記事の要約
・恋愛相手を選ぶ際、これまでの研究では一般的に、男性は外見を重視しやすく、女性は性格や安定性などを重視しやすい傾向が報告されていました。
・しかし今回の研究では、「外見重視かどうかは性別だけで決まるのではなく、そのときの性欲の状態にも左右されるのではないか」と考えました。
・まず554人の米国人成人を対象に調査したところ、男女を問わず、性欲が強い人ほど恋愛相手の外見を重視する傾向が見られました。
・ただし、これだけでは「性欲が強いから外見重視になる」のか、「外見重視の人は性欲も強い」のかはわかりません。
・そこで、1,000人以上の大学生を対象に、性欲を実験的に高める実験を行いました。
・一方のグループには、過去に「非常に性的に惹かれた体験」を思い出してもらい、もう一方には中立的な出来事を思い出してもらいました。
・その後、理想の恋愛相手に求める条件を比較したところ、性欲が喚起されたグループでは、特に女性の外見重視が大きく高まる結果になりました。
・性的な気分が高まった女性は、普段よりも外見を重視し、男性とほぼ同じ水準で外見にポイントを割り振るようになりました。
・一方で、相手を「性の対象として考えない」ようにすると、再び外見よりも性格や誠実さなどの中身を重視する傾向が見られました。
・つまり、「男性は見た目重視、女性は中身重視」と単純に決められるわけではなく、人が何を求めるかは、そのときの心理状態によって変化する可能性があるということです。
【恋愛相手の好みは、性別より環境で変わる?】
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記事の要約
・ブラジルの1,000人以上を対象に、恋愛相手に何を求めるのかを調査した研究。
・一般的な傾向として、男性は女性より恋愛相手の身体的魅力を重視しやすく、女性は社会的地位や社会的スキルを重視しやすいことが確認された。
・ただし、恋愛相手への好みは、単純に性別だけで決まるわけではなかった。
・社会経済的な環境や、自分自身の置かれている状況によっても、恋愛相手に求めるものが変化する傾向が見られた。
・たとえば、社会経済的地位が低いグループでは、長期的な恋愛相手の身体的魅力を重視する傾向が見られた。
・一方、社会経済的地位が高い人ほど、長期的な恋愛相手に対して、社会的スキルを重視する傾向が見られた。
・また、短期的な恋愛なのか、長期的な恋愛なのかによっても、相手に求める条件は変化した。
・つまり、「男性だからこういう人が好き」「女性だからこういう人が好き」と単純に決められるものではなく、自分の環境や状況によって、好きなタイプも変化する可能性があるという研究。
あなたは、どういう人が好きですか?
あなたの好きなタイプは??
改めて考えてみると、
いつも同じタイプの人ばかりを好きになっているわけでもないような気がします。
イケメン好きのはずなのに、なぜか今回は全然タイプじゃない人を好きになった。
優しい人が好きなはずなのに、ちょっとクセのある人に惹かれた。
……なんてこと、ありませんか?
もしかしたら、あなたもそうでは??
それもそのはず。
今回紹介する2つの記事を読んでみると、どうやら私たちは、その時の状況や環境によって、好きになる相手や、相手に求めるものが変わるようなのです。
もちろん、あくまで傾向の話ですが。
特に最初の記事は面白い。
研究によれば、性欲が高まるほど、人は恋愛相手の外見を重視する傾向があるそうです。
この記事を読んで、私がすぐに思ったのは、
「若いときは外見重視で、年齢を重ねると中身重視になる」
という、よく聞く話。
もしかしたら、
若いときは性欲が強い傾向がある
↓
外見を重視する
年齢を重ねる
↓
性欲が弱まる
↓
中身を重視する
……ということも関係しているのかな?
と思ってしまいました。
もちろん、そんな単純な話ではないでしょうけどね。
でも、この研究の面白いところは、
年齢だけの話ではない
というところ。
年齢に関係なく、
性欲が高まったとき。
性的な気分になったとき。
そういうときに、人は外見を重視するようになる。
ということです。
そう考えると、
外見に自信がある人は、
肌の露出が多い海やプール。
ロマンチックな恋愛映画。
2人きりの密室。
……などなど。
少し性的な気分になりやすい環境で勝負するといいのかもしれません。
逆に、
「自分は中身で勝負!」
という人は、
昼間のカフェ。
散歩。
美術館。
普通の会話を楽しめる場所。
などなど、
あまり性的なテンションが高くならない場所で会う方が有利なのかも??
そして、さらに面白いのが、
この変化は男性より女性の方が大きく表れる
というところ。
一般的な傾向として、
男性は普段から外見を重視しやすい。
女性は、外見だけではなく、中身や社会的地位などを重視しやすい。
だからこそ、
普段は中身などを重視している女性が、性欲の高まりによって外見重視になると、
その振れ幅が大きくなるのではないか。
ということです。
人間の「好き」って、なかなか複雑ですね。
そして、今回紹介するもうひとつの記事。
こちらでは、
人が恋愛相手に何を求めるかは、社会的な環境や、自分の置かれている状況によっても変化する
ということが紹介されています。
例えば、
社会経済的地位が低いグループでは、長期的なパートナーの身体的魅力を重視する傾向。
一方、
社会経済的地位が高い人ほど、長期的な恋愛相手に社会的スキルを重視する傾向。
他にも、
男性か女性か。
短期的な恋愛なのか。
長期的な恋愛なのか。
自分がどんな環境にいるのか。
周り(ライバル)にどんな人がいるのか。
などなど、
いろいろな条件によって、恋愛相手への好みは変化するようです。
ここまで、
性欲。
社会的地位。
短期的な恋愛。
長期的な恋愛。
環境。
状況。
などなど、
いろいろなものによって「好き」や「好み」が変化するという話をしてきました。
改めて思うのは、
「好きになる」ということ自体、結構すごいことなのかもしれませんね。^^
だって、
そのときの自分の状態。
そのときの環境。
そのときの気分。
そのときの人生。
そして、
目の前に現れた相手。
いろいろな条件が重なって、
「あ、この人が好き」
という感情が生まれているわけですから。
恋愛で、
「運命的な出会い」
「奇跡的な出会い」
なんてことをよく言いますよね。
通常、これらは、
出会えたこと自体が奇跡
という意味で使われている気がします。
でも、今回の記事を読んで、
私は少し違うことを思いました。
もしかしたら、
「出会うこと」だけではなく、「好きになること」そのものも、運命的で奇跡的なのかもしれない。
もし、
出会った場所が違ったら?
出会った時期が違ったら?
自分の環境が違ったら?
その日の気分(性欲^^)が違ったら?
その人を、好きになっていなかったかもしれない。
そう考えると、
「好き」という感情が生まれること自体、結構な偶然の積み重ねなのかもしれません。
そして、
その偶然の積み重ねによって、
お互いが「好き」となったら……。
それはもう、
超・運命的。
超・奇跡的。
ですね。^^
以上、
2つの恋愛研究を読んでいたら、
最終的に「好きって奇跡だよね」
という、ちょっとロマンチックな結論になってしまった、
おっさん音楽家なのでした。笑
ではでは。
The post 「好きなタイプ」って、本当に決まっているの? first appeared on アミまこ(最新の雑学).]]>
記事の要約
・私たちは初対面の人の顔を見ると、「この人は信頼できそう」「なんとなく信用できないかも」など、瞬間的に第一印象をつくります。
・しかし今回の研究では、その第一印象は、今、目の前にいる人の顔だけで決まっているわけではないことが示されました。
・なんと、ほんの少し前に見た別の人の顔が、次に見る人の「信頼できそう」という印象に影響を与えることがわかったそうです。
・例えば、2人の顔を短い間隔で続けて見た場合や、2人の顔が似ている場合、2人目の人への印象が、1人目の人の印象に近づく傾向が見られました。
・一方で、1人目の顔を長く見た場合や、2人の顔が大きく異なっている場合などには、逆に、2人目の印象が1人目とは反対方向へ離れる傾向も見られました。
・つまり、私たちの「この人は信頼できそう」という判断は、単純にその人だけを見て決めているのではなく、その直前に誰を見たか、どのような顔を見たかによっても、知らないうちに影響を受けている可能性があるということです。
・研究者は、この結果が、SNSやマッチングアプリのように短時間で多くの人の顔を見る場面だけでなく、目撃者による人物の判断など、重要な場面にも関係する可能性があると指摘しています。
・私たちは「第一印象は自分自身の判断」と思いがちですが、実はその判断は、思っている以上に周囲の情報や直前の経験に左右されているのかもしれません。
私は今回の記事を読んで、昔、自分が書いたブログを思い出しました。
簡単に言えば、
イケメンを見た後は、次に見た人もイケメンに見えやすい
という研究について書いたブログです。
当時の私は、
「ということは、イケメン集団に混ざれば、私もイケメンに見えやすくなるのではないか!」
なんてことを考えていました。笑
さらに当時は、このようなことが起きる要因は、
イケメンの印象が残像のように残っているからでは?
と、仮説を立てていました。
今回の記事を読んで、その考えを思い出したわけです。
ただ、今回わかったのは、この「残像」のような現象は、イケメン要素に限った話ではなさそうだということ。
今回の記事よれば、「信頼できそう」
という印象にも、直前に見た人の印象が影響していたそうです。
つまり私たちは、目の前の人を見て、
「この人は信頼できそう」と思っているつもりでも、
実はその直前に会った人の”信頼できそう”という印象を少し引きずっているかもしれない、ということです。
なかなか面白いですね。
ただし、今回の研究には注意点もあります。
ひとつは、
あくまで第一印象に影響する
ということ。
そりゃあ、そうですよね。
すでに相手のことをよく知っているなら、(印象が固まっているなら)
「さっき会った人が信頼できそうだったから、この人も信頼できそう」
なんて、そう簡単にはならないでしょう。
そして、もうひとつ。
直前の人との印象が大きく離れすぎている場合には、逆に比較(ギャップ)が起こり、
前の人とは反対の印象を持ちやすくなる
傾向もあるそうです。
つまり、
残像なら何でも影響するわけではないです。
まっさらな状態で相手を見る第一印象であること。
そして、
前に見た人と、ある程度印象が近いこと。
残像現象が起きるためには、そんな条件があるようです。
では、この「印象の残像現象」。
日常生活で活用できることはあるのでしょうか?
正直、活用はなかなか難しいかもしれません。
だって、たとえば、
相手が自分に会う前に、どんな人と会っていたかなんて、コントロール(計算)なんてできませんからね。
ただ、
交流会や飲み会などで、人と初めて会う機会は多いと思います。
こういうケースは、印象の残像現象を少し意識して、何か対策や活用できることはあるかもしれません。
その場にいる人たち。
その場の雰囲気。
交流会全体のイメージ。
そういったものが、その場で初めて会った人の印象に、知らないうちに影響し合う可能性はありますから。(そういう意味では、どういう場や交流会などに参加するかは結構、大事かも)
考えてみると、
「あの人と初めて会ったとき」と「そのときの場の雰囲気」
って、案外セットで記憶していることがありませんか?
「あの人と初めて会ったのは、あの飲み会だったな」
「あのときは、こんな人たちがいたな」
「あの場は、こんな雰囲気だったな」
そんなふうに、私の身近な人の初対面のことをいくつか思い浮かべてみると、場の雰囲気とその人の雰囲気が一致することがほとんどです。
もちろん、
その場にいた人たちの印象が、実際にどこまで、その人の第一印象に影響しているのかは確かめようがありません。
でも、今回の記事を読むと、
知らないうちに、そういう現象が起きている可能性は十分ありそうです。
そして、ふと思ったのですが、
今回の話は本当に「第一印象」だけなのでしょうか?
もちろん、今回の研究では第一印象についての話です。
でも、人の印象って、ずっと固定されているものでもありませんよね。
昨日まで苦手だった人が、
今日、良いところを見て好きになる。
逆に、
昨日まで好きだった人が、
ある出来事をきっかけに印象が変わる。
そう考えると、
私たちは第一印象だけではなく、その後もずっと、
直前に会った人や、直前に経験した出来事の「残像」
を引きずりながら、印象を変化させながら、人や物事を見ている可能性もあります。
過去の出来事を引きずる。
過去の感情を引きずる。
これはよく聞く話です。
でも、私たちは、
印象までも残像のように引きずっている、のかもしれませんねえ。
そう考えると、ちょっと面白いですね。
私は最近、
物事って「点」ではなく、
グラデーションのような帯で重なり合ってできているのかもしれない
と思うことがあります。
過去があって、
今があって、
未来がある。
でも実際には、
過去と今と未来が、
きっぱり分かれているわけではない。
過去の出来事や感情が、
少しずつ残像のように残りながら、
次の出来事に影響している。
そして、その次の出来事もまた、
さらに次へ影響していく。
今回の「印象」も、そんなものなのかもしれません。
ということは、
スケジュール調整って、結構、大事ですね。
どんな人と会った後に、どんな人と会うのか。
どんな出来事の後に、何をするのか。
その順番によって、
どんな「残像」が次に影響するかわからないわけですから。
まあ、自分のことも相手のことも含めて、残像現象を意識して、計算してスケジュールを組むのは、まず無理だと思いますが。笑
でも、
自分が今見ているものや感じているものは、本当に目の前にあるものだけなのか?
たまには、そんなことを考えてみるのも面白いかもしれません。
もしかしたら私たちは、
気づかないうちに、
少し前に見た人、
少し前に聞いた言葉、
少し前に感じた感情の、
残像の中で生きているのかもしれません。
……なんてことを、また大袈裟に考えてしまう私なのでした。^^
ではでは。
The post 第一印象は、その人だけで決まっていない? first appeared on アミまこ(最新の雑学).]]>記事の要約
・研究者たちは、土の中の微生物をガンマ線照射などによって死滅させ、生命が存在しない状態の土壌を作りました。
・ところが、その土壌は生命が死滅した後も、酸素を消費し、二酸化炭素を放出する反応を長期間続けました。
・しかも、その状態はなんと6年間観察されています。
・研究チームは、土壌中の鉱物などが触媒となり、通常は生命の細胞内で起こると考えられていた代謝に似た化学反応が、生命が存在しなくても起こり得るのではないかと考えています。
・この研究は、生命が誕生する以前にも、現在の生命活動につながるような化学反応が地球上で起きていた可能性を考えるうえでも興味深いものです。
・ただし、研究者の間では、死んだ細胞から残った酵素などが反応を続けている可能性も指摘されており、「完全に生命とは無関係の化学反応だった」と決着したわけではありません。
記事の要約
・量子力学における「何もない=nothingness」という、かなり哲学的にも感じられるテーマ。
・たとえば、箱の中から物質をすべて取り除き、完全に空っぽにしたとしても、量子力学ではエネルギーを完全にゼロにすることはできないと考えられています。
・これは「ゼロ点エネルギー」と呼ばれるものです。
・量子の世界では、粒子や場を完全に静止させたり、エネルギーを完全に消したりすることができません。
・そのため、「真空=完全な無」という私たちの日常的なイメージとは違い、量子力学における真空は、何もないように見えても、そこにはエネルギーや量子場が存在していると考えられます。
「生きている」と「生きていない」。
「ある」と「ない」。
私たちは、なんとなくこの2つをはっきり分けて考えています。
でも、今回、そんな境界線をちょっと考えさせられる記事を2つ読みました。
ひとつは、生命を取り除いた土壌が、その後も6年間にわたって酸素を消費し、二酸化炭素を放出し続けたという研究。
微生物を死滅させた土なのに、まるで何かが活動しているかのような反応が続いたそうです。
もちろん、「土が生きていた」という単純な話ではありません。
生命がなくても、生命活動に似た化学反応が起こる。
つまり、
「生きていない=何も起こっていない」
とは限らないわけです。
もうひとつは、量子物理学に関する「何もない空間」の話。
こちらも考え始めると、なかなかややこしい。
「何もない」と思っている空間も、本当に完全な「無」なのか?
そもそも、物理学における「真空」は、私たちがイメージする「完全な何もない」とは違います。
この2つの記事を読んでいて、思ったのです。
「ある」と「ない」って、私たちが思っているほど、きっぱり分かれていないのかもしれない。
たとえば、
「生きている」と「死んでいる」。
人間なら比較的わかりやすいですよね。
でも、今回の土の話のように、
「生命はいない。でも化学反応は続いている」
まあ、人の死も考えてみれば、人間の体の中の細胞や微生物たちは生きていたりします。
そう考えると、急に境界線がぼやけてくる。
じゃあ、
生命って、どこからどこまで?
となります。
そして、ここからまた、いつものように話を大きくしてしまいます。^^
「生命」と「非生命」の境界線が曖昧なら、
「魂がある」と「魂がない」の境界線も曖昧と言えるかもしれない。
私は最近、iMacを買い替えました。
古いiMacは、なんと13年間使っていました。(デスクトップパソコンの平均寿命は5年〜7年)
このiMac、私にとって相棒です。
朝、仕事を始めるときには、
「今日もよろしく」
夜、作業を終えると、
「今日もありがとう」
と声をかけていました。
(個人的には、こんなふうに感謝を伝えることがモノを長持ちさせる秘訣だと思っています)
もちろん、Macから返事はありません。笑
でも、13年間一緒に仕事をしてきた。
その間に、たくさんの音楽を作った。
たくさんの時間を過ごした。
そう考えると、私にとってこのMacは、もう単なる「パソコン」ではないんですよね。
物質として見れば、
ただのMac。
でも、私との13年間という時間を含めて考えれば、
そこには、私にしかわからない何かが存在している。
そう思えてしまう。
八百万の神様という考え方があります。
いろいろなものに神が宿るという、日本的な感覚ですね。
「Macに魂が宿っている」と証明できる術はないですが、
ただ、
「魂がない」と言い切ることも、案外難しいんじゃないかな
とも思うのです。
なぜなら、「魂」というものを、そもそも私たちは正確に定義できていないから。
上述してきたように、そもそも、「ない」って存在しうるの?成立しうるの?と思ってしまうから。
「ない」って、存在するんでしょうか?
完全な「無」。
何もない。
本当に何もない。
物もない。
空間もない。
時間もない。
法則もない。
……そんなものを、私たちは想像できるでしょうか。
「何もない」と言った瞬間、
「何もないもの」という何かを想像してしまっている。
なんだか、よくわからなくなってきます。
「ある」と「ない」の境界線を線引きする、、というように、線を引く時点で、「ない」って存在しえないんじゃないかと考えてしまいます。
そう考えると、
「ない」と「ある」。
「生きている」と「生きていない」。
「物」と「心」。
「魂がある」と「魂がない」。
これらは、私たちが便宜上引いているだけの境界線なのかもしれません。
本当の世界は、境界線のような線がなくて、もっとグラデーションになっているのかもしれません。
そして、その境界線の「あいだ」に、
私たちがまだ名前をつけられていないものが、たくさん存在しているのかもしれません。
このように思考を巡らせると、世界の見え方が少し変わりそうですね。
ちなみに、13年間使った私のiMacは、まだ「ない」ことにはなっていません。
今も私の横にいて、データを新しいMacへ引っ越し中です。
そして引っ越しが終わったとしても、
私の中では、たぶん「なくなる」ことはないでしょう。
……なんてことを、
「死んだ土」と「何もない空間」の話から、また大袈裟に考えてしまう私なのでした。
この世界、宇宙に「ない」なんてない??^^
ではでは
The post 「ない」なんて、本当にない? first appeared on アミまこ(最新の雑学).]]>・NASAとCaltechの研究チームは、地球のような系外惑星を直接観測するために、巨大な「スタ―シェード(Starshade)」を宇宙空間に配置する構想を進めています。
・遠くの地球型惑星は、そこから届く光が非常に弱く、親星の強烈な光に埋もれてしまいます。地球と太陽の関係でいえば、太陽は地球より可視光で約100億倍も明るいため、そのすぐ近くにある暗い惑星を見るのは非常に難しい。
・そこで考えられているのが、巨大な花びらのような形をした遮光装置を望遠鏡と恒星の間に置き、恒星の光だけを遮って、その周囲を回る惑星のかすかな光を見えるようにする方法です。
・NASA・Caltechの「HOEE(Hybrid Observatory for Earth-like Exoplanets)」構想では、直径約100mのスタ―シェードを地球から約17万km離れた位置に配置し、地上の巨大望遠鏡と組み合わせる案が検討されています。
少し前に、私はXにこんなことをポストしました。
暗闇だと周りは見えない。周りは見えないけど、何億光年先の星や光を見ることができる。
明るいと周りは見える。周りは見えるけど、星空を見ることはできない。どっちが良い悪いというわけじゃないけど、今が暗闇でも、暗闇だからこその星や光は見えたりするかもね
星空の下、走りながら思いました
— 小形誠(GATA) (@o_gata) August 6, 2026
夜にジョギングをしながら、ふと思ったことでした。
街灯や建物の明かりが少なくなって、周囲が暗くなる。
すると、それまで見えていなかった星が見えてくる。
暗くなったからこそ、遠くの光が見える。
今回のNASAの記事を読んで、あのとき考えていたことと、ちょっとつながっているなと思いました。
NASAが考えているのは、遠くにある地球のような惑星を見るために、なんと恒星の強い光を隠してしまうという方法です。
もっと強力な望遠鏡で「見る」のではなく、
見たいものを邪魔している光を「隠す」。
面白いですよね。
肉眼で夜空を見ると、黒い空間の中に白い星がポツポツと浮かんでいます。
ところが、高画質で撮影された満天の星空を見ると、その印象が逆転します。
白い星、星、星……。
そして、その星と星の間に黒い部分がある。
「こんなに星ってあるの?」
と驚かされます。
でも今回の記事を読んで、さらに思ったのです。
その白い星々の裏側にも、まだ見えていない星がたくさん存在するのかもしれない。
そう考えると、もう宇宙の大きさに気が遠くなります。
そして、ここからまた、いつものように話を大きくしてしまいます。^^
「強い光を遮断すれば、見えてくる光がある」
これって、宇宙だけの話ではないのでは?
五感で考えてみると、
強い光を引き算すれば、見えてくるものがある。
強い香りを引き算すれば、感じられる匂いがある。
強い音を引き算すれば、聞こえてくる音がある。
強い味を引き算すれば、感じられる味がある。
強い刺激を引き算すれば、感じられるものがある。
……なんだか、全部同じようなことが言えそうです。
音に関しては、音楽家なので、これは日常的によく感じます。
ピアノだけなら、ピアノの音はよく聞こえる。
そこにパーカッション、ギター、ストリングス、ボーカル……と音をどんどん足していけば、当然、ピアノは聞こえづらくなっていく。
だから音楽でも、
「何を入れるか」と同じくらい「何を入れないか」が大事
だったりします。
これって、情報についても同じなのかもしれません。
今は、情報が多すぎる時代です。
ニュース、SNS、動画、広告、通知……。
「もっと情報を集めれば、もっと世界がわかる」
と思いがちですが、
もしかすると、
情報を足すことで、逆に見えなくなっているものもあるのでは?
と思ったりします。
私たちは、強いもの、目立つもの、わかりやすいものに自然と反応します。
大きな音。
強い光。
刺激的なニュース。
わかりやすい意見。
簡単な答え。
そういうものは、とても「見えやすい」。
でも、その奥には、静かで小さなものが存在しているかもしれない。
だから、ときには、
「もっと見る」のではなく、「何かを遮断する」
ことも大事なのかもしれません。
いつもの情報を少し離れてみる。
いつもの場所から離れてみる。
いつもの考え方から離れてみる。
いつもの音を消してみる。
そうすると、それまで見えていなかったものが、ふっと見えてくることがある。
夜の暗闇の中で、星が見えてくるように。
NASAは、強い星の光を遮断することで、その奥にある惑星を探そうとしている。
そう考えると、
「何かを見つけるためには、何かを足すだけではなく、何かを引くことも必要なのかもしれない」
なんて思ってしまいます。
単純に、
いつもから少しずれる。
日常から少し離れる。
それだけでも、案外、新しいものが見えてくるのかもしれませんね。
以上、NASAが星の光を隠して惑星を探すという話から、また大袈裟に話を広げてしまう私なのでした。
ではでは。
The post NASAが「星の光を隠して」地球型惑星を探す? first appeared on アミまこ(最新の雑学).]]>・チューリッヒ大学などの研究チームが、「人を信じにくい傾向のある男性」359人を対象に、オキシトシンが信頼行動に与える影響を調べた。
・被験者にはオキシトシン、またはプラセボ(偽薬)を投与し、その後、面識のない相手にお金を預ける「信頼ゲーム」を行ってもらった。
・オキシトシンを投与された「人を信じにくい男性」は、プラセボを投与された同じタイプの男性より、平均約15%多くのお金を相手に預けた。
・過去の同様の研究と合わせた578人の分析では、信頼行動が約17%増加。性格などの違いを考慮しても、この効果は確認された。
・ただし、オキシトシンを投与すれば誰でも人を信じやすくなるわけではない。今回確認されたのは、もともと「人を信じにくい人」に限定された効果だった。
・なぜオキシトシンがこのような効果を生むのかは、まだ明らかになっていない。研究者は、「相手も協力してくれる」という期待を強めたり、裏切られることへの恐怖を弱めたりしている可能性を考えている。
・なお、今回の研究対象は男性のみ。女性にも同じ効果があるのかは今後の研究課題とされている。
ご存知の方も多いと思いますが、
オキシトシンは「幸せホルモン」「愛情ホルモン」などと呼ばれることがあります。
人とのスキンシップや愛情を感じるときなどに分泌されるホルモンとして知られています。
では、
オキシトシンが増えれば、人はもっと人を信じるようになるのでしょうか?
今回の記事によれば、もともと人を疑いやすい男性にオキシトシンを投与したところ、そうでない人に比べて、匿名の相手を信頼する行動が増えたそうです。
なるほど。
「幸せホルモン」と呼ばれるくらいだから、人を信じる気持ちも強くなるのかな……と思ったりします。
ただ、私はここで、以前見た別の研究を思い出しました。
オキシトシンを投与すると、
自分の所属する集団へのえこひいきが強くなったり、場合によっては排他的・攻撃的な反応が強まったりするという研究です。
これを知ったとき、
「オキシトシン=愛情」って、いったい何なんだろう?
と思ったんですよね。
もしかすると、オキシトシンによる「愛情」は、単純に人間を優しくするものではなく、
「自分にとって大切な人」と「それ以外」を、よりはっきりさせる作用
なのかもしれないと思ったりもします。
愛する人をより愛する。
その一方で、それ以外の人との境界も強くなる。
そう考えると、「愛情」と「排他性」って、意外と近いところにあるのかもしれません。
まあ、このへんの話は今回の記事とは少し離れてしまうのですが、
このように、オキシトシンって、人間の心理にかなり大きな影響を与えるんだなと改めて思います。
そして、もうひとつ思い出したことがあります。
人間には、
「ずっと真面目に生きてきた人ほど、何かの拍子に反動が出る」
というような心理現象があります。
たとえば、
「ここまでずっと真面目にやってきたんだから、今日くらいはいいか」
と、普段なら絶対にしないようなことをしてしまう。
もちろん、誰もがそうなるわけではありませんが、
これって、ほかのことにも言えるのではないでしょうか。
ずっと頑張ってきた人が、突然すべてを投げ出したり。
ずっと節約してきた人が、突然ものすごい買い物をしたり。
ずっと我慢してきた人が、ある日突然、爆発したり。
つまり人間って、
ある方向に強く振れ続けると、何かのきっかけで反対方向に振れることがある。
そんな「反動」が、意外と身近に存在しているのかもしれません。
今回の記事を読んで、
「人を疑う」という方向に振れていた人が、オキシトシンによって「信頼する」という方向へ動いたことを知り、
そんなことを考えてしまいました。
人間の心理って、
右へ振れれば、左へ振れる。
そんな単純なものではないでしょうけど、
極端な状態にいるほど、何かの「スイッチ」によって大きく振れることはあるのかもしれません。
そう考えると、
極端に生きている人ほど、その「スイッチ」には注意したほうがいいのかもしれません。
普段の生活でオキシトシンを投与されることなんて、まずないでしょうけど。笑
怖いのは、スイッチがどこにあるのかわからないこと。
ちなみに、数年前にブログで以下のブログを書いたのを思い出しました。おしぼりがスイッチになりうる??笑
そんなスイッチが入って、うまく帳尻が合ってバランスが取れるならいい。
でも、
そのスイッチひとつで人生が大きく変わってしまったら……。
「やる気スイッチ、どこにあるの?」
なんてよく言いますが、
人生には、
「反動スイッチ」も、ひょっとしたらあるのかもしれません。
できれば、そっちのスイッチは、
自分で場所(発動条件)を把握しておきたいものですね。
ではでは
The post 「幸せホルモン」が、人を信じるようにする? first appeared on アミまこ(最新の雑学).]]>・職場のユーモアは、単なる息抜きではなく、人間関係や組織の活力にも関わるコミュニケーションだという。
・ただし、笑いなら何でも職場を良くするわけではない。
・人間関係を深め、挑戦しやすい雰囲気をつくるユーモアがある一方で、信頼を損ない、人を萎縮させるユーモアもある。
・重要なのは「どれだけ笑いがあるか」ではなく、その笑いが「誰と誰をつないでいるのか」。
・「一緒に笑う」ようなユーモアは人との距離を縮める一方、「誰かを笑う」ようなユーモアは、笑う側と笑われる側を分けてしまう可能性がある。
記事にもあるように、
「一緒に笑う」と「誰かを笑う」は、同じ「笑う」でも、まったく別物です。
別の言い方をすれば、
「笑い話」と「笑いものにする」
という感じでしょうか。
どちらも、その場では「アハハ」と笑っている。
でも、その笑いによって、人と人との距離が近づくこともあれば、逆に誰かを傷つけることもある。
(笑いの対象は何か?、笑う側と笑われる側のラインがどこに引かれているのかをよく確認することが大事)
ふと思ったのですが、
人間には「喜怒哀楽」がありますよね。
怒りや悲しみの場合、「誰に怒っているのか」「何を悲しんでいるのか」
という対象が比較的わかりやすいです。
ところが、
「笑い」って、対象が案外わかりにくいのではないでしょうか?
Aさんの話を笑っているのか。
Aさんと一緒に笑っているのか。
Aさんを笑っているのか。
その境界線って、意外と曖昧です。
しかも、笑いは感情そのものもわかりにくい。
大笑いだけではありません。
苦笑い、愛想笑い、引きつった笑い、照れ笑い、緊張したときの笑い……。
「笑っている=楽しい」
とは限らないんですよね。
たとえば、
心で笑いながら怒る人はいないけれど、心で怒りながら笑う人はいます。
「ハハハ……」
と笑いながら、心の中では、
「いや、全然笑えないんだけど……」
と思っていることは普通にあります。
つまり笑いは、
感情を表すだけではなく、感情を隠すこともできる。
なんとも複雑です。
つまり、
笑いによってわかることもありますが、
笑いによってわかりづらくなることもあるのです。
改めて、笑いは奥が深い^^
ちなみに、
会食中の主な会話の内容は
笑い話・エンタメ 約40%
愚痴・悩み相談 約30%
業務連絡・真面目な話 約20%
お祝い・儀礼的な会話 約10%
パーセンテージは私の肌感覚です。笑
奥の深い笑いの取り扱いには是非、気をつけたいところです。
もちろん、笑う度に今回の様なことを考えていたら、楽しいものも楽しくなくなっちゃいます。
たまに、「この笑いは??」って意識してみるくらいで丁度いいかもしれません。
ではでは
The post 「一緒に笑う」と「誰かを笑う」は、同じ笑いでも全然違う? first appeared on アミまこ(最新の雑学).]]>・チリに建設された「ベラ・C・ルービン天文台」が、宇宙を10年間にわたって撮影する大規模観測「LSST」を開始
・南半球の夜空を数日おきに繰り返し撮影し、宇宙の変化をまるで10年間のタイムラプス動画のように記録する
・観測開始からわずか6週間ほどで、これまで知られていなかった小惑星を1万1000個以上発見。その中には地球近傍小惑星33個、海王星より遠くを回る天体380個も含まれていた
・今後の10年間で、約9万個の新たな地球近傍天体が発見されると予想されている
・暗黒物質や暗黒エネルギー、天の川銀河の構造、超新星など、宇宙で起こる「変化」を捉えることも、この観測の大きな目的
・最終的には数十億個の天体を記録し、宇宙史上最大級の「動く宇宙の記録」が作られることになる
世界中には、無数の天体観測所や望遠鏡があります。
たまに、観測所が公開している宇宙の写真を見ることがありますが、
星、星、星……。
画面いっぱいに広がる無数の星を見ると、
「宇宙って、こんなにも星があるのか」と驚くと同時に、
「これだけの星を見つけられるって、すごい技術だな」と感心したりします。
私たちは、最新の科学技術によって、これほど遠くの星まで見ることができるようになったわけです。
ところが、今回の記事を読んで、ちょっと驚きました。
今回紹介されているプロジェクトでは、観測開始からわずか6週間ほどで、
これまで知られていなかった小惑星を1万1000個以上も発見した。
というのです。
その中には、地球近傍小惑星が33個、海王星より遠くを回る天体が380個も含まれていたそうです。
え?
まだ、そんなに見つかっていなかった星があったの?
と思ってしまいます。
これだけ科学技術が発達して、世界中の望遠鏡で宇宙を観測しているのに、
まだまだ「見えていないもの」が、こんなにも存在する。
なんだか、ワクワクしてきます。
もちろん、宇宙にあるすべての天体が、常に同じように見えるわけではありません。
天体の位置や動き、明るさ、観測するタイミングなどによって、見つけにくいものもあるのでしょう。(だから、今回、動画だからこそ見つけられた?)
そして今回のルービン天文台のように、これまでよりも広い範囲を、より高性能な望遠鏡で、しかも繰り返し撮影する技術が登場したことで、
今まで見つけられなかったものが、どんどん見つかってきたわけです。
つまり、
「そこに存在しなかった」のではなく、「そこにあるけれど、私たちが見つけられなかった」
ということなんですよね。
たとえば、宇宙の写真を見ると、
黒い空間の中に、無数の星がきらめいています。
でも、その黒い部分を見て、
「ここには何もない」と思ってしまう。
ところが、実際には、
まだ私たちの技術では捉えられていない何かが、そこに存在しているかもしれない。
そう考えると、
あの「真っ黒な宇宙」が、急に違って見えてきます。
今は何も見えない。
でも、
「何もない」のではなく、「まだ見えていないだけ」
なのかもしれません。
こういう記事を読むと、私はいつも思います。
私たちは、
「見えている世界」や「感じている世界」の中で生きている。
でも、それが、世界のすべてではない。ということです。
むしろ、
私たちの現在の能力で捉えられる範囲が、私たちにとっての「世界」になっているだけ
なのかもしれません。
昔の人は、紫外線やX線を見ることができませんでした。(もちろん、紫外線などは昔から存在します)
電子顕微鏡がなければ、目には見えないほど小さな世界を見ることもできません。
望遠鏡がなければ、遠く離れた銀河を見ることもできません。
つまり、
見えなかったから存在しなかったわけではない。
ただ、
見る力がなかった。
それだけなのかもしれません。
そう考えると、今回の宇宙の話は、宇宙だけの話でもないような気がします。
たとえば、自分自身についても同じことが言えるのではないでしょうか。
今の自分には、
「これは無理だ」
「自分には向いていない」
「こんなものは存在しない」
と思っているものがある。
でも、それは本当に「ない」のでしょうか。
もしかすると、
今の自分の能力では、まだ見つけられていないだけ
なのかもしれません。
経験を積んだり、知識が増えたり、視点が変わったりすると、
「こんな世界があったのか」
と、突然見えるようになることがあります。
以前はまったく興味がなかったものが、ある日突然面白く感じることもあります。
昔は理解できなかった人の気持ちが、年齢を重ねると少しわかるようになることもあります。
世界が変わったというより、
自分の「見る力」が変わった。
そういうことも、案外多いのかもしれません。
そして今回、もう一つ面白いと思ったのが、
「写真」と「動画」の違いです。
一枚の写真だけでは見えないものでも、
時間を追って撮影してみると、見えてくるものがあります。
たとえば、人の写真を一枚だけ見れば、
「この人は笑っている」
ということしかわからない。
でも、動画でその人をずっと見ていれば、
さっきまで笑っていたのに、急に表情が変わった。
誰かが来た瞬間に態度が変わった。
その場では笑っていたけれど、その直後には悲しそうな顔をしていた。
そんなことまで見えてきます。
つまり、
静止画では「状態」が見えて、動画では「変化」が見える。
ということなのかもしれません。
これは、人間関係にもつながるような気がします。
人の一瞬だけを見て、
「この人はこういう人だ」
と判断するのではなく、
その人を時間軸で見てみる。
そうすると、一瞬の表情や言葉だけではわからなかった、その人の別の一面が見えてくるかもしれません。
そう考えると、前回のブログで書いた、
物事を3Dで捉える
という話にもつながってくるような気もします。
一方向から見る。
一瞬だけ見る。
一つの情報だけを見る。
それだけでは、見えないものがある。
角度を変える。
時間を変える。
距離を変える。
視点を変える。
そうすると、今まで見えていなかったものが見えてくる。
今回の宇宙観測も、ある意味では、
「世界を見る解像度を上げる」
ということなのかもしれませんね。
もっと言うならば、
今、私たちが「世界」と呼んでいるものは、
人類が現在持っている「見る力」で切り取った世界
にすぎないのかもしれません。
その「見る力」が進化すれば、
今まで存在していないと思っていたものが見つかる。
今まで理解できなかったものが理解できる。
今まで気づかなかった自分にも気づく。
、、のかもしれません。
以上のように、またいろいろと思考を巡らせて、
改めて、
「自分が見えている世界が、世界のすべてではないんだな」
と、少し謙虚な気持ちにさせられるのでした。
あと、単純に、思うことですが、
たとえば、
今まで、私という人間を写真撮影しかしてこなかったけど、
これから10年間、動画撮影で記録をとりますと言われたら、
自分という人間を素っ裸にされるような感じがしますよね^^;
なので、そういう意味でも、
宇宙の10年間タイムラプス(動画)はとても楽しみです。
宇宙の新たな顔を知ることができるかもしれません。
ではでは
The post 「宇宙には、まだ『見えていない星』が無数にある?」 first appeared on アミまこ(最新の雑学).]]>・イギリス、サセックス大学の研究チームが、人間の命に対する「共感」が、被害を受けた人数によってどのように変化するのかを脳活動から調査
・1人の命が危険にさらされるケースから、数万人が危険にさらされるケースまでを比較
・人命については、被害を受ける人数が増えるほど、脳の反応が弱くなる傾向が確認された
・一方で、お金については、失う金額が大きくなるほど脳の反応も大きくなるという違いが見られた
・海外で起きた出来事では、被害者が少ないときよりも、ある程度人数が増えたときのほうが反応が強くなるものの、非常に多くなると再び反応が弱くなる「逆U字型」の傾向も確認された
熊本での地震、そして台風によるさらなる被害。心が痛みます。
改めまして、この度の災害に対し、心よりお見舞い申し上げます。
皆様のご無事と、一日も早い復旧・復興を深くお祈りいたします。
熊本地震をはじめとして、政治、社会、国際問題など、私たちは毎日のようにたくさんのニュースを目にします。
そして、その中には、多くの悲しいニュースがあります。
そこで、ふと思ったのです。
はたして、それらの悲しみは、同じ感じ方なのだろうか?
たとえば、
「○○さんが亡くなりました」
というニュース。
それと、
「○万人が亡くなりました」
というニュース。
もちろん、後者のほうが被害としては圧倒的に大きい。
でも、私たちの感じる悲しみは、本当に1万人分になっているのでしょうか。
改めて考えてみると、
「○○さんが亡くなった」
というニュースのほうが、悲しみを強く感じることがあるような気がします。
何万人という被害者のニュースを見ても、いつの間にか、それが「数字」として見えてしまう。
今回の記事を読んで、その理由を少し考えてみました。
私が思うのは、
人間の感情は、ストーリーと紐づいている
のではないか、ということです。
たとえば映画。
映画を観て感動するのも、主人公のストーリーがあるから。
主人公がどんな人生を歩んできたのか。
どんな人と出会ったのか。
何に苦しんできたのか。
何を大切にしてきたのか。
そういうことを知っているから、感情移入する。
もし映画を観る前に、
「この主人公は最後に死にます」
とだけ教えられたとしても、「へえ、そうなんだ」
くらいで終わってしまうでしょう。
でも、その主人公と2時間一緒に過ごして、
笑ったり、
苦しんだり、
喜んだり、
悲しんだり、
そういうストーリーを見た後なら、
同じ「死ぬ」という出来事でも、まったく感じ方が違う。
つまり、
ストーリーがある=立体的、奥行きがある、リアル
なのかもしれません。
反対に、
ストーリーがない=平面的、紙の上の情報、数字
になってしまう。
そんな気がします。
誰かが亡くなったニュースなら、
「この人には家族がいたのかな」
「どんな人生だったんだろう」
「どんなことが好きだったんだろう」
など、その人の人生を自然と想像することがあります。
でも、
「戦争で1万人が亡くなりました」
となると、
1万人分の人生を想像することはできません。
あまりにも多すぎる。
だから、
人間 → 数字
へと変換されてしまうのかもしれません。
でも、そこに、
「その中の一人の人生」
というストーリーが加わった瞬間、
数字だったものが、急に人間に戻ってくる。
そんな感じがします。
私は、悲しみの共有は、優しさを生むと思っています。
そう考えると、
「何万人が亡くなりました」
という全体の事実を伝えるニュースももちろん大切ですが、
それとは別に、
一人の人間にピントを合わせた情報
も、とても大事なのかもしれません。
たとえば、
「戦争で何万人が亡くなりました」
だけではなく、
その戦争によって家族を失った人のドキュメンタリー。
どんな生活をしていたのか。何を失ったのか。
今、どんな気持ちで生きているのか。
そういうものを見ることで、
「1万人」という数字が、「一人ひとりの人間」として見えてくる。
もちろん、こうした個人のストーリーは、プロパガンダなどに利用される危険性もあります。
一人の悲劇を強調することで、見る人の感情を意図的に誘導することだってできるでしょう。
なので、これはこれで難しい問題ではあります。
そして、これは情報を伝える側だけの問題ではないとも思います。
情報を受け取る私たち自身が、
どれだけ「奥行き」を持って情報を見ることができるか。
これも大切なのかもしれません。
「1万人が亡くなった」
というニュースを見たとき、
「1万人か……」と数字だけで受け止めるのではなく、
その1万人にも、
家族がいて、
友人がいて、
仕事があって、
好きなものがあって、
昨日があって、
今日があって、
そして、明日やりたいことがあった。
そういう人生が、それぞれにあった。
そんなことを少し想像してみる。
それだけでも、同じニュースの見え方は変わるのかもしれません。
とはいえ、
世界中で起きているすべての悲しみに、一つひとつ感情移入することなんて、もちろんできません。
毎日のように、戦争。災害。事故。事件。病気。貧困。
いろいろな悲しいニュースが入ってきます。
それらすべてを、自分のことのように感じていたら、心が持たないでしょう。
だから、
「数字」として処理してしまうことも、人間が生きていくための仕組みなのかもしれない。
そんな見方もできる気がします。(実際、脳は省エネ設計)
だからこそ、
全部を背負う必要はないけれど、
たまには数字の向こう側にいる「一人」を想像してみる。
それくらいでもいいのかもしれません。
今回の記事(研究)は、
人間の共感には限界がある。
ということでしたが、
私たち自身の想像力を上げることで、その限界を少しくらい突破することもできるかもしれない。
そんなことを考えました。
1万人を1万人分、悲しむことはできない。
でも、その1万人の中にいる「一人」を想像することなら、できる。
そして、その一人にも、
自分と同じように、
人生があった。
そう考えると、
「1万人」という数字が、少しだけ立体的に見えてくる気がします。
悲しみを共有することが、優しさにつながるのだとすれば、
この世界に優しさを増やすために、
ニュースを見る私たちにも、
数字の向こう側にいる人間を想像する
ということくらいは、できるのかもしれませんね。
以上、上の記事を読んで、またおおげさに考えてしまう私なのでした。
ではでは
The post 人はなぜ、大勢の悲しみに共感できないのか? first appeared on アミまこ(最新の雑学).]]>
体温調節のために汗をかいたり、複雑な内臓の働きを知ったりすると、
「人間の体って、本当によくできているなあ」と思うことがあります。
まるで、最初から完璧に設計された精密機械のようです。
ところが今回の記事によると、そうではありませんでした。
人間の体は、最初から完璧に設計されたものではなく、長い長い進化の過程で、改良や改築、アップデートを繰り返しながら今の姿になったものだそうです。
だからこそ、腰痛になりやすい背骨があったり、目には盲点があったり、親知らずのように、現代では役目を終えつつある器官が残っていたりします。
つまり、人間の体は「完成品」ではなく、アップデート途中の作品なのです。
この話を読んでいて、私は少し見方が変わりました。
人間の体は完全ではない。
でも、言い換えれば、
完全体になろうとしている途中とも言えるのではないでしょうか。
私たちは年齢を重ねると、体力が落ちたり、記憶力が衰えたりして、どうしても「レベルダウンしている」と感じてしまいます。
でも、それはあくまで一人の人生という短い時間軸で見た場合の話です。
もっと大きな時間軸――
何百万年、何千万年という人類全体の時間で考えると、
人間の体は今この瞬間も、少しずつアップデートを続けているのかもしれません。
そう考えると、
年齢を重ねることも、少しだけ前向きに感じられる気がします。
さらに考えてしまいました。
もしアップデートを繰り返していくのなら、
その先には、
「完成した人間の体」というものが存在するのでしょうか。
たとえば、
腰痛のない体
盲点のない体
親知らずのない体
そんな未来が来るのかもしれませんし、
逆に、進化とは環境に合わせて変わることなので、「完成」というゴール自体が存在しないのかもしれません。
そう考え始めると、想像はどんどん膨らんでしまいます。
そして私は、もう一つ思いました。
アップデートされるのは、体だけではない。
思考もまた、アップデートされているのではないか、と。
若い頃の私と、
今の私では、
同じ出来事を見ても、感じ方も考え方もずいぶん違います。
経験を重ね、
失敗を重ね、
少しずつ自分なりの考え方が形作られてきました。
人間の体の完成形を見ることは、おそらくできません。
でも、
私自身の思考の完成形――
人生を生き切ったときの自分の考え方には、いつかたどり着くのでしょう。
一方で、
人類全体の思考は、アップデートされているのでしょうか。
科学は発展し、AIも生まれ、便利な時代になりました。
でも、世界では今も戦争が絶えません。
詐欺も、差別も、争いもなくならない。
そう考えると、
人類の「体」は進化していても、
「思考」はあまり進化していないようにも見えてしまいます。
もちろん、昔より良くなった部分はたくさんあります。
ただ、人の欲や感情は、世代が変わるたびに新しく生まれます。
先人たちが、「同じ失敗をするな。」と教えてくれても、
人はまた同じような失敗を繰り返します。
遺伝子は次の世代へ受け継がれますが、
人生経験や感情までは、そのまま受け継ぐことはできません。
だからこそ、
体のアップデートよりも、思考のアップデートの方が難しいのかもしれません。
「心身一体」という言葉があります。
もし未来、人類の体がさらに進化していくのだとしたら、
完成した体のあとを追うように、
思考や精神も少しずつ成熟していくのかもしれません。
……と、また記事を読んでいたら、いつものように想像がどんどん膨らんでしまいました(笑)。
でも、この世の中は、物事の捉え方一つで見え方が大きく変わります。
私自身の体は年齢とともに老いていきます。
それでも、人類という大きな視点で見れば、体は今もアップデートを続けているのかもしれない。
そして私自身の思考も、日々の経験を重ねながら、自分なりの「完成形」に向かって少しずつアップデートされているのかもしれない。
そんなふうに考えながら毎日を過ごしてみると、年齢を重ねることも、少しだけ楽しみになってくる気がします。
ではでは
The post 人間の体は、今もアップデート中らしい first appeared on アミまこ(最新の雑学).]]>
幼い子どもは、困っている人を見ると、深く考えることなく自然に助けようとするそうです。
ところが成長するにつれて、「余計なお世話かもしれない。」「他の人が助けるだろう。」「断られたら恥ずかしい。」
そんなことを考えるようになり、行動しなくなることがあるそうです。
この記事を読んでいて、私はあることを思いました。
私は、人の本音や本性を知りたいとき、咄嗟の反応をよく見ています。
例えば、
目の前で誰かが物を落としたとき。
すぐに拾おうとする人。
そのまま通り過ぎる人。
もちろん、拾わなかったからといって、その人が冷たい人だとは思いません。
たまたま気づかなかったのかもしれませんし、
別の事情があったのかもしれません。
でも、
考える前に自然と体が動く人を見ると、「この人は心の奥底に親切心がある人なんだな。」
そんなふうに感じることがあります。
心理学には、怒りを感じたら6秒待つと冷静になれるという、
「6秒ルール」があります。
怒りのピークは最初の数秒。そこを過ぎると、理性的に判断しやすくなるそうです。
これも考えてみると面白いですよね。
最初の数秒は、感情がそのまま出てくる時間。
その後は、思考が入り始める時間です。
つまり、
最初に出てきた怒りは本音に近く、
その後は、「怒っても意味がない。」「ここは我慢しよう。」という理性が働いているわけです。
そう考えると、
人間の本音や本性は、何かが起きた瞬間、ほんの数秒の反応に表れることが多いのかもしれません。
咄嗟に目を逸らす。
咄嗟に距離を取る。
咄嗟に眉をひそめる。
咄嗟に笑顔になる。
咄嗟に手を差し伸べる。
そんな一瞬の反応には、考えて作った表情ではない、その人らしさが現れているように感じます。
だから私は、誰かの本音を知りたいとき、言葉よりも先に、その一瞬を見てしまいます。
今回の記事を読んでいて、
親切にも種類があるような気がしました。
例えば、
① 咄嗟に親切にできる人
困っている人を見ると、考える前に体が動く人。
そして、
② 一度考えてから親切にする人
最初は動けなくても、「やっぱり助けよう。」と考え直して行動する人です。
私は、どちらも素晴らしいと思います。
前者は、心の奥から自然にあふれる親切。
後者は、理性によって選び取った親切。
親切に至るルートが違うだけで、どちらも相手を助けるという結果は同じです。
もう一つ思ったことがあります。
私たちは普段、なにげなく「自分で考えている。」と思っています。
でも実際には、世間体や常識、周りの目、誰かの価値観を借りて考えていることも少なくありません。
「こうするべき。」
「普通はこう。」
そんな声が頭の中に増えてくるほど、最初に感じた自分の気持ちは、少しずつ小さくなっていきます。
だから、
考える時間が長くなるほど、本音から遠ざかっていくこともあるのかもしれません。
私は先ほど、
「人の本音を知りたければ、咄嗟の反応を見る。」
という話をしました。
でも、これは他人だけではありません。自分自身にも当てはまると思うのです。
何かを見た瞬間、
何を感じたのか。
誰かに会った瞬間、
どんな表情になったのか。
何かを言われた瞬間、
心はどう動いたのか。
その一瞬を観察してみると、
自分でも気づいていなかった本音が見えてくることがあります。
今回、「子どもの親切心は、考える前に生まれることが判明」という記事から、
私は、「人は考えすぎると親切になれないことがある」と発想を得て、
毎度のごとく、またそこから考えを広げてしまいました。
極論かもしれませんが、もしかしたら、
咄嗟の3~6秒くらいまでは、本音や本性が顔を出す時間。
そして、
それ以降は、理性や社会性が加わっていく時間。
、なのかもしれません。
このように、時間経過と本音や本性を関連づけて考えるのも面白いのでないでしょうか。
人間というのは、本音だけでも、理性だけでもできていない、とても面白い生き物なのだなと思います。
もちろん、本音のまま生きることが正しいとは限りません。
だからこそ、理性があります。
一方で、理性ばかりを優先していると、自分が本当は何を感じていたのかさえ分からなくなることもあります。
本音と理性。
どちらが大切なのではなく、その両方があるからこそ、人間らしいのかもしれません。
ただ、最近は少し理性寄り?頭でっかち?に私たちはなりがちかもしれません。
もう少し、何かに咄嗟に反応する一瞬のきらめきを意識してみるのもいいかもしれませんね。
ではでは
作曲家、小形誠(GATA)によるYouTube channel「GATA+MUSIC」
「GATA+MUSIC」のオフィシャル音源、各サブスクで配信中
The post 「考える前」の3秒に、本当(本音)の自分がいる?? first appeared on アミまこ(最新の雑学).]]>