The post せっせと後期の授業準備中…でも、一人で作る準備は、自分の予想を超えてこない。 first appeared on あすこまっ!.
]]>9月になって1週間が過ぎた。この時期の大学は、きっと大学によっていろいろなんだろう。僕の勤務先はオープンキャンパスや総合型選抜があるとはいえ、それ以外の会議は少なく、8月に比べてのんびりした時間が流れている。とはいえ、9月16日からもう後期の授業が始まるので、今は束の間の夏休み勤務モード。今日のエントリは、そのモード中の後期の授業準備の話。
僕のいまの勤務先・福山平成大学こども学科は、地元中心に幼稚園・小学校の先生や保育士を育てるための学科で、そのためのカリキュラムが非常に充実している。教育実習に行く前には実習準備の授業があるし、模擬授業は5つくらいの教科でできる。教員採用試験に向けた授業も設定されている。SPI対策とか教員採用試験対策とか、いわゆる試験対策もやっている。とにかく免許を取る・採用試験に合格するという点に関しては、非常に充実した実学志向の大学だ。僕のいた大学とはやっぱりだいぶ違う。学問・研究の場というよりは実学志向の場だ(その方面は本当にサポートが手厚いので、周辺にお住まいで、幼稚園教諭・保育士・小学校の先生になりたい人にはおすすめですよ)。
そんな中で、僕が一人でメインで受け持つのはやっぱり国語系の科目だ。初等国語Ⅰ・Ⅱや初等国語科教育法があって、前者は国語の授業や学習指導要領について学ぶ教科、後者は模擬授業をする授業。他にも言葉系の科目として、幼稚園教諭の免許や保育士資格に関わる「保育内容指導法(言葉)」や「幼児と言葉」がある。こちらも、専門の先生のT2的立ち位置で授業を持たせてもらうことになった。
そんな中で今がんばって準備しているのが「幼児と言葉」だ。幼児期の言葉の発達や、その時期の大人の関わりについて学ぶ授業なんだけど、福山平成大学のカリキュラムでは、前任の先生のおかげもあって、デジタル絵本を作ることを通して、児童文化財としての絵本について学ぶことにけっこう重点が置かれている。
この授業の準備が今とても楽しい。自分も勉強しながらになるのだけど、デジタル絵本を作りながら絵本について学ぶというのは、ライティング・ワークショップそのものだ。大学でもライティング・ワークショップができる!ということで、心弾んで準備している。
まあ3ヶ月付き合ってわかったんだけど、うちの大学の学生さんは、本当に素直でいい学生さんが多い。ただ、読むことや書くことが好きかというとそうではなく、苦手意識を持っている人も多い。だからとにかく自分の授業では読むこと・書くことを身近に感じてほしいと思っていて、後期の授業は、小学校向けの国語の授業も「幼児と言葉」も、どちらも図書館でやることに決めた。筑駒時代から僕は図書館で授業をすることが多かったし、風越はもう学校全体が図書館みたいなところだったので、僕にとって図書館で授業をやるのは自然なことだ。昨日は図書館をうろうろしながら、授業のイメージを少しずつ具体化していく、そんな時間だった。
地味に大変なのは、「幼児と言葉」は初めて接する学生さんばかりの50名弱の授業なので、顔と名前を一致させるための名簿を作っていることだ。大学内データベースにある顔写真と名前を突き合わせながら、早く一致させられるようにしている。僕は顔と名前を覚えるのがとても苦手な人なので、毎日顔を合わせる小学校の教員生活と違って、週1回しか会わない大学の授業だと、普通にやっていたらまず間違いなく顔と名前を覚えないまま終わってしまう。まあそれでもいいという考え方もあるかもしれないけれど、授業者と学習者の双方向でのライブなので、やっぱりちゃんと一人ひとりのことを認識して、やりとりしながら授業したい。当たり前こればっかりは個人情報なのでAIにお願いするわけにもいかず、毎日少しずつ手作業でリストを作っている。時間は取られているけれど、必要な時間かなと思っている。
こうやって授業作りのことを考えるのは、やっぱりとても楽しい。自分は授業作りが好きなんだなと感じる。授業準備が授業そのものより好きかもしれないぐらいだ。
ただ、準備をしていてふと思うのは、今は一人で授業を作っているので、去年までの風越学園での授業準備とはだいぶ違うということだ。風越では基本的に2人で授業をしていたし、テーマプロジェクトは学年のスタッフ5・6人みんなで考えることも多かった。基本的にチームで授業を作るわけ。
授業自体、そもそも人が相手なので思い通りにいかない、自分の予想通りに行かないのが当たり前のものなんだけど、風越では授業準備の中にもそういう要素がいっぱいあった。今の授業準備は、僕一人が授業する場に行って学生さんの反応を想像したり、自分の動きをイメージしたりしながら、こうしたらいいかな、こういう設計はどうだろうとストーリーを考えている。そうなると、やはり全部が自分の予想の範囲内に収まってしまう。もちろん実際の授業では予想の範囲を超えることが起きるので、そこで予想を手放してその場の流れに任せるということは出てくるのだけど。
でも風越では、授業準備の段階から自分の予想とは違うことが出てくるのがある意味で当たり前だった。自分とは違うことを提案するスタッフもいれば、授業が明日明後日に迫った段階で「いや、そもそもこうじゃないか」と問い直されたりもする。それは大変なことではあるのだけど、自分の予想通りにいかないで、誰かの提案に乗っかってみるとか、誰かの話に耳を傾けてそっちに任せてみるみたいなことが、日常業務の中に組み込まれていた。これは、そういうことがなくなった今思い返すと、とても貴重な経験だったなと思うのだ。
そうやって小さく誰かに乗っかる、誰かを信じるみたいな「小さな賭け」が毎日あって、そのことが同僚への信頼感を作っていってくれたと、振り返って感じている。
もちろん僕はもともと授業準備が好きだし、筑駒時代は一人で授業準備をしていたので、今が別に困っているかというとそうでもない。これはこれで楽しい。ただ、授業準備の質もずいぶん違うことに改めて気づいて、みんなで作る良さと一人で作る良さの、それぞれを感じているところだ。
今週いっぱいは、そういうふうにちょっとのんびりと、じっくりと後期の授業について考えられる時間かもしれない。その後はまた授業が始まるし、秋は教育実習の訪問や、入試のための仕事も何回かあったり、学園祭も教員ががっつり関わる仕組みなので、後期は忙しいのかなと予想している。その中で研究も進めないといけないですしね。そんな後期を見据えながら、今の間にできることをしっかりしていきたい。
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]]>The post [読書]スマホ規制派が溜飲を下げるための本、だけではなかった。ジョナサン・ハント『不安の世代』 first appeared on あすこまっ!.
]]>この本を読むきっかけは、確かFacebookで広告が結構流れてきたことだったと思う。ただ、あのタイトルだけ見るとですね….「もともとスマホやSNSの子どもたちの利用を苦々しく思っている人が、「それ見たことか」と言うために読む本」の印象があって、あまり食指は動かなかった。それが、風越学園の元同僚が読んでいる感想を読んで、図書館で予約して読んでみたという感じ。
もともと英語圏で2024年に出版され、ニューヨーク・タイムズでベストセラー1位を取った本。サブタイトルからわかる通り、スマホやSNSが、特に10代前後の子どもや、10代の若者に対して悪影響を与えていると主張して、それに対する処方箋として社会で何をすべきかを論じている本である。
そして、実際に読んで面白かったのは、この人が問題視しているのが「現実世界での過保護」と「仮想世界での保護不足」のギャップだということ。
仮想世界での保護不足とは、オンラインの世界で子どもたちがあまりにも守られていないこと。筆者はSNSは一定年齢までは禁止すべきだと考えているし、スマホも少なくとも小学生に渡すべきではなく、実際にインターネット上の成人年齢を16歳と定めて、そこまでにだんだん階段を設けていくべきだ、と考えている(念のため書くと、現状のインターネット上の成人年齢は13歳で、13歳になるとSNSにせよウェブサイトにせよ自由にアクセスできてしまう)。
ここまでだったらよくある話なんだけど、同時に筆者が問題視しているのが、現実の世界での過保護のほうだ。近年では、子どもが1人でお留守番をしたり買い物に行ったり、あるいは大人の監督の目なく子どもたちだけで遊ぶ機会が激減している。それを問題視しているのだ。
現在49歳の僕も、自分の子ども時代と比べた時の社会の意識の変化を感じている。放課後は子どもが子どもだけで外で遊ぶのが当たり前の世代だった。しかし一方で、僕自身はといえば、放課後が習い事で埋まっていたタイプの子ども。今思うと、「自由な放課後」から「管理された放課後」への変化のただ中にいた世代なのかなという気もする。その後、遊ぶにしても室内でのゲームが主流になったことや、実際の治安の改善に反して治安への不安は高まったこともあって、40年前と比べて子どもたちが自分たちで外に出かけたり遊んだりする機会が減ったことは、肌感としては間違いないのではないかと思う。
筆者が、オンライン上での保護のなさと同じ程度に問題視しているのが、この現実世界での過保護である。これによって、子どもたちが自分たちで判断したり、リスクを負って何かをしたり、その中で失敗したりという経験が失われすぎている。リスクを取って失敗すること、多少の危険に向き合うこと、冒険しチャレンジすること。そういう経験が圧倒的に減っていることを問題視しているのだ。
この主張は、僕にとっても納得のいくものだった。前任校の軽井沢風越学園校長のゴリさん(岩瀬直樹さん)が、「昔たくさんあった放課後の時間、大人が見守るのではなく子どもたちだけで過ごす時間を、今は学校や地域が意識的にデザインしないといけない」ことをよく指摘していて、それと同じ話だと思いながら読んだ。
またちょっと文脈は違うのだけど、以前に読んだ藪下遊・髙坂康雅『「叱らない」が子どもを苦しめる』(ちくまプリマー新書)に、子どもには自分の思う通りにならない経験、世界から押し返される経験が必要だ、という主張があった。おそらく、現実世界での過保護が、世界からの押し返しや、子どもたちがリスクを取って行動する機会、失敗する機会を失わせているという意味で、通じる話だと思う。
また、もちろん本書では、スマホやSNSが子どもたちのメンタルヘルスにいかにマイナスに働くかという、この手の本にありがちな話も、多くのデータで語られている(もちろん、ありがちだからといって大事ではないわけではない、念のため)。どんなデータがあるかは、ぜひ本書を読んでいただきたい。
筆者は、こうした現象に対して、家庭が一人で対抗することの難しさ、周りがみんなスマホを持っている状況だと「いち抜けた!」ができない難しさも熟知している。これは、僕も風越学園での多くの保護者の方とお話しする中でも、たくさん聞いた話だ。そういう「集合行為問題」であるスマホ問題に対して、社会としてどのような対策を取っていくべきか、学校レベルから自治体レベルまでの現実的な提言が、最後には示されている。
タイトルと表紙だけ見ると、また不安を煽る本か、スマホ反対派が喜ぶための本かと思われても仕方ないと思う。実際、僕自身がそう思って手が伸びなかったわけだし。でも本書の提言には、僕たちがどのような社会を目指すのかという意味で、耳を傾けるべきところが多かった。もしよかったら読んでみてください。
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]]>The post 教育学的にはどんな意味がある? 博士論文構想発表会でもらった問い。 first appeared on あすこまっ!.
]]>でも、この夏いちばん大きかったイベントは、そちらではなくて、広島大学大学院で受けた博士論文の構想発表会だった。今日のエントリは、その構想発表会のふりかえりです。
8月中旬に家族が帰ったあとに集中していたのが、博士論文の構想発表会の準備だった。僕は今、広島大学大学院で「書き手としての教師(Teachers as Writers)」をテーマに研究をしようと思っている。構想発表会というのは、簡単に言えば「こんなことをしたいと思っています」ということをA4で14枚の紙に書いて、そこにいる広島大学の先生方からコメントや助言をいただく、そういう会だ。
準備はやっぱり大変だった。下敷きになるものはあったのだけど、自分がこれから何をしたいのか、それがどんなふうに位置づけられるのかを、考えたり改めて整理したりするのには時間がかかる。最初は14枚なんてそんなに書けないよなと思っていたのだけど、意外にそうでもなくて、参考文献だけで下手をすると3〜4ページは使ってしまうしね。ただ、同時並行で本務先の仕事も忙しい時期になったこともあり、結局、スライドをつくる余裕はなくて、その原稿だけで臨むことになった。これはまあ、AI使ってスライド作っても仕方ないよなーという、学会以来引きずっている気分のせいもあったな。
いや、構想発表会はやってよかった。大きく気づいたことが2つあって、どちらも、いただいたコメントからの気づきだ。
1つは、自分のやろうとしていることを「面白い」と言ってくださる一方で、これは結局、教育学的にどんな意味があるのか、という問いをいただいたこと。博士号にも「教育学」と「学術」があって、あなたがやりたいことは学術のほうじゃないの、というコメントだった。
これは効いた。自分は、教育学とは何だろうということを、ちゃんと考えたことがなかった。自分の風越学園や筑駒の頃を知っている人、あるいはこのブログを長く読んでくださっている方がいたらわかると思うのだけど、僕は基本的に読むことや書くことという現象そのものに興味があって、その舞台がたまたま学校現場だった、みたいなところがある。もちろんその時々で目の前の児童・生徒の教育にはちゃんと向き合ってきたつもりだし、特に風越学園での経験は「教育って何だろう」ということをすごく考えさせられるいい経験だった。でも、「教育学って何だろう」は、それとはまた別の問いなのだ。
これは改めてちゃんと勉強したいなと思っているところ。せっかく、蔵書の多い広島大学に在籍しているので、それを活かして、教育学って何だろうということを少しずつ学んで、考えていきたい。
2つめは、僕ではなく他の発表者の方にある先生がコメントされていたことなのだけど、学位論文とは何だ、という話だ。
学位論文は、通常3年間、僕の場合は仕事をしながらの長期履修で6年間かけて書く。では、学位論文と、雑誌に投稿する普通の論文の違いは何なのか。学位論文でないとできないこと、学位論文だからこそチャレンジできることは何なのか。これも、あまり考えていなかったなと思う。
さっきの話とも関係するのだけど、学位論文が、教育学なら教育学の知見に新しく貢献するものであることは、論文として出す以上もちろん必要だ。でもそれに加えて、一定の長い期間をかけて大きな問いを追求できるものでもある。たとえば予算を獲得するために問いを小さく設定して、小さく調べて、確実に成果を出す、そういう研究とは、ちょっと違うスタンスを取れる。僕の場合もせっかく時間をかけて書くわけなので、学位論文だからこそチャレンジできることを楽しみたいなと、改めて思った。
構想発表会の場では、僕以外にも、この春に博士課程に入られた方の研究発表をいろいろ聞いた。それで思ったのは、研究にもいろんなタイプの研究があるな、ということ。
目の前の現実にある課題を解決するタイプの研究と、自分の問いを解くのを楽しみたいタイプの研究が、もしかしてあるのかな、と思う。課題を解決するタイプの研究というのは、現実と理想の間のギャップをどう埋めるか、わかりやすく言うと、ある問題に対してこういう介入をすればそれが解決しますよ、ということを目指す研究だ。結果が大事で、それでみんなに貢献するのが嬉しい、というタイプの研究。一方の謎解きタイプの研究は、その論文の書き手自身が持っている謎への興味を解いていくのがワクワクする、楽しいタイプの研究。
もちろん両者は重なりうるものだけど、自分は、少なくとも後者のモチベーションで強く動くタイプなんだなということを、他の方の発表を聞いて自覚した。
たとえば、すでに構想を決めていて、博士論文の章立てまで書いて発表されている方もいて、それはすごいな、もうそんなところまで行っているのか、と思う一方で、自分自身は現時点で章立てを出すことにあまり必要性を感じない。良し悪しではなくて、研究を動かすモチベーションのタイプの違いではないか、と思う。
文章というのは、構想が決まれば7割がた書けてしまうものだ(もちろん、書くにつれてまた練り直される、育っていくのは前提である)。構成が決まるとは、問題の解き方が見える、あるいはGoogleマップを使って行き先までの道順がわかる感覚に近い。でも、僕自身はそうなると興味を半分くらい失ってしまうのだ。今の僕の博士論文の構想は「こんな謎を解いてみたい」というところまでで、章立てなんて全然出せる段階じゃないのだけど、むしろ章立てを決めるのは、わりと後ろのほうでいいのかな、と思う。章立てが決まるまでのワクワクを、もう少し楽しんでいたい。そしてそのときには、冒頭に書いた「教育学にどう貢献できるのか」という問いにも答えられたらいいな、と思っている。
いずれにしても、僕の博士論文執筆の旅はまだ始まったばかりだ。自分がしていること、いや、しようとしていることにどんな意味や価値があるのか。学術コミュニティなり社会なりへの接続も考えながら、謎解きを楽しんでいけたらいいな。まあ、苦しいこともいっぱいあると思うし、そもそも書けないと困っちゃうんだけど….。以前にブログで書いたとおり、今は目の前の大学の仕事と博士論文を最優先して、他の仕事はもう全部断ると決めたので(下記エントリ参照)、ある意味、自分をちょっと追い込みつつ、その苦しさも楽しんでいけたらいいなという感じです。
構想発表会のおかげで、改めて頑張らなきゃという気になりました。やっぱりとても有益な、大事な会だったなと思っています。というわけで、まずは読書だ!
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]]>The post 「読むために読む」はどこへ行く? 夏の学会2つの遅いふりかえり。 first appeared on あすこまっ!.
]]>中でも印象深かったのは、日本国語教育学会で参加した横田経一郎先生のワークショップだ。子どもの問いを中心にして作品を読んでいく試みで、「ごんぎつね」を題材にして自分たちでもやっているうちに、大学の授業でも試してみたくなった。(横田さんのお名前にはどこかで見覚えがあって、帰宅して調べたら、出版学習の本を出されている方で、僕も本を持っていた)
ちょうど同じ日の午前中には、教科書作品で読んだ技術を使って、自分でもお話を書いてみる、という、これまた力の入った実践発表があった。読んだものを、書くことに引き取る。そういう授業だ。
おそらく、機能主義的な国語ワーキンググループの論点を見ても、今後は教科書の読み教材と書き教材が、スキルを通してリンクされていく可能性が高くなっていくんだと思う。読むことで身につけた技術を、書くことで使ってみる。書き手として読み直す。その往復が、教材や教科書のレベルであらかじめ設計されるようになっていくはず。
これ自体は、僕がずっと関心を持ってきた方向でもある。ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップを両方やってきた人間として、読むことと書くことがつながるのは、基本的には歓迎したい話ではある。
ただ、そんな中で、気になっていることが1つある。書くために読む、だけではなく、読むために読む、読むこと自体を楽しむ、という視点が失われていくんじゃないか、ということだ。
スキルでつなぐという設計は、どうしても「この読みは、何のためのものか」を問う方向に働く。そのとき、「別に何のためでもない、ただ読みたいから読んでいる」という時間は、カリキュラムの上で居場所を失いやすい。目的のはっきりした読みのほうが、説明もしやすいし、評価もしやすいから。
そうなると、リーディング・ワークショップのような「日常の読書」に近い形態の授業を志向する僕としても、考えてしまう。どうやったら読むこと自体を楽しむ活動ができるのか。これは自分でも考えていきたい。
学会でもう1つ印象的だったこと。それは、スライド作成に生成AIを使うのが、もう当たり前になっているなということだ。僕自身も使うことがあるので、時短になるのが大きい実感はある。だから、それ自体を批判するつもりは全くない。
でも時々、スライドを見ていて、これはこの言葉自体がAIの言葉だな、AIが吐き出した概念をそのまま使っているな、と思うことがあって、そんなときは急にこちらの気持ちが冷めてしまう瞬間がいくつかあった。
中でもある方の発表で、発表の中の重要概念として扱われていたものが、いかにもAIが出してきそうな単語だった。そう思ったのは僕だけではなかったのか、フロアからその言葉の具体例について質問が出たのだけど、発表者からはかばかしい答えが返ってこない。ここからは僕のただの推測だけれど、おそらくはこの方、AIが吐き出したなんとなくよさげな言葉を、ちゃんと吟味することもなく、そのまま使ってしまったのだと思う。その薄っぺらさを、とても感じてしまった。
とはいえ、人のことを言える立場ではない。自分が8月末に投稿した論文でも、AIは何度も使った。特に誤字脱字のチェックをはじめとした細かなチェックは、僕の注意力よりはるかに上なので、もうAIを使わないとできないなという気持ちでいる。
ただ、一方で、AIが吐き出してくるなんとなくよさげな概念に引っ張られてしまうことの危険性も感じている。僕自身、以前はAIはアイデアを考える段階の壁打ちに使うといいのでは、と思っていた時もあったのだけど、実際にはAIが出してきたアイデアを無批判に取り込んでしまう現象が、少なくないんじゃないか。そう思うようになった。
それで最近は、アイデアを考える段階でも、まずは自分自身で考える。そして一旦まとまったアイデアをAIとやり取りしながら、批判に答えたり、新たな視点を追加したりして、ブラッシュアップしていく。そうでないと、軸が自分の側からAIの側に移ってしまう。あの学会で聞いた薄っぺらい発表は、その典型だったように、少なくとも僕には思えてしまった。
AIについては、「AIっぽい文章」や「AIスライド」への警戒感が自分の知人の間でも増しているなと感じる。要はみんな、読み手としてうんざりしているのだろう。読み手としてはうんざりしているのに、書き手としては使ってしまう。このギャップが怖い。便利だと思って使っているうちに、次第に書くのも読むのも面倒くさくなって、結果的に、読むことや書くことの価値が毀損されているような気もして。
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]]>The post [雑談]しまなみ海道、一泊二日。夏休みを楽しんできました。 first appeared on あすこまっ!.
]]>またもずいぶんひさしぶりの更新になりました。広島に越してきて生活のリズムが変わり、健康のためのウォーキング(毎日1時間以上!)や家事に時間をとられて、ブログからすっかり遠ざかってしまっています。なんとかしたいなと思っていたところで、「歩きながら喋って、それをあとからAIに文字起こししてもらう」方法を思いつき、ためしにやってみています。これはその第一号。9月最初の今日のエントリは、8月末、1泊2日で走ってきたしまなみ海道の雑談です。
こちらに来てからの夏休みは、意外と忙しかった。8月上旬に学会に出て、家族と2日半過ごした後は、大学院の博士論文構想発表会があり、一週間缶詰になる仕事があり、他にもオープンキャンパスや保護者面談で土日の出勤が重なった。論文の投稿締め切りもあって、気がつけば、夏休みらしいことをあまりしていない。それで、8月29日に月末締め切りの論文を書き上げて、30日と31日をまるごと夏休みにあてることにした。行き先は、しまなみ海道。
ご存じの方も多いと思うけれど、しまなみ海道のサイクリングコースは、広島県の尾道市と愛媛県の今治市を、瀬戸内海の島々を渡りながら走破するコース。僕は高速バスで今治まで行って、そこから尾道方面へ戻ってくるルートを選んだ。
まず書き残したいのは、とても楽しかったこと。走るラインにずっと青い線が引かれていて「尾道まで何キロ」と書いてあるので、道に迷うことがない。島と島をつなぐ橋に至るまでは当然のぼりになるのだけど、勾配が3%程度に抑えられていて、脚に来るという感じでもない。そして何より、海を見ながら橋の上を走る眺めが最高だった。
たぶん、頑張れば1日で今治から尾道まで行けたと思う。でも僕は途中に立ち寄りたいところがいろいろあったので、一泊二日にした。これも正解だったな。おかげで、途中の資料館や美術館、それからグルメも満喫できた。
今回のサイクリングのテーマは、村上海賊。村上海賊は、戦国時代を中心に瀬戸内の海上を支配し、覇を唱えていた三つの村上氏のこと。来島村上・能島村上・因島村上という三つの勢力に分かれていて、瀬戸内海の交通や安全の管理、そしてもちろん海戦にも従事していた。有名なのは、和田竜さんの小説『村上海賊の娘』にも描かれた能島村上、村上武吉の一族だと思う。今回はその村上海賊たちのミュージアムをめぐりながら走ってきた。
今治を出て30分ほどで、来島海峡大橋を渡って大島に入る。大島ではサイクリングロードを途中で外れて、村上海賊ミュージアムへ行った。村上海賊について知りたいなら、まずここが一番のおすすめだと思う。展示も充実しているし、何より、能島村上の本拠地である能島城まで、船で行くツアー(3000円)があるのがいい。
能島の周りは潮の流れがとても速く、しかも目まぐるしく向きが変わる。それをうまく操ることができた能島村上の海賊衆が、いかに海の上の手だれであったか。それが、船に乗っているとよくわかるクルーズだった。本拠地の能島は意外に小さな島なのだけど、今も本丸・二の丸・三の丸の跡が残っていて、そこから見える景色もかった。『村上海賊の娘』を読んでいる人には、作中に出てきた地名も出てくるので面白い場所だと思う。もちろん僕も、今回はKindleに『村上海賊の娘』を入れていって、行きのバスや、宿に着いてからの時間にずっと読んでいた。
村上海賊については、もう一箇所、因島に因島水軍城という資料館がある。こちらは能島村上ではなく、因島村上を中心にした資料館。水軍城とはいっても能島城と違って、資料館が「城」と名乗っているだけなのだけど、日本遺産に認定された村上海賊を中心としたストーリーの紹介や、因島村上の家臣団編成などが詳しく書かれていて、小さいながらマニアックで充実した展示だった。
実は僕の妻は、因島の隣にある生名島の出身である。妻の故郷の名前が出てきたりして、その意味でも興味深い資料館だった。またこの資料館には、因島村上の一族を弔ったお墓がずらりと並んでいる。行く方はぜひ、そこも訪れてみてください。
そんな村上海賊中心の自転車ツアーだったのだけど、食べるほうも手を抜いていない。大島では鯛だしラーメン、伯方島では伯方の塩ソフトクリーム、生口島では有名なドルチェのレモンシャーベット。大三島でお好み焼き、因島でもお好み焼き、そしてゴールの尾道では尾道ラーメン。最後に福山に戻ってきたときには、ご褒美のプリントップ。これはプリンが一番上に乗っているパフェで、出発前に読んだ『ハブテトル ハブテトラン』という、小学生がしまなみ海道をサイクリングする小説に出てきたもの。それを食べて締めくくった。
途中、大三島ではサイクリングロードを外れて、島を南からぐるっと回る道を選んだために、勾配がきつくてへとへとになった。体じゅうに塩がつくくらい汗をかいて、あれは大変だったな。その疲れも、泊まった宿の近くにあるマーレ・グラッシア大三島で癒やした。生口島では耕三寺の近くにある平山郁夫美術館にも立ち寄ったのだけど、そこも、平山郁夫の生涯に触れられるだけでなく、建物の雰囲気がとても素敵なところだった。あそこもおすすめです。
そんなふうに二日間、充実した夏休みを過ごしたなあという気持ちで、今日9月1日の朝を迎えて、今も川沿いを歩いています。筋肉痛は、そんなにない。来るのは明日かな…? というわけで、今日は自分の夏休みの雑談でした。
しまなみ海道のサイクリングコースは、繰り返しになるけれど、ただ走るだけでも海が見えて、風を切って気持ちがいい。僕みたいに一泊して、ゆったりと行きたいところへ行ったり、グルメを堪能したりするのもいいと思います。僕もまた行きたくなりました。興味のある方は、ぜひ行ってみてください。
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]]>The post [お知らせ]今後しばらく、大学の仕事と博士研究に専念します(新規のお仕事依頼をお引き受けできません) first appeared on あすこまっ!.
]]>どうやって研究の時間を確保したら良いのかを考えて、一つ決めたことがあります。最初に結論を。
今後数年間(当面は博士論文を書き上げるまで、最大6年間)、すでに引き受けている継続のお仕事(教科書etc)以外は、新規のお仕事をお引き受けしません。僕との人間関係の親疎に関係なく、お断りします。
身近な人は知ってるんですけど、僕が軽井沢風越学園をやめて広島に転居した理由に、自分のやりたいこと(=仕事)だけをやり続けてきた反省から、もっと家庭に時間をつかうこと、具体的には、子供が巣立ったあとの夫婦の時間を優先することがありました。ライフワークと思っていた「作家の時間」「読書家の時間」をやめることは、僕にとっては大きな決断だったわけです。
でも一方で、やはり根が「やりたいことをやりたい」人間なもので、気づくと福山平成大学の仕事も頑張りたいし、「広島に行くならついでに博士課程も入っちゃえ!」と勢いで博士課程にも入ってしまいました…(笑)
そして、新生活がスタートして4ヶ月。実際に働いてみて、もう他のことに使う時間がないことを実感しました。
外部からいただく仕事って、自分からは考えないテーマについて考える大事な機会でもあるので、本当にありがたいし、実際に基本的に全てお受けしてきました。これまで原稿依頼や研修の依頼などをくださった方には感謝しかありません。特に『イン・ザ・ミドル』の翻訳から始まって、『中高生のための文章読本・表現読本』や『君の物語が君らしく』などの本づくりの仕事は面白かった。僕は書くことが上手でないにしろ、好きなので、なおさら。
そして、あえて客観的に言ってしまえば、僕がいただく仕事の量って、時間管理が上手でバリバリ仕事を進める力量ある先生たちなら、きっとこなせてしまう程度の量なんだとも思います。めちゃくちゃ多いというわけでは全くありません。
でも僕の場合、そんなに仕事が速いわけでもなく、そもそも怠惰なので、正直難しいんですね。一つ一つは大きくない原稿や研修でも、お仕事をいただくと、きっとこれまでと同じように多くの準備時間をかけて、その都度、家庭をないがしろにします。そして、もしも小さな忙しさの積み重ねに負けて博士論文を書けないで終わったら、一生後悔すると思います。
そのどちらにもなってしまうのが嫌なので、いったん「外のお仕事」から完全に手を引きます。手を引いたら、今後仮に手が空いても何も依頼をいただけなくなることも織り込み済みで、手を引きます。
生きていると色々ありますよね。「人生のフェーズが変わる」時期は誰にでもやってくるし、僕自身、今後の人生のためにも意識して変えていかなくてはならないと思っているところ。前よりも家庭を大事にしつつ、大学での教育と、研究を頑張りたい。広島での「楽しみな書き物」は博士論文ということにして、まずはそこに専念します。
そんなつもりで、今後は新しいお仕事をおひきうけしません。代わりに、博士課程の研究を頑張る形で国語教育の分野に貢献できたらと思います。あしからずご了承ください。そして、贅沢なお願いですが、温かく見守っていただけると嬉しいです。
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]]>The post ようやく夏休み開始!転職して4ヶ月、まずは頑張りました。 first appeared on あすこまっ!.
]]>4月から新しい環境に身を置いての4ヶ月、まずは順調な滑り出しというか、充実した日々だった。ふりかえって心からありがたかったのは、着任初年度ということで、分掌の仕事が今年はかなり軽く設定されていること。同僚も親切な方ばかりで、いろいろと気にかけてくれるし、質問には答えてくれるし、サポートしてくれる。おかげで、特に大きな困難を感じることなく、4ヶ月間を終えるた。前期の授業準備や学生さんとのやりとりに、けっこう時間を使うことができたな。
大学の名前で調べてもらえればわかるけど、勤務先は、財務省が「4割削減」をとなえる私立大学、しかも地方の小規模私立大学だ。偏差値も高くない。少人数教育での面倒見の良さを売りにする大学でもあって、自分が卒業した30年前の大学と比べると「大学の先生がそんなこともやるの?」と思われそうな仕事もたくさんある。
けれど幸いなことに、今のところ僕はそれを前向きにやれている。なかでも、学科全体で60名、小学校教員の志望者は20名ほどなこともあって、学生さんとの距離が近い。一人一人名前を覚えて、顔を見ながら授業ができている。国語系の授業では毎回全員とノートでコメントのやりとりをして、感想を聞いたり、質問に答えたりしている。ライティング・ワークショップのカンファランスもそうだけど、こういうのは僕に合っているな。
はじめての大学の国語科教育法の授業は、まずは僕の授業を体験的に受けてもらってそこから指導要領なども参照しつつ国語の授業について考える形式にした。この形式も、評価の方法や授業のやり方も、僕がまず原案を提案して、学生さんからフィードバックを得て、つくるプロセスに学生さんをまきこみながらやってきた。そうやって人間関係ができてきた6月くらいから7月にかけて、ほぼ毎日のように学生さんが研究室に来てくれて話を聞く時期もあって、そのおかげで、彼らの意識や課題も自分なりに見えてきつつある。
この4ヶ月、たびたび感じていたのは、自分が、いまの同僚だけでなく、去年までの軽井沢風越学園での経験に助けられているということ。そもそも、仮に自分が日本屈指の進学校である筑駒からすぐにいまの勤務先に来たら、学力のギャップに驚き、学生さんたちにネガティブな評価をしていたかもしれない。すぐに相手をジャッジせず、まずは受け止めて、相手の行動の背景を想像して…という姿勢が、以前よりも自分の中にあるのは、風越での経験のおかげだ。
そして、自分の授業づくりのスタンスは、風越の元校長・ゴリさん(岩瀬直樹さん、現・真鶴町教育長)や風越の元同僚の影響を強く受けているし、研究室に来てくれた学生さんの話を1対1で聞く時の姿勢も、風越学園でいろんな子どもたちの話をまっすぐ聞いていた同僚たちに教えてもらったものだ。とりわけ、この2年間、2022年度に一緒に一緒にラーニング・グループスタッフとなったあっきー(木村彰宏さん・現MIMIGURI)の依頼を受けて、彼の書くコーチングと教育についての本に深く関わったのも大きい。学生さんの話を聞くときの基本的な方針が、風越での経験と、あっきーの本によってだいぶできてきた気がする。
本当に僕は、あの学校で、理念も、行動のありようも、葛藤の中でいろんなことを学ばせてもらったと思う。もちろん僕は僕で、僕なりの経験の幅や長所や短所があり、すぐに変われるわけではないけど、去って改めて、風越の存在が自分にとって大きかったことを実感している。ほんと、感謝しかない。
学生さんたちは基本的に公立小学校教諭や幼稚園教諭、保育士をめざす人たちだ。公立勤務経験がなく、しかも筑駒と風越という「とがった」自由な学校でばかり働いてきた僕には、できることもあれば、できないことも率直にある。ただ、幸いなことに、同僚には公立小学校や教育委員会出身の方も複数いる。皆さん良い方なので、お互いのキャリアの違いと同じを面白がり、尊重しあいながら、自分のポジションから学生さんたちに成長の機会を提供できたらと思う(この「違いと同じを面白がる」も風越の同僚に教わった人生の教えだ)。
このご時世だ。地方私立大学の置かれている立場の厳しさも、もちろん感じている。だけど、今の自分にできることは、自分の裁量で学生さんの成長をサポートして、職場に貢献するとともに、教員養成を通して、地域の教育を支えること。そういう目標も実感として持てるようになったので、素直に頑張っていきたい。地域の高校の先生方、もし小学校志望の学生さんがいたら、ぜひ福山平成大学へ(笑)少人数教育で、何回も模擬授業ができるなど手厚いサポートがあるし、特に国語科教育系に関しては、僕ができるだけ頑張ります。
そんな新天地での悩みは、目下のところ研究できていないこと。もともと「研究大学」というより教育中心の大学なのだろうし、僕の場合は勤務時間のほぼ全てを授業準備や面談を含めた教育活動に使っているので、平日の週1回の広島大学での研究指導の日以外は、研究に使える時間がない。あとは休日なのだけど、やはり自分は根が研究者よりも学校教員なのか、時間があると授業準備をしてしまう。
とはいえ、広島大学大学院に入学した以上、自分のやりたい研究をやって博士号も取得したいし、現実的に勤務先での評価も研究活動がベースでなされるので、今のままでいいはずもない。
そんなもやもやを抱えていたところに、つい先日、朗報が! ラッキーなことに、4月に応募した科研費の研究活動スタート支援が採択されたのだ。おかげで研究用機材を買い揃え、「こんなことできたらなあ」と思っていた研究が実行に移せそう。教育の比重が重い大学だけに、研究との両立が大変そうなのは事実。でも、もっと忙しい同僚もそこにチャレンジしている中で、まだ学務負担が少ない自分が泣き言を言ってはいられない。この夏からは、研究活動も頑張りたい。あとは健康維持や家庭生活も含めたバランスをどうとるかがテーマだな、と思う。そんなわけであれやこれや、充実した夏をすごして、後期も頑張ろう!
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]]>The post [読書]筆者の物語創作指導研究の集大成。三藤恭弘『「物語る」力をつける国語教科書』 first appeared on あすこまっ!.
]]>過去の2冊については、下記エントリで触れている。今見ると下記エントリはリンクが結構切れてしまっているが、プラグインが対応しなくなってしまったので、ご容赦ください。
本書の構成は、左開き(横書き)の理論編と、右開き(縦書き)の実践編から成るのが大きな特徴だ。理論編では、物語創作の前段階としての「物語り」行為の意味を論じることから始まり、「物語」の骨格、教材研究のステップ、物語を学ぶためのカリキュラムの提示、実践上の悩みとそれへの回答、そして物語創作学習の歴史へと続く。これまでの著書から一般向けにコンパクトに抜き出したものもあれば、自分の著作を批判的に検討して書き換えたものもある。まさに著者集大成の本と言える。また、逆向きに開く実践編は、理論編をふまえて各学年1つの6つの単元が掲載されており、ワークシートなどもそのままコピーして使える構成になっている。
理論編の最大の特徴は、著者のこれまでの研究をふまえて物語創作カリキュラムを提案しているところにあるのだが、これがとてもシンプル。そして、それがいい。以前の実践書『書く力がぐんぐん身につく!「物語の創作/お話づくり」のカリキュラム30』は物語の構造曲線やプロップのカードなどを中心に、さまざまな手立てを提案していたのだが、本書ではぐっと減っている。「起承転結」や「山場」のような演出効果に類するものは児童には厳しいという認識のもと、ストーリー構成に関わる内容にだけしぼっている。そして、『「物語の創作」学習指導の研究』で考察された学習指導カリキュラム案をもとに、①物語を読む学習との連関を重視した、②一学年一目標のシンプルなカリキュラムの提案となっている。これは、現実には物語創作の機会が減らされている現状のなかで、各学年ごとの目標を定め、しかも読み書き連関学習にすることで、時数的には最低限でも、最大限の効果をあげるラインを目指した現実的な提案と言えるだろう。実践編のワークシートもこれに基づいていて、一学年に一単元、しかも教科書の続きでできる活動が配置されている。このシンプルさであれば取り組める実践者も増えるのではないか。
また、本書のもう一つの特徴が充実したQ&Aである。20ページ以上にわたって17個の問いに懇切丁寧に答えており、長年、物語創作指導やその研究に関わってきた著者の経験・知見がつめこまれたパートになっている。カリキュラムに位置付けることを念頭にきちんと力をつけることも重視する筆者なので、教師への言葉も決して甘くはないが、一方で「部分創作で良い」と述べたり、「作品はねらわないけれど、その力そのものをつけようと思った」という大村はまの言葉を引用して、作品の質が問題なのではなく、どんな力をつけたいのかが問題であると述べたりするなど、指導の狙いを明確にしてハードルを下げることも意図した回答はさすが。ここらへん僕とは少し考えが違う(ぼくのほうがおおらかというか、いいかげんである)ところもあるのだけど、僕のライティング・ワークショップ経験に照らしても、全体として首肯できるところが多い。
というわけで、本書は物語創作指導に関心のある人、特に小学校の教員がまず読むべき本になっている。詳しさで言えば同じ著者の『「物語の創作」学習指導の研究』が一番詳しいのだけど、あちらが博士論文をもとにした研究書であることを考えたら、読みやすく、現場で使いやすいのはこちらだと思う。何より、シンプルな提案がいい。
なお、本の感想にこういう個人的なつながりはあまり書くべきではないかもしれないが、著者の三藤先生は福山平成大学での僕の前任者でもある。2023年の全国大学国語教育学会の公開講座でご一緒したことが縁のはじまりとなり、それが現在の転職にもつながっている。本書でも拙著『君の物語が君らしく 自分をつくるライティング入門』をとりあげ、あとがきでも少し自分に言及してくださっていて、とてもありがたく拝読しました。
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]]>長野に移ったこともあって、日本国語教育学会自体に行ったのも実は3年ぶり。今回は5月末の全国大学国語教育学会から期間が短かったこともあって、2つの学会の性格の違いをより感じる機会になった。一言で言うと、全国大学は研究者中心、日国は実践者中心。僕が親しみを感じるのは後者なのだけど、こういう違いがあるので、日国の発表は「研究発表」ではなくて「実践発表」で、「こんなことをやりましたけど、どう?(「どや!」だったりするのもある)」というものが多い。中には、「Aをしたから、Aする力がつきました」(例:コミュニケーションしたからコミュニケーション力がつきました)式の、論理的には「ほんまかよ」みたいな報告もあるのだけど、個人的にはそこにはあまり突っ込まない。
というのも、実践者にとってここでの発表は「晴れの場」的な位置づけを持つからだ。僕も以前そうだった。だとしたら、その実践者が「よし、次もがんばろう」と思ってもらうのが発表のゴールで、逆に最悪なのが「これならやるんじゃなかった」という結果だ。全国大学が「発表者とフロアの共同で議論を積み上げる場」なのだとしたら、日国は「発表した実践者の背中を押す場」。こういう区分けがいいのかどうかは別として、そういうスタンスでいくつかの質問をした。
実践発表分科会では中井悠加先生(僕の指導教員でもある)と住田勝先生が「指定討論者」となっている。20分の発表に対して、10分間のフロアからの質疑応答のあと、最後に一人10分ずつ話をすることのだ。この「指定討論」、激ムズだなーと思う。国語教育の研究者とはいえ、(1)自分の専門ど真ん中でもないことについて、(2)フロアで出てくる質疑の流れを意識して、(3)10分というまとまった分量で話さないといけない。ある程度事前に用意できるのだろうけど、用意していた内容がフロアからの質問ですでに取り上げられちゃったりしたらどうなるんだろう…。自分だったら何を言うんだろうとちょっと考えてみたけど、お手上げだった。こういうのが気になってくるのも、自分が大学に移った影響だろうか。まあ、当分こんな役が回ってこないことを祈る。
この日の午後は、全体で集まっての講演やシンポジウム。甲斐雄一郎先生の講演「大村はま国語教室の成長」は面白かったな。ここではそれについてだけ書く。この講演は、大村はま教室の教室が、昭和20年代から40年代にかけてどのような変遷をたどったのかについてのお話で、20年代は授業記録を読むと友達への批判が散見されるのに、40年代は満足度が高まっているのだという。その変化は何によってもたらされたのか、というのが中核の問いにある講演だった。
ここであまり詳しくは書きすぎないけど、その変化を一言で言えば「制約が増えていった」のである。書く題目や題材、誰と一緒に学ぶか、そしてなんのために学ぶのか…こうしたことの制約を、大村はまはひとつずつ増やしていく。それが、教室の充実につながっていったというのである。
これは、現代の教育の潮流が、おおむね子どもに課される制約を減らすことで活性化させようとしている点を考えると、とても示唆的だ。もちろん制約と自由の関係は単純ではなくて、ある程度の制約があるからこそかえって自由に感じられるのが通例だ。そして、問題はその「ある程度」がどの程度なのかという点である。
断っておくと僕は大村はまの熱心な信奉者ではない。「国語教室」を一応は読んだし、空前絶後の巨人として敬意も払っているつもりだが、この講演で語られたような大村の「制約」の厳しさに、ある種の息苦しさを感じることもあるからだ。大村はまの単元学習に比べたら、ライティング・ワークショップはとても自由度が高い。書きたいことを、書きたい場所で、書きたいように書く。これでは大村からは「力のつかない」実践と言われそうだ。それはまあ、大村はま実践と比べたらそうなんだろうなと思う。けれど、僕から大村はま実践を見ると、彼女の授業設計の根底には、「教師である自分が責任を持って生徒のことばの力を伸ばす」という、下手をすると支配欲と紙一重な思想を感じることがある。
もっとも、それはあくまで本の記述から受ける印象で、実際の教室では大村はいつもニコニコ笑っていたというから、自分が子どもだったとしても気にはならないかもしれないが、どうだったんだろう。もしタイムマシンで好きな時代に行けるのだとしたら、学習者として大村はま教室に参加してみたいな。力がつく実感は得られるのだろうし、こんなこと言って大好きまでありえる。
この日は、朝一番にとりあえず香川県でさぬきうどん屋に入ったり、お昼休みに鳴門教育大学の野地潤家文庫と大村はま文庫に聖地巡礼のような気持ちで行ったり、帰りも講演をひとつスキップして本屋ルヌガンガに行ったりと、かなり満喫した。全体の集まりでも、お隣りの方が僕の本を読んでくださっていて、ありがたくおしゃべりできた。日帰り往復はきつかったけど、楽しい四国遠征でした。
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]]>今回は僕も自由研究発表にエントリーして「英語圏におけるteachers as writers研究に関する文献レビュー」という発表をしてきました。博士課程の研究でteachers as writersを扱うことにしたので、その文献レビューをそのまま自由研究発表にしちゃえ、というわけ。これ、いまふりかえってもきつかったな…(笑)やっぱり、博士課程に入って(しかも転職もして)2ヶ月後に発表って無謀なスケジュールだった。以前にこちらのエントリでも書いた通り、AIを使ったせいで(?)けっこう迷走もしちゃったし。
でも、そんな中でも発表してみて、とても良かった!自分に関して言うと、依頼されて登壇するときよりも自分から求めて発表にいったこともあって、名刺交換した人に必ずメール送るとか、ハングリーになれたのがよかった。結果として、いくつも質問や助言をもらって、それをリストにしただけでも今後の参考になる。特に良かったのは、このやりとりを通して「自分の関心が何にあり、何にないのか」が明らかになったことと、この分野の研究をすでに進めている方からも助言をもらえたことかな。あと、日本の生活綴り方教師とアメリカのプロセス・ライティング運動に関わった教師の違いとか、あまり考えていなかった問いも生まれてきた。加えて、この学会がきっかけで某プロジェクトにお誘いいただくなど、かなり収穫のあった自由研究発表だった。いつもこんなふうにはいかないだろうけど、発表をしてフィードバックをもらってまた次へ…というサイクルがぐいっとまわっていく感じ、一度体感できてよかったな。頑張ってまた発表したいと思います。
今回、自分の発表以外の場面で頑張ろうと決めていたのが「質問すること」。学会は、発表者から学術的に新しい知見を得る代わりに、発表者の知見のさらなる構築にその場にいるみんなで一緒に関わっていく場だと思う。だから、できるだけ良き質問者として質問することを心がけた。ただ、色々と質問を重ねるうちに、この場合の良い質問って何だろうという問いも生まれた。僕自身は、発表者の研究的関心を尊重し、それをより強固な論にするために「論理の穴を埋める」質問が多かった気がする。しかし、こういう質問は、発表者に対して好意的ではあるけれど、その論の展開を大きく変えることには貢献しない。だから、学会がおわってふりかえってみると、こういう、いわば「教育的配慮」に満ちた質問ではなく、もっと率直に自分の感じたことを述べても良いのではないかという気もした。そもそも「論理の穴埋め」って僕よりAIのほうがよっぽど得意なので、発表者が発表原稿をAIにレビューしてもらえば済んでしまうしね…。今回、ある発表に対して批判的なコメントをしていた人もいて、それは僕からすると「そもそも発表者の問題関心はそれじゃないだろ」みたいな見当はずれの批判だったのだけど、かえってああいうコメントのほうが発表者の前提を良い意味でゆるがすことだってあるかもしれない(今回のはそうでなかったと思うけど)。いい質問って難しいな。
もうひとつ、全国大学国語教育学会では、初日の午後と二日目の午前中に全体で一つの会場に集まってシンポジウム形式(司会+登壇者数名)で特定のテーマについて議論する場があるのだけど、これってやはり難しいですよね。仮に登壇者が3人いたとして、この1+1+1から4や5を導くのが難しい。それぞれのお話が面白ければそれでいいという考え方もあるし、それ以上の「このメンバーが集まったからこそ生まれる価値」を生む難しさを考えたら、そのくらいの期待度で参加した方が良い気もするのだけど、やっぱり4や5になるほうが面白いですものね。
その点ですごいなあと思ったのが東京学芸大学の渡辺貴裕先生。初日の午後のシンポジウムでは、お二人の登壇者の発言をご自身の観点で整理されてお二人に返す質問をされてて、「このメンバーが集まったからこそ生まれる価値」をフロアから生み出そうとされていた。渡辺先生とは二言三言おしゃべりする機会があったので「どうやってああいう質問思いつくんですか?」と聞いたところ、答えはここには書かないでおくけど、ちょっと教えてくれた。で、それを活かして翌日のシンポジウムで何か質問したいなーと思ってノートに登壇者の話をメモしながらそれぞれの話の関係性を考えてようとしたのだけど、それだけで終わっちゃったなあ。難しい。
今回は、勤務先の福山平成大学の学生さんが「行ってみたい」と言うので一緒にあれこれおしゃべりしたり(学生さんとの学会参加はもちろん初めて)、筑駒勤務時代に教えていた卒業生さんが勤務先大学で教えていた学生さん(わかにくい…)に声をかけていただいたりと、人とのつながりという意味でも、時の流れを感じてちょっと味わいのある会だったな。いろんな方から刺激をたくさんいただけて、学会に参加する価値を感じた2日間でした。月並みだけど、次も頑張ろう!
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