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151会 副業ネットワーク Fri, 16 Oct 2026 10:01:13 +0000 ja hourly 1 /wp-content/uploads/2026/09/cropped-favicon-32x32.webp 151会 32 32 TikTokショップの副業講座は怪しい?清水明義の評判と料金 /tiktok-shop-koza/ /tiktok-shop-koza/#respond Sun, 18 Oct 2026 03:27:00 +0000 /?p=2375 TikTok shopクリエイター育成オンライン講座は、TikTokで商品紹介の動画を投稿して報酬を得る副業を教える無料講座です。LINEでは「月30万円の利益」とうたう一方、講座ページのよくある質問に出てくる実績は売上の金額ばかりで、特商法に並ぶ「個別サポート」の金額もどこにも書かれていないため、お金を払うのはおすすめできません。]]> こんにちは、佐天です。 今回は、SNSの広告で見かけるTikTok shopクリエイター育成オンライン講座について調査しました。 「ゼロから最短3ヶ月でプロのTikTok shopクリエイターになる方法を徹底解説」 このようなうたい文句が書かれています。 顔を出さずに、スマホ1台で始められるなら、無料の講座だけでも聞いてみたくなりますよね。 ただ、実際にLINEに登録して調査してみた結果、 TikTok shopクリエイター育成オンライン講座で、お金を払うのはおすすめできません。 実態が気になる方は、記事を最後まで読んでいってください。 また、TikTokショップのような新しい副業について「これ本当に稼げますか?」と気軽に聞いてもらえるよう、私のLINEも公開しています。 スマホでできる副業の選び方もお伝えできるので、気軽にLINEでメッセージを送ってくださいね。 TikTokショップの副業講座とは? TikTok shopクリエイター育成オンライン講座は、TikTokで商品紹介の動画を投稿し、売れた分の報酬をもらう副業を教える無料講座です。 広告の一番上では、「最短3ヶ月」と「無料開催」を大きく出しています。 TikTok shopは、TikTokの動画を見ながら、そのままアプリの中で商品を買える仕組みです。 クリエイターがやることは、企業の商品を紹介する短い動画を作って投稿するだけ、と説明されています。 講座の前に見る動画では、こう話していました。 「商品が売れる度に、売れたら売れた分だけあなたに報酬が入ります」 在庫を持たず、仕入れも発送もいらない、という話です。 佐天 動画を投稿するだけで売れていくなら、たしかに夢のある話ですね… 講師の清水明義は何者? 講師の清水明義は、株式会社ripplesの代表取締役社長として紹介されている人です。 広告の講師紹介では、支援してきたクリエイターの販売実績を並べています。 「提携クリエイターの販売実績は累計10億円超」 ベトナムでTikTok shopの事業をしていて、日本では2025年6月30日のスタート初日から支援している、という経歴です。 ただ、ここに並んでいるお金の数字は、どれも「販売実績」「売上」です。 では、広告からLINEに登録すると、何が届くのでしょうか。 TikTok shop講座のLINEの中身は? 広告のボタンから進むと、「TikTok shopクリエイター講座」というLINEアカウントの友だち追加になります。 追加すると、すぐに講座の日時の案内が届きました。 「“顔出しなし”でも 自宅で月30万円の利益を得る TikTok shopクリエイター」 ここで初めて、「月30万円の利益」という金額が出てきます。 LINEから案内される講座のページでは、一番上で「オリエンテーション動画」を必ず見るように書かれています。 ボタンを押した先には、講座の前に見る動画が4本並んでいます。 動画は、TikTok shopの市場が伸びている話と、TikTokerとの違い、報酬の入り方の説明でした。 講座のページには、10月16日の講座で話す内容も13項目並んでいます。 「なぜ今このタイミングなのか?ライバルが少ない今が本当のチャンス」 並んでいるのは、始める理由と、つまずかないための話ばかりです。 13項目の名前のどこにも、報酬が売上の何割なのかや、講座のあとにかかるお金の話は出てきません。 佐天 動画を何本見ても、自分に毎月いくら入るのかの話は出てこないんですよね… では、この講座にはお金がかかるのでしょうか。 TikTok shop講座は無料?個別サポートの料金は? TikTok shopクリエイター育成オンライン講座そのものは、無料です。 講座のページの募集要項にも、参加費は「完全無料」と書かれています。 同じ募集要項には、「オリエンテーション動画&特別セッションを3回以上視聴すること」という事前準備もありました。 始めるための道具については、よくある質問でこう答えています。 「慣れてきたら三脚や照明など揃えてもいいと思いますが、全て揃えても1万円以内におさまります。」 スマホ1台で始められて、道具も1万円以内なら、TikTokショップの副業自体に大きなお金はかからないということです。 だからこそ、お金がかかるとしたら何にいくらなのかが大事になります。 講座は一夜限りで、あとから見直すことはできません。 「オンライン講座内で話す内容の秘匿性を考慮し、一夜限りの開催とさせて頂きます。」 特商法に並ぶ「個別サポート」 運営会社の特定商取引法の表記には、扱っている商品が3つ書かれています。 「・WEBセミナーの無料参加権利 ・電子書籍の無料受け取り権利 ・個別サポート」 3つのうち、「個別サポート」にだけ「無料」が付いていません。 それなのに、個別サポートがいくらなのかは、特商法にも、広告にも、講座のページにも、今日までに届いたLINEにも書かれていません。 つまり、講座の前の今は、この講座でお金がかかるとしたらいくらなのかを知る方法がないということです。 佐天 いくら払えば月30万円に近づけるのか、そこが講座の前に一つも分からないんですよね… 運営会社は講師の会社と別 講座を運営しているのは、株式会社GC’sブートキャンプです。 項目内容事業者株式会社GC’sブートキャンプ代表者長村拓海住所東京都渋谷区神宮前6-23-4 桑野ビル2階取り扱い商品無料セミナー・無料の電子書籍・個別サポート 講師の清水明義の会社(株式会社ripples)とは別の会社で、個別サポートを扱っているのも運営会社のほうです。 佐天 講座で話すのは清水明義でも、特商法で個別サポートを扱っているのは運営会社なんです。 同じ特商法には、「必ずしも利益や効果を保証したものではございません」という注意書きもありました。 講座が近づいて、金額を聞いてから迷う方も多いと思います。 「講座に出ても大丈夫?」 「個別サポートの金額を聞いたけど、払っていいの?」 「もう申し込んでしまった」 講座の前の方も、金額を聞いた後の方も、一人で判断する前に、講座で聞いた話をそのまま私に聞かせてください。 TikTokショップの副業で月30万円稼げる? TikTokショップの副業で月30万円の利益が出せる根拠は、講座のどこにも出てきません。 LINEでは「月30万円の利益」とうたっているのに、不安に答えるよくある質問まで、出てくる実績は全部「売上」だからです。 この講座が怪しく見えるのも、まさにこの食い違いのところです。 よくある質問の答えは全部「売上」 講座のページのよくある質問には、始める前の不安がそのまま並んでいます。 「家族や職場の同僚にバレたくない」という質問への答えは、こうでした。 「実際に顔出ししていないアカウントでも、月に1,000万円以上売り上げているクリエイターも多数います。」 「SNSで活動したことがなくて不安」という質問への答えも、同じ言い方です。 「完全未経験から3ヶ月で数百万円・数千万円の売上を叩き出している方も多数いらっしゃいます。」 広告では、クリエイターの収益源は「商品の販売数・売上に直結」と説明しています。 動画でも「売れたら売れた分だけ報酬が入る」と話しています。 でも、売上のうち何割があなたに入るのかは、広告や動画3本、講座のページのどこを見ても出てきません。 月1,000万円の売上と聞いても、あなたの手元にいくら残るのかは分からないままです。 それで金額の書かれていない個別サポートにお金を払っても、元が取れるかは判断できません。 佐天 「売上1,000万円」と聞くと、自分の手元に1,000万円入るように聞こえてしまいますよね。 TikTokショップで商品を紹介する副業そのものは、実際にある仕事です。 ただ、「売上」と「自分に入るお金」の違いは、説明を聞くほど分かりにくくなるところです。 「この売上って、結局いくら入るの?」と引っかかったら、申し込む前にLINEで私に聞いてくださいね。 TikTok shop講座の口コミ・評判は? TikTok shopクリエイター育成オンライン講座を受けた人の声は、まだ出てきていません。 Yahoo!知恵袋で講師の清水明義の名前を検索しても、質問は1件もありませんでした。 講座は10月16日の20時が本番なので、受けた人の感想が出てくるのはその後です。 今のところ、表に出ているのは広告の講師紹介と、講座のページのよくある質問の答えだけです。 佐天 講座の夜に金額を聞いたら、その場で決める前に私に聞いてくださいね。 最後に、この講座の答えを表で振り返ります。 TikTokショップの副業講座はおすすめできない|まとめ TikTok shopクリエイター育成オンライン講座で、お金を払うのはおすすめできません。 気になること答え何をする副業?商品紹介の動画で売れた分の報酬を得る講座は無料?無料。ただし一夜限り料金は?特商法に「個別サポート」。金額はどこにも無い月30万円稼げる?よくある質問まで実績は売上だけ口コミは?受けた人の声はまだ無い 約束しているのは「月30万円の利益」なのに、不安に答えるはずの質問の答えまで、売上の数字ばかりです。 佐天 「利益」と「売上」、この2つの言葉の違いだけは覚えておいてくださいね。 ここまで読んでくださったあなたは、きっとスマホで少しでも収入を作りたくて、この講座について調べてきたんだと思います。 それなのに、肝心のお金の話が講座の当日まで出てこないのは、不安になりますよね。 私自身、過去に副業や投資で失敗した経験があるので、気持ちはよくわかります。 ただ、ここでスマホの副業を諦める必要は、全くありません。 「10月16日の講座に出てもいいですか?」 「講座ですすめられた金額で迷っています」 「顔を出さずにできる副業はありますか?」 など、気になっていることを、私に聞いてください。 講座の前の小さな疑問でも、私がひとつずつお返事しています。 新しい副業って、調べれば調べるほど、大きな売上の話も、うまくいかなかった話も出てきます。 でも、私に聞いていただければ、その金額を払う価値があるかどうかの判断を代わりにすることができます。 そしてもし、「この講座でお金を払うのはやめる。でも、スマホで副業はしたい」と思ったら、少額から試せる副業の情報も私から共有できます。 講座の前でも、金額を聞いた後でも、もう申し込んでしまった後でも大丈夫です。 佐天 何でも相談にのりますよ^ ^ ]]> /tiktok-shop-koza/feed/ 0 トレンドトラッカーは怪しい?競馬投資の実態や口コミを登録調査 /trend-tracker/ /trend-tracker/#respond Sat, 17 Oct 2026 20:14:00 +0000 /?p=2673 トレンドトラッカーは詐欺なのか、料金を払っても本当に稼げるのか。不安を抱えたまま登録や支払いを進めると、競馬の有料システムにお金を払ってから後悔しかねません。すでに登録した方も、怪しい点と稼げないという相談を必ずチェックしてください。]]> 佐天 こんにちは、佐天です。 今回は、複数の会社から案内されているトレンドトラッカーについて調査しました。 「紹介元が違えば別の商品なの?」「料金を払えば本当に稼げるの?」と不安になりますよね。 トレンドトラッカーは詐欺の疑いが強く、お金を入れるのはおすすめできません。 副業や投資で失敗しないために、トレンドトラッカーに限らずLINEから何でも聞いてください。 トレンドトラッカーは怪しい? 全費用を上回って稼げる根拠がなく、料金を払っても稼げないという相談も多いため参加はおすすめしません。 利用者が負担するのは、システムの初期料金だけではありません。 月額料金と馬券代もかかり、予想が外れれば馬券に使ったお金も減ります。 一方、申込ページには、利用料金と馬券代を引いた利用者の利益が掲載されていません。 実際に確認すると、3社の申込画面では同じ名称のプランでも料金が異なりました。 佐天 利用料金と馬券代を引いた利益が示されていないため、トレンドトラッカーへお金を払わないでください。 一人で悩む必要はありません。 気になることはLINEから相談してください。 トレンドトラッカーとは? JRAの中央競馬を対象に、買い目情報を提供する競馬システムです。 利用規約には、競馬情報サービスであることと、株式会社THEORYの権利表記があります。 競馬の買い目を受け取る 受け取るのは当選金ではなく、利用者が購入する馬券の候補です。 規約でも、買い目を使った馬券購入は利用者の自己責任とされています。 当たりだけを見ても、外れた馬券代と利用料金を引いて赤字なら稼げたことにはなりません。 WEBとSYSTEMの違い WEBで情報を見るプランと、Windowsパソコンで使うSYSTEMがあります。 SYSTEMの推奨環境はWindows 10または11で、他のOSは非対応と案内されています。 佐天 契約するだけでお金が増えるのではなく、別途馬券を買う競馬サービスです。 スマホだけで使えると思って申し込むと、選んだプランを利用できないおそれがあります。 トレンドトラッカーの申込ページ プランを選び、個人情報と支払方法を入力して契約する流れです。 申込画面には、無料枠から高額な有料枠まで複数のプランが並びます。 入力する個人情報 氏名、電話番号、メールアドレス、住所などの入力を求められます。 料金や解約条件が分からない状態で、個人情報まで送る必要はありません。 契約相手を確認 申込ページと契約書面の会社名が違うなら、個人情報を送らないでください。 一方、BAN側は特商法表示がINFOセンター、ページ下部がBAN、権利表記が株式会社THEORYです。 この表示だけでは、お金を払う会社を法人名まで確定できません。 佐天 会社名がそろっていない申込ページから、申し込まないでください。 会社名だけでなく、3社の申込ページでは料金にも違いがありました。 トレンドトラッカーの料金はいくら? 初期料金は最大200万円台で、月額料金と馬券代も別に必要です。 役に立つ商品や、費用以上の利益を目指せる投資へお金を払うこと自体は普通です。 しかし、トレンドトラッカーでは利用料金と馬券代を引いた利益が示されていません。 BANのページには、買い目だけを確認する無料お試しプランも記載されています。 ただし、有料プランは会社ごとに初期料金と月額料金が異なります。 申込ページ・紹介元初期料金の範囲月額料金BAN側の申込ページ44,000円〜2,475,000円19,800円〜39,600円株式会社Universe100,000円〜2,000,000円10,000円〜40,000円合同会社Anan100,000円〜1,980,000円10,000円〜40,000円 BAN側では、247万5,000円のプランにもサポート終了後の月額料金があります。 Universeの最高額プランは200万円と表示されています。 Ananの最高額プランは198万円で、Universeとも金額が一致しません。 初期料金だけで終わらず、月額料金と負けた馬券代が膨らむおそれがあります。 佐天 料金が同じでも、安全性や収益性の裏付けにはなりません。 提示額にかかわらず、その場で支払わずLINEから相談してください。 トレンドトラッカーの口コミ・評判 トレンドトラッカーで稼げるとは言えません。 料金を払っても稼げないという相談が多く寄せられています。 各社の申込画面にも、利用料金と馬券代を引いた利用者の利益は掲載されていません。 申込時の確認欄にも、利益の保証を受けていないことを確認する項目があります。 会社情報や連絡先がある点を安心材料にする記事もありますが、それだけで利用者の収支や予想精度は証明できません。 佐天 「稼げた」という言葉だけで信用せず、利用料金と馬券代を引いて黒字になった証拠を見てください。 会社名が違う複数の紹介元から、同じシステムが案内されている点も見逃せません。 トレンドトラッカーの販売元 複数の会社が、別々の申込ページで同じトレンドトラッカーを販売しています。 相談時に挙がった紹介元は、次の4社です。 株式会社Universe 合同会社こころ整理社 合同会社Anan 合同会社BAN 現行ページでは、Universe、Anan、BAN側で同じ商品名と株式会社THEORYの権利表記を確認しました。 Ananの規約には、利用者の契約相手が合同会社Ananであることも記載されています。 紹介元が違っても、たどり着く先は同じ競馬投資です。 佐天 紹介元が変わっても、同じトレンドトラッカーへ重ねてお金を払わないでください。 さらに、購入後にも注意すべき条件があります。 トレンドトラッカーの返金・解約条件 購入後の返金は原則認めない内容で、月額料金は自動更新です。 有料の月額サービスは、解約手続きをしない限り毎月更新すると記載されています。


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1516-2016 : Paix perpétuelle France-Suisse Publications des textes du Colloque à Paris du 27.09.2016 Fri, 09 Dec 2016 17:48:59 +0000 fr-FR hourly 1 Prof. Dr. Silvia Arlettaz: Le contrôle de la mobilité sous la République Helvétique: le soutien actif de la France contre les ennemis de la République /57 /57#respond Fri, 09 Dec 2016 17:48:59 +0000 Continuer la lecture de Prof. Dr. Silvia Arlettaz: Le contrôle de la mobilité sous la République Helvétique: le soutien actif de la France contre les ennemis de la République →]]> Silvia Arlettaz est professeur titulaire en histoire moderne, générale et suisse à l’Université Miséricorde à Fribourg. Thèmes centraux de recherche: immigration, citoyenneté, naturalisation, identité nationale, presse, République Helvétique, histoire du Valais. Licence ès Lettres à l’Université de Neuchâtel.  Collaboration au Centre d’études franco-suisses, Université de Neuchâtel : avec Philippe Gern, “Les relations franco-suisses au XIXe siècle.  La confrontation de deux politiques économiques. (1992)”,  mandat aux Archives fédérales suisses: “La Constitution fédérale en chantier. Commentaires et inventaire des sources de l’histoire de la Constitution fédérale 1848-1998 (1998)”. Thèse en 2002, directeurs Mario Turchetti, Gérard Noiriel: “Citoyens et étrangers sous la République Helvétique 1798-1803 (2005)”. Nombreuses publications avec Gérald Arlettaz  comme p.ex. “Les étrangers en Suisse. L’immigration et le développement de la formation nationale 1848-1933” (2010 2e éd.). TEXTE DE LA PRESENTATION ORALE – APPAREIL CRITIQUE INCOMPLET ; SANS LA LITTERATURE SECONDAIRE Introduction Dans la longue tradition des relations entre la France et la Suisse, j’ai choisi de traiter de la République Helvétique, et plus singulièrement de sa politique sécuritaire en matière de contrôles des personnes. Une politique sous haute surveillance de la France, qui va multiplier les ingérences pour accélérer la mise en oeuvre de mesures propres à soutenir ses propres objectifs. Nous sommes dans les débuts de la République Helvétique, entre avril 1798 et fin 1799. Une période très troublée par les oppositions intérieures au nouveau régime et par la pression des Puissances opposées à la France. Dans ce contexte, le contrôle des populations représente un défi majeur pour le jeune gouvernement helvétique, qui doit asseoir son action et construire une Nation intégrée. C’est également une priorité pour la France, qui entend exercer une surveillance étroite de l’utilisation du territoire helvétique. Son attention se porte sur les étrangers ennemis de la République. Mais plus encore, la France est obnubilée par la présence d’émigrés français, accueillis par les ci-devant canton au lendemain de la révolution Bien que leur nombre ait été en diminuant, – la Diète et les cantons ayant été incités à plus de prudence – la France n’a cessé de protester pour obtenir leur expulsion. Les rapports de force changent avec l’instauration de la République Helvétique par l’adoption de la Constitution du 12 avril 1798, sous le contrôle militaire de la France. La France se porte garante de la Constitution et s’affirme comme la « grande nation », qui protègera la Patrie helvétique contre les projets liberticides de ses ennemis tant intérieurs qu’extérieurs » La France veut des rapports de confiance entre les deux nations, basés dans l’identité des principes et des lois. Pour assurer sa mission, elle est déterminée à se doter des moyens nécessaires d’intervention, pour pallier les carences du gouvernement helvétique. Elle peut compter sur des agents et des généraux particulièrement actifs, ainsi que sur un Directoire dont les intérêts politiques rejoignent partiellement les siens. En matière d’asile, la position de la France est claire. Sur son territoire comme sur celui des républiques soeurs, la terre de liberté doit être réservée aux seuls nationaux et étrangers idéologiquement conformes. Frontière juridique et politique se conjuguent pour catégoriser les ennemis de l’intérieur, les « étrangers » à l’ordre nouveau. Pour rendre visible la mobilité et permettre une identification formalisée des individus, la France a multiplié les lois sur les passeports. Elle n’entend pas tolérer un vide juridique qui entraverait le difficile contrôle de son espace national. Dès les premiers jours de la République Helvétique, elle impose ses règles. Gérer la circulation des personnes et des idées Intervention de la France Le 1er mai 1798, le commissaire du gouvernement auprès de l’armée française en Helvétie, François-Philibert Le Carlier, exige l’expulsion des émigrés français qui circulent en Helvétie, sans papiers de légitimation, ou à la faveur de passe-ports étrangers acquis illégalement. Quinze jours plus tard, la France 1  réclame un contrôle généralisé de « tous les étrangers non domiciliés en Suisse » et l’arrestation des personnes en situation irrégulière par des mesures « les plus promptes et les plus secrètes ». Le directoire helvétique s’exécute. Et face aux réticences exprimées par les préfets quant à la légitimité des mesures exigées, il estime ne pas avoir de compte à leur rendre. Pourtant, la France s’irrite des lenteurs dans l’exécution des ordres ; et elle menace d’intervenir militairement pour expulser les « ennemis de la France et de l’Helvétie ». La France entend également maîtriser l’accès à son territoire. Sans attendre, ni consulter le Directoire, le commissaire civil français Rapinat prend le 26 mai un arrêté introduisant l’obligation du passe-port et du visa pour « l’ensemble des voyageurs. Son but: […] d’empêcher que des étrangers, des suspects, des gens sans aveu, ou même des Français et des Suisses n’entrent ou ne sortent du territoire helvétique, y séjournent ou y voyagent, sans qu’ils ne soient à même de justifier de leur qualité, origine et profession 2. Le passeport était connu dans les ci-devant cantons. Mais il revêt une fonction nouvelle. Il devient un instrument de maîtrise des déplacements dans l’espace républicain et conjointement celui de contrôle de l’appartenance et de la présence légitimée à cet espace. La qualité de national n’est plus un critère offrant une garantie suffisante. L’arrêté met en place une lourde procédure, hiérarchisée et uniformisée visant à identifier, contrôler et surveiller. L’exécution des mesures est confiée aux autorités constituées de la République helvétique, mais avec le soutien actif et sous contrôle de la force armée et du chargé d’affaires français en Helvétie. Elle engage la responsabilité personnelle des commandants de place et des postes militaires. La surveillance policière des voyageurs, jusqu’alors exercée par les autorités municipales, est assimilée à une mesure de temps de guerre nécessitant des instances d’exception. A chaque étape de son itinéraire, les voyageurs sont contrôlés. En outre, les passeports des personnes souhaitant voyager en France doivent être visés par le chargé d’affaire français. Les étrangers démunis de passe-ports ou suspectés d’utiliser de faux papiers seront immédiatement soustraits aux autorités civiles et déférés devant les autorités militaires. Le ministre de Justice et Police helvétique proteste avec véhémence contre l’atteinte porté à l’autorité nationale. Il juge inadmissible de voir les concitoyens et les autorités constituées « menacées par des conseils de guerre et par l’établissement d’un régime militaire. » Le Directoire helvétique proteste, mais il n’a pas le courage de s’opposer à Rapinat, il doit ménager la France. En outre, une partie des autorités helvétiques estiment que les législateurs auraient dû s’occuper plus tôt des passeports. La loi sur les passeports du 25 juillet 1798 Dans les faits, le Directoire manifeste des réactions d’autorité, mais pas de fonds, sur une politique dont il partage les objectifs. Les exigences de la France lui permettent de contrôler non seulement les étrangers mais « les indigènes qui circulent en Helvétie, souvent avec des intentions contraires à la tranquillité et à l’ordre public ». En juillet 1798, le Directoire helvétique fait acte d’autorité. Il passe outre le Sénat, et il soumet au Grand Conseil un projet rédigé de loi sur les passeports. Il réclame l’urgence, mais ne juge pas utile de motiver longuement une proposition qui a été « concertée pour ce qui regarde l’armée avec le Commissaire du gouvernement français » et sur laquelle Rapinat s’est préalablement exprimé La loi impose l’obligation du passeport pour tous les étrangers entrant en Helvétie et pour tous les habitants sortant de l’Helvétie. La loi légitime en outre l’intervention de la France dans l’octroi des passeports, ainsi que l’obligation du visa pour se rendre en France. En vain, certains députés ont demandé que la Police helvétique soit indépendante des autorités françaises. En revanche, le ministre de Justice et police refuse d’instaurer des passeports intérieurs. La Constitution a aboli les frontières entre les cantons. Une telle mesure renforcerait les tendances fédéralistes. Le projet du Directoire est une mesure de police des étrangers, mais qui traite également des citoyens suisses. La légitimation de l’ingérence de la France dans un acte qui devrait relever de la souveraineté nationale heurte de nombreux députés. La loi est votée non sans réticence comme mesure provisoire. Pour autant, les options relatives aux passeports s’inscrivent dans une volonté globale du Directoire d’assurer son autorité et de lutter contre les menées contre-révolutionnaires soutenues par les émissaires étrangers. Comme le souligne Frédéric César de La Harpe, en août 1798 : Le pays est désorganisé sur le plan intérieur. « […] le premier de nos besoins comme le premier de nos devoirs et de nous occuper exclusivement des moyens d’affermis notre révolution, qui a pour ennemis tous les anciens gouvernants et leurs clients, tous les grands propriétaires, une partie du clergé protestant et le clergé catholique, les privilégiés de toutes les espèces, les paysans fanatisés des montagnes, et ceux qui ont souffert de la guerre ». 3 Pour La Harpe, le temps n’est plus à l’indulgence, à la générosité envers les individus qui oeuvrent à entraver la marche du gouvernement. « Je vois arriver le moment où nous serons forcés de marcher sur les traces du Comité de salut public pour sauver la patrie. » 4  Dans cette perspective, la pression française en matière d’asile sert également les objectifs du Directoire. La présence d’individus suspects contredit la politique d’intégration, d’intérêt public et de défense nationale engagée par le nouveau régime. Dès lors, la politique de l’asile, et plus globalement la gestion de la mobilité va procéder essentiellement d’un contrôle des personnes. La France, qui cherche en vain à empêcher la circulation de la propagande antirévolutionnaire se montre pressante. En août 1798, dans le controversé traité d’alliance défensif et offensif imposé par la France, « Les deux Républiques s’engagent réciproquement à ne donner aucun asile aux émigrés ou déportés de chaque Nation. » (art. 14) Au cours de l’automne 1798, le Directoire obtient des pouvoirs extraordinaires pour adopter les mesures les plus énergiques contre les « émissaires et les agitateurs étrangers et de l’intérieur » et leur propagande séditieuse Au cours du mois de décembre, face aux menaces liées à la formation de la Deuxième coalition, le ministre français Henri-François Perrochel exige du Directoire helvétique la révocation de tous les passeports délivrés aux étrangers. Leurs renouvellements sont soumis à des conditions drastiques et à la preuve d’un séjour légitime. Puis, Perrochel exige et obtient du Directoire qu’il promulgue un arrêté d’expulsion à l’encontre des émigrés qui ne peuvent apporter la preuve de leur radiation définitive des listes d’émigrés En janvier 1799, c’est le ministre de la justice Meyer qui prend l’initiative de resserrer le contrôle autour des étrangers, pour distinguer les amis des ennemis. « Il y a des moments où la sûreté publique et le maintien du Gouvernement exigent une surveillance plus exacte sur ceux qui peuvent avoir un intérêt à les troubler. Sans doute qu’il est un principe d’hospitalité, de générosité même qu’un peuple doit témoigner aux étrangers. Mais il est aussi des cas où un étranger peut abuser de ce principe et qui, attaché à un autre ordre de choses et à un intérêt différent entre dans un pays comme un ennemi. Il s’agit de distinguer les amis des ennemis, ceux qui ont des affaires et sont appelés par des relations de commerce, d’industrie et d’autres motifs que la civilisation et l’humanité approuvent d’avec ceux qui sont venus par des intérêts discordants […] des ennemis de la liberté et des passions haineuses par lesquelles ils portent le trouble dans le sein de la société et jettent un peuple confiant et simple dans un abîme de calamités ». 5  Dès lors, la protection de l’Etat se fonde sur un nouveau triptyque : identification, arrestation, expulsion. Le printemps 1799 est celui des mesures d’urgences et d’un durcissement de la politique sécuritaire. Le 31 mars, la loi rétablit la peine de mort contre les contre-révolutionnaires, qu’ils soient helvétiens ou étrangers. Un Code pénal est promulgué le 4 mai ; il s’inspire largement du Code pénal français de 1791. Le Directoire exige l’instauration de tribunaux militaires pour juger les « ennemis intérieurs de la République ». En mai, le contexte des insurrections populaires et de la deuxième guerre de coalition, offre au Directoire une bonne occasion d’introduire des contrôles de la mobilité entre cantons et districts par l’introduction de passeports intérieurs. Une mesure qu’il avait pourtant rejetée. Conjointement, l’extension de la notion de sécurité aux espaces économique et social se développe pour surveiller notamment le commerce ambulant et les personnes sans domicile fixe, suspecte de vagabondage. A plusieurs reprises, le Directoire est interpellé sur la « trop grande facilité » avec laquelle des « individus d’une intention équivoque» obtiennent sans faire la preuve de leurs intentions des passe-ports, au moyen desquels ils peuvent sillonner le territoire helvétique et se rendre où bon leur semble. ». Paradoxalement, le gouvernement français est montré du doigt. De nombreux étrangers indésirables sillonneraient les pays à la faveur de passe-ports souvent falsifiés ou accordés trop généreusement par les autorités françaises. De fait, le système français fonctionne mal. Globalement, la France encourage la politique du Directoire helvétique et le chef des armées françaises, André Masséna, se dit satisfait : « Les mesures prises jusqu’à ce jour par le Directoire helvétique mettent en évidence la ferme résolution de gouverner d’une manière forte et sévère, et de s’unir à la France pour la cause commune. Je ne négligerai rien pour seconder des intentions aussi pures et pour l’aider de tous mes moyens ». 6 Quelle est la portée de cette politique sécuritaire mise en place entre avril 1798 et l’été 1799 ? Les lois mises en place pour le contrôle de la mobilité restent sans grands effets, l’administration de la République n’a pas les moyens administratifs et financiers de leur application efficace. En outre, elles suscitent des réticences en raison des problèmes qu’elles génèrent pour les habitants de zones « frontières » et pour le commerce. La ligne de démarcation entre la liberté civile et la sûreté publique est difficile à tracer. Avec la Médiation et le retour au fédéralisme, les cantons recouvrent leur souveraineté en matière de contrôle de la mobilité.   1 Le 15 mai, le chargé d’affaires français Joseph-Nicolas Mengaud 2 ASHR, I, n° 163, Instructions de Rapinat, commissaire civil français, du 26 mai 1798, p. 1177. 3 Laharpe à De Bry, No 362, 10 août 1798, Correspondance de Frédéric-César de La Harpe sous la République Helvétique, Tome III, p. 53. 4 Laharpe à Monod, No 369. Aarau, 15 août 1798, Correspondance de Frédéric-César de La Harpe sous la République Helvétique, Tome III, p. 68. 5 AF, B 648, ministre de justice et police Meyer au Directoire exécutif, 27 janvier 1799, fol. 71 6 Chef des armées françaises Masséna à La Harpe, n° 469, Saint-Gall. 4 avril 1799 (M.-C. Jéquier, t. III, op. cit., p. 313   ]]> /57/feed 0 Alexandre Dafflon: Les ambassadeurs ordinaires du roi à Soleure (XVI – XVIII siècles) – Significations d’une présence continue /51 /51#respond Fri, 09 Dec 2016 17:13:31 +0000 Continuer la lecture de Alexandre Dafflon: Les ambassadeurs ordinaires du roi à Soleure (XVI – XVIII siècles) – Significations d’une présence continue →]]> Alexandre Dafflon est archiviste paléographe et directeur des Archives de l’État de Fribourg. Né à Fribourg, ancien élève de l’École nationale des chartes, Alexandre Dafflon a travaillé plusieurs année dans le domaine de l’histoire et des archives financières à Paris. Il est depuis 2008 directeur des Archives de l’État de Fribourg. Depuis 2004, il a enseigné régulièrement aux Universités de Neuchâtel et Fribourg. Auteur d’une thèse de l’École des chartes consacrée à l’Ambassade de France en Suisse au début du XVIIIe siècle, il continue à s’intéresser à l’histoire des relations internationales. En 2014, il a publié à Soleure une petite histoire de l’Ambassade du Roi près les cantons suisses (XVIe – XVIIIe siècles). En 2015, il a édité, en collaboration, des journaux personnels tenus par deux Suisses au Congrès de Vienne. Il co-organise le colloque-frère du 30 novembre 2016 à Fribourg, consacré également à la Paix perpétuelle de 1516. «Si j’exécutois ce que je me suis proposé de faire, qui est de vous donner une espèce de description de chaque canton, je crois qu’il faudroit que je regardasse la maison de M. de Puyzieulx comme un quatorzième canton, et que ce fust là le premier dont j’eusse l’honneur de vous parler […]. Cette maison est grande et nombreuse et ressemble plustost à une petite république qu’à une simple famille […]. Au milieu de toute la simplicité des mœurs suisses, la magnificence plaît au peuple, et accrédite extrêmement un ambassadeur.» (Lettre de Jean de La Chapelle à Colbert de Torcy, Soleure, 3 février 1706). Dans ces lignes qu’il adresse au secrétaire d’Etat des Affaires étrangères, l’homme de lettres et « diplomate » Jean de La Chapelle met en évidence le poids de l’ambassade de France à Soleure dans le paysage politique et institutionnel de la Confédération des XIII Cantons. Il faut avouer que l’existence d’une ambassade permanente du roi de France auprès de ses alliés suisses, des lendemains de l’alliance défensive de Lucerne de 1521 jusqu’aux derniers mois de la monarchie en 1792, constitue un fait étonnant et singulier, si l’on considère l’asymétrie apparente entre les deux entités politiques et territoriales que sont la France et la Confédération. La Chapelle suggère aussi que, comme par un processus de capillarité ou de mimétisme, l’ambassade du roi s’est, au fil des siècles, adaptée au paysage institutionnel de l’ancienne Confédération, devenant un « quatorzième canton » et une « petite république ». Cette assertion peut intriguer sous la plume d’un agent de Louis XIV, probablement imbu de la supériorité des institutions de la monarchie française sur celles, complexes et anachroniques, des petites républiques cantonales. Il est vrai qu’en ce début de XVIIIe siècle, les relations et échanges entre les deux partenaires ont atteint une intensité et une régularité peu communes.   Les origines La décision de François Ier de se faire représenter par un ambassadeur ordinaire auprès des cantons suisses date de 1522. Elle s’inscrit dans un contexte qui voit la France se doter de ses premiers postes extérieurs permanents auprès de puissances étrangères : Londres (1515), Rome (1516), Venise (1517), Lisbonne (1522) ou encore Constantinople (1536). Cette décision est naturellement liée au contexte de la guerre pour la possession du duché de Milan : étant parvenu à la paix et à une alliance avec les Suisses, le roi entend disposer d’un représentant permanent chargé d’entretenir des relations d’amitié, mais aussi de veiller à la mise en œuvre des clauses de paix et d’alliance, particulièrement la faculté de procéder à des levées de troupes dans les cantons à un moment où les positions françaises dans le Milanais sont plus que vulnérables. La présence d’un ambassadeur permanent répond donc, en premier lieu, à un contexte politico-militaire particulier, où les Suisses comptent encore comme une puissance militaire. Second aspect exigeant une présence permanente : les clauses financières des traités. Le roi est débiteur des Suisses du fait des sommes promises en 1516-1521, des pensions annuelles aux cantons et des emprunts effectués par la monarchie en Suisse. L’accumulation très rapide des dettes du roi à l’égard des Suisses constitue un sujet constant de négociations serrées avec les cantons et les particuliers. C’est là une des tâches centrales de l’ambassadeur. Il faut y ajouter une surveillance générale de ce qui se passe en Suisse, particulièrement dans les diètes des cantons, ainsi que l’activité des agents et envoyés des puissances concurrentes de la France, notamment ceux de l’empereur qui cherche, lui aussi, l’amitié des Suisses et leur concours militaire dans le conflit qui l’oppose à François Ier. Enfin, avec la permanence et la sédentarisation de l’ambassade du roi, cette dernière devient une plaque tournante dans la collecte de l’information, transmise à la Cour. Le premier ambassadeur ordinaire nommé par François Ier auprès des Suisses est Louis Daugerant de Boisrigaut (1490-1555), désigné en octobre 1522, qui se signale par la durée inaccoutumée de sa mission, puisqu’il ne rentre en France qu’en juillet 1544. C’est au début de septembre 1530 que l’ambassadeur se fixe à Soleure et ce n’est qu’en 1552 que Sébastien de L’Aubespine (1518-1582), 7e ambassadeur ordinaire, obtient du Petit Conseil de la ville la location d’une aile du couvent des Cordeliers, où les ambassadeurs du roi demeureront jusqu’en 1792. L’établissement d’une ambassade permanente constitue, de la part du roi, une reconnaissance quasi officielle de la souveraineté des cantons suisses, chose qui n’est pas acquise de jure en 1522, ni en 1552. Il ne s’agit donc pas d’une décision anodine. Cette décision prouve également que le roi estime nécessaire une relation continue avec ses alliés, marquée par des négociations à flux tendu et, probablement aussi, par une difficile mise en œuvre des traités.   Soleure, cité des ambassadeurs de France Il est légitime de se poser la question du choix de Soleure comme résidence des ambassadeurs de François Ier « près les ligues de haute Allemagne », choix qui peut étonner au regard de la modestie de cette cité et de son rang discret dans la Confédération des XIII Cantons. La question de la pérennité du choix de 1530 se pose aussi. Dans un « Mémoire sur la Suisse », rédigé peu avant la fin de son ambassade, soit vers 1707, le marquis de Puysieulx présente les avantages offerts par Soleure. Le premier est la situation géographique favorable au sein du Corps helvétique, qui permet au représentant du roi de gagner assez aisément les principaux centres politiques de la Confédération, que ce soit Baden, lieu de réunion de la diète des cantons, aussi bien que Berne, Zurich, Bâle ou Lucerne, ou encore les endroits où se réunissent les « diètes confessionnelles ». Le deuxième facteur touche à la sécurité des ambassadeurs. Soleure est une ville sûre. Ce qui fait dire au marquis de Puysieulx, en 1707, que la ville « est la seule de toute la Suisse qui soit fortifiée un peu régulièrement ». La sécurité des ambassadeurs du roi n’est pas un point négligeable. En effet, l’ambassadeur est le représentant personnel du roi et, en cette qualité, il doit impérativement éviter de se trouver dans des situations menaçant non seulement sa vie et celle de son personnel, mais aussi sa dignité, qui est en réalité celle du roi. Il convient donc de trouver une résidence où l’ambassadeur ne risque pas de se heurter à l’hostilité du gouvernement cantonal, de la population locale ou des représentants d’autres souverains. La troisième considération de Puysieulx porte sur les « formes adéquates » du gouvernement de Soleure, à savoir un régime patricien tendant vers l’aristocratie. Ce dernier est installé officiellement à la fin du XVIIe siècle, mais la concentration du pouvoir dans un nombre limité de familles représentées au sein du Petit Conseil est un processus déjà en cours au XVIe siècle. Les avantages pour les représentants du roi sont, d’une part une centralisation de la décision politique, d’autre part une certaine proximité idéologique avec les élites dirigeantes soleuroises, notamment dans la représentation de l’Etat et la pratique du pouvoir. Ce qui fait dire à Puysieulx que « pourvu qu’on soit assuré de cinq ou six des principaux de l’Etat, on est sûr des délibérations qui s’y prennent. » Enfin, Soleure a, dès l’alliance de Lucerne de 1521, constamment cultivé sa relation avec la France, particulièrement par le biais du service étranger. « [Ce canton] entretient plus de 3’000 hommes au service du roy, et c’est ce qui fait les richesses des particuliers qui servent presque tous pendant un certain temps et qui ne font aucun commerce. » Ainsi, l’ambassade du roi trouve à Soleure un point d’attache conforme à ses intérêts et à son bon fonctionnement. Aux quatre arguments de Puysieulx, il conviendrait d’ajouter quelques considérations sur le positionnement de Soleure dans l’ancienne Confédération et sur les liens particuliers de ce canton avec la politique française en Suisse. Avec Fribourg, Soleure occupe une place singulière au sein de la Confédération. Entrés dans cette dernière en décembre 1481, en dépit d’une forte opposition des cantons de la Suisse centrale, Soleure et Fribourg se sont vu imposer un statut spécial dans les rangs des cantons : les deux derniers arrivés sont contraint à une politique de neutralité dans les conflits internes à la Confédération ; de plus, ils ne peuvent contracter d’alliance qu’avec l’accord des huit anciens cantons et ne peuvent pas bénéficier systématiquement de l’appui militaire de ces derniers. Ce statut de « neutralité forcée » a pour conséquence le développement d’une politique modérée chez les dirigeants soleurois, qui est très manifeste à la veille de la bataille de Marignan. Le « pragmatisme politique » de Soleure continue à être patent après la paix de Fribourg, notamment dans la fracture confessionnelle. Comme Fribourg, Soleure, en dépit de sa fidélité à l’ancienne foi, se tient en retrait des deux guerres confessionnelles qui secouent la Confédération au tournant des années 1530 (guerres de Kappel en 1529 et 1531). Cette attitude ne peut que convenir à la France, dont l’intérêt bien senti est de maintenir la concorde entre les cantons face aux interventions très actives de l’Espagne et de l’Empire en faveur du camp catholique. Dans la seconde moitié du XVIe siècle, Soleure poursuit sa politique prudente : en 1587-1588, par exemple, bien que signataire de la Ligue d’or scellée par les cantons catholiques à Lucerne le 5 octobre 1586, Soleure refuse d’adhérer à l’alliance espagnole. Cette politique ne peut alors qu’être conforme aux objectifs de la diplomatie française en Suisse et militer pour un maintien à long terme de l’ambassade du roi à Soleure. Il conviendrait de ne pas oublier également les liens assez étroits qui unissent, en cette première moitié du XVIe siècle, la ville de Soleure au comté de Neuchâtel, dont les souverains sont, depuis 1504, les princes d’Orléans-Longueville, cousins proches du roi de France. Un traité de combourgeoisie, renouvelé régulièrement, lie les comtes de Neuchâtel et Soleure dès 1369. En 1512, dans leur lutte contre Louis XII, les Confédérés se sont emparés du comté et l’occupent jusqu’en 1529, date de sa restitution à sa souveraine légitime, Jeanne de Hochberg, épouse de Louis d’Orléans-Longueville († 1516). L’ambassadeur du roi, Boisrigaut, assisté d’un ambassadeur extraordinaire, Jean Morelet du Museau, contribuent grandement à la restitution. A la faveur du lien de combourgeoisie et en raison d’intérêts fonciers et économiques dans la région, des Soleurois entrent au service des ducs d’Orléans-Longueville et occupent les fonctions de conseillers d’Etat et de gouverneurs du comté, bientôt érigé en principauté, en alternance avec des ressortissants fribourgeois, jusqu’à l’extinction des Orléans-Longueville en 1707. Ces mêmes Soleurois se voient attribuer des fonctions de secrétaires ou de secrétaires-interprètes à l’ambassade à Soleure. Cet « axe » Paris – Neuchâtel – Soleure ne s’incarne pas que dans les personnes, il prend également les traits de relations financières intenses. Soleure figure parmi les créanciers suisses les plus importants de la couronne. Celle-ci, toujours pressée d’opérer des levées d’hommes en Suisse, mais souvent incapable d’en assurer le financement immédiat, ne cesse de solliciter des crédits auprès des cantons amis. Soleure se trouve naturellement sollicitée et ne peut qu’entrer dans le jeu de la France en raison de l’importance du service capitulé pour son économie et si elle veut préserver la garantie de ses créances sur la couronne. Ainsi, en 1568, l’Etat de Soleure consent à la France le renouvèlement d’un prêt de 50’000 écus, hypothéqué sur l’héritage neuchâtelois des princes d’Orléans-Longueville. Les créances soleuroises s’accumulant, la Couronne étant mauvaise payeuse, Soleure voit ainsi nolens volens ses intérêts financiers étroitement soumis aux succès de la politique française.   La longue suite des ambassadeurs ordinaires De 1522 à 1792, 45 ambassadeurs ordinaires du roi ont séjourné à Soleure (voir annexe). En tenant compte des périodes d’intérim et de vacance, cela représente une présence continue de 240 ans sur les 270 que constitue l’ensemble de la période. La durée moyenne d’une ambassade est de 5 ans et 4 mois, la mission la plus courte étant de 6 mois et la plus longue s’étendant sur 22 ans. La durée de l’ambassade n’est pas synonyme de succès, bien au contraire. Si celle de Boisrigaut s’explique par l’importance d’installer dans la durée les nouvelles relations entre la couronne et les Suisse après les traités de 1516-1521, ainsi que par l’urgence pour la France de recruter des troupes suisses, la durée des missions du marquis d’Avaray (amb. 1716-1726) et du chevalier de Beauteville (amb. 1763-1775) est plutôt le résultat de situations bloquées et d’une certaine apathie politique. Les missions courtes peuvent être décisives, si elles coïncident avec le renouvellement de l’alliance, comme c’est le cas pour la seconde ambassade de Jean de La Barde (amb. juin-décembre 1663) et la première du marquis de Vergennes (amb. avril-septembre 1777). L’origine professionnelle des ambassadeurs se répartit comme suit : 12 militaires, 4 ecclésiastiques et 29 ambassadeurs issus de la robe ou ayant déjà accompli une carrière dans l’administration ou les relations extérieures. En suivant la chronologie des règnes, cette répartition se présente comme suit : Règne Nombre Militaire Ecclésiastique Robe François Ier (1515-1547) 3 2 – 1 Henri II (1547-1559) 6 2 2 2 François II (1559-1560) – – – – Charles IX (1560-1574) 5 1 1 3 Henri III (1574-1589) 3 1 – 2 Henri IV (1589-1610) 4 – – 4 Louis XIII (1610-1643) 5 – – 5 Louis XIV (1643-1715) 8 2 1 5 Louis XV (1715-1774) 6 2 – 4 Louis XVI (1774-1792) 5 2 – 3 Totaux 45 12 4 29 On constate d’emblée la présence majoritaire d’individus issus de la noblesse de robe et de la magistrature, environ deux tiers, dont le nombre est important sous les règnes des Bourbons. L’élément militaire, présent au début de la période, s’estompe ensuite pour revenir, modérément, à la fin du règne de Louis XIV et sous celui de ses successeurs. Quant aux ecclésiastiques, ils sont peu nombreux, ce qui s’explique peut-être par le souci de la couronne de ne pas provoquer les cantons évangéliques. Du milieu du XVIe siècle à la fin du XVIIe siècle, le pouvoir royal puise ses ambassadeurs dans les rangs, de plus en plus nombreux, du personnel judiciaire et administratif. Les réseaux familiaux et de clientèle politico-financière ne sont naturellement pas absents dans le recrutement des ambassadeurs. Le poste – bien que réputé exiger des reins solides au niveau des capacités financières – n’en est pas moins attrayant et lucratif. Sous le règne d’Henri II, le « clan » L’Aubespine-Bochetel-Morvilliers place quelques-uns des siens, tel Sébastien de L’Aubespine (amb. 1552-1554), frère de Claude, l’un des premiers secrétaires d’Etat, auquel succède son propre beau-frère, Bernardin Bochetel (amb. 1554-1558). Sous les règnes des derniers Valois et sous celui d’Henri IV, les Bellièvre figurent en bonne position avec Pomponne (amb. 1566-1571), son frère Jean (amb. 1573-1578) et, plus tard, Eustache de Refuge, gendre de Pomponne (amb. 1607-1611). Au XVIIIe siècle, d’autres « clans familiaux » investissent la place, avec les Voyer d’Argenson, représentés par le marquis de Courteilles (amb. 1738-1749), beau-frère de son successeur immédiat, Antoine-René Voyer d’Argenson, marquis de Paulmy (amb. 1749-1752), et les Chavigny-Vergennes auxquels se rattachent le chevalier de Chavigny (amb. 1753-1762) et le marquis de Vergennes (amb. 1777 et 1786-1789), frère aîné du comte de Vergennes (1719-1787), secrétaire d’Etat des Affaires étrangères et principal ministre de Louis XVI. Au cours des 270 années étudiées émergent peu à peu des profils de carrière plus nettement ancrés dans les relations extérieures et dans ce que l’on n’appelle pas encore la « diplomatie ». Au XVIe siècle, les ecclésiastiques sont déjà des professionnels de la négociation, avec Sébastien de L’Aubespine, déjà chargé de missions extraordinaires en Suisse avant son ambassade, tout comme Bernardin Bochetel, négociateur en Angleterre (1550) et au Brandebourg (1554). La tendance se poursuit et s’intensifie au XVIIe siècle avec des laïcs étroitement mêlés aux négociations qui aboutissent aux traités de Westphalie, tels Jean de La Barde (première amb. 1648-1660), le marquis de Saint-Romain (amb. 1672-1676), dont toute la carrière a été « diplomatique » et son successeur, Robert Vincent de Gravel (amb. 1676-1684), lui aussi tout « diplomate ». Au siècle suivant, deux figures de « diplomate professionnel » émergent : le marquis de Bonnac (amb. 1727-1736), introduit dans la « carrière » par son oncle Usson de Bonrepaus, et le chevalier de Chavigny, qui passe sa vie dans des postes à l’étranger. Que deviennent les ambassadeurs après leur séjour en Suisse ? Il en est quelques-uns qui meurent en poste, tels Guillaume du Plessis († 1550), Antoine Morelet du Museau († 1552), François Hotman († 1600), Michel Vialart († 1634) et Robert Gravel († 1684). Pour quelques-uns, l’ambassade de Soleure est le dernier poste occupé. C’est le cas de Jacques Le Fèvre de Caumartin (amb. 1641-1648), de Jean de La Barde, d’Antoine-Michel Tambonneau (amb. 1684-1689), des marquis de Puysieulx (amb. 1698-1708), d’Avaray et de Bonnac, du vicomte de Polignac (amb. 1777-1784). Dans les cas de militaires comme Avaray et Polignac ou dans celui de Bonnac, l’ambassade de Soleure apparaît comme une récompense après une carrière bien remplie dans les camps ou dans les postes à l’étranger. D’autres poursuivent un parcours « diplomatique ». Au XVIe siècle, Sébastien de L’Aubespine, nommé évêque de Limoges, participe aux négociations des traités de paix de Cateau-Cambrésis (1559). Il en est de même du marquis de Sancy (amb. 1579-1582), qui, après son ambassade ordinaire, reviendra en Suisse à deux reprises, dont l’une pour négocier le renouvellement de l’alliance défensive (1601). Entre temps il aura participé activement aux négociations de la paix de Vervins (1598). Le marquis de Saint-Romain poursuit sa carrière « diplomatique », qui se termine au poste d’ambassadeur à Lisbonne (1683-1685). Il en est de même du marquis de Gournay (amb. 1689-1698), ambassadeur à Madrid (1705-1709), puis chargé de mission près le Saint-Siège (1714-1715), ou encore du marquis de Paulmy qui, après avoir été un éphémère secrétaire d’Etat de la Guerre (1757-1758), sera ambassadeur en Pologne (1759-1765) et à Venise (1766-1769). Enfin, quelques grandes figures poursuivent leur carrière dans le cercle très rapproché de la personne du roi et occupent des fonctions éminentes au cœur de l’Etat monarchique. Pomponne de Bellièvre est nommé surintendant des finances par Henri III (1574-1588), puis chancelier de France par Henri IV (1599-1607) et Nicolas Brûlart de Sillery (amb. 1587-1597) est nommé garde des sceaux (1604-1607), puis chancelier (1607-1624). La seconde moitié du XVIe siècle et les premières années du XVIIe siècle sont marquées par un certain prestige de l’ambassade de Soleure dans le cursus honorum des serviteurs de la couronne. Il conviendrait naturellement de replacer le poste de Soleure dans le développement général, lent, mais patent, des instruments de la « diplomatie » française à l’époque moderne. Si l’ambassade du roi près les cantons suisses se singularise sous bien des aspects, elle n’en est pas moins un poste extérieur parmi d’autres ; de plus, si son prestige est grand au XVIe siècle et lors du premier XVIIe siècle, ce dont atteste la qualité des hommes envoyés comme ambassadeurs, on peut penser qu’elle perd de son prestige et de son importance dans la seconde partie de l’époque étudiée. Enfin, si les ambassadeurs ordinaires représentent une face importante de la politique française en Suisse, il conviendrait évidemment de ne pas oublier que cette politique s’incarne aussi dans des ambassadeurs extraordinaires, ainsi que dans des envoyés, secrétaires et autres agents plus ou moins officieux. Il y a là un foisonnement que l’attention portée ici aux ambassadeurs résidants ne doit pas ignorer.   Le poids de l’ambassade du roi à Soleure Dans un mémoire de l’an 1562, un « diplomate » français évoque, non sans un certain cynisme, la facilité avec laquelle l’ambassadeur contrôle la cité-Etat où il réside : A Soleure, ils sont doux et aisez à gouverner et la demeure de l’ambassadeur luy donne moyen, par la cognoissance qu’il y a de tous les particuliers, d’y faire ce qu’il veut. Au début du XVIIIe siècle encore, le marquis de Puysieulx se loue des bonnes dispositions de Messieurs de Soleure, qui ne sont cependant pas gratuites : La résidence de l’ambassadeur contribue beaucoup à maintenir ce canton dans les bonnes dispositions où il est, et il sera toujours facile d’en obtenir ce qu’on voudra pourvu qu’on luy paye régulièrement les pensions et les gratifications que des particuliers y reçoivent tous les ans. A la fin du XVIIIe siècle, Soleure demeure l’un des cantons les mieux lotis en matière de pensions, avec un versement officiel de 26’000 livres, une pension d’écoliers de 400 livres, des pensions particulières de 10’050 livres et des « pensions diverses » de 4’800 livres, soit un total de près de 41’000 livres annuelles. La première place dans le palmarès des cantons. Sans compter les revenus que constituent pour l’Etat de Soleure et l’oligarchie de ce canton la livraison des sels français, qui génère des revenus très lucratifs, ainsi que les dépenses faites par l’ambassade du roi sur les lieux mêmes de la résidence. Les relations entre l’ambassade et Soleure se distinguent donc par une grande proximité et un beau fixe quasi permanent. Des « incidents diplomatiques » éclatent cependant, qui mettent en danger la dignité de l’ambassadeur. Citons, pour exemple, le triste sort réservé, au mois de septembre 1678, au suisse de l’ambassadeur Gravel par la milice de la ville, dont rend compte un secrétaire de l’ambassade au secrétaire d’Etat Arnaud de Pomponne : A la fin du mois de septembre […], la patrouille qui alloit, la nuit, pour empêcher les désordres, ayant rencontré entre neuf et dix [heures] le suisse de M. de Gravelle, qui retournoit de la poste, le maltraita sans sujet de paroles, auxquelles ayant répondu un peu fortement, il se trouva incontinent chargé de coups et contraint, pour éviter pis, de se sauver jusqu’à la porte du palais de l’ambassadeur, laquelle n’ayant pu ouvrir assez promptement, il en fut maltraité derechef et même en quelque danger. Ce que M. de Gravel ayant seu le lendemain, il en fit faire ses plaintes au conseil et témoigna qu’il désiroit absolument une satisfaction convenable à l’injure qu’il prétendoit luy avoir été faite par cette action. Comme il étoit question du châtiment de trois ou quatre bourgeois, qui en étoient les autheurs, le conseil se trouva fort en peine […]. Enfin les coupables, malgré la protection de leurs parens et de leurs amis, furent bannis de la ville […] et de tout l’Estat. Il y eut de plus un décret par lequel il fut ordonné à tous les chefs des confrairies […] de respecter l’ambassadeur et sa suite et de se rendre digne de l’honneur que leur faisoit la Couronne de France d’y entretenir un depuis un si long temps, par préférence à tous les autres cantons […]. Voici, parmi quelques autres, un épisode périlleux, qui finit à l’avantage de l’ambassadeur, mais qui ne laisse pas de mettre à mal son prestige, celui de sa maison et, en définitive, celui du roi. Dans un registre plus badin, les Français ne manquent pas de se moquer de la balourdise et du manque d’élégance des Suisses, et des Soleurois en particulier. La Chapelle, déjà cité, nous en fournit un exemple. Dans une lettre du 27 janvier 1707 à Colbert de Torcy, il narre avec ironie son arrivée à Soleure et sa réception par le gouvernement de la ville. Son récit met en évidence les limites de la bonne compréhension entre Français et Soleurois. Les seigneurs de Soleure m’ont envoyé haranguer par leur secrétaire d’Etat. La plupart d’entre eux sont venus chacun en particulier me faire leur harangue. Ici rien ne va sans harangue. M. de Pourceaugnac disait qu’il pleuvait à Paris des lavements et des femmes. En Suisse, il pleut des harangues et des harangueurs. Hier, le grand sautier me fut envoyé, vêtu de robe noire, portant une espèce de baudrier noir garni d’argent, et suivi de plusieurs casaquins rouges, qui apportaient le présent de l’Etat. La troupe entra gravement dans ma chambre. Le grand sautier entonna une belle et longue harangue en allemand. Je n’avais pour interprète, et même pour tout cortège, qu’un laquais basque, ne sachant autre langue que le basque. Il roulait de grands yeux, croyant voir un magicien qui faisait des conjurations. Je lui répondis en latin aussi longtemps qu’il avait parlé en allemand. Heureusement, il n’entendait pas plus le latin que moi l’allemand, et comme il vit que nous étions à deux de jeu, il s’humanisa, me parla français, et nous nous séparâmes fort contents l’un de l’autre. Une heure après, l’aventure fut publique dans la ville et me fit beaucoup d’honneur. Les conseillers d’Etat assemblés ce matin pour leurs affaires ont ri de tout cœur, et m’ont fort applaudi. Au-delà de ces épisodes qui démontrent que la vie des agents du roi à Soleure n’est pas absolument de tout repos, il convient de mettre en évidence le fait que le représentant du roi cherche à entretenir au sein de la cité un « parti français », un peu comme aux beaux jours des guerres d’Italie les puissances européennes (France, Papauté, Empire) comptaient des partisans dans les cantons. On a longtemps assimilé ces partis à des familles des patriciats locaux. Au début du XVIIIe siècle, le « parti français » à Soleure reposerait principalement sur une famille du patriciat, les Besenval, qui tiennent le haut du pavé. Arrivés du Val d’Aoste à Soleure, via Augsbourg, dans les premières décennies du XVIIe siècle, ils ont fait une ascension sociale fulgurante, grâce à deux canaux étroitement liés aux relations franco-suisses : le service de France d’une part, le monopole du commerce du sel français d’autre part. Ils ont aussi su s’allier avec les familles puissantes du cru. Les rivaux des Besenval seraient les Roll, l’un des plus anciens lignages soleurois, entré dans la noblesse d’Empire dès 1431 et installé dans la cité à la fin du XVe siècle. Peut-on considérer les Roll comme les animateurs d’un « parti anti-français » ? Certes, dans la seconde moitié du XVIIe siècle et au début du siècle suivant, l’avoyer Johann Ludwig von Roll von Emmenholz (1643-1718) fait figure d’opposant principal à la politique française à Soleure, principalement à la suite du licenciement de sa demi-compagnie au régiment des Gardes suisses (1661), et probablement aussi du fait de ses liens avec son cousin Karl Konrad von Beroldingen (1624-1706), colonel au service d’Espagne, proche de l’ambassadeur d’Espagne en Suisse, Carlo Casati. Mais ses positions demeurent relativement marginales au sein de la République soleuroises et si, en 1715, Roll combat le renouvellement de l’alliance avec la France, sa disparition, trois ans plus tard, marque l’échec d’une politique anti-française à Soleure. De plus, les relations de l’ambassade avec les « clans familiaux » ne manquent pas d’être ambiguës, comme en atteste les nombreux mémoires et listes des membres des principales familles de la ville, contenant des considérations – souvent assez obscures et contradictoires – sur le caractère des individus, leurs intérêts personnels et familiaux, leur position quant à la France et aux autres puissances. Si des « clans familiaux » existent, ils sont souvent traversés par des intérêts divergents et aléatoires du fait des liens étroits unissant les familles les plus importantes de la république, qui pratiquent une endogamie assez généralisée. Par ailleurs, les personnalités identifiées par l’ambassade comme amies ou ennemies de la France ont généralement l’habileté de ne pas « mettre tous leurs œufs dans le même panier ». Il n’en demeure pas moins que les Besenval dominent à Soleure jusqu’en 1723, date à laquelle les effets conjugués de l’héritage empoisonné de la politique louis-quatorzienne, de la banqueroute de la banque La Chapelle et de la faillite du Système de Law en France, provoquent la chute de la maison et une ruine – toute relative – du « parti français ». En 1723, la désignation de deux nouveaux avoyers et de leurs remplaçants dans les charges de bannerets donne lieu à une lutte d’influence entre les Besenval et leurs adversaires. Ce sont ces derniers qui parviennent à leurs fins : les Besenval et leurs amis sont écartés des plus hautes fonctions de la République. L’affaire dégénère dans la violence, puisqu’elle se termine par un duel mortel. La défaite des Besenval et de leurs amis semble être non seulement celle d’un « clan » dont le destin est lié à la France, mais aussi celle du « parti absolutiste ou aristocratique » à Soleure. De son hôtel des ambassadeurs, le marquis d’Avaray assiste à la crise politique, sans pouvoir intervenir activement : […] on n’entend parler que de changements, de brigues et de cabales, dont les suites ne sauroient être que très fâcheuses et qui donnent lieu de craindre de plus grands désordres dans ce canton. J’ai tâché jusqu’à présent de porter les esprits à l’union et, malgré le triste événement de la mort du jeune Besenval, qui vient d’arriver et qui va encore augmenter l’animosité des deux partis, j’espère de parvenir à empêcher que les intérêts de Votre Majesté n’en souffrent. Ce fragment de correspondance met en évidence le rôle de temporisateur et de médiateur que l’ambassadeur du roi tente de jouer dans les conflits internes au sein de la petite république. Ce faisant, il s’efforce de préserver également la dignité et les intérêts de la couronne, en évitant de s’impliquer trop ouvertement en faveur d’un « clan ». Il en résulte une certaine impuissance. La crise de 1723, si elle écarte les Besenval des affaires de la cité, ne rompt pas brutalement la relation privilégiée des élites soleuroises avec l’ambassade de France. Si les investissements financiers soleurois au bénéfice de la couronne sont désormais consentis de manière plus prudente et modérée, les Soleurois sont parfaitement conscients des avantages financiers et politiques que sous-tendent de bonnes relations avec l’ambassade et la politique clientéliste de cette dernière.   La remise en cause d’une « tradition » Après 1750, il semble que les pratiques et traditions de la « diplomatie » royale en Suisse subissent une certaine remise en question. Sans doute les échecs répétés dans les démarches entreprises pour renouveler l’alliance avec tous les cantons, ainsi que le progrès des Lumières, souvent critiques à l’égard des méthodes de la « diplomatie » des monarques, n’y soient pour quelque chose. Une « Note sur la Suisse » de 1767 va jusqu’à remettre en cause l’existence d’une ambassade de premier rang à Soleure et relativise l’intérêt des pensions et avantages financiers accordés aux cantons. […] il paroitroit […] plus qu’inutile d’entretenir constamment un ambassadeur en Suisse, ce qui ne sert guère qu’à rendre les Suisses plus intrigants et plus présomptueux en leur faisant imaginer que la France a le plus grand besoin d’eux. […] [il suffirait] d’avoir un résident à Soleure et des correspondans sûrs et intelligens dans tous les cantons […]. […] l’argent immense que le Roy répand en Suisse est presque en pure perte, les Cantons qui reçoivent des pensions étant accoutumés depuis longtemps à les regarder comme une chose due et s’embarrassant fort peu de tenir les engagemens qui en sont le prix. La monarchie française ne revient pourtant pas sur ses principes, bien que l’alliance renouvelée en 1777 avec tous les cantons le soit dans un esprit fort différent de celui des précédents renouvellements. Les préoccupations de la France sont désormais éloignées des cols alpins et de la lutte séculaire contre l’ennemi héréditaire, la Maison d’Autriche. Les enjeux de la politique internationale sont davantage situés sur les mers et dans les colonies et l’équilibre des puissances rend moins précieuse l’alliance des Suisses. C’est la Révolution qui fera disparaître l’ambassade de Soleure, mais qui, dans le même temps, va réveiller l’intérêt de la France pour son petit voisin oriental. Dans les conflits continentaux qui vont traverser l’Europe jusqu’à la chute de l’Empire napoléonien, la Suisse sera à nouveau l’objet d’une attention toute particulière de la part de Paris. Parallèlement, et de manière lente et laborieuse, l’émergence d’un droit public international reposant sur des principes et règles nouveaux permettra à une Suisse nouvelle de naître et de se développer sous la garantie des puissances européennes. Mais ceci est une autre et très longue histoire… Il est indéniable que l’ambassade du roi à Soleure a constitué un instrument essentiel des relations entre la couronne et les Confédérés durant un peu moins de trois siècles. Ces relations sont marquées par un déséquilibre évident entre un Etat territorial qui développe son administration et la centralise et une confédération de micro-Etats à l’organisation politique extrêmement complexe, dénuée de centre politique fort. On dit que les Suisses, divisés et impuissants, ont été placés sous la puissance protectrice de la France. Protection est-elle alors synonyme de protectorat ? Si la relation entre la France et les Suisses a été très forte à travers toute l’époque moderne, elle ne fut pas l’unique relation des cantons avec l’extérieur. Ces derniers ont tissé des liens avec l’Empire, l’Espagne, la Saxe, le Piémont, les Provinces-Unies ou encore l’Angleterre, en fonction de leurs intérêts et des réalités conjoncturelles et géopolitiques du moment. Par ailleurs, ils ont parfois su jouer sur plusieurs tableaux et utiliser les rivalités des grandes puissances pour mieux défendre leurs propres intérêts. S’ils acceptaient un certain interventionnisme de la France dans les affaires intérieures, ils surent aussi en tirer des bénéfices non négligeables. Surtout, nolens volens, ils durent ou surent se maintenir en dehors de l’état de guerre permanent qui marqua ces trois siècles d’histoire de l’Europe, tout en exportant leurs soldats dans le service étranger. Ces attitudes – qui peuvent certes être jugées mesquines et peu glorieuses – relèvent ce que des historiens ont récemment baptisé les « ressources des faibles » ou comment survivre et exister dans un monde où c’est la force armée, la centralisation du pouvoir et la puissance territoriale qui commandent. Alexandre Dafflon   Annexe Liste des ambassadeurs ordinaires du roi près les cantons suisses (1522-1792) [1] Louis Daugerant, seigneur de Boisrigaut (1490-1555) xi.1522 – vii.1544 Antoine Morelet du Museau († 1552, Bâle) iii. – xi. 1546 Guillaume du Plessis, seigneur de Liancourt (1491 – † 1550, Soleure) ii. – x. 1547 Louis Daugerant, seigneur de Boisrigaut (1490-1555) ix.1547 – vii.1548 Guillaume du Plessis, seigneur de Liancourt (1491 – † 1550, Soleure) i.1549 – xi.1550 Antoine Morelet du Museau († 1552, Bâle) ii.1551 – x.1552 Sébastien de L’Aubespine, abbé de Basse-Fontaine (1518-1582) xi.1552 – x.1554 Bernardin Bochetel, abbé de Saint-Laurent († v. 1570) x.1554 – v.1558 Mathieu Coignet (1514/1515-1586) v.1558 – viii.1562 Diègue de Mandosse viii. – xii.1562 Nicolas de La Croix, abbé de Saint-Pierre d’Orbais iii.1563 – iv.1564 Pomponne de Bellièvre (1529-1607) iii.1566 – i.1571 François Gaudart i.1571 – ii.1573 Jean de Bellièvre, seigneur de Hautefort (1524-1584) iii.1573 – xii.1578 Nicolas de Harlay, marquis de Sancy (1546-1629) ii.1579 – v.1582 Henri Clausse, seigneur de Fleury viii.1582 – v.1586 Nicolas Brûlart


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