2023-08-05
ブログ、長い間気になりながらも、放りっぱなしにしていた。書かなくなって久しくなったら、怖くなって近づくことができなかった。自分のブログだけど、いつもそうだ。なぜか近づけなくなる。
海外からのスパムメールが大量に来ていたようだった。
もうログインの仕方もあいまいになってて、どうしてよいかもわからなくなっていた。一度更新したところで、その後書くこともないし…
…と。
さて、私はゆるゆるながらもACIMの勉強と実践を続けている。
今年1月半ばから3回目のワークブックをやっている。
前とちがうのは、ワプニック博士の『Journey through the Workbook of a Course in Miracle』を読みながらやっていることだ。翻訳がないので、翻訳サイトの力も借りながらちびちび英文を読んで日本語に直しながらやっている。私の英語力では週に2,3しか進まない。
今、復習Ⅲのレッスン112だ。

どうしてこれをすることにしたかーというと、ゲイリーさんのワークショップで出会った唯一ともいえる学習仲間が先行してやっていたから。
そして「すごくいい。ワークブックはもう数回やったけど、この本を読みながらやったら理解がすごく深まった」と話していたから。
何より説得力があったのは、その方が私から見て変わったことだった。
熱心な学習者であることは変わらないが、おそらく政治や経済に明るい方だからだろう、以前は幻想としながらもこの世の中のしくみやしくみを作る層に対する「物申す」的意見が多かった。
それが、『Journey through the Workbook of a Course in Miracle』を読みながらのワークが中盤にさしかかったあたりから「そういうのは止めた」と言い、人柄自体が穏やかで幸せそうに変わった。血色もよくなった。
本人は自分のことだからわからないだろうが、その変化を目の当たりにして、がぜん、興味が湧いた。そして今年の抱負…というわけではないが、着手することにしたのだ。
人の変化はわかるけれど、私にとって良い変化をもたらしているかどうかは不明。むしろ加齢によるマイナスの変化は感じるが。
実感したのは、コースは解釈も難しいが、実践は以前思っていた以上にすごくすごく難しいということ。
聖霊語で書かれたコースをニンゲンだったワプニックさんが、「ここは誤解しやすいところですが、こうですよ」とエゴ的解釈を許すまじと説明して念押ししているのが、ツボを押されるみたいに痛気持ちいい。
“絶望”に近い気持ちも感じている。
いくら本を読んでやったつもりでいても、エゴ的支配が強い私には、到底無理なんじゃないかー。ただ葛藤が深まるだけじゃないのか。
これに関しても先人がいることはありがたい。
先の仲間はすでにワプニック解説本を読みながらのワークを終え、自信を失っている私に対して、「大丈夫ですよ。こういったことを1年、5年、10年と続けて生きていくだけで、全然変わってくるはずです。ゴールが決まっているのだから、必ずたどり着きます。」と頼もしいメッセージ。
…当面、この3回目のワークをゆるゆる続けていくことが目標だ。
ブログを再開して続けられる気力や動機は未だ乏しいけれど、月一回でも更新できたら、それはうれしい。
]]>2022-05-30
先週、月に一度習っている色えんぴつ画の展覧会があった。
ピアノを習っている人だったら「ピアノの発表会」のようなもの。先生に習っている生徒、それからプロになった方も含め総勢150名が出展した。
5月という日程が決まったのがわりと急だったので共通課題「夏の終わりに」はある程度できていたが、もう一方の自由画が手つかずだった。
直前になってから、家にあるもので何か描こう、と室内を見渡した。
芽が出てしまった玉ねぎをコップに入れて置いていたのが目に付いたので、それを描いた。
さて、出品のためタイトルをつける段になって迷った。
玉ねぎは玉ねぎだけど、これは何と名づけるべきかー
ふと頭に浮かんだのが、コースの何かで見た「エゴ(自我)の解体とは玉ねぎを剥くようなもの」という言葉だった。
玉ねぎを一枚ずつ剥いていくとやがてなくなるように、エゴも赦しを続けることに解体されてやがてはなくなるー。
玉ねぎを剥くという目に見える行いで例えてあるところがわかりやすかった。
何で見たんだっけー?
調べたら『神の使者』の続編『不死というあなたの現実』(ゲイリー・R・レナード著)だった。
以下引用するとー
「ヒンズー教には、エゴの解体とはタマネギを剥くようなものだ、というたとえ話がある。そのたとえを借りれば、きみが誰かを「コース」にあるとおりの意味で赦すなら、タマネギを一枚剥いたことになる。というか、エゴの層を一枚剥いたわけだ。きみには何も変わらないように見えるかもしれない。どうしてか?タマネギを1枚剥いても、やっぱりタマネギだ。同じように見えるだろう。だがほんとうは同じじゃない。1枚剥かれて皮が減っているのだから。」(『不死というあなたの現実』p113より)
「きみが赦しを実践すると、もうきみには学ぶ必要のないレッスンが出てくる。そこで聖霊はそのレッスンのある時間の次元でテープを消し、その次元を消滅させる。聖霊には見えるものがきみには見えないから、きみはそこで座って考えている。退屈だな、何も起こらないよ。だが実は瞠目すべきことが起こっている。タマネギがさらに剥かれ、きみのエゴが消えていくんだ。
きみががんばって赦しを実践し続けると、ある時点でタマネギの芯に達する。そこも剝いてしまうと、もう何も残っていない。タマネギは消えた。エゴも同じなんだよ。」(『不死というあなたの現実』p114より)

私が描いた玉ねぎは皮を剥かれるどころか、自分が土に植えられていないことを知らないのか気持ちよさそうに茎を伸ばしていた。根も生えてきていた。
本当は食べられる運命だったものが私の怠慢のせいでその機会を奪われ…。まるで「自分はビッグな農場のビッグな玉ねぎになってたくさん子孫を残して繁栄するんだ」という夢を見ているかのように見えた。
…虚しい。
しょせん、私の家の水栽培。いくら茎を伸ばしたところで先はない。
そもそも私にとって玉ねぎは剥いていくべきものの象徴なのだ。こんなところで成長を夢見ているものではない。
…そこで浮かんだタイトルが「玉ねぎの虚夢」。
展覧会直前の講座で、「え、これ玉ねぎだったの?花の球根かと思ってた」と同じ講座の方に言われたから、このタイトルにしてよかった。
さて、展覧会には会期中述べ1,000名超の方が来場したらしい。
受講生は持ち回りで受付をやるのでその頭数も入っている。中には連日足を運ぶ受講者もいたからお客さまの実数は半分に満たないかもしれない。
来場者の中にACIMを学んでいる人はおそらくいないだろうし、私が「玉ねぎの虚夢」に込めたACIM的メッセージー実体も継続性もない本当は解体すべき自我を育ててしまっている私ーを思い描く人など皆無だろう。
で、ここに載せた。
自画像ーとも言えるか。
その後、玉ねぎはしぼんで茎もしおれ「夢破れた玉ねぎ」みたいになった。一瞬絵にして対比したら面白いかなと思ったが、面倒なので止めた。
ゴミ箱に捨てるときちょっぴり罪悪感を感じた。それを赦した(この終わり方作為的かな?)。
]]>2022-04-21
最後にブログ更新してから7ヶ月余り。
季節は巡って2022年春ー。
放置していたら自分のブログながら何だか怖くて近づけなくなっていた。
『Journey through the Text of A Course in Miraclrs』というACIMテキスト解説本を読んで自分なりのまとめをブログに書くのが、学習上の小目標でありモチベーションになっていたのが、これは少々障りがあるやも、ということで止めることにしたのが、昨年夏。
ならば、ブログに載せるのは止めてそのまま読み続ければよさそうなものだけど、気が抜けてしまっていた。
そもそもこの本を原文で読むのは私にとってはかなり難しく和訳がないので読んでいながら不安感があった。本音では止めたい気持ちがあったがAmazonの海外の学習者のレビューがすこぶる高かったので、自分からは止められなかったのだ。
実際には解説本を読むことだけでエネルギー枯れしていて、肝心のテキストに照らして読むということができておらず、それもどうなんだろ、と思っていた。
…で、昨年の晩秋から新しい個人プロジェクトを始めた。
名づけて「ACIMテキスト英和読み」(自分だけだからわかればいいのだ)。
何をやっているのかというと、ルーズリーフノートを見開いて左側に表を作り、その左欄に1節ずつテキストの英文を、右欄に『奇跡講座テキスト編』(中央アート出版社)から該当箇所を転記。和文と照らしながら英語の原文を読んでいくのだ。

ルーズリーフの右側は白いまんま。ここにいずれワプニック先生の解説から学んだことや、全体を読んで整理できていったことや気づいたことなどを書き入れていけたらと思っている。
元々私はワークブックを英文と和文を合わせて読んでやっていた。その際に参考にさせていただいていたのが大畑学さんのブログだったので、今回もそのテキスト編の解説を活用させていただいている。
今週ようやく8章に入った。
この完成版を私の生涯の学習のベースノートにしよう、というのが、今の“野望”だ。
元々視力が0.03位で良くない上に最近はことに老眼が進行して小さな字が見づらい。大きい文字のテキストが欲しかったから、これはマイテキストともいえる。
ACIMテキストの原書を素晴らしい和訳や解説の力を借りつつ読むのは「なんという道楽!」と思う一方で、今私にとってはとても大事なことになっている。
ブログは無理せず書けそうなときに書き細々続けられたらと思っている。
]]>2021-09-04
一時的なのかもしれないけれど9月に入りすっかり涼しくなった。暑さにバテていた私にはありがたい涼しさだ。
最後にブログを書いてからすでに10日経った…早いなぁ。
先月『Journey through the Text of A Course in Miraclrs』のブログ上でのまとめを止めることにしてから、この本を読むこと自体が止まってしまっている。
…気が抜けたということもある。
元々はワークショップで出会った貴重な勉強仲間から誘われてスタートし、この2年は自分の中で「ライフワーク」といってもいいくらいの位置づけになっていた。しかし読んで理解するのに時間がかかりすぎていて私には少し荷が重かったというのも事実。ただ「縁あって出会ったものだし何とか続けなきゃ」と思い込んでいて、自分からは止められなくなっていた。
だからブログまとめができなくなった流れに寂しさを感じる反面、やれやれ…とほっとしている自分もいる。実際はそんなものだった。
私はやっとやっとで不出来な要約を上げていたが、ワプニック博士の本のレビューや感想を上げること自体が良くないとは思っていない。もっとちゃんと要約ができそれに対して自分の意見がまとめられるようになったら、またチャレンジしたい。

私は9章の3節で中断してしまったが、途中まで読んできて今思うことー。
一つは、ブログでも何度も書いていたが、自我の解体というか自我の思考システムを手放していくのは思っていた以上に難しい、ということだ。
ワプニック先生は、本の中で各章に渡り何度も「自我の恐れ」を節立てして説明しておられた。
自我には深く強い恐れがあってそこを見ないようにするいくつもの防衛システムがある。
ACIMを自分と切り離して対象物として学ぶことは、抽象的で取っつきにくい面はあるができないことじゃないと思う。
一方ACIMを生きることは、非常に難しい。自我の防衛システムが働くため切り離して考えているときのような見方ができないからだ。心がざわつくような出来事が起こったとき、それが自分の罪悪感と恐怖が見せている幻想なのだということが信じられなくなってしまう。
「聖霊の見方」vs「自我の見方」と対比されているが、これは五分五分なものとして差し出されているものではない。
「神からの分離」を真に受けた私たちには自我の見方が必要だった。だから自ら選んで自我と一体化して怒り狂った神から逃げて、この世と個々の肉体を作った。
そして今もまさにそこにいる。
すでに自我と一体化してしまっているところから話がスタートしているのだ。
簡単にできないことはあたりまえ。
理論を理解できたとしても、それを「自分」を通した人生でどれだけ実践できるかはまた別。
だから時間はかかるしちょいちょい起こる判断ミスもOKなのだ。
少しずつでも気づいたときに巨大玉ねぎの薄い皮を一枚剥ければ、それでOKなんじゃないかな、と思う。
もう一つ感じるのは、この世での自分を大切にすることの大事さだ。
ハシゴの最下段からスタートするから一足飛びに上段には行けない。この世で個として肉体を持って生きている私たちは、そこを蔑ろにしてはいけないのだ。
「世界はない」「この世界とこの世界のやり方を無意味なものとする」と最初に出会ったACIM本『神の使者』(ゲイリー・R・レナード著、河出書房新社)で読んでから、私はこの世とこの世の自分を軽んじていたかもしれない。
この世に真の因果はないというがクローズドシステムの中でも因果はある。特にまだほぼほぼ自我と一体化している時には。だから、この世の因果も「幻想」とするのではなくそれも踏まえながら緩やかに真の因果に焦点を当てていくべきだったと思う。
元々内向的だけど『神の使者』を読みACIMのワークブックをするようになって世の中から退避する傾向が強まった。もう同年代もリタイアし始めているし「どうぞご自由に」って感じもするけれど、ニンゲンとして健全ではない気もする。ACIMを言い訳にしてはいけない。私は疲れていて休みたかっただけかもしれない。
ACIMでいう「自我」と心理学上の「自我」は異なる。
この世で生きる「意識主体」としての自分と自分の肉体を大切にすることは、あたりまえながらとても大事だと思う。私たちは、意識のお皿に乗せられたものしか選択できないのだから。
これを私なりに言い換えるなら、地に足を付けて身の丈で自分なりに生きるということ。中庸を旨とし争いを好まず、目の前の人にはなるたけ親切にするということだ。
若い頃にACIMに出会いこの教えを実践しようとする方は本当に大変だと思う。ニンゲンはこの世界という舞台で我が力を発揮するようプログラムされているように思えるし、若い頃はとくにその影響力がとても強いからだ。20代30代は無理してACIMを実践しなくてもいいんじゃないか…。個としての自分を存分生きてみてからでも遅くないと思う。
今日『神の使者』をぱらぱらめくっていたら「幻想は経験されているレベルで癒されなくてはならない」(p265)という文言が目に入った。
当然だけどここにいる私たちが自らを癒すには幻想としてのこの世が必要なのだ。そこを幻想だからとないことにするのとは違うのだと改めて思った。
あたりまえのことをしながらも、心の奥の声を聞きつつ緩やかに穏やかにいきたい。
…で、私。ACIMの端っこにはい続けよう。
この秋、私は「暦」が「還る」節目のときを迎える。この先10年…どう生きたいのか。この世でどう生きたいのか…考えたい。
そして改めて自分にとっての原点『神の使者』の再読もしようと思う。
]]>2021-08-25
お盆帰省中、ワプニック先生の本読み仲間からLINEをもらった。JACIMさんの最新の記事「『ワプニック博士の解説で学ぶ』ということに意味について」が本ブログにも関係するかも?といった内容で、該当記事のアドレスも載せてくれていた。
ざっと目を通したら、(JACIMさんがこのブログについて言及されたかどうかはさておき)うん、関係ありそう…に思えた。
…自分なりに何らか対応がいるのかも、落ち着いたら考えてみよう、と思いつつ、実家では慌ただしく東京に戻ってからも体調が思わしくなくそのことに気が向けられなかった。
そして今日になってしまった。
JACIMさんの記事の内容は、初めに「最近ワプニック博士の解説を取り上げているサイトやブログ等インターネット情報が増加している現状およびそれが自己流解釈になってしまっている」点に触れ、終わりに「そうしたネット情報への(一定の)ニーズの背景の考察」を載せつつ、次のような指摘がなされていた(と思う)。
①JACIM以外が翻訳したり教えてはならない(誤解や水増し、歪曲の恐れ)
②学習経験が浅い者が教えてはならない(ワプニック博士の意向)
③ワプニック博士の未翻訳の著作をYouTube、ブログ等で紹介するのはNG(著作権上の問題)
このブログでは教えてはいないから①②には該当しないが、③の行為には該当する。
そもそもは一昨年のゲイリー・レナードさんのワークショップで知り合ったメンバーで後日お茶した際に、そのうちのひとりが『Journey through the Text of A Course in Miraclrs』を読んでいて、「素晴らしい本だから読んでシェアをしていかない?」と提案してくれたのがきっかけだった。
私はこのブログを書いていたので、そこで「ざっくりまとめ(要約)」することにした。
ブログというのは不思議なもので、締め切り効果と発表効果というのか一種の緊張感があり、それが読み進めるうえで大いにモチベーションとなっていた。
理解できていくと思える楽しさもあった。
しかしー。
今回のご指摘を受けて改めてふりかえると「私はよろしくないことをしていたのでは?」と思う。
もちろん故意に悪情報を流したいと思っていないものの、ワプニック博士本を読んで自分なりに要約する過程でどうしても私のフィルターがかかってしまう。
しかもその過程で英語力+奇跡講座についての解釈の理解という二重のハードルがあり、自分としてはその時の精いっぱいだったが結果的に稚拙なものを挙げてしまっていた。ブログ内で「ワプニック先生が〇〇と説明なさっていた」と書いている部分はすべて「〇〇と説明なさっていたと私は思う」の意味だ。
博士の解説に自分の考えを入れ込んでしまっている箇所があった。著作権の細かい規定に反するものかどうかはわからないが、学者ブログ=「個人の感想です」みたいなところに胡坐をかいていたと思う。
読んでくださった方はどこまで私の“フィルター”を意識なさっていただろうか。読まれた方に歪曲した内容を伝えた可能性はあると思う。
当ブログのワプニック博士の著作の“ざっくりまとめ”を読まれた方へ。これまで読んでくださってありがとうございました。私の中途半端な姿勢と表現のアバウトさについてお詫びします。
また初学者の無知な大胆さで、ワプニック博士の著作物を乱したかもしれないという点でも関係者の方々にお詫びいたします。
今後はもう少し慎重にしたい。
もちろんワプニック博士本のブログ上でのまとめは止める。
だいたい私、『奇跡講座』の実践というのがほんとうに難しいと思っている。
水泳で例えると「畳の上の水練」の諺どおり、実践面ではプールで顔に水がかかっただけで、ひゃあ!と言ってしまうレベルだ。。。
一方ワプニック博士解説は、「バタフライにおける全集中の呼吸」くらいのことも含んでいる気がする。
部屋でバタフライ呼吸理論を学ぶ前に、おい、まず顔を水につけられるようになれ、って話だ。まぁ、それがなかなかむずかしいんだけど。
著書を読んでわかっていく気がして楽しく、この2年はそれがよかったと思う。
そしてこれからは、もっともっと今の自分に合ったことを地道に実践するのが大事なのかもしれないと思う。

2021-08-20
8月11日~16日まで故郷でひとり暮らす母の元に帰省していた。
東京に戻ってから夏バテと地域差ボケでぼーっとしてしまっていた。
…で久しぶりのブログだ。
帰省の前夜洗顔していたら、腰にグワっと鈍い痛みが走った。
このなじみの痛み…ギックリ腰だ。またやってしまったか。よりによって前日に…。
幸いまだ軽かったので翌日湿布をして骨盤ベルトを巻いて出た。
しかし、電車を乗り換えバスを乗り換え新幹線を乗り換え…としているうちに、キャリーバッグを持ち上げるとぎゃあ~(>_<)と激痛が走るようになった。“りっぱな”ギックリ腰だ。
何とか生家にたどり着いたが痛くて仕方ない。夕方もやっていた接骨院に行った。
ベテラン老先生は丁寧に診てくださり、「急性期だからまだ明日も痛むよ。取れる痛みは取っておいたほうがいいから明日もいらっしゃい。」と言ってくださった。それでも痛みはずいぶん緩和した。
翌朝母は「やってほしいこといろいろあったのに、逆やね。」と言いながら、前かがみになれない私に代わって靴下を履かせてくれた。
二日目の接骨院では治療を受けながら側弯症の母のことを話してみた。母は歳を取ってから脊髄がぐにゃんと曲がり今は歩行にも支障をきたしているのだ。3ヶ月に一度整形外科で骨粗鬆症の薬をもらっているがそれ以外に手当らしい手当はしていない。
「先生、慢性的な症状って接骨院とかでは診てもらえないんですよね?」前にかかった接骨院でそう聞いていたので伺ってみた。
「いや、そうとは限らないよ。一度来てごらん。診てあげますよ。」と言ってくださった。
三日目。母と一緒に接骨院へ。宅配の到着を待っていたら遅くなり接骨院がお盆休みに入る直前、最後の患者になった。
母は話を盛りがちなタイプだ。少しずつ大げさに自分の症状を話した。
老先生は「若い頃、頑張りすぎたんだね~。たまさん、今のあんたの歳位の時お母さん苦労なさったんだよ。」と言いながら身体をさすり丁寧に母の話を聴いてくださった。
「ふだんから患者さんみんなの話、じっくり聞いてあげたいけどなかなかできなくてね…。」と先生。
将来的に腰から徐々に足にもダメージが来るだろうからそれを少しでも遅らせることが大事だと説明してくださった。
私が伺った三日間、常に何人も患者さんが待っていらした。地元で頼りにされている接骨院なのだ。食事等ちゃんととっておられるんだろうかー自分のことはさておき患者さんに尽くされる姿勢が印象的だった。
母はしばらく通うことになった。家から数分。適度な運動にもなりそうだ。
思えば、母の側弯症をめぐっては、母がまだ元気で東京に遊びに来た際いくつもの治療院の門を叩いた。口コミが良かったり私自身がかかってよかった治療院でいずれも保険適用外なため高額だった。
どの先生もよかったがやはり東京滞在中の数回でははっきりした効果を見るまでには至らなかった。
しかしー、灯台下暗し…とはこのことか。
家から数分のところにこんなによい先生がいらしたとは…。
母にはずっと元気でいてほしいーと願う、性根が子どものままの私。
お墓参りや納骨堂のお参りより接骨院の先生と出会えたことが印象的な、故郷の夏だった。

2021-08-10
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。
6月下旬から中断してしたこの本読みプロジェクト。8月に入ってからまたゆるゆるやり始めた。続けられるかどうかはわからないけど…。
さて、今回は9章第3節「赦し:聖霊の計画」へ。
前回9章2節の「赦し:自我の計画」が私たちをマインドレス化することだったのに対し、聖霊の計画はマインドレス化してしまっている私たちを「マインドフル化」することだ。
マインドフル化するとは、一言でいうと「心の中にある選択力を自覚できるようになること」だ。これはもちろん『奇跡講座』の最重要テーマのひとつである。
テキスト9章の中から横断的に聖霊の計画に関する箇所が引用されている。
最初の引用文は1節からの次の文だ。
「あなたはこのような奇妙な状況を作り上げてしまっているため、何があなたの実相であるかを確かに知っている導き手がいなければ、そこから抜け出すことは不可能である。この導き手の目的は、あなた自身が何を望んでいるかをあなたに思い出させることにすぎない。(後略)」(T-9.Ⅰ.3:5-7)
「このような奇妙な状況」とは、言うまでもなくこの世で私たちが個々の肉体を持って生きている(と思っている)ことを指している。
私たちは必要があってこのような状況を作った。それは個々の特別なアイデンティティに対する執着とそれを失うことに対する強い恐れだ。そのため防御バリアを作らざるを得なかったのだ。
イエスはそのような経緯を経てここにいる私たちが、自分たちだけで方向性を転換することは不可能なのだと言っている。
さらにそんな私たちは真理をストレートに受け入れることは到底できないため、聖霊の「赦し」という真理へのいわば間接的アプローチを用いるのだとワプニック先生は説明されている。
「(前略)このように、あなたの心についての聖霊の知覚が、あなたの心の実相をあなたにもたらすというのなら、聖霊はあなたが自分の本性を思い出すのを手伝っているということになる。」(T-9.Ⅰ.4:1-4)
「聖霊に呼びかけることによって私たちは自らの心の中の正気の部分を呼び起こしているのであり、それを基にして自我の狂気を見て自我が何を望んでいるのかを理解します。」とワプニック先生(ここに限らないのですが、訳に自信なく自分のフィルターを通してしまっています)。
そうすることで、天国の正気(神の意志)を反映するようになり、神の一人子としての自分は誰なのかという記憶をよみがえらせることができるようになる。

次のテーマは、聖霊の計画の内容ー違いではなく同質性、同一性に目を向けることの重要性だ。
「あなたは、自分ひとりのために喜びを見出せないのと同じように、自分ひとりのために祈ることもできない。(後略)」(T-9.Ⅱ.4:1-2,4-8)
「私はあなたを信じているのだから、あなたも自分の兄弟たちを信じなさい。そうすれば、あなたについての私の信念が正当だとわかる。」(T-9.Ⅱ.8:1)
上記以外に2節「祈りに対する答え」の中から (Ⅱ.6:1-5) (Ⅱ.6:8-12)(Ⅱ.7:5-7) (Ⅱ.8:7)が列挙されているが、これらはみな「兄弟は自分とは違う」という私たち思い込みを解くものだという。
「人と自分は違う」という思いは自我の思考をベースとしている。
その理由は、またいつものように「神の分離」に端を発する例のおはなしだ。
問題は私たちが「神からの分離」を現実のものとし「神と神の子は別、違う」という思いから個の思考システムを作り、その証ともいえる物理的な世界を作り上げたことにある。そもそもこの世にはその誕生からして個として違いを強調する動機があるのだ。
また自分のものとしがたい内面を他者に投影するしくみも加えられた。神から離れたという罪悪感を自分では背負いきれないからだ。
聖霊は、人と自分は一体であり同じだという点に意識を向ける。その見方によって自我の見方を取り消すことが可能になるのだという。
私たちが違うということは人生経験上でも感覚的に溶け込んでおり取り消すのは非常に難しい。
ワプニック先生は「あなたと私は違う」というだけではなく「あなたと私は敵同士」なのだと指摘されている。
繰り返しになるが「違い」を求めるのは、罪を自分ではなく他者のものにできるから。「自分とあいつは違う。悪いのは自分ではなく、あいつだ」と投影を正当化できる。
そして罪悪感を相手に押し付けた後には相手に対抗するべく同盟を作るのだという。
国家だろうと家族だろうと会社だろうと友人関係だろうと、私たちは派閥や同盟を必要としているのだという。
そしてそれは結果的には痛みにつながる。
そこに気づくことが、私たちが見方を変えようとする動機となるのだと説明なさっている。
「兄弟たちがあなたの一部であるなら、あなたは彼らを受け入れるだろうか。彼らだけが、あなたは何であるかをあなたに教えることができる。なぜなら、あなたが学ぶことは、あなたが兄弟に教えたことの成果だからである。あなたは彼らの中に呼び出すものを、自分自身の中に呼び出す。(後略)」(T-9.Ⅳ.3:1-5)
聖霊の計画には、真理における一体性をこの世で生きることの重要性も述べられている。
一なる子とその源との一体性は、この世では他者と自己の一体性として現わすことができる。
「私たちはコースの形而上学的真理とその適用の間のギャップを埋めることを教わっています」とワプニック先生がおっしゃるとおり「奇跡講座とは実践的なコース」なのだ。
つまり「一体性は、私たちがこの世で生きる指針としないのならばまったく無意味なのです。」(同)
さらに「どれだけそのように生きたいと思っていないのか自覚し、分離するという決断を心の中のイエスの愛の元に持っていくことによってその実行を学ぶのです。」と説明は続いている。
この世で一体性を生きるには、兄弟に対する信頼が不可欠だが、「兄弟を信頼する (W-pI.181)」とは兄弟の自我を信頼することではないという。
「(兄弟の)攻撃的な自我に基づいた行動を否定するのではなく、それを越えて神の子の生来の一体性に目を向けるのです。」(ワプニック先生)
ただやはり一体性を思い出してしまうと個としての特別性が脅かされるので、私たちはそれを思い出さないようにしている。そのしくみが人を裁くことなのだと説明されている。
「何か目にしたものを裁きたい、批判したい」というのが、私たちのデフォルトなのだ。
そして「裁く」と「憎む」はとても近いのだと説明なさっている。
「あなたなくして神の意味は不完全であり、あなたの被造物たちなくしてあなたは不完全である。この世界では、兄弟を受け入れなさい。それ以外の何も受け入れてはならない。なぜなら、兄弟はあなたと一緒にあなたの被造物たちを創造したので、あなたは兄弟の中に彼らを見出すことになるからである。(後略)」(T-9Ⅵ.7:7-9)
ここでもイエスはコースの形而上学的なレベルと実践的なレベルを集約しているという。
このテーマはさらに進むと「兄弟の中にキリストの顔を見て神を思い出す」という定型句として表現されるようになる。
「他者の中にキリストの顔を見る」とは、相手の罪のように見えるものの背後にある無垢性を見るということだ。
私たちは自分が知覚することを基として感情を感じるが、そもそも知覚は当てにならないものだ。逆なのだ。
「投影(延長)が知覚をつくる」のだから。
分割や違いを前提とした自我の思考システムを取り消していくにつれ他者との同一性も知覚できるようになり、さらにますます聖霊の存在も感じられるようになる。

読んで理解できたと思うことを書き留めておきたくて書いているが全部は書き写せないので自分なりにまとめる。そこに「自分の見え方」が入ってしまう。
だから、どれほどワプニック先生がおっしゃりたかったことが捉えられているか不明。そもそも訳も心もとない(読んでくださっている方がおられたら、個人的な学習ブログとして大目に見ていただきたい)。
今回はいつもより「自分」が入った(独自にまとめたところが多かった)ような気がする。
聖霊の計画は自我の計画より、私にとってはわかりにくい。
すっかり理解できていたらここにはいないのかもしれないし。
他者との間に「違い」を見るのではなく「同じ」と見る、と言われても、まだまだよくわからない。
この世の市場経済って、個の違いを際立たせそこに価値を見出してもらえたらおカネと交換できるというしくみだし…。
「裁くのがデフォルトになっている」というのは理解しやすい。
だから、気づくとしちゃっている不満、批判、グチにまずは気づくだけでも、聖霊の計画のワンステップなのかもしれない。
(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)
]]>2021-08-02
いただきもののチケットがあったので、週末事前の知識もなく映画館に足を踏み入れた。
「ソウルの女王」と呼ばれたアレサ・フランクリンという女性歌手のライブのドキュメンタリー映画だった。撮影されたのは1972年。ロサンゼルスのある教会で二日にわたって行われたライブの模様だ。
1972年発売された同名のライブ・アルバム『Amazing Grace』のほうは300万枚以上を売り上げ史上最高のゴスペル・ライブといわれている。
ライブ映像のほうも映画化される予定だったが、駆け出しだったシドニー・ポラック監督ガチンコを入れ忘れて音と映像が同期できないという初歩的な技術ミスで未完のままお蔵入り。それが50年近い時を経て完成し公開に至ったのだという。
私は音楽にも映画にも詳しくない。アレサ・フランクリンのこともまったく知らなかった。
しかし、歌の力なのか声の力なのか…その臨場感に圧倒された。
私が繰り返し読んでいる『神の使者』でアサンディッドマスター、アーテンが「(転生していく人生は)一つの映画館を出て別の映画館に入るようなもの」と言っていたが、逆もまたしかり。映画はこの世で別の人生を体験できるものだ。
たった90分なのだけど、編集がほとんどされていないドキュメンタリー映画だからというのもあるだろう、あたかも1972年のアメリカ南部の教会に列席しているかのような錯覚を覚えた。
後で調べてわかったのだが、歌われていたのはゴスペル・ミュージック(福音音楽)の中でも「ブラック・ゴスペル」と言われるものだった。
奴隷としてアフリカからアメリカに連れてこられた黒人は言葉や宗教を取り上げられキリスト教への改宗を余儀なくされたが、そうした環境の中でも宗教音楽に元々持っていたリズムや音階などを組み入れて独自の霊歌として作り上げていったのだという。
二日目には参加者も聖歌隊と一緒に歌い、踊りながら祈り一緒にトランス状態に入っていくかのようだった。
字幕には「イエスは我々の罪を贖って亡くなられた」「傷つきし身の流せる血を持って罪を赦させたまえ」「イエスへの信仰がなれけば生きてこられなかった」…というような内容の歌詞があった(はっきりした言葉は忘れた)。
私がおぼろげながら知っているのは、コースの中でキリスト教を修正しているイエスだ。
イエスに対する解釈はまったく違うなぁと思いながら聴いていた。
一日目の最後の曲は「アメイジング・グレイス」だった。
私にはブラック・ゴスペルの背景もなければ信仰もないのだけど、なんでか自然と涙がこみ上げてきた。
他の観客も同じようだった。
ここは、2021年東京の映画館。みんなマスクをして席を1つずつ空けおとなしく座っている。
目にするスクリーンの中は、1972年のロサンゼルスの教会。ほとんどが黒人の方で体を揺らして歌っている。
時空を超えてそのみんなが自分の最も清らかな部分を差し出し合ってひとつになっていく。清められていく不思議な感覚。
理屈を超えた声(歌)のパワーってすごいな~と思った。
映画の中にいた人たちの熱と観客が時を場所を超えてひとつになった感じ。そのリアリティ…。
一方は49年前の出来事だ。
当時29歳だったアレサ・フランクリンは2018年76歳で亡くなっている。あの時あの場所にいた聖歌隊やライブの参加者も多くがすでに亡くなっていることだろう。
あのみんなの熱い心はどこに行ったんだろう?
いやそもそも今私が目にしている自分の身体だって本当はここにないというのだから、それを疑問に思うこともないのか。
信じるところもイエスに対する解釈も違う。けど、アレサの歌には人種や宗教を超えてみんなが持っている聖なるもののスイッチをオンにするはたらきがあって、その聖なるものをみんなで分かち合って増幅させていたかのように感じた。
それは、厳密に言えば違うのかもしれないけれど、聖霊のような何かのはたらきと言っていい気がした(私が書くと陳腐だけど)。
そういうはたらきって思わぬところでふいに出くわしたりするものなんだな~。
ぼーっとしたまま帰途についた。
]]>2021-07-29
前回ACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめをしたときは感想らしい感想も書かなかったが、実は最も印象に残ったのは精神療法についてのイエスの次のような言葉だった。
「このように明白な矛盾こそが、精神療法で何が起こるのかを真に説明した者がいない理由である。本当に何も起こらないのである。」(T-9.Ⅴ.5:2-3)
精神療法では本当に何も起こらない…
この言葉が書きとられたのは精神分析の有効性を評価する研究が進められていた1960年代のことで、結論は出なかったもののある研究では、三分の一には改善が見られ三分の一は変化なく残る三分の一は悪化した、というワプニック先生の説明がある。
ここでイエスは、セラピストは解釈はするものの心を扱っておらず自我の思考システムが取り消されてしないため癒されない、したがって何も起こらないと述べている。
そうなのかー。

この箇所を私が気に留めたのは、私自身が昔長いことカウンセリングを受けていたからだ。
断続的で何年も間が空いたこともあるが同じ方の元に10年以上に渡って通い、時間もおカネもかなりかけた。
カウンセリングを受けるだけでは飽き足らず講座に通い産業カウンセラーの資格も取った。上のシニア産業カウンセラーも勉強したが、そちらは面接が通らずついに取れなかった。40歳を過ぎてからはカルチャーのユング講座にも長く通った。
イエスの言葉を読んでああしたことはまったく無意味だったかしらん?とふと過去を思い出していたのだ。
そもそも私がカウンセリングを受けたのは、人生で最初の人間関係に躓いたからだ。
私は物心ついた頃から母がとても恐ろしかった。言葉でも厳しかったが殴られたりつねられたりするのも日常。それを誰にも相談できなかった。
ヒステリックに怒りをぶつけてくる母が嫌いで、表面的には従順にふるまいながらも心の中では憎んでいた。大きくなったら復讐してやろうと心に誓っていた。
今思えば、母は頭がよく仕事もできる道徳的なひとで、ただ“嫁”も仕事も完璧にやろうとするストレスから子ども達に当たっていたように思う。
機能不全家族の中で育った子どもを「アダルトチルドレン」として紹介している記事があって、私はこれじゃないかな?と思い、離婚後自分を何とかしようとカウンセラーの元を訪ねた。
私を担当してくださったのは私より十ほど年長の女性で、フロイト派のカウンセラーさんだった。「あなたはどこでこんなに傷ついてしまったんでしょうね。」と穏やかな表情で私の生い立ちに耳を傾けた。
料金は最初50分5000円だったがしばらくして8000円になった。多いときには週に2回通ったこともあった。
スピリチュアルなことに関心があった私が『前世療法』という本に刺激を受けて「(私の生きづらさは)前世に由来するのかも」と言うと、「まずは今の人生で探してみましょうね。」と穏やかにおっしゃった。
カウンセラーさんは主に話を相槌を打ちながら聴いてくれていたが、たまに分析的なことも話してくださった。
今ふと思い出したのは、私が小学校1年生の5月骨折したことについて語ってくださったことだ。
その日は担任の先生の家庭訪問があった日だった。私はテンションが上がったためか夕方家中の椅子を集めて椅子から椅子へと飛び、最後に勢いをつけて学習回転椅子に飛び乗り文字通りくるくる回転した挙句床に投げ出された。痛っ(>_<)
鎖骨と細い骨を骨折し1ヶ月くらい入院した。
カウンセラーさんの分析によると、小学校1年生はまさに親から自立に踏み出す時期なのだけど、それまで十分に甘えられておらず必要な成長過程を経ていなかった私は、甘えたい気持ちをくすぶらせがらも素直には甘えられない。そこで(私の)無意識はわざわざ骨を折って私を無力として、その上で母に世話を焼かせ甘えられるように仕向けたのだ…とおっしゃった。
この世のストーリーとして見たら、その解説は当たっていると思う。
さて、カウンセリングは私にとって役に立たなかったのかー。
私は「無意識」のはたらきがおもしろいと思った。自分が知覚できない自分があってそれがすごい影響力を持っていることに興味を持った。
また精神療法的アプローチが効果を発揮したか否かはわからなかったが、これまで誰にも話せなかったことをじっくり聴いてもらえたという点で救われた思いがあった。
話すことによるカタルシスもあった。
一方でこれは彼女にとって「しごと」なのだと思うと寂しさもあった。
一部の男性が女性が接客するお店で「恋愛」にのめり込むみたいに、私も優しさや母性みたいなものを乞うて貪っていたのかな?
最終的には契約に基づく人間関係と分析する方とされる方という立場の壁に虚しさを感じるようになった。
それでも大変だったときに支えてもらったことには変わりはない。
その後出会ったユング講座では、無意識のはなしや夢分析、「シャドウ(自らの影)」の概念、投影といった概念に親しみ、奇跡講座を受け入れる土壌になった。
私にとって精神療法的なことは役に立ったというか必然的にそちらに向かったように思う。が、それだけでは行き詰ってしまう…というのも、今は確かにそうだと感じる。

ひとつの出来事でも、精神療法的立場に立つか聖霊の立場に立つかで、まったく違ったものになる。
精神療法では、この世のあらゆる他のものと同じく「神からの分離」によって私たちには罪と罪悪感があるという大前提からスタートする。一方聖霊は、神からの分離など起こっておらず罪も罪悪感も幻想なのだとする。
精神療法ではこの世の出来事はリアルで過去は人生に影響大で、私は母から虐待を受けた被害者だとするのに対し(元夫に対しては逆に“加害者”)、聖霊ではこの世は自分が見せている夢のストーリーで、私は「憤怒した神」のイメージを母に投影して見ていただけだという。聖霊の視点で見れば母に見た嫌な質は私の無意識にある己の姿そのものなのだ。
そして解決策。精神療法では過去に傷つくいわれはあったがそれはそれとして今を生きようと導くのに対し、聖霊では私はまったく傷ついておらず必要なのは過去を赦すだけだという。
(すべての精神療法についてはわからないけれど、私が出会ったものをさしています)
私の精神構造は子供のまんまだ。精神的に大人になり切れなかったと思う。でも、だからだめとも思わない。
もしかしたら私が親との関係に躓いたのは、今回の人生で神との関係に意識を向けるためだったのかな?とも思う。
老いて小さくなった母にかつての絶対的権力者の面影はない。いつの間にかかばうべき対象になっている。
「特別の関係」だとはわかっているが、今も私にとって最も愛しく大切な人だ。
『奇跡講座』と出会えたのだから、できるかどうかわからないけれど少しずつでも聖霊の見方にシフトさせながら生きたいと思う。
]]>2021-07-21
ワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』のざっくりまとめ。
9章2節の赦し:自我の計画の後半へ。
本節の前半では、自我の赦しの計画の代表的な担い手「癒されていない 治癒者」として神学者と精神療法士が例示されていた。後半ではさらにこの二者について洞察を深めていく。
「癒されていない治癒者たちはみな、何らかの形で自我による赦しの計画に従っている。神学者であれば、自分自身に有罪宣告をし、有罪宣告を教え、恐れに満ちた解決策を唱導するだろう。
彼らは有罪宣告を神の上に投影しているので、神を復讐する存在であるかのように扱い、神からの罰を恐れる。彼らのしたことは、単に、自我と同一化して、自我のすることを知覚することにより、この混同のゆえに、彼ら自身に有罪宣告をしただけである。」(T-9.Ⅴ.3:3-6)
神学者は、罪をリアルにしたうえでこの世で神が神の子イエスを犠牲的に十字架に付けることで人々の罪が贖われるのだとする。
ここでは罪悪感は有罪宣告と罰の世界と連動して現実のものとされる。
世界と個々の存在によって、自分自身への「有罪宣告」は他者へと向けられ、さらに他者への非難が実は自分自身に向けたものだとは気づかせないしくみができあがっている。
また、「有罪宣告」は神の上にも投影され、非二元性の真理において愛の存在である神は、荒々しい復讐心を見せて罰する神へと化す。
「このような概念に対していくつもの反発があったのはもっともなことだが、それに反発するということは、依然としてそれを信じているということである。」(T-9.Ⅴ.3:7)
この文言に対しては「とくに注意すべき点がある」という。
それは「私たちが何かや誰かと戦うとき、意図がどんなに意義のあるものだとしても誤りを現実にしてしまうという“自我の罠”に陥ってしまう」という点だ。
しかし本当に注意を払うべきは、「『存在しない問題』のほうではなく、『問題が決断の主体の外にあると思っているその信念』のほうです。」と説明なさっている。

「(前略)たとえば、新しい形の一つにおいては、精神療法士が悪夢の中の自我の象徴を解釈した後、それらを悪夢が実在すると証明するために使うことがある。そのようにして悪夢を実在のものにした上で、今度はその夢を見ている者の重要性を軽視することにより、悪夢の結果を一掃しようとする。(後略)」(T-9.Ⅴ.4:1-5)
こちらは、精神療法士についてだ。
「これも自我の戦略のわかりやすい例です。自我は問題を夢見者(心)から夢(肉体)へと巧妙に移し、夢の中の人物に夢が現実で問題の原因なのだと思い込ませるのです。」
精神療法士のケースでは、夢見者/心を罪悪感によってリアルにしその上で軽視する。それが心の否定につながる。
ここでも、心(決断の主体)が罪悪感を選んでいるという真の問題は手づかずのままであり、精神療法士は知らずして自我の手先になってしまう。
「恐れに対抗するための方法が心の重要性を低下せることだとしたら、それがどうして自我の力を増強できるだろう。」(T-9.Ⅴ.5:1)
おもしろいのは、神の子の心変わりというリスクの防衛策として自我は心の重要度を下げる戦略を講じているが、それが自我を強めるのではなく弱めていると記述がある点だ。
「逆説的にいえば、自我の戦略は自我そのものを最終的に弱体化させることになります。自我は自らの存在も心に依存しているからです。」とある。
「このように明白な矛盾こそが、精神療法で何が起こるのかを真に説明した者がいない理由である。本当に何も起こらないのである。」(T-9.Ⅴ.5:2-3)
…身も蓋もない言われようだ。
「イエスの『本当に何も起こらないのである』という答えは、精神療法士が心を全く扱わないことで、自我と自我の特別性の思考システムを取り消すようなことが起こらないようにしていることを表しています。」と説明されている。
「それでは何が起こるべきなのだろうか。神が『光あれ』と言ったとき、光は現れた。精神療法士がするように、闇を分析することによって光を見出せるだろうか。あるいは神学者がするように、自分自身の中に闇を認めた上で、それを除去できる光は遠くにあると強調しつつ、その光を探し求めることによって、光を見出せるだろうか。
癒しは神秘的なものではない。理解されなければ何も変わることはない。光は理解そのものだからである。」(T-9.Ⅴ.6:1-5)
幻想でしかない闇を分析させることは、「真実の光を選ばせないようにする自我お得意の策略」なのだという。
自我は幻想の世界を幻想の問題で埋め尽くしてから差し迫った問題に対処するようにアドバイスする。前節で述べられたとおり「世界は存在しない問題に対する用をなさない解決策」だ。
私たちは問題に対する解決策を探し求め続けているが、それはこの世では決して見つけることができない。
光を知る方法は、心にある光の存在を受け入れ、心に光がなかったことは一度もなかったのだと理解することなのだ。

「だとすれば、自我によるこの二つのアプローチは、必ず袋小路に至るが、これは自我特有の『どうにもならない状況』であり、自我は常にそこに向かって導く。」(T-9.Ⅴ.7:1)
結局、神学者のアプローチも精神療法士のアプローチも行き詰る。
この「どうにもならない状況」こそが自我の望む方向なのだ。そしてそれこそ「私たちを問題解決が必要な状態に置き続ける」という自我の目標に適っている。
私たちは、もっといい問題解決の策を手に入れようと明け暮れている。
「例えば、毎週のように郵便受けに入っているたくさんのカタログには、生活をもっと便利に、もっと効率的に、もっとエキサイティングにする製品が満載ですし、よりスピーディなコミュニケーションやエンターテインメントのためのデジタルガジェットの急拡大もしかりです。」
最後の文章…「デジタルガジェットの急拡大」とおっしゃっているが、この本はいつ書かれたのかしらんと見たら、初版の発行が2014年10月だった。亡くなられたのが2013年末。少なくともその数年前に語られたものだろう。
「お話された頃からもっと目を見張るくらいこの分野は進化を続けていますよ~」とお伝えしたい。
デジタルガジェットにとどまらず「もっと便利に、もっと効率的に、もっとエキサイティングに」という問題解決策の“進化”はさらに広範囲で加速度的に進んでいくだろう。
それとともに、別の解決すべき問題も次々現れるのだろう。
そして自我の計画通り意識は外に向かい続け、「心」は隠され「心の力」は否定され心は手つかずのままだ。
現代では心は脳の活動と考えられ肉体の一部と扱われている。奇跡講座でなければこの世界のからくりを知ることはできないように思う。
ただ自分も「頭」で奇跡講座を何とか理解したいと思っているだけで「心」のほうは手つかずなのかもしれない。
効果や成果を意識しすぎることなく細ーくでも止めずに学んで実践し続けられたらと思う。
(文中の太字箇所 出典:『奇跡講座』テキスト編 中央ハート出版社)
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