意志堅固になっていったという。
人格の涵養(=養い育てる事)が大切なのである。私は東京で大学生の教育をしているのであるが(=「学生修道院」を主宰)、就職の時には会社の重役が出て来て人物審査をする。息子の嫁を採るにも人物を見る。私の所では、誰が見ても尊敬できるような人間を育てる教育をしている。単に会社や工場に役立つ若者ではなく、人間として一生涯有意義に、自他ともに幸福に暮らせるような人物を育てたいと思っている。
(第四)礼儀作法
[この項、筆録なし]
(第五)信仰
眼には見えぬが、神という存在がこの天地一杯に在して、その御心は誠そのものである。天地は神の定めた法則のとおりに動いている。我が社の社訓はこの神の誠から来ているのであるから、自然そのものである。
泥棒でも人目のある所では盗みをしない。神を信ずる信仰があれば、表裏も陰日向もなくなり、むしろ人目のない所ほど行ないを慎むようになる。それが「誠を一貫する」ということである。社訓の最初に《信仰》を置いたのはそのためである。
私自身、そのとおりにしている。一言を発するにも、一事を行なうにも、天において神が悦び、地において人が喜ぶようにと心掛けている。
神の至誠は人にも感応する。今、こうして誠の話をしているこの堂内にも誠は満ちて、諸君の上に働いている。学問の有無、男女・長幼の別なく感応し、諸君にも、明治天皇にも、楠木正成にも、大西郷にも感応している。
この感応を受けると、いま話した(第一から第四までの)ことは自然にできる。そうなれば、たとえじっとしていても人の精神を高く、広く、潔くしていくことができる。諸君も皆そうなれるのである
教訓集第三巻より
純一の勤労・純一の修養
大正十五年五月二日 於・本社職員修養会
聖書朗読 マタイ伝第二十二章三十四節から四十節(略)
ただいま朗読した中の、「心を盡し、精神を盡し、意を盡し」とあるのが、純一・誠の精神である。社訓を制定して以来、誠という事については、たびたびお話して来たから、諸君はよくわかっているはずである。而してなかなかその効果が上がらなかったのであるが、漸く最近、各工場において少しずつ良くなって来たようで、先刻も専務から岡山の工場について報告を受けて、喜んでいる所である。
誠についての説明はもう済んでいるので、今日はこれに関する実際の例話を挙げて考えてみたい。
(第一)純一の勤労
学問研究に純一であったのはメランヒトン(=16世紀ドイツの人文学者。ルターの思想の体系化に尽力した)である。彼は多忙の中、執務の時間割を作り、毎日十四時間ずつ働いた。それでも来客などがあるので、予定通りには進まない。その遅れは必ずどこかで取り戻すようにし、決して等閑にはしなかった。私も修業の方では寸暇を惜しんで励んだ。道を歩く間も瞑想などして、人が空費する時間を有効利用した。メランヒトンもそうだったのである。
ミル(=19世紀英国の哲学者)は英国の東インド会社の雇員であった。イギリス人は勤務には厳しい。彼は貿易会社の激務の中で、あれだけの学問を積んだのである。しかも彼の学説は全て彼自身が考え出したものである。今の人は読書して本に呑まれてしまい、自ら考える事をしない。よって、「君自身の考えは如何に」と問われれば、沈黙するしかない。
ミルは道を歩く間も思索に耽っていたので、よく郵便箱(=郵便ポスト)や街灯の柱にぶつかった。ある時など荷馬車に突き当たって、相手が馬だとも気づかず、帽子を取って丁寧に詫びて笑われた。次には淑女と衝突し、また馬か思って、「こん畜生」と怒鳴ってしまい、大いに顰蹙を買ったと言う。
ムンゼン(=テオドール・モムゼンか?)はドイツの法学者で、文学の素養もあって、あのゲーテの詩などは大方、暗記していたという。当時は照明と言えばランプか蝋燭であった。その火に顔を近づけては細かい字を読んでいたので、彼の前頭部の髪は熱でいつも縮れていたそうである。
またその書斎は乱雑を極め、足の踏み場もないほどであった。ある日など、妻の留守中に託された己が幼児が、知らぬ間にどこかへ這って行ってしまわないよう、反古と一緒に紙屑籠に入れていたという。真理一筋に生きる学者というものは、子供のように純一なのである。
米国のルーズヴェルト(=第26代大統領セオドア・ルーズヴェルト)は金子堅太郎氏(=明治期の政治家。大日本帝国憲法の起草に参画。皇室典範などの諸法典を整備した)とは学友であった。その他にも多くの邦人の知り合いがあったが、それらの人達は、何ゆえルーズヴェルトの如く頭角を現す事なく終わってしまったのか。勤勉が足りなかったのである。
世界に威を誇るドイツのカイザー(=ドイツ皇帝の称号。特にウィルヘルム2世を指す)でさえ、このルーズヴェルトには一目置いていた。それくらい誠意の念の篤い人だったのである。その芽生えは少年期に遡る。ある日、知人の家を訪ねて、リンカーンの伝記を見付けるや、一心不乱に読み耽って時を忘れ、読み終えた時には、自分が今どこにいるのかも忘れていたという。この熱誠を以て職務に当り、一生聖書を手放さなかったので、近代稀に見る傑出した大統領となったのである。
ニュートン(=17世紀英国の物理学者。万有引力の発見他)の有名な逸話としては、懐中時計を鶏卵と間違えて茹でてしまった話が有名であるが、いま一つ、幻の昼食の話がある。
ある日、友人が訪ねて行くと、召使が出て来て、「主人はただ今、研究に没頭しておりまして、何を申しても耳に入りません。お昼には食堂に下りて来ると思いますので、どうかそちらでお待ちください」と言われた。しかし待てど暮らせど、一向に出て来ない。眼の前にはすでに昼食が用意されており、いかにも食欲をそそるので、友人はつい摘まみ食いを始めて、とうとうあらかた食べてしまった。
それでも出て来ないので、諦めて帰ってしまった。ようやくその頃になって、ニュートンも空腹を覚えて食堂に姿を見せた。ところが食卓を見ると、食事はすでに終わった形跡である。「ほほう、自分はいつの間にか食事を済ませて、無意識に部屋へ戻ったらしい」と、独り納得して、そのまま引き上げたという。文字通り寝食を忘れていたのである。
(第二)純一の修養
エドモンド・キーン(=19世紀初頭、一世を風靡したシェークスピア俳優)は英国切っての名優で、さしずめ日本の(市川)団十郎の如き名声を誇っていた。特に悪人に扮しての演技に入神の妙を見せた。役者を天職と考え、一心に役作りに励んだのである。あのバイロン卿(=19世紀、英国ロマン派の詩人)でさえ、その迫真の演技に打たれて気絶した事があるという。
サルバーク(=19世紀イタリアのバリトン歌手サルバトーレ・マルケージか?)は声楽の妙手で、ある人がその神技の所以を問うと、「聴衆の前で歌うには、最低五百回の練習を繰り返します」と答えたという。
山東京伝は曲亭馬琴(=共に江戸後期の戯作者)の先輩格であるが、毎回、創作する前には非常に苦悶して考えた。良い案が浮かべば夜中でも飛び起きて執筆した。また書き掛けの一節を大声で口ずさみながら、家の周りを歩き廻って、近所から苦情が出た事もある。尾籠な(=不浄な)話であるが、厠に立つ(=便所へ行く)間も惜しんで、部屋に御虎子(=簡易便器)を置いていたとも言う。
宗祇(=室町末期の連歌師)は連歌俳諧において名高い人である。ある時、旅先で日が暮れ、泊まる宿も見当たらぬので、村外れの無住の荒れ寺に入り込んだ。真夜中頃、何やら話し声がするので、そっと襖の隙間から覗いて見ると、僧形の者が額を集めて話し込んでいる。思わず耳を欹てると、
「・・・・今宵の月は空にこそあり」
と繰り返しては嘆息しているようである。「必定(=きっと)これは、当寺の先代が詠んだ句の前句付けができず、代々の住職が呻吟し続けて、夜な夜な亡霊となって出て来ているに違いない。気の毒な事よ」と宗祇は思い、
「宿るべき水も氷に閉じられて、今宵の月は空にこそあり」(=人々の心は氷で閉ざされて、真如の月も空しく宙に漂う)と付けてやった[=編註:当時は水に写る月を愛でるのが月見であった]。すると亡霊たちは大いに喜んで、雲散霧消して二度と出て来なかったという。
もう一例は、北山の大徳寺の門を建てた無名の棟梁(=大工頭)の話である。その門は、寺から求められた寸法どうりに造ったのでは、どうしても間尺に合わず、高さが一尺ばかり低いのである。悶々と悩んだが勝手な変更は認められず、言いつけどおりに落成させた。世人はみな褒め称えたが、自身はどうにも満足が行かぬ。ある日、大工と思しき二人の男が通りかかって、「これはどう見ても、間口に比べて丈が詰まっている感じがする。他は良くできているのに、惜しい事だ」と言うのを耳にして、「やはりそうか」と落胆し、以来食欲も失せて、とうとう病にかかって死んでしまったのである。
世間はこれを、「気の小さい男だ」と無下に(=非情に)評するかも知れぬが、昔の職人は斯くまで己の仕事に誇りを持っていたのである。今時の大工とは雲泥の差である。先般、愛知県の教育者の会で聞いた事であるが、某校の新築工事に非常な手抜きがなされて、早くも二階が落ちそうになっていると言う。見えない所はどうでもよいという、実に嘆かわしい風潮である。
柳生但馬(宗矩)(=江戸初期、柳生新陰流の達人)は長い修練の結果、背後から斬り掛かられても、その殺気を感じて躱せる境地に達した。そんな話は芝居や講談の絵空事と思うかも知れないが、真剣に修行を積んで行けば事実そうなるものである。
それは既に《道》に立っているのであって、道の修まった者には人の精神状態が手に取るようにわかる。但馬はある時、一小竪(=お供の童子)に刀を持たせて花見に出掛けた。のんびり花を見上げている主人の後姿を見て、小竪はふと思った、「今、後ろから斬り付けたら、斬れぬ事はあるまい」と。すると但馬は急に背後を振り返り、小首を傾げるや、そのまま来た道を取って返し、帰宅するや、縁側に端坐して沈思に耽り始めた。
家来が訝って、「どうなされましたか」と問うと、「儂はこれまで自分に害意を持つ者があれば、必ず察知することができた。ところが今日、花見をしている最中、微かな害心を感じて振り返って見たが、誰もおらぬ。不思議な事があるものだ」と答えた。
このやり取りを傍らで聞いていた小竪が、「お許しください。ほんの一瞬、私が左様な不埒な(=不届きな)事を考えました」と手をついて謝った。但馬は「おお、そうか。それでわかった」と、喜んだという。
「至誠(が)神に通ず」、そうなるには、社訓の精神を体得して完全に修めて行けばよいのである。純一になれば、何事も成らぬものはない。どうか諸君全員が社訓の精神を実現される事を望むものである。
日常不断の修養
大正15年5月13日 於・工務主任会
『日常不断の修養』と申せば、工務の人などは疑問を持つであろう。「我々は日常不断に働いているのに、どうして日常不断の修養などできるのか」と。
事実は逆で、日常不断の仕事をしているからこそ、日常不断の修養をしなければならないのである。工務は当工場の中で至要なる働きをしている。しかし仕事にばかり捉われてしまうと、糸の事しか見えなくなる。研究改善するにも、他の人格を無視して、工女を機械の一部のように見てしまう。それではいけない。
仕事は自分という人間がするのである。ではその自分自身がどうなっているのか。工務主任としての人格・識見・力量は如何に、原料科との関係は如何に、衛生科との連絡は如何に。仕事は全て自分の力量・識見・学問・人格が根本になる。
宋の司馬温公(=司馬光。北宋の政治家・学者)は人格・識見・手腕・力量ともに備わった賢人で、西郷南洲(隆盛)も深く景仰(=慕い仰ぐ事。「高山は仰がん、景行は行かん」に由来)して、「司馬温公は『閨中(=夫婦の寝室)にて語りし言も、人に対して言うべからざる事なし』と申されたり」(南洲遺訓)と、自らの心得書きに書き留めているほどで、私学校(=西郷が故郷鹿児島に立てた私塾)の生徒たちにもよく教えたという。その温公の、もう一つの名言に、
「金を積んで以て子孫に遺す、子孫必ずしもこれを守らず。書を積んで以て子孫に遺す、子孫必ずしもこれを読まず。如かず(=及ばない)、陰徳を冥々の中に積んで(=人知れず善徳を積んで)、以て子孫(の)長久の計(=末長く栄えるための備え)を為さんには」(家訓)
とある。また、
「君子は才を挟みて(=頼りにして)以て善を為し、小人は才を挟みて以て悪を為す」(資治通鑑)
とも言っている。
善悪のみならず、大小に関しても同じ事で、「君子は才を挟みて以て大を為し、小人は才を挟みて以て小を為す」という事でもある。工務の諸君は学校(=高校・大学)出の人も多いが、職務遂行の出来・不出来は、(学歴・才智よりも)人格修行ができているか否かによる方が大きい。まず自分を修め、部下を感化し、それによって良い仕事ができるようになるのである。
二宮尊徳(=江戸末期の農業改革者。徹底した実践主義で殖産を説いた)は、荒蕪地(=荒れ果てた土地)を開墾して財政を立て直す事に尽力したのであるが、「国家最大の損失は、人の心の田圃の荒廃、次いで山林の荒廃である」と戒めている。すなわち田畑の荒廃の原因は、人心の荒廃であるとして、人みな誠の心を養うべき事を説いた。今日の労働争議も心の荒蕪から来ている。労働能率の上がらないのもそうである。
悪い方の例を史上に探せば、唐の姦臣・仇士良(=有力宦官)がいる。彼は一代の権力を弄した(=もて遊んだ)者であるが、死に臨んで遺言して曰く、「人君には暇なきようにせよ、常に奢らせ、酒に耽らせ、色に溺れさせよ」、「人君には書物を読ませるべからず、徳ある者を近づけるべからず。世の興廃盛衰の真の謂われ(=原因・理由)を教えてはならぬ」と。悪人ながら政治理論は明晰である。
以上は序論であって、ここから本論に入る。
誠実とは、偽りなき、混じり気なき、清い心で以て神を信ずる事である。信仰の土台が誠でないと信仰が不純になり、また土台が小さいと途中で止まってしまう。神に病がない如く健全に、神の愛の如く純粋に、神の如く完全に修めて行くのである。
信仰のない人は、識見も智慧も小さい。ソクラテースは、
「人は知ること多ければ(=多くを知れば)、知らざることも益々多し」
と言った。我々は引力のお陰でこうして地球上に住んでいるが、太陽系には地球以外にも、木星・火星・金星・天王政・海王星などたくさんある。斯かる太陽系の外には、なお大いなる宇宙が無数に存在する。然れば人智など真に小さいものである。ゆえにあの大西郷の言った如く、「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽して人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ(=追求する)べし」(遺訓)、気宇(=心の大きさ)を大にして、誠実と信仰を間断なく修めて行く事、これが根底である。
ここに言う《自己》とは《本我(=私我に囚われぬ本来の自分)》の事である。世人は本我の尊い事を知らず、小さな私我に執着する。私我は名利・煩悩・罪禍の根源である。
孔子が、
「古の学者は己の為(=自分の知徳を磨くため)に(学問を)し、今の学者は人の為(=世の名利・権勢を得るため)にす」(論語・憲問)
と言ったのはこの意味である。
諸君ら主任たる者が部下の機嫌を取り、迷信の者には迷信を、欲得の者には利欲をちらつかせて釣るなどしては、およそ他者を敬愛するの道とは言えない。真に人を愛するなら、その人の非を非とし、悪を悪とし、親切に教え導いて正道に戻してやらねばならぬ。それでこそ基督の言われた、
「人に爲られんと欲ふ事は、汝もまた人にその如く爲よ」(マタイ7-12明治訳)
との教えに適い、また孔子の言った、
「己の欲せざる所、之を人に施すこと勿れ」(論語・顔淵/衛霊公)
との教訓を実践する事になる。
ここから、団体生活についての実際問題を考えてみたい。団体生活には団体道徳というものがある。それは西洋では発達しているが、わが国ではまだ唱えられ始めたばかりで、至極(=至って)幼稚な段階である。ゆえに自分の仕事のみ重んじて、他人の仕事は軽く見るなど、非常に独り善がりで未熟な所がある。その考え方は部・課にも及び、研究科・教育科・衛生課などは、何かというと軽視される。
団体には団体に必要な部署がある。パウロはそれを各人の適正に譬えて、
「賜は殊なれども靈は同じ、職は殊なれども主は同じ。また行爲は殊なれども、一切の事を衆の人中に行ふ神は同じ。靈の顯を各人に賜りしは、益を得さしめん爲なり。或は靈によりて智慧の言を賜り、或は同じ靈によりて信仰を賜り、或は同じ靈によりて病を醫す能を賜り、或は異能を行ひ、或は預言し、或は靈を辧え、或は方言を言い、或は方言を譯する能を賜れり。然れども凡てこれらのことを行ふ者は同じ一靈なり。彼(は)その心のままに各人に頒け與ふるなり」(コリント前12-4~11)
と言った。会社の中にも、己の人格を尊重する事を知って、反って人を軽く見る向きがある。ゆえにパウロは続けて言う、
「體は一つにして多くの肢あり、一體の凡ての肢は多けれど、一の體なり。(・・・・)神はその劣れる所に、殊に尊貴を加えて體を調和へたまへり。(・・・・)尓曹はキリストの體にしてまた各々その肢なり」(同-12~27)
団体の中で各人は、尊重し合い、助け合って生きて行かねばならぬ。仮りに成績が上がったとしても、人を尊重せず、同情と理解とを持たないならば、反って会社の将来に大きな禍を齎す事になる。その罪はその功に十倍・百倍するであろう。そもそも自分と神との関係を考えてみれば、自分ばかりが偉いなどと思う心の浅はかさがわかろうと言うものである。自分の専門のみに小さく固まって考えるようでは、愛に欠けるのである。
「不法の増すによりて多くの人の愛(が)、冷かにならん」(マタイ24-12)
これは、愛が冷やかになって不法が蔓延る事を、逆に言われたものである。
他より見て、郡是は温かいという評があるが、仕事の効率のためにその美風を壊してはいけない。私が十八歳の頃、郷里で読んだ書物に、
「蝉を窺う(=狙う)蟷螂(=カマキリ)あり、蟷螂を窺う黄雀(=雀)あり、黄雀を撃たんとする弾丸あり」(蘇代)
とあった。(この蘇代は蘇秦[=中国戦国時代の雄弁家。諸国を遊説して合従策を成立させたとされる]の弟である。)他人の欠点ばかり論っていると、その人自体の人格が低い事が露れてしまう。もし欠点に気付いたなら、直接本人に、愛を以て穏やかに指摘すべきである。
山月先生文集(146)
山月子『女学雑誌』記事(二十)
新著批評
俊傑少年 俊傑老年
この二書、スマイルズ氏(=19世紀英国の著述家。その『自助論』は『西国立志編』の邦題で広く読まれた)の著作より訳出するところ、『少年』・『老年』と別々にせしこと、訳者用心(=心配り)の深きを見る。一読すべきの良書なり。
明治25年3月26日 女学雑誌310号
誤解に対する心
〇問 他より誤解せられて「快と感ず」という人あり、「無感覚なり」という人あり、「哀しく思う」と言う人あり。いずれか進歩せし人なりや、敢えて問う。(山口県 碧流生)
〇答 快と感ずるは恐らく奇(=一般と違うこと)を好む人ならん。世には、自らの人物をいろいろの方角より、さまざまに評され、その中の誤評などを聞き、反って快然として、「我は大人物なり。俗流の知るところに非ず」と思う人あり。中には評する人を目して(=見做して)「小さき奴なり」と心に嘲り、傲然として(=傲り昂ぶって)自ら大なりとする人もあり。無頓着に気にせぬ人あり。「我を知らず」と情けなく、哀しく思う人あり。誤解する者の心を想うて、憐れに気の毒に思う人あり。その種類は種々にして、一々枚挙すべからず。
このいずれか最も進みたる人なるかを答えんよりも、むしろ進歩せると思う人の、誤解に対する心情の如何をここに考えん(=考えてみよう)。蓋し(=確かに)進歩せる人は、誤解ごときに(心が)動かざる人にして、またよく(心が)動く人なり。動かざるところは、神についての確信なり。「人は知らずとも、父は我を知り給ふ」(ヨハネ10-15明治訳)との信念は、紛々たる(=様々に入り乱れるさま)誤評に対して微動もせざるべし。
一方、その動くところは人に対するの愛情なり。「我この世を何に譬へんや。童子、街に坐し、その侶を呼びて、『我ら笛吹けど(=真理の道を説いたが)爾曹おどらず、哀をすれども(=道に入るよう哀訴したが)爾曹胸打たず(=感動しなかった)』と云うに似たり。蓋し(=まさにそれ故)ヨハネ(が)来りて食ふこと(や)飲むことを爲ざれば、『鬼に憑かれたる者なり』と言い、人の子の(=キリストが)来りて食ふことをし、飲むことをすれば、『食を嗜み酒を好む人、税吏・罪ある者の友なり』と言う」(マタイ11-16~19明治訳)。
「高潔なる愛情は人には知られ難し、是非もなし(=仕方がない)」というが如き(は)、自己に対しての哀苦、ないしは諦観(=諦めの気持)には非ず、他(人)が人(=自分)を誤解する、その貧しき心の有様を想うて、余(=私)はその人の心の為に哀しみ苦しみ、その至らざる心をして、一層高く、清く、美しく、大ならしめんことを欲するものなり。
而してその障害(=誤解)をなすものは、誤解より生ずる無形の牆壁(=隔て)なり。その牆壁を取り去らんと欲せば、その誤解を弁明せざるべからず。而して口頭の弁明は当人をして羞じ入らしめ、もしくは一層誤解を増さしむ。況や世は広くして人(は)多し、焉んぞ(=どうして)一々これを弁明するを得んや。故に誤解はそのままにし、無言にして誠を行なう。およそ誠の行・誠の心は、弁明せずしてよく弁明す。誤解は早晩(=早かれ遅かれ)消滅すべし。
ただ憂うる(=憂慮する)ところは、誠なきにあり。誠は神より出づ。即ち内に向かいて己の足らざるを嘆き、全てを棄てて神に従い、思うところ、言うところ、行なう所、みな神意に契合せんこと(=ぴったり合うこと)を求め、かつ他の魂の為に誠実に神に祈る。愛なる神・力ある神は必ず他を進ましめ、自らを進ましむ。この確信は愛情より出づる哀と苦とを消し去り、神の国を望んで永遠に進歩す。これ実に進歩せる人の、誤解に対する心なるべしと信ず。
明治25年3月26日 女学雑誌310号
劉玄徳
(註:劉備玄徳は『三国志』の中心人物。漢室再興の大義を奉じて蜀を興すも、大志半ばにして病没)
天地を祀りて桃園に義を結び、赤手を揮いて(=空手・手ぶらで。兵力もなしに)涿郡に起こり、百千の勁敵(=強い敵)と戦い、万億の艱苦を凌ぎ、幾度か死地に陥りて、幾度か生を得、三十余年間、世上を流浪して至誠撓まず、熱涙涸れず、遂に漢室を再興す。その功(は)まことに大なり。
彼が赤貧にして樓桑村の茅屋(=あばら家)に蓆を織り、履を販りて老母に孝を尽せし時の事を思わば、彼が位(=地位)なく、力なく、富なく、兵なく、而して到る処、群雄に敬慕せられ、畏愛せられ、果てはかの奸雄・曹操(=三国時代の覇者。魏の始祖)をして、「天下の英雄はただ君と操(=曹操)のみ」と言わしむる(=言わせる)に至りし事を思い、また彼が如何に窮し、如何に苦しむとも、麾下の英傑たちは決して離るることなく、反ってこれを慕い、多くの百姓が慈母を恋うるが如くにこれを仰ぎしことを思わば、誰かその人物―地位・富・力・兵権・才・智など、全ての付属物を除ける正真の人物―の如何ばかり美しく、大なりしかを感ぜざらんや。
人は称す、徐庶(=初め劉備の軍師であったが、老母を人質に取られ、涙を飲んで敵側に移った)が曹操に仕えて、生涯、策を献ぜざりし(=曹操の為には軍略を立てなかった)は、凡人のよくなし得る所に非ずと。また人は論ず、孔明(=劉備を支えた智将)の『出師の表(=出兵を上奏する文書)』を読みて、涙せざる者は忠臣に非ずと。
然り、徐庶の志・孔明の忠は真に深く感ずべきものなり。されどもその志を尽さしめ、その忠を成さしめた劉備の愛に至りては、さらに深く感ずべきに非ずや。
思うに彼は如何にしてその徳を養いたるか、如何にしてその人物を偉大・秀美ならしめたるか。蓋し(=恐らく)彼は天を敬うの心(が)篤く、人を愛するの情(が)深かりしが故ならん。その義兵を起すの前、粛然として(=厳かに恭しく)まず天を祀る、何ぞ(=何と)その心の美わしきや。恰も篤信なる基督教徒が、事をなすに当りて、共に頭を垂れて祈祷するが如し。
漢室を愛し・農民を愛し、将士を愛し、これが為に幾度か熱涙を潅ぎたる事績は、かのパウロが「三年間、夜も昼も絶えず涙を流して、各人を訓戒せし」(使徒20-31)という心に似て、吾人(=我々)が恍惚と(=うっとりと)佇み眺めて、大いに美とするところなり。
吾人は彼がただ天を敬い、人を愛せしが故に至誠を養い、徳を建てたりとは言わず。その貧苦・困難・悲哀・危険の境遇に於いて、種々の障碍・誘惑に打ち克ちて、よく天を敬い、人を愛し、道を踏み、義を行ないたるが故に、然り(=そうである)と言うなり。
吾人は現今日本の光景を観、所謂改革家の挙動を観、基督教徒の状況を察するごとに、未だかつてこの千数百年前の人物(=劉備玄徳)を、切に憶い起さずんば非ざるなり。
「愛は徳を建つるものなり」(コリント前8-1明治訳)
「愛は衆徳の帯(=種々の徳を纏めるもの)なり」(同コロサイ3-14)
明治25年4月2日 女学雑誌311号
武芸
吾が祖父(=長州藩武芸指南役・大林敷充)の説なりとて、父上(=蘭方医・川合立玄)の語り給いし言に、
「武は無形なり。撃つに撃たれず、斬るに斬られぬものなり。(・・・・)勇者はその手を刀に触れずして(=刀に手を掛けずに)、よく敵を服さしむ、云々」とあり。
我は思う、かの血気粗暴の輩が他(=相手)を斬らんとて赴き、他が(=相手の)自若(=平然)として動ぜざる風采(=態度)に気を呑まれ、胆(=胆力・気力)を砕かれて、何も成すこと能わざりしというが如きは、蓋し(=恐らく)他が「撃つに撃たれず、斬るに斬られず」という《武》と一なりし(=合一している)が故に非ずや。切言すれば(=端的に言えば)、活きたる《武》なるが故に非ずや。今、武を習う者(が)、もし《芸(=技術)》のみに留まらば、何の効かあるべき(=何の効果があろうか)。
明治25年4月23日 女学雑誌314号
]]>昭和十年六月九日 於東京教会
どんな宗教にも極意がある。仏教なら《真如(=絶対的真理の悟得)の境地》、儒教なら《天人合一》、基督教なら《神人合一》である。ヨハネ伝の『主の祈り』(17-1~26)は、自分が育てた弟子たちが、遂には神と一体となれるようにと天に懇願された祈りである。
パウロなどはその境地に入り、絶対信頼からさらに進んで、神・基督と一体になり、「最早われ生けるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(ガラテヤ2-20)と言った。
「丈夫は自ずから冲天の気あり。如来の行処に向い行く莫し(=立派な男子には天を突く気概が自然に備わっており、いたずらに開悟者の足跡など踏まぬ)」(十玄談)。
「尋思す、去りし日、顔は玉の如し。嗟歎す、来たる時、鬢は霜に似たり(=思い返せば、昔は玉のような若々しい顔であったが、悲しいかな、今や頭髪は霜のように白い)」(同)。
「木人は夜半に靴を穿ちて去り、石女は天明に帽を戴いて(=被って)帰る(=いかなる朴念仁でも散歩に出たくなるような誘惑の夜半もあれば、いかに無風流な女でも、朝帰りしたくなるような心惑う一夜もある)」(同)
これは仏法の極意(=開悟の機微)を悟った同安常察(=初期中国仏教の基礎を確立した学僧)の句である。
唐の太宗の次が高宗で、その次が女帝・則天武后である。この人が国を継いだが、うまく治まらぬので宗教心を起こし、天下第一等の高僧について学びたいと思い、天下に触れを出して名僧・高僧を宮中に招いた。
大勢集まったところで、実際に人物検査をしてみようと考え、豪華な風呂を仕立て、半裸の美女たちを湯女につけて、一人ずつ入浴させた。日頃行ない澄ました僧たちも、これには戸惑って、邪念など起こらぬよう警戒しつつ湯に入った。
そんな中で同安師だけは平常心そのまま、実に天真爛漫、悠々と湯を楽しんでいた。物陰からこれを見ていた則天武后は、甚く感心して、「水に入って長人(=背の高い人/徳の優れた人)を見る(=見わけがつく)。我は同安師において真の徳を見たり」と言い、それから謙遜して道を学んだという。
「丈夫は自ずから冲点の気あり。如来の行処に向い行く莫し」
『みあしのあと』という書物を仙台時代に見たことがある。「キリストの足跡をそのまま踏んで進む」という意味で、米国などでよく売れていたという。「如来の行処に向かい行く莫し」はこの逆である。古人の足跡を踏むと言っても、それが形式的・機械的であると、昔と今とは違うし、日本とユダヤ、あるいは米国とでは違うから、そのとおりにはいかない。そういう外面ではなく、その《心》を踏襲することなら、何時でも、何処でも、誰でもできる。心さえ一つになれば、後は臨機応変にやっていける。
押川先生は非常な大器のため、凡人からは誤解された。しかし兄弟のように交際していた本多庸一さんは、先生の精神がよくわかって、最後まで親しく交流なさった。先生の伝道には力があって、聴く者を感動させた。東二番町角の東本願寺別院が売りに出され、先生がそれを買い取ろうとなさった時、一老婆が出て来て、何十年間か風呂焚きをして貯めた金・五円(=約10万円)を献じた。するとそれに感動した人々から次々と寄付が集まり、買収は成功した。そこを会場に日曜集会をお始めになると、他の教会からも人々が聴きに来るので、信者を獲られた形になってしまった牧師たちが、悪口を言うようになった。
当時の宮城県知事・松平康信という人が、その噂を聞いて、「自分も話を聞きたいから、自宅へ来てくれ」と言って来た。先生は応じられなかった。三度頼んでも来られないので、その人は怒ってしまって、「貴公の信ずる基督とやらは、四方を飛び回って教えを説いたというに、基督ほど偉くもない貴公がどうして伝道に来ないのか」と言った。先生は「基督は基督、私は私」と言われた。まさに「如来の行処に向かい行く莫し」である。
小此木信六郎という人(=医学博士)が信者になったのも、そうであった。氏は当時福島にいて、多くの牧師が「あれを信者にして、自分の名を揚げよう」と押し掛けたが、一向に靡かない。そんな時に、たまたま押川先生が福島に来られたので、「名は聞いているが、実際はどんな人間なのか、一度会ってみるか」と、軽い気持で出掛けて行った。行くと、「ただ今、食事中である。少々待たれよ」と言われた。「俺が何様か知らんのか」と思いながら待って、ようやく話を聞く事ができ、たちまち感動して、その場で信者になったということである。
また先生の教え子に吉田という人がいて、非常に熱心に布教して回って、何人も信者を作るのであるが、先生は「吉田が掬ってくるのは雑魚ばかりだ」と苦笑しておられた。
こちらの人格が小さいと、小さい人間しか集まって来ない。道を説く前にまず、人格を造らねばならないのである。
「尋思す、去りし日、顔は玉の如し。嗟歎す、来たる時、鬢は霜に似たり」(前出)
釈迦や孔子のような人物になりたいと思い、大志を懐いて故郷を出た時は、まだ齢若く、顔も玉のように輝いていたが、如何せん、今や髪も霜のごとき老人になってしまった。これは私自身、身につまされる(=人ごとではないと感じられる)ものがある。「キリストの心を心としたい」(ピリピ2-5)と願って四十七年間修行して来たが、未だ容易なものではない。しかし、そうかと言って、自分免許して《卒業信者》になるわけにはいかぬ。それでは宗教を粗末にすることになる。
「木人は夜半に靴を穿ちて去り、石女は天明に帽を戴いて帰る」(前出)
木人や石女のように、どんなことがあっても動じない人格を養わねばならない。
かの大灯国師は、
「雲よりも上なる空に出でぬれば、雨の降る夜も月を見るかな」
と詠じた。私はこれを富士山で実地に経験した。
宗教の深い所に行くと、常識以上になる。聖書を見るにも、俗世の雨の下で見るのと、雲上で見るのとまるで違う。下界にいて、雲間に洩れる光を垣間見て、「啓示(=神の示し)を受けた」と大騒ぎする。一枚上に出れば、いつでも真理の太陽は輝いているのである。抜けるか抜けぬかは紙一重であるが、抜けさえすれば、下の人の想像できぬことがわかる。
「心の清き者は福なり、其人は神を見ることを得べければ也」(マタイ5-8明治訳)
信仰のない人は、泥田の中に住みながら、それに気づかない。たまたま良い先輩に会って、心身を洗われて綺麗になって喜んでいると、いつの間にかまた元の泥田に帰ってしまう。
泥田に居る限り清められない。せめて小川なりとも、水の流れている所に出なければならない。しかし小川で水浴びして綺麗になったと喜んでいてはいけない。その先にはもっと大きな本流がある。そこを舟にでも乗って下れるなら、どんなに楽しかろう。神に任せ切った信仰(信頼)とは、それである。
川の上流・中流・下流はみな景色が違う。上流の方が、早瀬や奇岩などあって人目に立ちやすい。中流以下は坦々とした眺めになる。河口に差し掛かると、川幅が広がって両岸も見えず、河なのか海なのか判じがたいくらいであるが、水を一口飲んで見ればすぐわかる。一たび大海の中に出てしまえば、多少の濁り水が流れ込んでも、泰然(=悠々)として浄化できる。
そこを間違えて、まだ身は上流にありながら、「清濁併せ呑む」などと粋がっていると、たちまち自分が濁ってしまって、二度と立ち戻れなくなる。ゆえに修業の旅路は、あくまで一歩一歩謙遜に歩まなくてはならない。パウロの言ったとおり、「後のものを忘れ、前のものに向ひて勵み、標準を指して進む」(ピリピ3-13~14)のである。
私は今年六十九歳であるが、十六歳の若者にも負けぬ向上心を持っている。これまでは、大海の水を貝殻で掬う程度の事しかできていないが、通って来た跡は、世界中の学者が挙って批判しようが、びくともせぬ覚悟である。
「己をすて、己が十字架を負ひて、我に從へ」(マタイ16-24)
《合一》とは、己を捨てて無になることである。しかしなかなか己は取れないものである。信仰上の経験を積んだら積んだで、積んだこと自体が《己》となって、進歩を妨げる。
真に己がなくなった時、初めて大きくなれる。己がなくなった所に神が入って来られるからである。
具体的言えば、己を無にして、そこに《完全の信仰》を注入する。すなわち、悔改・信頼・希望・愛慕・学習・合一である。ところが欧米の基督教は、悔改と信頼をもって信仰の全てとしているから、今日のような無力な宗教になってしまった。そして個人的信仰の範囲ならまだしも、英国などは国策として日本と支那(=中国)を戦わせようとしている。基督教国を自任しながら、そういうことをする以上、日本にはそれを指導する使命があると思う。
およそ個人・家庭・国家・世界全体が、信仰においても、政治においても、外交・経済においても、基督の心を心とするようにならねばならぬ。その第一歩として、しっかりした後継を作り、何千年経ってもこの道が行なわれるようにしたいと思う。それには我意を立てず、言う事・行なう事を基督の心を以てし、言葉の伝道・行為の伝道でなく、人格による伝道ができるような人材を育てたいと願っているのである。
その上に向上・奉仕があるのであるが、それについては明晩お話しする。
神人合一の境地(続き)
昭和十年六月十日夕 於学生修道院
○向上・信頼
信頼の人は、信頼という事を非常に難しく考えるが、信頼し切ってしまえば、信頼について悩むことはない。子が親を信頼するのに、何の苦労もないはずである。
○不断の向上
「人生の目的は神の如くなる事なり。神に追従する霊魂(=精神)は遂に神の如くなるに至らん」(ソクラテース)
「汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」(マタイ5-48)
「吾(は)、十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順う(=人の言葉がそのまま受け取れる)。七十にして心の欲する所に從えども矩を踰えず(=道に外れない)」(論語・為政)
「唯この一事を務む、即ち後のものを忘れ、前のものに向ひて勵み、標準を指して進む」(ピリピ3-13~14)
「我等はみな面帕(=ヴェール)なくして鏡に映るごとく(明瞭に)、主の榮光を見、(我が身も)榮光より榮光にすすみ、主たる御靈によりて主と同じ像に化するなり」(コリント後3-18)
昨日の続きとして、「不断の向上」について話してみたい。
仏法の極意は禅が一番深い。禅では、道を修める人を仏陀・菩薩・縁覚・声聞の
四段階に分けている。このうち縁覚と声聞は自分だけ悟ればよいとする《自利》の修業。菩薩は「上は道を求めて進み、下は一切衆生を済度せん」とするもので、《自利・他利》の修業。その上に位するのが仏陀で、覚行円満(=修業と悟道が円満に成し遂げられること)の最高位にして、この上に進むべき境界はなく、むしろ降り来たって衆生の済度に当るのみである。
ゆえに禅で悟ると「人天(=人間界と天上界)の導師」などと自任して、集会の座などでは、(当然の如く)自分から一番上座に就く。釈迦も大迦葉(=釈迦の後継者)も達磨も仏陀であり、全部で五十人以上いる。私どもから見て、あまり感心しないような人でも、自分では仏陀だと言っている。
この区分から言うと、基督教徒はみな上に《天の父》を仰いでいるから、未だ最高位に達しておらず、せいぜい菩薩並みの覚者ということになる。従って鎌倉円覚寺の釈宗演(=「仏陀」を自称した)でも、基督以上の偉い存在となる。天なる神を持たない宗教はそうなる。
座禅して悟って絶対境に入り、自身が天地一杯の存在となって、もはや相対するものなし、それが仏法の極意である。相対する者がないから、下に降って民衆を済度するしかない。すなわち《合一》を最高位に置いたのである。
然るに私の宗教は《完全》を最高位(=至高の神)に置いているから、何度悟っても、まだ無限の《向上》が待っている。
「我は全能の神なり、汝(は)、我が前に歩みて(=進み出て)完全かれよ」(創世記17-1)
エホバがアブラハム(=イスラエルおよびアラブの始祖)に告げられたこの言葉を、基督は『山上の垂訓』で私どもにお教えくださったのである(マタイ5-48)。
「異教徒(=非キリスト教徒)の中で、最も道と真理とに近づいた者は釈迦牟尼である」と言われている。しかし神の完全から言うと、足りないところがある。少なくとも知識の上から言っても、現代の我々よりは不完全である。
完全を目標にして進めば、永久に進むことができる。私など、三十年修行して、なおパウロに及ばないところがあり、釈迦や孔子に及ばないところがある。我々が悟ったと言っても、宇宙の完全から見れば無にも等しい。「葦の随(=狭い視野)から天を覗く」と言うが、それくらいにしかわかっていない。そこで絶対謙遜の心が起こり、どこまでも進みたという念が湧くのである。ソクラテースがあれだけ真理に迫ったのも、この精神があったればこそである。
「人生の目的は神の如くなる事なり。神に追従する霊魂は遂に神の如くなるに至らん」(前出)。《追従》とは後を付き従っていくことである。子が親を追いかけていく、親を慕うその心に邪心はない。どこまでも神を追い慕っていけば、いつか神の如くなれる。そういう心を持っている方が幸福である。
神を追い慕っていけば、やがて心に何も無くなって、綺麗な精神が天地一杯になる。神が我々の《私我》を取り去ってくださるのである。そのおかげで我々は神と融合して一つになり、神を親として尊び、信じ、崇め、学んで、不断に進歩していくのである。
この点において、私は(浄土)真宗の説く《安心》に与しない(=賛同しない)。安心を得て、そこで進歩が止まってしまうからである。
私は《完全の道》を工場に応用して、二万人の人が(停滞することなく)絶えず進むようにした。それには上に立つ者の教育が大事である。山に登る時、先に立つ者が足踏みしていたら、後の者は進めない。
これを米沢で話したら、陽明学(=明の王陽明が唱えた実践的儒学)を学んでいた歌川という人が一番に感心して、「聖人たらんと志して多年、論語や孟子を研究して来たが、今回《神の完全》という事を教わった。聖人になれるかどうかはわからないが、少しでも近づきたいと思う」と言われた。
人間には先入主(=先入観)というものがあって、先に教わった事が、どうしても残って離れない。音楽の教師などが言うには、「初めに悪い癖が付くと、それを直すのに一苦労する」そうである。そうであればなおさら、初めから善い教えを受けることが何より幸せである。その点、最高・最大の理想を示されたのは基督である。
孔子は基督以前の人であったので、尭、舜、文王、武王、周公(=いずれも古代中国の聖天子・名君主)を理想として修めた。(次号に続く)
実修実行の七要項
大正15年4月15日 於・工務主任会
(一)完全を理想とする
(神)(人)
絶大…大
至健…健
真誠…誠
神{至善…善}人
全智…智
全能…力
純美…美
聖愛…愛
たびたび話す事であるけれど、何回聞いても、ただ理解しただけで終わって、それが実際の理想にならなければ何の意味もない。今日はこれが諸君の目標となるよう話す積りである。
社訓の初めに掲げてある《神》(=天道)は、(前掲の表示の)上段の如き性質を持っており、それを受けて人は、下段の如き性質を与えられている。《完全の神観》とは、このように神を各方面から偏らずに見る事である。
ただし、これを雛壇の内裏雛の如く飾っておいても仕様がない。これを自身の心に修めて、活かして用いて行く事が肝要である。それは至る事のできない遠い理想などでは決してない。
孔子の弟子の子貢は、師の人格を評して、
「夫子の及ぶべからざるや、なお天の階して升るべからざるが如し(=私が先生に及びもつかないのは、幾ら梯子を掛けても天には昇れないのと同じである)。夫子にして邦家を得ば、所謂これを立つれば斯に立ち、これを道びけば斯に行い、これを綏んずれば斯に来たり、これを動かせば斯に和らぐ(=もし先生が一国を治められたら、いわゆる『立たせれば立ち、手を引けば歩き、あやせば懐き、励ませば喜ぶ』というふうに自由自在になる)。その生や栄え、その死や哀しむ。これを如何にぞそれ及ぶべけんや(=だから生きておられれば国は栄え、亡くなられれば民は嘆く。そんなお方にどうして私が及び得ようか)」(論語・子張)
と言った。けれどもいかに聖人の境界といえども、決して到る能わざるというものではない。顔回などは既にそこに入っていた(=「われ回と言うこと終日、違わざること愚の如し[顔回は私と一日中話していても少しも異論をさし挟まず、まるで愚者のようだ]」同・為政)。社訓は決して「階して昇るべからざる」ものではなく、日々積み重ねて行けば誰でも到れるのである。
なぜなら諸君の心にも、この大・健・誠・善・智・力・美・愛というものは備わっているからである。誰でも小よりは大を、病よりは健を、悪よりは善を望む事からも、それはわかる。そういう望みはどこから来るかと言えば、父なる神の大への憧れから来るのである。人が健康を望むのは、神には病というものがない。ゆえに人もそうなりたいと思うからである。誠も智も力も美もみな神から来て、諸君の魂がそれを求めている。また神の方でも、常に人間を上へ引き上げたいと望んでおられる。
そして神と我々の間には、誰でも登る事のできる無形の梯子が掛かっている。それが日々の祈祷・瞑想である。従来の宗教は、ただ「悔い改め」しか説いて来なかったが、神からは教育の御手が降り、人には修養の積み重ねがある。これを一段一段、倦まず弛まず昇って行けばよいのであって、決して子貢の言ったような、絶望的な懸隔(=かけ隔て)が横たわっているわけではない。
基督は言われた、
「我まことに實に爾曹に告ん、天ひらけて神の使等(が)人の子(=イエス)の上に陟降するを見ん」(ヨハネ1-51明治訳)と。
聖書の記者は詩的に記しているが、事実、無形においてこのとおりのものである。我々は日々、地上の低い事に捉われているので、こういう壮大な状景を理解する事が難しくなっているが、事実は事実なのである。
近来、宗教上の事について尋ねる人が多く、先般も大阪の中等学校の校長が来て、「宗教の事をわかり易く話してくれ」と言うので、大体今のような事を話しておいた。
(一)志気を大にす
人は大抵、小志を懐いて小人(=小人物)で終わってしまう。私と同学で、学生時代には「将来は国家のために尽力したい」などと言っていた男も、五年も経って会って見ると大変に変わっていた。学校では古聖賢のことなど熱心に学んでいたが、社会に出て家庭など持つと、金銭などの俗事で頭が一杯になってしまって、月給が一円でも高ければ、そちらに靡いてしまう。結局、利益や名誉に埋没して小さくなってしまうのである。
どんな山も、最初の一歩を踏み出さなければ登れない。我々は根底を信仰の上に置いて、志気(=大事を成さんとする意気込み)を大にして、一歩一歩進んで行くのである。山鹿素行(=江戸前期の儒学・兵法学者)が嘆息して教えた言葉がある。
「志気とは大丈夫(=大人物)の志す所の気象(=心情)を言えり。大丈夫たらん者(が)、小さき所に志を置く時、その為す所、学ぶ所、みな至って微にして、大なる器に非ざるなり。道に志す時、管仲、晏子(=共に中国春秋時代、斉の賢相)が輩(=管仲・晏子などという者たち)の功烈(=大なる功績も)、なお為すに足らず(=行なうまでもない)と思うは、曾子(=孔子高弟)(や)、孟子の志気なり。もし小成に安んじ、気節の全きを得ざる時は(=気概と節操を完全に働かせる事ができないのは)、器(が)常に瑣細にして器識(=度量と見識)の大用を知らざるなり」と。
管仲は斉の桓公を輔けて覇業(=天下統一)を成さしめ、東洋の政治上に一大変革を起こした。世界的にも知られ、その著『管子』(=今日では、菅仲より後代の作とされている)は西洋人なども研究している。諸葛孔明(=中国戦国時代、劉備玄徳の覇権を支えた賢臣)も自らを管仲、楽毅(=同じく中国戦国時代の武将)に比した(=勝るとも劣らぬと考える)というくらいである。晏子(晏平仲)は同じく斉の霊公、荘公、景公を輔佐した賢人宰相である。
この二人(=管仲、晏子)の働きは、我が国における源頼朝や徳川家康以上である。時の禍乱を救った(=乱世を鎮めた)事においては慥にそうである。しかし孔子の道を伝えた曾子は管仲を褒めなかった。孟子もまた道が行なわれないため、世を退いて書を著わした。これらを管仲、晏子の働きに比すれば、孰れが後代に益するところ大であったかは言うまでもない(=管仲・晏子の方が頼朝・家康よりもずっと大きく後世に貢献した)。
今日の我々ならば、かの維新の三傑(=西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允)にも勝るくらいの大きな理想を実現しなければならない。これを大言壮語と言う人がいるかも知れないが、小成に安んじていては、そこで止まってしまう。志気は大に、理想は高く、神と強い連携を付けるようにしなければ、大器大用はならない。
「そんな事が事業の実務と何の関係があるのか」と思う者がいる。疑う事は修養上に非常な妨げとなる。ヤコブは、
「疑ふ者は風に吹かるる籾殻の如し。斯の如き者は、神より何物も受くること能はず」(ヤコブ1-6~7)
と警告している。これを他人事と思ってはならない。試みに、自ら努めてみよ。従来できなかった事ができるようになる。それで神の絶対無限の智と力がわかって来る。この消息(=深い真理)が少しでもわかった者のいる会社は、自ずと成績が良いのである。
事業は精神である。某戦術家によれば、先般(=第一次大戦)のドイツの敗因は、ロシアの思想戦略に嵌まって、厭戦気分が広がってしまった事にあるという(=キール軍港の水兵反乱など)。ヒンデンブルクやルーデンドルフのような名将を以てしても、これを如何とも仕様がなかった。
(二)自らを責める
これも全て実験済みの事であるから、その積りでお聞き願いたい。私は三十八年間にわたって教育に携わって来た。その間、十数万の人を教えてみてわかった事は、人は虚心でないと間違った方向へ進むものである。せっかく善い教えを聞きながら、日常においては自分の《我》を立てるからいけない。自分勝手な標準を設けて、それに達しない人を責める。かつてのパリサイ人がそうであった。彼らは次第に冷酷になって、とうとう基督まで十字架に懸けてしまった。これほどの大罪はない。
真の修養を積む者は、人を咎めずして自分を責める(=自らを反省する)。あたかも明鏡に向かって厳粛に威儀を正すが如くである。自省を怠って、他人の欠点のみ非難するのは、まさに「禍害なるかな」(マタイ23-13他)である。
従来、世人は皇室の永く栄えます事を軽く考え、ただ「万世一系の血筋だから」くらいに思っているが、そこにはもっと深い意義が存している。明治天皇は、「天佑(=天の加護)を保有し、万世一系の帝祚(=帝位)を践める(=継承して来た)・・・・」と仰せられている。この《天祐》という信仰をお持ちになる事を知らなければ、皇室のご繁栄の所以(=理由)を語る事はできない。歴代の天皇は深い信仰心を持って、天に対し、神に対して、自ら徳を積み、身を修めて来られたのである。
花園天皇(=鎌倉後期、第95代天皇)のお言葉に、
「朕(=私は)常に己を責めて臣(=臣下)を責めず、故に天理(=天道を)よく知りぬ」
とある。西郷南洲も「己を尽して人を咎めず」(遺訓)と言った。己を責める精神があればこそ、天道がわかる。たとえば工務の実際に通じた諸君が、自ら改良を成し遂げたら、それを人にも示して改良させる事ができる。
宗教改革を断行したマルチン・ルーテルは、自らを責めて(=良心が咎めて)非常に苦しんだ。修道院の中で気絶した事さえある。そんな強い自責の精神あってこそ、あの宗教改革は成されたのである。
(三)人の善は学び、人の非は救う
これも言うは易く、行なうは難い。人には嫉妬心があって、他の善を素直に喜ばない。それでは協力一致はならない。私の郷里・甲州も協力一致のできない国柄であって、個人経営の企業はたくさんあるが、株式会社は成立しないのである。雨宮敬次郎氏、根津嘉一氏(=共に山梨県出身の実業家)なども、故郷では余り評価されていない。人の成功は褒めず、失敗には興味を持つという人心からである。そういう人はこの郡是にも見られる。それでは人は進歩せず、逆に退歩してしまう。新聞の三面記事を担当する記者なども、普段から社会の底面に出入りしている所為か、あまり人格高潔な人物を見た事がない。
「(君子は)人の悪を称する(=あげつらう)者を悪む」(論語・陽貨)
「夫子(=孔子)は人の一善を見て百非を忘る」(孔子家語)
人の悪を見て謗らず、反ってそれを救うのが愛である。それでこそ人を教え育てる事ができる。然るに事実はその逆で、「凡人は人の一非を見て百善を没す(=忘れる)」である。
人の心は千変万化する。昔、人形芝居というものがあって、箱の中に様々な面相の人形を入れて置き、時に応じ、話に応じてこれを出して演ずる。人の心もこれと同じで、鬼も出れば仏も出る。時に聖人が迫害されるのもその為である。
アメリカ辺りでは平民主義を尊んでいるが、それは本来、徳や智や力や富の恩恵に、みんな平等に与かろうというものであって、決して私欲に従って国全体を引き下げようというものではない。フォード(=米国の自動車王)は、「能力の低下を来たす民衆主義は無意味なり」と警告している。
近時、我が国においても無産階級代表の事(=無産政党が帝国議会に議席を得たのは昭和3年の普通選挙実施以降)を力説する動きがあって、殊に政治界に多年の経験を有している犬養毅氏(=政友会総裁。昭和7年、五・一五事件で殺害された)などもこれを口にしているが、それは僻論(=偏った議論)というものである。世間は有産・無産ともに無くならぬのが事相(=実相)である。それゆえ、「管仲・晏子の巧烈」に勝る理想を実現して、有産・無産ともに救う事が肝要であり、それには基督の言われた、「牧ふ者(=飼い主)なき羊」を救う事が必要なのである。
(四)古武士の覚悟
今の若者は何事も「古い、古い」と否定するが、そういう考え方自体が古い。イタリアのムッソリーニは会津白虎隊の事績を調べて、非常に感銘を受けたという(=古代ポンペイ神殿の石柱が顕彰碑として贈られ、現在も飯盛山の麓に建っている)。英仏でも、物質文明の行き詰まりを感じて、東洋古代の精神教育を研究し始めた。ところが肝心の日本が、そういう精神を失ってしまったのである。いま時の花見客の醜態など見てもわかる。
戦国の世の三河武士は武士道の精神を残していた。家康はそれに支えられて大事を成し遂げたのである。かつて秀吉から「儂は粟田口吉光(=鎌倉後期の刀工)の剣を持っておるが、貴殿は何をお持ちかな」と問われ、「名刀はございませぬが、命を惜しまざる者・三百騎がおりまする」と答えた。秀吉は黙然としたという。
家康麾下に矢田作十郎と阿部四朗五郎という者があった。矢田は槍の名手で、その兜には鯉の飾りが輝いており、それが戦場に現われるだけで敵は恐怖した。ある時、盟友の阿部が、「その兜を借りて一働きしたいと思うから、ちょっと貸してくれぬか」と言った。矢田は「そなたの如き腰抜けには貸せぬ」と断った。「腰抜けとは聞き捨てならぬ」「兜を『くれ』と言うなら、喜んでくれてやりもしようが、『貸せ』と言うのは、生きて帰る積りであろう。戦場に向かう者が、予め生還を期するようでは、腰抜けでなくして何ぞや」。阿部は深く感じて言葉もなかったという。
会社の根本精神も、この真剣味を以て初めて知る事を得る。文武の道は一(=同一)なりである。
(五)古賢人の跡
北条時頼(=鎌倉第5代執権。隠居後は諸国を巡り、『鉢の木伝説』を残す)は禅において修めた賢人であった。
(話が横道に入るが、過日、豊橋のある人が私を評して、「宗教を世事に利用している」と言った。宗教に生命が籠もっておれば、[時頼の禅と同じく]自然にその精神が教育にも事業にも入って善くなるものであり、またそうでなければ、宗教の価値はないのである。)
この時頼が見出した人材の一人に、青砥藤綱という人(=鎌倉幕府引付衆[=裁判官]の一人。川に落とした十文銭を五十文の松明を焚いて探させた伝説の持主)がいる。この人が未だ抜擢されない頃、曳いていた牛が川に溲する(=放尿する)のを見て、これを叱して曰く、「汝もまた北条公の宣旨(=通達)に倣うか」と。これを伝え聞いた時頼が、藤綱を召し出してその真意を問うた。藤綱は答えて曰く、「期はまさに旱し(=旱魃の最中であり)、民は渇きに苦しむ。この期に当たって公の宣旨は、余りある所に施し、飢民には届かぬ。これぞまさしく牛が水に溲するに異ならず」と。これを聞いて、時頼は大いに己の不明を恥じた。
それから間もなく、「神夢の告ぐる所に依りて」藤綱に任官の命が下った。藤綱はこれを謝絶して曰く、「神託によりて荷禄さるる(=俸給を貰う)なら、他日、神託によりて斬首さるるやも知れぬ。左様な仕官は平に御免仕る」と。いかにも清廉潔白の人であった事がわかる。
(六)油断と戒心
「禍は隠微(=目立たぬ中)に蔵れて、人の忽せ(=疎か)にする所より生ず。故に明ある者は未だ萌さざるに見、智ある者は未だ形われざるに避く」(司馬相如)
これは漢代の名臣にして、天子をも諌めた司馬相如の名言である。忽せの心は成功の慢心に潜む。家康は関ヶ原の合戦後、床几に坐して兜の緒を締め直した。
原料科は諸君の働きによって改良されたが、今後もますます謙遜して研鑚に励まれたい。
(七)絶えず進歩すべし
不断の努力がいかに大切か、これについて東西二つの好例がある。一つは魯粛(=中国三国時代、孫権の右腕と謳われた名将)と呂蒙(=同じく三国時代の猛将。関羽を討ち取った事で有名)である。呂蒙は呉の孫権の家来で、若い時は武勇一点張りの若武者であったが、孫権に勧められて学問に励んだ。幾年かの後、魯粛は呂蒙に会って驚いた。「汝は旧の呂蒙ならず」(=「呉下の旧阿蒙」という言葉はこれに由来する)。すると呂蒙は曰く、「士(=男子たる者)(は)別れて三日(経てば)、即ち刮目(=目を擦って注目する)して相待すべし」と。
いま一つはゲーテとシラー(=共に18世紀ドイツの文豪)である。二人は無二の親友であったが、ゲーテはシラーを評して、
「一週間会わずして彼に会えば、将に別人に接するの感あり」
と驚嘆した。天才は天才を知るものである。
修養上の変化もまた同じ、さすがに一週間では感じられないが、三年も経って旧友に会えば、まるで別人の観があるものである。停滞した者は何年経っても変わらないが、不断に進む者は年々歳々変わる。
特に人を導く者は、常に進歩していないと、誰も着いて来なくなる。信仰・識見・徳・力、全て不断に進んでこそ、人を進ませる事ができる。人は電気仕掛けで動くものではない。人を動かすものは人の誠である。まず自らが進んで、人も進む。まさにそれこそが実修実行という事である。
山月先生文集(145)
山月子『女学雑誌』記事(十九)
帰京の日
三月八日、寝ること暫時、起きて(家を)出づ。長弟と共に九歳の幼弟を伴う。親戚の老夫婦二名(が)、送りて途中に到る。老婦(は)まず別れんとして涙を流し、声を曇らせぬ。三本松地蔵堂の辺に到りて老夫に別る。御殿場停車場まで八里の間、長弟と代わる代わる幼弟を背に負う。
行く行く見る芙蓉の山頭(=富士山頂に)、僅かの雲(が)生ずるを。雲は次第に動きて風となる。凄然として(=寒々として痛ましいさま)寒く、凛乎として(=寒気の身に沁みるさま)烈し。帽を飛ばさるること二度。籠坂峠を越ゆる時は、雲凝りて(=凝結して)雪となる。四顧(=周囲・四辺は)青天(にして)、頭上独り(=のみ)雪(が)降る。芙蓉の山(は)、尋常(=普通)の山に非ず。而して尋常ならざる光景を現出す。
背に負いし幼弟は、時々あどけなき事を言いて我等を笑わしめぬ。黙せしかと思いて見れば、熟睡せる時なり。「お前(=長弟)も一緒に東京へ行って、弟(=末弟)に獅子(=ライオン)を見せてやると宜しいが」と言いしも、停車場に着せる時は、しきりに家に帰りたしと言いぬ。泣くばかりなる面影を見れば、憐れに堪えぬまま、停車場の待合室内にて厳かに黙祷し、静かに熟考し、「幼弟を伴わざること神の御心なり。今は独りにて、智に徳に一層(己を)研くことこそ神の御心なるべし」と思いぬ。
即ち(=そこで)その旨を長弟に話し、更に己の今後の決意を語り、彼の将来の心得につきて談ず。感(は)鬱勃(=胸の思いは高まり)、長弟(は)落涙して巾(=手拭)を湿す。我も悲哀に堪え難かりしが、人の居る処(ゆえ)、辛うじて聖書に眼を注ぎて涙を殺しぬ。ただ書を見る眼の、少しも文字を捉えざりしは是非なき次第(=仕方のない成り行き)なりき。
待つこと長時、汽車未だ来らず。長弟は足傷めばとて、辞して幼弟の手を引き旅宿に向かう。凛冽たる(=寒気厳しい)寒風(が)、雪を吹き来る。我(は)、粛然として(=静かに)見送る。悄々として(=寂しげに)去る二弟の後ろ姿(は)、如何にも憐れに、如何にも寂しく見ゆるかな。丈夫(=成人男子)の胸裡(=胸の内に)、涙(は)満々たり。
仰ぎて望めば、落日まさに芙蓉の山影に没せんとし、山頭(は)雲濛々として雪まさに降る。惨たる(=心の痛む)光景、鉄腸(=鉄のように固い意志)も寸断せんとす。ああ母上のもし生きて家に居給わば、この苦しき哀しき思いをすまじきものを。震うばかり寒ければ、再び待合室に入りて、思いを凝らして黙祷しぬ。
やがて時は来りぬ。切符を購うて汽車に乗じぬ。日は既に没して、寒さ堪ゆべからず。されど情の寒きには幾倍か勝れり。寂寥(=寂しく侘しい思い)の極み、室(=客車)の一隅に眼を閉じて言なく、心を静めて動かず。
既にして(=間もなく)汽車は新橋に着しぬ。それより人力車に乗じて帰社す。時はまさに午後十一時なりき。 (明治25年3月22日 女学生第22号)
愛につきて
(一)愛と欲
紫の朱を奪うを悪む(=純色の朱よりも中間色の紫が人目を引いて好まれように、不純が純粋を駆逐することを憤った孔子の言葉[論語・陽貨]から)。また、欲が愛を誣うる(=ねじ曲げること)を悲しむ。ああ世人は何ぞ愛を軽視するや。愛に清潔・不清潔の別なし。清潔なるものは神より出づ、即ち愛なり。不清潔なるものは世より出づ、即ち欲なり。
ヨハネ曰く、「凡そ世に在るもの、即ち肉体の欲、眼目の欲、また勢より起こる驕愛(=傲り昂ぶった愛)、これらはみな父(=天父)より出づるに非ず、世(=俗世)より出づるものなり」(ヨハネ一書2-16明治訳)。
また曰く、「愛は神より出づ。おほよそ愛する者は神に由て生れ、且つ神を識るなり。愛なき者は神を識らず、神は即ち愛なればなり」(同4-7~8)と。
パウロは曰く、「肉に從ふ者は肉の事を念ひ、靈に從ふ者は靈の事を念ふ」(ロマ8-5)と。
既に光の有らば、暗からざるなり、既に暗からば、光は有らざるなり。愛ある者は何ぞ欲を行なわん。欲ある者は何ぞ愛に歩まん。天の人は天の心を持し、地の人は地の思いを有す。
(二)愛の苦
パウロの書に曰く、「愛は己の利を求めず、人の益を図り、不義を喜ばずして、眞理を喜ぶ」(コリント前13-5~6明治訳の抄出)と。ソロモン(=ダビデの子。イスラエルの王)は『雅歌』(旧約聖書)に曰く、「ああ愛よ、諸々の快楽の中にありて汝は如何に美はしく、如何に悦ばしきものなるかな」(7-6)と。
世に愛ほど美しく楽しきものあらんや。而して男女の愛を知る者、心に苦痛を感ずるは何ぞや。また夫が心に妻を思い、妻が夫を思うは何ぞや。吾人(=我々)これを考うるに、夫婦が相手を思うは、よく尽し、よく与え、よく益することを得んが為なり。また愛ゆえの苦痛を覚ゆるは、時間・地位・場所等の関係より、思う如くに尽くすこと能わず、意の如くに与うること能わざるより生ず。
(三) 愛と人物修養
愛人の為に尽くすは何の故か。究め来れば、愛する者をして立派ならしめんとするにあり。彼または彼女を立派ならしめんとせば、まず己自ら立派ならざるべからず。彼また彼女をして深く神を愛し、博く人を愛するの偉人たらしめんとせば、まず己自ら神に深愛に、人に博愛なる者とならざるべからず。
而して己が微力は何事をもなすに堪えぬを知り、ここに於いて、彼の為・彼女の為・己の為に、赤心(=真心)よりの祈りの生ずるなり。心は押しやらるる如く基督に向かう。即ちその信と望と愛とは、益々確く、益々篤く、益々大となり、小より大へ、偏より博へ(=偏愛から博愛へ)、《我等の愛》より《基督の愛》へと到るなり。
パウロがピリピ人に送れる書に曰く、「我、キリスト・イエスの心もて爾曹衆てを恋慕することにつきて、その證をなす者(=証人)は神なり」(ピリピ1-8明治訳)と。この境(=境地)に到らば、その人の美はいかばかりぞや。吾人はかくの如き男女を見んことを欲す。
(四) 愛に失望なし
基督教徒の「夫婦」という思いは、互いに相手に尽くさんとする心より、また犠牲・献身の精神より起こる。而してその夫婦の願いを成就し得ざる時は如何に。これを不信者の恋愛に質す(=調べる)に、その愛人(が)もし他の者と夫婦になるが如き事態(に)至らば、世を儚みて、盛りの花を一夜の嵐に散らす(=若き身空で自殺してしまう)が如きの男女の無きに非ず(=ないこともない)。
「吾は実に汝を愛す。されども節義を愛すること、汝を愛するに過ぎずんば(=あなたへの愛よりも強くなかったならば)、吾はかくの如くよく汝を愛すること能わざりしならん」との言葉を以ってこれを推す(=推測する)に、神を愛する基督教徒の愛は、世の青年男女の恋愛よりも、幾々層深きやを知るべからず(=何倍も深いことを知らざるを得ない)。さればその(失恋の)苦痛は、さらに幾々層深き筈なり。而もなお、失望(は)無しと言うは何の故ぞ(=なぜであるか)。
蓋し(=確かに)信者の愛は、基督の心を以て愛することなり。基督は曰く、「我より父母を愛する者は我に協はざる(=不適合の)者なり。我よりも子女を愛む者は我に協はざる者なり」(マタイ10-37明治訳)と。我らが(=我々の)愛は基督より来る。基督を深く愛すればこそ、人をも深く愛することを得るなれ。即ち基督に在る者は、如何に苦しくとも、失望無き筈なり。
基督は嘗てゲッセマネに祈りて曰く、「父よ、もし聖旨に肯はば(=御心に適うならば)此の杯(=十字架)を我より離し給へ。然れども我意のままにとには非ず、ただ聖旨の儘に爲し給へ」(同26-39明治訳)と。神を信愛し、全てをこれに一任し給うこと(は)、我等信者の学ぶべき祈りならずや。
夫婦となるもならざるも、みな我等を愛する神の聖旨なりとせば、我等はいずれとも(=いずれにせよ)これを感謝すべきなり。
(五) 円満の愛
「我、愈々爾曹を愛すれば、愈々爾曹に愛せられず、されど喜びて爾曹の霊魂の爲に財を費やし、身を盡すべし」(コリント後12-15明治訳)と言いしパウロの心(は)、如何に美わしく、如何に大なるかな。
「父よ、彼らを赦し給へ、その爲す所を知らざればなり」(ルカ23-34)と、十字架上に己を殺す者の為に祈り給いし基督の心に至りては、我等(は)何の言を以てこれを讃美すべきやを知らざるなり。ああ我等(は)深くこれを思わば、よく円満の愛を悟ることを得ん。
(明治25年3月26日 女学雑誌310号)
]]>石田秀夫先生筆録
昭和十年九月某日
新学期始業式に当って、五項目の事を簡単に話してみたい。
(第一)身体の健康
「汝らは神の宮なり」(コリント前3-16)
「人(が)もし神の宮を毀たば、神(は)かれ(=その当人)を毀ち給はん」(同-17)一
「みづから(を)害ふな」(使徒16-28)
己の身体は、もとより己一人の所有物ではない。神の宿り給う神聖な宮である。単なる運動器官ではなく、もっと精神的なものである。この考えがないと健康問題は徹底しない。特に体の基本が作られる青年時代には、よく考えねばならぬ。ここ(=学生修道院)に入った人は、玄米食にとまどうであろうが、この道の第一人者・二木謙三博士(=日本伝染病学会初代会長。文化勲章受章者)の指導を受けているので、安心して実行されるとよい。博士には近々お願いして、講話をして頂こうと思っている。
昔はこういう科学的な健康法の考えが無かったため、可惜(=惜しくも)短命で終わってしまった人が多い。今日はその中、二人ほどを例に挙げておきたい。こういう人がもう少しでも長生きしてくれたら、どれだけ日本のためになったか知れない。
その一人は山岡静山という人である(=高橋泥舟の実兄。後述の山岡鉄舟の義兄)。幕府の旗本で、槍の名手、早くも二十代で日本第一の名人と謳われていた。凡人には真似できないような苦労を積み、毎日三千回もの稽古を欠かさなかったという。唯一、九州の方の名人(=南里紀介)と試合をして、勝負がつかなかったが、それ以外には敵する者がなかった。
およそ武芸は技の勝負だと思われがちであるが、静山は技を極めた後、真の勝負はむしろ徳(=精神力・胆力)にあると考え、「人に勝たんとすれば先ず徳を修めねばならぬ。こちらの徳が修まれば、相手は自然に屈服する。それが真の戦いであって、技で勝つ事は真の勝利ではない。最も慎むべきは傲りである。傲慢の心が一たび生ずれば、百芸(も)みな廃る」と考えた。私も昔の事を考えると、冷汗の出る思いである。
その静山が脚気に罹った。脚気は白米による中毒(=ビタミン不足)だとされる。けれども昔の事であるから、それがわからない。
そうこうするうち、騒動が起こった。彼の師匠の反対派に善くない連中がいて、隅田川での競泳を申し入れて来た。武術では敵わぬから、水中に誘って謀殺しようという魂胆(=策略)である。それを聞いた静山は、師匠の恩義を思って駆け付けたが、水に入るや、たちまち心臓麻痺を起し、二十七歳で死んでしまった。もしこんな人物が五十歳、六十歳まで生きていたら、武道界は言うに及ばず、日本社会にどんな薫風(=善い影響)をもたらしていたか知れない。
いま一人は山岡鉄舟(=幕末の幕臣。勝海舟を援けて江戸無血開城に奔走。剣・禅・書に優れる)である。この人は本名・小野鉄太郎といったが、やはり静山の人物に敬服して、二十歳の時に槍の師匠として師事したのである。ところが静山の妹に、十七歳の英子という人があり、懇望されて師匠の山岡家を継ぐ事になった(=静山の実弟・泥舟は既に高橋家に養子に出ていた)。
鉄舟はもともと天下無双の酒豪として通っており、水戸の方の豪傑と飲み比べをした時は、相手は五升飲んで倒れてしまったが、鉄舟は七升飲んでもなお、しっかりした足取りで帰って行ったという。後に西郷隆盛が明治天皇の養育係として選んだだけあって、ただの豪傑とは違うところがあったのであろう。しかし、安倍川餅を百八個食べたとか、茹で卵を九十七個食べたとかいう伝説も残っている。そんな無茶をした結果、三十四、五歳の時、わき腹に塊ができて、千葉立造(=鉄舟の侍医)が診察したところ、胃癌であるとわかった。それからは写経などしながら、病気に囚われず平然と過ごしたという。
「お医者さん、胃癌胃癌と申せども、胃癌中にも善きところあり」
などと詠っていたが、遂に五十三歳で死んだ。辞世の句は
「腹張って苦しき中に明烏」
二人とも国家的に惜しい人物であったのに、医学的知識が不充分だったため、あたら(=惜しい事に)早すぎる死を遂げてしまった。
斯く言う私も、仙台時代は毎晩五時頃から、町はずれ(=宮城野原)の練兵場に出掛けて行き、夜中の一時、二時まで端坐し、冬は鳥打帽の上から風呂敷三枚を被り、赤毛布に包まって瞑想した。若かったので風邪も引かなかったが、後年、呼吸器に支障を来たす事が多くなった。当時、高等部にいた土居という人は、雪の上に毛布を敷いて座禅をし、肺炎に罹って死んでしまった。いくら熱心でも、命を縮めるような修業は為にならぬ。むろん暴飲暴食など、もっての他である。
(第二)忠言
人の忠言(=忠告)は感謝して聞かねばならぬ。二
「忠言を聞けば即ち拝し(=頭を下げて感謝する)、過ち有るを告げらるれば即ち喜ぶ。聖賢に非ずんば能わず」(李邦献)
凡夫(=凡庸な人間)はなかなかそうはいかず、すぐ腹を立てたり、悔しがったりして、せっかくの忠言を役立てる事ができない。
先ほどの鉄舟などは、人が世辞を言うと、むしろ不機嫌になって、黙ってその人の顔を見返していたと言う。千葉立造は精神上、鉄舟の弟子を自認していたので、日頃から師に直言して止まなかった。ある時など、軸物の箱書きを頼まれた鉄舟が、酒を飲んで書いているうち、一字書き間違えてしまった。すると千葉は、「字を間違えるほど飲んではなりませぬ。そもそも酒は胃に良くないではありませんか」と叱り、その旨を箱の裏に書き付けて、それを谷中(=東京台東区)の全生庵(=鉄舟建立になる寺。その禅弟子・三遊亭円朝遺愛の幽霊画50幅を所蔵する事でも有名)に納めたが、後、火事のため焼失したという。
また、鉄舟がある事件に関して過激な意見書を認めたのを見て、「一たん書いた文書は後々まで残るものでありますから、感情に走って書くべきものではありませぬ」と言うと、鉄舟はじっと千葉の顔を見て、「よくぞ言ってくれた。貴公は本当に神様か、仏様か」と言い、改めて書き直したという。先ほどの李邦献の言葉(=「苦言を喜ぶ、云々」)程度の境地には入っていた事がわかる。
先ほどの静山は《傲》を戒めた。傲慢の心があると、人に担がれて足をすくわれる。故に忠言は喜んで聞くようにしなければならぬ。
私が今回会った婦人の中に、相当に弁の立つ人があったが、その人が言うには、「自分を叱ってくれる人は有難い。不親切な人は、相手に好く思われたいがため、なかなか直言してくれませぬ。忠言は親切心がないと言えないもので、その親切から出たせっかくの言葉を聞けぬようでは、進歩などないものです」と。
私も真の人を造りたいから叱りもする。学生の百人や二百人に、悪く言われようと善く言われようと問題ではない。今までに二万人の人を教えて来たが、善い事を言い切る人は滅多にいないものである。
(第三)正義と良心
「聖靈をけがす者は、永遠に赦されず、永遠の罪に定めらるべし」(マルコ3-29)
聖霊は良心の上に位して、良心に命令するものであるから、良心に叛く人は聖霊に叛く事になる。良心の満足は正義を実行する事にあり、善い事をすれば良心が喜ぶ。
ところが日常、この良心が鈍っている事が多い。普段はそれでも誤魔化せるが、いよいよ死ぬ際ともなれば、良心が非常に咎められる事になる。
米国のある人が、子供の頃、人の畑の西瓜を盗んで食った。大した金額でもないので、そのまま忘れていたが、後年、ふとした事から大病に罹り、病床に就いてから急にその事が思い出され、良心が痛んで仕方がない。思い余って、苦しい息の下で詫び状を認め、家の者に頼んで為替(=現金化できる証書)を同封して送ってもらい、それで少し安んじて他界したという。
良心が満足して死ぬのが天国であり、良心に咎められて死ぬのが地獄である。ゆえに日々正義を愛し、聖霊を喜ばしめるように生きる事が大切である。かの孟子も、正しい行ないを積んで四十年、ようやく《天地正大の気(=浩然の気)》(孟子・公孫丑上)に立つ事を得たのである。
(第四)寛恕と徳望
「生涯守り行なうべき一語というものがありましょうか」と子貢(=孔子の高弟)が問うたのに対して、孔子は「それ(は)恕(=人を思い遣る心)か。己の欲せざるところは、人に施すこと勿れ」と答えた(論語・衛霊公)。自分が嫌な事は人にもしない。そういう人に徳望(=徳による人望)は自然について来る。ところが凡人はそうでない。悪口を言われて喜ぶ人などいない筈なのに、平気で人の悪口を言うのである。
私が仙台にいた頃、「東北三大人物」なるものがあった。押川方義(=東北学院創設者)、南天棒(=松島瑞巌寺住職)、乃木希典(=当時は仙台第2師団の若き師団長)である。
押川先生については、波多野鶴吉翁(=郡是創業者)などが、「先生の前に出ると、自分まで大きく拡張されるような気がする」と言っていた。この押川先生が《英雄》とすれば、南天棒は《豪傑》くらいである。
私は南天棒の所にもよく行ったが、コセコセするのが嫌いな、広々とした愉快な人であった。ある時、師団の大隊長(=児玉源太郎)が教えを請いに来ると、「お前は隊長さんだそうだが、一つここで隊を指揮して見せろ」と言った。躊躇していると、やおらその人をねじ伏せ、馬乗りになって尻を叩き、「大隊、進め!」と言った。大隊長はすっかり恐れ入って、直ちに弟子入りしたという。酒などは摺鉢に注いで飲み干すという酒豪で、私も一緒に飲んだ事がある。物外和尚(=幕末の曹洞僧。拳骨和尚で知られる)の事を話したら、「あれは力禅じゃ」と言い、釈宗演(=鎌倉円覚寺・建長寺管長)については、「才子禅じゃ」と切り捨てた。若い私は、そんな和尚に惹かれて、つい自分もいっぱしの豪傑になったような気持になり掛かった。
宗教で悟って、わざと人を罵倒したりする事を《機鋒(=刀の切っ先・言葉の鋭さ)》と言うが、それを戒めた言葉がある。
「機を弄すること勿れ、機を弄すれば徳を損ず」(出典不詳)と。
たとえ自分がどんなに明快に悟ったとしても、一方で人の悪口など言わないのが徳というものである。
南天棒は九州(久留米)の梅林寺で猛烈に修行して悟った。六年間というもの、横になって寝た事がなく、眠くなると手の甲を棒で打って眠気を払った。それで武道家のように手に胼胝ができていたという。それだけ修練した人でありながら、徳を欠いたので、ついに妙心寺派の管長にはなれなかった。いくら力があっても、徳望が無ければ人は集まらない。ましてや、力もないのに人を悪く言うようでは話にならない。
(第五)敬虔厳粛
「自ら敬虔を修業せよ」(テモテ前4-7)とパウロも言っている。
今や秋、秋の気候は人の精神を敬虔厳粛にさせる。どうか諸君もこの精神を修めて、前述の四項目を実行・統一するよう努められたい。
ヒマラヤの高峰であれ、地球全体であれ、それを統一しておられるのは神である。その神の前には、孔子も基督も敬虔の精神でもって、「天に在す神」と称えておられる。それくらい厳粛な存在なのである。
人は宇宙を呑むような精神になって、初めて世界的な人物になれる。それには、ただ人と比べて得意になったり、嫉んだりしているようではいけない。日夜、神と生きた交通ができるようにならねばならぬ。それには生きた信仰を持つ事が不可欠なのである。
学生修道院夕食後のご教話
昭和十年五月二十一日
多くの人が安逸を求めるが、安逸は求めて得られるものではない。そもそも学生時代から安逸など求めていると、勉学が大儀(=めんどう)になる。むしろこの時代にこそ刻苦精励すべきであって、後に偉くなったような人はみな、若き日に艱難辛苦を厭わず求め続けた人である。
支那(=中国)の名僧に慈明という人があって、「西河の獅子」と言われた。酷寒の時期に皆が修業を休むのを後目に、朝夕務めを怠らず、眠気を催すと錐で自らを突き刺したという。白隠はこれを『禅関策進(=禅僧の苦行伝)』で読み、非常に感動して修業に励んだ。その結果、「五百年間出の宗匠(=500年に1人出るか出ないかの大師匠)」と謳われるまでになったのである。
古人はそのようにして励んだ。それを「都会に出て来たからには都会風にならねば」などと考え、やれ日曜には活動写真(=映画)を見に行くの、やれ親に貰った金でカフェに通うなどしていたのでは、その行く末は目に見えている。仏教の方で《顚倒の見》という言葉がある。足に履くべき靴を頭に頂くような見当違いを言う。ナポレオンは華の都パリに出て来て、学友から故郷コルシカ訛りを笑われたが、そういう連中は相手にせず、もっぱら『プルターク英雄伝(=プルタルコス編の古代英雄列伝)』を読んで修行した。それが後年、世界五大英雄の一人を作る素地(=土台)となったのである。
教訓集第一巻より
新入社員講習会訓辞
大正十五年四月十日
まずこの会社の精神と教育法は、世間の学校のそれとは異なっている事を承知されたい。世人は近来、学校教育に欠陥を感じて、体験とか実践とかいう事を言い出した。すなわち知識を理解しただけでは役立たず、理解したものを体得・実行する事を要するのである。これからお話しする事も、頭ではわかり切った事であるが、いざ実行するとなると、なかなか容易ではないのである。しかもただ諸君が会社にいる間だけではなく、終生踏み行なって行くべき事柄なのである。
およそ道の修行というものは、名僧と言われた人でさえ、二十年、三十年、四十年と骨折ったものである。その代わり、そうやって得たものは、たとえ天下が挙って反対してもびくともしないのである。頑固で動かないのではない、確信して揺るがないのである。この精神が当社を動かしている。それはいくら頭で考えてもわからず、悟って初めて至り得る境地なのである。
(一)誠実
誠実が根本である。当社で毎月末に精勤賞として出している手拭に、「至誠(=誠実の極み)は万事の基なり」と染めてあるが、これは十八年前、前社長の求めによって私が書いたものである。人格を練るにも、学問するにも、研究するにも、天地一杯に充満したこの誠の精神を以て当たるのである。
どこまでも真理を探究して止まぬ誠実の精神は、西洋では学問する人の心に働いており、東洋では宗教家の心に働いている。日本人は西洋の学問を取り入れるに熱心であるが、その根本たる誠の精神を採っていない。ゆえに表面的な借り物に終わってしまう。当社はこの誠を会社の根本生命としているのである。
生命であるから、理解してそれで可しというものではない。誠は一生懸命の働きの先に見えて来るものである。古の孝子が親の病気を治したいと、寒中に水垢離するあの誠心である。
釈迦は摩伽陀国の浄飯王の王子であり、三昧殿という美麗なる宮殿に住み、妃は才色兼備の耶輸陀羅姫、二人の間には一子・羅睺羅まであって、人生の富貴歓楽を一身に集めていたのであるが、それら全ての愛着を抛擲(=投げ捨てる)して、「我もし正覚を遂げずんば、誓ってこの座を立たず」との精神で以て修業に入った。ソクラテース、マホメットもまたそういう精神で立った。
この誠心があれば、二心なく純一になれる。それを「妻子が可愛いから」とか、「男一匹、有てる力を試してみよう」などと、よそ見ばかりしているから純一になれない。諸君はこの会社にいるのであれば、会社を信じ、社訓を守って他を思うべきでない。今も今で、この講義に一心・純一にならねばならぬ。私も今は心中に諸君あるのみ、神も国家も天も地もない。而してまた神の事を思う時には、神の他に一切何もないのである。
然らば誠とは何か。それは「古今に通じて謬まらず、中外に施して悖らず(=間違いがない)」(教育勅語)と仰せられた永久不滅の道である。諸君は他日(=将来)、当社の幹部となって働く人たちである。その時、この誠を体現していなければ、決して人は服さない。まさに「十目の視る所、十手の指す所、それ厳(=厳格)なるかな」(大学)である。これは私の十八年間の教育の結論でもある。
誠でさえあれば、たとえ愚鈍に見えても、結局は信ぜられる。孔子は曾参を、「参や魯なり(=曾参は愚かで鈍い)」(論語・先進)と評したが、他ならぬその曾参が孔子の道を継承したのである(=『大学』を講述し、『孝経』を編集し、その学問を子思[=孔子の孫、『中庸』他の編者]に伝えたとされる)。
世智弁聡(=世知に長けて小賢しい事。「仏道八難」の一)は悟道の妨げとされる。木戸孝允は、「才子は才を恃み、愚は愚を守る。少年の才子は愚に如かず(=才ある者は才に頼り、愚者は愚直に徹する。若き日は才子たるより愚直なるがよい)」(偶成)
と言った。土を見て土と知るのは才智である。土を見て井戸を掘ろうと思い立つのが立志である。しかし孔子の水脈、釈迦の活泉は共に深い。ゆえに堅い覚悟を以て、実践躬行(=実際に自ら行なう)しなければ達しない。
(二)謙遜
謙遜も実践するとなるとなかなか難しい。謙遜の極みは虚心・無我である。すなわち我を無にし、心を空にするのである。
外部から郡是へ入って来た人は、どうしても自分の過去の経験の物差しで測るから、なかなかわからない。法律を修めた人は法に縛られ、学問を積んだ人は学問に捕われ、修業した人は修業に泥む(=拘泥する)。いかなる学問があろうと、いかなる知識があろうと、一切捨てて掛からねば入れない。
古人は謙遜の徳を積む事に非常に苦心した。張良(=劉邦を援けて前漢を創始した功臣)は「容貌は婦人の如し」と太史公(=『史記』を著わした司馬遷)が記しているが、若い頃はなかなか気性の激しい人であった。秦の始皇帝を暗殺しようと、力士を雇って、百二十斤(=30kg)の鉄槌を皇帝の馬車めがけて投げ付けさせたが、護衛の車に当って失敗に終わった。
それから命辛々、下邳まで逃げ伸び、坏上(=石橋の上)で黄石公という不思議な老人に出会った。老人は履いていた鞋をわざと水に落として、「拾って来い」と命じる。「何様の積りか」と腹を立てたが、何しろ追われている身でもあり、ここで事を荒立ててはまずいと思って言われたとおりにすると、「孺子(=若造ながら)教うべし。五日後、また此処に来い」と言う。言われた日に行くと、老人が待っていて、「年長者を待たせるとは礼儀を知らぬ奴だ」と叱りつけ、「五日後にまた来い」と言う。今度は夜明けを待って行くと、すでに老人は来ていて、「駄目だ、もっと早く来い」と言う。「ならば」と、前日の夜から待ち続けて漸く老人に会えた。そして『太公望兵書』というものを手渡され、「これをよく学べば、帝王の軍師ともなれようぞ」と言われた。
猛勉強した張良は劉邦に見出だされ、その結果、かつて武力で倒せなかった秦を、智略でもって滅ぼす事に成功し、前漢四百年の大いなる基を扶植(=助け立てる)するに到った。
こうして功成り名を遂げた後は、「山の麓で黄色い石を見つけたら、それを儂じゃと思え」と言い残して去った老人(=前述の黄石公)の遺言を守って、穏やかな晩年を全うしたという。血気盛んであった若者が、謙遜を学んだ結果である。
(三)感恩
人天の恩を感じないような人は、そもそも心が美しくない。およそ天地の恩を感じないようでは、人として失格である。大気、光熱、風水、みな天の恵みである。また周囲からも日々、有形無形の恩恵を蒙っている。親の恩、師の恩、家族の恩、上司・部下の恩等々、みなそうである。自力だけで世が渡れると思ったら、甚だ浅薄である。社会の根本改革も感恩の心から起こる。労働問題・思想問題もこれで自然解決する。
大事業も感恩の心より成る。法然(=浄土宗開祖)、親鸞(=浄土真宗開祖)、ルーテル(=新教開祖)の改革もみな、神の恩を謝する篤い心から生まれた。日本国家の恩恵も、内地にいたのでは気づかないが、支那(=中国)など治安の乱れた国へ行くと、故国の実力というものが実感される。個人が護身する以上に、母国が守ってくれているのである。それを自分の力だと思い上がってはならない。それは会社という組織に身を置く者にもよくわかるであろう。若い人でも世間で侮られないのは、後ろに郡是が控えているからである。
(四)公義
基督は「まづ神の國とその義しき(=公義)を求めよ。然らば此等のもの(=衣食住)は皆なんぢらに加へらるべし」(マタイ6-33明治訳)と言われた。私の四十年間の経験から言っても、全くそのとおりである。出処進退(=就任・退任など身の処し方)みな公義に由らねばならない。公義に外れて、名利などが入るとたちまち醜態を晒す事になる。
ロシアから金品を貰って赤化思想(=社会主義・共産主義)を喧伝し、アメリカから裏金を得て共和思想を吹聴するなど以ての外である。そういう者は自分の信奉する国に籍を移せばよい。私利私欲のために公義を忘れ、自分の国を売るなど断じて許さるべきでない。
同じくまた、この会社に入ったからには、この会社の精神に従うのが当然である。どうしても気に喰わないなら、速やかに去るべきである。私など、明日の米が無い時でも、地位に恋々たる事は一度もなかった。粥を薄めて凌いだ日々もあるが、それでも俯仰天地に愧ずる所はなかった。
入社する際にはいろいろ誓い、懇願までして入って来て、入ってからあれこれ不平を言うのは卑怯である。私は十四歳の時、絵入り『三国志』を読んで関羽の人となりに打たれた。かの近藤勇もこれを読んで泣いたという。近藤は関羽の公義の心によって、荒くれどもを統率して行ったのである。
その関羽が麦城に囲まれて、敵方から降伏を勧告された時、
「我はもと解梁の武夫。漢中王(=劉備玄徳)と誓を結んで、恩を受くること身に余れり。あに義に背いて敵に降らんや。城もし破れば、快く討死せん。(・・・・)玉は砕けてもその白きを改めず、竹は焚けてもその節を毀わず、人は死しても名を失わず」
と返答した。我々もこの精神さえ持てば、世を隔てて(=時空を超えて)関羽と一になる。出処進退、何ぞ逡巡(=ためらい)あらんや。
(五)勤労
禅家の方で、「五百年間出(=五百年に一人の逸材)」と謳われた原の白隠(=江戸中期
の臨済僧。原は旧東海道宿場町の一つ)が、四十年の修行によって得た《勤》の意義は、
「天下の英雄、古今の豪傑(は)、みなこの一字より出頭(=頭角を現す)し来たる」
というものであった。
《凡人》とは読んで字の如く《人並みの人間》である。そこから嶄然と(=一段高く)他に抜きん出るのが偉人である。世に凡人は多く、偉人は少ない。《勤》の一字を勉めないからである。
「君子はその位に素して行ない、その外を願わず(=君子は己の置かれた境遇に応じて身を処し、それ以外を望まない)。富貴に素しては富貴に行ない、貧賤に素しては貧賤に行ない、夷狄に素しては夷狄に行ない(=未開の地にあれば未開の人らしく振舞い)、患難に素しては患難に行なう。君子は入るとして自得せざることなし(=君子たる者、いかなる境遇に置かれようと、必ず自ら充足するものである)」(中庸)
君子は貧賤・不自由・患難に直面しても乱れる事がない。
現今、「上流階級が働かないなら、無産階級もまた働かぬ」などと言い出すのは愚の骨頂で、せっかく与えられた勤労の尊さを知らぬ者の言う事である。今の国情は、ちょうど貧乏人の夫婦喧嘩のようなものである。そんな事に現を抜かしている場合ではないのであるが、それを許しているのもまた指導者の罪である。
私は日本を救いたい。勤労の精神で以て人々の人格を高め、民度を高め、国家を高め、世界を救いたいのである。武力ではない。完全の理想に向かって、誠を土台にして進めば、いつか世界は善くなる。遠大な事業であるが、その基礎は身近な教育である。
(六)完全の理想
完全の理想に向かって不断に進む事。それは言うは易く、行なうは難い。私は三十八年間修行して、その二十年目にこの会社に来た。この会社は「良き地」の畑(マタイ13-8)であるから、良き種が育つ事と思う。これを世界に広めて、世界を教化すれば、この世に天国が実現する。それには郡是の人が手本となって進まねばならぬ。どうか諸君は世界を変える使命を負っているつもりで、よく体得・実行されん事を望む。
山月先生文集(144)
山月子『女学雑誌』記事(十八)
愛
妙(=絶妙)なるかな、基督の愛、(それは)我らが(=我らの)汚れを洗うて雪の如く清からしめ、花の如く香らしむ。我、時として人に毀られ(=悪口され)、人に誤たる(=誤解される)。困難と悲哀と痛苦、具にこれを甞む(=経験する)。されど我、何ぞ基督の愛を離るるを得ん。何ぞ基督の愛を以て人を愛せざるを得ん。
富により、智により、義によりて、何事をも成し得べしと考えし頃の我(は)、真に及ばざりけり。人を教え、人を救い、人を助けんと思いし頃の我(は)、《彼我(=自他)》の思いの抜けずして、実に至らざりけり。愛よ、汝は我に人生の秘義を悟らしめたり。ああ神は即ち愛なり。我に愛ある時は、即ち神が我に在す時なり。我(が)、愛もて働く時は、即ち神が我に在りて働き給う時なり。自ら働かずして神が働く時、何ぞ自ら義なりなどと思わん(=どうして自分を正義の人間などと考えるだろうか)。なんぞ自ら教うる・救う・助くるなどと考えん。やむを得ずしてこれを言行に発せしのみ。義と思わずして義、忠と思わずして忠、孝と思わずして孝、信と思わずして信、全ての善事は愛の結ぶところの実(=果実・成果)なること、ああ我は真にこれを知る。
悠々として独り頭を挙ぐれば、喜悦の微笑(は)面(=顔)に溢る。讃美すべきかな基督の愛、而してこれを我に知らしめし人こそ、真に感謝すべきなれ。我は永遠に、未来までも、その人の徳(=厚意)を忘れざるべし。
ヨハネ曰く「未だ神を見し者なし、我等もし互いに相愛せば、神、我等の衷に居たまいて、彼を愛する愛を我等の衷に完全す」(ヨハネ1書4-12明治訳)と。ソロモン(=イスラエル第3代の王、旧約『雅歌』他の作者とされた)歌うて曰く、「愛は大水も消すこと能はず、洪水も溺らすこと能はず。人その家の一切の物をことごとく與へて愛に換ん(=愛を買い取ろう)とするも、尚いやしめらるべし(=軽笑されるだけだろう)」(雅歌8-7)と。
愛は生命なり、永久も堕つることなし。我(は)、愛に連なれば、即ち限りなき生命を得たるなり、永久も堕つることなきなり。紛々たる(=乱れて入り混じった)俗世の毀誉(は)、何ぞ我に関からん(=関係あろうか)。視よ、地上の大雨(が)盆を傾けるが如く、雷鳴轟き、電光閃く時(も)、芙蓉の山巓(=富士の山頂)は凞々として(=穏やかに)日光(が)輝くなり。 (明治25年2月25日 女学生第21号)
桜窓雑感
引(=導入の文)
昨夜、武を演ぜし庭前(=明治女学校では文武両道を尊び、星野天知などは武道も教えていた。彼は後に柳生心眼流第八世を襲名)は掃除全く了りて、桜花(は)旭日(=朝日)に笑う。書窓(より)花に対して(=書斎の窓から花を眺めて)恍乎自失する(=うっとりして我を忘れる)こと暫し。遽然として(=にわかに)自覚し来たれば、情は新たに、感は湧くが如く、筆を下せば、下篇(=以下の文章が)即ち成る。
(一)妄りに批評すること勿れ
我が家は富士の北麓にあり。三ッ峠山と倉見山は家の表裏に聳ゆ。幼時、これを見て思うに、倉見山(が)最も高く、三ッ峠(が)これに次ぎ、富士山は次の次なりと。何ぞ知らん(=どうして知ろうか)、富士こそこれ日本第一の高山、三ッ峠は郡内(=山梨県東部、桂川流域、南・北都留郡の古称)屈指の高嶺(=1785㍍)にして、倉見山は地誌にも載せられざる低山(=1256㍍)なりしこと。
燕雀(=燕や雀)が鴻鵠(=鴻や鵠)の志を知り得ざる(=「燕雀、安んぞ鴻鵠の志を知らんや」[史記])は、まさに真なり。童子は大人の心を知る由もなし。思えば我等もまた、妄りに(=思慮もなく)人を評すべからず。「人を議すること勿れ」(マタイ8-1明治訳)との基督の戒めは、千載(=長い年月)を経るも益々新たに、益々真なるを感ず。世にも憐れむべきは、自ら小なることを悟らずして、妄りに人を評定し去る人なり。我はこれらの人の為に、(憐憫の)熱涙膝を湿すを知らざるなり(=気付かぬほどである)。
(二)弁解
他人を愛し、自分を信ずる人は、他人の為に自分を弁解せんと思うことあり。何となれば、他人が自分を誤解するは、他人にとりて不幸・不利なる事を知ればなり。されど記憶せよ、沈黙こそ最も雄弁な弁解なることを。汝(が)、他(人)を愛し他を憐れまば、他の魂の為に、誠実に神に祈れ。神は自らよりも他を愛する者にあらずや。我等の願い、もし善ならば、如何で(=どうして)神に聴かれざることあらん。
(三)改革家を改革すべし
現今、不適任の自称改革家多し。我等は一層深く養い、高く任じて(=自任して)、世の所謂改革家を改革せざるべからず(=しなければならない)。
(四)当今の人士
当今の人士(=地位・教養のある人の)、多くは余裕なし、薀蓄(=知識・学識の蓄え)なし。一見すればその人の腹中、見え透くが如し。交わること久しうして、美点・長所の次第に顕わるるが如き人物は幾人やある。「見渡せば花も紅葉もなかりけり」(藤原定家)、突進の士卒(=兵卒)はあれども、胆大・寛弘・仁愛の大将なし。古歌に曰く、
「人多き人の中にも人ぞなき。人となれ(=人士たれ)人、人となせ(=人士を育てよ)人」(空海)。
(五)顕と隠
陳勝、呉広(=共に兵を挙げて秦朝滅亡の端を開いた人物)が出た時、天下は項羽(=秦を滅ぼし、楚王となった覇者)の出で来ることを知らず、まして高祖(=項羽を垓下に破って天下を統一、漢王朝を建てた劉邦)の存在など知る由もなし。
小人はただ眼前に顕れた現実のみを見、達観の士は、未だ隠れたる処にその眼光を注ぐ。
(六)宋襄の仁
姑息(=その場しのぎ)の愛・偏小の義は、路傍の乞食を憐れんで銭を恵むことあり。而して艱難の中、貧苦の家、悲哀の境(=境遇)、義人烈女、愛国憂世の志を伸ぶるに由なく(=大志を伸ばしてやる手立ては持たず)、風前月下(=居心地よい時節の美しい光景。ここは風前灯下[=風前の灯火の如く危うい境遇]の誤記か?)に暗涙を飲む(=人知れず涙ぐむ)者あれども、未だかつてこれに対して同情を表し、この為に一掬(=一滴)の涙を注ぐ者あるを聞かず。
三歎す(=繰り返し嘆く)、現今の宗教信者(にして)、宋襄の仁(=宋の襄公は「楚の布陣が整う前に撃つべし」との進言を、「仁に反する」と退け、反って楚に敗れ去った故事から、《無益の情け・場違いな憐れみ》を言う)に似たるもの多きことを。
(七)哀苦と偉人
我等が種々の悲哀と苦痛を蒙るは、(一)には、よく至誠を養い、(二)には、世間多くの苦しみ悲しむ人々に同情を表し、よくこれを慰め、これを導くことを得んが為、我等の心にまずその経験を与え給う神の摂理(=神慮)なり。幾多の人の経験を一身に持つは、即ちその人の偉大なるところなり。故にその苦痛・悲哀の山の如くなるとも(=山のような苦痛・悲哀に見舞われても)、喜び謝して受くべきなり。
(八)円満の愛
「我、愈々爾曹を愛すれば、愈々爾曹に愛せられず、されど喜びて爾曹の霊魂の爲に財を費やし、身を盡すべし」(コリント後12-15明治訳)と記ししパウロの心は如何に美しく、如何に大なるかな。
十字架上に己(=キリスト)を殺す者の為に、「父よ、彼らを赦し給へ、その爲す所を知らざればなり」(ルカ23-34)と祈り給いし基督の心に至りては、我等(は)何の言を以ってこれを讃美すべきやを知らざるなり。ああ我等(は)深くこれを思わば、よく円満の愛を悟ることを得んか。
(九)神の子の伝記
汝は親に対して孝なるか、兄弟に対して愛あるか、朋友に対して信あるか、神を確信して深愛するか、貧困・艱難・悲哀・疾病に、およそ打ち勝つことを得るか、永遠に忍びて神の為・人の為に使わるるか。汝の日々の一言一行は、まさに汝の伝記を書きつつあるなり。努めよ、「神の子の伝記に新たなる一頁を加えんことを」(ウイリアム・ブース)。而して神の子の伝記は善美ならざるべからず(=善美でなければならぬ)。基督曰く、「如此するは、天に在す爾曹の父の子とならん爲なり」(マタイ5-45明治訳)と。
(十)基督を讃美す
「此の時イエス、心に喜びて曰ひけるは、天地の主なる父よ、此の事を智者と達者とに隠して、赤子に顕し給ふ事を謝す。父よ然り、これ是の如は聖旨に適へるなり」(同11-25~26)。
ああ主は今も在せり。当時の弟子に喜び給いたれば、今の弟子たる我の、一事を悟れることに於いても、深く喜び給うものと信ず。これを思えば、感謝喜悦の念、自ら禁ずること能わざるなり。ああ我もし讃美せずんば、「石まさに叫ぶべし」(ハバクク2-11)。
(明治25年3月22日 女学生第22号)
]]>前二回に亙り、『神に対する基督』を話したが、今朝は『人に対する基督』について、諸君とともに考えてみたい。
基督が人間に対して要求された事は、
第一に悔改
「なんぢら悔改めよ、天國は近づきたり」(マタイ4-17)
これを伝道の第一番に言われた。
人心は常に雑多なものの支配を受け易く、神や道の支配を受けることは少ない。多くはこの世の名利・罪・迷いに支配されている。そういう人の心は天国とは程遠いものである。しかも時々刻々変化して安定しない。
我が日本国が、万世一系の天皇によって治められている如く、常に神の支配を受けるようになれば、心は清く平和になり、天国が齎される。その清和が家庭に及び、国家・世界に及べば、この世はそのまま天国となる。
1、個人的天国
2、社会的・国家的・人類的天国
ただ一個人が救われても、この世に天国は招来されない。全体が救われなければならない。故に「なんぢら悔改めよ」、と複数形で言われたのである。全ての人が天国に入れるようにというのが、基督の御心である。一個人の救いよりも、衆人と共に救われるのが愛である。自分だけ天国に行きたいというのは間違っている。
ただし順序としては自分が先でなければならない。まず自分が先に立って、皆を天国へと導くのである。そこを忘れて、自分さえ救われればよいというのでは、むしろ地獄に墜ちる。少しでも利己心があると、そこに罪と迷いが付着するので、「よく悔い改めよ」と警告された。各自、これを自分に向けられた戒めと考えねばならぬ。さもないと、信仰が自分にとって《直接》のものとならない。
人は本来、神によって造られた。それにも関わらず、それを忘れて罪や迷いに落ち、好き勝手をして、世の中を悪くしてしまった。そこで第一番に「悔い改めよ」と戒められたのである。
我々日本人ばかりでなく、西欧の人々もよく考え直さねばならぬ。彼らは先輩面をしながら、実際には何を行なっているか。政治政党のように頭数ばかり増やしても、(信仰や良心においては)何にもならない。
知識の方面で「盲人千人、眼開き一人」などと言うが、徳の方面でも正しい人間は極く少ない。それでも、その数少ない善人が、迷える多くの人を救うことが、神の思召しである。基督も「人の子の來れるは失せたる者(=迷える者)を救はん爲なり」(マタイ18-11異文)と言われている。
ここで基督の救いと浄土真宗の救いとを比較してみたい。
真宗ではわざわざ悔い改めなくとも、「この身(は)、このまま救われる」と言う。一見基督以上に慈悲深いように思えるので、基督教から転向する人もいる。そもそも真宗は(乱世に生まれたため)何より《安心》に重きを置いて、「悪のままでも如来の慈悲は降る(=救われる)」と教えているのである。
一方、基督の救いは聖化による安心である。安心よりも聖化が本旨である。
「罪人よ、手を浄めよ、二心の者よ、心を潔よくせよ。(・・・・)主の前に己を卑うせよ、然らば主(は)なんぢらを高うし給はん」(ヤコブ4-8~10)。
要するに救われて後、どこに出るかが問題である。基督の救いは、過去の悪と汚れを取り去って清くし、神の前に安心して出られるようにするのである。
第二に、神の名を崇める事
主の祈りの冒頭に言われている、
「天にいます我らの父よ、願くは御名の崇められん事を」(マタイ6-9)と。
ちょうど日本国民にとって、陛下の御名を崇めることが忠誠の発露となっているのと同じである。基督の信仰においては、何よりもまず神の御名が崇められん事、それから天国の来たらん事、そして聖旨(=神の思召し)が地上に行なわれん事を願い、自分の安寧を願うのは、漸くその次である。
第三に、御国(=天国)の来たらん事
神は完全な愛と智と無限の力とを持っておられる。その神に信頼して安心せよと教えられた。
今の人が専ら考えることは生活の心配である。満州事変(=昭和6年、柳条湖の鉄道爆破事件を契機に戦闘が勃発し、やがて日中戦争へと拡大する)以降は少し変わったが、それ以前は、自分がどう生計を立てるか、学生なら、どこに就職するかが最大の問題であった。
しかし私どもの親である神様は、愛と智と力の持ち主であるから、これにお任せして何ら心配は無いのである。
「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。(・・・・)さらば何を食ひ、何を飲み、何を著んとて思ひ煩ふな。(・・・・)汝らの天の父は凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。まづ神の國と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。この故に明日のことを思い煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり」(マタイ6-26~34)
それでは心配だと思うかも知れないが、私など実際このままに通して来た。私が故郷を出た時は、片道の旅費しか持っていなかったし、後に、「信仰を(新教から旧教に)変えるなら高給を支払う」と持ち掛けられた時も、食うに事欠く日々ではあったけれども、きっぱりと断った。
およそ事業家が求めるのは、何よりも真面目で向上心ある人間である。与えられた職責を、責任を持って果たしていく人は、上からも、下からも、同僚からも信用されて、自然に責任ある地位に就いていく。まして神の眼は人間以上であって、私の心の状態も、諸君の心の内も、みな見透しておられるのであるから、私どもは信頼し、安心して働いていけばよいのである。「思ひ煩ふな」と言われたのはそれである。
第四に、汝ら慎みて此の小さき者の一人をも侮るな
謙遜の心を養い、人の人格を尊重せよと言われた。当時のユダヤ人は、神が人間一人一人を支配しているという信仰を持っていた。一人一人が神に護られているのであるから、これを尊重せねばならぬ。
西洋人の中でも、特にアングロ・サクソン(=英国系ゲルマン民族)は人種として誇り高い一方、他の人種を蔑視し、それが排日運動などにも反映している。しかしまた、日本人自体も、朝鮮人・支那(=中国)人・インド人に対してどうであるか、よく反省しなければならない。世界を善くしたいのであれば、まず人に対してどう考えるのか。優越感などで働いていると、いくら教育しようと伝道しようと、決して人は付いて来ない。
法華経に出て来る常不軽菩薩は、どんな人に対しても仏性を認めて、深々とお辞儀をした。ある男が「人を馬鹿にするな」と拳を振り上げたら、それを避けつつ低頭したという。
ドイツの片田舎の小学校の一教師も、「将来、この中からどんな偉人が出て来るかも知れぬ」と、児童一人一人に丁寧に頭を下げた。果たせるかな後年、その中からマルチン・ルーテル(=新教の開祖)が出た。
私が群馬県にいた頃、ある中学校の校長が、これと同じような精神でもって運営に当たり、それまで乱れていた校風を見事に建て直した。この人を校長に呼んだ県知事は、かつてこの先生の教え子であったという。
第五に、人を愛し、人を容れ、妄りに批評・非難せぬ事
「なんぢら人を審くな」(マタイ7-1)
宗教家・道徳家の陥りやすい弊は、とかく人を批判し、見下したがることである。それは神の御心や人間の実態というものを、ただ観念的に学んで、それを実際に己に当て嵌めて省みることなく、人にばかり要求するからである。それを基督は、「なんぢら教法師も禍害なる哉、なんぢら(は)擔ひ難き荷を人に負わせ、自ら(は)指一つだに其の荷につけぬなり(=少しも手助けしない)」(ルカ11-46)と戒められた。そういう独善に陥らぬために、「なんぢら人を審くな」と言われた。自分にも人にも短所・欠点はある。故にまず自分が実行して見せて、それから人にも要求する。それで自然に寛大になれるのである。「己を持する(=保つ)に厳、人を待つ(=期待する)に寛たれ」と古来言われている。
基督はそれをさらに徹底して言われた。ペテロが「人を許すに七度までか」と聞いたのに対して、基督は「七度を七十倍すべし」(マタイ18-21~22)と言われ、さらには、「汝らを詛ふ者を祝し、汝らを辱しむる者のために祈れ」(ルカ6-28)と言われた。無限に寛大な広い精神である。罪を救うという点から見ると、基督はまさに世界の大救主であり、人類の大師表(=師範たるべき人)である。
第六、天父の完全なる如く完全なるべき事
私の説く《完全》はここから立てたものである。《完全》とはどういう事か。基督ご自身が神を完全に体現なさっており、「我と父とは一つなり」(ヨハネ10-30)、「我を見し者は父を見しなり」(同14-9)とおっしゃっている。基督を研究すればするほど、基督は神の性質を完全に具体化なさっていることがわかる。
故に神を完全に知るには、基督を完全に学ぶことである。どの聖人と較べても、最も完全に神を見ておられ、神と完全に一つになっておられるのである。人格の絶大から言えば、「凡ての物は、我わが父より委ねられたり」(マタイ11-27)と言われ、智の偉大さから言うと、天地創造以前から神との関係を持っておられて、「世の創より汝等のために備へられたる國を嗣げ」(同25-34)と、神に代わって宣言なさっている。
このように、どこまでも完全にして絶大なる基督を学ぶと、どこまで行っても止まることがない。無限に学んでいけば、やがて孔子やパウロと同じ精神を持つことができる。そんな愉快な(=楽しい)ことはない。孔子は「老いの将に至らんとするを知らず」(論語・述而)と言ったが、永遠に学ぶ者は、永遠の生命を得るのである。
十字架の刑は、体の全体重を手足三本の釘だけで支えるのであるから、苦痛極まりない処刑法である。さすがにローマ市民には適応されず、異邦の、しかも強盗・殺人など大罪の者にしか適用されなかった。基督はそんな極刑を、極悪人たちと並んでお受けになり、しかも群衆の罵詈雑言を一身に浴びつつ、「父よ、彼らを赦し給へ、その爲す所を知らざればなり」(ルカ23-34)と祈られた。
斯くも広い愛には、いかなる悪人と雖も感化される。共に十字架に付けられた強盗までが、基督に悪態をつく中、その一人が「此の人は何の不善をも爲さざりき」とたしなめた。それに対して基督は、「今日なんぢは我と偕にパラダイスに在るべし」(同-41~43)と言われた。最後の最後まで人を救われたのである。深くかつ篤い愛である。
パウロはそこに感動して、「義人のために死ぬるもの殆どなし、仁者のためには死ぬることを厭はぬ者もやあらん。然れど我等がなほ罪人たりし時、キリスト(が)我等のために死に給ひしに由りて、云々」(ロマ5-7)と言った。
昔、私は『日本外史』(=頼山陽の史書)を繙き、楠木正成が湊川で部下と共に死ぬ場面を読んで(その義に)涙した。その時、自刃した楠木一党の中にただ一人、菊池姓の武将が混じっていた。菊池武吉(=肥後菊池氏の一族。湊川の戦いに参戦、敢えて落ち延びることなく、楠木兄弟と共に自害した)である。恩義ある楠木氏の最期を見届けるよう、兄(=菊池武重)に命ぜられてやって来たのであるが、従容として死に就く兵どもを目の当たりにして、もはや立ち去るに忍びず、自ら願って共に果てたものである。
『三国志』を読んでも、(義と愛の)玄徳のためなら喜んで死ぬ者が出て来る。しかし悪人の為に進んで死ぬものはいない。ところが、
「我等がなほ罪人たりし時、キリスト(が)我等のために死に給ひしに由りて、神は我らに對する愛をあらはし給へり」(前出)。
また弟子たちを伝道にお遣しになるに当たって、基督は訓戒された
「われ新しき誡命を汝らに與ふ、なんぢら相愛すべし。わが汝らを愛せしごとく、汝らも相愛すべし」(ヨハネ13-34)と。愛は何物にも勝って強いのである。
教訓集第一巻より
大正十四年十二月十八日(於・原料科研究会)
まずこの題の意味についてお話しする。それがわかっただけでも、大いなる進歩である。
従来、世間では、《信仰》を説く人は《修養》を抜きにし、《修養》を説く人は《信仰》を抜きにし、各々一方だけに偏して、いずれも徹底しなかった。修養を説く人は実行せず、実行を説く人は修養しない。それでは完全ではない。私の道は、「信中に修あり、修中に信あり」、換言すれば「修中に行あり、行中に修あり」である。新井奥𨗉さん(=川合山月の旧師)は「二而一の道」と言って、修と行の一体たるべきことを説かれた。それさえできれば、私の話など聞かなくても可いくらいのものである。
この研究会は四日間であるが、その間、ただ《研究》しただけでは駄目である。研究したことは実行し、実行することは研究するのである。そのつもりで聴講すれば、この後の話が活きたものとなる。
(一)他を羨むべからず
今の時勢、妬みの心が社会を支配している。貧者は金持を羨み、不遇者は成功者を羨む。そういう世相の中に栖んでいると、無関係な者まで感染してしまう。二木(謙三)博士(=日本疫学界の重鎮。郡是衛生顧問)によれば、人は黴菌など吸い込んでも、体が健全ならばむやみに感染などしないという。それと同じで、心中に名利の念などなければ、人を羨む気持など起こらないものである。
しかし人は、自分の仕事は辛く、他人の仕事は楽に見えるものである。
天龍寺の管長・橋本峨山は大酒呑みで知られたが、廃仏毀釈の嵐の中、巨大教団を守り抜いた苦労は一とおりのものではなかった筈である。世間はそういう所は見ずに、ただ表面の姿のみを見る。
ドイツのビスマルク(=ドイツ統一を果たし、長くヨーロッパ外交を主導した鉄血宰相)の名声は世界に轟いていたが、「我が生涯の安息の日は、一週間もあったであろうか」と述懐している。
「貴きこと天子たり、富むこと四海を有つ」(孔子家語)という句さながらの栄華を誇ったロシアの皇帝(=ニコライ2世)も、革命によって無残な死を遂げた(=大正7年)。およそ世界の歴史を繙くに、一天万乗の君(=天下に君臨する君王)にして暗殺された者が二百五十人、断頭台上に消えた者が百八人、なぶり殺しに遭った者が二十五人、発狂・幽閉せられた者が三十四人、戦死せる者が百二十三人、自殺せし者は二十一人を数える。これを見れば、人世の栄耀栄華は非常な悲惨・危険と背中合わせである事を知る。
片や、修養修道によって積む心の富は、世がいかに変わろうとも奪われようがない。諸君は地位や金銭に心動かされる事などないと思うが、いつの時代も人心は滔々として(=止めどなく)低きに就くものであるから、油断していると引き込まれる。これは消極的方面での注意である。
(二)誠を一貫する
人生の陰陽・順逆(=順境と逆境)・栄辱・禍福、さまざまに起伏する中、終始変わることなく、誠一筋に貫き通すことである。しかし陽順栄福の時は可いが、逆の時はぐらつき易い。社訓の最初に「誠を一貫して」と置いたのはそのためである。孔子は、
「吾が道は一以てこれを貫く(=私はただ一つの道を貫いている)」(論語・里仁)
と言った。本来、誠は一貫すべきもので、一貫しない誠というものはない。
明智光秀は晩節を過った人であるが、その臣下には秀でた人が多かった。かつて諸将が光秀宅に集まって閑談していた時、縁側を行く人影が障子に映った。その影は座敷の前に坐して、黙って一礼して通った。一同は感心して、「あれは誰か」ということになった。光秀は、「あれは三宅弥平治に違いあるまい」と言って召し出すと、果たして左馬介光春(=弥平治の別名。明智軍の侍大将)であった。陰日向なく主君に仕えるこの名将は、(光秀が山崎で敗死したことを知るや、安土城を出て琵琶湖を渡り、堀秀政と一戦交えて自刃するのであるが)、馬に乗って湖を押し渡るその姿が、「人か龍か」と敵味方を感嘆させたという。
彼は大津に上陸後、安土城由来の由緒ある宝物と共に、その愛馬をも敵方に贈った。馬は後に秀吉の愛乗するところとなったのであるが、同じ戦国武将の松永弾正が、愛用の茶釜を信長風情(=信長ごとき者)に渡すまいと、釜もろ共に爆死した蛮行に比して、実に栄えある美談として史家の称賛するところとなり、日本武士の亀鑑(=手本)として長く語り伝えられている。
順逆・栄辱を通じて誠を一貫する者は、斯くの如くである。
(三)寛仁の徳
人には長所・短所がある。その長短共に知らねば人を用いる事はできず、教育する事もできない。特にその長所を認めて用いる事が大切である。然るに現実には、むしろ人の短所ばかり見付けて、挙げつらうことが多い。それでは人の上に立つ者としての徳に欠ける。人の短所は咎めずに改めさせるべきものである。人間は初めから完全な者はない。然るにその不完全な人間が、他人には完全を求め、その短所を責めるのであるから理に合わぬ。
人に接し人を導くには、寛仁の徳を要する。この徳は陽光のように、温かく万物を育てる。一方、人間の厳格は氷雪のようなもので、時には必要であるが、常に凍てつく寒さでは草木も育たない。平生は春のような寛仁の徳を以て接する事が望ましい。
ロシアのペートル大帝(=ピョートル一世)は、北の後進国ロシアを一躍雄飛せしめんと、二十余名の家来を引き連れて諸国を巡った。時には自ら従者に身をやつして、オランダでは船大工になり、また靴職人になって、活きた知識を貪欲に吸収して帰り、ロシアの近代化を一気に押し進めた。
世間の実相をつぶさに見、よく下情(=庶民の実情)に通じていた大帝は、人を登用するに際しても、当該者の欠点のみが云々(=あれこれ言う)されると、「この者に善い方面は一つも無いのか」と念を押すのであった。およそ世の暗君は逆で、人の流す悪評のみを盲信して、あたら(=惜しい事に)有能な人材を取り逃がすのである。
寛仁の徳は、生まれつき有する人もあれば、修養して得られるものでもある。
(三)機先を制する
易経に、「機(=ここぞと言う時)を知るはそれ神(=神技)か」とあるが、人の精神が真に充実し、油断なき時には、機を見る事ができる。
文武両道ともに、機を制する事により、人に擢んでて行ける。(当社の)寮舎の管理に
しても、日頃から教育を主体にしておれば、先手を打つ事ができる。然るに何かが起こってから、「ああしようか、こうしようか」と慌てても、すでに後手に回っている。
人の短所の防ぎ方(=取り締まり法)など考えていては、幾人掛かっても追い付かない。
あ機先を制せず、人後に付いていては駄目である。救世軍の(創始者の)ウィリアム・ブース氏には八人の子供があった。八人みな立派に育っていたので、ある人が、「いかにして斯くも立派に教育なさったか」と問うと、「悪魔の先を越しただけです」と答えた。即ち子供の心に悪念の起こらぬうちに、その精神を善い方向に導いたのである。
当社なら社訓の実行が《機先》に当る。社長も専務も社訓の徹底に腐心しておられるが、いくら上(=幹部)が努力しても、中間で止まって、下にまで届かないようではいけない。寮舎の事も、会社の事も、天下国家の事も、修養実行の事も、全てみな機先を制する事が肝要である。
(四)予算
算盤上の予算ではない。もっと広い意味での予算である。孫子(=中国春秋時代の兵法家)は
「算多きものは勝ち、算寡なきものは敗る」
と言った。孫子の言う《算》とは《物量》であるが、精神上の《度量》と考えてもよい。修養して度量が大きくなれば、百人を容れる事ができる。一国が、徳においても、智においても、力においても、度量が大きければ、外交上、世界を呑む事もできる。
未だ戦わざる前に勝敗を知るのが名将である。北条氏康は武田・上杉と並ぶ名君であった。関東八州を併呑したのは全くその度量によるものであった。その子が氏政であるが、ある日、父子揃って食事を執っている時、氏政は飯に汁を掛けて食し始めたのであるが、途中で継ぎ足し、さらにまた足した。氏康はそれを見て、「我が愚息は《予算》というものを知らぬ。これでは関八州は持ちこたえられまい」と危惧し、果たしてそのとおりになってしまった。
(五)献身の精神と実行
私は青年時代、献身的精神で以て修養した。今は世が変わって、「人に献身するなど馬鹿馬鹿しい」と一笑に付してしまう。しかしこの単純な自己本位の考え方も、近年は少しずつ変わって来たように思う。人類は波動(=上がり下がり)しながらも、徐々に上昇して行くものと私は信ずる。
まずはドイツである。敗戦の莫大な負債を返却すべく、労働者たちが献身的に働いている。またロシアを旅したストロング女史(=不詳)は、汽車旅行が快適であったことを述べ、「労農ロシア(=旧ソビエト連邦)の労働者が献身的に働いている結果である」と報告している。
今や世界は斯くの如くであるから、日本も覚醒しなければならぬ。諸君が日ごろ接する養蚕農家などにも、この精神を以て当たり、この清新の気風を伝えて行って貰いたい(=原料科職員は養蚕技術の指導から、養蚕家庭の生活指導まで受け持っていた)。それが国家の衰亡を防ぐ一助ともなる。
(六)他からの称賛を得意がるべからず
近年、この郡是も世界に認められ、注目されるようになって来た。こういう時にこそ、気を引き締めないと失敗する。先年、ウィリアム・スキンナー氏(=スキンナー商会会長)が横浜に上陸した際、某記者が「米国は日本の生糸を本格的に輸入する用意があるのか」と問うたのに対して、氏は「郡是のような糸なら、幾らでも買う」と明快に答えた。当時、郡是の名は国内でも殆ど知られていなかったので、世人は驚いた。前社長は喜ばれ、社員一同も非常に誇らしく思ったのであったが、それから三、四年も経たぬうちに、他社の製品もどんどん良くなって来た。こちらが安心して止まっている間に、他社は絶えず進歩しているのである。
然ればこそ、我々は完全を目標として進まなければならない。褒められれば褒められるほど、なおも完全に向かって進んで行くのである。
中国三国時代、曹操は赤壁の惨敗後も、武臣には武芸を磨かせ、文官には詩文を創らせていた。その中に鍾繇という者がいて、曹操を大いに褒め称えて、
「主人(=曹操)の盛徳は尭舜(=共に中国古代の伝説的聖天子)に斉し、願わくは昇平(=世の平和が)万々年(続く)の楽を」
と謳った。曹操は敢えて「当たらず(=評価が当たっていない、褒め過ぎである)」と言ったが、心中、非常にこれを喜んだ。おかげで鍾繇は、姦雄(=曹操の如き悪知恵に長けた英雄)の阿諛(=阿り諂う)の臣として後世に名を残す事になってしまった。
かつて日本でも、某儒臣がその君侯(=毛利元就)を「尭舜の徳あり」と称揚した。すると侯は、「尭舜に汝の如き佞臣(=媚び諂う臣下)なし」と窘め、儒者も大いに愧じたと伝わる。およそ人の評価など当てにはならぬ。そんなものに一喜一憂するのは愚かしいことである。
(七)道に対する信仰と実行
真宗(=浄土真宗)中興の祖と言われる蓮如上人は、かつて弟子に戒めて曰く、「己に信無くして(=信仰がないのに)、人に信ぜよと言うは、物を有たずして、これを与えんとするが如し」と。実にそのとおりである。諸君が工員を善くし、養蚕農家を善くするには、まず己に徳を修めねばならぬ。
コンコード(=米国北部、ボストン近郷の町)の哲人エマーソン(=19世紀米国の思想家)はナポレオンを評して、「彼は道徳無しに為し得る事業の全てを行った。その結果として実に幾百万の人を殺し、欧州全土を撹乱した以外に、何も齎さなかった」と言った。
また我が明治維新とドイツの興隆は、殆ど時を同じうして行なわれたが、名宰相ビスマルク亡き後のドイツは、現状の如く(=欧州大戦敗北)になってしまった。片や我が日本は、依然として泰山(=中国山東省の名山)の安きに居る。誠の土台が違っていたのである。
郡是も信州系(=片倉製糸)を見倣って、専ら智と力で経営して行こうと考える者がいるが、真の事業はそれだけで成り立つものではない。どうしても心の誠が必要である。神が天地を経営なさるが如き誠心が必要なのである。
私の考えはエマーソンとは違う。私はエマーソンの言った誠と、ナポレオンの持っていた智と力の両方を兼ね備えて行くこと、すなわち獅子に翼を付けるが如き事業を目指している。それによって国家も世界も善くして行けるのである。
日本が徳を捨てて西欧の知識にかぶれている間に、かの英国においては、西洋の知識の上に東洋の徳を併せ取り入れようとしている。油断してはおられぬ。
我が郡是の創業は前社長の悲願であったが、それでも社長の誠意は容易に下にまで浸透しなかった。それで「丹波綾部の郡是製糸、娘やらずに(=娘を入社させるよりも)繭を売れ」という戯れ歌まで流れた。
社員も初めは、「川合先生のお話は、理想として聞いておけばよい。実行できるのは先生だけで、日々実務に追われる工場では、《完全》など到底無理だ」と片付けていたが、社長も出て来て、毎回同じ事を言われるので、「ならば本気で掛からねば」という気になって来たのである。
それでもなお、社訓の精神の徹底は、今もって充分とは言えないのである。
山月先生文集(142)
山月子『女学雑誌』記事(十六)
(1)苦腸百回
独り病床に臥して、訪う者もなく、慰むる者もなし。寂々寥々、飲食すら定期に摂ること能わず。悄然(=打ち萎れて)、故郷のことを思い、かつ亡き母の暖かなる看護を追慕す。一身(=我が身)の前途、同志者の将来、思い悩みて苦腸百回す(=繰り返し心を苦しめる)。
(2)愛の摂理
営々忙々、世の務めに追われ、知らざる間に霊性の飢えを覚えし者に、思考の期を与え、生命のパンと活ける水とを与うるものは、哀苦なるかな、疾病なるかな。伝道者の言に曰く、「汝、神の作爲を考ふべし。神の曲たまひし者は、誰かこれを直くすることを得ん。幸福有る日には楽め、禍患有る日には考へよ。神はこの二者をあひ交錯て降したまふ。是は人をして、その後(=将来・未来)の事を知ることなからしめんためなり」(伝道之書7-13~14)と。ああ神の摂理(=神慮。この場合は哀苦・疾病をくだされたこと)、何ぞ徒に(=無駄に)苦しむことをせん。安んじて思考すべきかな。
(3)主と我等
終宵転々(=夜通し寝返りを打つ)、病苦眠ること能わず。肉疲れ、心悩むを如何にせんか。
忽然として(=突然に)思う、主の十字架。「ああ主は我が上に在せり。而して我が病苦と我が心痛とに、限りなく同情を表し給うにあらずや」。かく思う瞬時にして、病苦半ばを減ず。花の自然に開くが如き微笑(は)頬に上り、露の麗しく玉なすが如き涙(は)目に湿う。我は祈る「我が霊、主と一なれ(=合一せよ)」と。ああ主は既に苦痛(=十字架)に勝ち給えり。我もまた主によりて勝つべし。
顧みれば我は凡ての人に優りて罪人(=良心に咎め多きき者)なり。然るに主はこれを棄て給わず、愛し、導き、護りて今日に至れり。されば我は今も、今より後も、限りなき恩恵の下にあるなり。ああ主は我を愛す、我が同朋を愛す。我が愛(が)、如何に深くとも、焉んぞ(=どうして)主の愛に及ばん。されば我(は)、尽し得べきを尽して、主に祈り、主に任せん。痛苦の波風、漸く収まり、平和の思海、穏やかに陽を受く。
(4)まず己に反求す
心に至らざる(=不完全な)処あり、而して(=その結果として)言行(に)至らざる処あり。この故に神の前に自省することを要す。我もし人を誤解せば、これ大なる恥辱なり。宜しく(=当然)己に反求(=自分自身に問い求める)し、神に謝(=謝罪)し、人に謝すべし。我もし人に誤解せらるれば、同じく恥辱なり。同じく己に反求すべし。
孟子曰く、「行に得ざる(=予期する所に達しない)もの有れば、みなこれを己に反み求む。その身(を)正しうして、而して天下これに帰せん(=自分が真に正しければ、天下の人は必ず帰服するものである)」(孟子・離婁上)と。滔々たる(=止めようもなく低きに流れる)世人(は)、何ぞ(=どうして)井蛙(=「井の中の蛙」。見聞の狭い人間)の人物評に流れて(=人物批評を安直に信じて)、自己を猛省する事の足らざるや。
主の言に曰く「爾、兄弟の目にある物屑を視て、己が目にある梁木(=太い横木。視界を遮るもの)を知らざるは何ぞや」(マタイ7-3明治訳)と。またパウロの書に曰く、「爾何ぞ兄弟を罪するや、何ぞその兄弟を藐視るや、我儕は皆キリストの台前に立つべき者なり、記して主の曰い給へるは、我は活る神、全ての膝は我が前に屈まり(=万人は身を屈めて私を礼拝する)、凡ての舌は我を讃美すべしとあるが如し。是故に我儕各々己の事を神に訴うべし」(ロマ14-10~12明治訳)と。主よ、願わくは我の弱きを助けよ。
(5)愛と欲
信者と不信者との区別は、愛あると愛なきとに因りて生ず。我は信ず、愛に清潔・不清潔の別(が)無きことを。不清潔なる愛(=エロス)は世(=世俗的な感情)より出づ、即ち情欲なり。清潔なる愛(=アガペー)は神より出づ、即ち慈愛なり。我は悲しむ、世人が愛(の全般)を軽視することを。ああコリント人に愛を説きたるパウロ(コリント前13-1以下)をして、地下に泣かしむること勿れ。
(6)至と不至
愛は神より出づるも、至れる愛あり、至らざる愛あり。浅薄の人は愛の真味を知ること能わず。家を愛してこれが為に苦しみ、人を愛してこれが為に苦しみ、国を愛してこれが為に苦しむ、這般(=これらの)濃厚深刻の人物にして、初めて愛の真味を知る。
されど苦痛(が)多きに過ぐるは、未だ至らざる処あるなり。進一進して(=一歩一歩進んで)主の愛に至るべし。主の愛と一なる(=合一する)べし。
進むに順序あり、上るに段階あり。未だ愛の苦を知らざる者は、以て愛の楽を知ること能わざるなり。ソロモンの詩に曰く、「ああ愛よ、もろもろの快楽の中にありて、汝は如何に美はしく、如何に悦ばしきものなるかな」(雅歌7-6)と。ああこれ天国の楽にあらずや、困難・悲哀・苦痛・恥辱、全て我をして天国に進ましむるの鞭(=刺激・励み)なり。我は喜んでこれを感受(=感謝して受ける)す。
(7)神の前・人の前
神の前に恐れなく、恥なくば、人の前にも恐れなく恥なきなり。この前提を誤りて、驚くべき結論を実行し、躓く者多々あり。ここに至りて愕然(=大いに驚くさま)たり。これ豈(=どうして)思慮足らざる信者に非ずや(=[後述の如く、神の前に告げてよい事なら、人にも公言してよいと考える人があるが]これをどうして思慮不足の信者でないと言えようか)。
パウロ曰く、「愛は人の益(=利他)を図り、(・・・・)凡そ事包容(=寛容)なり」(コリント前13-4~5明治訳)と。孔子は曰く、「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直き事(=人情の率直さは)その中に在り」(論語・子路)と。神の前に父の欠点を訴うるに憚らざる(=躊躇しない)が故に、人の前にもこれを憚らずというは、孝子の情と言うべきか。神と信ずる人(=神と信者)との前に言うを得るが故に、信ぜざる凡ての人(=あらゆる不信者たち)の前に吹聴する(=言いふらす)ことを恐れず、恥じず、躊躇せず(=ためらわない)となす。これ公明正大の人か。
我は幾度か、信者が人を躓かせしを見たり。ああ我は躓きを来さざるを願う。パウロ曰く、「吾は主イエスに由りて、凡ての物、潔からざるなき(=不潔な食物などないこと)を知り、かつこれを信ず。然れど人もし不潔と意はば、其の人に於いては即ち潔からざるなり(=汚れていると思う人には汚れているのである)。爾もし食物の爲に兄弟を憂へしめば(=悩ますならば)、その行ふところ(は)愛の道に合はず。(・・・・)爾、食物によりて、基督の(=基督が)死にて代り給へる彼を滅すること勿れ(=せっかくキリストが死んで救ってくださった兄弟を、食物の禁忌などで躓かせてはならない)。爾曹の善を以て(=汝らが信仰する正善を振りかざして)人に謗らるる(=非難される)事を爲す勿れ」(ロマ14-14~16明治訳)と。
それ神の前に於ける善悪は、道徳上(=信仰上)の問題なり。而してこれを人に施す(=そのまま実社会に施行すること)は知識上の(=知性と常識で判断すべき)問題なりとす。
瞑目一念、深く自ら足らざる事を思う。主の戒めの声、清けく聞こゆ。「われ爾曹を遣すは、羊を狼の中に入るるが如し。故に蛇の如く智く、鴿の如く馴良かれ(=先ず聡明に、次いで穏和なれ)」(マタイ10-16明治訳)と。
(8)小心と大胆
思慮なき言行は、表面は大胆に似て、内実は非なるものなり。懼るべきを知らずして懼れざるは、形は大胆に似て、実は非なるものなり。共にこれ盲目者(であり)、以て語るに足らざるなり。小心細慮して後、断言し断行す、これ大胆者なり。懼るべきを知りて懼れ無きは、これ勇者なり。
我は思う、我等の言行(が)、人を躓かす(こと)を懼るれば、まず厳粛に祈祷し、然る後、小心に思慮すべし、我が心(が)、果たして主と一(=同一)なるや否やと。主は全き愛なり。全き愛は智・情・意の生命なり、施して宜しからざる(=適切でないところ)無し。全き愛は懼れを除く。懼れあるは未だ愛の全からざる時なるを証す(=証明している)。徒に(=無駄に)懼れて、道を行なうに躊躇する者は弱卒(=弱い兵士)なり。請う、まず主に連なれ。而して後、人の事を思うべし。小心と大胆、我等はこれを兼有せざるべからず(=兼ね備えていなければならない)。
(9)愛すべき愛よ
世人よ、軽々に愛を語ること勿れ。基督教徒よ、忽々に(=軽卒に)愛を説くこと勿れ。汝ら(は)果たしてパウロ、ヨハネの心を知るか。我等は愛を愛す、愛を重んず。
ヨハネ曰く、「主は我曹の爲に生命を損たまへり、(我々は)是に由りて愛といふことを知りたり」(ヨハネ一書3-16明治訳)と。愛は即ち喜んで己を棄つ。献身は愛の働きなり。ただ一つ愛の動く処(=ただ愛さえ働けば)、即ち義・即ち勇・即ち敬・即ち忠・即ち孝・即ち信・即ち厳(が生じ)、これ(=愛より生ずるこれらの諸徳)を望めば美絶・情絶・雄絶・壮絶、我等をして恍惚自失せしむ(=うっとりと我を忘れさせる)。ああ誰か愛を知る者ぞ。義無く、勇無く、敬無く、忠無く、孝無く、信無く、而して自ら愛ありと信じ、愛ありと称す、我等は泣かずんば非ざるなり(=泣かずにはいられない)。
ヴィクトル・ユゴー(=フランス19世紀ロマン派の文豪)の小説(=『海の労働者』)中の青年・ジリアットは少女デリュシェットを愛せり。これを愛するの極み、好んで(=自分から進んで)その生命を犠牲として、単身独力、怒涛・怪魚・台風・飢渇と戦い、遂に彼女の心を得たり。而して彼女の意中の人は己にあらず、村の牧師にある事を知り、自ら媒酌してその僧と結婚せしめたり。献身の働き(は)終始を全うせり(=首尾を一貫した)と言うべし。
(10)烈火と熱涙
我は初め義の布教者(=正義を教え説く人)なりき。ただ義を以て人を動かすべしと信じ、義の為に生き、義の為に死すべしと思えり。自らを《生きたる義》と自任して、静思粛然、風なき林の如し。而して一たび無礼・誤解・等閑(=なおざり)に触着せんか(=接触・遭遇すれば)、石火(=火花が)忽ち迸り、一点の仮借(=見逃し許すこと)もなかりき。
然るに主の愛を知りて以来、滾々たる(=汲めども尽きぬ)清泉の如き涙(が)心に生ず。烈火と熱涙(は)我が胸中に一(=同一)なり。これを我に於ける主の奇蹟とす。我は今や怒りの情よりも、憐れみの情(が)盛んなり。火中にありても妄りに発せず(=むやみに声を上げない)、反って涙(が)溢る。我を誤る(=誤解する)人の為に、なお滴々の涙痕を袖にし(=涙で袖を濡らし)、可憐の情(=憐みの情が)、一層心に増す。ああ我が火よ、全く主(=神)の火たれ(=火となれ)。我が涙よ、全く主の涙たれ。
(11)最も寂しく最も賑やかなり
無事の時、平穏の際は、以って人物の天資(=天性・天稟)を見るべからず(=見られない)。難時にこそ偉人は現れ、乱世にこそ英雄は出づ。昨年末より今年初めに至るまで、我は心労と疾病とによりて、自らを読み、人を読むことを得たり。ああ我は今や最も寂しく(=孤独であり)、(心の中は)最も賑やかなり。神に感謝す、我を導きて、この(心)境に至らしめ給いしことを。
(12)徳
蜀帝劉備(=中国三国時代の覇者。漢室再興の大義を奉じて蜀を興すも、志半ばにして病没)(は)、死に臨んで太子(=皇子)に遺詔(=帝王としての遺言)して曰く、「悪の小なるを以って為すこと勿れ、善の小なるを以って為さざること勿れ。これ賢、これ徳(=専ら明智と仁情とによって)、以って人を服すべし。卿が(=汝の)父(=我・劉備)は徳薄く、效うに足らず。卿は丞相(=孔明)と事に従い(=国事に従事し)、之に事うること父の如くせよ。怠る勿れ、忘るる勿れ」と。
我等は彼(=劉備)の一生の言行と、末期の遺詔とを対照して、千載の下(=幾千年を経ても)、なおその風(=姿)・その徳の活然(=生き生きと)・躍然(=躍如)として人に迫るもの有るを覚ゆ。
蓋し(=確かに)徳は無形なり、然れども形に現るれば即ち美となる。風采(=姿・形)に出でては美なる風采となり、言行に出でては美なる言行となり、文書に発しては美なる文章となり、事業に発しては美なる事業となる。然らば我等はまず内に向かいて徳を養う事を要す。何を以ってこれを養うべきか。我は劉備の一語を転じて(=転用して)言わん、 「世人多くは徳薄く、效うに足らず。宜しく主(=神)に従い、之に事うること父の如く、また母の如くせよ。怠る勿れ、忘るる勿れ」と。
そもそも愛は自他を一に(=合一)す。我、真に主を愛さば、即ち主と一たるべし。既に一たらば、我が心は即ち主の心なり。この心を以て人物を観、万物を観る。全て我に可ならざるは無し。全て我に益せざるは無し。而して我が徳は日々に進まん。パウロ曰く、「愛は徳を建つるなり」(コリント前8-1)と。また曰く、「愛は衆徳の帯(=様々な徳を統一するもの)なり」(コロサイ3-14明治訳)と。我等もし徳を養わんと欲せば、必ず神と人とを愛せざるべからず。
明治25年1月25日 女学生第20号/(一部は)同年1月30日 女学雑誌302号
巌本善治
社員川合氏は、(星野)天知君が評せし如く、「粛然(=静かなさま)として内に剛火・剣を帯び、恭しくして胸に自重(=自尊心)・骨(=気骨)を納むる人なり」。
近頃、『病中雑感』を記す。その一に曰く、「我は初め義の布教者なりき(・・・)。我が涙よ、全く主の涙たれ」と。これ実に任侠者が霊変し行く(=霊的に成長していく)の趣を写し、ほぼ真を悉したるものなり。而して真によく「愛」の徳を味わい、その効を実際に行ない得たる者は、この侠骨(=侠気の気性)ある者に於いて見ること多し。(任侠者の)憐れは愛に移り、侠はチエーステー(=正義?)を根す(=育む)。一たび任侠義敢(=任侠と義の敢行)の段階を経ざる者は、口に愛を語ると雖も、能くこれを用うる(=実行する)や薄し。この故に、吾人(=我々)は今の国粋保存党(=三宅雪嶺、志賀重昂らの雑誌『日本人』が、維新以降の文明開化・欧化主義に反対して、「国粋保存主義」を唱道した)に望みを嘱する(=託する)こと久し。かの党の一霊変(=精神的躍進)を祈ること、また太はだ(=甚だ)切なり。
明治25年1月30日 女学雑誌302号
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(第一)挨拶
「神および主イエス・キリストのヤコブ、散り居る十二のの平安を祈る」(1-1)。「神」と「主イエス・キリスト」と語は二つになっておりますが、ヤコブの心中においては、この二つはまさに一つであります。キリストは人となった神であり、神の本質はキリストによって知られるのであります。神と言えばキリスト、キリストと言えば神、そうなるのが深い信仰であります。
ヤコブは係累上、キリストの兄弟でありましたが、そういう事に必要以上にわれて、キリストを尊称することを遠慮したり、また逆に血縁を誇ったりするようなことはありませんでした。それは(=親族関係)以上の信仰の関係、何ものにも捉われぬ道の関係がわかっていたからであります。
そして自分は神とキリストとのであると公言していたのであります。先生は「自分はキリストの志願奴隷である」と言っておられました。奴隷には己の意志というものはありません。全く我意・私情なしに神とキリストに隷属する、それこそ忠実の信仰であります。
「散り居る十二の族の平安を祈る」。普通の手紙の挨拶と言えば、暑いとか寒いとか、暮らしに変わりはないかとか、平凡な話題を並べるのが常であります。私が昔、勤務していた埼玉県の熊谷という所は、冬の季節風が非常に強い土地でありましたので、「今日は静かですね」と言うのが朝の挨拶になっておりました。
「平安を祈る(=「シャローム」)」とヤコブがここに言ったのは、一見、当りりのない挨拶文にも見えますが、実際に相手の心身両面の安否を気遣う心にちていて、極めて情のもった言葉となっております。
その昔、ヤコブ(=イサクの子)には十二子があり、それが分かれて十二のユダヤ部族となりました。ユダヤはたびたび外敵の侵攻を受け、時には国民大半が捕虜となって遠国にされたこともありました(=バビロン捕囚)。また商才にけていて、遠く外国にまで出稼ぎに行く者もあり、キリストの時代にはバビロニア・小アジア・シリア・ギリシア・ローマ・エジプトなど、各地に散在しておりました。そしてまだキリスト教が公認されていない時代ですから、さまざまな困難があり、迫害もあり、心労も多かったのであります。それでヤコブは、まずその《平安》を祈ったのであります。「山を隔てて煙を見、早くもこれ火なるを知り、(=垣根)を隔ててを見、ちこれ牛なるを知る」(碧巌録)。最初のちょっとした挨拶の中に、すでにヤコブの信仰と修養と愛とが現れているのであります。
(第二)忍耐・歓喜
「忍耐をしてき活動をなさしめよ」(1-4)。
忍耐がいかほど大切なものかは、『大集経』という経文の中に、「世にむ(=頼りにする)所なし、ただかののみ恃むべし。忍は(=安全な住い)なり、(は)生ぜず。忍は(=丈夫な)なり、(を)加えず(=衛兵を増やす必要がない)。忍は(=巨船)なり、て難を渡る(=困難を乗り切る)べし。ゆえに諸仏(は)常に忍をす(=える)」とあります。
人は非常な困難の中にあっては、才も智も力も何の頼りにもならない。もし何事かにって、それで切り抜けられるくらいなら、まだ真の困難ではないのであります。
何も頼るべき物がなくなった時、ただ一つ残されたものが忍耐であります。この忍耐のに身を寄せれば、困難の暴風雨も害なく通り過ぎ、この忍耐のをえば、(=多数の敵)も危害を加え得ず、忍耐の大舟に乗れば、安全に難を渡ることができるのであります。
しかしながら、ただ苦通を我慢するというのでは、苦しいばかりで長続きしません。ゆえに、「なんぢらのにふとき、これをとせよ」(1-2)と説いて、古人のいわゆる「苦中にをする」(言志)を教えたのであります。ただしこれを実行するに当たっては、二つばかり肝要な条件があります。
(イ)感謝して神の教育を受けるという信仰であります。の中に神の教育を受ける。これはパウロなども体験した事であります。いわく「のみならず患難をも喜ぶ、そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり」(ロマ5-3)。患難の外形に捕われず、その内に入って、神のご教育を受けて修行していけば、パウロの体験したような体験を私どもも得ることができるのであります。
(ロ)究極の目標を見失わないこと。神のしはどこにるか。「天の父のきが如く全かれ」(マタイ5-48)というのが神のであります。神が患難を与え給うのも、この患難を通じて我々の足らざる所を自覚反省せしめて、我々の信仰を進め、我々の人格を一層完全ならしめんとの思召しであります。それを知れば、困難だからとて道を離れたり、横道にれたりするものではありません。
(第三)反省向上
患難にわぬと、人は(内を省みずに)外ばかりを見、対外的事業に熱中します。セント・ヘレナのナポレオンがそうでした。彼は戦い敗れて絶海の孤島に流された時、今まで外にばかり向けていた心を己に向けて、自身の失敗の原因を反省し、「人があまり順調に成功することはって不幸である。自分は早々に出世したため、知らず知らず傲慢になっていた」と気づきました。そして己の人格と事業をキリストのそれと比較して、自分はとても及ばないと知り、そっと聖書に手を置き、「人もしこの書に従って歩むなら、恐らくを誤ることはなかろう」とつぶやいたと言います。
「汝らのもし智慧のくる者あらば、むることなく、また惜しむ事なく、ての人にふる神に求むべし。らば與へられん」(1-5)
孟子は「なうて得ざるものあれば、を己にす(=物事が上手く行かぬ時は、まず自身を反省する)」(孟子・離婁上)と言いました。私の父(=開祖先生)はさらに加えて、「己に反求して足らざるものは、これを神にせよ」と言いました。この「神に上求する」というところは、ヤコブが「神に求むべし」と言ったのと同じです。
人が実際に変わろうとする時には、ただ変わろうと思うだけではなく、よほど一生懸命にならねばならぬことを悟ります。それが反省と向上です。そうなった次には、
(第四)超越聖化
人は人格が低いと低いものに捉われ、小さいと小さいものに固着します。しかし患難に遭うことによって、消極的には忍耐し、積極的には反省向上して、高く、大きく、深くなって行けば、低いこと・小さいこと・浅薄なことを超越し、患難など物ともしなくなるのです。
「き兄弟は、おのれが高くせられたるを喜べ、富める者は、おのが卑くせられたるを喜べ」(1-9)。身分が高くなったとか低くなったとか、富を得たとか失ったとか、そういう関心の段階を超越してしまうのです。人は道そのものを楽しむ精神を持たねばなりません。そうでないと、道をも己に利用しようとします。そんなことでは、真に道を修めることなどできるものではありません。
「そは草の花のごとく、過ぎゆくべければなり。日で熱き風吹きて草を枯らせば、花落ちて、そのしき姿ほろぶ、富める者もまたのごとく、そののにしてまづせん」(1-9~11)
この世のの(=極めて短い)生活に現れて来るいろいろの欲望に捉われず、永遠への行程としてこのを過ごす。こうして全てを道にいて使うことができるのであります。く、「えいかなるわしき事ありとも夢になして(=現実とはさずに)、ただ法華経の事のみ、さはぐらせ(=考える)給うべし」(兄弟抄)と。「英雄をせばち神仙(=現世的な英雄にも、ふと仙境に遊ぶ時がある)」(黄天谷)、あの豪傑僧(=日蓮)にも、こんな超越した境地があったのかと、非常に奥ゆかしく感ずる次第であります。
古の聖人は「汝自身を知れ」(ソクラテース)と言った。もしこれに対して「自分はこれこれしかじかの者である」などと答えたら、実に愚かしいことになってしまう。ソクラテースが言ったように、真に己を知っている者など、世界に人多しといえども、ほんの僅かの聖人、または聖人の心を得た少数者以外、ほとんどいないのである。早い話、果たして諸君はソクラテースの前に、「己を知れり」と言い得るかどうか。「学院は何処に在りや」という問いも、これと同じである。
会社全体の仕事をしている所は、当社の《体》に当る部分であり、学院はその《精神》を定める所である。ではその精神とはどういうものであるか。何度も言うように、それは誠を土台とし、完全の天道を望んで進むものである。それがすなわち《活きた学院》である。
学院は学舎を指すのではない。学舎を飾って喜ぶようでは、世間一般の成金者と大差ない。真の学院は諸君の心中にこそある。心中の学院を高く築いて、生命なき建物に心血を注入しなければならぬ。この建物を活かすか殺すか、引いては会社全体を活かすか殺すかは、一に以って諸君の心掛け次第である。
その責任重大なることを思い、諸君一人一人の使命の厳粛なることを自覚して、勇者が戦場に臨むがごとき大決心を持って、この学院を築き上げて行かねばならないのである。これはただ学院の諸君のみならず、ご列席の各課長諸君もまた同じことで、もしその心中に活きて成長するものがなければ、その生涯は死せるも同然である。
社訓の精神は何回となく語って来たが、これを実際に行なうことはなかなか容易なものではない。社長・専務は会社を代表してこれを実践しようと努めておられるが、日々実地に試みておられるがゆえに、その困難さを人一倍実感しておられることと思う。キリストが「己が十字架を負ひて我に從へ」(マタイ16-24・他)と言われたのは、まさにこれである。「自ら十字架を負わん」という気概がなければ、なかなか実行できるものではない。理解するだけならまだしも、これを己の人格に実現し、道徳に実現し、事業に実現するとなると、非常な覚悟が必要となる。ゆえに本日は、さらに社訓の事を話してみたいと思う。
この(一)と(二)が基礎となって、(三)が生じる。その事実をはっきり知ることが極めて大切である。思うに、格別なる怠け者は論外として、当社に働く大多数の人は、みなそれぞれの力を尽して努めているものと信ずる。しかし果たしていかなる所に尽力しているのであろうか。眼に見える業績を挙げんがために、勤労することに主力が注がれているのではないか。某工場長が、「日々骨折っているけれども、うまく行かぬのはなぜでしょうか」と専務に質問したそうである。いくら社訓を諳んじていても、その最も大切な所を取り違えていたのでは、決して完全なる結果は生まれないのである。もし「工場教育には信仰が役立つ」などと考えるならば、それは神を商売に利用せんとするもので、そんな不敬虔な考えでは、真の成績など挙がろう筈もない。
近来、《価値判断》ということが世界的に問題となり、哲学上にまで及んでいるのであるが、そのこと自体、物質文明の弊害の一面であると言うべきである。およそ有形無形一切を、その実用価値のみによって判断することは頗る困難である。人生に最も大切な道の事、精神上の事などは、容易に判断できるものではないからである。
もし諸君の命を一億円で買いたいという者が出て来ても、それに応ずる者はあるまい。昔、エリザベス女王閣下(=英国のエリザベス1世。在位1558~1603)の病篤き時、「我が寿命をいま少し延ばし得る者あらば、百万円を下し置かん」と言った。今の金に直せば相当の金額であろう。それでも誰一人、寿命を延ばすことなどできなかった。
このように、帝王といえども如何ともし難い生命というものを、諸君一人一人が有している。当社一万有余の人も等しくこれを有している。それを預かる会社の責任は大変なものである。
肉体上の生命でさえ、それほどに尊いのである。まして精神上の生命は、天地の神にも通じる重要なものである。キリストが「なんぢら人を審くな」(マタイ7-1・他)と言われ、また「悔改むる一人の罪人のためには(・・・・)天に歡喜あるべし」(ルカ15-7)と言われたのは、そのためである。果たして我々は、それほどまでに個々の人格を重んじているかどうか、深く省みる必要がある。
たった一人の罪人の魂が救済されても、この天地に歓喜が充ち渡る。この宇宙間にはそれほどに尊いものが厳然として存在しているのであって、人はその神の子であるということがわかって、初めて天父に対する完全なる信仰というものがわかるのである。
それがわかって、再び「学院は何処に在りや」と考えてみるに、学院はまさにこの天地に遍満する(=遍く充満する)ものである事を知る。なぜなら、学院の土台である《誠》は天地に塞がって(=充足する)おり、その目標とする《完全》は、この宇宙を経営する神そのものに由来しているからである。
天地の大精神の上に立っているというこの信念が確立する時、全てのものを包容し、己をも、人をも、事をも、みな完全にしようとする心が湧き出でて止まないようになる。ここに至って初めて完全の勤労をなし得るものであり、完全の成績を挙げ得るものであることを知る。それがすなわち当社の社訓の精神である。
次に申し上げたいのは、協力一致の大切さである。先ほどの祈祷にもあったとおり、共同社会において、協力は非常に大切である。パウロの言に、「足もし『我は手にあらぬ故に體に属せず』といふとも、之によりて體に属せぬにあらず。耳もし『われは眼にあらぬ故に體に属せず』と云うふとも、之によりて體に属せぬにあらず。もし全身、眼ならば、聽くところ何れか。もし全身、聽く所ならば、臭ぐところ何れか」(コリント前12-15~17)とあるが、等しく神の中に生まれ、その摂理(=神の計らい)によって同じ会社の中に働きながら、しかも他を非難して己を省みないような狭い心は、人々の中になお根強くあるものである。課長諸君もそこをよく弁えて、部下を訓戒してもらいたいものである。
他を非難するのは、他をよく知らないためである。それでは一致協力ができず、従って完全なる成績を得ることは望めない。教育と業務、業務と教育、これが互いに表裏しているがゆえに、教育課は工務課の苦心を知らず、工務課は教育課の辛苦を知らない。互いに己を誇ることなく、謙遜して互いを学び、よく理解して助け合いつつ、共通の目標に向かって進んで行くようにしなければならない。もし右手が傷つけば、左手がこれを助けるのが当然である。
先ほど朗読を願った聖書にもある如く、「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ、これ天にいます汝らの父の子とならん爲なり」(マタイ5-44~45・他)、この心を思う時、お互いが相協力していくことは寧ろ当然過ぎるほどのことである。
他社など見るに、互いに他部署の短所を見つけては非難し合い、教育部門に至っては、賽の河原の石積みのごとく、積んでは崩され、崩されては積むという状態に置かれていることが多い。
私は常々「教育が事務的になると、教育が死ぬ」と言っているが、それは教育者は事務が下手でもよいという意味ではない。およそ教育は、その成果を数値で表示できるようなものではないと言っているのである。ところが文部省などは、何でも数字で報告せよと求めて来る。そうなると、完全なる信仰など肝心な点は骨抜きになり、専ら眼に見える成績のみに力が注がれるようになる。ちなみに仏教界を見ても、世事に明るく、交際の上手な僧侶が、信者を集めて持て囃される。
しかし当社の理想は《完全》にあるから、何も禅僧のように寺院に閉じ籠って、実務など閑却(=なおざりに)せよと言うのではなく、教育も事務も二つながら完全であるよう努める。けれども教育者の主体とするところは、あくまで教育であり、しかもその教育は数字を以って計算すべきものではない。人を導いて敬虔の念を発せしめ、献身の心を起さしめ、その誠を育てていくものである。
孔子が「天何をか言うや。四時行なわれ、百物生ず(=天が何を語るだろうか。けれども四季は巡り、万物は生え育つ)」(論語・陽貨)と言ったのは、これ教育の極意に他ならぬ。神の声は語らず言わずして天地に響き、自然に万物を生育させるのである。
願わくは互いに相援け、相補い、その活きた教育を事業の上に働かせ、当社の事業を永年に進展させて行ってもらいたい。これをなすもなさぬも、諸君の精神一つに存する。なにとぞ本日の式を記念として、有形無形がよく一致協力して、各人を活かし、学舎を活かし、さらに社会を活かして、日本を感化し、世界を感化し、もって完全なる貢献を果たさねばならぬ。
これは私個人が言うのではなく、神の心を受け継いで語るのである。ゆえに権威を以って諸君に言う、「どうか小我を棄て、公正なる考えを持し、以ってその実現に努力されんことを希求する」と。
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